2025年1月17日金曜日

 今日は大井町の水仙を見に行った。富士山は雲に隠れて寒かった。

 それでは『雑談集』の続き。

 「発句と付句との分別はきはめて物数寄あるべし。

 鼻紙を扇につかふ女かな     信徳

 是れは盃ほしかぬるかなど云ふ句に付る句也。もと付合の道具なるを珍しとおもへるは未練なるべし。

 河舟やみよしかくるる蘆のはな  亀翁

 これは水辺に付合の句なるを一句に優ありとて発句になほせし也。蘆間かくれに乗り越す舟工夫に落ちずして響たしか也。趣向にかかはる人はすべて発句成りがたし。風景をしる人思ひ出多し。此比信徳が文に此方などは例の発句下手にて、一句もえ申さずと卑下ながらに、

 名月よ今宵生るる子もあらん   徳

 いざよひの空や人の世の中といへる観念か是は今年就中膓先断と白氏の年を悲しみける心にもかなひて、信徳が老の誠なるべし。」(雑談集)

 「物数寄」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「物好き」の意味・読み・例文・類語」に、

 「① 物事に特別の趣向を凝らすこと。風流なおもむきを好むこと。また、そのようなものや人。そのようなさま。すき。〔文明本節用集(室町中)〕
  [初出の実例]「物数奇(モノズキ)な座敷へ通され」(出典:夜明け前(1932‐35)〈島崎藤村〉第一部)
  ② 好み。趣味。
  [初出の実例]「夫はそなたの物好が能らう」(出典:虎寛本狂言・棒縛(室町末‐近世初))
  ③ 好奇心が強いこと。また、そのような人や、さま。〔日葡辞書(1603‐04)〕
  [初出の実例]「いやしき物好にもあらず、いろなる心にもあらねど」(出典:文づかひ(1891)〈森鴎外〉)
  ④ 普通と違った物事を好むこと。風変わりなものを好むこと。好事(こうず)。また、そのような人やさま。
  [初出の実例]「長安にものすきで有程に民間に散落した石どもを買てとりて」(出典:四河入海(17C前)九)
  「物好(スキ)や匂はぬ草にとまる蝶〈芭蕉〉」(出典:俳諧・都曲(1690)上)」

とある。①は近代の意味で、当時は④の意味。一般的な趣味というよりは一部の人に好まれるということで、近代の口語でも「物好きだなあ」とか言えば、揶揄するニュアンスがある。「オタ」に近いかもしれないが、様々な趣味の文化が広まるのは江戸後期のことで、元禄の頃は遊郭や芝居や、その時々の流行を追い求めるようなことを言ったとすれば、むしろ「ミーハー」の方に近いのかもしれない。
 『去来抄』「修行教」にも、

 「去来曰、不易の句は俳諧の体にして、いまだ一の物数寄なき句也。一時の物数寄なきゆへに古今に叶へり。譬へば
 月に柄をさしたらばよき団哉   宗鑑
 是は是はとばかり花のよしの山  貞室
 秋の風伊勢の墓原猶凄なほすごし 芭蕉
是等の類也。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,62)

とあり、月を団扇に見立てるのは物数寄の内には入らないとしている。
 これに対して、

 「去来曰、流行の句は己に一ツの物数寄有て時行也。形容衣裳器物に至る迄、時々のはやりあるがごとし。 譬へば
 むすやうに夏のこしきの暑哉
此句体久しく流行す。
 あれは松にてこそ候へ枝の雪   松下
 海老肥て野老痩たるも友ならん  常矩
或は手をこめ、或は歌書の詞づかひ、又は謡の詞とりなどを物ずきしたる有り。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,62~63)

 鼻紙を扇につかふ女かな     信徳

の句は延鼻紙のことか。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「延鼻紙」の意味・読み・例文・類語」に、

 「〘 名詞 〙 延べ紙の鼻紙。江戸時代、ぜいたくな鼻紙として、遊女などの閨紙に用いられた。のべの紙。のべの鼻紙。
  [初出の実例]「犢鼻褌(ふんどし)百筋、のべ鼻紙(ハナガミ)九百丸〈略〉其外色々品々の責道具をととのえ」(出典:浮世草子・好色一代男(1682)八)」

とある。goo辞書の「デジタル大辞泉(小学館)」には、

 「のべ‐がみ【延(べ)紙】 の解説
 縦7寸(約21センチ)、横9寸(約27センチ)ほどの小形の杉原紙 (すぎわらがみ) 。江戸時代、高級な鼻紙として用いた。延べ。」

とある。厚手の杉原紙でこの大きさなら扇の代りになったのだろう。扇ぐというよりは顔や口元を隠したりするのに用いたのかもしれない。扇で顔を隠す仕草は中世の頃から絵などでよく見られる。
 「是れは盃ほしかぬるかなど云ふ句に付る句也。」とあるように遊郭で酒を酌み交わす時に口元を隠したりしたか。
 「付合の道具」という言葉があるが、この反対は「発句道具」であろう。この頃の俳諧では発句に相応しい言葉と付け合い程度に出す分には構わない言葉というのが暗黙の裡に区別されていたようだ。許六の『俳諧問答』にも、

 「一、いつぞや、『こんやの窓のしぐれ』と云事をいひて、手染の窓と作例の論あり。略ス。其後二年斗ありて、正秀三ッ物の第三ニ『なの花ニこんやの窓』といふ事を仕たり。此男も、こんやの窓ハ見付たりとおもひて過ぬ。
 予閑ニ発明するに、発句道具・平句道具・第三道具あり。正秀が眼、慥也。
 予こんやの窓ニ血脈ある事ハしれ共、発句の道具と見あやまりたる所あり。正秀、なの花を結びて第三とす。是、平句道具ニして、発句の器なし。こんやの窓に、なの花よし。又暮かかる時雨もよし、初雪もよし。かげろふに、とかげ・蛇もよし。五月雨に、なめくぢり・かたつぶりもよし。かやうに一風づつ味を持て動くものハ、是平句道具也。
 発句の道具ハ一切動かぬもの也。慥ニ決定し置ぬ。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.163~164)

 「予閑ニ発明するに、発句道具・平句道具・第三道具あり。」というのも、いきなり発明したのではなく、暗黙にそういうことが言われてたのを明確にしたと見て良い。
 この句別も何か法則があるというよりは、発句に相応しい情緒のある、いわばエモい題材で、そうでない普通の題材は平句道具、あるいは「付合の道具」で、鼻紙などというのもその類ということになる。

 河舟やみよしかくるる蘆のはな  亀翁

 この句の場合は元は付け句でも「河舟」に「芦の花」は発句に相応しい風情がある。「蘆間かくれに乗り越す舟工夫に落ちずして響たしか也。」だ。
 信徳の、

 名月よ今宵生るる子もあらん   信徳

の句は、信徳の名誉回復のために紹介したか。
 「今年就中膓先断」は『和漢朗詠集』の、

 「今年異例腸先断。不是蝉悲客意悲。
 聞新蝉 菅原道真」

のことか。「就中腸斷」は、

   暮立     白居易
 黃昏獨立佛堂前 滿地槐花滿樹蟬
 大抵四時心總苦 就中腸斷是秋天

の句があり、ごっちゃになった感じがする。蝉の声の哀しさに断腸の思いだという所は共通している。
 信徳の句は、名月に今宵生まれる子もあるというのに、それに引き換え自分は年老いて死に向かっている、という心か。

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