2025年7月5日土曜日

  昨日の切れ字の続き。

 1,切れ字の種類

 切れ字については昔は口伝で伝えていたため、連歌論書でもあまり詳しい記述はなく、切れ字の種類を列挙した者も少ない。その少ない中に、以下のものがある。

 康応二年(1390年)の梵灯『長短抄』には以下の切れ字が挙げられている。

 「かな けり ぞ か べし や ぬ む(撥ね字)、成敗の字、す よ は けれ」

 延宝六年(1678年)の立圃編『増補はなひ草』には、

 「哉・けり・たり・めり・や・ぞ・し・じ・き・ぬ・:つ・む・か。なぞ・いさ・なに・いづく・いづこ・いづれ・いかで・など・いく・さぞ・こそ・たれ・を・もなし・もがな・はなし・下知(いでよ・何せ・まて・ふけ・みよ・こほれ・ちらせ・かすめ・め。月ニなけ・ふくな)」

などが挙げられている。疑問や命令の言葉が多く付け加えられている。
 切れ字が口伝になっていたのも、一つには文法的な用法の多様性で、一律に説明しにくい所があったからだと思われる。
 命令を示す動詞語尾はいまならeの語尾で説明できるが、当時としては「ふけ・こほれ・ちらせ・かすめ」など列挙する必要があった。これは切れ字が文法的にではなく「字」として説明されていたための煩雑さといえよう。

 基本的に切れ字は、

 終止言 助詞
     助動詞
     形容詞
     形容動詞
     動詞

 命令形 助詞
     助動詞
     動詞

 疑問符

に分けられると思う。
 終止言と命令形は大体それが述語となるが、命令形の場合は述語の省略が頻繁に起きることに注視する必要がある。口語でも、「あの人は今どこに」という場合は「いるの?」あるいは「いった?という述語が省略される。
 一番ややこしいのは終止言と疑問符の両方の役割を持つ「や」「か」で、治定や詠嘆を表す終止言として機能する時でも述語が頻繁に省略される。しかも「や」は切れ字の代表とでもいうくらい使用頻度が高い。

 なお、宗因の『俳諧無言抄』


2,「や」という切れ字

 「や」は「かな」と並んで切れ字の代表格で、「や」「かな」が多用されるのは治定という曖昧な断定が、特に主観的な感想を表すのに適していたからだと思われる。近代写生説の句のように客観的な描写が求められる際には「けり」が多用されるようになったが、芭蕉の時代ではむしろ多様を避けるように言われていた。
 古今集「仮名序」に「やまと歌は人の心を種として」とあるように、本来日本の言の葉の道は物を描写するのではなく心を述べるものだったことを考えれば、「けり」よりも主観的な「や」「かな」が用いられるのはもっともなことだった。
 『万葉集』は写生ではないかという人もいるかもしれないが、それは明治の正岡子規以降の説にすぎない。
 「や」は本来は疑問・反語の言葉だったが、語尾を上げずにむしろ下げて発音すると疑問の意味ではなく、何となく疑問を投げかけながらも肯定する微妙なニュアンスが生じる。これを昔の人は「治定」と言った。
 現代語の「か」という疑問の言葉も、「これでいいのか?」と語尾を上げれば問いかけになるが、「これでいいのかあ」と語尾を下げると、疑問がありつつも自分自身を納得させるようなニュアンスになる。ちなみに、語尾を強く「これでいいのかっ!」というと「いいわけない」という反語になる。語尾のニュアンスで意味は変わる。
 「や」も同じような働きがあった。治定の「や」は今日でも関西方言には残っている。「これでいいんやあ」というと、関東の「これでいいのかあ」と似た様なニュアンスになる。
 切れ字の「や」元は「疑問」か「治定」の意味で用いられていた。「反語」になることは滅多になう。
 芭蕉の時代が一つの境になり、芭蕉の句はほとんどこのどちらかの用法だが、それ以降今日の関西方言の「や」に近い「せや、その通りや」みたいな断定のニュアンスが強くなり、力強い主観的な治定となることが多くなる。これを詠嘆の「や」という。
 名詞に「や」が付く場合は芭蕉の時代は疑問か治定だったが、芭蕉の時代でも形容詞に「や」が付く場合は、たとえば、

