今日は句会があった。
爆音のバイクは消えて月寒し
葉牡丹や公園は烏の歩み
山茶花の名残ホワイトアウトする
それでは『雑談集』の続き。
「発句付句ともに句の主に成る事得がたき也。萬歳扇に名をはるやうにて作者の名句ことにあれども、一体を立されば其名しかと定めがたし。只持扇のやうに名を張り付けずして慥かなる句の主といはれん様に心得べし。すべてありていなる句にて秀逸なるは妙を得し上手也。
大かたの月をもめでし七十二 西岸寺 任口
手かはりなる句にて主に成らんと工みたらば伊丹の歳旦帖みるやうにておのづから興さめぬべし。」(雑談集)
句の主というのは今で言うとヒット作と共にその名の広く津々浦々知られることというような意味だろう。芭蕉は古池の句を以って句の主となったし、その後初時雨の句を以ってまた句の主となった。
萬歳扇はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「万歳扇」の意味・読み・例文・類語」に、
「〘 名詞 〙 万歳②が用いる扇。また、転じて、粗末な扇。《 季語・新年 》
[初出の実例]「万歳扇に名をはるやうにて、作者の名、句ごとにあれども」(出典:俳諧・雑談集(1692)上)」
とある。万歳②は、
「② 千秋万歳をことほぐ意で、新年を祝う歌舞。また、その歌舞をする者。鎌倉初期以来宮中に参入するものを千秋万歳(せんずまんざい)と呼び、織豊・徳川の頃には単に万歳(まんざい)と呼んだ。江戸時代、関東へ来るものは三河国から出るので三河万歳、京都へは大和国から出るので大和万歳といい、服装は、初めは折烏帽子(おりえぼし)・素袍(すおう)であったが、後には風折(かざおり)烏帽子に大紋(だいもん)の直垂(ひたたれ)をつけ、腰鼓(こしつづみ)を打ちながら賀詞を歌って舞い歩いた。《 季語・新年 》」
とある。千秋萬歳の角付け芸で用いるようなものだから、そんな立派なものではなく、赤い扇に萬歳と書いてあったりする。
「萬歳扇に名をはるやうにて」というのは、一時もてはやされてもすぐに消えてしまうようなという意味で、先に出てきた白炭の忠知(神野忠知)などもその類であろう。
今の芸能人や芸人は一発屋でも地道に長く活動する人が多いが、昭和の頃は売れるとのぼせ上ってすぐに身を持ち崩して悲惨な最期を遂げる人も多かった。
有名な句はあってもしっかりと実力に裏付けられた基礎がないなら、一発屋に終わって、句は残っても作者の名は「誰だっけ」になったりする。
これに対して持扇(もちおうぎ)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「持扇」の意味・読み・例文・類語」に、
「〘 名詞 〙 所持している扇。特に、陣中で持つ扇の称。もちせんす。
[初出の実例]「よろしき付句をいたされし時は、座中肝にめいじ、我をおぼえず同音に誉て、持扇(モチアフギ)のはしに書付」(出典:浮世草子・西鶴織留(1694)三)」
とある。これは地味で、目だったヒット作がなくても地道な努力をするということだろう。こうした努力はいつか実を結んで、自然と多くの人に評価され、句の主となってゆくのが望ましい。
芭蕉も延宝の頃はまだ並みの作者の中の一人で、「枯枝に烏のとまりたるや秋の暮」の句でようやく世間の注目も集めるようになり、古池の句で一気に大ブレイクした。
これに対して、其角は果たして句の主というほどのヒット作があっただろうか、ということになる。百年以上の後の竹内玄玄一の『俳家奇人談』でも其角の人柄やエピソードの方に多くが割かれていて、この一句を以てというようなものがなかったようだ。自分自身への戒めだったのかもしれない。
「すべてありていなる句にて秀逸なるは妙を得し上手也」と凡庸で誰でも作りそうな題材や趣向であっても、その中で抜きんでることができれば、それは上手というものだ。その一つの例が、任口上人のこの句であろう。
大かたの月をもめでし七十二 西岸寺 任口
西岸寺の任口とあるのは、伊勢久居藩主藤堂高通の方の任口がいるからで、西岸寺の任口は伏見の任口で、芭蕉(当時は桃青)も参加した『六百番俳諧発句合』の判を務めた一人であり、『野ざらし紀行』の時にも訪ねて行っている。
七十二になるまでにいろいろな月を見てきた。何ということもない述懐で、七十二というのもただその時の年齢を言ったまでだろう。殊更技巧を凝らしたわけでもなければ目新しい趣向があるわけでもない。それでいて言葉穏やかに品が良く、確かな技術を感じさせる句だ。
なんか奇抜なことをやって句の主になろうと細工をしてみても、伊丹の上島鬼貫の一派の歳旦帖のようなものになる、と。
どういう歳旦帖だったのか読んでみたいが、歳旦帖はどんど焼きで燃やされることが多かったのか、この手のものは毎年大量に発行されたにもかかわらず残っているものは少ない。
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