2025年1月15日水曜日

  昨日は日記を休んでしまったが、初句会があってどんど焼きがあった。

 寒月に枝はちくちく何を刺す
 葉牡丹の風受け流す光かな
 暖冬に雲は因果の列をなす
 気持ち的に眼下は崖の初日哉

 それでは『雑談集』の続き。

 「俳諧に新古のさかひ分ちがたし。いはば情のうすき句はおのづから見あきもし、聞きふるさるるにや。又情の厚き句は詞も心も古けれども、作者の誠より思ひ合ひぬるゆゑ、時にあたらしく不易の巧あらはれ侍る。」(雑談集)

 去来は『不玉宛論書』の中で「此道ハ心辞トモニ新ミヲ以テ命トス」とすと言っているように、おそらく芭蕉は去来に対してはそう教えたのだろう。これは裏を返すと去来の場合、発想が古いことが多かったか。『去来抄』を見ても、

 猪のねに行かたや明の月     去来

の句で芭蕉に、

 「そのおもしろき処ハ、古人もよく知れバ、帰るとて野べより山へ入鹿の跡吹おくる荻の上風とハよめり。和歌優美の上にさへ、かく迄かけり作したるを、俳諧自由の上にただ尋常の気色を作せんハ、手柄なかるべし。」

と新味のなさを指摘されている。
 狩に行って、ふとその罪に気付いて猪を見逃して帰してやるという趣向は、

 明けぬとて野べより山へ入る鹿の
    跡吹きおくる萩の下風
              源通光

以来の古典的なテーマで、芭蕉は鹿を猪に替える程度のことではなく、和歌にはなかった趣向で、

 明けぼのや白魚白きこと一寸   芭蕉
 おもしろうてやがて悲しき鵜舟哉 仝

の句を詠んでいる。俳諧は新味をもって命とすというのは、そんな去来に戒めたものだったのであろう。
 其角に対してはどう教えていたのかはわからないが、「俳諧に新古のさかひ分ちがたし」は芭蕉の其角に対する教え方だったのかもしれない。『雑談集』は芭蕉存命中に書かれているから、少なくとも師の教えに背くものではあるまい。
 「いはば情のうすき句はおのづから見あきもし、聞きふるさるるにや。」というように、むしろ本意本情が備わってない、日常のその場その場の人情に流された句はすぐに古くなって飽きられてしまうというように、不易の情を重視した教え方をしていたのかもしれない。
 「又情の厚き句は詞も心も古けれども、作者の誠より思ひ合ひぬるゆゑ、時にあたらしく不易の巧あらはれ侍る。」というように、人間のより根源的な普遍的な情、いわゆる風雅の誠の具わった句は、古いようでいて、今聞いても新鮮に感じられる。
 去来の猪の句でも、元の源通光の歌はもとより、芭蕉の句すら忘れられがちな現代にあっては、新しく感じられるかもしれない。不易の情は時代を越えて通用するので、一時的に古くはなっても、時代が変わればまた新しく感じられる。
 其角は一方で古典の蘊蓄を交えて句に権威を与えるような傾向があり、それは元禄二年の暮れに翌年の歳旦として詠んだ句、、

   手握蘭口含鶏舌
 ゆづり葉や口に含みて筆始    其角

に対して去来宛書簡で、

 「江戸より五つ物到来珍重、ゆづり葉感心に存候。乍去当年は此もの方のみおそろしく存候處、しゐて肝はつぶし不申候へ共、其躰新敷候。前書之事不同心にて候。彼義(儀)は只今天地俳諧にして萬代不易に候。」

と評している。

 「ゆづり葉を口にふくむといふ万歳の言葉*、犬打童子も知りたる事なれば、只此まヽにて指出したる、閑素にして面白覚候。」

と、「ゆづり葉を口にふくむ」という当時なら犬打童子も知ってる萬歳の言葉を持ってくる新味は評価できるが、前書きは不要だという。この前書きは岩波文庫の『芭蕉書簡集』の萩原恭男の注によれば、「漢の尚書郎が口に鶏舌香を含んで奏上し、蘭を握って朝廷に出仕した故事」だという。
 正月の目出度さは不易であり、それを祝う心も昔も今も変わらないのならば、漢の尚書郎を持ち出さなくても、萬歳の口上だけでそれは通じるというわけだ。
 今となっては萬歳の口上はほとんどの人の記憶からは消えてしまったが、「古い」というのは記憶があって、それがずいぶん昔に聞いた記憶だから古いというだけで、記憶にないことは却って新しい。去来の猪の句も夜興引(よごひき)の記憶が既に失われてしまってるため、古いというよりは、初めて聞いたということで新しさすら感じられる。
 不易の情の句は、まだ記憶があるうちは古く感じられても、記憶が一度失われてしまえば却って新しい。古いと思うのは記憶に残っているからだ。ひとたび忘れ去られてしまうと、不易の情をもつ芸術作品は再発見され新しい解釈が与えられる。
 昭和歌謡も80年代のシティーポップも、それをリアルタイムで聴いた世代からすると何を今更だが、知らない世代には却って新鮮に感じられる。
 そう思えば、古いか新しいかは長い時代の流れからすれば相対的なもので、記憶に残ってる程度の古さは古いが、それより前になると却って新しくなる。ただ、こうした再評価ができるのは不易の情を持つ作品に限られる。
 不易の情というのは、中世の顕密仏教だったり、江戸の儒学だったり、明治の国体だったり、戦後思想もまた今はまた大きな転換点を迎えていたり、思想やイデオロギーはどんどん古くなってゆくが、人間の情というのは古今東西変わらないもので、時代を越えて、国境を越えて人々に感動を与える、そういうものだ。「作者の誠より思ひ合ひぬるゆゑ、時にあたらしく不易の巧あらはれ侍る。」
 ならば去来に教えた「此道ハ心辞トモニ新ミヲ以テ命トス」は何だったのかというと、一周回れば新しくなるものでも、半歩遅れたものはどうしようもない、ということか。
 流行して多くの人に知られなければ、人々の記憶にも残りにくいし、それを後世に残そうという情熱もなかなか生まれないものだ。流行によって多くの人の心に刻まれたものだからこそ、多くの人の間にそれを残そうという情熱が生まれ、何らかの形で残っていれば一度は忘れられても時代が変わればまた復活する。

