2024年12月31日火曜日

 今年も一年が終わる。
 今年はAI俳画を始めたのも一つ収穫かな。
 では皆さん良いお年を。

 大晦日定めなき世のさだめ哉 西鶴

2024年12月30日月曜日

  今年も明日で終わり。白笹稲荷神社に行ったら茅の輪が用意されてた。賽銭箱は拝殿の階段の手前に置かれて、初詣の準備も出来てた。
 芭蕉の時代には初詣はなくて、大晦日の大祓に神社にお参りに行くのが普通だったという。それに倣って茅の輪をくぐってきた。
 本殿拝殿の裏手にもお稲荷さんの小さな社がいくつかあって、写真はその一つ、これは、

 米買に雪の袋や投(なげ)頭巾 芭蕉

の句の投頭巾だろうか。ただ、四角い袋ではなく、よく見ると狐耳が作ってある。

 今年もいろいろやり残したことはある。
 結局西洋哲学の弱点は人類普遍と個々の人間は思考できても、民族という曖昧なものを思考できない、それが人権思想の行き詰まりの原因ではなかったかと思う。
 人間の個々の意識は直接人類普遍の遺伝的資質によって決定されるのではない。必ず生まれ育った文化を経由する。
 言語が良い例で、人間の言語能力は遺伝的に具わったものであるにせよ、実際には既存の言語に接することによって学習されるもので、幼少期の早い時期に全く言語の無い環境に置かれると、言語の習得そのものが困難になる。また、単一言語の環境で育つと外国語の習得に苦労することになり、二言語環境だとどちらか一方になりやすい。少数民族言語が失われやすいのもこの理由による。多言語環境だと多言語を習得できるが、そのような地域は世界的にはそれほど多くはない。
 言語に限らず、社会の様々な習慣も、生まれ育った社会で学習するもので、道徳意識が何らかの生得的なものであっても、実際はその文化の価値観によって形成される。
 個の形成は類から直接的に形成されるものではなく、その中間とも言える種によって媒介されて形成される。田辺元の「種の論理」をもう一度見直してみてはどうかと思う。
 個は類より発しながらも種に媒介されて具体化される。そして、個が日常的に接するのは種の価値観であり、それを介して人類普遍を学ぶ。
 個人の権利はいきなり地球連邦を作ることはないし、地球連邦なるものがあったとしても、単一の価値観を維持することはできず、必ず地域、職種、階級、言語集団、文化圏、宗教などの一定の交友範囲が存在する限り、独自の文化が形成される。それを許さないとなるといわゆるディストピアの状態になる。
 田辺哲学が衰退したのは、種の概念が明確に定義できないことと、人種(race)と安易に混同されたことが原因だろう。
 実際、民族という言葉ですら明確に定義することは難しい。例えば日本人を大和民族と定義しようにも、それは必ずしも血縁を意味しない。古代の帰化人から、文禄・慶長の役の時に日本に来た朝鮮人(チョソンサラム)、されに近代以降に日本に帰化した様々な外国人の血が、今の日本人には混ざっているし、今も多くの人が日本に帰化して日本人になっている。
 また民族は国境で定義することもできない。外国にも日本人は住んでいるし、日本にもたくさんの外国人が住んでいる。
 また日本国内においても文化は一元的なものではない。様々な地方文化があり、その地方の人の気質があり、方言がある。また職種による常識の違いなどもあり、より細かく言えば家風なるその家独自のものもある。文化は常に多元的で、外国文化の影響も少なからず受けている。
 民族というのは定義できないがそれでも何となく存在するという曖昧なもので、この定義困難から田辺元はそれを「無」と呼んだ。「陰陽不測是を神という」という易の言葉があるが、この「無」は神であり、天皇の場所でもある。わからないから、明確に存在が規定できないから無なのであって、文字通り「何もない」ということではない。不明瞭な曖昧な有であるがゆえに、「厳密な哲学」においては無と規定されているにすぎない。
 こうした曖昧さについて、西洋の理性は十分な思考をすることができなかった。それが人権思想を中途半端且つ、人間の正常な感情に反した過激なものにしてしまったと言って良いだろう。
