それでは『雑談集』の続き。
「寝られぬ夜思ひ出せし句を書きとめて朝になりて吟じ返してみれば、句のふりも聊かかはりて心もたがひあるやうに覚えぬるに、陰気陽気の間か、句の浮沈おぼつかなし。荘子に陽の字を喜陰の字を怒と訓ぜしも一気のはこびなるべし。
夜
九たび起きても月の七ツ哉 翁
ほととぎす我や鼠にひかれけん 角
旦
起き起きの心うこがしかきつばた 仙花
七くさやあとにうかるる朝烏 角
昼
鳩吹や太山は暗き昼下り 粛山
白雨の日にすかさるるくもり哉 揚水
暮
やり羽子に長ばかりの日暮哉 亀翁
日は没とくれぬは梅の木曲哉 柏舟
物おもへどは誰をしへけんとよまれし夕べ夕べの思ひせめて哀れふかし。起て今朝また何事をいとなまんとよみし朝鳥の動静にかけて句ことの起点をはたらきぬべし。」(雑談集)
九たび起きても月の七ツ哉 芭蕉
の句は『泊船集』では元禄四年として「旅寝長夜」と前書きがある。
確かに「九たび」は「ここの旅」との掛詞で旅が隠されている。「七つ」は夜明け前の寅の刻で、「お江戸日本橋七つ発ち」なんて明治の頃の唄もある。芭蕉の旅でも急ぐ時には七ツ発ちをしたのだろう。『野ざらし紀行』の「残夢月遠し」のように。
元禄四年は閏八月があり、八月の十五夜、閏八月の十五夜ともに膳所で過ごして、
名月はふたつ過ぎても瀬田の月 芭蕉
の句を詠んでいる。九月の十三夜は之道・車庸とともに石山寺に詣でて、
橋桁の忍は月の名残り哉 芭蕉
の句を詠んでいる。『雑談集』の末尾に「元禄辛未歳内立春月筆」とあるから、この本は元禄四年の師走までに書き上げられたことになるので、元禄四年秋の句でもおかしくない。
この年の十一月二十九日には芭蕉は江戸に戻っているから、其角が眠れない夜にこの句を思い出したのも、それ以降のことであろう。とすると、十二月の満月の頃ということになる。
ただ、この年は十二月十八日が新暦の二月四日になるから、それだと脱稿間際ということになってしまう。
これと番わせている其角自身の句が時鳥の夏の句だから、芭蕉の句が元禄四年はちょっと無理があるように思える。元禄四年の夏の暑さで寝付けなかったころ、芭蕉の元禄三年以前の句を思い出したと考える方が自然なようにも思える。
元禄三年の名月も膳所で過ごし、盛大な月見会を催し、
名月や兒たち並ぶ堂の縁 芭蕉
名月や海にむかへば七小町 仝
月見する座にうつくしき貌もなし 仝
などの句を詠んでいる。
その前年の名月の前日、元禄二年の八月十四日は福井から敦賀への長い道のりを行くため、未明に出発したと思われる。
あさむつや月見の旅の明ばなれ 芭蕉
の句がある。同行が北枝から洞哉に変わり、洞哉も敦賀までということもあって、不安も多く、この夜眠れなかったことは十分考えられる。ここでの吟なら、後に曾良と再会した後曾良に伝え、その後江戸に持ち帰っていれば、其角も知ることとなっただろう。
まあ、これはあくまで推測で、それより以前の句の可能性もある。
其角の句の方は、
ほととぎす我や鼠にひかれけん 其角
で、当時の日本橋伊勢町で時鳥の声が聞こえることもあったのか。それとも夜中に聞いた鼠の声を時鳥に見立てたのか。
この日本橋伊勢町の其角の家は、そののち元禄十一年十二月十日の火災で類焼したが、その後も日本橋茅場町に居を構え、終生江戸の市街地に住み続けた。元禄十四年刊其角編の『焦尾琴』は新居で偏されたものだが、そこには「古麻恋句合」というまとまった猫をテーマにした発句合せがあるが、其角の猫好きも日本橋で常に鼠に悩まされていたこともあったのか。
潜上猫若ねこにかたりて曰
秋來鼠輩欺猫死 窺翁翻盆攪夜眠
聞道狸奴將數子 買魚穿柳聘銜蟬
(秋が来て鼠たちが猫が死んでこれ幸いと、
甕を窺いお盆をひっくり返し夜の眠りを攪乱す。
聞く所によると狸の奴に子どもが数匹いるというので、
魚を買い柳の枝に差して銜蟬を召喚す。)
という黄庭堅の「乞猫」という詩を掲げて、
「山谷カ猫ヲ乞フ詩也。猫死テ大勢ノ鼠ドモ秋ノ夜スガラアレマハルホドニ山谷ヲモアナヅリテ盆皿鉢ヲ打カヘシテ姦シクテネラレヌト也。サレバ猫ヲモラヒテ畜ントナリ。此比キケバ家ノ後園ニ狸共子ヲイツクモ産ミクルホドニ猫ガ居ルトシラバ一類ナレバ悦ビテ魚ヲ買テ柳ノ枝ニサシ貫ネテ人ノ如クニ禮聘シテ祝儀ヲ述ヌベシト也。䘖蟬トハ猫ノ異名也。花山院ノ御製ニモ
敷島のやまとにはあらぬから猫を
きみがためにと求め出たる」
と記している。
「古麻恋句合」は推測だが、火事の時に死んだ「こま」という猫への鎮魂歌だったのではないか。いつの時代もキャットロスは悲しいものだ。
「我や鼠にひかれけん」は時鳥ならぬ鼠の声を眠れない夜に聞くが、古人が時鳥に惹かれたように、われも鼠に惹かれるだろうか、ということだがこれは単なる疑問ではなく反語であろう。
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