4,「かな」という切れ字
「かな」は治定の切れ字になる。疑問を持ちつつも主観的にそれを肯定する働きを持ち、強い主観的な肯定は詠嘆にもつながる。主観性が強いという意味では「けり」や「たり」とは異なる。
今日の標準語では「かな」は疑問には用いられるが、語尾を下げて「かなあ」としてもやはり疑問の言葉にしかならない。「かな」を治定に用いる用法は関西方言の「がな」にその名残を留めている。
下七の末尾に用いられるのがほとんどだが、希に倒置で用いられることもある。
乞食かな天地を着たる夏衣 其角
は「乞食は天地を夏衣に着たるかな」の倒置で、これが「乞食は天地を着たる夏衣かな」になり、例外的に係助詞のように「乞食かな天地を着たる夏衣」になる。特殊な例と言えよう。上五を「こつじきや」にすると、この「かな」の働きが係助詞的なものだというのがわかる。
付句では、『大坂独吟集』第五百韻、鶴永独吟百韻「軽口に」の巻に
大師講けふ九重を過越て
匂ひけるかな真木のお違
の用例がある。「真木のお違(棚)の匂ひけるかな」の倒置で、この場合は上の言葉ごと倒置になっている。
「かな」は治定の言葉という点では「や」に似ているので、推敲などの際には「や」と「かな」は変換して考えることができる。
古池や蛙飛び込む水の音 芭蕉
古池に蛙飛び込み水音かな
木の下に汁も鱠も桜かな 芭蕉
木の下や汁も鱠も散る桜
もちろん、可能というだけのことで、句を案じている時にうまくまとまらない時にはこういう操作をしてみると良いかもしれない。
5,「けり」
「けり」は主観性が弱く客観性が強く、単に過去というよりも完了に近く、もはや取り返しのつかないというニュアンスを持っている。
道の辺の木槿は馬に食はれけり 芭蕉
はそのニュアンスを生かし切っている。
それゆえに使うのが難しく、芭蕉はあまり「けり」の字を好まず、用例も少ない。逆に近代の写生説の時代には多用された。
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