芭蕉脇集。
貞享四年の句は多い。今日はまだその一部。
旅に出るといろいろな出会いがあるため、脇を詠む機会も増えるのだろう。
貞享四年
南窓一片春と云題に
久かたやこなれこなれと初雲雀 去来
旅なる友をさそひ越す春 芭蕉
去来は貞享三年の『蛙合』にも参加しているが、ここでは歌仙興行の発句を務めることになる。其角、嵐雪という江戸の蕉門の主要メンバーを交えてのことで、さぞかし緊張の一句だったのではないかと思う。
「南窓一片春」の句の出典はよくわからない。「南窓」は陶淵明『帰去来辞』の「倚南窗以寄傲、審容膝之易安」によるものか。去来の名前も「帰-去来」だし。隠士の窓に小さな春が、ということか。
「久方や」は枕詞だが、九天の彼方からというような意味合いがあるし、九天の方が久方になったという説もある。ここでは「空高く」というような意味。
「こなれ」は今では「こなれ感」とかいって「こなれた」「習熟した」という意味で用いられる。ファッションでは着慣れないものを着ているような違和感がない、というような感覚で用いられる。
「なれ」は本来は輪郭を失うことで、そこで隔たりがなくなることをいう。
ただ、ここでの「こなれ」は違うように思える。これは「こ・成れ」で、「このようになれ」という意味ではないかと思う。天高く空を飛ぶ雲雀が「来てみろよ」と誘っているのではないかと思う。
だから芭蕉の脇も「旅なる友をさそひ」となる。
前句の天高く飛ぶ雲雀は言わずと知れた芭蕉の比喩だが、芭蕉は逆にして旅で江戸に来ている去来を雲雀とし、この私を旅に誘っている、と受ける。
旅泊に年を越てよしのの花にこころせん事を申す
時は秋吉野をこめし旅のつと 露沾
雁をともねに雲風の月 芭蕉
前書きの「旅泊に年を越てよしのの花にこころせん事」は『笈の小文』の旅を指す。春に去来に誘われたせいか、芭蕉も再び関西方面を旅し、吉野の桜を見ようと思い立つ。
発句はまだ旅立ちではないけど、ちょっと早い餞別句になっている。「旅のつと」の中には露沾の用意したものも多々あった。『笈の小文』の本分に、
「時は冬よしのをこめん旅のつと
此の句は露沾公より下し給はらせ侍りけるを、はなむけの初として、旧友、親疎、門人等、あるは詩歌文章をもて訪ひ、或は草鞋の料を包みて志を見す。かの三月の糧を集るに力を入れず、紙布・綿小などいふもの、帽子・したうづやうのもの、心々に送りつどひて、霜雪の寒苦をいとふに心なし。あるは小船をうかべ、別墅にまうけし草庵に酒肴携へ来りて、行衛を祝し、名残をおしみなどするこそ、故ある人の首途するにも似たりと、いと物めかしく覚えられけれ。」
とある。「別墅にまうけし草庵に酒肴携へ来りて、行衛を祝し」がこの歌仙の興行になる。
この発句に芭蕉は、「雁をともねに雲風の月」と自分の旅に思いをめぐらすに留める。
江戸桜心かよはんいくしぐれ 濁子
薩埵の霜にかへりみる月 芭蕉
これも『笈の小文』の濁子からの餞別句で、半歌仙の興行が行われている。
これから何度に時雨に打たれても、吉野の桜は江戸の桜にも通うんだという発句に、きっと薩埵峠を越えるときには江戸の方を振り返って月を見ると思うよ、と答える。
薩埵峠で振り返れば、もちろん月だけでなく富士山の姿を間近に見ることができる。
2019年10月31日木曜日
2019年10月30日水曜日
豚コレラが日本でもじわじわと入ってきている。
中国では一億頭以上の豚が死んだともいわれている。イスラム教徒は正しかったのかもしれない。
二〇三〇年にはひょっとしたらオリンピックと豚肉は消えているのかもしれない。これも世の移ろいか。
それはともかく芭蕉脇集の続き。貞享三年の脇は少ない。ただ、そこには単なる寓意を込めた挨拶のやり取りから抜け出そうという意欲が感じられる。
貞享三年
深川は菫さく野も野分哉 風瀑
はるのはたけに鴻のあしあと 芭蕉
貞享三年春、深川芭蕉庵での芭蕉、風瀑、一晶、琴蔵、虚洞による五吟一巡(五句のみ)興行の脇。
発句の「野分」は本当に強い風が吹いていたのか、それとも、
芭蕉野分して盥に雨を聞く夜かな 芭蕉
を基にして、世に吹き荒れる芭蕉旋風を野分に喩えたか。
「ばしょうのわき」を変換しようとしたら「芭蕉の脇」になったが、それも掛けているのかもしれない。
芭蕉の脇は菫咲く野を春のまで作物を植えてない畑とし、そこにはコウノトリの足跡が付いている。コウノトリと鶴はしばしば混同されていて、ここでは風瀑をコウノトリに喩えたか。
風瀑は伊勢の人で『野ざらし紀行』の旅で伊勢を訪れた時に、「松葉屋風瀑が伊勢に有けるを尋ね音信て、十日計足をとどむ。」とあるようにお世話になっている。
その時の芭蕉の伊勢参宮は野分のさ中だったのか、
みそか月なし千とせの杉を抱あらし 芭蕉
と詠んでいる。その時の思い出もあってのやり取りであろう。芭蕉は嵐を呼ぶ男なのか。
夕照
蜻蛉の壁を抱ゆる西日かな 沾荷
潮落かかる芦の穂のうへ 芭蕉
貞享三年秋に興行されたと思われる、芭蕉、露沾、沾荷、嵐雪による四吟三歌仙の脇。
発句の「蜻蛉」はここでは「とんぼう」と読む。蜻蛉にとんぼ、あきつ、かげろうの三つの読み方がある事は、古文の受験勉強の時に習った。
発句は、
真萩散る庭の秋風身にしみて
夕日の影ぞかべに消え行く
永福門院(風雅集)
を本歌としたものか。壁は比喩で、一面の草原を壁に見立てている。
沾荷の発句はトンボがその草原を抱え込むかのようにトンボが留まっているとする。夕照の美しい景色に、トンボの足の仕草がよく捉えられているが、本歌が今となっては忘れ去られてしまったため、意味のとりにくい発句となってしまったのが残念だ。
芭蕉はその壁を葦原とし、海辺の風景とする。これはトンボ=秋津から秋津島=豊葦原の瑞穂の国を連想したか。深川芭蕉庵での興行であれば、海も近い。
中国では一億頭以上の豚が死んだともいわれている。イスラム教徒は正しかったのかもしれない。
二〇三〇年にはひょっとしたらオリンピックと豚肉は消えているのかもしれない。これも世の移ろいか。
それはともかく芭蕉脇集の続き。貞享三年の脇は少ない。ただ、そこには単なる寓意を込めた挨拶のやり取りから抜け出そうという意欲が感じられる。
貞享三年
深川は菫さく野も野分哉 風瀑
はるのはたけに鴻のあしあと 芭蕉
貞享三年春、深川芭蕉庵での芭蕉、風瀑、一晶、琴蔵、虚洞による五吟一巡(五句のみ)興行の脇。
発句の「野分」は本当に強い風が吹いていたのか、それとも、
芭蕉野分して盥に雨を聞く夜かな 芭蕉
を基にして、世に吹き荒れる芭蕉旋風を野分に喩えたか。
「ばしょうのわき」を変換しようとしたら「芭蕉の脇」になったが、それも掛けているのかもしれない。
芭蕉の脇は菫咲く野を春のまで作物を植えてない畑とし、そこにはコウノトリの足跡が付いている。コウノトリと鶴はしばしば混同されていて、ここでは風瀑をコウノトリに喩えたか。
風瀑は伊勢の人で『野ざらし紀行』の旅で伊勢を訪れた時に、「松葉屋風瀑が伊勢に有けるを尋ね音信て、十日計足をとどむ。」とあるようにお世話になっている。
その時の芭蕉の伊勢参宮は野分のさ中だったのか、
みそか月なし千とせの杉を抱あらし 芭蕉
と詠んでいる。その時の思い出もあってのやり取りであろう。芭蕉は嵐を呼ぶ男なのか。
夕照
蜻蛉の壁を抱ゆる西日かな 沾荷
潮落かかる芦の穂のうへ 芭蕉
貞享三年秋に興行されたと思われる、芭蕉、露沾、沾荷、嵐雪による四吟三歌仙の脇。
発句の「蜻蛉」はここでは「とんぼう」と読む。蜻蛉にとんぼ、あきつ、かげろうの三つの読み方がある事は、古文の受験勉強の時に習った。
発句は、
真萩散る庭の秋風身にしみて
夕日の影ぞかべに消え行く
永福門院(風雅集)
を本歌としたものか。壁は比喩で、一面の草原を壁に見立てている。
沾荷の発句はトンボがその草原を抱え込むかのようにトンボが留まっているとする。夕照の美しい景色に、トンボの足の仕草がよく捉えられているが、本歌が今となっては忘れ去られてしまったため、意味のとりにくい発句となってしまったのが残念だ。
芭蕉はその壁を葦原とし、海辺の風景とする。これはトンボ=秋津から秋津島=豊葦原の瑞穂の国を連想したか。深川芭蕉庵での興行であれば、海も近い。
2019年10月28日月曜日
いつの間にか季節は変り冬になっていた。今日は旧暦十月一日。まだ気温は二十度を越えているが。
オリンピックのマラソンがいきなりIOCの決定で札幌に変更とかいっているが、こういうのを開催地に無断で決めていいことなのか、いろいろ問題は残るだろう。
アスリートの健康の問題は確かにわかる。夏の甲子園だって、あんな炎天下でやる必要があるかどうかは疑問だ。ただ、時期の変更ならわかるが、場所を変更するとなると、今後暑い地域でのスポーツの大会が困難になるのではないか。カタールもオリンピックを招致しようとしているが、カタールには札幌のような場所はない。今後オリンピックは涼しい限られた国だけで行われるようになるのか。
今やフランスだって四十五度の猛暑で、ヨーロッパ全体が暑くなっている。他のスポーツにも影響を与えれば、スポーツのできる国が限られてしまうのではないか。
一九六四年の東京オリンピックは十月にやったのに、何で今回は夏になってしまったのか、そのことも最初から引っかかっていた。
それでは芭蕉脇集。
貞享二年
われもさびよ梅よりおくの藪椿 雅良
ちやの湯に残る雪のひよ鳥 芭蕉
『野ざらし紀行』の旅の途中、伊賀で年を越し二月まで滞在した時の句。
藪椿は自生する椿のこと。梅の華やかさに較べて、濃緑の葉の中に埋もれるように咲く椿は地味だ。私もこんな風に静かに暮らしたいという発句に、静かに茶の湯を立てながら、灰色の地味なヒヨドリを雪の上に見る、と返す。
「われもさびよ」に同意し、寂びた景色を添える。季語は「残る雪」で春になる。ヒヨドリだけだと秋。
椿は茶の湯の席で茶花として用いられることが多く、茶の木自体もツバキ科ツバキ属で椿の仲間でもある。椿に近いものでサザンカがあるが山の茶花と書く。椿は茶の湯に縁がある。
我桜鮎サク枇杷の広葉哉 秋風
筧に動く山藤の花 桃青
同じく『野ざらし紀行』の旅の途中、京の三井秋風の別墅、花林園を尋ねた時の句。
発句の意味はわかりにくいが、桜はまだ咲いてないが、枇杷の広葉のような鮎の開きの一夜干を桜に見立てて、今日の宴を始めましょうということか。
それに対し、芭蕉は泉の水を引いてきた筧(懸樋)に山藤の花も咲いてます、と返す。
秋風は風流人だが金持ちで、料理にはこだわりがあったのだろう。そこに山藤の花もきれいですよと、やや諌めた感じがする。
梅絶て日永し桜今三日 湖春
東の窓の蚕桑につく 桃青
これも三井秋風の花林園での句か。
梅の花は終わり桜にはまだあと三日くらい先か、という発句に春蚕の飼育も始まっていると付ける。
つくづくと榎の花の袖にちる 桐葉
独り茶をつむ藪の一家 芭蕉
三月下旬、熱田での七吟歌仙興行の発句と脇。
榎の花も地味な花で、こういう花はやはり茶花に用いるのだろう。藪椿の句と同様、茶を付ける。
夏草よ吾妻路まとへ五三日 若照
かさもてはやす宿の卯の雪 芭蕉
鳴海の知足亭での句。
江戸に帰ろうとする芭蕉に、夏草よ、吾妻路に絡まって足止めしてくれという発句に対し、卯の花が雪のようで、笠(旅に欠かせない)が必要ですね、と答える。
涼しさの凝くだくるか水車 清風
青鷺草を見越す朝月 芭蕉
六月二日。『野ざらし紀行』の旅から戻り、少ししてからの小石川での興行。出羽尾花沢の清風を迎え、其角、嵐雪、才丸、素堂、コ齋などが揃い、百韻を巻く。清風は『奥の細道』の旅のときに尋ねてゆくが、忙しくてなかなか会ってもらえなかった。
水車が涼しさを細かく砕いて撒いてくれてるようだ、という清風の発句に、青鷺が草越しに朝の月を見ていると水辺の景を添える。
オリンピックのマラソンがいきなりIOCの決定で札幌に変更とかいっているが、こういうのを開催地に無断で決めていいことなのか、いろいろ問題は残るだろう。
アスリートの健康の問題は確かにわかる。夏の甲子園だって、あんな炎天下でやる必要があるかどうかは疑問だ。ただ、時期の変更ならわかるが、場所を変更するとなると、今後暑い地域でのスポーツの大会が困難になるのではないか。カタールもオリンピックを招致しようとしているが、カタールには札幌のような場所はない。今後オリンピックは涼しい限られた国だけで行われるようになるのか。
今やフランスだって四十五度の猛暑で、ヨーロッパ全体が暑くなっている。他のスポーツにも影響を与えれば、スポーツのできる国が限られてしまうのではないか。
一九六四年の東京オリンピックは十月にやったのに、何で今回は夏になってしまったのか、そのことも最初から引っかかっていた。
それでは芭蕉脇集。
貞享二年
われもさびよ梅よりおくの藪椿 雅良
ちやの湯に残る雪のひよ鳥 芭蕉
『野ざらし紀行』の旅の途中、伊賀で年を越し二月まで滞在した時の句。
藪椿は自生する椿のこと。梅の華やかさに較べて、濃緑の葉の中に埋もれるように咲く椿は地味だ。私もこんな風に静かに暮らしたいという発句に、静かに茶の湯を立てながら、灰色の地味なヒヨドリを雪の上に見る、と返す。
「われもさびよ」に同意し、寂びた景色を添える。季語は「残る雪」で春になる。ヒヨドリだけだと秋。
椿は茶の湯の席で茶花として用いられることが多く、茶の木自体もツバキ科ツバキ属で椿の仲間でもある。椿に近いものでサザンカがあるが山の茶花と書く。椿は茶の湯に縁がある。
我桜鮎サク枇杷の広葉哉 秋風
筧に動く山藤の花 桃青
同じく『野ざらし紀行』の旅の途中、京の三井秋風の別墅、花林園を尋ねた時の句。
発句の意味はわかりにくいが、桜はまだ咲いてないが、枇杷の広葉のような鮎の開きの一夜干を桜に見立てて、今日の宴を始めましょうということか。
それに対し、芭蕉は泉の水を引いてきた筧(懸樋)に山藤の花も咲いてます、と返す。
秋風は風流人だが金持ちで、料理にはこだわりがあったのだろう。そこに山藤の花もきれいですよと、やや諌めた感じがする。
梅絶て日永し桜今三日 湖春
東の窓の蚕桑につく 桃青
これも三井秋風の花林園での句か。
梅の花は終わり桜にはまだあと三日くらい先か、という発句に春蚕の飼育も始まっていると付ける。
つくづくと榎の花の袖にちる 桐葉
独り茶をつむ藪の一家 芭蕉
三月下旬、熱田での七吟歌仙興行の発句と脇。
榎の花も地味な花で、こういう花はやはり茶花に用いるのだろう。藪椿の句と同様、茶を付ける。
夏草よ吾妻路まとへ五三日 若照
かさもてはやす宿の卯の雪 芭蕉
鳴海の知足亭での句。
江戸に帰ろうとする芭蕉に、夏草よ、吾妻路に絡まって足止めしてくれという発句に対し、卯の花が雪のようで、笠(旅に欠かせない)が必要ですね、と答える。
涼しさの凝くだくるか水車 清風
青鷺草を見越す朝月 芭蕉
六月二日。『野ざらし紀行』の旅から戻り、少ししてからの小石川での興行。出羽尾花沢の清風を迎え、其角、嵐雪、才丸、素堂、コ齋などが揃い、百韻を巻く。清風は『奥の細道』の旅のときに尋ねてゆくが、忙しくてなかなか会ってもらえなかった。
水車が涼しさを細かく砕いて撒いてくれてるようだ、という清風の発句に、青鷺が草越しに朝の月を見ていると水辺の景を添える。
2019年10月27日日曜日
今日は芝離宮や浜離宮のあたりを散歩した。
それでは芭蕉脇集の続き。
貞享元年
何となく柴ふく風もあはれなり 杉風
あめのはれまを牛捨にゆく 芭蕉
芭蕉の『野ざらし紀行』の旅立ちの際の杉風の餞別句に付けたもの。無季の発句に対し、無季で付けている。
発句の「柴ふく風」は秋風を連想させるものの、言葉には表れていない。芭蕉の脇の「牛捨にゆく」も何を意味するのかよくわからない。寓意に囚われずに、「あはれ」から連想するものを付けたか。
芭蕉野分其句に草鞋かへよかし 李下
月ともみぢを酒の乞食 芭蕉
同じく『野ざらし紀行』の旅立ちの際の李下の餞別句に答えたもの。
「芭蕉野分」は延宝九年の秋に詠んだ、
茅舎ノ感
芭蕉野分して盥に雨を聞夜哉
を指すものと思われる。このときの茅舎は李下が贈った芭蕉一株を新しい庵に植えたことで芭蕉庵と呼ばれるようになり、それが桃青から芭蕉へと名前を変えることになった。桃青という俳号はそのまま残したものの、句に署名する時には「芭蕉」を用いるようになった。
天和三年の九月に第二次芭蕉庵が完成したが、一年も立たずに旅立つ芭蕉に、あの茅舎を草鞋に変えてしまうのですね。それもまたいいでしょう。そうしなさい、という句に、芭蕉は「月ともみぢを酒の乞食」だからそれがふさわしい、と返す。
い勢やまだにていも洗ふと云句を和す
宿まいらせむさいぎゃうならば秋暮 雷枝
はせをとこたふ風の破がさ 芭蕉
『野ざらし紀行』の旅の途中、伊勢の西行谷で、
芋洗ふ女西行ならば歌よまむ 芭蕉
と詠む。桶に芋(里芋)を入れて、それに棒を差して洗っている田舎の長い髪を結わずに後ろに垂らした古風な女性は、芭蕉の好みなのだろう。母親の俤があるのかもしれない。
その句を知った雷枝(もちろん男性)は芭蕉が宿を訪ねてきたときに、西行さんですか、と問うと、芭蕉は「いいえ、芭蕉です」と答える。
花の咲みながら草の翁かな 勝延
秋にしほるる蝶のくづをれ 芭蕉
発句の「みながら」は「身ながら」で、「花の咲く身」とはいっても桜ではなく草の花の咲く翁でしょうか、と疑いつつ治定する「かな」を用いる。草の花は花野の花で秋になる。
これに対し芭蕉は「草の翁」なんてそんな立派なもんではない、秋に萎れて老いぼれてゆく蝶のようなものです、と返す。
師の桜むかし拾はん落葉哉 嗒山
薄を霜の髭四十一 芭蕉
『野ざらし紀行』の旅で大垣の木因の元を尋ね、芭蕉、木因、嗒山、如行の四人で四吟歌仙を興行した時の句。
天和の頃芭蕉さん、あなたの教えを受けたことがありますが、その時の芭蕉さんがくれた桜(教えられたことの比喩)も今は落葉になってしまってます、と謙虚な発句に対し、芭蕉も、私も霜の降りた薄のような無精ひげを生やした四十一歳になる男です、と答える。
昔は四十で初老と呼ばれていたし、四十前後での隠居も普通だった。それにもまして芭蕉は実年齢以上に老けて見えたという。
霜の宿の旅寝に蚊帳をきせ申 如行
古人かやうの夜のこがらし 芭蕉
これも大垣滞在中の句。
蚊帳は夏の蚊を防ぐだけでなく、細かい網目は風を通さないから防寒具としても役に立つ。こうした生活の知恵に、古人もこうして夜を暖かく過ごしたのだろうかと感慨を述べる。
能程に積かはれよみのの雪 木因
冬のつれとて風も跡から 芭蕉
同じく大垣滞在中の句。
旅に支障のない程度に程よく積もってくれという木因の発句に、私が冬の風を連れてきてしまったかな、と返す。
田家眺望
霜月や鸛の彳々ならびゐて 荷兮
冬の朝日のあはれなりけり 芭蕉
『野ざらし紀行』の旅で、十一月に名古屋で興行した時の句。芭蕉、野水、荷兮、重五、杜国、正平、野水に途中から羽笠も加わって巻いた五歌仙と表六句は、『冬の日』(荷兮編貞享元年刊)として刊行された。
これはその五番目の歌仙の句。「て」留めのこれまでの常識を破るような発句に対し、脇も体言止めではなく「けり」で応じる。
霜月の鸛に朝日の哀れを添える。軽く流したようでいながら、興行の場所を褒め称える寓意を含んでいる。
発句と脇を合わせると、
霜月や鸛の彳々ならびゐて
冬の朝日のあはれなりけり
と和歌のように綺麗につながる。
檜笠雪をいのちの舎リ哉 桐葉
稿一つかね足つつみ行 芭蕉
『野ざらし紀行』の旅で、十二月に熱田で桐葉からの送別句に答える。
発句は、檜笠(ひのきがさ)に雪の積もるのを見て、この笠が命を守ってくれると詠む。芭蕉が延宝四年に詠んだ、
命なりわづかの笠の下涼み 桃青
の句を髣髴させる。
これに対し芭蕉は、藁一束(わらひとつかね)で足を包みながら行きますと返す。命を守るものは笠だけではない。
それでは芭蕉脇集の続き。
貞享元年
何となく柴ふく風もあはれなり 杉風
あめのはれまを牛捨にゆく 芭蕉
芭蕉の『野ざらし紀行』の旅立ちの際の杉風の餞別句に付けたもの。無季の発句に対し、無季で付けている。
発句の「柴ふく風」は秋風を連想させるものの、言葉には表れていない。芭蕉の脇の「牛捨にゆく」も何を意味するのかよくわからない。寓意に囚われずに、「あはれ」から連想するものを付けたか。
芭蕉野分其句に草鞋かへよかし 李下
月ともみぢを酒の乞食 芭蕉
同じく『野ざらし紀行』の旅立ちの際の李下の餞別句に答えたもの。
「芭蕉野分」は延宝九年の秋に詠んだ、
茅舎ノ感
芭蕉野分して盥に雨を聞夜哉
を指すものと思われる。このときの茅舎は李下が贈った芭蕉一株を新しい庵に植えたことで芭蕉庵と呼ばれるようになり、それが桃青から芭蕉へと名前を変えることになった。桃青という俳号はそのまま残したものの、句に署名する時には「芭蕉」を用いるようになった。
天和三年の九月に第二次芭蕉庵が完成したが、一年も立たずに旅立つ芭蕉に、あの茅舎を草鞋に変えてしまうのですね。それもまたいいでしょう。そうしなさい、という句に、芭蕉は「月ともみぢを酒の乞食」だからそれがふさわしい、と返す。
い勢やまだにていも洗ふと云句を和す
宿まいらせむさいぎゃうならば秋暮 雷枝
はせをとこたふ風の破がさ 芭蕉
『野ざらし紀行』の旅の途中、伊勢の西行谷で、
芋洗ふ女西行ならば歌よまむ 芭蕉
と詠む。桶に芋(里芋)を入れて、それに棒を差して洗っている田舎の長い髪を結わずに後ろに垂らした古風な女性は、芭蕉の好みなのだろう。母親の俤があるのかもしれない。
その句を知った雷枝(もちろん男性)は芭蕉が宿を訪ねてきたときに、西行さんですか、と問うと、芭蕉は「いいえ、芭蕉です」と答える。
花の咲みながら草の翁かな 勝延
秋にしほるる蝶のくづをれ 芭蕉
発句の「みながら」は「身ながら」で、「花の咲く身」とはいっても桜ではなく草の花の咲く翁でしょうか、と疑いつつ治定する「かな」を用いる。草の花は花野の花で秋になる。
これに対し芭蕉は「草の翁」なんてそんな立派なもんではない、秋に萎れて老いぼれてゆく蝶のようなものです、と返す。
師の桜むかし拾はん落葉哉 嗒山
薄を霜の髭四十一 芭蕉
『野ざらし紀行』の旅で大垣の木因の元を尋ね、芭蕉、木因、嗒山、如行の四人で四吟歌仙を興行した時の句。