 類と個との関係は民族とでもいうべき種を媒介にしていることについて、きちんと考察し、法体系に反映させる必要がある。それが人権思想を救う唯一の道ではないかと思う。
 類と種の関係は、類の持つ遺伝的資質が学習によって初めて発現するということで説明できる。類は多様な種において具体化される。
 類と個の関係は俺がつねづね「生存の取引」と呼んできたものに他ならない。人は一人では生きられない以上、常に周囲の人間と個別的で具体的な取引を繰り返しながら、自分の居場所を確保する。それは決して社会契約という形で一般化できるものではない。社会との契約ではなく、具体的に周囲の一人一人の人間との取引だからだ。社会のルールというのはこれの繰り返しによって形成される。それはパロールとラングの関係でもある。
 類と種との関係は、いわば深層言語と諸言語との関係で、種と個の関係は諸言語(ラング)と発話(パロール)の関係になる。
 ただ、古典言語学が想定したような普遍的なラングは存在しない。ただ反復される夥しい数のパロールを、それぞれの個々の脳が深層言語に基づいて解析してそれぞれ下した結論がラングであるにすぎない。それは魯迅の「もともと地上に道はない、人が歩けば道ができる」というのと同じで「もともと地上にラングはない、人が喋ればそこに言語ができる(人のパロールがラングになる)」にすぎない。
 言語は人の具体的な交流の範囲によって決定される。この交流が階層的であれば言語も方言・スラング・専門用語などに階層化する。そこに明瞭な理性的な統一があるわけではない。
 民族の文化や風習・習慣などもそこには理性的な統一などない。それは人と人との交流によって不断に形成され、更新され続けている。
 田辺元は歴史的現実を過去と規定して、個々の自由の前に冷酷に立ちはだかるものと考えていたが、これは正しくない。現実は不特定多数の多くの人々が思い描く過去であり現在であり未来である。他人が進もうとしている未来と自分が進もうとしている未来がぶつかり合う、それが現実に他ならない。そして、個の対立の解消は、面倒くさいことではあるが、その異なる未来を思い描く他人一人一人と不断に生存の取引を繰り返すことに他ならない。それが生きるということだ。陳腐な言葉だが「それが人生だ!」
 個々の生存の取引の繰り返しで、種が形成され、その種を通じで新たな世代の個々が育って行く。
 類と種の否定的関係は類が単独で種を構成できない以上、類は複数の種に分断され、それが国家を形成することで、ホッブスの言うリバイアサンとリバイアサンの戦いを生み出す。この対立が種による類の否定であり、人間の普遍的理性がこの種の分断を憎むことが類による種の否定になる。しかし、種は消去することはできないし、一つにすることもできない。
 種と個の否定的関係は、まず個が生まれ落ちた時、未熟な子供は周囲の人々との関係において圧倒的に不利な状況にあり、大人たちとの妥協の元でしか自我を形成できない。これが種による個の否定になる。これに対し、個は自己の欲求に従い、周囲の大人たちの間で生きる意志を示し、自分の生きる場所を確保しようと不断の生存の取引を繰り返す。これが個による種の否定になる。
 個々の生存の取引への強い欲求と衝動は、人類の類としての遺伝的資質に根拠を持つことから、個による種の否定は類に媒介される。それが唯一、種の分断を一つの類に繋ぐ力になる。人権の根拠はそこにあり、またそこにしかない。
 人権ができるのは種の持つ習慣の更新であり、破壊ではない。つまり人権思想は国境を破壊することはできないししてはならない。そこの間違いが今の世界を大きく混乱させている原因になっている。

2024年12月27日金曜日

 今日で一年の句会が終わった。

 日常を綴れば年の瀬の早き

ということで、昨日の続き。
 9月は24日に南足柄の芙蓉を見に行き、25日に伊勢原の彼岸花を見に行った。29日はたばこ祭俳句大会で、その夜は祭りを見に行った。
 10月1日にも南足柄の芙蓉を見に行き、2日は山中湖の花の都公園に行った。7日は松田のコキアを見に行き、11日は平塚にコスモスを見に行った。16日は小田原フラワーガーデンの秋薔薇。
 18日は現代俳句協会の丹沢句会吟行会に行った。

