2025年2月6日木曜日

 
 昨日は土肥桜を見た後下田爪木崎の水仙を見た。
 どちらも見頃で、天気は良かったが風が強かった。
 今日は初午で白笹稲荷神社に行った。

 『雑談集』の「親に似ぬ姿ながらもこてふ哉 沾蓬」の所を書き直してみた。

 「鏡を形見といへる重高の歌にや装束つくろひて鏡の間にむかへるに

 親に似ぬ姿ながらもこてふ哉 寶生 沾蓬」(雑談集)

 重高は不明。鏡と形見を掛けた歌は古来数多くある。

 おもひいでむ形見にもみよます鏡
     かはらぬ影はとどまらずとも
             惟明親王(続後撰集)
 ます鏡うつりしものをとばかりに
     とまらぬ影も形見なりけり
             行能(続拾遺集)
 ありし世の形見も悲します鏡
     うきにはかはる面影もがな
             少将内侍(文保百首)

など。
 句の「こてふ」はおそらく謡曲『胡蝶』のことで、親の形見の鏡の前で蝶の精の舞をしてみたが、親にはとても及ばない、それでも一生懸命頑張っている、と言った所か。

 句の作者に寶生とあるから宝生流の者であろう。
 宝生重高は謎だが、おそらく重友の間違いではないかと思う。高と友は草書だと似てなくもない。ただし、早稲田大学図書本、京都大学附属図書館所蔵本はともに楷書で「高」と書かれている。間違いだとすれば原稿か版本の清書の段階で間違えたことになる。
 重友には三人の子がいたとされている。

 公益社団法人宝生会のホームページによると、八代宝生大夫の重友の所に、

「重房の子。寛永一三年(1636)、重房隠居を受けて大夫を継ぎ、徳川将軍家の四代家綱、五代綱吉に仕えました。
 古将監と呼ばれる名手で、和漢の学にも通じ、伝書を残しています。
 熱心な法華経の信者であったとも伝えられています。万治二年(1659)五月、京都で四日間の勧進能を、また寛文三年(1663)七月に江戸鉄砲洲で四日間の勧進能を催しました。
 なお重友の三男の重世(しげよ)は、俳句をよくし蕉門に入って雛屋の跡を継ぎ、沾圃(せんぽ)と名乗りました。」

とある。

重友(1619-1685)
八代宝生大夫
コトバンクの「デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「宝生重友」の解説」に、
 「1619-1685 江戸時代前期の能役者シテ方。
元和(げんな)5年生まれ。宝生重房(しげふさ)の子。父の跡をついで宝生流8代となり,将軍徳川家綱・綱吉(つなよし)につかえた。宝生流になかった獅子舞(ししまい),乱拍子(らんびょうし)などを考案して,古将監(こしょうげん)とよばれた。貞享(じょうきょう)2年8月死去。67歳。通称は九郎,将監。」
とある。

友春(1654-1728)
重友の長男。
九代宝生大夫
コトバンクの「デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「宝生友春」の解説」に、
 「1654-1728 江戸時代前期-中期の能役者シテ方。
承応(じょうおう)3年生まれ。宝生重友(しげとも)の子。父の跡をつぎ,宝生流9代となる。将軍徳川綱吉(つなよし)・家宣(いえのぶ)・家継・吉宗(よしむね)につかえた。金沢藩主前田綱紀(つなのり)の愛顧をうけて加賀宝生流の基礎をつくった。享保(きょうほう)13年8月8日死去。75歳。通称は九郎,将監。」
とある。

重賢(1658-1746)
重友の次男
12世観世大夫
ウィキペディアに、
 「観世 重賢(かんぜ しげかた、万治元年(1658年) - 延享3年4月23日(1746年6月11日))は、江戸時代の猿楽師。12世観世大夫。通称は初め三郎次郎、大夫就任と同時に左門を名乗る。隠居してのちは服部十郎左衛門、さらに出家して服部周雪と改めた。
 宝生家からの養子として観世大夫を嗣ぐが、29歳でその地位を去る。以後は前大夫として尊重を受けつつ京・江戸で隠居暮らしを送り、89歳で死去した。」
 ウィキペディアの「観世流」の方には、
 「12.左門重賢
 1658年〜1746年。宝生大夫重友の子。29歳の時、在任4年で大夫を退き、以後は京都などで隠居生活を送り、いわゆる京観世にも影響を与える。」
とある。引退の年はウィキペディアの観世重賢の所に、
 「ところがそれを見届けるや同年5月19日、重賢は病気を理由に幕府に隠居願を出し、在任4年にして観世大夫の座を織部に譲ってしまう。
 29歳という若さでの隠居は異例であり、その原因がさまざまに推測されている。重賢が当時病を患っていたことは事実らしいが、とはいえ隠居の必要までは感じられない[13]。宝暦10年(1760年)に著された『秦曲正名閟伝』は(養子ゆえの)周囲からの孤立が隠居の要因であると示唆し、また『素謡世々之蹟』は重賢自身の宮仕えを嫌う気ままな性格に原因を求めている。能楽研究者の表章はこれらに加え、上述したような綱吉政権下における能界の混乱に嫌気が差したことが大きな理由だったのではないかと推測している。」
とあるが、前年の父の死が影響している可能性は十分ある。