 「高位の人の取あへず思ひ出て給へる句、少年少女遊女禅門などの折にふれたる事云ひ出てしは心と心のむかひあへる故、等類ある句も聞きゆるされ侍り。なましひに点者で候といはるる心うしと嵐雪が身を恨みしもことはり也。人にはくずの松原とよばるる名さへうれしとよまれし。誠にゆかし。

 なんにも早や楊梅の実むかし口  梅翁
 四十はや朝顔の葉のいそがしや  嵐蘭
 年寄りもまぎれぬものやとしの暮 東順
   戒在色といふ所をよみて覚えて
 錦木や色のをはりの老男     是吉
 力なや麻刈あとの秋の風     越人
 陰惜き師走の菊の齢ひかな    露沾
 老の身の涼み所や蚊屋のそば   岩翁
 紙子着てくくり頭巾も三十哉   角」(雑談集)

 これは凡庸な句とて不易の情のあるものは侮ることができないということだろう。
 不易の句は普遍的であるだけに、誰もが口にすることであり、自ずと等類の句になりがちだ。今の俳句の言葉だと「類想」というが、等類・類想の多さはある意味不易である証しでもある。凡庸な句でも軽く見ることはできない。
 「高位の人の取あへず思ひ出て給へる句」というのは、高名な人にしては凡庸な句という意味であろう。
 「少年少女遊女禅門などの折にふれたる事云ひ出てしは心と心のむかひあへる」というのは、若者たちの不満の叫びや、風俗の人達の悲哀、禅問答のような人生の分かったような分からないようなもので、こういうのはいつの世でもある。今の俳句で言えば「孫俳句」なんてのもこのたぐいか。誰でも思いつく題材だから類句は多いが、それなりに共感を呼ぶもので一定の需要がある。
 点者の立場からすると類相の句は取りづらいから、頭を悩ませるところだ。
 テレビに出ているあの先生の「凡」というのもそのたぐいだ。立場から滅茶苦茶けなしはするが、本当の所自分も感動しているのではないか。
 「葛の松原」というのは、『雑談集』の一年後に支考の俳論のタイトルにもなるが、元は『選集抄』巻九第十一「覚英僧都事」に由来するもので、

 「そのかみ、陸奥の國のかたへさそらへまかりて侍りしに、信夫の郡くづの松原とて、人里遠くはなれたる所侍り。ひとへに山にもあらず、又ひたぶるなる野とも云べからず、すこしき岡と見えて、木草よしありてしげり、清水ともにながれ散れり。世をひそかにのがれて、此江のほとりに住みたきほどに見え侍り。」

という田舎の何の変哲もない所だが、世を逃れるのは良さそうな所があって、その松の木に、

 「昔は応理円宗の学徒として、公家の梵莚につらなり、今は諸国流浪の乞食として、終りをくずの松原にとる

 世の中の人にはくづの松原と
     よばるる名こそうれしかりけり

 于時、保元二年二月十七日、権少僧都覚英、生年四十一、申の刻に終りぬ」

と書いてあった、その古事による。今では桑折町の松原寺に明和5年(1768年)に建立された碑があるが、芭蕉の時代にはまだどこにあるのか特定されてなかったのかもしれない。伊達の大木戸の記述はあっても葛の松原のことは曾良の旅日記にも記されていない。桃隣の『舞都遲登理』の旅では行きにも帰りにも桑折を通っているが、朝日山法圓寺の黄金天神の記述はあるが葛の松原の記述はない。支考も芭蕉のあとを追って陸奥を旅し、その後に『葛の松原』を書き表しているが、立ち寄った記述はない。
 葛の松原は葛に埋もれた松原のような何の変哲もない場所の例えとして用いられていたのだろう。凡句でもたくさんの類句に埋もれているだけで、その人にとってはかけがえのない句だったりする。
 其角がここに掲げた句も、凡庸だが捨てがたい句ということだろうか。最後の其角の句を除けば老いを歎く句で、これも今でも定番ともいえる。

 なんにも早や楊梅の実むかし口  梅翁
 四十はや朝顔の葉のいそがしや  嵐蘭
 年寄りもまぎれぬものやとしの暮 東順
   戒在色といふ所をよみて覚えて
 錦木や色のをはりの老男     是吉
 力なや麻刈あとの秋の風     越人
 陰惜き師走の菊の齢ひかな    露沾
 老の身の涼み所や蚊屋のそば   岩翁
 紙子着てくくり頭巾も三十哉   角

 其角は漢文元年(一六六一年)の生まれで、この本の出た元禄四年(一九六一年)の時点では数えで三十一、句は前年の冬のものであろう。まだ老境の句には早いが、それを真似てみたということか。

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