 秋水を隠し盆地は石の湖
 秋霖やまだこれからの山の色

 19日は平塚市文化祭俳句大会。

 金木犀の空飛ぶ粉を幻視する
 高潮や深海を垣間見る思い

 27日は厚木市民文化祭俳句大会。

 街道を行けば窓皆秋灯す
 若き日は世にあらがうや葛紅葉
 交わらぬ二本のレール秋夕焼け

 11月2日は茅ケ崎市民文化祭俳句大会。

 曇天の向こうお日様冬用意
 いくさ後の世をいつか見ん秋惜しむ

 11月は7,8と続けて山中湖に紅葉を見に行った。
 12日の第三句会は蓑毛吟行会だった。

 山門の朱も薄れてや冬紅葉
 水音や熊出没の看板に
 個体差のある六地蔵ふ毛糸帽
 コスモスの枯れて明日の種を持つ

 13日は小田原にざる菊を見に行った。
 11月17日はなかい里山俳句大会。

 生という小さな島よ冬銀河
 山茶花の去り行くものの土を染む

 19日は3度目の山中湖で、28日は同じく山中湖の明神山に登った。
 その前の24日は秦野市文化祭俳句大会。

 富士山も鎮座まします冬うらら
 烏瓜藪を夕陽で満たすよに

 ここでこの年の俳句大会は終わり。
 12月は1日にやまきた駅前朝市を見てから河村城址に行った。
 2日は神宮外苑の銀杏を見に行った。久しぶりの東京。クリスマス市を見てからDJのいるクラフトビールの店へ行った。神宮の銀杏も無くなると思うと名残惜しくてって、無くなりません。デマには気を付けよう。
 4日は丹沢湖に行き、帰りに洒水の滝に寄った。
 16日には裾野の五龍の滝、清水町の柿田川公園、三島大社を見て回った。

 その他、今年の句は鈴呂屋書庫の方にアップしてるけど、ここでもいくつか。

   述懐
 長らうや遠い光と霞む影
 残響よつちふる街の在りし日々
 苦き夜に糖分少しバレンタイン
 燕来て何思うシャッター閉じた街
 震えてた子猫見知らぬ部屋の隅
 蝶四羽おまいらどんな関係だ
 モノクロは煙の如し昭和の日
 町工場の鼓動はあるや五月闇
 脱水の音ごとごとと五月闇
 外は雨白い陶器にさくらんぼ
   ニコニコに続いてカクヨムも
 鯖落ちてかく詠む俳句いかならむ
   新生姜は秋の季な
 奪われぬ空の茜や新生姜
 砂煙あれは魔王の雷火かな
 白雨が塗りつぶすなり黒い雲
 抱き枕のイルカ跳ねるや熱帯夜
 眠れない頭に金魚回遊す
 金魚すくい濁世は灯り煌々と
 金魚一つ色なき水の揺らぎ哉
 火は命いつか煙の忘れ草
 扇風機の音に空飛ぶ夢を見た
 七夕の岸は果てない星の海
 灯籠の数よ我らは生きている
 灯籠か宇宙から見る地上の灯
 月は猫何食わぬ顔で見おろせり
 先を行く影もあるべし月天心
 鈴虫の羽のハートが震えてる
 ダム底の暗くて遠き野分哉
   声
 地震野分「生きろ」と闇に声がする
 露草は夜の光の名残かや
 赤とんぼ稲を守る機影の如く
 銀杏が踏まれ一日が始まる
 あれやこれ燻ぶる思い秋刀魚焼く
 秋暮れて静かに色を消す世界
 落日の海遥かにて林檎剥く
   アメリカ大統領選挙
 平和へとランプ灯すや冬の夜
 ムスリムの墓にも立つや狐の火
   桜の木の下に死体があるというなら
 帰り花されば燐火に匂うらん

2024年12月26日木曜日

 今日は沼津の大瀬崎に行った。
 風が強かったけど暖かかった。
 水仙やツワブキが咲いてた。
 辺りはダイビングの店が並び、ダイビングの人がたくさんいた。
 風雪に耐えたようなビャクシンの巨木がたくさんあり、大瀬神社にはなかなか古そうな江戸狛犬があった。
 岬の先に池があって鳥がたくさん鳴いていた。

 今年一年を振り返るということで、昨日の続きだが、7月4日には文化団体協議会の遠足で河口湖へ行った。囲碁団体の方の人が昼食の時に「美人の奥に河口湖」と言ったので、それに上五を付けて、