天和の頃芭蕉さん、あなたの教えを受けたことがありますが、その時の芭蕉さんがくれた桜(教えられたことの比喩)も今は落葉になってしまってます、と謙虚な発句に対し、芭蕉も、私も霜の降りた薄のような無精ひげを生やした四十一歳になる男です、と答える。
昔は四十で初老と呼ばれていたし、四十前後での隠居も普通だった。それにもまして芭蕉は実年齢以上に老けて見えたという。
霜の宿の旅寝に蚊帳をきせ申 如行
古人かやうの夜のこがらし 芭蕉
これも大垣滞在中の句。
蚊帳は夏の蚊を防ぐだけでなく、細かい網目は風を通さないから防寒具としても役に立つ。こうした生活の知恵に、古人もこうして夜を暖かく過ごしたのだろうかと感慨を述べる。
能程に積かはれよみのの雪 木因
冬のつれとて風も跡から 芭蕉
同じく大垣滞在中の句。
旅に支障のない程度に程よく積もってくれという木因の発句に、私が冬の風を連れてきてしまったかな、と返す。
田家眺望
霜月や鸛の彳々ならびゐて 荷兮
冬の朝日のあはれなりけり 芭蕉
『野ざらし紀行』の旅で、十一月に名古屋で興行した時の句。芭蕉、野水、荷兮、重五、杜国、正平、野水に途中から羽笠も加わって巻いた五歌仙と表六句は、『冬の日』(荷兮編貞享元年刊)として刊行された。
これはその五番目の歌仙の句。「て」留めのこれまでの常識を破るような発句に対し、脇も体言止めではなく「けり」で応じる。
霜月の鸛に朝日の哀れを添える。軽く流したようでいながら、興行の場所を褒め称える寓意を含んでいる。
発句と脇を合わせると、
霜月や鸛の彳々ならびゐて
冬の朝日のあはれなりけり
と和歌のように綺麗につながる。
檜笠雪をいのちの舎リ哉 桐葉
稿一つかね足つつみ行 芭蕉
『野ざらし紀行』の旅で、十二月に熱田で桐葉からの送別句に答える。
発句は、檜笠(ひのきがさ)に雪の積もるのを見て、この笠が命を守ってくれると詠む。芭蕉が延宝四年に詠んだ、
命なりわづかの笠の下涼み 桃青
の句を髣髴させる。
これに対し芭蕉は、藁一束(わらひとつかね)で足を包みながら行きますと返す。命を守るものは笠だけではない。
2019年10月26日土曜日
芭蕉の発句集は多いけど、脇を集めた脇集というのは聞いたことがない。ならば作ってみようか。
句は『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)よる。
芭蕉脇集
延宝四年
梅の風俳諧国にさかむなり 信章
こちとうづれも此時の春 桃青
『桃青三百韻附両吟二百韻』の二百韻の二番目の巻の脇。信章は後の素堂。「こちとうづれも」は「こちとの連れも」の音便化したもの。
「梅の花」に「春」という単純な付け合いに、俳諧が国に盛んだからこち(芭蕉)と連れ(素堂)もと付ける。談林流の速吟に向いた付け方だ。
時節嘸伊賀の山ごえ華の雪 杉風
身は爰元に霞武蔵野 桃青
杉浦正一郎氏蔵の芭蕉俳諧真蹟懐紙による。『花供養』(天命七年・蘭更編)にもあるという。
芭蕉が伊賀に旅立つ際の送別の興行であろう。伊賀の山を越える頃には雪でしょうな、という送別の発句に対し、我が身はいつまでもこの霞む武蔵野にあります、と答える。
延宝六年
物の名も蛸や故郷のいかのぼり 信徳
あふのく空は百余里の春 桃青
『桃青三百韻附両吟二百韻』の三百韻のほうにある。信徳の発句は、
草の名も所によりてかはるなり
難波の葦は伊勢の浜荻 救済
の句を本歌とし、難波の「いかのぼり」は江戸の「たこ」だとする。信徳は京の人。
「あふのく」は仰向けになるという意味だが、ここでは仰向けになって見る空は、ということ。江戸から京までは四百キロ以上あるので、京の空は百余里の彼方になる。
発句の「いかのぼり」に放り込みのように「春」を付けている。
寶いくつあつらへの夢あけの春
蓑笠小槌あら玉の空 桃青
歳旦吟で、発句の作者はわからない。
正月の宝船には七福神とともにいくつもの宝が乗せられている。脇ではその宝の内容として、打出の小槌や玉とともに、昔は晴れ着の意味もあった蓑笠を加える。後の、
降らずとも竹植うる日や蓑と笠 芭蕉
は蓑笠が晴れ着であることを示している。
延宝九年
余興
附贅一ツ爰に置けり曰ク露 揚水
無-用の枝を立し犬蘭 桃青
『俳諧次韻』の巻末の余興の四句の脇。
発句は『荘子』外編の駢拇篇の、
「駢拇枝指、出乎性哉、而侈於德。附贅縣疣、出乎形哉、而侈於性。多方乎仁義而用之者、列於五藏哉、而非道德之正也。」
儒家の言う仁義などは指が生まれつきくっついていたり、生まれながらにイボがあったりするようなもので、余計なものだというわけだ。
まあ、仁義礼智は本来誰しも生まれ以て身についている孟子の言葉でいえば「四端の心」から生じたものだが、それを概念にして論じようとすると、人それぞれの経験の差異から微妙に意味内容がずれて、結局は議論がかみ合わずに争いになったりする。
俳諧の句というのもその意味では本来の情を正確に伝えるわけではなく、余計なものといえば余計なものだ。その余計なものを「露」という、と卑下してるのか美化しているのか微妙な言い回しをする。
芭蕉の脇はそれを受けて、本来枝のない蘭に枝をつけて、これは「犬蘭」とでもいうべきか、と応じる。
連歌の『菟玖波集』『新撰菟玖波集』に対して、俳諧の祖宗鑑が『新撰犬筑波集』を編纂したところから、「犬」は俳諧のシンボルでもある。卑下しているようでも俳諧への誇りを表わしている。
市中より東叡山の麓に家を写せし比
鮭の時宿は豆腐の雨夜哉 信章
茶にたばこにも蘭のうつり香 桃青
『下郷家遺片』に記された付け合い。
東叡山は上野の寛永寺のこと。weblio辞書の「美術人名辞典」に、「北村季吟・松尾芭蕉と親交を深め、のちに上野不忍池畔で隠棲生活に入る。」とある。
鮭の時分だが豆腐しかないというのは、仏道に精進しているということか。それに対し芭蕉は「茶や煙草にも高貴な蘭の香りがします、豆腐でもかまいませんよ」と返す。
天和二年
酒債尋常住処有
人生七十古来稀
詩あきんど年を貪ル酒債哉 其角
冬-湖日暮て駕馬鯉 芭蕉
これは『虚栗』(天和三年、其角編)の其角・芭蕉の両吟歌仙。
前書きと発句は杜甫の「曲江詩」
曲江 杜甫
朝囘日日典春衣 毎日江頭盡醉歸
酒債尋常行處有 人生七十古來稀
穿花蛺蝶深深見 點水蜻蜓款款飛
傳語風光共流轉 暫時相賞莫相違
朝廷を追われ春の着物を質屋に入れて送る日々
毎日曲江の畔で酔っぱらって帰るだけだ
行くところはどこも酒の付けがあって当たり前
どうせ人生七十過ぎてまで生きることは稀だ
花の間を舞うアゲハはこそこそしてるし
水を求めるトンボはわが道を行くかのようだ
伝えて言う、この眺望よ共に流れてゆく定めなら
しばらくは違いに目をつぶりお互いを認め合えや
による。
どうせいつかは死ぬんだから借金など気にせずに酒でも飲んで仲良くやろうじゃないか、とばかり「詩あきんど」つまり詩で生計を立てる者はうだうだ酒飲んでは時間を浪費し、付けが溜まってゆく。
これに対し芭蕉は、発句の詩あきんども曲江の湖の畔で釣りをしてすごせば、やがて鯉を馬に乗せて帰ると和す。
鯉は龍になるとも言われる目出度い魚で、これを売って一年の酒債を返しなさいということか。
まあ其角さんのことだから、結局最後は鯉屋の旦那(杉風)が何とかしてくれるという楽屋落ちの意味があったのだろう。
句は『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)よる。
芭蕉脇集
延宝四年
梅の風俳諧国にさかむなり 信章
こちとうづれも此時の春 桃青
『桃青三百韻附両吟二百韻』の二百韻の二番目の巻の脇。信章は後の素堂。「こちとうづれも」は「こちとの連れも」の音便化したもの。
「梅の花」に「春」という単純な付け合いに、俳諧が国に盛んだからこち(芭蕉)と連れ(素堂)もと付ける。談林流の速吟に向いた付け方だ。
時節嘸伊賀の山ごえ華の雪 杉風
身は爰元に霞武蔵野 桃青
杉浦正一郎氏蔵の芭蕉俳諧真蹟懐紙による。『花供養』(天命七年・蘭更編)にもあるという。
芭蕉が伊賀に旅立つ際の送別の興行であろう。伊賀の山を越える頃には雪でしょうな、という送別の発句に対し、我が身はいつまでもこの霞む武蔵野にあります、と答える。
延宝六年
物の名も蛸や故郷のいかのぼり 信徳
あふのく空は百余里の春 桃青
『桃青三百韻附両吟二百韻』の三百韻のほうにある。信徳の発句は、
草の名も所によりてかはるなり
難波の葦は伊勢の浜荻 救済
の句を本歌とし、難波の「いかのぼり」は江戸の「たこ」だとする。信徳は京の人。
「あふのく」は仰向けになるという意味だが、ここでは仰向けになって見る空は、ということ。江戸から京までは四百キロ以上あるので、京の空は百余里の彼方になる。
発句の「いかのぼり」に放り込みのように「春」を付けている。
寶いくつあつらへの夢あけの春
蓑笠小槌あら玉の空 桃青
歳旦吟で、発句の作者はわからない。
正月の宝船には七福神とともにいくつもの宝が乗せられている。脇ではその宝の内容として、打出の小槌や玉とともに、昔は晴れ着の意味もあった蓑笠を加える。後の、
降らずとも竹植うる日や蓑と笠 芭蕉
は蓑笠が晴れ着であることを示している。
延宝九年
余興
附贅一ツ爰に置けり曰ク露 揚水
無-用の枝を立し犬蘭 桃青
『俳諧次韻』の巻末の余興の四句の脇。
発句は『荘子』外編の駢拇篇の、
「駢拇枝指、出乎性哉、而侈於德。附贅縣疣、出乎形哉、而侈於性。多方乎仁義而用之者、列於五藏哉、而非道德之正也。」
儒家の言う仁義などは指が生まれつきくっついていたり、生まれながらにイボがあったりするようなもので、余計なものだというわけだ。
まあ、仁義礼智は本来誰しも生まれ以て身についている孟子の言葉でいえば「四端の心」から生じたものだが、それを概念にして論じようとすると、人それぞれの経験の差異から微妙に意味内容がずれて、結局は議論がかみ合わずに争いになったりする。
俳諧の句というのもその意味では本来の情を正確に伝えるわけではなく、余計なものといえば余計なものだ。その余計なものを「露」という、と卑下してるのか美化しているのか微妙な言い回しをする。
芭蕉の脇はそれを受けて、本来枝のない蘭に枝をつけて、これは「犬蘭」とでもいうべきか、と応じる。
連歌の『菟玖波集』『新撰菟玖波集』に対して、俳諧の祖宗鑑が『新撰犬筑波集』を編纂したところから、「犬」は俳諧のシンボルでもある。卑下しているようでも俳諧への誇りを表わしている。
市中より東叡山の麓に家を写せし比
鮭の時宿は豆腐の雨夜哉 信章
茶にたばこにも蘭のうつり香 桃青
『下郷家遺片』に記された付け合い。
東叡山は上野の寛永寺のこと。weblio辞書の「美術人名辞典」に、「北村季吟・松尾芭蕉と親交を深め、のちに上野不忍池畔で隠棲生活に入る。」とある。
鮭の時分だが豆腐しかないというのは、仏道に精進しているということか。それに対し芭蕉は「茶や煙草にも高貴な蘭の香りがします、豆腐でもかまいませんよ」と返す。
天和二年
酒債尋常住処有
人生七十古来稀
詩あきんど年を貪ル酒債哉 其角
冬-湖日暮て駕馬鯉 芭蕉
これは『虚栗』(天和三年、其角編)の其角・芭蕉の両吟歌仙。
前書きと発句は杜甫の「曲江詩」
曲江 杜甫
朝囘日日典春衣 毎日江頭盡醉歸
酒債尋常行處有 人生七十古來稀
穿花蛺蝶深深見 點水蜻蜓款款飛
傳語風光共流轉 暫時相賞莫相違
朝廷を追われ春の着物を質屋に入れて送る日々
毎日曲江の畔で酔っぱらって帰るだけだ
行くところはどこも酒の付けがあって当たり前
どうせ人生七十過ぎてまで生きることは稀だ
花の間を舞うアゲハはこそこそしてるし
水を求めるトンボはわが道を行くかのようだ
伝えて言う、この眺望よ共に流れてゆく定めなら
しばらくは違いに目をつぶりお互いを認め合えや
による。
どうせいつかは死ぬんだから借金など気にせずに酒でも飲んで仲良くやろうじゃないか、とばかり「詩あきんど」つまり詩で生計を立てる者はうだうだ酒飲んでは時間を浪費し、付けが溜まってゆく。
これに対し芭蕉は、発句の詩あきんども曲江の湖の畔で釣りをしてすごせば、やがて鯉を馬に乗せて帰ると和す。
鯉は龍になるとも言われる目出度い魚で、これを売って一年の酒債を返しなさいということか。
まあ其角さんのことだから、結局最後は鯉屋の旦那(杉風)が何とかしてくれるという楽屋落ちの意味があったのだろう。
2019年10月25日金曜日
今日も『三冊子』の続き。芭蕉の脇について。
「市中は物の匂ひや夏の月
あつしあつしと門々の聲
此脇、匂ひや夏の月、と有を見込て、極暑を顕して見込の心を照す。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』p.125)
これは『猿蓑』の歌仙の脇だ。元禄三年六月、凡兆宅での興行になる。発句は凡兆で、それに芭蕉が脇を付ける。
市中の物の匂いも暑さもあまり有難いものではない。市場の匂いにも夏の月があればと見込む発句に対し、芭蕉も極暑のなかで夏の月があればと見込む、というのが土芳の解釈だ。
ただ、芭蕉はこの頃から脇を形式ばった挨拶にする事に疑問を感じていたのだろう。それは後の「蛍迯行」と同じで、それまでの脇句の常識だと、夏の月が出たのだから、それに対し「涼しい」と付けて主人を持ち上げるものだったところを、あえて「いやー、それにしても暑い」と本音で返す所に新味があったのではないかと思う。
ただ、この「あつしあつし」も発句の「物の匂いや」に同意しているわけだから、失礼にはならない。同意しながらともに「夏の月」の有難さがあればと見込む意味では、土芳の解釈も当を得ている。
「いろいろの名もまぎらはし春の草
うたれて蝶の目をさましぬる
此脇は、まぎらはしといふ心の匂に、しきりに蝶のちり乱るる様思ひ入て、けしきを付たる句也。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』p.125)
これは『ひさご』の歌仙で、芭蕉は脇のみの参加。前半は珍碩(後の洒堂)と路通の両吟、後半は荷兮と越人の両吟になる。元禄三年の興行で「市中は」の巻の三ヶ月前になる。発句は珍碩。
元禄三年刊の『ひさご』では、
いろいろの名もむつかしや春の草 珍碩
うたれて蝶の夢はさめぬる 芭蕉
になっているが、享保二十年刊の別版『ひさご』には、土芳が引用した形で収められている。土芳の言う方が初案と言われている。
発句の名前のよくわからない春の草(今なら名もなき雑草というところだろう)に対し、まず「うたれて」と来るわけだが、これは「畑打つ」のことだろうか。
「うたれて蝶の目をさましぬる」だと、雑草が掘り起こされて、底に止まって休んでいた蝶は夢から醒めて飛び立つわけで、土芳が言うように「しきりに蝶のちり乱るる様思ひ入て、けしきを付たる句」になる。
ただ、蝶の目を覚ますという所に『荘子』の胡蝶の夢の連想が働くと、これは蝶が飛び立つと同時に、自分自身もはっと打たれたように夢から醒めて元の自分に戻ることになる。「うたれて蝶の夢はさめぬる」の形だと、よりその寓意がはっきりする。
寓意を表に出すのか裏に隠すのか、これは『去来抄』の「大切の柳」にも通じることなのかもしれない。裏に隠すのが正解なら、元禄版の『ひさご』の方が初案で、享保版『ひさご』や『三冊子』の方が改案だったのかもしれない。
なお、この歌仙の十八句目が、
しほのさす縁の下迄和日なり
生鯛あがる浦の春哉 珍碩
の句が挙句っぽいので、最初半歌仙を巻いて、荷兮と越人が後から付け足したか。
「折々や雨戸にさはる萩の聲
はなす所におらぬ松むし
この脇、発句の位を思ひしめて、匂よろしく事もなく付たる句也。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』p.125)
この句は『校本芭蕉全集 第五巻』(小宮豐隆監修、中村俊定注、一九六八、角川書店)では元禄七年の夏で、
折々や雨戸にさはる萩の聲
放す所におらぬ松蟲
とある。元禄七年八月九日附の去来宛書簡に記されている。「あれあれて」の巻の時に引用した「しぶしぶの俳諧」の書簡だ。発句は雪芝だという。
発句の雨戸に萩の枝が触れるような田舎の小さな家から、そこに住む人の位で付けたということか。松虫を捕まえたものの、可哀相になって放してあげる、そういう心やさしい住人ということなのだろう。
あれあれて末は海行野分哉
靍の頭を上る粟の穂 芭蕉
の脇も、鶴をお目出度いものという寓意で用いずに、あえて「常体の気色」で用いるところなど、やはり晩年の脇の体といえよう。
芭蕉の脇に言及した部分はこれで終わりになり、ここから先は普通の付け句になる。
「市中は物の匂ひや夏の月
あつしあつしと門々の聲
此脇、匂ひや夏の月、と有を見込て、極暑を顕して見込の心を照す。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』p.125)
これは『猿蓑』の歌仙の脇だ。元禄三年六月、凡兆宅での興行になる。発句は凡兆で、それに芭蕉が脇を付ける。
市中の物の匂いも暑さもあまり有難いものではない。市場の匂いにも夏の月があればと見込む発句に対し、芭蕉も極暑のなかで夏の月があればと見込む、というのが土芳の解釈だ。
ただ、芭蕉はこの頃から脇を形式ばった挨拶にする事に疑問を感じていたのだろう。それは後の「蛍迯行」と同じで、それまでの脇句の常識だと、夏の月が出たのだから、それに対し「涼しい」と付けて主人を持ち上げるものだったところを、あえて「いやー、それにしても暑い」と本音で返す所に新味があったのではないかと思う。
ただ、この「あつしあつし」も発句の「物の匂いや」に同意しているわけだから、失礼にはならない。同意しながらともに「夏の月」の有難さがあればと見込む意味では、土芳の解釈も当を得ている。
「いろいろの名もまぎらはし春の草
うたれて蝶の目をさましぬる
此脇は、まぎらはしといふ心の匂に、しきりに蝶のちり乱るる様思ひ入て、けしきを付たる句也。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』p.125)
これは『ひさご』の歌仙で、芭蕉は脇のみの参加。前半は珍碩(後の洒堂)と路通の両吟、後半は荷兮と越人の両吟になる。元禄三年の興行で「市中は」の巻の三ヶ月前になる。発句は珍碩。
元禄三年刊の『ひさご』では、
いろいろの名もむつかしや春の草 珍碩
うたれて蝶の夢はさめぬる 芭蕉
になっているが、享保二十年刊の別版『ひさご』には、土芳が引用した形で収められている。土芳の言う方が初案と言われている。
発句の名前のよくわからない春の草(今なら名もなき雑草というところだろう)に対し、まず「うたれて」と来るわけだが、これは「畑打つ」のことだろうか。
「うたれて蝶の目をさましぬる」だと、雑草が掘り起こされて、底に止まって休んでいた蝶は夢から醒めて飛び立つわけで、土芳が言うように「しきりに蝶のちり乱るる様思ひ入て、けしきを付たる句」になる。
ただ、蝶の目を覚ますという所に『荘子』の胡蝶の夢の連想が働くと、これは蝶が飛び立つと同時に、自分自身もはっと打たれたように夢から醒めて元の自分に戻ることになる。「うたれて蝶の夢はさめぬる」の形だと、よりその寓意がはっきりする。
寓意を表に出すのか裏に隠すのか、これは『去来抄』の「大切の柳」にも通じることなのかもしれない。裏に隠すのが正解なら、元禄版の『ひさご』の方が初案で、享保版『ひさご』や『三冊子』の方が改案だったのかもしれない。
なお、この歌仙の十八句目が、
しほのさす縁の下迄和日なり
生鯛あがる浦の春哉 珍碩
の句が挙句っぽいので、最初半歌仙を巻いて、荷兮と越人が後から付け足したか。
「折々や雨戸にさはる萩の聲
はなす所におらぬ松むし
この脇、発句の位を思ひしめて、匂よろしく事もなく付たる句也。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』p.125)
この句は『校本芭蕉全集 第五巻』(小宮豐隆監修、中村俊定注、一九六八、角川書店)では元禄七年の夏で、
折々や雨戸にさはる萩の聲
放す所におらぬ松蟲
とある。元禄七年八月九日附の去来宛書簡に記されている。「あれあれて」の巻の時に引用した「しぶしぶの俳諧」の書簡だ。発句は雪芝だという。
発句の雨戸に萩の枝が触れるような田舎の小さな家から、そこに住む人の位で付けたということか。松虫を捕まえたものの、可哀相になって放してあげる、そういう心やさしい住人ということなのだろう。
あれあれて末は海行野分哉
靍の頭を上る粟の穂 芭蕉
の脇も、鶴をお目出度いものという寓意で用いずに、あえて「常体の気色」で用いるところなど、やはり晩年の脇の体といえよう。
芭蕉の脇に言及した部分はこれで終わりになり、ここから先は普通の付け句になる。
2019年10月24日木曜日
今年は台風の当たり年で、また台風が近づいている。直撃はなさそうだが、今夜も雨が降っている。
さて、先日の『三冊子』の続きで、芭蕉の脇の付け方を土芳を通して見てみよう。
「菜種干ス莚の端や夕涼み
蛍迯行あぢさいのはな
此脇、発句の位を見しめて事もなく付る句也。同前栽其あたりの似合敷物を寄。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』p.124)
この句は『校本芭蕉全集 第五巻』(小宮豐隆監修、中村俊定注、一九六八、角川書店)では元禄七年の夏の所にある。
菜種ほすむしろの端や夕涼み 曲翠
蛍迯行あぢさゐの花 翁
とある。
「迯」は「逃」と同じ。
菜種は菜の花が咲いたあと二ヶ月から三ヶ月で種になり収穫し、乾燥させる。その頃には暑くなり、菜種を乾燥させている筵の隅っこに座って夕涼みすることはよくあったのだろう。
発句の寓意を受けずにさらっと流すのは、芭蕉の晩年の脇の付け方だったのだろう。蕉風確立期なら「蛍の止まる」とでもしそうだ。意図的にその古いパターンをはずした風にも見える。
「霜寒き旅寝に蚊帳を着せ申
古人かやうの夜の木がらし
此脇、凩のさびしき夜、古へかやうの夜あるべしといふ句也。付心はその旅寝心高く見て、心を以て付たる句也。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』p.124)
