今日の句会の句
疑うな煌めくものは葉も牡丹
凍月の粒子金銀降る夜かな
水仙は星蝋梅は月の露
それでは『雑談集』の続き。
「自性といふ題にて
安心の僧もかなしや秋のくれ 枳風
或る僧難して云ふ。
「安心の上に悲みなし。『かなしめ秋のくれ』といはば可叶」
と。
おもふに、『や』は休め字にてただ悲しと云へる句なれば、物我のへだてなく天地一己の自性を云へる句なり。花紅葉月雪ならばまのあたり成姿の心にふれて下知すべき句の体あり。お僧の心と俳諧の見いささかたがひある事ながらも迷悟の理は申すに及ぶまじくや。僧閉口。」(雑談集)
自性はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「自性」の意味・読み・例文・類語」に、
「〘 名詞 〙 仏語。物それ自体の独自の本性。本来の性質。本性。
[初出の実例]「又金剛頂経云。諸法本不生。自性離二言説一。清浄無二垢染一」(出典:即身成仏義(823‐824頃))
「仮に自性を変化して、一念化生の鬼女となって」(出典:謡曲・山姥(1430頃))
[その他の文献]〔金剛頂経‐上〕」
とある。
「秋のくれ」は自ずと悲しいもので、物それ自体の性だから、悲しみなど超越したような安心の僧であっても悲しくなる。
心なき身にもあわれは知られけり
鴫たつ沢の秋の夕暮れ
西行法師
の心だろう。
ある僧が難じて言うには、安心した僧に悲しみなんてものはないけど、秋の暮なんだから悲しんでくれという句にした方がいいとのこと。
其角が思うには、「悲しや」の「や」は治定の「や」で、「安心の僧だって秋の暮はかなしい」という意味の句だが、僧の方は反語に取って「安心の僧は悲しむか、悲しむわけのない秋の暮」と取ったのではないかと。それだと悲しくなくても秋の暮の物自体の本性を感じて悲しんでくれと直したというのもわかる。
「や」が疑問か治定かの議論は許六と去来の間にもあって、許六の『俳諧問答』にも記されている。当時治定の「や」に違和感を感じて、疑問に取りたがる人も多かったのだろう。地域差もあったのかもしれない。
治定の「や」は近代では詠嘆というふうに解され、疑問の意味に取ることがほとんどなくなって行く。「や」が詠嘆に解されるようになったのは、思うに関西方言の「や」の影響だろう。
両者の見解の違いが単なる「や」の意味の取り違えにすぎないとわかれば、「迷悟の理は申すに及ぶまじくや」ということになる。秋の暮は悟りを開いた僧であっても悲しい。それは「秋の暮」の自性だからだ、ということで両者納得ということになる。
『去来抄』にも、
「夕ぐれハ鐘をちからや寺の秋 風国
此句初ハ晩鐘のさびしからぬといふ句也。句ハ忘れたり。風国曰、頃日山寺に晩鐘をきくに、曾てさびしからず。仍て作ス。去来曰、是殺風景也。山寺といひ、秋夕ト云、晩鐘と云、さびしき事の頂上也。しかるを一端游興騒動の内に聞て、さびしからずと云ハ一己の私也。国曰、此時此情有らバいかに。情有りとも作すまじきや。来曰、若情有らバ如何にも作セんト。今の句に直せり。勿論句勝ずといへども、本意を失ふ事ハあらじ。」((岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,37~38)
とある。先の僧の言い分も、秋の暮で悲しくなかったなら「悲しめ」と作ると良い、というものだ。それだと本意本情は守られる。
秋の暮が悲しいのは単に主観的なものではなく、様々に文化が違ってもある程度普遍的に見られる現象で、だから物自体に具わった性質があると考えるのもそんな不自然なものではない。
例えば人間の脳はあらゆるものに顔面を見出そうとする性質があって、壁の染みや木の木目、岩に日の当たった時の影が顔に見えたりするし、車のフロントのデザインにも容易に顔を見出す。
同じように、生を喜び死を悲しむ感情は、あらゆるものに拡張される傾向があるのではないかと思う。いわゆる共感というのは、人の命以外にも容易に拡大されてゆく。
万物に生死を見出すというのは単なる個人の主観ではなく、普遍的に見られるもので、何らかの生得的な基礎があるのではないかと思う。生き物が死ぬのが悲しいのはもちろんのこと、草木が枯れるのも悲しくなるし、それはさらに花が咲くのを喜び散るのを悲しみ、芽吹くのを喜び枯葉の落ちるのを悲しむことにつながって行く。
一日のリズムとしても日が昇るのを喜び日が沈むのを悲しみ、一年のリズムとしても春を喜び、秋を悲しむ。こうした感情は普遍性を持っている。この普遍性こそが風雅の誠の基礎になっていると言って良い。
近代西洋哲学の霊肉二元論の主客図式だと、人の感情は霊魂の自由によるものだから、物によって拘束されるものではないということで、秋の暮が悲しくなるのは単なる気のせいで、悲しくない秋の暮の句があってもいいじゃないかということにもなる。
科学的に見るなら霊魂というのもまた肉体の遺伝的資質が作り出すものに過ぎず、人の感情は決して自由にコントロールできるものではないし、まして勝手に作り出したり改変したりできるものではない。むしろこうした肉体的要因を意図的に無視することは、理性の暴走を生み出す元になる。
つまり理性的であることはどんな生理的感情に反する醜悪なことでも成し遂げられる。ナチの虐殺なども良い例だ。誰でも昨日まで一緒に生活してきた隣人をガス室に送るなんてことを快く思うはずがない。それが出来てしまうのは「思想」によって「正しい」と信じ込んでしまう「汝なすべき」の実践理性のせいだ。
我が国の風流の道は「思想」によるものではない。人間の自然な感情に基づくものだ。花の咲くのを喜び散るのを悲しむ、春の始まりを喜び秋の暮てゆくのを悲しむ、それが風雅の誠だ。
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