 ビール飲む美人の奥に河口湖

 7月6日は湘南平塚七夕まつり俳句大会に行った。

 空梅雨やいろいろ使う風呂の水
 旅人の汗五百年松並木

 7月19日は小田原城の蓮を見に行き、7月23日には伊勢原のいせはら塔の山緑地公園を散歩してから比々多神社に参拝し、8月2日には地元秦野の東田原の蓮を見に行った。
 3日は戸川公園の向日葵を見て、10日には座間の向日葵を見に行った。

2024年12月25日水曜日

  信仰の自由というのは、お互いに他の宗教を信じるものを尊重し合う所に成り立つもので、他の宗教を一切認めないばかりか暴力的な行動すらとるような宗教に「信仰の自由」を認めることはできない。
 ムスリムもその大半を占める世俗主義者に関しては信仰の自由は認められるべきだが、イスラム原理主義に信仰の自由を認めるわけにはいかない。これはキリスト原理主義でも同じだ。排他的な原理主義はそれ自体信仰の自由と矛盾する。

 それで、今年一年を振り返るということで昨日の続き。
 4月2日の午前中は蓑毛の淡墨桜を見に行った。

 雨雲の淡墨散らす桜かな

 午後から寄(やどりき)の方を散歩して萱沼の枝垂桜を見た。
 6日の午前中は寄(やどりき)の土佐原の枝垂桜を見たがまだ早かった。午後は秦野白泉寺の枝垂桜を見た。

 桜枝垂れて墓は沈黙するのみぞ
 
 7日は震生湖と弘法山の桜を見て、8日も弘法山に行った。9日、土佐原の枝垂桜は今度こそ満開だった。
 14日は千村の八重桜を見てから頭高山に登った。17日は南足柄の金剛寺の牡丹を見に行った。25日には小田原城の御感の藤を見に行った。そのあとまた金剛寺の牡丹を見に行った。

 牡丹の雨に儚き重さかな

 29日は茅ケ崎大岡越前祭俳句大会に行った。

 葛若葉その勢いの火の如く
 しがらみも古郷の香よ春の風

 5月10日は小田原フラワーガーデンの薔薇を見に行った。

 憂鬱の文字忘れけり薔薇の園

 11日は秦野カルチャーパークの薔薇を見に行った。
 20日は鎌倉吟行俳句大会に行った。

 若葉雨光は古き代の仏
 平家池四を世にかえて蓮若葉

 24日、山梨の芦川のすずらんを見に行った。
 25日は厚木市新緑俳句大会に行った。

 ソーラーの黒も埋めて若葉哉
 画眉鳥の声の隙間や時鳥

 29日は小田原城の花菖蒲を見に行き、そのあとまた小田原フラワーガーデンへ行った。薔薇だけでなく、睡蓮も咲いていて、ここでも花菖蒲が咲いていた。
 6月4日は二宮の花菖蒲を見に行き、12日は下田の紫陽花を見に行った。

 紫陽花は青ければ地球のようだ
 紫陽花の最後は土の色になる

 14日は開成の紫陽花を見に行った。
 この頃は千村の蛍を何度も見に行った。

 目には蛍山ほととぎす真竹の子
 網膜にゆっくり回る蛍哉
 蛍舞う後ろの森は鳥の声

2024年12月24日火曜日

 はぴほりー。
 近頃AIを使ったお絵かきにはまっていて、XAI俳画なるものをアップしている。今日はクリスマスなのでこれ。

 はぴほりや耶蘇の首相のいる国に

 あと、野ざらし紀行のAI俳画も鈴呂屋書庫の方にアップしてるのでよろしく。

  今年は秦野市俳句協会の事務局長になった上に神奈川県俳句連盟の役員になったこともあって、なかなかじっくりと俳諧の研究をする暇もなくなって、鈴呂屋俳話の方も2月で止まってしまって、そこから先はたまにあまり俳句に関係のないことを書いてきたりする程度になってしまった。
 忙しさという意味では、働いてた頃の方がはるかに忙しかったんだけど、一度毎日がホリデーになってしまうと、現役時代の生活リズムに戻すほどの忙しさでもなく、つい怠惰な日常のとっぷり浸かることになってしまった。来年は少しは元のリズムに戻したい。
 2月以降、いろいろなことがあった。
 39日には「おおいゆめの里俳句大会」に行った。こ年一年いろんな神奈川県西南部の俳句大会を回るその始まりだった。これから一年、おおむね一点取れるかどうかというゲームをしてきたわけだが、この日の俳句は、

