雲は蛇呑みこむ月の蛙かな 松永貞徳
貞門の時代は俳号ではなく名字と名乗りで記すことが多かった。『佐夜中山集』では、芭蕉は松尾宗房、これから『雑談集』に出て来る忠知も神野忠知と表記されている。
では『雑談集』の続き。
「家を売りたるふち瀬にとは盛衰の至誠をよまれたり。負物いたく成りぬれば風雅なりとて主人ゆるさず。されば白炭と聞えし忠知が、
霜月やあるはなき身の影法師
と辞世して腹切りける。いかにせまりたる浮世にはなりけん哀れなり。かの佐木をさへ忠知が子なりといへば人も憐み見かはしけり。五十年来の俳諧の正風をそえいれるもの獨なり。
元日や何にたとへん朝ぼらけ 忠知」(雑談集)
忠知は神野忠知でコトバンクの「デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「神野忠知」の解説」に、
「1625-1676 江戸時代前期の俳人。
寛永2年生まれ。江戸の人。井坂(井上)春清(しゅんせい)の門人。「白炭ややかぬむかしの雪の枝」の句により白炭の忠知とよばれた。延宝4年11月27日自刃(じじん)したという。52歳。通称は長三郎,長右衛門。号は沾木子(せんぼくし)。」
とある。
竹内玄玄一の『俳家奇人談』(1816年刊)にも、
「神野忠知は江戸の人、俗称長三郎、承応の頃、井坂春清が俳諧をまなぶ。
元日や何にたとへん朝ぼらけ
何心つかぬに土手の菫かな
また、
白炭ややかぬ昔の雪の枝
この秀詠より白炭の忠知と嘆美せらる。其角が雑談集に曰く、白炭を聞えし忠知が、
霜月やあるはなき身の影法師
と、辞世して腹切りける。いかに浮世とは言ひながら哀れなりと。」(『俳家奇人談・続俳家奇人談』竹内玄玄一著、雲英末雄校注、1987,岩波文庫p.53)
とある。
白炭の句で一世を風靡したようだが、その後忘れ去られてしまったか、『俳家奇人談』も其角の情報をなぞってるだけだ。雑談集に「家を売りたる」「負物いたく成りぬれば」とあることから、借金をこさえて家を売り払って、「主人ゆるさず」は勘当されたということか。
いかに俳諧の才能があっても私生活がだらしなければ身が持たないという戒めなのだろう。
白炭は風虎主催、任口、季吟、維舟判の延宝五年(一六七七年)『六百番俳諧発句合』も、
白炭や彼うら島が老のはこ 桃青
の句を詠んでいる。黒く焼いた炭に灰をかけて表面を白したもので、
白炭ややかぬ昔の雪の枝 忠知
の句も、古くなって使い古され黒ずんだ杖に雪がかかって、まるで白炭みたいだというもの。「やかぬ昔の雪の杖は白炭や」の倒置。松江重頼編寛文4年(1664)刊の『佐夜中山集』にある。
菫の句は荷兮編元禄二年刊の『阿羅野』に、
暮春
何の気もつかぬに土手の菫哉 忠知
とある。貞享二年春の、
山路来て何やらゆかしすみれ草 芭蕉
の句に先行する句ということもあって再評価され、ここに掲載されたか。
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