それでは『雑談集』の続き。
「露と云ふ字もあそばねば体に成るまじき也。今や俳諧の正風おこなはれて、心の上に巧をかさね、何事も一句に云ひとらずと云ふとなし。
然ども之をこれぞと手に取りて覚えたる人はなくて、只句作をあやかり行形をまね、それかこれかと紛らはしきばかりなる聞きとり法問なり。
それいかにと云ふに古風のまッただ中に生れて今は六十にもあまりし人の昔風は申しけれども、今風はえ申されずと卑下せらるるにて知るべし。其書風といへる時の正章重頼立圃宗因一句とてもあだなる句はなし。
時代蒔絵の堅地にて尤も秘蔵せらる文音とて下地鹿相に年の入らざるは兀げやすく破れやすし。今何の用にたたず。当時の作者此心を得て随分念を入れて工案せよ。千歳の後も至宝也。
時の用にたてんとて趣向をぬすみ、てにをは人にうち任せさし合ははなひ草にて見合せ、点に長をさへとらばと思ふはいと兀げやすこ事也。
金銀にて彩りたる筆を以て心の色を分ち侍る覚束なし。方寸の器もの手置き大事なるぞかし。」(雑談集)
露も「あそばねば」というのは、そのままの露を詠んでも和歌で散々使われた言葉なのでなかなか俳諧らしい新味が出せず、露を白鳥と取り合わせることで、白鳥徳利の酒の露と掛けたり、そういった遊びが必要ということなのだろう。
正風は芭蕉の蕉風のことと見て良いだろう。古池の句を以ってしてそれまでの謡曲調や奇抜な字余りをやめて本来の和歌に準じた体に戻すということで、掛詞や縁語などの貞門の技法なども復活して、一つの言葉に二重の意(こころ)を持たせたりして一句の中に多くの意味を詰め込むようになった。
ただ、貞門時代の技術は談林の流行の中で次第に忘れられて行って、形だけ真似ている人も多くなっていた。「聞きとり法問」というのはきちんと勉強しないで聞き齧っただけの仏法知識のようなものということか。
「古風の真っただ中に」というのは貞門時代を知っている人という意味だろう。芭蕉も伊賀にいた頃は貞門の俳諧を学び、江戸に下る前に季吟から伝授を受けたともいう。
貞門の頃に活躍した人たちは、談林の流行期に俳諧を止めてしまった人も多かったのか、田氏捨女もそうだし、季吟自身も古典の注釈の方に専念したように思われる。今風の俳諧には着いていけなくなったという所か。
これは貞門の句が劣ってたということではない。「正章重頼立圃宗因一句とてもあだなる句はなし。」の正章は安原貞室のことで、松江重頼、野々口立圃、西山宗因もみな貞門時代を経験している。
煌びやかな蒔絵も下地がしっかりしてなくてはすぐにはがれてしまうように、貞門の基礎がしっかりしていれば、談林、天和調、蕉風と時代が変わってもその句の価値は衰えない。「千歳の後も至宝也」と、芭蕉の時代からはまだ千年は経ってないが、近代の西洋化の波の中でも芭蕉の句はしっかりと生き残っている。
この基礎は単に技巧的なものだけでなく、貞門の俳諧が連歌の心をしっかり引き継いでいて、宗因も連歌師だったことを見ても、くだけた調子の句を詠んでいても季語や歌枕の本意本情、根底にある風雅の心を外すことはなかった。ただ、談林から蕉門へと移り変わる中で、若い世代にはなかなかそれがわかりにくくなっていたのだろう。其角はこの時三十一で、世代的にはおぼつかない、その自戒も込めていたのかもしれない。
点取り俳諧という言葉は後から名付けられたのではないかと思うが、都市に住む俳諧師の生活は、少なからず弟子を集めて点料を取ることによって成り立っていた。其角もその例外ではない。芭蕉も深川隠居前はそのような生活もしていたのではないかと思うが、点者としてはさほど成功しなかったのが幸いだったのかもしれない。
芭蕉の正風が名古屋・上方を中心に浸透していく中で、芭蕉が奥の細道に旅立ったあと、江戸は点料で生活する師匠たちの力が強くなっていったのだろう。其角も嵐雪もその波には逆らえなかった。
ただ、点料で生活してはいても、本来の俳諧はこうではないという意識は、生涯持ち続けたのではないかと思う。芭蕉を大阪で看取った後も、芭蕉とともに過ごした延宝・天和の頃の青春時代はいつまでも甘い思い出だったに違いない。
『雑談集』はこのあと大山詣の話になり、俳論の方はここで終わりになる。
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