 太陽のたわわな枝やミモザの日

 ちょうどミモザの季節だった。「月曜日のたわわ」が話題になってのはその1カ月後の44日の新聞広告で、いわゆるツイフェミが噛み付いてきたが、それとは関係なかった。ただミモザの日は女性の日ということで「たわわ」からの連想は狙ったものだった。
 315日には南足柄の春めき桜を見に行った。16日は戸川公園の白木蓮を見に行った。18日は蓑毛のミツマタを見に行った。

 金鉱か杉こもれ日のミツマタは

 ミツマタは鹿が食わないという。
 21日にも春めき桜を見に行った。
 
 桜咲く廃工場の追憶に
 
 31日は千村のチューリップを見に行った。今年は生育が悪くて背が低かった。

2024年12月18日水曜日

 今年ももう残り少なくなってきた。
 ロシアのウクライナ侵略から世界はどうなってしまうのかと不安だったけど、ようやく希望が見えてきた気もする。
 マスコミの衰退、ネットの台頭は人権思想と国境なき世界の安易な理想を退けて、現実的な解決に向かわせる。二十世紀の社会主義の壮大な実験が飢餓と粛清の嵐で終っていったように、二十一世紀の人権思想も治安の崩壊と侵略行為への無力から、終わって行こうとしている。
 国境なき世界は結局犯罪者とテロ組織と軍隊に移動の自由を与えるだけだった。
 以前、詩人会議という共産党系の組織にいた頃、社会主義国家は失敗に終わった。社会主義はどう変わらなければいけないのかという話を聞いて、NGO社会主義と答えたことがあった。
 つまり資本主義の自由競争の原理の範囲内で、社会主義は国家を指向するのではなく、むしろ独立採算の企業体として一般企業と競争しながら、様々な問題を解決する可能性を思い描いたわけだが、実際の共産主義者の生き残りはNGO社会主義ではなくNPO社会主義に留まった。
 経済的に独立した組織として自由競争の真っただ中に飛び込む勇気もなく、ただ国家や自治体の公的資金をチューチューして、行政の委託を受けることで行政を乗っ取って行くという方法を取るようになった。
 その一方で新しい資本主義は、企業が社会の諸問題を解決することで、持続可能な資本主義を目指すように変わっていった。その際、マスコミの世論操作によって、企業は大きく左翼寄りに引っ張られてゆくことになった。
 NPO社会主義は国家のような集中的な組織ではなく、分散的なネットワーク型の組織であるため、その中心はわかりにくい。ただ、多くの社会主義的組織とマスコミと官僚と司法が緩やかに結びつきながら、社会を誤った誤った方向に導いていった。
 トランプさんが言うディープステートとの戦いは、Qアノンのような一部の極端な陰謀説の主張と意図的に混同されるようにマスコミは導いてきたが、現実のディープステートはそのような影の支配者がいるわけでなく、ただ市民運動と称する似せ市民、プロ市民のネットワークが存在するだけだった。
 これらのネットワークは中国やロシアやイスラム原理主義との親和性も高く、国連でも力を持っている。そのネットワークが今ようやく綻びはじめてきた。
 実際の選挙による民意とは違ったところで暴力的に圧力をかけて来るこれらのネットワークが、国家や自治体の予算を吸い取り、直接選挙の及ばない司法権に巣くっていることに、ようやくネット民たちが気付き始めた。
 まだ、ネット民の力は弱々しい。しかし、ゆっくりと確実にNPO社会主義の時代を終わらせてゆくことだろう。
 国境は無くならないし無くすべきではない。多文化の共存は棲み分けが不可欠であり、一つの地域に複数の矛盾するルールはあってはならない。それはただ無秩序と治安の悪化、そして他国の侵略への脆弱性にしかならないことはもう十分わかったはずだ。国境は守らなければ守れない。

