一年の始まりということで、今日は縁起の良い富士山の写真から。
これは今日震生湖まで散歩した時の写真。大分雲が多い。
それでは久しぶりに『雑談集』の続き。
「鏡を形見といへる重高の歌にや装束つくろひて鏡の間にむかへるに
親に似ぬ姿ながらもこてふ哉 寶生 沾蓬」(雑談集)
重高は不明。鏡と形見を掛けた歌は古来数多くある。
おもひいでむ形見にもみよます鏡
かはらぬ影はとどまらずとも
惟明親王(続後撰集)
ます鏡うつりしものをとばかりに
とまらぬ影も形見なりけり
行能(続拾遺集)
ありし世の形見も悲します鏡
うきにはかはる面影もがな
少将内侍(文保百首)
など。
句の作者に寶生とあるから宝生流の者であろう。公益社団法人宝生会のホームページによると、八代宝生大夫の重友の所に、
「重房の子。寛永一三年(1636)、重房隠居を受けて大夫を継ぎ、徳川将軍家の四代家綱、五代綱吉に仕えました。
古将監と呼ばれる名手で、和漢の学にも通じ、伝書を残しています。
熱心な法華経の信者であったとも伝えられています。万治二年(1659)五月、京都で四日間の勧進能を、また寛文三年(1663)七月に江戸鉄砲洲で四日間の勧進能を催しました。
なお重友の三男の重世(しげよ)は、俳句をよくし蕉門に入って雛屋の跡を継ぎ、沾圃(せんぽ)と名乗りました。」
とあるから、重高も沾蓬も、後に『続猿蓑』を編纂することになる沾圃や、その義理の父の野々口立圃などと近しい間柄だったのだろう。
句の「こてふ」はおそらく謡曲『胡蝶』のことで、親の形見の鏡の前で蝶の精の舞をしてみたが、親にはとても及ばない、それでも一生懸命頑張っている、と言った所か。
この内容からすると沾蓬は宝生重友の親族に重高というのがいて、その息子だったのかもしれない。
宝生重友は貞享2年に亡くなっていて、『雑談集』の頃の其角の記憶にも残っていることだろう。重友には友春と重賢(しげかた)がいて、九代宝生大夫を継いだのは友春の方だった。コトバンクの「デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「宝生友春」の解説」に、
「1654-1728 江戸時代前期-中期の能役者シテ方。
承応(じょうおう)3年生まれ。宝生重友(しげとも)の子。父の跡をつぎ,宝生流9代となる。将軍徳川綱吉(つなよし)・家宣(いえのぶ)・家継・吉宗(よしむね)につかえた。金沢藩主前田綱紀(つなのり)の愛顧をうけて加賀宝生流の基礎をつくった。享保(きょうほう)13年8月8日死去。75歳。通称は九郎,将監。」
とある。
重賢の方はウィキペディアに、
「観世 重賢(かんぜ しげかた、万治元年(1658年) - 延享3年4月23日(1746年6月11日))は、江戸時代の猿楽師。12世観世大夫。通称は初め三郎次郎、大夫就任と同時に左門を名乗る。隠居してのちは服部十郎左衛門、さらに出家して服部周雪と改めた。
宝生家からの養子として観世大夫を嗣ぐが、29歳でその地位を去る。以後は前大夫として尊重を受けつつ京・江戸で隠居暮らしを送り、89歳で死去した。」
ウィキペディアの「観世流」の方には、
「12.左門重賢
1658年〜1746年。宝生大夫重友の子。29歳の時、在任4年で大夫を退き、以後は京都などで隠居生活を送り、いわゆる京観世にも影響を与える。」
とある。引退の年はウィキペディアの観世重賢の所に、
「ところがそれを見届けるや同年5月19日、重賢は病気を理由に幕府に隠居願を出し、在任4年にして観世大夫の座を織部に譲ってしまう。
29歳という若さでの隠居は異例であり、その原因がさまざまに推測されている。重賢が当時病を患っていたことは事実らしいが、とはいえ隠居の必要までは感じられない[13]。宝暦10年(1760年)に著された『秦曲正名閟伝』は(養子ゆえの)周囲からの孤立が隠居の要因であると示唆し、また『素謡世々之蹟』は重賢自身の宮仕えを嫌う気ままな性格に原因を求めている。能楽研究者の表章はこれらに加え、上述したような綱吉政権下における能界の混乱に嫌気が差したことが大きな理由だったのではないかと推測している。」
とあるが、前年の父の死が影響している可能性は十分ある。
この二人とは別に、宝生会のホームページによると、重友には友春と重賢の他に三男の重世(しげよ)がいて、これが沾圃だという。ここで沾蓬と沾圃の名前が似ているのが気になではなかったか。
一つの推測だが、重高は重友の間違いで、沾蓬は沾圃ではなかったか。高と友は草書だと似てなくもない。(ただし、早稲田大学図書本、京都大学附属図書館所蔵本はともに楷書で「高」と書かれている。間違いだとすれば原稿か版本の清書の段階で間違えたことになる。)
また、沾蓬が沾圃とは別人ならば、隠居した重賢の可能性もある。いずれにせよ、父のように上手く胡蝶を舞えない所に負い目を感じて詠んだ句に思われる。
胡蝶は荘子の『胡蝶の夢』を題材にした能で、生まれ変わりの意味がある。父の生まれ変わりにはなれなかったという嘆きをこの句に込めたように感じられてならない。
沾蓬は『雑談集』に、
はつ茸のうらより朽る日蔭かな 沾蓬
の句がある他、
黒塚の誠こもれり雪をんな 其角
蹴あげ目にたつ白革の足袋 沾蓬
に始まる両吟歌仙を巻いている。
また、元禄7年春の芭蕉同座の興行で、
水音や小鮎のいさむ二俣瀬 湖風
柳もすさる岸の刈株 芭蕉
見しりたる乙切草の萌出て 沾蓬
に始まる半歌仙に参加している。
同じ頃「八九間」の巻では沾圃と同座している。
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