この句は『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)では、『稿本野晒紀行』の、
霜の宿の旅寝に蚊帳をきせ申 如行
古人かやうの夜のこがらし 蕉
の形で収められている。貞享元年の『野ざらし紀行』の旅の途中での吟だったが、二年後の貞享三年に刊行された『春の日』では発句のみ、
霜寒き旅寝に蚊屋を着せ申 如行
と上五を直した形で掲載されている。
「蚊帳 暖かい」で検索してみたが、案外蚊帳は暖かいという。確かに蚊が通れないような細かい網だから、風も通さないのだろう。
如行の句は昔の人の知恵だったのだろう。今は新聞紙を防寒着に使うというのがよく言われているが、それに近いものか。
これに対し芭蕉は古人に思いを馳せて感慨を表わす。この古人を引き合いに出すあたりに蕉風確立期の古典回帰があらわれている。
「おくそこもなくて冬木の梢哉
小春に首の動くみのむし
この脇、あたたかなる日のみの虫なり。あるじの貌に客悦のいろを見せたるはたらきを付たる句也。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』p.124~125)
この句は『校本芭蕉全集 第四巻』(小宮豐隆監修、宮本三郎校注、一九六四、角川書店)では、
奥庭もなくて冬木の梢かな 露川
小春に首の動くみのむし 翁
となっている。元禄四年の句。
葉が落ちた木の向こうには透けて見える結構な庭があるわけでもない、と小さな庭を謙遜して詠んだ発句に対し、蓑虫も喜んで首を出しているよと答える。芭蕉が自分自身を蓑虫に喩え、「客」である芭蕉が「悦のいろを見せ」ている。
さて、先日の『三冊子』の続きで、芭蕉の脇の付け方を土芳を通して見てみよう。
「菜種干ス莚の端や夕涼み
蛍迯行あぢさいのはな
此脇、発句の位を見しめて事もなく付る句也。同前栽其あたりの似合敷物を寄。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』p.124)
この句は『校本芭蕉全集 第五巻』(小宮豐隆監修、中村俊定注、一九六八、角川書店)では元禄七年の夏の所にある。
菜種ほすむしろの端や夕涼み 曲翠
蛍迯行あぢさゐの花 翁
とある。
「迯」は「逃」と同じ。
菜種は菜の花が咲いたあと二ヶ月から三ヶ月で種になり収穫し、乾燥させる。その頃には暑くなり、菜種を乾燥させている筵の隅っこに座って夕涼みすることはよくあったのだろう。
発句の寓意を受けずにさらっと流すのは、芭蕉の晩年の脇の付け方だったのだろう。蕉風確立期なら「蛍の止まる」とでもしそうだ。意図的にその古いパターンをはずした風にも見える。
「霜寒き旅寝に蚊帳を着せ申
古人かやうの夜の木がらし
此脇、凩のさびしき夜、古へかやうの夜あるべしといふ句也。付心はその旅寝心高く見て、心を以て付たる句也。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』p.124)
この句は『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)では、『稿本野晒紀行』の、
霜の宿の旅寝に蚊帳をきせ申 如行
古人かやうの夜のこがらし 蕉
の形で収められている。貞享元年の『野ざらし紀行』の旅の途中での吟だったが、二年後の貞享三年に刊行された『春の日』では発句のみ、
霜寒き旅寝に蚊屋を着せ申 如行
と上五を直した形で掲載されている。
「蚊帳 暖かい」で検索してみたが、案外蚊帳は暖かいという。確かに蚊が通れないような細かい網だから、風も通さないのだろう。
如行の句は昔の人の知恵だったのだろう。今は新聞紙を防寒着に使うというのがよく言われているが、それに近いものか。
これに対し芭蕉は古人に思いを馳せて感慨を表わす。この古人を引き合いに出すあたりに蕉風確立期の古典回帰があらわれている。
「おくそこもなくて冬木の梢哉
小春に首の動くみのむし
この脇、あたたかなる日のみの虫なり。あるじの貌に客悦のいろを見せたるはたらきを付たる句也。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』p.124~125)
この句は『校本芭蕉全集 第四巻』(小宮豐隆監修、宮本三郎校注、一九六四、角川書店)では、
奥庭もなくて冬木の梢かな 露川
小春に首の動くみのむし 翁
となっている。元禄四年の句。
葉が落ちた木の向こうには透けて見える結構な庭があるわけでもない、と小さな庭を謙遜して詠んだ発句に対し、蓑虫も喜んで首を出しているよと答える。芭蕉が自分自身を蓑虫に喩え、「客」である芭蕉が「悦のいろを見せ」ている。
2019年10月22日火曜日
今日の即位の礼はあいにくの雨の中を行われた。大正・昭和・平成と即位の礼は大嘗祭の直前の十一月十日(平成は十二日)に行われて来たのに、どうして今回は神様のいない月になってしまったのか疑問だ。恵比寿様に祝福されたかったのか。(旧暦ではまだ長月だが、それだと新暦の大嘗祭は神無月になる。)
十月は関東では秋の長雨の続くことが多く、台風のシーズンでもある。雨は予想できただろうに。まあ虹が見えたというツイットもあったようだから、それはそれで目出度い。虹は凶兆だという説もあるが、天地は陰陽不測で、吉凶を判断するのは結局人間だ。
テレビで高御座(たかみくら)が紹介されていたが、花山天皇のことが思い出される。実質的な統治を行わない天皇の最大の仕事はお世継ぎを作ることだったから、昔はこういう話もタブーではなく、むしろ色好みを賛美する土壌があって、そこから『源氏物語』も生まれたのだろう。
安定した皇位継承者の数を確保するには、昔みたいに一夫多妻を認めるというのも一つの選択肢かもしれない。
女帝を認めるなら、もう一度宇佐八幡宮の神託を得る必要があるのではないか。
「あれあれて」の巻で苦戦していた土芳だが、のちに『三冊子』を書いたときに、この巻の芭蕉の脇にも触れている。
今回は『三冊子』に記された芭蕉の脇の付け方を見てゆくことにしよう。
「あれあれて末は海行野分かな
鶴のかしらをあぐる粟の穂
鳶の羽もかいつくろハぬ初しぐれ
一吹風の木の葉しづまる
此脇二は、前後付一体の句也。鶴の句は、野分冷じくあれ、漸おさまりて後をいふ句なり。静なる体を脇とす。
木の葉の句は、ほ句の前をいふ句也。脇に一あらし落葉を乱し、納りて後の鳶のけしきと見込て、発句の前の事をいふ也。ともにけしき句也。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』p.123)
「前後付一体の句」は江戸中期以降の注釈だと「二句一章」ということになるのだろうけど、一首の和歌のように緊密に付いているということか。
脇は発句の挨拶の寓意に対し、それを迎える主人の挨拶の寓意を込めることが多いが、この句はそうした寓意はなく、軽く景色を付けて流している。
たとえば『奥の細道』の頃だと、
風流の初めやおくの田植歌
覆盆子を折て我まうけ草 等躬
のように、風流(俳諧興行)を田植歌の興で始めましょうという挨拶に対し、それならイチゴを用意しましょうという風に同じく挨拶で受ける。
馬かりて燕追行別かな
花野みだるる山のまがりめ 曾良
にしても、行ってしまう芭蕉と曾良に対する北枝の別れの挨拶で、いくら馬でも燕には追いつけませんという寓意のある発句に対し、花の咲き乱れる野原で山の曲がり目だから、別れにふさわしい場所ですと会話するように付けている。
芭蕉の最後の興行になった「白菊の」の巻でも、
白菊の眼に立て見る塵もなし
紅葉に水を流すあさ月 その女
のように、芭蕉がその女を白菊に喩えたのに対し、朝早く流し場に立つ普通の女ですと寓意を込めた句で返している。
これからすると、「鶴のかしらをあぐる粟の穂」は寓意に乏しく、嵐の去った後の景色でさらっと流している。
「一吹風の木の葉しづまる」の句も発句の鳶の羽をかいつくろうというところから、風も収まったからだとする。
特別寓意に満ちた会話はないけど、「台風が去ったね」「鶴も首を挙げているよ」、「鳶が羽をつくろってるね」「風も収まったからね」というふうに会話になっている。
「寒菊の隣もありやいけ大根
冬さし籠る北窓の煤
此脇、同じ家の事を直に付たる也。内と外の様子也。煤の字有て句とす。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』p.123)
これは『校本芭蕉全集 第五巻』(小宮豐隆監修、中村俊定注、一九六八、角川書店)に、表三句が掲載されている。
深川の草庵をとぶらひて
寒菊の隣もありやいけ大根 許六
冬さし籠る北窓の煤 翁
月もなき宵から馬をつれて来て 嵐蘭
許六の「寒菊の」の句は『俳諧問答』にも登場し、「翁の論じて云ク、世間俳諧するもの、此場所ニ到て案ずるものなしと称し給ふ。」とある。
いけ大根は土に埋めて保存する大根で、寒菊の隣には大根も埋まっている。冬の花の孤独に咲く姿は寓意もあり、春を待つ冬大根もその寓意に寄り添う。
これに対しての芭蕉の脇は、寒菊といけ大根の外の景色に対し、さし籠る部屋の北窓には火を焚いた煤がこびりついてゆく、と受ける。「さし籠る」は「鎖し籠る」で引き籠るに同じ。
「煤の字有て句とす」というのは、ここに春までの時間の経過が感じられ、いけ大根の春を待つ情に応じているからだろう。
寓意を弱くして、発句の情を受けながらも、前と後、内と外と景を違えて付けるのが、芭蕉の晩年の脇の風だったのだろう。
「しるべして見せばやみのの田植うた
笠あらためん不破の五月雨
此脇、名所を以て付たる句也。心は不破を越る風流を句としたる也。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』p.123~124)
これは貞享五年夏の句。『校本芭蕉全集 第四巻』(小宮豐隆監修、宮本三郎校注、一九六四、角川書店)にはこうある。
ところどころ見めぐりて、洛に暫く旅ねせしほど、
みのの国よりたびたび消息有て、桑門己百のぬ
しみちしるべせむとて、とぶらひ来侍りて、
しるべして見せばやみのの田植歌 己百
笠あらためむ不破のさみだれ ばせを
「美濃の田植歌へとご案内しましょうか」という発句に対し、「それじゃあ不破の関の五月雨に備えて笠を新しくしましょう」と答える。
晩年の軽く景を付けて流す風ではなく、美濃への旅を思い描く中から、不破の関という途中の名所を付けている。
「秋の暮行先々の苫屋かな
荻にねようか萩にねようか
此脇、発句の心の末を直に付たる句なり。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』p.124)
これは元禄二年秋、『奥の細道』の旅の最後に伊勢へ向うときの句で、『校本芭蕉全集 第四巻』(小宮豐隆監修、宮本三郎校注、一九六四、角川書店)には四句が収められている。
ばせを、いせの国におもむけるを舟にて送り、
長嶋といふ江によせて立わかれし時、荻ふし
て見送り遠き別哉 木因。同時船中の興に
秋の暮行さきざきの苫屋哉 木因
萩に寝ようか荻に寝ようか ばせを
玉虫の顔かくされぬ月更て 路通
柄杓ながらの水のうまさよ 曾良
行く先々に苫屋があるという発句に、そのままそこで寝ようかと付けている。「萩」と「荻」の字が似ていて間違えやすいというところをネタにして、「萩に寝ようか荻に寝ようか」となる。
謡曲『松風』の在原行平の3Pを匂わせているのかもしれない。
十月は関東では秋の長雨の続くことが多く、台風のシーズンでもある。雨は予想できただろうに。まあ虹が見えたというツイットもあったようだから、それはそれで目出度い。虹は凶兆だという説もあるが、天地は陰陽不測で、吉凶を判断するのは結局人間だ。
テレビで高御座(たかみくら)が紹介されていたが、花山天皇のことが思い出される。実質的な統治を行わない天皇の最大の仕事はお世継ぎを作ることだったから、昔はこういう話もタブーではなく、むしろ色好みを賛美する土壌があって、そこから『源氏物語』も生まれたのだろう。
安定した皇位継承者の数を確保するには、昔みたいに一夫多妻を認めるというのも一つの選択肢かもしれない。
女帝を認めるなら、もう一度宇佐八幡宮の神託を得る必要があるのではないか。
「あれあれて」の巻で苦戦していた土芳だが、のちに『三冊子』を書いたときに、この巻の芭蕉の脇にも触れている。
今回は『三冊子』に記された芭蕉の脇の付け方を見てゆくことにしよう。
「あれあれて末は海行野分かな
鶴のかしらをあぐる粟の穂
鳶の羽もかいつくろハぬ初しぐれ
一吹風の木の葉しづまる
此脇二は、前後付一体の句也。鶴の句は、野分冷じくあれ、漸おさまりて後をいふ句なり。静なる体を脇とす。
木の葉の句は、ほ句の前をいふ句也。脇に一あらし落葉を乱し、納りて後の鳶のけしきと見込て、発句の前の事をいふ也。ともにけしき句也。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』p.123)
「前後付一体の句」は江戸中期以降の注釈だと「二句一章」ということになるのだろうけど、一首の和歌のように緊密に付いているということか。
脇は発句の挨拶の寓意に対し、それを迎える主人の挨拶の寓意を込めることが多いが、この句はそうした寓意はなく、軽く景色を付けて流している。
たとえば『奥の細道』の頃だと、
風流の初めやおくの田植歌
覆盆子を折て我まうけ草 等躬
のように、風流(俳諧興行)を田植歌の興で始めましょうという挨拶に対し、それならイチゴを用意しましょうという風に同じく挨拶で受ける。
馬かりて燕追行別かな
花野みだるる山のまがりめ 曾良
にしても、行ってしまう芭蕉と曾良に対する北枝の別れの挨拶で、いくら馬でも燕には追いつけませんという寓意のある発句に対し、花の咲き乱れる野原で山の曲がり目だから、別れにふさわしい場所ですと会話するように付けている。
芭蕉の最後の興行になった「白菊の」の巻でも、
白菊の眼に立て見る塵もなし
紅葉に水を流すあさ月 その女
のように、芭蕉がその女を白菊に喩えたのに対し、朝早く流し場に立つ普通の女ですと寓意を込めた句で返している。
これからすると、「鶴のかしらをあぐる粟の穂」は寓意に乏しく、嵐の去った後の景色でさらっと流している。
「一吹風の木の葉しづまる」の句も発句の鳶の羽をかいつくろうというところから、風も収まったからだとする。
特別寓意に満ちた会話はないけど、「台風が去ったね」「鶴も首を挙げているよ」、「鳶が羽をつくろってるね」「風も収まったからね」というふうに会話になっている。
「寒菊の隣もありやいけ大根
冬さし籠る北窓の煤
此脇、同じ家の事を直に付たる也。内と外の様子也。煤の字有て句とす。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』p.123)
これは『校本芭蕉全集 第五巻』(小宮豐隆監修、中村俊定注、一九六八、角川書店)に、表三句が掲載されている。
深川の草庵をとぶらひて
寒菊の隣もありやいけ大根 許六
冬さし籠る北窓の煤 翁
月もなき宵から馬をつれて来て 嵐蘭
許六の「寒菊の」の句は『俳諧問答』にも登場し、「翁の論じて云ク、世間俳諧するもの、此場所ニ到て案ずるものなしと称し給ふ。」とある。
いけ大根は土に埋めて保存する大根で、寒菊の隣には大根も埋まっている。冬の花の孤独に咲く姿は寓意もあり、春を待つ冬大根もその寓意に寄り添う。
これに対しての芭蕉の脇は、寒菊といけ大根の外の景色に対し、さし籠る部屋の北窓には火を焚いた煤がこびりついてゆく、と受ける。「さし籠る」は「鎖し籠る」で引き籠るに同じ。
「煤の字有て句とす」というのは、ここに春までの時間の経過が感じられ、いけ大根の春を待つ情に応じているからだろう。
寓意を弱くして、発句の情を受けながらも、前と後、内と外と景を違えて付けるのが、芭蕉の晩年の脇の風だったのだろう。
「しるべして見せばやみのの田植うた
笠あらためん不破の五月雨
此脇、名所を以て付たる句也。心は不破を越る風流を句としたる也。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』p.123~124)
これは貞享五年夏の句。『校本芭蕉全集 第四巻』(小宮豐隆監修、宮本三郎校注、一九六四、角川書店)にはこうある。
ところどころ見めぐりて、洛に暫く旅ねせしほど、
みのの国よりたびたび消息有て、桑門己百のぬ
しみちしるべせむとて、とぶらひ来侍りて、
しるべして見せばやみのの田植歌 己百
笠あらためむ不破のさみだれ ばせを
「美濃の田植歌へとご案内しましょうか」という発句に対し、「それじゃあ不破の関の五月雨に備えて笠を新しくしましょう」と答える。
晩年の軽く景を付けて流す風ではなく、美濃への旅を思い描く中から、不破の関という途中の名所を付けている。
「秋の暮行先々の苫屋かな
荻にねようか萩にねようか
此脇、発句の心の末を直に付たる句なり。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』p.124)
これは元禄二年秋、『奥の細道』の旅の最後に伊勢へ向うときの句で、『校本芭蕉全集 第四巻』(小宮豐隆監修、宮本三郎校注、一九六四、角川書店)には四句が収められている。
ばせを、いせの国におもむけるを舟にて送り、
長嶋といふ江によせて立わかれし時、荻ふし
て見送り遠き別哉 木因。同時船中の興に
秋の暮行さきざきの苫屋哉 木因
萩に寝ようか荻に寝ようか ばせを
玉虫の顔かくされぬ月更て 路通
柄杓ながらの水のうまさよ 曾良
行く先々に苫屋があるという発句に、そのままそこで寝ようかと付けている。「萩」と「荻」の字が似ていて間違えやすいというところをネタにして、「萩に寝ようか荻に寝ようか」となる。
謡曲『松風』の在原行平の3Pを匂わせているのかもしれない。
2019年10月20日日曜日
今日は横浜オクトーバーフェストに行き、九月の台風で落ちた梨を使ったという和梨のヴァイツェンを飲んだ。
そのほかにも横浜よさこい祭りを見たり、山手の洋館を見たりして、楽しい一日だった。
それでは「あれあれて」の巻の続き。挙句まで。
二裏。
三十一句目。
暫く岸に休む筏士
衣着て旅する心静也 芭蕉
「衣(ころも)」はweblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」に、
「①衣服。
出典万葉集 二八
「春過ぎて夏来たるらし白栲(しろたへ)のころも干(ほ)したり天(あま)の香具山(かぐやま)」
[訳] ⇒はるすぎてなつきたるらし…。
②僧の着る衣服。僧衣。
参考平安時代以後、①は歌語としてだけ用いられ、衣服一般には「きぬ(衣)」、その尊敬語には「おんぞ(御衣)」を使った。物語の地の文などで「ころも」と読むのは、もっぱら②の意味である。」
とある。
ただ、「ころもがえ」や「たびごろも」「なつごろも」という時は別に僧衣ではないし、和歌の言葉は俳諧にも引き継がれているから、僧衣でなくても「ころも」を使うのは珍しくない。
ただ、芭蕉が『奥の細道』の旅で詠んだ『奥の細道』未収録の、
種(いろ)の浜
衣着て小貝拾はんいろの月 芭蕉『荊口句帳』
のように単独で用いられると、何の衣かと言ったときには多分僧衣なのだろう。
汐そむるますほの小貝拾ふとて
色の浜とはいふにやあるらむ
西行法師
の歌に因んだものとなれば、西行法師のように僧衣を着てというふうに取れる。
まあ、旅をする時には僧形になる場合も多いから旅衣も僧衣の場合が多い。芭蕉も『野ざらし紀行』の伊勢の所で、
「腰間(ようかん)に寸鐵(すんてつ)をおびず。襟に一嚢(いちのう)をかけて、手に十八の珠を携ふ。僧に似て塵有(ちりあり)。俗ににて髪なし。我僧にあらずといへども、浮屠(ふと)の属にたぐへて、神前に入事(いること)をゆるさず。」
とあるし、『奥の細道』でも曾良を紹介する時、
「このたび松しま・象潟(きさかた)の眺(ながめ)共にせん事を悦び、且つは羈旅(きりょ)の難をいたはらんと、旅立暁(たびだつあかつき)髪を剃りて墨染にさまをかえ、惣五を改めて宗悟とす。」
とある。
この場合も、僧形で旅する心静也という意味でいいのだろう。仕事で急ぐ人と違い僧形の気ままな旅なら、筏がなかなか出なくてもいらいらしない、というところか。
三十二句目。
衣着て旅する心静也
加太へはいる関のわかれど 土芳
『芭蕉門古人真蹟』では最初上五が「伊賀路に」とあり、消して右に「加太へ」と書いてある。
江戸時代の東海道は関宿を出ると鈴鹿川を北上し、鈴鹿峠を越えて甲賀へと抜ける。ここを加太川(かぶとがわ)に沿ってゆくと伊賀へ抜ける。芭蕉にとっても伊賀の連衆にとってもお馴染みの道に違いない。
前句の旅人を芭蕉さんとして東海道を普通に行かずに伊賀に立ち寄るとしたのだろう。楽屋落ちとも言える。
ただ、「伊賀路」だとその作意が露骨なので、途中の地名の「加太」にしたのではないかと思う。
三十三句目。
加太へはいる関のわかれど
耳すねをそがるる様に横しぶき 猿雖
「耳すね」は『校本芭蕉全集 第五巻』の注に「耳のずい」とある。これでもよくわからない。耳たぶのことのようだが断定できないということか。
「横しぶき」はコトバンクの「大辞林 第三版の解説」に、
「横なぐりに降る雨のしぶき。」
とある。山中での悪天候に難儀する旅人を付ける。
苦しくも降り来る雨か神(みわ)が崎
狭野(さの)の渡りに家もあらなくに
長忌寸奥麿(万葉集)
の歌を髣髴させる。この歌は、
駒とめて袖打ち払ふ陰もなし
佐野のわたりの雪の夕暮れ
藤原定家朝臣(新古今集)
の本歌ということで、本歌取りの例として受験勉強で覚えさせられた人も多いことだろう。佐野は和歌山県新宮市の熊野路の佐野で、栃木県の佐野ではない。
三十四句目。
耳すねをそがるる様に横しぶき
行儀のわるき雇ひ六尺 望翠
「六尺」はコトバンクの「百科事典マイペディアの解説」には、