 また、経済にもようやく明るい兆しが見えてきた。かつてのモータリゼーションやエレクトリゼーションが生活を一変させ、それから半世紀遅れてIT革命が生活を一変させたように、次の変化がようやく見えてきた。間違いなく次に来るのはAI革命だろう。
 モータリゼーションやエレクトリゼーションは大量生産大量消費の時代を生んだ。その幻影に縛られて高度成長の夢よもう一度と願ってきたいわゆる戦後ベビーブーマーも、さすがに年には勝てない。
 地球レベルで進行している少子化の前には労働者の限界生産性を高めるバンドワゴンなんてのは時代錯誤の妄想にすぎない。生産性の向上によって少ない人口で十分な生産力を確保する、雇用を増やさないイノベーションが不可欠だ。それをやらなければ移民の争奪戦になる。
 少子化の時代には移民の確保も困難になるし、優良な移民はもはや望めない。どこの国でもいる食いつめ者、アウトロー、過激派など、その国にいられない人間が国境をまたいでやって来るだけだ。優良な移民が欲しかったら、ロシアのように他国を侵略して拉致してこなくてはなるまい。それが少子化時代の戦争だ。
 そんななかでAIは救世主になる。今のAIはせいぜい絵を描くことに役に立ってるくらいだが、AIは使えば使うほど学習して進化を続ける。今は無知で嘘つきなAIもこれからどんな進化を遂げるのか、想像もつかないほどの大きな可能性を持っている。
 当然、こうした新技術に対して、社会主義者はお約束のようにラッダイト運動を起こしている。ただ、人間が生産物によって生活している以上、生産性の向上は必ず人を豊かにする。
 技術の恩恵はそれをまっ先に採用した者が多くの恩恵を受けるのは当然のことであり、それを頑なに拒む者は貧しいまま取り残されるのも当然のことだ。だからと言って新技術を破壊しても、彼らは豊かにはなれない。全体が今まで通りの貧しさに留まるだけだ。
 社会主義者のイノベーションへの抵抗は今後も続くだろうし、マスコミ、官僚、司法などと連携して無理ゲーのように国民の前に立ちはだかるかもしれないが、ネットはそれを乗り越える武器となる。それが今の唯一の希望だ。

2024年10月30日水曜日

  人口論を考える際、まず人口論というのは、経済を考える際に人口の視点を導入するということであって、マルサスが何を言ったかなんてことは重要ではない。
 これに対して、人口論を拒否する論者はマルサスの発言を大きく取り上げて、支配者階級のイデオロギーだという理由で経済に人口の視点を持ち込むことを全否定する。
 アセモグル他の「技術革新と不平等の1000年史」も結局その手の本だ。はっきり言ってこれがノーベル賞だなんて呆れてものも言えない。

 人口が増加するのは農民が無知蒙昧で無計画に子供を作った結果ではない。まずこれが大事。
 そもそも一般的に前近代の社会では子供は点からの授かり物であり、どんなに毎日せっせと励んだ所で子供ができない場合もあるし、たった一回の過ちで出来ることもある。
 今日でもこのコントロールは難しいというのに、有効な避妊の知識のなかった時代に生まれてくる子の数をコントロールすることはほとんど不可能に近かった。
 それとともに前近代の社会では乳幼児の死亡率が高く、生まれてきた子供が確実に成人まで生きられるという保証はなかった。
 家督を維持するには確実に一人は子孫を残さなくてはならないが、だからと言って一人産めば足りるというものではない。死亡率の低い現代であれば一人っ子でも十分となるが、前近代ではいつ死ぬかわからない子供を一人しか作らないというわけにはいかなかった。死んだ時のためのスペアを常に必要としていた。
 もちろん子供が一人生き残っても、結婚相手がいないのではしょうがない。女児がどこかで生れてなくては、跡取り息子は子孫を残すことができない。女児は家同士で交換し合わなくてはならないから、家督を確実に子孫を残すためには、死亡率ゼロとして二人、死亡率が50%なら四人産まなくてはならない。実際はもっと確実に子孫を残そうとしたならそれ以上生まなくてはならなかっただろう。出生率は4以上必要ということだ。出生率が2で良いのは死亡率が限りなくゼロに近いことを前提にしての話だ。
 こうした世界では、運不運があっても確実に子孫を残せるように、死ぬ数よりも常に多めに子孫を残そうとする。これは階級に関係なく、多かれ少なかれ残すべき財産を持つ者すべてに当てはまる。
 古事記に黄泉の国の神の伊弉冉尊が一日千人を殺すと言った時、伊弉諾尊はなら千五百人の子供を作ればいいと返したように、常に死ぬ数よりもはるかに多い数の子を作ろうとする。これは保険を掛けるという意味では自然なことだ。
 だから、人口の増加は農民や下層階級に限ったことではなかった。上流階級でも常に人口は増加してたはずだが、ただ上流階級には定員があった。領土の拡大や新たな農地の開墾がなければ領主の数を増やすわけにはいかないのは当然のことだ。そんなことしたら支配者階級全体が貧困化することになる。
 だから、支配者階級には常に熾烈な権力闘争があり、敗者は殺されるか没落するしかなかった。支配者階級だって人口は増える。だから必死になって荘園開発もするし、その一方で他人の年を奪う侵略行為も常態化していた。特に侵略ということになると、当然ながら殺し合いになり、結局適正な人口に維持されることとなった。
 内部での権力闘争に敗れて没落するか、外部との戦争で命を落とすか、そのどちらかがあって支配者階級の人口も調整されてた。そうでなかったなら国中王様だらけになってしまっていただろう。