重世(1663-1745)
重友の三男
コトバンクの「デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「服部沾圃」の解説」に、
 「1663-1745 江戸時代前期-中期の能役者,俳人。
寛文3年生まれ。宝生重友の3男。野々口立圃(りゅうほ)の養子。陸奥(むつ)平藩(福島県)の内藤義英(露沾)に約30年間つかえる。元禄(げんろく)6年(1693)松尾芭蕉(ばしょう)の晩年の弟子となり,2代立圃をつぐ。のち宝生流11代宝生友精(ともきよ)の後見役をつとめた。延享2年10月2日死去。83歳。名は重世。通称は左(佐)大夫。別号に幾重斎。」
とある。

 宝生重友は貞享2年に亡くなっていて、『雑談集』の頃の其角の記憶にも残っていることだろう。胡蝶は荘子の『胡蝶の夢』を題材にした能で、生まれ変わりの意味がある。父の生まれ変わりにはなれなかったという嘆きをこの句に込めたように感じられる。これはその頃の句であり、友春が九代宝生大夫を継いだことで家督を継げなかった重賢か重世が、引退の決意として詠んだのではないかと思われる。
 そうなると、沾蓬は後に『続猿蓑』を編纂した沾圃、つまり重世である可能性が高い。
 沾蓬は元禄7年春の芭蕉同座の興行で、

 水音や小鮎のいさむ二俣瀬     湖風
   柳もすさる岸の刈株      芭蕉
 見しりたる乙切草の萌出て     沾蓬

に始まる半歌仙に参加している。
 同じ頃「八九間」の巻で、

 八九間空で雨降る柳かな      芭蕉
   春のからすの畠ほる声     沾圃

と芭蕉と同座している。「八九間」の方は沾圃の撰による『続猿蓑』に収録されている。

 なお、沾蓬については『元禄の奇才 宝井其角』(田中善信、2000,新典社)には、

 「『露沾俳諧集』に沾蓬の句が多数収録されているから、彼は露沾に使えていたと思われるが、露沾が磐城に隠棲した際、沾蓬も露沾に同行して磐城に移住したのであろう。同集には次のような露沾の句がある。

   土田沾蓬に立圃が已前の誹名をゆづりけるに、此心にて予に句を乞
 文字ごころ麻に秀でてさしも草  露沾

 この土田沾蓬は宝生沾蓬と同一人物とみて間違いあるまい。宝生沾蓬は後に姓を土田に変えたのであろう(あるいは土田が沾蓬の本姓かもしれない)。右の句の前書きに記された立圃は芭蕉の門人の宝生沾圃(通称は左太夫)の俳号で、彼は元禄六年(一六九三)に二世立圃を襲名している。したがって「立圃が已前の誹号をゆづりける」というのは、立圃が彼の前号である沾圃を沾蓬に譲ったという意味であり、沾蓬が二世沾圃を襲名したことになる。宝生沾圃こと一世沾圃と、宝生沾蓬こと二代目沾圃の関係については不明である。」

と記している。
 まず、当時は姓が複数あっても珍しくはない。其角も榎本其角であり宝井其角でもある。榎本は母方の姓で、父方の姓で呼ぶなら木下其角になる。一世紀後の谷口蕪村も与謝野蕪村を名乗っている。
 当時の姓は三種類あったと考えられる。
 一つは源、平、藤原などの本来の意味での姓で、これだと徳川家康の姓は源で、源家康が本来の姓になり、徳川は名字ということになる。芭蕉も先祖の柘植氏の姓が平だったから、平姓と見て良い。
 もう一つが武家などのいわゆる名字のことで、田氏捨女の田(でん)は名字であって、本来の姓ではない。松尾もその先祖の柘植も名字であり、名字は分家などすると新たに作られる。
 つまり家督を継ぐ必要のない者は、必ずしも先祖の名字を名乗る必要はない。だから新たな名字を作ることも普通に行われていた。多分其角の宝井もそういうものだったのではないかと思う。
 それで行くと、宝生重賢の場合、元の名字は宝生だったが、観世家に養子に入ることで観世になり、引退すれば宝生でも観世でもなくなるから、新たに別の名字の服部を名乗っていた。
 さて、それなら三男の宝生重世の場合も、能役者をやってるうちは宝生でも、引退した後は基本的には兄と同じ服部だが、兄と区別するために土田の名字を名乗った可能性はある。
 重世が宝生家の者であり、引退した場合に服部氏に戻る所を同時に兄の重賢も引退したためにあらたに土田を名乗り、宝生重世=服部重世=土田重世となったのなら、=土田沾蓬=沾圃(『続猿蓑』の編者)、そして=二代目立圃ということで間違いないだろう。全部同一人物と考えて良い。

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