「陸尺とも記。江戸時代,武家における駕籠(かご)かき,掃除夫,賄(まかない)方などの雑用に従う人夫をいった。江戸城における六尺は奥六尺・表六尺・御膳所六尺・御風呂屋六尺など数百人に及び,彼らに支給するため天領から徴集した米を六尺給米といった。頭を除いてはいずれも御目見以下,二半場(にはんば),白衣勤,15俵1人扶持高であった。」
とある。ここでは武家のお抱えの駕籠かきのことか。
「行儀」はweblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」に、
「①なすべきこと。手本とすべき規範。
②立ち居振る舞い。また、その作法。」
とある。今日の「行儀が悪い」よりはやや広い意味で用いられていたか。
多分、風雨が強いのにいきなり駕籠の引き戸を開けたりしたのだろう。そんなことしたら雨が吹き込んでびしょぬれになる。
三十五句目。
行儀のわるき雇ひ六尺
大ぶりな蛸引あぐる花の陰 配刀
『芭蕉門古人真蹟』では、この句は最初、
行儀のわるき雇ひ六尺
花盛湯の呑度をこらへかね
だった。「呑度」は「のむたび」か。お湯を飲んでばかりいるということか。前句の「行儀のわるき」をそのまま付けたのだろう。打越も六尺の無調法なので、展開に乏しい。芭蕉としてはここは普段無調法の六尺も花の席で手柄を立てたというほうに持ってきたかったのだろう。
行儀のわるい人が急に行儀良くしても面白くないから、ここはそういう人だけ突拍子もないことをする、という方に持ってゆく。
場所は明石だろうか。花見の席で蛸壺を引き上げると、大ぶりな蛸がそこに。これは目出度い。「六尺」には「賄(まかない)方」の意味もあったから、これをその場で捌いてご馳走してくれたのだろう。
挙句。
大ぶりな蛸引あぐる花の陰
米の調子のたるむ二月 木白
『芭蕉門古人真蹟』では、この句は最初、
大ぶりな蛸引あぐる花の陰
戸を押明けてはいる朧夜
だった。「夜」の右に「の暮」と書いてあるが、「朧の暮」「春の暮」にしようとしたか。いずれにせよ字数が合わない。結局全部消して「米の調子」の句に治定する。
二月は米の相場も薄商いなのか。年貢米も集まり田植もまだという所で、相場があまり動かなかったのだろう。田植が始まればにわかに先物相場が活気付きそうだが。
八月九日付けの去来宛書簡に「しぶしぶの俳諧、散々の句のみ出候」とあるところからすると、最後の付けなおした二句は実質的に芭蕉の句だったのだろう。大タコも米相場もなかなか凡人の発想では出てこない。
ここでも木白が挙句を詠んでいるところを見ると、木白は主筆だったのだろう。そう見るとやはり十八句目の初案は半歌仙の挙句だったか。
そうなると十二句目の、
頃日は扇子の要仕習ひし
湖水の面月を見渡す 木白
の句は、みんなが付けあぐねている時に芭蕉が木白にも振ってみて、この句ができたら「これだ」と思って治定したか。
多分木白は普通に景を付けただけだったのだろう。ただ芭蕉はすぐに近江の国の高島扇骨のことが閃いたか。
十七句目の花の定座の時が特にそうだが、土芳も芭蕉の新しい風についていけずに苦戦していた感じが伝わってくる。
そのほかにも横浜よさこい祭りを見たり、山手の洋館を見たりして、楽しい一日だった。
それでは「あれあれて」の巻の続き。挙句まで。
二裏。
三十一句目。
暫く岸に休む筏士
衣着て旅する心静也 芭蕉
「衣(ころも)」はweblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」に、
「①衣服。
出典万葉集 二八
「春過ぎて夏来たるらし白栲(しろたへ)のころも干(ほ)したり天(あま)の香具山(かぐやま)」
[訳] ⇒はるすぎてなつきたるらし…。
②僧の着る衣服。僧衣。
参考平安時代以後、①は歌語としてだけ用いられ、衣服一般には「きぬ(衣)」、その尊敬語には「おんぞ(御衣)」を使った。物語の地の文などで「ころも」と読むのは、もっぱら②の意味である。」
とある。
ただ、「ころもがえ」や「たびごろも」「なつごろも」という時は別に僧衣ではないし、和歌の言葉は俳諧にも引き継がれているから、僧衣でなくても「ころも」を使うのは珍しくない。
ただ、芭蕉が『奥の細道』の旅で詠んだ『奥の細道』未収録の、
種(いろ)の浜
衣着て小貝拾はんいろの月 芭蕉『荊口句帳』
のように単独で用いられると、何の衣かと言ったときには多分僧衣なのだろう。
汐そむるますほの小貝拾ふとて
色の浜とはいふにやあるらむ
西行法師
の歌に因んだものとなれば、西行法師のように僧衣を着てというふうに取れる。
まあ、旅をする時には僧形になる場合も多いから旅衣も僧衣の場合が多い。芭蕉も『野ざらし紀行』の伊勢の所で、
「腰間(ようかん)に寸鐵(すんてつ)をおびず。襟に一嚢(いちのう)をかけて、手に十八の珠を携ふ。僧に似て塵有(ちりあり)。俗ににて髪なし。我僧にあらずといへども、浮屠(ふと)の属にたぐへて、神前に入事(いること)をゆるさず。」
とあるし、『奥の細道』でも曾良を紹介する時、
「このたび松しま・象潟(きさかた)の眺(ながめ)共にせん事を悦び、且つは羈旅(きりょ)の難をいたはらんと、旅立暁(たびだつあかつき)髪を剃りて墨染にさまをかえ、惣五を改めて宗悟とす。」
とある。
この場合も、僧形で旅する心静也という意味でいいのだろう。仕事で急ぐ人と違い僧形の気ままな旅なら、筏がなかなか出なくてもいらいらしない、というところか。
三十二句目。
衣着て旅する心静也
加太へはいる関のわかれど 土芳
『芭蕉門古人真蹟』では最初上五が「伊賀路に」とあり、消して右に「加太へ」と書いてある。
江戸時代の東海道は関宿を出ると鈴鹿川を北上し、鈴鹿峠を越えて甲賀へと抜ける。ここを加太川(かぶとがわ)に沿ってゆくと伊賀へ抜ける。芭蕉にとっても伊賀の連衆にとってもお馴染みの道に違いない。
前句の旅人を芭蕉さんとして東海道を普通に行かずに伊賀に立ち寄るとしたのだろう。楽屋落ちとも言える。
ただ、「伊賀路」だとその作意が露骨なので、途中の地名の「加太」にしたのではないかと思う。
三十三句目。
加太へはいる関のわかれど
耳すねをそがるる様に横しぶき 猿雖
「耳すね」は『校本芭蕉全集 第五巻』の注に「耳のずい」とある。これでもよくわからない。耳たぶのことのようだが断定できないということか。
「横しぶき」はコトバンクの「大辞林 第三版の解説」に、
「横なぐりに降る雨のしぶき。」
とある。山中での悪天候に難儀する旅人を付ける。
苦しくも降り来る雨か神(みわ)が崎
狭野(さの)の渡りに家もあらなくに
長忌寸奥麿(万葉集)
の歌を髣髴させる。この歌は、
駒とめて袖打ち払ふ陰もなし
佐野のわたりの雪の夕暮れ
藤原定家朝臣(新古今集)
の本歌ということで、本歌取りの例として受験勉強で覚えさせられた人も多いことだろう。佐野は和歌山県新宮市の熊野路の佐野で、栃木県の佐野ではない。
三十四句目。
耳すねをそがるる様に横しぶき
行儀のわるき雇ひ六尺 望翠
「六尺」はコトバンクの「百科事典マイペディアの解説」には、
「陸尺とも記。江戸時代,武家における駕籠(かご)かき,掃除夫,賄(まかない)方などの雑用に従う人夫をいった。江戸城における六尺は奥六尺・表六尺・御膳所六尺・御風呂屋六尺など数百人に及び,彼らに支給するため天領から徴集した米を六尺給米といった。頭を除いてはいずれも御目見以下,二半場(にはんば),白衣勤,15俵1人扶持高であった。」
とある。ここでは武家のお抱えの駕籠かきのことか。
「行儀」はweblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」に、
「①なすべきこと。手本とすべき規範。
②立ち居振る舞い。また、その作法。」
とある。今日の「行儀が悪い」よりはやや広い意味で用いられていたか。
多分、風雨が強いのにいきなり駕籠の引き戸を開けたりしたのだろう。そんなことしたら雨が吹き込んでびしょぬれになる。
三十五句目。
行儀のわるき雇ひ六尺
大ぶりな蛸引あぐる花の陰 配刀
『芭蕉門古人真蹟』では、この句は最初、
行儀のわるき雇ひ六尺
花盛湯の呑度をこらへかね
だった。「呑度」は「のむたび」か。お湯を飲んでばかりいるということか。前句の「行儀のわるき」をそのまま付けたのだろう。打越も六尺の無調法なので、展開に乏しい。芭蕉としてはここは普段無調法の六尺も花の席で手柄を立てたというほうに持ってきたかったのだろう。
行儀のわるい人が急に行儀良くしても面白くないから、ここはそういう人だけ突拍子もないことをする、という方に持ってゆく。
場所は明石だろうか。花見の席で蛸壺を引き上げると、大ぶりな蛸がそこに。これは目出度い。「六尺」には「賄(まかない)方」の意味もあったから、これをその場で捌いてご馳走してくれたのだろう。
挙句。
大ぶりな蛸引あぐる花の陰
米の調子のたるむ二月 木白
『芭蕉門古人真蹟』では、この句は最初、
大ぶりな蛸引あぐる花の陰
戸を押明けてはいる朧夜
だった。「夜」の右に「の暮」と書いてあるが、「朧の暮」「春の暮」にしようとしたか。いずれにせよ字数が合わない。結局全部消して「米の調子」の句に治定する。
二月は米の相場も薄商いなのか。年貢米も集まり田植もまだという所で、相場があまり動かなかったのだろう。田植が始まればにわかに先物相場が活気付きそうだが。
八月九日付けの去来宛書簡に「しぶしぶの俳諧、散々の句のみ出候」とあるところからすると、最後の付けなおした二句は実質的に芭蕉の句だったのだろう。大タコも米相場もなかなか凡人の発想では出てこない。
ここでも木白が挙句を詠んでいるところを見ると、木白は主筆だったのだろう。そう見るとやはり十八句目の初案は半歌仙の挙句だったか。
そうなると十二句目の、
頃日は扇子の要仕習ひし
湖水の面月を見渡す 木白
の句は、みんなが付けあぐねている時に芭蕉が木白にも振ってみて、この句ができたら「これだ」と思って治定したか。
多分木白は普通に景を付けただけだったのだろう。ただ芭蕉はすぐに近江の国の高島扇骨のことが閃いたか。
十七句目の花の定座の時が特にそうだが、土芳も芭蕉の新しい風についていけずに苦戦していた感じが伝わってくる。
2019年10月17日木曜日
「あれあれて」の巻の続き。
二十五句目。
たらゐの底に霰かたよる
燈に革屋細工の夜はふけて 土芳
「燈」は「ともしび」。革屋細工は穢多だろうか。火を灯して夜通し作業をしていると、霰が降ったのか盥の底に霰が風で一方の方に吹き寄せられている。
二十六句目。
燈に革屋細工の夜はふけて
鼬の声の棚本の先 配刀
「棚本(たなもと)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「〘名〙 台所。勝手元。流し元。また、そこでする仕事をいう。
※咄本・醒睡笑(1628)八「朝食をいそぎ用意し、〈略〉棚(タナ)もとその外掃除をきれいにして置きたり」
とある。
鼬(イタチ)の毛皮は高級品で、特にイタチの仲間であるテン(セーブル)は珍重された。『源氏物語』では末摘花がふるき(黒貂、ロシアンセーブル)の毛皮を着ていた。
皮革業者の台所の向こうでその高級毛皮の元が鳴いている。
二十七句目。
鼬の声の棚本の先
箒木は蒔ぬにはへて茂る也 芭蕉
箒木(ほうきぎ)はこの場合伝説のははきぎのことではなく、箒の材料となる草のこと。コトバンクの「大辞林 第三版の解説」には、
「アカザ科の一年草。高さ約1メートル。多数枝分かれし、狭披針形の葉を密に互生。夏、葉腋に淡緑色の小花を穂状につける。果実は小球形で、「とんぶり」と呼ばれ食用。茎は干して庭箒を作る。箒草。ハハキギ。」
とある。最近ではコキアといって、紅葉を観賞する。
外来の植物だが零れ種から自生することもある。
イタチの毛皮も役に立つし、自生のホウキギも役に立つ。役に立つつながりの響きで付けている。
二十八句目。
箒木は蒔ぬにはへて茂る也
干帷子のしめる三日月 猿雖
帷子(かたびら)は夏に着る単衣の着物。
帷子を干していると夕立が来て濡れてしまい、それが去ると夕暮れの空に三日月が浮かぶ。箒木の茂る頃の情景とした。
二十九句目。
干帷子のしめる三日月
神主は御供を持て上らるる 望翠
「御供(ごくう)」はお供え物のこと。朝夕に行われる。
三十句目。
神主は御供を持て上らるる
暫く岸に休む筏士 卓袋
「筏士(いかだし)」は筏師とも書く。ウィキペディアには、
「筏師(いかだし)とは、山で切り出した材木で筏を組み、河川で筏下しをすることによって運搬に従事することを業としていた者。筏夫(いかだふ)・筏乗(いかだのり)・筏士(いかだし)とも。」
とある。
大井川いはなみたかし筏士よ
岸の紅葉にあから目なせそ
源経信(金葉集)
筏士よ待て言問はむ水上は
いかばかり吹く山の嵐ぞ
藤原資宗朝臣(新古今集)
など、歌にも詠まれている。
神主が朝夕のお供えを運ぶころには、筏士は休憩の時間になる。向え付け。
二十五句目。
たらゐの底に霰かたよる
燈に革屋細工の夜はふけて 土芳
「燈」は「ともしび」。革屋細工は穢多だろうか。火を灯して夜通し作業をしていると、霰が降ったのか盥の底に霰が風で一方の方に吹き寄せられている。
二十六句目。
燈に革屋細工の夜はふけて
鼬の声の棚本の先 配刀
「棚本(たなもと)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「〘名〙 台所。勝手元。流し元。また、そこでする仕事をいう。
※咄本・醒睡笑(1628)八「朝食をいそぎ用意し、〈略〉棚(タナ)もとその外掃除をきれいにして置きたり」
とある。
鼬(イタチ)の毛皮は高級品で、特にイタチの仲間であるテン(セーブル)は珍重された。『源氏物語』では末摘花がふるき(黒貂、ロシアンセーブル)の毛皮を着ていた。
皮革業者の台所の向こうでその高級毛皮の元が鳴いている。
二十七句目。
鼬の声の棚本の先
箒木は蒔ぬにはへて茂る也 芭蕉
箒木(ほうきぎ)はこの場合伝説のははきぎのことではなく、箒の材料となる草のこと。コトバンクの「大辞林 第三版の解説」には、
「アカザ科の一年草。高さ約1メートル。多数枝分かれし、狭披針形の葉を密に互生。夏、葉腋に淡緑色の小花を穂状につける。果実は小球形で、「とんぶり」と呼ばれ食用。茎は干して庭箒を作る。箒草。ハハキギ。」
とある。最近ではコキアといって、紅葉を観賞する。
外来の植物だが零れ種から自生することもある。
イタチの毛皮も役に立つし、自生のホウキギも役に立つ。役に立つつながりの響きで付けている。
二十八句目。
箒木は蒔ぬにはへて茂る也
干帷子のしめる三日月 猿雖
帷子(かたびら)は夏に着る単衣の着物。
帷子を干していると夕立が来て濡れてしまい、それが去ると夕暮れの空に三日月が浮かぶ。箒木の茂る頃の情景とした。
二十九句目。
干帷子のしめる三日月
神主は御供を持て上らるる 望翠
「御供(ごくう)」はお供え物のこと。朝夕に行われる。
三十句目。
神主は御供を持て上らるる
暫く岸に休む筏士 卓袋
「筏士(いかだし)」は筏師とも書く。ウィキペディアには、
「筏師(いかだし)とは、山で切り出した材木で筏を組み、河川で筏下しをすることによって運搬に従事することを業としていた者。筏夫(いかだふ)・筏乗(いかだのり)・筏士(いかだし)とも。」
とある。
大井川いはなみたかし筏士よ
岸の紅葉にあから目なせそ
源経信(金葉集)
筏士よ待て言問はむ水上は
いかばかり吹く山の嵐ぞ
藤原資宗朝臣(新古今集)
など、歌にも詠まれている。
神主が朝夕のお供えを運ぶころには、筏士は休憩の時間になる。向え付け。
2019年10月16日水曜日
この前の台風で栃木県で那珂川に流された牛が、三十キロ川下の茨城県で発見されたというニュースがあった。牛は強い。
去年の広島豪雨で240メートル流されたポニーも無事で、今年の八月には出産までしている。動物が強いのか、それとも人間が弱すぎるのか。
まあ、そういうことで、
牛流す村のさはぎや五月雨 之道
の句も、牛は無事で良かった良かったという、洪水で被害の出ている中での数少ない明るいニュースだったのだろう。
それでは「あれあれて」の巻の続き。
十八句目の句は『芭蕉門古人真蹟』では最初、
焼さして柴取に行庭の花
柳につなぐ馬の片口 木白
になって、差し替えられている。
「片口(かたくち)」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、
「馬の口取り縄を、左または右の片方だけ引くこと。⇔諸口(もろくち)。
「或(ある)は諸口に引くもあり、或は―に引かせ」〈長門本平家・一六〉」
とある。
悪い句とは思えない。ただ、桜に柳と目出度く仕上げているあたり、ひょっとしたらこれは半歌仙の挙句だったのかもしれない。予定を変更してもっと続けようとなって、芭蕉が付けなおしたか。
二表。
十九句目。
こへかき廻す春の風筋
坪割の川よけの石積あげて 望翠
「川よけ」はコトバンクの「大辞林 第三版の解説」に、
「堤防など、河川の氾濫防止施設。また、その施設を造ること。」
とある。
堤防にするための石を土地の坪数ごとに割り振って積み上げてある状態であろう。
川は風の通り道になることが多い。川にきちんと堤防を築かないと、氾濫した川に肥が流れ出して大変なことになる。多摩川のことではないが。
二十句目。
坪割の川よけの石積あげて
日なた日なたに虱とり合 木白
川除普請のためにかき集められた人足たちだろうか。
夏衣いまだ虱をとりつくさず 芭蕉
の句もあるように、昔の人は虱と共存しているようなものだった。ありふれた光景だったのだろう。
二十一句目。
日なた日なたに虱とり合
大名の供の長さの果もなき 配刀
大名行列も時々休憩したりしたのだろう。道中では虱に悩まされることも多かった。
二十二句目。
大名の供の長さの果もなき
向のかかのおこる血の道 猿雖
「血の道」はコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」に、
「月経すなわち婦人の血に関係のある病態を総合したもので、月経時、月経前、月経後、妊娠時、分娩(ぶんべん)後(産褥(さんじょく)時)、流産後、妊娠中絶後、避妊手術後、更年期の血の道症に分けられる。症状としては、のぼせ、顔面紅潮、身体灼熱(しゃくねつ)感、冷え、めまい、耳鳴り、肩こり、頭痛、動悸(どうき)、発汗、興奮、不眠、月経不順、不正出血、肝斑(かんはん)、しびれ、脱力感などがあり、更年期障害類似の自律神経失調症ということができる。[矢数圭堂]」
とある。
大名行列見物は庶民の娯楽でもあり、徳川御三家以外は特に道にひれ伏す必要もなかったという。
ただ、長く見物していると、途中で具合の悪くなることもある。更年期のおばさんにとっては「はてのなき血の道」となることも。
前句の「はてもなき」を「道」で受ける、一種のうけてにはといってもいいだろう。
二十三句目。
向のかかのおこる血の道
一升は代を持て来ぬ酒の粕 芭蕉
『芭蕉門古人真蹟』では最初「一升は代を置て来ぬ酒の粕」として、その「置」を消して「持」と右に書いている。「来ぬ」も消してあるがふたたび「来ぬ」右に書いている。
「置」だと「だいをおきてこぬ」で字余りになるから、それを嫌ったのだろう。只酒かと思わせて、実は酒粕だった、それなら只でもおかしくないと落ちにする。
一升もの酒粕を何にするのかというと、多分向かいの更年期のおばばが粕漬けでも作るのだろう。
二十四句目。
一升は代を持て来ぬ酒の粕
たらゐの底に霰かたよる 望翠
酒一升を盥で飲めば、底の隅に酒粕が残る。それを霰に喩えたか。前句を只酒に取り成す。
去年の広島豪雨で240メートル流されたポニーも無事で、今年の八月には出産までしている。動物が強いのか、それとも人間が弱すぎるのか。
まあ、そういうことで、
牛流す村のさはぎや五月雨 之道
の句も、牛は無事で良かった良かったという、洪水で被害の出ている中での数少ない明るいニュースだったのだろう。
それでは「あれあれて」の巻の続き。
十八句目の句は『芭蕉門古人真蹟』では最初、
焼さして柴取に行庭の花
柳につなぐ馬の片口 木白
になって、差し替えられている。
「片口(かたくち)」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、
「馬の口取り縄を、左または右の片方だけ引くこと。⇔諸口(もろくち)。
「或(ある)は諸口に引くもあり、或は―に引かせ」〈長門本平家・一六〉」
とある。
悪い句とは思えない。ただ、桜に柳と目出度く仕上げているあたり、ひょっとしたらこれは半歌仙の挙句だったのかもしれない。予定を変更してもっと続けようとなって、芭蕉が付けなおしたか。
二表。
十九句目。
こへかき廻す春の風筋
坪割の川よけの石積あげて 望翠
「川よけ」はコトバンクの「大辞林 第三版の解説」に、
「堤防など、河川の氾濫防止施設。また、その施設を造ること。」
とある。
堤防にするための石を土地の坪数ごとに割り振って積み上げてある状態であろう。
川は風の通り道になることが多い。川にきちんと堤防を築かないと、氾濫した川に肥が流れ出して大変なことになる。多摩川のことではないが。
二十句目。
坪割の川よけの石積あげて
日なた日なたに虱とり合 木白
川除普請のためにかき集められた人足たちだろうか。
夏衣いまだ虱をとりつくさず 芭蕉
の句もあるように、昔の人は虱と共存しているようなものだった。ありふれた光景だったのだろう。
二十一句目。
日なた日なたに虱とり合
大名の供の長さの果もなき 配刀
大名行列も時々休憩したりしたのだろう。道中では虱に悩まされることも多かった。
二十二句目。
大名の供の長さの果もなき
向のかかのおこる血の道 猿雖
「血の道」はコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」に、
