切字の続き。
土芳の『三冊子』「くろさうし」には、
「手爾葉留の發句の事、けり、や等の云結たるはつねにもすべし。覽、て、に、その外いひ殘たる留りは一代二三句は過分の事成べし。けり留りは至て詞强し。かりそめにいひ出すにあらず。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.136)
とある。
6,「たり」「なり」「べし」などの終止言
基本的には「かな」「けり」と同じように下五の末尾で用いたり、倒置にして中七の途中や末尾に用いたりする。
7.「し」
これは文語形容詞の語尾の「し」で、過去の「し」は切れ字にはならない。口語形容詞の「い」は連用形が同型でであるため、明確に終止形だとわかる場合以外は切れ字として機能しない。
これも「かな」「けり」と同じように下五の末尾で用いたり、倒置にして中七の途中や末尾に用いたりする。
倒置で上五に持ってくることもできるが、その場合は「おもしろし→おもしろや」のように「や」を使うことが多い。
また倒置で形容詞を上五に持ってきた時に、語尾の「し」を省略する場合があり、この場合は「三体発句」と呼ばれる。
あなたふと青葉若葉の日の光 芭蕉
の句はよく知られている。
日本語の形容詞は口語では語尾が省略されることが多い。現代語でも「こわい→こわっ」「はやい→はやっ」「きもい→きもっ」という例は枚挙にいとまがないが、こうした省略は平安時代の『源氏物語』にも見られる。
8,疑問反語の言葉
終止言ではないが「何」「いつ」「いづこ」などの疑問の言葉は通常の文では末尾にも疑問の「や」を補い、「何を言わんや」「いつ来るや」「いづこより来たらんや」の様に用いるが、この「や」を省略しても完結した文章として成立する。そのため切れ字とされてきた。
何に此師走の市にゆくからす 芭蕉
は「何(ゆえ)にからすはこの師走の市に行く(や)」の倒置で、疑問の切字の「や」が省略されたものと考えて良い。
いづくしぐれ傘を手にさげて帰る僧 芭蕉
の場合は「いづく時雨(や)、傘を手にさげて帰る僧」の切字の「や」の省略と考えて良い。
9,大廻し
中世連歌の時代から切字なくても句が切れる例として「三体発句」と「大廻し」が挙げられてきた。三体発句の方は形容詞語尾で切字になる「し」の省略で説明がつく。
また、「三体発句」「大廻し」の用語は口伝で伝わっていくうちに途中で変化していることもあり、芭蕉の師匠でもある季吟の『季吟法印俳諧秘』では、
「第十二 大まはし発句事
あなたうと春日のみがく玉津嶋 古句
花さかぬ身はなく計犬ざくら 元隣
右三通の発句、甚深の相伝有事也。其道の堪能ならずしては、仕立やう知とも無益の事也。俳踰の罪のがるるに所なけれ共、とてももの事に愚句一句書付侍し。」(俳諧秘)
とあり、季吟には正確な伝授がなかったと思われる。
また「或人之説 連俳十三ケ條」に、
「大廻し之句とて、
五月は峰の松風谷の水
右大廻し共、三段共、三明の切字共云也。やの字をくはへてきひて書也。十八てにをはの格也。
松白し嵐や雪に霞むらん
音もなし花や名木なかるらん
右の格也。上五文字にて、し、やと疑ひ、扨はねるにてにをはなり。」(俳諧秘)
とある。
この句の場合は「五月は」では字足らずで書き間違えがあったのか。ここが五文字だとして、「五月や」でも意味が通じるから、「やの字をくはへてきひて書也」ということなのであろう。「や」を使うべき所を「は」としても切れるということなのだろうか。
このあとに「や‥‥らん」の例を挙げているように、
五月や峰の松風谷の水なるらん
の「なるらん」の省略と思われ、「や」と切るべき所を「は」とした句と思われる。
花さかぬ身はなく計犬ざくら 元隣
の場合は、「犬桜を見るにつけても、そのような小さな花すらさかぬ身は泣くばかり」という句で、「泣くばかり」のあと本来来るべき「なり」の省略と見て良いだろう。
大廻しは基本的には終止言の省略と見て良いのではないかと思う。また、「大廻し」という名称は倒置の際に終止言が省略されるという意味合いがあったのではないかと思う。
切字のない句の例としては、誰もが知る、
目には青葉山時鳥初鰹 素堂
の句がある。これも、青葉、時鳥、初鰹すべてそれぞれ述語が省略されているが。「目に青葉」ではなくあえて字余りでも「目には青葉」とした所に、この「は」に「や」と同等の意味を持たせようとしたのではないかと思う。
中世連歌でも梵灯の『長短抄』では、
山はただ岩木のしづく春の雨
は大廻しで、
あなたうと春日の磨く玉津島
は三体発句になる。
「山はただ」の句は、「春の雨に山はただ岩木のしづく(なり)」の倒置による終止言の省略なので、おおかた大廻しは「倒置の際の終止言の省略」で合っていると思う。
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