 おもしろや理屈はなしに花の雲 越人

のような「や」は詠嘆と言って良い。

 今日では「や」はほとんど語尾にしか用いないが、かつては係助詞として倒置して文中で用いられることも多かった。
 係助詞は倒置によって語尾の助詞を前に持って来て強調する語法で、

 「月やあらぬ」は「月はあらぬや」の倒置
 「何をか言わん」は「何を言わんか」の倒置
 「鹿ぞ鳴くなる」は「鹿の鳴くなるぞ」の倒置
 「人こそ見えね」は「人の見えねばこそ」の倒置

 係助詞の「や」は中世の連歌の時代には「や‥‥らん」の形で付句に多用された。

   船さす音もしるき明け方
 月やなほ霧渡る夜に残るらん    肖柏(水無瀬三吟)

   まだ残る日のうち霞むかげ
 暮れぬとや鳴きつつ鳥の帰るらん  宗長(水無瀬三吟)

   さ夜ふけけりな袖の秋かぜ
 露さむし月も光やかはるらん    宗長(湯山三吟)

   和歌の浦や磯がくれつつまよふ身に
 みちくるしほや人したふらん    肖柏(湯山三吟)

などの多くの用例がある。いずれも「らんや」の倒置になる。
 このような倒置を行うと、「や」の前にくる言葉が強調される。「月や‥‥残るらん」「暮れぬとや‥‥帰るらん」「光やかはるらん」「しほや‥‥したふらん」が一句の軸となる。
 「らんや」となれば、その用法は治定ではなく疑問か反語になる。そのため「や‥‥らん」も基本的には疑問か反語で事情や詠嘆にはならない。

 発句の切れ字として用いられる「や」は、このような係助詞な、強調したい言葉の前に自在に移動できるという利点をもちつつ、意味としては治定で用いられることが多くなる。
 そのため切れ字の「や」は必ずしもそこで断定して文章を終わらせているわけではない。

 芭蕉の句の中には本によって形の違う句が少なくない。それが推敲の過程にあるものであれ、編者の記憶違いによるものであれ、その中には「や」が他の助詞に置き換えられているものがかなりの数にのぼる。
 それはおそらく、こうした置き換えが作品の意味を根本的に変えるものではなかったからであろう。ここに岩波文庫の『芭蕉俳句集』から抜き出してみた。