「月経すなわち婦人の血に関係のある病態を総合したもので、月経時、月経前、月経後、妊娠時、分娩(ぶんべん)後(産褥(さんじょく)時)、流産後、妊娠中絶後、避妊手術後、更年期の血の道症に分けられる。症状としては、のぼせ、顔面紅潮、身体灼熱(しゃくねつ)感、冷え、めまい、耳鳴り、肩こり、頭痛、動悸(どうき)、発汗、興奮、不眠、月経不順、不正出血、肝斑(かんはん)、しびれ、脱力感などがあり、更年期障害類似の自律神経失調症ということができる。[矢数圭堂]」
とある。
大名行列見物は庶民の娯楽でもあり、徳川御三家以外は特に道にひれ伏す必要もなかったという。
ただ、長く見物していると、途中で具合の悪くなることもある。更年期のおばさんにとっては「はてのなき血の道」となることも。
前句の「はてもなき」を「道」で受ける、一種のうけてにはといってもいいだろう。
二十三句目。
向のかかのおこる血の道
一升は代を持て来ぬ酒の粕 芭蕉
『芭蕉門古人真蹟』では最初「一升は代を置て来ぬ酒の粕」として、その「置」を消して「持」と右に書いている。「来ぬ」も消してあるがふたたび「来ぬ」右に書いている。
「置」だと「だいをおきてこぬ」で字余りになるから、それを嫌ったのだろう。只酒かと思わせて、実は酒粕だった、それなら只でもおかしくないと落ちにする。
一升もの酒粕を何にするのかというと、多分向かいの更年期のおばばが粕漬けでも作るのだろう。
二十四句目。
一升は代を持て来ぬ酒の粕
たらゐの底に霰かたよる 望翠
酒一升を盥で飲めば、底の隅に酒粕が残る。それを霰に喩えたか。前句を只酒に取り成す。
2019年10月15日火曜日
「あれあれて」の巻の続き。
十三句目。
湖水の面月を見渡す
わき指の小尻の露をぬぐふ也 配刀
『芭蕉門古人真蹟』は小尻のところが「こじろ」となっていて、「ろ」を消して右に「り」と書いてある。「こじろ」では意味がわからないので、単なる書き間違いか、伊賀では訛ってそう言ってたのかであろう。小尻は刀の鞘の先端で、金具が付いている。
脇差は武士でなくても持つことができた。『続猿蓑』の「八九間」の巻の九句目に、
孫が跡とる祖父の借銭
脇指に替てほしがる旅刀 芭蕉
とあるが、旅をする時に旅刀ではなく脇差をもつこともあり、「道中差」と呼ばれた。
湖の月を見ているこの人もおそらく旅人であろう。ひんやりとした夜風に脇差の鞘の先端の金具に露が降りる。
十四句目。
わき指の小尻の露をぬぐふ也
相撲にまけて云事もなし 猿雖
相撲に刀は付き物だったのだろう。『奥の細道』の山中温泉での三吟の四句目にも、
月よしと角力に袴踏ぬぎて
鞘ばしりしをやがてとめけり 北枝
とある。判定をめぐってトラブルになれば、脇差を抜くこともあったのだろう。ただ、完敗となれば刀を抜くこともできず、小尻の露を拭うだけ。どこか涙を思わせる。
今でも相撲の行司は脇差を持っている。差し違えをしたときに切腹するためだといわれているが、最初は喧嘩になった時のために持っていたのではないかと思う。審判に食って掛かるやつは他のスポーツでは普通に見られるし。
十五句目。
相撲にまけて云事もなし
山陰は山伏村の一かまへ 芭蕉
山伏といえば屈強の男というイメージがある。相撲に負けて相手はどんなやつだと思ったら、山陰の山伏村の山伏だった。それじゃあ仕方ない。
山伏といえば、『ひさご』の「木のもとに」の巻の十句目にも、
入込に諏訪の涌湯の夕ま暮
中にもせいの高き山伏 芭蕉
の句がある。
十六句目。
山陰は山伏村の一かまへ
崩れかかりて軒の蜂の巣 卓袋
その山伏村は荒れ果てて軒には蜂の巣がそのままになっている。
十七句目。
崩れかかりて軒の蜂の巣
焼さして柴取に行庭の花 土芳
『芭蕉門古人真蹟』は「花盛真柴をはこぶ」と書いて、「花盛」を消して右に「焼(たき)さして」と書き、「焼さして真柴をはこぶ花」とまで書いて、「花」を消して下に庭の花とし、「真」と「をはこぶ」を消して右に「取に行」とする。
複雑だが、
花盛真柴をはこぶ
焼さして真柴をはこぶ花
焼さして真柴をはこぶ庭の花
焼さして柴取に行庭の花
の順だったと思われる。
花の定座なので最初に「花盛」とし、荒れた家に「真柴をはこぶ」と付けたが後が続かず、花を後に持ってきて「焼(たき)さして」の上五を置いたのだろう。
火をつけようとして真柴をはこぶという意味で、崩れかかった家の生活感を描き出す。そしてそこに花ということで、おそらく花盛り、花の庭などと考えて「庭の花」に落ち着いたのだろう。
「焼さして真柴をはこぶ庭の花」でも良さそうなものだが、「真柴をはこぶ」の四三のリズムが今ひとつだったか、最終的に「焼さして柴取に行庭の花」で治定ということになる。
十八句目。
焼さして柴取に行庭の花
こへかき廻す春の風筋 芭蕉
花に春風は付き物で、前句が田舎の景色ということで糞(こへ)の匂いを付ける。
『炭俵』の「むめがかに」の巻の十九句目にも、
門で押るる壬生の念仏
東風々(こちかぜ)に糞(こへ)のいきれを吹まはし 芭蕉
の句がある。
十三句目。
湖水の面月を見渡す
わき指の小尻の露をぬぐふ也 配刀
『芭蕉門古人真蹟』は小尻のところが「こじろ」となっていて、「ろ」を消して右に「り」と書いてある。「こじろ」では意味がわからないので、単なる書き間違いか、伊賀では訛ってそう言ってたのかであろう。小尻は刀の鞘の先端で、金具が付いている。
脇差は武士でなくても持つことができた。『続猿蓑』の「八九間」の巻の九句目に、
孫が跡とる祖父の借銭
脇指に替てほしがる旅刀 芭蕉
とあるが、旅をする時に旅刀ではなく脇差をもつこともあり、「道中差」と呼ばれた。
湖の月を見ているこの人もおそらく旅人であろう。ひんやりとした夜風に脇差の鞘の先端の金具に露が降りる。
十四句目。
わき指の小尻の露をぬぐふ也
相撲にまけて云事もなし 猿雖
相撲に刀は付き物だったのだろう。『奥の細道』の山中温泉での三吟の四句目にも、
月よしと角力に袴踏ぬぎて
鞘ばしりしをやがてとめけり 北枝
とある。判定をめぐってトラブルになれば、脇差を抜くこともあったのだろう。ただ、完敗となれば刀を抜くこともできず、小尻の露を拭うだけ。どこか涙を思わせる。
今でも相撲の行司は脇差を持っている。差し違えをしたときに切腹するためだといわれているが、最初は喧嘩になった時のために持っていたのではないかと思う。審判に食って掛かるやつは他のスポーツでは普通に見られるし。
十五句目。
相撲にまけて云事もなし
山陰は山伏村の一かまへ 芭蕉
山伏といえば屈強の男というイメージがある。相撲に負けて相手はどんなやつだと思ったら、山陰の山伏村の山伏だった。それじゃあ仕方ない。
山伏といえば、『ひさご』の「木のもとに」の巻の十句目にも、
入込に諏訪の涌湯の夕ま暮
中にもせいの高き山伏 芭蕉
の句がある。
十六句目。
山陰は山伏村の一かまへ
崩れかかりて軒の蜂の巣 卓袋
その山伏村は荒れ果てて軒には蜂の巣がそのままになっている。
十七句目。
崩れかかりて軒の蜂の巣
焼さして柴取に行庭の花 土芳
『芭蕉門古人真蹟』は「花盛真柴をはこぶ」と書いて、「花盛」を消して右に「焼(たき)さして」と書き、「焼さして真柴をはこぶ花」とまで書いて、「花」を消して下に庭の花とし、「真」と「をはこぶ」を消して右に「取に行」とする。
複雑だが、
花盛真柴をはこぶ
焼さして真柴をはこぶ花
焼さして真柴をはこぶ庭の花
焼さして柴取に行庭の花
の順だったと思われる。
花の定座なので最初に「花盛」とし、荒れた家に「真柴をはこぶ」と付けたが後が続かず、花を後に持ってきて「焼(たき)さして」の上五を置いたのだろう。
火をつけようとして真柴をはこぶという意味で、崩れかかった家の生活感を描き出す。そしてそこに花ということで、おそらく花盛り、花の庭などと考えて「庭の花」に落ち着いたのだろう。
「焼さして真柴をはこぶ庭の花」でも良さそうなものだが、「真柴をはこぶ」の四三のリズムが今ひとつだったか、最終的に「焼さして柴取に行庭の花」で治定ということになる。
十八句目。
焼さして柴取に行庭の花
こへかき廻す春の風筋 芭蕉
花に春風は付き物で、前句が田舎の景色ということで糞(こへ)の匂いを付ける。
『炭俵』の「むめがかに」の巻の十九句目にも、
門で押るる壬生の念仏
東風々(こちかぜ)に糞(こへ)のいきれを吹まはし 芭蕉
の句がある。
2019年10月14日月曜日
昨日の台風一過も一転して今日は一日雨がしとしと降る天気だった。
上流から流れてきた水で新たに冠水したところもあり、台風の被害が広がっている。
まあ、今回の台風の教訓といえば、八ツ場ダムにしても多摩川のスーパー堤防にしても、治水に関してはお金をケチってはいけないということか。やはり人命には変え難いし、経済活動にも支障が出るから結局金銭的にも損をすることになる。
台風も地震も津波もないヨーロッパとの比較は日本ではあまり役に立たないように思える。
東アジアの政治は古代から治水のための戦いだった。黄河や長江を抱える中国で、強力な中央集権国家が続いたのもそういう事情があったからだろう。
こうした中から人と人の絆を重視する儒教の哲学が生まれ、日本はうまくそういった絆や団結力を維持したまま民主化することに成功したが、なかなか中国では難しいのかもしれない。韓国が脱落しなければいいが。
風流の道も儒教文化が生んだもので、それが今のジャパンクールにも生きている。思想性が強くて賛否に分かれ、互いに不快な思いをするような分断をもたらす芸術ではなく、多様性を認め合いながらもみんなの心を一つにする芸術、それが理想だ。理性の芸術ではなく魂の芸術が必要だ。
それでは「あれあれて」の巻の続き。
初裏。
七句目。
きうくつそうに袴鳴なり
燭台の小き家にかがやきて 芭蕉
蝋燭は江戸時代では高価で庶民は行燈を用いていた。袴を窮屈そうに履いている人に、見分不相応ということで、小さい家の蝋燭と展開している。
八句目。
燭台の小き家にかがやきて
名ぬしと地下と立分る判 猿雖
『芭蕉門古人真蹟』には、「名ぬし」の横に「庄屋」と書いて消してある。
「名主(なぬし)」はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、
「江戸時代の村役人,町役人。郷村では村落の長として村政を統轄。組頭,百姓代と合せて村方三役と呼ばれ,郡奉行や代官の支配を受けた。名主の呼称は主として関東で行われ,関西では庄屋と称した。初期には土豪的農民の世襲が多かったが,中期以降は一代限りとなり,惣百姓の入札,推薦によることが多くなった。ほかに町方で町奉行の支配を受けて町政を担当する町名主や牢名主などがあった。」
これだと名主と庄屋は関東と関西での名前の呼び方の違いのようにも見えるが、伊賀の猿雖があえて最初に関西で一般的な庄屋ではなく「名ぬし」と言ったのは、おそらく田舎の庄屋ではなく町名主の意味で言おうとしてたからではないかと思う。
町名主はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、
「江戸時代、町の支配に当たった町役人。地域により町年寄・町代・肝煎(きもいり)などとも称した。江戸の場合、町年寄の下に、数町から十数町に一人の町名主が置かれていた。」
とある。芭蕉が江戸に出てくるときにお世話になった卜尺(小沢太郎兵衛)も町名主だった。(小沢の左側を消すと卜尺になる。今気付いた。)
「地下(じげ」はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、
「平安時代,殿上人に対して,昇殿の許されなかった官人をいった。地下人ともいい,また,殿上人を「うえびと」というのに対して,「しもびと」とも呼んだ。元来,昇殿は機能または官職によって許されるものであったため,公卿でも地下公卿,地下上達部 (かんだちめ) のような昇殿しない人や,四位,五位の地下の諸大夫もいたが,普通は六位以下の官人をさした。近世になると家格が一定し,家柄によって堂上,地下と分れた。その他,広く宮中に仕える者以外の人,農民を中心に庶民を地下と呼ぶ場合もあった。 (→名子被官制度 )」
とある。この場合は最後の単なる庶民の意味であろう。
地下の家に名主が来たので小さい家に蝋燭が灯るとする。
余談だが、地下というと『去来抄』「同門評」の芭蕉の「山路きて」の句の所に、
「湖春曰、菫ハ山によまず。芭蕉翁俳諧に巧なりと云へども、歌学なきの過也。去来曰、山路に菫をよミたる證歌多し。湖春ハ地下の歌道者也。」
とある。
湖春はウィキペディアによれば、
「元禄2年(1689年)父季吟と共に再度幕府に召し出され、江戸に移住し幕府歌学方に奉仕し歌果院と号す。湖春は父季吟とは別に俸禄200俵を幕府より役料として賜る。」
とあり庶民とは言い難いが、「昇殿の許されなかった官人」という元の意味では地下にちがいない。まあ、それをいえば頓阿も正徹も宗祇も地下になる。西行の出家前の左兵衛尉義清だったころの官位ははっきりしないが、かなり微妙な所にいる。
九句目。
名ぬしと地下と立分る判
焼めしをわりても中のつめたくて 望翠
「焼めし」は2016年9月29日の俳話で、
焼飯に青山椒を力かな 桃隣
の句のときに触れたが、兵糧や非常食に用いられる携帯できるもので、焼きおにぎりかきりたんぽに近いものだったようだ。桃隣の句も鳴子峡という険しい山道を越える時の句だった。
携帯する時にサランラップやアルミ箔などない時代だから、べとつかないように外側を焼いていたのだろう。外は熱くても中は冷たかったりする。
この句は「中」を「仲」に掛けるばかりでなく、「わりて」と「立わかる」が掛けてにはになっている貞門風の古風な付け方だ。
十句目。
焼めしをわりても中のつめたくて
おもひ窟て出ぬくらがり 土芳
『芭蕉門古人真蹟』には、「窟て」の所は最初「初より」とあり、右に「有、屈」と書いて又消して、左に「くつして」と書いて消して「窟(くつし)て」に定まっている。
焼めしをわりても中のつめたくて
おもひ初より出ぬくらがり
であれば、恋に転じたことが明白になる。「仲のつめたくて」からの素直な反応とも言える。
焼めしのように一見脈がありそうでも逢えば冷たい人を、なかなか心を開いてくれない、「出ぬくらがり」と表現している。
焼めしをわりても中のつめたくて
おもひ有より出ぬくらがり
も似たような意味になる。
これが、
焼めしをわりても中のつめたくて
おもひ屈して出ぬくらがり
となると、冷たいから思いも屈して暗がりを出られないと、男のほうの暗がりになる。
最初の「おもひ初より」に比べ「おもひ屈して」は恋の情として伝わりにくくなり、展開はしやすくなるが恋を軽視してるのではないかとも取れる。
十一句目。
おもひ窟て出ぬくらがり
頃日は扇子の要仕習ひし 卓袋
「仕習(しなら)ふ」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「① いつも行なう。よくなれる。よくなれてうまくなる。
※宇津保(970‐999頃)吹上下「源氏に琴の御琴たまひて遊ばす。つつむ事なく、おぼめく事なし。『いかで、かくはしならひけん』と仰せ給て」
② 学んで自分のものにする。修行する。
※応永本論語抄(1420)子張第一九「朝夕我がするわざを目に見、耳にきいて調練する処でしならふ也」
となる。
「扇子の要」は普通は扇子の骨を根もとで一まとめに止めている部分のことだが、それだと意味が通らない。扇子舞の肝心要ということか。なかなか難しくて悩んで塞ぎこむ。
十二句目。
頃日は扇子の要仕習ひし
湖水の面月を見渡す 木白
ここで木白が加わる。伊賀藩士で藤堂長定の家臣。後に苔蘇と号を変える。
湖水に映る月に扇の舞いはいかにもという感じではある。
あるいは近江の国の高島扇骨のことか。滋賀県のホームページに、
「史実では江戸時代、徳川五代将軍綱吉の頃、市内に流れる安曇川の氾濫を防ぐために植えられた竹を使って、冬の間の農閑期の仕事として始められたと伝えている。」
とある。詳しいことはよくわからない。だが、時代的には「頃日は扇子の要仕習ひし」と一致する。
上流から流れてきた水で新たに冠水したところもあり、台風の被害が広がっている。
まあ、今回の台風の教訓といえば、八ツ場ダムにしても多摩川のスーパー堤防にしても、治水に関してはお金をケチってはいけないということか。やはり人命には変え難いし、経済活動にも支障が出るから結局金銭的にも損をすることになる。
台風も地震も津波もないヨーロッパとの比較は日本ではあまり役に立たないように思える。
東アジアの政治は古代から治水のための戦いだった。黄河や長江を抱える中国で、強力な中央集権国家が続いたのもそういう事情があったからだろう。
こうした中から人と人の絆を重視する儒教の哲学が生まれ、日本はうまくそういった絆や団結力を維持したまま民主化することに成功したが、なかなか中国では難しいのかもしれない。韓国が脱落しなければいいが。
風流の道も儒教文化が生んだもので、それが今のジャパンクールにも生きている。思想性が強くて賛否に分かれ、互いに不快な思いをするような分断をもたらす芸術ではなく、多様性を認め合いながらもみんなの心を一つにする芸術、それが理想だ。理性の芸術ではなく魂の芸術が必要だ。
それでは「あれあれて」の巻の続き。
初裏。
七句目。
きうくつそうに袴鳴なり
燭台の小き家にかがやきて 芭蕉
蝋燭は江戸時代では高価で庶民は行燈を用いていた。袴を窮屈そうに履いている人に、見分不相応ということで、小さい家の蝋燭と展開している。
八句目。
燭台の小き家にかがやきて
名ぬしと地下と立分る判 猿雖
『芭蕉門古人真蹟』には、「名ぬし」の横に「庄屋」と書いて消してある。
「名主(なぬし)」はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、
「江戸時代の村役人,町役人。郷村では村落の長として村政を統轄。組頭,百姓代と合せて村方三役と呼ばれ,郡奉行や代官の支配を受けた。名主の呼称は主として関東で行われ,関西では庄屋と称した。初期には土豪的農民の世襲が多かったが,中期以降は一代限りとなり,惣百姓の入札,推薦によることが多くなった。ほかに町方で町奉行の支配を受けて町政を担当する町名主や牢名主などがあった。」
これだと名主と庄屋は関東と関西での名前の呼び方の違いのようにも見えるが、伊賀の猿雖があえて最初に関西で一般的な庄屋ではなく「名ぬし」と言ったのは、おそらく田舎の庄屋ではなく町名主の意味で言おうとしてたからではないかと思う。
町名主はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、
「江戸時代、町の支配に当たった町役人。地域により町年寄・町代・肝煎(きもいり)などとも称した。江戸の場合、町年寄の下に、数町から十数町に一人の町名主が置かれていた。」
とある。芭蕉が江戸に出てくるときにお世話になった卜尺(小沢太郎兵衛)も町名主だった。(小沢の左側を消すと卜尺になる。今気付いた。)
「地下(じげ」はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、
「平安時代,殿上人に対して,昇殿の許されなかった官人をいった。地下人ともいい,また,殿上人を「うえびと」というのに対して,「しもびと」とも呼んだ。元来,昇殿は機能または官職によって許されるものであったため,公卿でも地下公卿,地下上達部 (かんだちめ) のような昇殿しない人や,四位,五位の地下の諸大夫もいたが,普通は六位以下の官人をさした。近世になると家格が一定し,家柄によって堂上,地下と分れた。その他,広く宮中に仕える者以外の人,農民を中心に庶民を地下と呼ぶ場合もあった。 (→名子被官制度 )」
とある。この場合は最後の単なる庶民の意味であろう。
地下の家に名主が来たので小さい家に蝋燭が灯るとする。
余談だが、地下というと『去来抄』「同門評」の芭蕉の「山路きて」の句の所に、
「湖春曰、菫ハ山によまず。芭蕉翁俳諧に巧なりと云へども、歌学なきの過也。去来曰、山路に菫をよミたる證歌多し。湖春ハ地下の歌道者也。」
とある。
湖春はウィキペディアによれば、
「元禄2年(1689年)父季吟と共に再度幕府に召し出され、江戸に移住し幕府歌学方に奉仕し歌果院と号す。湖春は父季吟とは別に俸禄200俵を幕府より役料として賜る。」
とあり庶民とは言い難いが、「昇殿の許されなかった官人」という元の意味では地下にちがいない。まあ、それをいえば頓阿も正徹も宗祇も地下になる。西行の出家前の左兵衛尉義清だったころの官位ははっきりしないが、かなり微妙な所にいる。
九句目。
名ぬしと地下と立分る判
焼めしをわりても中のつめたくて 望翠
「焼めし」は2016年9月29日の俳話で、
焼飯に青山椒を力かな 桃隣
の句のときに触れたが、兵糧や非常食に用いられる携帯できるもので、焼きおにぎりかきりたんぽに近いものだったようだ。桃隣の句も鳴子峡という険しい山道を越える時の句だった。
携帯する時にサランラップやアルミ箔などない時代だから、べとつかないように外側を焼いていたのだろう。外は熱くても中は冷たかったりする。
この句は「中」を「仲」に掛けるばかりでなく、「わりて」と「立わかる」が掛けてにはになっている貞門風の古風な付け方だ。
十句目。
焼めしをわりても中のつめたくて
おもひ窟て出ぬくらがり 土芳
『芭蕉門古人真蹟』には、「窟て」の所は最初「初より」とあり、右に「有、屈」と書いて又消して、左に「くつして」と書いて消して「窟(くつし)て」に定まっている。
焼めしをわりても中のつめたくて
おもひ初より出ぬくらがり
であれば、恋に転じたことが明白になる。「仲のつめたくて」からの素直な反応とも言える。
焼めしのように一見脈がありそうでも逢えば冷たい人を、なかなか心を開いてくれない、「出ぬくらがり」と表現している。
焼めしをわりても中のつめたくて
おもひ有より出ぬくらがり
も似たような意味になる。
これが、
焼めしをわりても中のつめたくて
おもひ屈して出ぬくらがり
となると、冷たいから思いも屈して暗がりを出られないと、男のほうの暗がりになる。
最初の「おもひ初より」に比べ「おもひ屈して」は恋の情として伝わりにくくなり、展開はしやすくなるが恋を軽視してるのではないかとも取れる。
