今日は白笹稲荷神社の骨董市に行った。
それでは『雑談集』の続き。
「定家卿のうす花櫻」は不明。薄花桜は薄紅の桜で襲(かさね)の色目にもなっている。
くれなゐの薄花ざくらにほはずは
みな白雲とみてや過ぎまし
康資王母(詞花集)
くれなゐに薄花ざくらほのほのと
朝日いざよふをはつせの山
藤原家隆(壬二集)
などの歌がある。
「いせの蜑の貝とるにはおのが子を舟にのせてをとこにこがせて出る也。さて、かづきに入りて程へぬれば、その子の乳を乞ひて泣く声の底に聞ゆるに、やがてうかみてからき息をも吹きあへず舷に手をかけて乳房さし入れてはごくみける。此有様まことに仁心の発動せる所なれども、一句に云とることのかたき也と、翁の雑談を承りそれは露沾公にて、
うき草をつかねて枕さだめけり
と云ふに、
蜑の子なれば舟に乳をのむ
と付けたれども、三才図彙の絵などみるやうにて、さのみ一句の感賞にも及ばず成りにけり。付句は殊更時の宜しきをうかがひぬべし。」(雑談集)
芭蕉が語った話として、伊勢の海女が貝を取りに行く時に我が乳飲み子を舟に乗せて、男(夫であろう)に舟を漕がせて海に出たが、潜って作業しているうちにその子供がおっぱいが欲しいと泣き出してその声が聞こえたので、急いで船の元に行き、船べりを掴んで浮いた状態でおっぱいを飲ませるのを見て、これこそ母の愛と感動したけど句にはできなかったという。
それを聞いた岩城平藩の大名風虎の次男の内藤露沾が、
うき草をつかねて枕さだめけり
という句(これは発句ではなく付け句だろう)が出た時にすかさず、
うき草をつかねて枕さだめけり
蜑の子なれば舟に乳をのむ 其角
の句を付けたという。発句には難しいけど、付け句には格好のネタだったというわけだ。
前句の「うき草」を海女の小船の比喩として、海女の子が船の上で乳を飲むように、旅人もまた海女の家に厄介になるという、在原行平の面影であろう。
まあ、ここで得意にならずに、「さのみ一句の感賞にも及ばず」と謙虚だが、付け句はいろいろネタを貯め込んで、ここぞという時にそれを出すのが大事だという話でまとめている。
これはいわゆる手帳とは違う。手帳はあらかじめ句の形にまで作っておくことでで、句の形にせずに、こういうのが面白いといわゆるネタ帳に記しておくくらいは俳諧師なら誰しもやっていることだろう。
「三才図彙の絵などみるやうにて」というのは絵に描いたような外ずらをなぞっただけのもので、情が籠もってないということか。
「三才図彙」は寛文六年の序文を持つ『訓蒙図彙』のことだろうか。中国の万暦三五年(一六〇七年)の『三才図会』が元になっている。『和漢三才図会』は正徳二年(一七一二年)なので、この頃はまだない。様々な言葉を絵で説明した本で、他にも類似する本があったのかもしれない。
「宮守が油さけ行く小夜更けて
と言ふ句を付け合せられければ、熱田の宮のいまだ造営なかりし年にて、人々の心も神さびたる折ふしにかなひて、皆俳諧の眼を付かへしは冬の日といふ五歌仙にてひびらき侍り、
伊勢にまうでける年遷宮の良材ども拝みて
大工たちの久しき顔や神の秋 其角
次のとし宮うつしに
たふとさに皆押あひぬ御遷宮 翁」(雑談集)
宮守の句は、
蜑の子なれば舟に乳をのむ
宮守が油さけ行く小夜更けて 芭蕉
の付け句が存在してたということか。海女の子が乳を飲ませる頃、陸では宮守が灯籠の油を指しにゆくと、相対付けで神祇に転じるのはいかにもそれっぽい。
ネット上の米谷巌さんの「『野ざらし紀行』における風狂者の造型」によると、
「芭蕉を野ざらしの旅に招請した大垣の木因は、さらに伊勢・尾張の知友に芭蕉を紹介すべく案内する途中、伊勢の国の多度権現に参拝したが、その時のことを周知のように俳文「句商人」(『桜下文集』所収)に次のように記している。
伊勢の国多度権現のいます清き拝殿の落書き。武州深川の隠泊船堂芭蕉翁、濃州大垣観水軒のあるじ谷木因、勢尾廻国の句商人、四季折々の句、召れ候へ。
伊勢人の発句すくはん落葉川 木因
右の落書をいとふのこころ
宮守よわが名をちらせ木葉川 桃青」
これは貞享元年の秋の終わりに木因の家に辿り着いて、
しにもせぬ旅寝の果よ秋の暮 芭蕉
のあと、桑名本統寺へ行く途中、多度権現に参拝した時に、木因の上記の句の落書きを見つけて答えたもので、伊勢人は貞門時代の盲目の俳人として一世を風靡した望一の、
山口も紅を差したる紅葉哉 望一
を踏まえていた。自分も望一のように有名になりたいということで、芭蕉はそれに更に対抗意識を燃やしたか、
宮守よわが名をちらせ木葉川 桃青
と、望一よりも有名になりたいと答えた。
この句と「宮守が油さけ行く小夜更けて」を重ねているのかもしれない。
このあと尾張に戻るとあの『冬の日』の五歌仙を巻くことになる。この年はまだ熱田神宮は改修前で荒れ果てていて、
しのぶさへ枯て餅かふやどり哉 芭蕉
の句を『野ざらし紀行』に記している。
このあと、年が変わって三月の終わりに熱田で興行した時に、「つくづくと」の巻三十五句目で、
入日の跡の星二ッ三ッ
宮守が油さげつも花の奥 芭蕉
の句を付けている。
その後に記されている、
「伊勢にまうでける年遷宮の良材ども拝みて
大工たちの久しき顔や神の秋 其角
次のとし宮うつしに
たふとさに皆押あひぬ御遷宮 翁」
は貞享五年に其角が伊勢に行った時の句であろう。
其角は芭蕉が貞享五年九月に『笈の小文』旅から戻ると、入れ替わるように上方方面に旅に出る。この時に伊勢へ行ったのであろう。
貞享九年は九月三十日に元禄元年に改元され、翌元禄二年は芭蕉が『奥の細道』の旅に出て、
蛤のふたみにわかれ行秋ぞ 芭蕉
のあとの伊勢参宮で、「たふとさに」の句を詠んでいる。
なお、「ふたみにわかれ」は芭蕉と曾良が伊勢に向かい、路通・越人と別れる時の句だった。曾良は伊勢に同行し、この日のために髪を伸ばして内宮にも参宮し、さぞかし感激したことだろう。外宮の押し合いへし合いに辟易してた芭蕉さんとの落差が感じられる。
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