1、「は」と「や」の入れ替わっているもの

 俤や姨ひとり泣月の友   『更級紀行』
 俤は姥ひとりなく月の友『芭蕉庵小文庫』

 曙はまだむらさきにほととぎす (真蹟)
 あけぼのやまだ朔日にほととぎす『芭蕉句選拾遺』

 大津絵の筆のはじめは何仏  『勧進牒』
 大津絵の筆のはじめや何仏  『蓮実』

 名月はふたつ有ても瀬田の月 『泊船集』
 名月やふたつ有ても瀬田の月『蕉翁句選』

 降ずとも竹植る日は蓑と笠  『笈日記』
 降ずとも竹植る日や蓑と笠 『こがらし』

2、「の」と「や」の入れ替わっているもの

 さびしさの岩にしみ込む蝉のこゑ 『こがらし』
 淋しさや岩にしみ込むせみの声 『初蝉』

 中山の越路も月は又いのち 『芭蕉翁句解参考』
 中山や越路も月は又いのち 『荊口句帳』

 文月の六日も常の夜には似ず 『泊船集』
 文月や六日も常の夜には似ず『奥の細道』

 国々の八景更に気比の月  『荊口句帳』
 国々や八景更に気比の月 『芭蕉翁句解参考』

 さみだれの雲吹おとせ大井川 『笈日記』
 五月雨や雲吹落す大井川『芭蕉翁行状記』

 名月の花かと見へて棉畠   『続猿蓑』
 名月や花かと見へて綿ばたけ 『有磯海』

 松風の軒をめぐって秋くれぬ 『泊船集』
 松風や軒をめぐって秋暮ぬ  『笈日記』

 白菊の目にたてて見る塵もなし『笈日記』
 しら菊や目にたてて見る塵もなし 『矢矧堤』

3、「に」と「や」の入れ替わっているもの

 須磨寺に吹ぬ笛きく木下やみ『続有磯海』
 須磨寺やふかぬ笛きく木下やみ 『笈の小文』

 柚花にむかし忍ばん料理の間『蕉翁句集』
 柚花や昔しのばん料理の間 『嵯峨日記』

 草の戸に日暮れてくれし菊の酒 『きさらぎ』
 草の戸や日暮れてくれし菊の酒『笈日記』

 夕顔に酔て顔出す窓の穴  (芭蕉書簡)
 夕顔や酔てかほ出す窓の穴  『続猿蓑』

4、「を」と「や」の入れ替わっているもの

 その玉を羽黒にかへせ法の月 『泊船集』
 其玉や羽黒にかへす法の月 (真蹟懐紙)

 あさむつを月見の旅の明離 『荊口句帳』
 あさむつや月見の旅の明ばなれ 『其袋』

 行春を近江の人とをしみける  『猿蓑』
 行春やあふみの人とをしみける (真蹟懐紙)

 この道を行人なしに秋の暮 (芭蕉書簡)
 此道や行人なしに秋の暮    『其便』

5、「と」と「や」の入れ替わっているもの

 川上とこの川下と月の友   『泊船集』
 川上とこの川しもや月の友  『続猿蓑』

 このような「や」は決して「や」でもって終止しているのではないし、切れ字「や」は本来倒置として自由に移動できるものとして認識されてたと言って良い。

 たとえばあの有名な、

 古池や蛙飛び込む水の音 芭蕉

の句にしても、「や」の位置をずらしても意味が大きく変わることはない。ただ句の中のどこが強調されるかが変わるにすぎない。

 古るや池蛙飛び込む水の音
 古池や蛙飛び込む水の音
 古池に蛙や飛び込む水の音
 古池に蛙飛び込むや水の音
 古池に蛙飛び込む水や音
 古池に蛙飛び込む水の音や

 この六通りは可能になる。
 実際、「や」という切れ字は上五の中、末尾、中七の中、末尾、下五の中、末尾の六か所に自在に置くことができる。

 実にや月間口千金の通り町     芭蕉
 (実に月は間口千金の通り町や)
 木枯やたけにかくれてしづまりぬ  芭蕉
 (木枯はたけにかくれてしづまりぬや)
 琵琶行の夜や三味線の音霰     芭蕉
 (琵琶行の夜は三味線の音霰や)
 京まではまだ半空や雪の雲     芭蕉
 (京まではまだ半空の雪の雲や)
 櫓の声波ヲうつて腸氷ル夜やなみだ 芭蕉
 (櫓の声波ヲうつて腸氷ル夜はなみだや)
 夏の月御油より出て赤坂や     芭蕉
 (夏の月は御油より出て赤坂や)

 「実にや月」は「実に月や」にもできるし、「実に月の間口や」「実に月の間口は千金や」ともできる。ただ、それは可能というだけで、どこを強調するのがベストかという所で、芭蕉は「実にや月」を選んだと言って良い。

 「や」の用法は、このように末尾に持って来てもいい「や」を強調したい場所に自在に移動させて用いることができる。
 初心の内はついつい末尾に「や」を持って来がちになるが、この移動を覚えておくと良い。

 ゼロの型、主語+述語+切れ字の形で句が出来たなら、末尾の切れ字を倒置によって上五や中七に持ってくることもできる。だが、助詞だけの倒置が可能なのは「や」だけだと思っておいてかまわない。

 他の切れ字の場合はその切れ字を受けている上の言葉も倒置にする必要があるし、この操作は「や」でもできる。

0 件のコメント:

コメントを投稿