十一句目。
おもひ窟て出ぬくらがり
頃日は扇子の要仕習ひし 卓袋
「仕習(しなら)ふ」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「① いつも行なう。よくなれる。よくなれてうまくなる。
※宇津保(970‐999頃)吹上下「源氏に琴の御琴たまひて遊ばす。つつむ事なく、おぼめく事なし。『いかで、かくはしならひけん』と仰せ給て」
② 学んで自分のものにする。修行する。
※応永本論語抄(1420)子張第一九「朝夕我がするわざを目に見、耳にきいて調練する処でしならふ也」
となる。
「扇子の要」は普通は扇子の骨を根もとで一まとめに止めている部分のことだが、それだと意味が通らない。扇子舞の肝心要ということか。なかなか難しくて悩んで塞ぎこむ。
十二句目。
頃日は扇子の要仕習ひし
湖水の面月を見渡す 木白
ここで木白が加わる。伊賀藩士で藤堂長定の家臣。後に苔蘇と号を変える。
湖水に映る月に扇の舞いはいかにもという感じではある。
あるいは近江の国の高島扇骨のことか。滋賀県のホームページに、
「史実では江戸時代、徳川五代将軍綱吉の頃、市内に流れる安曇川の氾濫を防ぐために植えられた竹を使って、冬の間の農閑期の仕事として始められたと伝えている。」
とある。詳しいことはよくわからない。だが、時代的には「頃日は扇子の要仕習ひし」と一致する。
2019年10月13日日曜日
今日は台風一過で長月の十五夜の月が見える。
今度の台風は関東直撃と言われながらも、関東よりもむしろ長野や福島、宮城など、かなり広域で被害が出た。台風が来るたびに繰り返されることとはいえ、自然はやはり恐ろしい。ただ、とりあえず東京の下町水没という「天気の子」にはならずにすんだ。
こういうときだから、次に読む俳諧は時期的に一ヵ月半ほど遡って、元禄七年七月二十八日の夜、伊賀の猿雖亭で興行された歌仙にしてみた。
発句は、
元禄七七月廿八日夜猿雖亭
あれあれて末は海行野分哉 猿雖
元禄七年の七月に、伊賀の方を襲う台風があったのだろう。
今日のような台風情報がなかった時代だから、台風の進路についてどの程度の認識があったのかはよくわからない。ただ、日本は島国だからどのみち最後は海に出ることになる。
木枯の果てはありけり海の音 言水
のような感覚だったのか。
この少しあとに書かれた八月九日付けの去来宛書簡には、
「爰元度々会御座候へ共、いまだかるみに移り兼、しぶしぶの俳諧、散々の句のみ出候而致迷惑候。此中脇二つ致候間、懸御目候。
〇をりをりや雨戸にさはる荻の声
放すところにをらぬ松虫
〇荒れ荒れて末は海行く野分かな
鶴の頭をあぐる粟の穂
鶴は常体之気しきに落可申候哉。」
とある。
伊賀での俳諧がなかなか猿蓑調を抜け出なくて苦労していたことが窺われる。
「あれあれて」の巻は『校本芭蕉全集 第五巻』(小宮豐隆監修、中村俊定注、一九六八、角川書店)に二つのテキストが収められている。
一つは『芭蕉門古人真蹟』(蝶夢編)にある、推敲課程のわかる未定稿で、もう一つは『芭蕉翁遺芳』(芭蕉翁顕彰会, 1973)所載の「芭蕉真蹟懐紙」を底本とし、『今日の昔』(朱拙編、元禄十二年刊)との校異を注に示したとある。
ここでは後者を用いることにする。
発句は台風が去っての興行ということで、大変だったけどここで興行ができましたという挨拶になる。
これに対し芭蕉はこう答える。
あれあれて末は海行野分哉
靍の頭を上る粟の穂 芭蕉
二〇一八年八月十六日の俳話にも書いたが、芭蕉の粟の発句は二句ある。
よき家や雀よろこぶ背戸の秋 芭蕉
粟稗にとぼしくもあらず草の庵 芭蕉
「よき家や」の句は貞享五年七月八日、『笈の小文』の旅の途中に鳴海の知足亭を尋ねた時の句で、「粟稗に」の句は同じ年の七月二十日、名古屋の竹葉軒長虹の家で行われた興行の発句だった。
七月やまづ粟の穂に秋の風 許六
の句もあるように粟の穂は七月初秋のものだった。粟の収穫は中秋の初めになる。
鶴は冬鳥だが、当時はコウノトリを鶴と呼ぶこともあった。粟の穂は垂れて鶴は頭を上げる。
去来宛書簡の「鶴は常体之気しきに落可」というのは鶴のお目出度さを詠んでないという意味か。
第三は伊賀の配刀が付ける。
靍の頭を上る粟の穂
朝月夜駕籠に漸追付て 配刀
配刀は『校本芭蕉全集 第五巻』の注に、藤堂藩伊賀付作事目付役、食禄三百石」とある。
鶴は殿様、粟の穂は家臣に喩えられる。朝の出発に遅刻したのがいたか。そりゃ頭が上がらない。
四句目。
朝月夜駕籠に漸追付て
ちやの煙たる暖簾の皺 望翠
駕籠に追いつくという旅体に街道の茶屋を付ける。皺のよった暖簾がうらさびた感じがする。
五句目。
ちやの煙たる暖簾の皺
かつたりと枴をおろす雑水取 土芳
「枴(あふご)」はweblio辞書の「歴史民俗用語辞典」に、
「物を荷う棒、天秤棒。」
とある。「雑水取(ざうすゐとり)」は『校本芭蕉全集 第五巻』の注に「雑炊を炊事場から運ぶ人」とある。
『芭蕉門古人真蹟』(蝶夢編)には「荷ふたる」を消して右に「かつたりと」とある。こういう擬音の使用が炭俵調以降の軽みの一つの特徴でもあった。
雑炊は元禄九年刊の『本朝食鑑』には「粥之水多キ者也」とあるという。
六句目。
かつたりと枴をおろす雑水取
きうくつそうに袴鳴なり 卓袋
雑炊取は袴を履いていたようだ。
今度の台風は関東直撃と言われながらも、関東よりもむしろ長野や福島、宮城など、かなり広域で被害が出た。台風が来るたびに繰り返されることとはいえ、自然はやはり恐ろしい。ただ、とりあえず東京の下町水没という「天気の子」にはならずにすんだ。
こういうときだから、次に読む俳諧は時期的に一ヵ月半ほど遡って、元禄七年七月二十八日の夜、伊賀の猿雖亭で興行された歌仙にしてみた。
発句は、
元禄七七月廿八日夜猿雖亭
あれあれて末は海行野分哉 猿雖
元禄七年の七月に、伊賀の方を襲う台風があったのだろう。
今日のような台風情報がなかった時代だから、台風の進路についてどの程度の認識があったのかはよくわからない。ただ、日本は島国だからどのみち最後は海に出ることになる。
木枯の果てはありけり海の音 言水
のような感覚だったのか。
この少しあとに書かれた八月九日付けの去来宛書簡には、
「爰元度々会御座候へ共、いまだかるみに移り兼、しぶしぶの俳諧、散々の句のみ出候而致迷惑候。此中脇二つ致候間、懸御目候。
〇をりをりや雨戸にさはる荻の声
放すところにをらぬ松虫
〇荒れ荒れて末は海行く野分かな
鶴の頭をあぐる粟の穂
鶴は常体之気しきに落可申候哉。」
とある。
伊賀での俳諧がなかなか猿蓑調を抜け出なくて苦労していたことが窺われる。
「あれあれて」の巻は『校本芭蕉全集 第五巻』(小宮豐隆監修、中村俊定注、一九六八、角川書店)に二つのテキストが収められている。
一つは『芭蕉門古人真蹟』(蝶夢編)にある、推敲課程のわかる未定稿で、もう一つは『芭蕉翁遺芳』(芭蕉翁顕彰会, 1973)所載の「芭蕉真蹟懐紙」を底本とし、『今日の昔』(朱拙編、元禄十二年刊)との校異を注に示したとある。
ここでは後者を用いることにする。
発句は台風が去っての興行ということで、大変だったけどここで興行ができましたという挨拶になる。
これに対し芭蕉はこう答える。
あれあれて末は海行野分哉
靍の頭を上る粟の穂 芭蕉
二〇一八年八月十六日の俳話にも書いたが、芭蕉の粟の発句は二句ある。
よき家や雀よろこぶ背戸の秋 芭蕉
粟稗にとぼしくもあらず草の庵 芭蕉
「よき家や」の句は貞享五年七月八日、『笈の小文』の旅の途中に鳴海の知足亭を尋ねた時の句で、「粟稗に」の句は同じ年の七月二十日、名古屋の竹葉軒長虹の家で行われた興行の発句だった。
七月やまづ粟の穂に秋の風 許六
の句もあるように粟の穂は七月初秋のものだった。粟の収穫は中秋の初めになる。
鶴は冬鳥だが、当時はコウノトリを鶴と呼ぶこともあった。粟の穂は垂れて鶴は頭を上げる。
去来宛書簡の「鶴は常体之気しきに落可」というのは鶴のお目出度さを詠んでないという意味か。
第三は伊賀の配刀が付ける。
靍の頭を上る粟の穂
朝月夜駕籠に漸追付て 配刀
配刀は『校本芭蕉全集 第五巻』の注に、藤堂藩伊賀付作事目付役、食禄三百石」とある。
鶴は殿様、粟の穂は家臣に喩えられる。朝の出発に遅刻したのがいたか。そりゃ頭が上がらない。
四句目。
朝月夜駕籠に漸追付て
ちやの煙たる暖簾の皺 望翠
駕籠に追いつくという旅体に街道の茶屋を付ける。皺のよった暖簾がうらさびた感じがする。
五句目。
ちやの煙たる暖簾の皺
かつたりと枴をおろす雑水取 土芳
「枴(あふご)」はweblio辞書の「歴史民俗用語辞典」に、
「物を荷う棒、天秤棒。」
とある。「雑水取(ざうすゐとり)」は『校本芭蕉全集 第五巻』の注に「雑炊を炊事場から運ぶ人」とある。
『芭蕉門古人真蹟』(蝶夢編)には「荷ふたる」を消して右に「かつたりと」とある。こういう擬音の使用が炭俵調以降の軽みの一つの特徴でもあった。
雑炊は元禄九年刊の『本朝食鑑』には「粥之水多キ者也」とあるという。
六句目。
かつたりと枴をおろす雑水取
きうくつそうに袴鳴なり 卓袋
雑炊取は袴を履いていたようだ。
2019年10月12日土曜日
今日は台風で仕事も休み。とは言っても店も休みだし、一日家で台風をやり過ごした。我が家には特に被害はなかったが、明日になったらいろいろ被害情報が出てくるんだろうな。
それでは「松風に」の巻、挙句まで。
四十五句目。
月見にいつも造作せらるる
駕もゆらゆらとする秋のかぜ 望翠
「駕」は「のりもの」と読む。
月見の季節は台風の強い風が吹くことも多い。駕籠もあおられる。月見の宴とはいっても、行くのがおっくうになる。
四十六句目。
駕もゆらゆらとする秋のかぜ
浜の小家を過る霧雨 惟然
浜辺は海風が強く吹く。
駕籠に乗る身分の者と浜辺の小家に住む身分の者とを対比させて、駕籠に乗るのも大変だが、霧雨の吹きつけてくる小家はもっと不安だろうなとなる。
四十七句目。
浜の小家を過る霧雨
懐に取出して置くとどけ状 卓袋
江戸時代は飛脚が発達していたが、僻地ともなると飛脚問屋も遠く、誰か通りがかる人に託したのだろう。何の手紙なのか。
四十八句目。
懐に取出して置くとどけ状
いそぎの薺に白豆腐にる 支考
「薺」は「斎(とぎ)」のこと。法要など仏事のさいの食事で、コトバンクの「お斎」の所には「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、
「時,斎食 (さいじき) ,時食ともいう。斎とは,もともと不過中食,すなわち正午以前の正しい時間に,食べ過ぎないように食事をとること。以後の時間は非時といって食事をとらないことが戒律で定められている。現在でも南方仏教の比丘たちはこれをきびしく守っている。後世には,この意味が転化して肉食をしないことを斎というようになり,さらには仏事における食事を一般にさすようになった。」
とある。
前句を死亡を知らせる手紙とし、葬式の準備とした。
「白豆腐」というから白くない豆腐もあったのだろうか、高野豆腐に対しての言葉なのか。
四十九句目。
いそぎの薺に白豆腐にる
雪隠の窓よりのぞく花の枝 猿雖
「雪隠(せっちん)」はトイレのことだが、その語源についてコトバンクの「百科事典マイペディアの解説」に、
「〈せついん〉の促音。厠(かわや),便所のこと,義堂周信の《空華集》によれば,唐の雪竇(せっちょう)禅師が霊隠寺の厠をつかさどったところから由来したとも,同じく唐の禅師雪峰義存が厠を掃除して大悟した故事に由来するともいう。地方名せんちん,せちん,せんち。」
とある。今でも素手でトイレ掃除をすると運が開けるだとか出世するだとかいうのは、このあたりから来ているのか。
前句のお斎を僧院での食事とし、その縁で厠ではなく仏教に縁のある雪隠という言葉を出し、花の枝に雪隠で悟りを開いた古人を思うといったところか。
挙句。
雪隠の窓よりのぞく花の枝
根笹づたひに鶯の啼 雪芝
根笹はアズマネザサなどのどこにでもある雑草の笹で、高さは三メートルから四メートルにもなる。雪隠の桜に、あまり風流ともいえない根笹と鶯を取り合わせる。雅俗入り混じりお目出度くこの五十韻も終了する。
あとはこの雪芝さんの作った新酒で乾杯といったところか。
江戸で炭俵調を確立して上方へ登った芭蕉さんだったが、どこか猿蓑調の残る故郷の門人達と、とにかく出典をはずして軽くすることで新しいものを生み出そうと工夫した跡は残っている。
「うつかりと」「ごそごそとそる」「のらなんだ」「せりせりと」「しみなり」「しつぱりと」「ゆらゆらとする」といった言葉の使用は後の惟然風にも繋がるものだろう。
朝夕の茶湯ばかりを尼の業
飼ば次第に牛の艶つく 雪芝
飼ば次第に牛の艶つく
枯もせずふとるともなき楠の枝 卓袋
は物付けといえば物付けだが、古典だけでなく伝承の類に俤付けを拡大させたとも言える。
それでは「松風に」の巻、挙句まで。
四十五句目。
月見にいつも造作せらるる
駕もゆらゆらとする秋のかぜ 望翠
「駕」は「のりもの」と読む。
月見の季節は台風の強い風が吹くことも多い。駕籠もあおられる。月見の宴とはいっても、行くのがおっくうになる。
四十六句目。
駕もゆらゆらとする秋のかぜ
浜の小家を過る霧雨 惟然
浜辺は海風が強く吹く。
駕籠に乗る身分の者と浜辺の小家に住む身分の者とを対比させて、駕籠に乗るのも大変だが、霧雨の吹きつけてくる小家はもっと不安だろうなとなる。
四十七句目。
浜の小家を過る霧雨
懐に取出して置くとどけ状 卓袋
江戸時代は飛脚が発達していたが、僻地ともなると飛脚問屋も遠く、誰か通りがかる人に託したのだろう。何の手紙なのか。
四十八句目。
懐に取出して置くとどけ状
いそぎの薺に白豆腐にる 支考
「薺」は「斎(とぎ)」のこと。法要など仏事のさいの食事で、コトバンクの「お斎」の所には「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、
「時,斎食 (さいじき) ,時食ともいう。斎とは,もともと不過中食,すなわち正午以前の正しい時間に,食べ過ぎないように食事をとること。以後の時間は非時といって食事をとらないことが戒律で定められている。現在でも南方仏教の比丘たちはこれをきびしく守っている。後世には,この意味が転化して肉食をしないことを斎というようになり,さらには仏事における食事を一般にさすようになった。」
とある。
前句を死亡を知らせる手紙とし、葬式の準備とした。
「白豆腐」というから白くない豆腐もあったのだろうか、高野豆腐に対しての言葉なのか。
四十九句目。
いそぎの薺に白豆腐にる
雪隠の窓よりのぞく花の枝 猿雖
「雪隠(せっちん)」はトイレのことだが、その語源についてコトバンクの「百科事典マイペディアの解説」に、
「〈せついん〉の促音。厠(かわや),便所のこと,義堂周信の《空華集》によれば,唐の雪竇(せっちょう)禅師が霊隠寺の厠をつかさどったところから由来したとも,同じく唐の禅師雪峰義存が厠を掃除して大悟した故事に由来するともいう。地方名せんちん,せちん,せんち。」
とある。今でも素手でトイレ掃除をすると運が開けるだとか出世するだとかいうのは、このあたりから来ているのか。
前句のお斎を僧院での食事とし、その縁で厠ではなく仏教に縁のある雪隠という言葉を出し、花の枝に雪隠で悟りを開いた古人を思うといったところか。
挙句。
雪隠の窓よりのぞく花の枝
根笹づたひに鶯の啼 雪芝
根笹はアズマネザサなどのどこにでもある雑草の笹で、高さは三メートルから四メートルにもなる。雪隠の桜に、あまり風流ともいえない根笹と鶯を取り合わせる。雅俗入り混じりお目出度くこの五十韻も終了する。
あとはこの雪芝さんの作った新酒で乾杯といったところか。
江戸で炭俵調を確立して上方へ登った芭蕉さんだったが、どこか猿蓑調の残る故郷の門人達と、とにかく出典をはずして軽くすることで新しいものを生み出そうと工夫した跡は残っている。
「うつかりと」「ごそごそとそる」「のらなんだ」「せりせりと」「しみなり」「しつぱりと」「ゆらゆらとする」といった言葉の使用は後の惟然風にも繋がるものだろう。
朝夕の茶湯ばかりを尼の業
飼ば次第に牛の艶つく 雪芝
飼ば次第に牛の艶つく
枯もせずふとるともなき楠の枝 卓袋
は物付けといえば物付けだが、古典だけでなく伝承の類に俤付けを拡大させたとも言える。
2019年10月9日水曜日
「松風に」の巻の続き。
四十一句目。
こぼれて生る軒の花げし
朝夕の茶湯ばかりを尼の業 猿雖
「茶湯(ちゃとう)」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、
「仏前や霊前に供える煎茶湯。禅家では忌日などに仏前に供える茶と湯をいう。さとう。」
とある。
前句の花芥子の生える軒を尼僧の住む庵とする。
四十二句目。
朝夕の茶湯ばかりを尼の業
飼ば次第に牛の艶つく 雪芝
尼と牛は「牛に引かれて善光寺参り」の縁か。コトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、
「《信心のない老婆が、さらしていた布を角にかけて走っていく牛を追いかけ、ついに善光寺に至り、のち厚く信仰したという話から》思ってもいなかったことや他人の誘いによって、よいほうに導かれることのたとえ。」
とある。
老婆は出家して尼になったが、老婆を連れてきた牛はどうなったのかはよくわからない。その牛は老婆に飼われたのかもしれない。
江戸後期になると牛は善光寺に着くと姿を消し、実は観音様だったという落ちがつく。
四十三句目。
飼ば次第に牛の艶つく
枯もせずふとるともなき楠の枝 卓袋
牛と楠の枝は四国八十八箇所霊場の第四十二番札所の佛木寺の起源となる弘法大師のエピソードによるものか。ウィキペディアに、
「大同2年(807年)空海(弘法大師)がこの地で牛を牽く老人に勧められて牛の背に乗って進むと、唐を離れる際に有縁の地を求めて東に向かって投げた宝珠が楠の大樹にかかっているのを見つけた。そこで、この地が霊地であると悟り楠木で大日如来を刻んで、その眉間に宝珠を埋め、堂宇を建立して開創したという。牛の背に乗ってこの地に至ったというところから家畜守護の寺とされている。」
とある。
仏様になった楠は枯れることもないし、育って太くなることもない。
四十四句目。
枯もせずふとるともなき楠の枝
月見にいつも造作せらるる 支考
前句を庭の楠として、月見の邪魔になるのでいつも造作(面倒なこと)をさせられる。
四十一句目。
こぼれて生る軒の花げし
朝夕の茶湯ばかりを尼の業 猿雖
「茶湯(ちゃとう)」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、
「仏前や霊前に供える煎茶湯。禅家では忌日などに仏前に供える茶と湯をいう。さとう。」
とある。
前句の花芥子の生える軒を尼僧の住む庵とする。
四十二句目。
朝夕の茶湯ばかりを尼の業
飼ば次第に牛の艶つく 雪芝
尼と牛は「牛に引かれて善光寺参り」の縁か。コトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、
「《信心のない老婆が、さらしていた布を角にかけて走っていく牛を追いかけ、ついに善光寺に至り、のち厚く信仰したという話から》思ってもいなかったことや他人の誘いによって、よいほうに導かれることのたとえ。」
とある。
老婆は出家して尼になったが、老婆を連れてきた牛はどうなったのかはよくわからない。その牛は老婆に飼われたのかもしれない。
江戸後期になると牛は善光寺に着くと姿を消し、実は観音様だったという落ちがつく。
四十三句目。
飼ば次第に牛の艶つく
枯もせずふとるともなき楠の枝 卓袋
牛と楠の枝は四国八十八箇所霊場の第四十二番札所の佛木寺の起源となる弘法大師のエピソードによるものか。ウィキペディアに、
「大同2年(807年)空海(弘法大師)がこの地で牛を牽く老人に勧められて牛の背に乗って進むと、唐を離れる際に有縁の地を求めて東に向かって投げた宝珠が楠の大樹にかかっているのを見つけた。そこで、この地が霊地であると悟り楠木で大日如来を刻んで、その眉間に宝珠を埋め、堂宇を建立して開創したという。牛の背に乗ってこの地に至ったというところから家畜守護の寺とされている。」
とある。
仏様になった楠は枯れることもないし、育って太くなることもない。
四十四句目。
枯もせずふとるともなき楠の枝
月見にいつも造作せらるる 支考
前句を庭の楠として、月見の邪魔になるのでいつも造作(面倒なこと)をさせられる。
2019年10月8日火曜日
月も大分膨らんできたが、十三夜の頃には台風が来るのか。
香港ではたくさんの人が命を張って戦ってくれている。それにひきかえ、自分にできることって何だろうか。せいぜい中国の手先のようなマスコミや左翼の口車に乗らないことくらいか。あとは、まだ自由があるうちにこの俳話を書き続けることか。
そう言いながらも遅々として進まないが、とりあえず「松風に」の巻の続き。
二裏。
三十七句目。
歯かけ足駄の雪に埋まれ
漸に今はすみよるかはせ銀 望翠
前句を貧乏な状態とし、漸(ようや)く為替を銀に交換する事ができたとする。「すみよる」は「済み寄る」。
為替取引は直接金銀を送金することの手間やリスクを省くために作り出されたもの。金銀銭の交換比率は変動相場で動いていたので、安く買って高く売れば儲けることができたのは今のFXと同じ。
三十八句目。
漸に今はすみよるかはせ銀
加減の薬しつぱりとのむ 芭蕉
『校本芭蕉全集 第五巻』は『芭蕉翁付合集評註』(佐野石兮著、文化十二年)の、
「これも例の人情世態なり。金銀の取りまはしにこころづかひして、癪気(シャクキ)をなやめる人と見たり。かはせ銀の事の長引て段々と手間どりたるが、やうやうとすみよりたるなり。かかる身の上の人は年中薬のむさま、まことにしかりなり。」
を引用している。
まあ、相場というのは今の言葉だと「胃が痛くなる」ものだ。
「しっぱり」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、
