それでは『雑談集』の続き。
「なには人福の神を祈りて七人が句を奉る中に、大黒天をいさめ申せと樽ひとつ送られたり。
年神に樽の口ぬく小槌かな 其角」(雑談集)
難波人とあるから貞享五年に上方へ行った時のことか。西鶴にも再会している。
七福神の句を七人に割り振ったのだろう。其角の担当は大黒天で、この場合の「いさめ」は「いさめる」で、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「勇める」の意味・読み・例文・類語」に、
「〘 他動詞 マ行下一段活用 〙
[ 文語形 ]いさ・む 〘 他動詞 マ行下二段活用 〙
① はげます。力づける。元気づける。
[初出の実例]「あまりにおくれたれば、いさむる也、とて太刀をさされぬ」(出典:平治物語(1220頃か)中)
② 慰める。慰めやわらげる。
[初出の実例]「廿一むらうちこ共、まつり事をぞはしめける、神をいさめ奉る、我てうにかくれなく」(出典:説経節・あいごの若(山本九兵衛板)(1661)六)」
とある。大黒天を囃し立てるというような意味か。
大黒天は打ち出の小槌を持っているから、その小槌で酒樽の蓋を割って開けてくれ、となかなか面白く、見事に決まっている。
「む月三日の暁巴山が夢に衆鼠懐に入ると語る。
引つれて松をくはゆる鼠かな 仝」(雑談集)
巴山は『猿蓑』に、
青草は湯入ながめんあつさかな 江戸 巴山
の句がある。正月三日の明け方に、たくさんの鼠が懐に入ってきた夢を見たという話をしたのだろう。鼠は大黒天の使いで目出度いことには違いない。大黒天を勇むる句と並べたのもそういう意図だろう。
鼠といえば正月初子の日に小松引きをする。だからそれはきっと、大黒天の使いの鼠たちが小松引きをやって、そのお目出度い松の枝を咥えてやって来たのだろう、と巴山に言ったのだろう。
「此比落穂の題にて当座句合 沾徳判
草枕畳のうへもおちほかな 亀翁
鶏の卵うみすてし落穂かな 角
鶏を家鳩とおぼして持に成りぬ。
予おもふに題に合せて穿義すれば、家鳩よく叶へり。一句の体をいふ時は鶏といへる句から宜き也。句からと趣向との狂へる所は予が未練にや。岨のたつ木にゐる鳩鴫たつ沢の鴫いづれも全体の形容うごく事なし。
真向きなる木兎見えぬ山路かな 子英
茶の花に画眉ひとつを詠めかな イセ 柴雫
鵙なくやはつかあからむ柚の頭 尾州 野水」(雑談集)
「落穂」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「落穂」の意味・読み・例文・類語」に、
「① 収穫の際に落ち散ったまま見捨てられている穀物の穂。遺穂。土穂(つぶ)。《 季語・秋 》
[初出の実例]「うちわびておちぼ拾ふと聞かませば我れも田面に行かましものを」(出典:伊勢物語(10C前)五八)
② 落ちた葉、または小枝。
[初出の実例]「落穂(ヲチボ)松笠など打けぶりたる草の庵」(出典:俳諧・奥の細道(1693‐94頃)松島)」
とあるように、必ずしも稲や麦の穂を意味するのではない。落葉や落ちた枯枝などを指す場合もある。この句合でも①と②のどっちの意味でも良かったのだろう。
亀翁の句は、旅寝のことを「草枕」とは言うけど、本当に野宿したのは昔の話で、今は宿屋に泊って畳の上に寝たりもする。ただ、畳の材料は藺草だし、藁の上に寝ているようなものだから、これも落穂の上の草枕といっても良いんではないか、といった所だろう。
其角の句は景色を詠んだ句で、庭鳥は必ずしも鶏ではなく、庭にいる鳥の意味で、それが落葉や枯枝か、やはり藁のイメージがあるのだろうか、そこに卵を生んでそのまま行ってしまった、とする。
こういうことをするのは鶏ではなく家鳩(今でいうドバト)ではないかということで、引き分けになった。鶏だと負けということか。
其角も言われてみれば確かに鶏よりも家鳩の方が「あるある」だし、なるほどその方が面白いと思ったのだろう。
最初は鶏のつもりで作ったが、言われてみると家鳩の方がいいというので、「句からと趣向との狂へる所は予が未練にや」と最初から家鳩で作れなかったのが自分でも残念だったと思ったのだろう。
「岨のたつ木にゐる鳩」は、
古畑の岨の立つ木にゐる鳩の
友呼ぶ声のすごき夕暮れ
西行法師(新古今集)
「鴫たつ沢の鴫」は言わずと知れた、
心なき身にも哀はしられけり
鴫たつ沢の秋の夕暮
西行法師(新古今集)
の歌で、こうした歌の鳩や鴫は他の鳥に替えることができない。これを「動くことなし」という。
その後掲げる三句も、他の鳥に替えることの出来ない句ということで並べたと思われる。
真向きなる木兎見えぬ山路かな 子英
茶の花に画眉ひとつを詠めかな 柴雫
鵙なくやはつかあからむ柚の頭 野水
木兎はミミヅク。画眉はホオジロで、最近郊外でうるさく鳴いているガビチョウのことではない。鵙はモズ。
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