それでは『雑談集』の続き。
「鉄砲と云ふ名のをかしければ句作に成りがたくて能く前句にも付け分ずして案ずるに、太巓和尚の百題詩に
人間辜負悲猿境。
辛苦管中多少泪。
と作られたり。是れは伊豆の山にて猟師の猿をみつけて鉄砲を取上げたるに哀猿断腸の声を出して叫びたるを即興の詩なるよし仰せられけり。辛苦管といへば則ち鉄砲ときこゆるにや。俳諧にてはかかる自由には手のとどくべからず思はれ侍る也。
又かしは餅と云ふ名の面白からねば之を十七字にゆるめていかにとて初懐紙、
餅作るならの廣葉をうち合せ
と、これほどには句作りぬれども鉄砲と云ひてよき句作には及ぶまじくや。されば句ほど作りよくて捌けにくきものはなし。定家卿のうす花櫻などいへるためしもありがたくこそ侍れ。」(雑談集)
辜は「つみ」と読む。「多少」は花落知多少と同じだ沢山という意味。
『雑談集』は元禄四年刊なので、元禄三年刊珍碩編の『ひさご』に、
城下
鐵砲の遠音に曇る卯月哉 野徑
の句は知っていたのだろう。ここでは鉄砲という俗語の響きを嫌って、大顛和尚が「辛苦管中」と鉄砲を管の字で表したような言い換えの言葉のことを言っているのではないかと思われる。柏餅を「餅作るならの廣葉をうち合せ」というような、別の言葉でということなのだろう。
この句は貞享三年正月に其角門芭蕉門の十八人の連衆による百韻の五十九句目で、
親と碁をうつ昼のつれづれ
餅作る奈良の広葉を打合セ 枳風
の句だ。奈良と楢を掛けた句で、柏餅の葉はナラガシワの葉で代用することもあったようだ。この百韻の発句は、
日の春をさすがに鶴の歩ミ哉 其角
だった。
柏餅は元禄二年の「水仙は」の巻十三句目にも、
餅そなへ置く名月の空
はらはらと葉広柏の露のをと 泉川
の句がある。
鉄砲に関しては翌年の元禄五年刊支考編『葛の松原』にも、
「晋子も鉄砲といふ名のいひ難しとて千々にこころはくだきけるや。おなじ集に品かはるといふ怠の論は微細のところかくぞ心をとどめけむ。殊勝の心ざしいとうらやまし。晋子が語路おほむね酒盃に渡れりといふ人あるに宋ノ泊宅編にハ白氏が二千八百言飲酒の詩九百首なりと答へ侍るといへど晋子が性人にまぎれぬは楽天か。飲酒はなをかぎり有けれとて用の事かたづけ侍りぬ。」
とある。
なお、いつ頃の句かわからないが、其角には、
鉄砲のそれとひびくやふぐと汁 其角(五元集拾遺)
の句がある。フグのことを鉄砲と呼ぶのはこの句に起源があるのかもしれない。
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