「[副]
1 木の枝などがたわむさま。また、その音を表す語。
「柳に雪降りて枝もたはむや―と」〈浄・吉岡染〉
2 手落ちなく十分にするさま。しっかり。
「たたみかけて切りつくるを、―と受けとめ」〈浄・滝口横笛〉
3 強く身にこたえるさま。
「あつつつつつつつ。―だ、―だ」〈滑・浮世風呂・三〉」
とある。しっかりと、きちんと飲むというほどポジティブでもなく、仕方なしに、それでも飲まなあかんな、というニュアンスがあったのだろう。
三十九句目。
加減の薬しつぱりとのむ
渋紙をまくつて取れば青畳 支考
「渋紙」はコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」には、
「柿渋(かきしぶ)で加工した和紙。柿渋は古くは柿油ともいって、晩夏のころに青柿より絞り取る。この生渋(なましぶ)を半年以上置くとさらに良質の古渋になるが、成分はシブオールというタンニンの一種で、これを和紙に数回塗布することによって耐水性ができ、じょうぶになる。江戸時代には紙衣(かみこ)、合羽(かっぱ)、敷物、荷札、包み紙などに広く使用された。また、捺染(なっせん)の型紙も渋紙の一種である。とくに渋とべんがら(紅殻・弁柄)を混ぜたものは、雨傘の「渋蛇の目(しぶじゃのめ)」の塗料とされた。[町田誠之]」
とある。
新しい家には畳を守るために渋紙が敷かれていて、それを捲り上げると青々とした畳が目に眩しい。これもきちんと薬を飲んで頑張ってきた結果だが、逆に言えば屋敷に住んでももう先がない。
一生懸命働いて一財産を築いても、それを使う間もなく死んでゆく人というのは結構いるものだ。何のために生きているのか、考えさせられる。
黄ばんだ畳でも俳諧を楽しむ人もいる。
四十句目。
渋紙をまくつて取れば青畳
こぼれて生る軒の花げし 卓袋
これは向え付けか。畳みは新しくなったが、藁葺き屋根の軒は古いままで、芥子の花が咲いている。
香港ではたくさんの人が命を張って戦ってくれている。それにひきかえ、自分にできることって何だろうか。せいぜい中国の手先のようなマスコミや左翼の口車に乗らないことくらいか。あとは、まだ自由があるうちにこの俳話を書き続けることか。
そう言いながらも遅々として進まないが、とりあえず「松風に」の巻の続き。
二裏。
三十七句目。
歯かけ足駄の雪に埋まれ
漸に今はすみよるかはせ銀 望翠
前句を貧乏な状態とし、漸(ようや)く為替を銀に交換する事ができたとする。「すみよる」は「済み寄る」。
為替取引は直接金銀を送金することの手間やリスクを省くために作り出されたもの。金銀銭の交換比率は変動相場で動いていたので、安く買って高く売れば儲けることができたのは今のFXと同じ。
三十八句目。
漸に今はすみよるかはせ銀
加減の薬しつぱりとのむ 芭蕉
『校本芭蕉全集 第五巻』は『芭蕉翁付合集評註』(佐野石兮著、文化十二年)の、
「これも例の人情世態なり。金銀の取りまはしにこころづかひして、癪気(シャクキ)をなやめる人と見たり。かはせ銀の事の長引て段々と手間どりたるが、やうやうとすみよりたるなり。かかる身の上の人は年中薬のむさま、まことにしかりなり。」
を引用している。
まあ、相場というのは今の言葉だと「胃が痛くなる」ものだ。
「しっぱり」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、
「[副]
1 木の枝などがたわむさま。また、その音を表す語。
「柳に雪降りて枝もたはむや―と」〈浄・吉岡染〉
2 手落ちなく十分にするさま。しっかり。
「たたみかけて切りつくるを、―と受けとめ」〈浄・滝口横笛〉
3 強く身にこたえるさま。
「あつつつつつつつ。―だ、―だ」〈滑・浮世風呂・三〉」
とある。しっかりと、きちんと飲むというほどポジティブでもなく、仕方なしに、それでも飲まなあかんな、というニュアンスがあったのだろう。
三十九句目。
加減の薬しつぱりとのむ
渋紙をまくつて取れば青畳 支考
「渋紙」はコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」には、
「柿渋(かきしぶ)で加工した和紙。柿渋は古くは柿油ともいって、晩夏のころに青柿より絞り取る。この生渋(なましぶ)を半年以上置くとさらに良質の古渋になるが、成分はシブオールというタンニンの一種で、これを和紙に数回塗布することによって耐水性ができ、じょうぶになる。江戸時代には紙衣(かみこ)、合羽(かっぱ)、敷物、荷札、包み紙などに広く使用された。また、捺染(なっせん)の型紙も渋紙の一種である。とくに渋とべんがら(紅殻・弁柄)を混ぜたものは、雨傘の「渋蛇の目(しぶじゃのめ)」の塗料とされた。[町田誠之]」
とある。
新しい家には畳を守るために渋紙が敷かれていて、それを捲り上げると青々とした畳が目に眩しい。これもきちんと薬を飲んで頑張ってきた結果だが、逆に言えば屋敷に住んでももう先がない。
一生懸命働いて一財産を築いても、それを使う間もなく死んでゆく人というのは結構いるものだ。何のために生きているのか、考えさせられる。
黄ばんだ畳でも俳諧を楽しむ人もいる。
四十句目。
渋紙をまくつて取れば青畳
こぼれて生る軒の花げし 卓袋
これは向え付けか。畳みは新しくなったが、藁葺き屋根の軒は古いままで、芥子の花が咲いている。
2019年10月7日月曜日
ようやく涼しくなった。ただまた「猛烈な」勢力の台風が発生している。かなりやばい。
それでは「松風に」の巻の続き。
三十三句目。
肴出す程さけはしみなり
小倉とは向ひ合の下の関 惟然
下関は当時は赤間関とも呼ばれていた。寛文十二年より北前船の寄港地となり、繁栄した。赤間関稲荷町は西鶴の『好色一代男』にも描かれた遊里だった。
対岸の小倉は城下町で、大分雰囲気も違っていたのだろう。
三十四句目。
小倉とは向ひ合の下の関
巳の日の風に人死がある 支考
「巳の日」は弁天様の縁日でお目出度い日だが、この日に何か下関で事件があったのだろうか。よくわからない。壇ノ浦合戦を匂わせているのか。
「人死(ひとじに)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「〘名〙 事故など、病気以外の原因で人が死ぬこと。
※俳諧・桃青三百韻附両吟二百韻(1678)「村時雨衆道ぐるひの二道に〈信章〉 人死の恋風さはぐなり〈芭蕉〉」
とある。引用されている俳諧は延宝四年春の「奉納貳百韻」の、「此梅に」の巻に続く、
梅の風俳諧国にさかむなり 信章
を発句とする百韻の六十二句目で、
村時雨衆道ぐるひの二道に
人死の恋風さはぐなり 桃青
の句を指す。病気以外の原因だから刃傷沙汰も含まれるのか。この次の句は、
人死の恋風さはぐなり
大火事を袖行水にふせぎかね 信章
で、明暦の大火を付けている。明暦の大火は、振袖火事とも呼ばれている。
三十五句目。
巳の日の風に人死がある
水くさき千日寺の粥喰て 芭蕉
千日寺はウィキペディアの「千日前」のところに、
「道頓堀の南東に位置し、演芸場や映画館などがある娯楽街になっている。西隣の難波にある法善寺と竹林寺(現在は天王寺区に移転)で千日念仏が唱えられていたことから、両寺(特に法善寺)が千日寺と呼ばれ、その門前であることに由来する。」
とある。
「水くさき」はコトバンクの「水臭い」の「デジタル大辞泉の解説」に、
「[形][文]みづくさ・し[ク]
1 水分が多くて味が薄い。水っぽい。「―・い酒」
2 よそよそしい。他人行儀である。「婚約を隠すような―・いまねはよせ」
とある。2は人間関係の人情の薄いところから来た比喩による意味の拡張と思われる。
『校本芭蕉全集 第五巻』は『芭蕉翁付合集評註』(佐野石兮著、文化十二年)の「大風に家もくづれ、おびただしき人死に千日の葬礼のすさまじくあるとなり」を引用している。これだと炊き出しのお粥だから薄いということになる。
この年(元禄七年)の五月下旬に
牛流す村のさはぎや五月雨 之道
を発句とする興行があったから、五月に大きな災害があったのかもしれない。
三十六句目。
水くさき千日寺の粥喰て
歯かけ足駄の雪に埋まれ 猿雖
薄いお粥を歯がないからだとした。足駄は雨天用の高下駄。足駄の歯が欠けて雪に埋もれているのと、口の歯が欠けてお粥に埋もれているイメージとを重ね合わせている。
それでは「松風に」の巻の続き。
三十三句目。
肴出す程さけはしみなり
小倉とは向ひ合の下の関 惟然
下関は当時は赤間関とも呼ばれていた。寛文十二年より北前船の寄港地となり、繁栄した。赤間関稲荷町は西鶴の『好色一代男』にも描かれた遊里だった。
対岸の小倉は城下町で、大分雰囲気も違っていたのだろう。
三十四句目。
小倉とは向ひ合の下の関
巳の日の風に人死がある 支考
「巳の日」は弁天様の縁日でお目出度い日だが、この日に何か下関で事件があったのだろうか。よくわからない。壇ノ浦合戦を匂わせているのか。
「人死(ひとじに)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「〘名〙 事故など、病気以外の原因で人が死ぬこと。
※俳諧・桃青三百韻附両吟二百韻(1678)「村時雨衆道ぐるひの二道に〈信章〉 人死の恋風さはぐなり〈芭蕉〉」
とある。引用されている俳諧は延宝四年春の「奉納貳百韻」の、「此梅に」の巻に続く、
梅の風俳諧国にさかむなり 信章
を発句とする百韻の六十二句目で、
村時雨衆道ぐるひの二道に
人死の恋風さはぐなり 桃青
の句を指す。病気以外の原因だから刃傷沙汰も含まれるのか。この次の句は、
人死の恋風さはぐなり
大火事を袖行水にふせぎかね 信章
で、明暦の大火を付けている。明暦の大火は、振袖火事とも呼ばれている。
三十五句目。
巳の日の風に人死がある
水くさき千日寺の粥喰て 芭蕉
千日寺はウィキペディアの「千日前」のところに、
「道頓堀の南東に位置し、演芸場や映画館などがある娯楽街になっている。西隣の難波にある法善寺と竹林寺(現在は天王寺区に移転)で千日念仏が唱えられていたことから、両寺(特に法善寺)が千日寺と呼ばれ、その門前であることに由来する。」
とある。
「水くさき」はコトバンクの「水臭い」の「デジタル大辞泉の解説」に、
「[形][文]みづくさ・し[ク]
1 水分が多くて味が薄い。水っぽい。「―・い酒」
2 よそよそしい。他人行儀である。「婚約を隠すような―・いまねはよせ」
とある。2は人間関係の人情の薄いところから来た比喩による意味の拡張と思われる。
『校本芭蕉全集 第五巻』は『芭蕉翁付合集評註』(佐野石兮著、文化十二年)の「大風に家もくづれ、おびただしき人死に千日の葬礼のすさまじくあるとなり」を引用している。これだと炊き出しのお粥だから薄いということになる。
この年(元禄七年)の五月下旬に
牛流す村のさはぎや五月雨 之道
を発句とする興行があったから、五月に大きな災害があったのかもしれない。
三十六句目。
水くさき千日寺の粥喰て
歯かけ足駄の雪に埋まれ 猿雖
薄いお粥を歯がないからだとした。足駄は雨天用の高下駄。足駄の歯が欠けて雪に埋もれているのと、口の歯が欠けてお粥に埋もれているイメージとを重ね合わせている。
2019年10月6日日曜日
今日は鎌倉へ行ってから横須賀に行った。極楽寺ではまだ彼岸花が咲いていた。ヴェルニー公園では薔薇が咲いていた。
それでは「松風に」の巻の続き。
二十九句目。
日なれてかかる畑の朝霜
母方にはなれて月の物淋し 雪芝
両親が離婚し、母方に引き取られてということか。「日なれて」を新しい生活にもようやく慣れてという意味に掛けて用いる。
『江戸の農民生活史』(速水透、一九八八、NHKブックス)の美濃国安八郡西条村の宗門改帳の調査によると、
「他方、離婚の方をみると、天明元年(一七八二)からの四十年間に二十件と、同じ時期の結婚件数一〇六件の十九パーセントに達し、夫婦五組に一組は離婚したことになる。その後は激減し、残りの五十年間では結婚一二三件に対し六件と五パーセント、二十組に一組に減ってしまった。」(p.139)
という。
一つの村の統計だけだが、江戸時代の離婚率もそれなりに多かったことが予想される。夫婦にトラブルがあると、妻の父が怒って引き戻すということもあり、蕪村の娘もそうだった。
三十句目。
母方にはなれて月の物淋し
鼠の籠るまき藁のうち 卓袋
「まき藁」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、
「稲のわらを巻いて束ねたもの。弓術練習の的、また空手道で突きの稽古など、武術練習の道具に用いられる。」
とある。
母子家庭で弓を教わることもなくなり、父の形見のまき藁も鼠の巣になっているということか。
三十一句目。
鼠の籠るまき藁のうち
傍輩の髪を結あふ黴の雨 猿雖
黴は「つゆ」で梅雨のこと。梅雨のさ中、仲良く髪を結いあう二人の男は今なら腐女子が喜びそうな場面だが、『源氏物語』の雨夜の品定めのイメージか。
『源氏物語』自体も女性の作者により女房向けに書かれた作品だから、当然の事ながら源氏の君と頭の中将、あるいは兵部卿宮(藤壺中宮の兄の方の)とのツーショットシーンはそれが意識されていると思われる。
三十二句目。
傍輩の髪を結あふ黴の雨
肴出す程さけはしみなり 雪芝
『校本芭蕉全集 第五巻』(小宮豐隆監修、中村俊定注、一九六八、角川書店)の注には、「しむなり[翁俳・幽・金・一・珍]。染けり[袖])」とある。「しみなり」は酒が染みる(酔いが回る)という意味。
それでは「松風に」の巻の続き。
二十九句目。
日なれてかかる畑の朝霜
母方にはなれて月の物淋し 雪芝
両親が離婚し、母方に引き取られてということか。「日なれて」を新しい生活にもようやく慣れてという意味に掛けて用いる。
『江戸の農民生活史』(速水透、一九八八、NHKブックス)の美濃国安八郡西条村の宗門改帳の調査によると、
「他方、離婚の方をみると、天明元年(一七八二)からの四十年間に二十件と、同じ時期の結婚件数一〇六件の十九パーセントに達し、夫婦五組に一組は離婚したことになる。その後は激減し、残りの五十年間では結婚一二三件に対し六件と五パーセント、二十組に一組に減ってしまった。」(p.139)
という。
一つの村の統計だけだが、江戸時代の離婚率もそれなりに多かったことが予想される。夫婦にトラブルがあると、妻の父が怒って引き戻すということもあり、蕪村の娘もそうだった。
三十句目。
母方にはなれて月の物淋し
鼠の籠るまき藁のうち 卓袋
「まき藁」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、
「稲のわらを巻いて束ねたもの。弓術練習の的、また空手道で突きの稽古など、武術練習の道具に用いられる。」
とある。
母子家庭で弓を教わることもなくなり、父の形見のまき藁も鼠の巣になっているということか。
三十一句目。
鼠の籠るまき藁のうち
傍輩の髪を結あふ黴の雨 猿雖
黴は「つゆ」で梅雨のこと。梅雨のさ中、仲良く髪を結いあう二人の男は今なら腐女子が喜びそうな場面だが、『源氏物語』の雨夜の品定めのイメージか。
『源氏物語』自体も女性の作者により女房向けに書かれた作品だから、当然の事ながら源氏の君と頭の中将、あるいは兵部卿宮(藤壺中宮の兄の方の)とのツーショットシーンはそれが意識されていると思われる。
三十二句目。
傍輩の髪を結あふ黴の雨
肴出す程さけはしみなり 雪芝
『校本芭蕉全集 第五巻』(小宮豐隆監修、中村俊定注、一九六八、角川書店)の注には、「しむなり[翁俳・幽・金・一・珍]。染けり[袖])」とある。「しみなり」は酒が染みる(酔いが回る)という意味。
2019年10月4日金曜日
昨日の韓国のデモは新聞でもテレビでもまったく報道されていない。あれは幻だったか。
まあ、それはともかく「松風に」の巻の続き。
二表。
二十三句目。
陽気をうけてつよき椽げた
幸と猟の始の雉うちて 雪芝
前句を易の地天泰の卦に見立てたか。
地天泰は下三本が陽、上三本が陰で、下から陽気が上昇し、上から陰気が降下し、互いに交わる天地和合を意味する。天地が引き裂かれてゆく天地否と真逆になる。
屋根を支える桁(けた)を陽、その上に左右に渡す椽(たるき)を陰に見立てれば、地天泰の卦になる。
天地否が七月で秋の初めのように、地天泰は正月、春の初めになる。それで一年の猟の初めに雉を撃つ。
「いる」のではなく「うつ」とあるから火縄銃で撃ったのだろう。ウィキペディアの「銃規制」の項に、
「徳川綱吉の時代、貞享4年(1687年)の諸国鉄砲改めにより、全国規模の銃規制がかけられた。武士以外の身分の鉄砲は、猟師鉄砲、威し鉄砲(農作物を荒らす鳥獣を追い払うための鉄砲)、用心鉄砲(特に許された護身用鉄砲)に限り、所持者以外に使わせないという条件で認められ、残りは没収された。この政策は綱吉による一連の生類憐れみの令の一環という意味も持ち、当初は鳥獣を追い払うために実弾を用いてはならないとするものだった。それでは追い払う効果が得られず、元禄2年(1689年)6月には実弾発射が許された。」
とある。猟師は鉄砲の使用を許されていた。
二十四句目。
幸と猟の始の雉うちて
内儀の留守に子供あばるる 支考
「内義(ないぎ)」は町人の妻の敬称。子供からすれば母になる。
そのうるさい母親が留守なのをこれ幸いと、子供達は狩猟ごっこで大暴れする。
二十五句目。
内儀の留守に子供あばるる
道場の門のさし入だだくさに 猿雖
「だだくさ」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「〘名〙 (形動) 雑然として整理のいきとどかないこと。また、そのさま。粗雑。疎略。ぞんざい。
※俳諧・新続犬筑波集(1660)一一「そろへぬはこれぞだだくさなづなかな〈重定〉」
とある。
「さし入(いり)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「① 中へはいること。また、はいってすぐの所。
※曾我物語(南北朝頃)七「まづ見たまふやうにとて、さしいりの障子の際にぞをきたりける」
② はいってすぐの時。その季節やその月にはいってすぐの頃。
※浮世草子・懐硯(1687)三「持病に顛癇(てんかん)といふものありて、年毎の小寒の末大寒のさし入にかならず発(おこ)りて」
③ (「さしいりに」の形で) まずはじめに。
※身のかたみ(室町中頃)「御はなは、顔のうちのぐに、とりわきさしいりにめにたつものにて候」
とある。今日でいう「さし入れ」ではなく、道場の門を入ったあたりがちらかっていてという意味で、どうしたのかと思ったらお内儀さんが留守で子供が暴れまわってるからだ、となる。
二十六句目。
道場の門のさし入だだくさに
一里の渡し腹のすきたる 望翠
一里の渡しは浜名湖の今切(いまぎれ)の渡しのことか。ただ、この頃はまだ宝永地震の津波の前なので、一里ではなく二十七町だった。(一里は三十六町)
前句との関係がよくわからない。道場は元は釈迦が悟りを開いた場所のことで、それが転じてお寺の意味もあるが。
二十七句目。
一里の渡し腹のすきたる
山はみな蜜柑の色の黄になりて 芭蕉
腹がすいている時は山の黄葉も蜜柑に見える。
二十八句目。
山はみな蜜柑の色の黄になりて
日なれてかかる畑の朝霜 支考
「なれる」は輪郭を失うこと。朧月ならぬ朧太陽といったところか。朝霧のせいでそうなる。日の光が乱反射して、山は蜜柑色に染まる。
まあ、それはともかく「松風に」の巻の続き。
二表。
二十三句目。
陽気をうけてつよき椽げた
幸と猟の始の雉うちて 雪芝
前句を易の地天泰の卦に見立てたか。
地天泰は下三本が陽、上三本が陰で、下から陽気が上昇し、上から陰気が降下し、互いに交わる天地和合を意味する。天地が引き裂かれてゆく天地否と真逆になる。
屋根を支える桁(けた)を陽、その上に左右に渡す椽(たるき)を陰に見立てれば、地天泰の卦になる。
天地否が七月で秋の初めのように、地天泰は正月、春の初めになる。それで一年の猟の初めに雉を撃つ。
「いる」のではなく「うつ」とあるから火縄銃で撃ったのだろう。ウィキペディアの「銃規制」の項に、
「徳川綱吉の時代、貞享4年(1687年)の諸国鉄砲改めにより、全国規模の銃規制がかけられた。武士以外の身分の鉄砲は、猟師鉄砲、威し鉄砲(農作物を荒らす鳥獣を追い払うための鉄砲)、用心鉄砲(特に許された護身用鉄砲)に限り、所持者以外に使わせないという条件で認められ、残りは没収された。この政策は綱吉による一連の生類憐れみの令の一環という意味も持ち、当初は鳥獣を追い払うために実弾を用いてはならないとするものだった。それでは追い払う効果が得られず、元禄2年(1689年)6月には実弾発射が許された。」
とある。猟師は鉄砲の使用を許されていた。
二十四句目。
幸と猟の始の雉うちて
内儀の留守に子供あばるる 支考
「内義(ないぎ)」は町人の妻の敬称。子供からすれば母になる。
そのうるさい母親が留守なのをこれ幸いと、子供達は狩猟ごっこで大暴れする。
二十五句目。
内儀の留守に子供あばるる
道場の門のさし入だだくさに 猿雖
「だだくさ」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「〘名〙 (形動) 雑然として整理のいきとどかないこと。また、そのさま。粗雑。疎略。ぞんざい。
※俳諧・新続犬筑波集(1660)一一「そろへぬはこれぞだだくさなづなかな〈重定〉」
とある。
「さし入(いり)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「① 中へはいること。また、はいってすぐの所。
※曾我物語(南北朝頃)七「まづ見たまふやうにとて、さしいりの障子の際にぞをきたりける」
② はいってすぐの時。その季節やその月にはいってすぐの頃。
※浮世草子・懐硯(1687)三「持病に顛癇(てんかん)といふものありて、年毎の小寒の末大寒のさし入にかならず発(おこ)りて」
③ (「さしいりに」の形で) まずはじめに。
