それでは『雑談集』の続き。
「於大津義仲庵
三井寺の門たたかばやけふの月 翁
其夜を思ひ合侍るにも名月に対して月をみるおもひ出もなく我々の口質に切字を入れて参会を紛らし侍るも本意なし。
名月や草のいほりのあたま数 路通
空舟の河よりあまる月見哉 仙花
月の船けふいざ出合へ鴈の声 亀翁
海は雲野中ににくしけふの月 普船
名月に足のうらみる平沙哉 未陌
けふの月縁に出たる執筆哉 遠水」
芭蕉の句は三井寺へ行って月見をしようというもので、月を見る思いから作られている。これに対して、近頃は月見とは関係なく「口質」、つまり月にかこつけて、月見の会をするでもなくその他の景色や日常のことを適当に添えて詠んでいるというのが、ここで言おうとしていることだ。これは安易な取り合わせの弊害とも言えよう。
路通の草の庵のあたま数は月の下で日本中のたくさんの草庵で月を見ていることだろうという、いわば他人事のような句というのが気になる所だ。「あまた庵の我もまた」とかなら良いのだろうけど。
仙花の句もこの場合の「あまる」は空船の数を越えて人がやってくるということであろう。船が余っているのではなく人が乗り切れなくて余ってるという意味でないとよくわからない。やはりたくさんの月見を楽しむ人に対して一歩引いた斜に構えた句だ。
亀翁の句は雁の声と張り合おうということか。どっちかというと雁の句だ。
普船の句は海は雲がかかってるので、野中で月を待たなくてはならないのが癪に障るということか。
未陌の句は月見にみんな船で海に乗り出すから、砂に足跡が残っているというのを、「足の裏を見る」「浦を見る」「恨み」に掛けているものの、名月を賛美する句ではなく、恨み言を言っている。
遠水の句も句会とかでありそうなことで、句会の執筆が月を見に行って、会が中断されたというあるあるではあるし、句会の席だと勢いで受けそうな感じもするが、月の本意を踏み外している。
芭蕉に一笑に付された、
夕涼み疝気を起こし帰りけり 去来
の句に近い。
名月の句は、基本的に月に誘われ、自ら月を見、月を喜び、月に嘆きといった情が基本にある。月見の周りの様子を描写するというのはちょっと違うというわけだ。
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