では『雑談集』の続き。
「双六な世のさいたんやあふ目出た
など聞くもうとましき堀句する世には何にたとへんと思ひ定めし死活の境未来記なり。
歳旦を我も我もといたしけり 春澄
皆人は蛍を火しやといはれけり 仝
と自暴自棄の見におちて云ふべき句も放散し、人の句も心にいらで朽廃れにけるはいかに。松のはのちり正木のかつらなどたとへ置かれし聖作にそむける俳諧の罪人これらなるべし。
かくいへば名利の境に落ち侍れどもたたともか名のとどまるにつけても俳諧の信おこたるべからず。」(雑談集)
歳旦の句は俳諧師たちがこぞって毎年歳旦帖を出すため、それを十年二十年続けるとなるとネタ切れになるのも仕方ない。『三冊子』にも、
「としの松、年の何、などゝ近年は歳旦に用る事あり。いかゞとたづね侍れば、師のいはく、達人のわざにあらず、論に不及と也。
去年今年春季也。當年といふ事も季に心をなさば成べしと也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.136)
というように、ネタに困ってか何でも「年の」を付けて無理やり歳旦にするようなこともあったのだろう。「論に不及」つまり論外だということ。
双六の句の作者はここには書いてないが、「さいたん」とひらがなで書くときは大抵掛詞というか駄洒落で、「歳旦」と「サイコロ」を掛けているのだろう。サイコロだから「合う目」が出た、「目出度い」というわけだ。
「堀句」は「発句」をもじって、墓穴を掘ったような句という揶揄を込めての当て字だろうか。
「死活の境」は囲碁用語で、生きてるのかどうかも怪しい、発句と言えるかどうかの境目という所だろうか。
「未来記」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「未来記」の意味・読み・例文・類語」に、
「① 未来の出来事を予言もしくは空想して書いた書物。聖徳太子に仮託されたものが名高く、終末論的な内容のものが多い。
[初出の実例]「聖徳太子の未来記にも、けふのことこそゆかしけれ」(出典:平家物語(13C前)八)
② 転じて、予言。
[初出の実例]「以前の搦手をからめ返し、せばめし者を随ゆべしとの未来記を、遂給ふ者也」(出典:ぎやどぺかどる(1599)上)
③ ( [ 二 ]から転じて ) 和歌・連歌などで、表現や趣向をこらしすぎて不自然になったものをいう。
[初出の実例]「首尾のかけあはぬ事のみ体に成侍べしと、戒め給ふ、未来記と申也」(出典:砌塵抄(1455頃))」
とある。この場合は③の意味。
春澄の歳旦と蛍の二句も自暴自棄、いわば「やけくそ」というやつで、ネタがない所でそれでもどうしても作らねばと苦し紛れで捻り出した感がある。
確かに俳諧師はみんな歳旦帖を出すから、「我も我も」ではある。まあ、春澄さんもその一人だが。
蛍の句の方は「火しや」は火車のことか。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「火車」の意味・読み・例文・類語」に、
「① 仏語。火の燃えている車。生前、悪事を犯した罪人を乗せて地獄に運ぶという。また、地獄で罪人を乗せて責める火の車。」
とある。
蛍は身を焦す恋心などにもよく喩えられるが、そういう煩悩の火という意味で「火しや」ということか。自分の心を喩えるならまだしも、いかにも他人事のように言うのが何とも言えない。
「松のはのちり正木のかつら」は
をしほやまゆふしも白き松の葉の
ちりも幾夜の年つもるらむ
行能(夫木抄)
松に這ふ正木のかつら散りにけり
とやまの秋は風すさぶらむ
西行法師(新古今集)
だろうか。松の葉の散るは塵、つまり煩悩の積ると掛詞になり、それを西行はさらに松に絡みついた正木かづらの煩悩の散る=塵に掛けて、無情の秋風に仏の救いを求める寓意を持たせている。「聖作」は御製の意味もあるが、ここでは神のような作品ということで、今でいう神に近い言い回しということでいいのだろう。
こうした古人の高度な掛詞の技法を、双六の目の目出たいなどといういかにも俗っぽい、いわゆる駄洒落にしてしまってるのは、いくら俳諧が笑いを追求するものだとは言っても、ちょっと違う。「聖作にそむける俳諧の罪人」というわけだ。
「ば名利の境に落ち侍れども」というのは俳諧師としてのルーティンを優先させてということなのだろう。とはいえ、結局駄作をばら撒けばその名も落すことになりそうなものだが。「たたともか名のとどまる」はよくわからない。名を留めるということか。
「俳諧の信」は「俳諧のまこと」であろう。それに反するということだ。これは春澄のことだけでなく、その前の忠知の素行の悪さも含めてのことであろう。
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