※身のかたみ(室町中頃)「御はなは、顔のうちのぐに、とりわきさしいりにめにたつものにて候」
とある。今日でいう「さし入れ」ではなく、道場の門を入ったあたりがちらかっていてという意味で、どうしたのかと思ったらお内儀さんが留守で子供が暴れまわってるからだ、となる。
二十六句目。
道場の門のさし入だだくさに
一里の渡し腹のすきたる 望翠
一里の渡しは浜名湖の今切(いまぎれ)の渡しのことか。ただ、この頃はまだ宝永地震の津波の前なので、一里ではなく二十七町だった。(一里は三十六町)
前句との関係がよくわからない。道場は元は釈迦が悟りを開いた場所のことで、それが転じてお寺の意味もあるが。
二十七句目。
一里の渡し腹のすきたる
山はみな蜜柑の色の黄になりて 芭蕉
腹がすいている時は山の黄葉も蜜柑に見える。
二十八句目。
山はみな蜜柑の色の黄になりて
日なれてかかる畑の朝霜 支考
「なれる」は輪郭を失うこと。朧月ならぬ朧太陽といったところか。朝霧のせいでそうなる。日の光が乱反射して、山は蜜柑色に染まる。
2019年10月3日木曜日
隣の国でも大きなデモがあったようで、香港の人たちと同様、自由を守ろうとする姿は心強い。
せっかく漢江の奇跡を起して勝ち取った自由と豊かさを、日本の戦後左翼が作り出した「反日」のために犠牲にすべきではない。
「反日」は六十年代の学生運動の敗北が見えてきた頃、新左翼の中から、大田竜の「辺境最深部に向って退却せよ!」の声をはじめとして、もはや日本の大衆は信用できず、辺境の立場に立って日本そのものを否定しようというところからきたもので、「反日亡国論」とも呼ばれた。またそれを実践すべく組織されたのが、「東アジア反日武装戦線」だった。
ウィキペディアの「反日亡国論」のところにはこうある。
「ベトナム戦争でアメリカの国力が消耗した故事に倣い、日本を戦争に巻き込ませる。そのきっかけとなる国は大韓民国である。まず手始めに韓国人の排外的韓国民族主義を煽ることで反日感情を醸成、韓国軍のクーデターを誘発させて「親日政権」を打倒し、韓国に巣食う「親日派」を粛清する。そして「反日軍事政権」が日本に宣戦布告し、最低でも10万人の自衛隊員を戦死させる。同時に「琉球共和国」が独立を宣言する。そして日本やアメリカに宣戦を布告し、韓国とともに対日侵略戦争に参戦する。そして「アイヌ・ソビエト共和国」も独立を宣言し、「北方領土返還」などとアイヌを無視した主張を展開して「思い上がって」いる北海道在住500万人の和人を殺戮する。また東南アジアでも反日感情を煽る。そして日本赤軍のネットワークを利用して、アラブ諸国の日本向けの原油輸出を阻止し、かつてのABCD包囲網のように「反日包囲網」が日本を取り囲み、自滅を促すというものである。「日本滅亡」後、日本人は老若男女を問わず裁判にかけられ、大多数は「日帝本国人」であるため有罪で死刑に処せられる。民族意識・国民意識を捨て去り反日闘争を闘った同志(世界革命浪人)のみが無罪となり、地球上から日本人が消滅するというシナリオである。」
反日は日本起源ニダ。韓国はそれに乗せられているニダ。
それでは「松風に」の巻の続き。
十七句目。
雨のふる日の節句ゆるやか
きわ墨を置直しても同じ㒵 卓袋
「㒵」は「かほ(顔)」と読む。
きわ墨(際墨)はコトバンクの「世界大百科事典内の際墨の言及」に、
「井原西鶴《好色一代女》で,女が化粧の際,硯(すずり)の墨で額の際を染めているように,江戸時代の女性は額の形容にも心を配った。生れつきのままで良いのもあるが,額のなりが悪いと愛嬌がないから髪の生え際を剃れと《女鏡秘伝書》にあるように,額を剃ったり生え際に際墨(きわずみ)を薄くぬって形を整えた。」
とある。
雨の日は化粧が乗りにくい。湿気のせいで書いてもすぐ崩れる。節句でおめかししたいけど何度もやり直しているうちに、一日が緩やかに過ぎてゆく。
十八句目。
きわ墨を置直しても同じ㒵
親といふ字をしらで幾秋 支考
幼い頃に親と別れた不遇な境遇で、遊女にでもなったのだろうか。際墨は手馴れたもので、いつも同じ顔になるようにメイクする。でも、読み書きはついに習わなかったのだろう。
幾年でも良さそうだが、ここは月呼び出しで幾秋とする。
初裏にこれまで月がなく、二十一句目は花の定座になるから、二十句目で秋を終わらせたい。そのためにはここで秋にし、十八、十九、二十と秋にしなくてはならない。
十九句目。
親といふ字をしらで幾秋
月影に又せり返すせめ念仏 望翠
前句の「親といふ字をしらで」から亡き父の供養で念仏を出す。「せり返す」の「せり」は十三句目の「せりせりと」と同様、せかせかとせきたてるように繰り返すということか。
「せめ念仏(ねぶつ)」コトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、
「鉦(かね)を鳴らしながら、高い声で早口に唱える念仏。」
とある。
二十句目。
月影に又せり返すせめ念仏
かりたふとんのあとのひややか 猿雖
一晩中念仏を唱えていたので、借りた蒲団は体温で暖められることもなく冷ややかなままになっている。
二十一句目。
かりたふとんのあとのひややか
咲花に每の咄すつれ斗 惟然
「每の咄す」の読み方がよくわからない。『校本芭蕉全集』第五巻(小宮豊隆監修、中村俊定校注、1968、角川書店)の注には「底本・『さ賀』は初め「毎の」とし、見せ消ちにして、脇に「年」と改める」とある。「年」だとしても「としのはなす」と字足らずになる。
意味としては、花見だというのに周りにいるのはいつもと同じことしか言わない連中で、面白くないということか。泊っていけるように蒲団も借りてきたけど、使わずじまいになる。
まあ、宴会だというのに仕事の話しかしない人というのは今でもいるものだ。
二十二句目。
咲花に每の咄すつれ斗
陽気をうけてつよき椽げた 卓袋
「椽」は垂木のことで、「椽げた」は「椽桁」か。前句の花が咲いても普段どおりの人を腕の良い大工集団としたか。仕事熱心で花も眼に入らない。
せっかく漢江の奇跡を起して勝ち取った自由と豊かさを、日本の戦後左翼が作り出した「反日」のために犠牲にすべきではない。
「反日」は六十年代の学生運動の敗北が見えてきた頃、新左翼の中から、大田竜の「辺境最深部に向って退却せよ!」の声をはじめとして、もはや日本の大衆は信用できず、辺境の立場に立って日本そのものを否定しようというところからきたもので、「反日亡国論」とも呼ばれた。またそれを実践すべく組織されたのが、「東アジア反日武装戦線」だった。
ウィキペディアの「反日亡国論」のところにはこうある。
「ベトナム戦争でアメリカの国力が消耗した故事に倣い、日本を戦争に巻き込ませる。そのきっかけとなる国は大韓民国である。まず手始めに韓国人の排外的韓国民族主義を煽ることで反日感情を醸成、韓国軍のクーデターを誘発させて「親日政権」を打倒し、韓国に巣食う「親日派」を粛清する。そして「反日軍事政権」が日本に宣戦布告し、最低でも10万人の自衛隊員を戦死させる。同時に「琉球共和国」が独立を宣言する。そして日本やアメリカに宣戦を布告し、韓国とともに対日侵略戦争に参戦する。そして「アイヌ・ソビエト共和国」も独立を宣言し、「北方領土返還」などとアイヌを無視した主張を展開して「思い上がって」いる北海道在住500万人の和人を殺戮する。また東南アジアでも反日感情を煽る。そして日本赤軍のネットワークを利用して、アラブ諸国の日本向けの原油輸出を阻止し、かつてのABCD包囲網のように「反日包囲網」が日本を取り囲み、自滅を促すというものである。「日本滅亡」後、日本人は老若男女を問わず裁判にかけられ、大多数は「日帝本国人」であるため有罪で死刑に処せられる。民族意識・国民意識を捨て去り反日闘争を闘った同志(世界革命浪人)のみが無罪となり、地球上から日本人が消滅するというシナリオである。」
反日は日本起源ニダ。韓国はそれに乗せられているニダ。
それでは「松風に」の巻の続き。
十七句目。
雨のふる日の節句ゆるやか
きわ墨を置直しても同じ㒵 卓袋
「㒵」は「かほ(顔)」と読む。
きわ墨(際墨)はコトバンクの「世界大百科事典内の際墨の言及」に、
「井原西鶴《好色一代女》で,女が化粧の際,硯(すずり)の墨で額の際を染めているように,江戸時代の女性は額の形容にも心を配った。生れつきのままで良いのもあるが,額のなりが悪いと愛嬌がないから髪の生え際を剃れと《女鏡秘伝書》にあるように,額を剃ったり生え際に際墨(きわずみ)を薄くぬって形を整えた。」
とある。
雨の日は化粧が乗りにくい。湿気のせいで書いてもすぐ崩れる。節句でおめかししたいけど何度もやり直しているうちに、一日が緩やかに過ぎてゆく。
十八句目。
きわ墨を置直しても同じ㒵
親といふ字をしらで幾秋 支考
幼い頃に親と別れた不遇な境遇で、遊女にでもなったのだろうか。際墨は手馴れたもので、いつも同じ顔になるようにメイクする。でも、読み書きはついに習わなかったのだろう。
幾年でも良さそうだが、ここは月呼び出しで幾秋とする。
初裏にこれまで月がなく、二十一句目は花の定座になるから、二十句目で秋を終わらせたい。そのためにはここで秋にし、十八、十九、二十と秋にしなくてはならない。
十九句目。
親といふ字をしらで幾秋
月影に又せり返すせめ念仏 望翠
前句の「親といふ字をしらで」から亡き父の供養で念仏を出す。「せり返す」の「せり」は十三句目の「せりせりと」と同様、せかせかとせきたてるように繰り返すということか。
「せめ念仏(ねぶつ)」コトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、
「鉦(かね)を鳴らしながら、高い声で早口に唱える念仏。」
とある。
二十句目。
月影に又せり返すせめ念仏
かりたふとんのあとのひややか 猿雖
一晩中念仏を唱えていたので、借りた蒲団は体温で暖められることもなく冷ややかなままになっている。
二十一句目。
かりたふとんのあとのひややか
咲花に每の咄すつれ斗 惟然
「每の咄す」の読み方がよくわからない。『校本芭蕉全集』第五巻(小宮豊隆監修、中村俊定校注、1968、角川書店)の注には「底本・『さ賀』は初め「毎の」とし、見せ消ちにして、脇に「年」と改める」とある。「年」だとしても「としのはなす」と字足らずになる。
意味としては、花見だというのに周りにいるのはいつもと同じことしか言わない連中で、面白くないということか。泊っていけるように蒲団も借りてきたけど、使わずじまいになる。
まあ、宴会だというのに仕事の話しかしない人というのは今でもいるものだ。
二十二句目。
咲花に每の咄すつれ斗
陽気をうけてつよき椽げた 卓袋
「椽」は垂木のことで、「椽げた」は「椽桁」か。前句の花が咲いても普段どおりの人を腕の良い大工集団としたか。仕事熱心で花も眼に入らない。
2019年10月2日水曜日
今日は三日月が見えた。正確には四日月で、旧暦九月四日、「松風に」の巻の興行された日だ。
秋が寂しげなのは、やはり万物が死に向うからだろうか。草木は枯れ、虫は死に、土に帰って行く。それと逆に空は澄み切って天は高く、月や星は輝く。
陰気の降下、陽気の上昇で天と地は引き裂かれてゆく。
秋もまた夕暮れとなれば、沈む夕陽が死を暗示させる。生きるのを喜び死を悲しむ。それが秋の夕暮れの心だ。
台風や夕立の時は空全体が真っ赤に染まるが、大気が安定している時の夕暮れはそれほど赤くならず、薄っすらと赤い地平のすぐ上はやや緑のかかった青になり、そのまま色を失って行く。それがまた寂しげだ。
冷戦が終わりこのまま世界は平和が来るのかと思ったら、古い思想にしがみ付く蔦葛に人は地面に縛り付けられ、このまま黄昏てゆくのだろうか。秋暮れて滅びの風の子守唄。それでも来なかった春はない。
それでは「松風に」の巻の続き。
十三句目。
あふげど餅のあぶれかねつる
せりせりとなく子を籮につきすへて 卓袋
「せりせり」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「〘副〙 (多く「と」を伴って用いる)
① 動作などの落ち着かないさま、せきたてるさまを表わす語。せかせか。
※浄瑠璃・心中宵庚申(1722)道行「気のとっさかな姑に、せりせりいぢりたでられて」
② せせこましいさまを表わす語。こせこせ。
※中華若木詩抄(1520頃)中「祗自寛すと云は、これをせりせりと思ても叶ふべきことか」
③ 言動などのうるさいさまを表わす語。
※俳諧・みかんの色(1768)「せりせりとなく子を籮につきすへて〈卓袋〉 大工屋根やの帰る暮とき〈芭蕉〉」
とある。
「籮」は「ふご」と読ませているが、餌籮(えふご)の「ふご」か。餌籮は餌を入れる竹籠のことで、「ふご」は単に籠のこと。赤ちゃんを入れる駕籠は「いづめ」とも言う。
芭蕉筆の『甲子吟行画巻』の富士川の捨て子もいづめに入れられている。
十四句目。
せりせりとなく子を籮につきすへて
大工屋根やの帰る暮とき 芭蕉
昔は子供は大事にされていた。それには理由があって、幼児虐待は死罪だから、少しでもそれと疑われるようなことは避けなくてはならなかった。
だから大工さんが来て屋根屋さんが来ても子供は自由に遊びまわり、大工さんや屋根屋さんに可愛がられていた。
帰るときには子供も別れが嫌で泣き出す。
十五句目。
大工屋根やの帰る暮とき
用の有時はかけ込藪どなり 支考
これは用を足すということだろうか。芭蕉の人情味溢れる前句に対して、シモネタで落としたか。
十六句目。
用の有時はかけ込藪どなり
雨のふる日の節句ゆるやか 雪芝
用があると何かと頼られてしまう人なのだろう。節句とあらば、お客さんをもてなす家から、何かとものを借りに来たりして、おちおち昼寝もできない。
雨ならば静かなものだ。
秋が寂しげなのは、やはり万物が死に向うからだろうか。草木は枯れ、虫は死に、土に帰って行く。それと逆に空は澄み切って天は高く、月や星は輝く。
陰気の降下、陽気の上昇で天と地は引き裂かれてゆく。
秋もまた夕暮れとなれば、沈む夕陽が死を暗示させる。生きるのを喜び死を悲しむ。それが秋の夕暮れの心だ。
台風や夕立の時は空全体が真っ赤に染まるが、大気が安定している時の夕暮れはそれほど赤くならず、薄っすらと赤い地平のすぐ上はやや緑のかかった青になり、そのまま色を失って行く。それがまた寂しげだ。
冷戦が終わりこのまま世界は平和が来るのかと思ったら、古い思想にしがみ付く蔦葛に人は地面に縛り付けられ、このまま黄昏てゆくのだろうか。秋暮れて滅びの風の子守唄。それでも来なかった春はない。
それでは「松風に」の巻の続き。
十三句目。
あふげど餅のあぶれかねつる
せりせりとなく子を籮につきすへて 卓袋
「せりせり」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「〘副〙 (多く「と」を伴って用いる)
① 動作などの落ち着かないさま、せきたてるさまを表わす語。せかせか。
※浄瑠璃・心中宵庚申(1722)道行「気のとっさかな姑に、せりせりいぢりたでられて」
② せせこましいさまを表わす語。こせこせ。
※中華若木詩抄(1520頃)中「祗自寛すと云は、これをせりせりと思ても叶ふべきことか」
③ 言動などのうるさいさまを表わす語。
※俳諧・みかんの色(1768)「せりせりとなく子を籮につきすへて〈卓袋〉 大工屋根やの帰る暮とき〈芭蕉〉」
とある。
「籮」は「ふご」と読ませているが、餌籮(えふご)の「ふご」か。餌籮は餌を入れる竹籠のことで、「ふご」は単に籠のこと。赤ちゃんを入れる駕籠は「いづめ」とも言う。
芭蕉筆の『甲子吟行画巻』の富士川の捨て子もいづめに入れられている。
十四句目。
せりせりとなく子を籮につきすへて
大工屋根やの帰る暮とき 芭蕉
昔は子供は大事にされていた。それには理由があって、幼児虐待は死罪だから、少しでもそれと疑われるようなことは避けなくてはならなかった。
だから大工さんが来て屋根屋さんが来ても子供は自由に遊びまわり、大工さんや屋根屋さんに可愛がられていた。
帰るときには子供も別れが嫌で泣き出す。
十五句目。
大工屋根やの帰る暮とき
用の有時はかけ込藪どなり 支考
これは用を足すということだろうか。芭蕉の人情味溢れる前句に対して、シモネタで落としたか。
十六句目。
用の有時はかけ込藪どなり
雨のふる日の節句ゆるやか 雪芝
用があると何かと頼られてしまう人なのだろう。節句とあらば、お客さんをもてなす家から、何かとものを借りに来たりして、おちおち昼寝もできない。
雨ならば静かなものだ。
2019年10月1日火曜日
香港ではついに引き金が引かれた。至近距離から胸を撃たれた少年は危篤状態だという。生きてくれ。
一方ではまるでナチスの時代のような軍事パレードが行われ、一体世界はどうなってしまうのか。世界が破滅するなんて嘘だろって何度でも言ってくれ。
世界が終わりを迎えようとも、俳諧を続けよう。「松風に」の巻。
初裏。
九句目。
床であたまをごそごそとそる
夷講島の袴を手にさげて 猿雖
旧暦神無月二十日の恵比寿講は神無月の留守を預る恵比寿様を祭る日で、商人の家では恵比寿様にお供えをして御馳走や酒を振舞った。
振売の雁あはれ也ゑびす講 芭蕉
の句は一年前の江戸での発句で、恵比寿講のご馳走に雁を売りに来る人がいたことを記している。
商人もこの日は正装をし、袴を穿く。
えびす講酢売に袴着せにけり 芭蕉
の句も一年前に詠んでいる。
前句の「あたまをごそごそとそる」はこの場合月代(さかやき)のことであろう。きちんと月代を剃って長袴を穿いて恵比寿講の宴席に臨むのだが、この句はまだ準備の段階。
島の袴は縞の袴のことか。
十句目。
夷講島の袴を手にさげて
喧花の中をむりに引のけ 雪芝
「喧花(けんか)」は喧嘩と同じ。酒宴となれば酔っ払っての喧嘩は付き物。加賀山中温泉での山中三吟の第三、
花野みだるる山のまがりめ
月よしと角力に袴踏ぬぎて 芭蕉
ではないが、喧嘩の時にも袴は邪魔なので脱ぎ捨てたのだろう。その袴を拾って「まあまあまあまあ」と中に割って入る。
十一句目。
喧花の中をむりに引のけ
仕合と矢橋の舟をのらなんだ 芭蕉
「仕合」は「しあはせ」と読む。めぐり合わせや幸運をいう。前句の喧嘩から「仕合(しあひ)」とも掛けているのかもしれない。
「矢橋(やばせ)」はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、
「滋賀県南西部,草津市西部の琵琶湖岸にある地区。旧湖港。江戸時代,東海道の近道となった大津-矢橋間の渡船場として栄えた。」
とある。
矢橋の船頭さんが喧嘩をしている人を見て、「あんたら、これも何かの縁だ、はよう舟にのらなんだ」とでも言ったのだろう。
「のらなんだ」といい、五句目の惟然の「うつかりと」、八句目の支考の「ごそごそとそる」といった口語的な言い回しは、後の惟然の風に繋がるものかもしれない。
十二句目。
仕合と矢橋の舟をのらなんだ
あふげど餅のあぶれかねつる 望翠
ちょっと茶屋で餅でも食ってから行こうかと思っていると、薪が湿っているのか火力が弱く、餅が焼けない。
それも何かの縁と、餅をあきらめて舟に乗ろうということになる。
矢橋に近い草津宿では姥が餅が名物で、
千代の春契るや尉と姥が餅
の句が芭蕉に仮託されているが、この頃からあったのかどうかよくわからない。
一方ではまるでナチスの時代のような軍事パレードが行われ、一体世界はどうなってしまうのか。世界が破滅するなんて嘘だろって何度でも言ってくれ。
世界が終わりを迎えようとも、俳諧を続けよう。「松風に」の巻。
初裏。
九句目。
床であたまをごそごそとそる
夷講島の袴を手にさげて 猿雖
旧暦神無月二十日の恵比寿講は神無月の留守を預る恵比寿様を祭る日で、商人の家では恵比寿様にお供えをして御馳走や酒を振舞った。
振売の雁あはれ也ゑびす講 芭蕉
の句は一年前の江戸での発句で、恵比寿講のご馳走に雁を売りに来る人がいたことを記している。
商人もこの日は正装をし、袴を穿く。
えびす講酢売に袴着せにけり 芭蕉
の句も一年前に詠んでいる。
前句の「あたまをごそごそとそる」はこの場合月代(さかやき)のことであろう。きちんと月代を剃って長袴を穿いて恵比寿講の宴席に臨むのだが、この句はまだ準備の段階。
島の袴は縞の袴のことか。
十句目。
夷講島の袴を手にさげて
喧花の中をむりに引のけ 雪芝
「喧花(けんか)」は喧嘩と同じ。酒宴となれば酔っ払っての喧嘩は付き物。加賀山中温泉での山中三吟の第三、
花野みだるる山のまがりめ
月よしと角力に袴踏ぬぎて 芭蕉
ではないが、喧嘩の時にも袴は邪魔なので脱ぎ捨てたのだろう。その袴を拾って「まあまあまあまあ」と中に割って入る。
十一句目。
喧花の中をむりに引のけ
仕合と矢橋の舟をのらなんだ 芭蕉
「仕合」は「しあはせ」と読む。めぐり合わせや幸運をいう。前句の喧嘩から「仕合(しあひ)」とも掛けているのかもしれない。
「矢橋(やばせ)」はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、
「滋賀県南西部,草津市西部の琵琶湖岸にある地区。旧湖港。江戸時代,東海道の近道となった大津-矢橋間の渡船場として栄えた。」
とある。
矢橋の船頭さんが喧嘩をしている人を見て、「あんたら、これも何かの縁だ、はよう舟にのらなんだ」とでも言ったのだろう。
「のらなんだ」といい、五句目の惟然の「うつかりと」、八句目の支考の「ごそごそとそる」といった口語的な言い回しは、後の惟然の風に繋がるものかもしれない。
十二句目。
仕合と矢橋の舟をのらなんだ
あふげど餅のあぶれかねつる 望翠
ちょっと茶屋で餅でも食ってから行こうかと思っていると、薪が湿っているのか火力が弱く、餅が焼けない。
それも何かの縁と、餅をあきらめて舟に乗ろうということになる。
矢橋に近い草津宿では姥が餅が名物で、
千代の春契るや尉と姥が餅
の句が芭蕉に仮託されているが、この頃からあったのかどうかよくわからない。
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