それでは『雑談集』の続き。
「去る比品かはる恋といふ句に
百夜か中に雪の少将
といふ句を付けて忍の字の心をふかく取りたるよと自讃申しけるに、猿蓑の歌仙に品かはりたる恋をしてといふ句に、
うき世のはては皆小町なり
と翁の句聞えければ、此句の錆やう作の外をはなれて日々の変にかけ時の間の人情にうつりて、しかも翁の衰病につかはれし境界にかなへる所、誠おろそかならず。少将と云へる句は予が血気に合ぬれば、句のふりもさかしく聞え侍るにや。此口癖いかに愈しぬべき。」(雑談集)
前に支考の『葛の松原』を読んだ時にも、
「晋子も鉄砲といふ名のいひ難しとて千々にこころはくだきけるや。おなじ集に品かはるといふ怠の論は微細のところかくぞ心をとどめけむ。殊勝の心ざしいとうらやまし。」(葛の松原)
という文章が出てきたので、そのときに、「『少将』は小町の所に百夜通いをした『深草の少将』のことで、百夜通えばその中には雪の日もあっただろうということか。芭蕉が年老いていった小町の末路に思いを馳せるのに対し、其角は小町の元に通う少将の方へ目が行ってしまった。」と記した。
芭蕉の句の場合は、
いのち嬉しき撰集のさた
さまざまに品かはりたる恋をして 凡兆
と勅撰集の選者の立場に立って、様々な恋句の分類を「品かはりたる恋」としたもので、『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)にも、
「歌集ニハ恋之部ニ、逢ヒテ別ルル恋、不逢別恋、経年恋、待恋、後朝ナドサマザマアレバ、其そのヒビキヲ付つケタリ」
とある。それを芭蕉は小野小町ならこのすべての恋を経験して年老いて卒塔婆小町のようになり果てていったことに思いを馳せている。
其角の場合打越の句がわからないからよくわからないが、前句の「品」のいろいろある中の「忍ぶ恋」に限定して付けて、百夜通いに行き着いたように思える。
雨の日も雪の日も通い続けた深草の少将にも深い情があるし、其角が自讃するだけあって悪い句ではない。ただ「品かはりたる恋」を一人の好色の人生として捉えて、華々しく浮名を流しながらも人はいずれ年老いて行く運命に逆らえないと、これは芭蕉の得意とするテーマでもあった。
『奥の細道』の末の松山のくだりの、
「末の松山は寺を造つくりて末松山まつしょうざんといふ。松のあひあひ皆墓はらにて、はねをかはし枝をつらぬる契ちぎりの末も、終つひにはかくのごときと悲しさも増まさりて、塩がまの浦に入相いりあひのかねを聞きく。」
なども、末の松山がどんな大津波でも越すことができなかったように君を愛し続けるという誓いも、結局老いには勝てず、いつか墓場の中に消えてゆくというこういう発想は、確かに芭蕉ならではのものだ。
『野ざらし紀行』の、
辛崎の松は花より朧にて 芭蕉
の句にしても、元の案に、
辛崎の松は小町が身の朧
があったことが『鎌倉海道』(千梅編、享保十年刊)にそのことが記されているという。これも辛崎の松の待ち続けているうちに卒塔婆小町のように老いぼれた姿になってゆく、その身の朧に春霞の松の木を重ねたものだったようだ。
芭蕉からすれば、「うき世のはては皆小町なり」はその意味ではごく自然な発想で出てきたのだろう。この自然さこそが其角の羨む所で、様々な品の恋の中から忍ぶ恋を選び出して深草の少将の百夜通いに至り、そこに雪を添えて過酷な忍ぶ恋を演出した其角は、確かに捻り出した感がぬぐい切れない。
「予が血気に合ぬれば、句のふりもさかしく聞え侍るにや。此口癖いかに愈しぬべき。」
はそういう意味での反省だったのだと思う。
これは本意本情だとか風雅の誠だとかいうのが知識として知っているのではなく、普段の人生の観想の中ですっかり身に付いて、吐く言葉吐く言葉が自然に風雅の誠にかなうからこそできることだ。
知識で捻り出す其角に対し、芭蕉の句はその生き様そのものであり、そこには大きな溝があったと言えよう。修行や学習を越えた、それは「悟り」と言っても良い。
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