 少子化というのは近代の豊かさと医療水準の高さから、生まれてきた子供のほとんどが成人まで生きられるようになって、跡取り息子の死んだ時の保険を掛ける必要がなくなったことに加え、賃金労働者の家庭が非常に多くの割合を占めるようになって、家督という概念がなくなったことも影響している。
 現代人の多くは子孫を残すためでなく、ただ自分の人生が幸せで豊かなものであればそれでいいと思って生きている。子供はいつの間にか自分の幸福を脅かす邪魔っけな存在になってしまったわけだ。
 少子化はある程度の近代化を成し遂げた社会ではほぼ例外なく起きている。少子化の原因はその国の政策の失敗ではなく、近代化そのものの内にある。少子化を克服したなんて話を聞いてみても、出生率を2まで回復させれば万々歳の状態だ。間違っても4以上になることはない。

 アセモグル他の「技術革新と不平等の1000年史」上の43%の所にこうある。

 「1100年から1300年のあいだに一人当たりの農業生産性は15%上昇したと見積もられる」
 「1100年に220万前後だったイングランドの人口は、1300年には500万にまで増えていたのである」
 「都市人口は1100年から1300年までのあいだに20万人から約100万人へと増加していた」

 1100年にには200万人の農民で都市人口を入れた220万を養っていたとして、生産性が15%向上したとしても253万人しか養えない。
 仮に耕地面積と農業人口が倍に増えたとすれば400万の農民で養えるのは506万人になる。400万の農民が106万人の都市人口を養うことになる。
 これでも農民の生活はこれまでと同じで豊かにはならない。まして耕地面積が倍まで増やすことができなかったとしたら、悲惨なことになる。
 新たな農地開発に、さぞかし貴族や聖職者たちは忙しく働き回ったことだろう。
 しかしこの本はそういう見方をしない。
 人口増加の圧力にさらされる。→支配者階級はそのため絶えず農地の開墾のために余剰人口を搔き集めて働かせなくてはならなかったし、その一方では領土拡大のために戦争に明け暮れることにもなった。→その結果農民は生産性の向上と引き換えに農地開墾の労働に駆り出され、その結果ある数のあぶれ者は新しい農地を手にできただろう。→それでもあぶれてしまう者は都市に流れ込み、商工業を発展させ、それが技術革新につながり生産性の向上をもたらすことになった。
 アセモグル他の「技術革新と不平等の1000年史」はこの物語をひっくり返して逆から読もうとする。
 つまりまず悪い権力者がいた。というより権力者というのは悪者に決まっているということが前提されている。→権力者は私利私欲のために生産性の向上を掲げ、農民を騙して開墾作業を行わせた。→それでもあぶれた者は都市に追いやり、そこで死ぬまでこき使った。→結果生産性の向上の有用なアイデアも権力者と富ませただけで、貧しいものはますます貧しくなった。こういう物語に作り替える。これはマルクス以来延々と繰り返されてることだ。
 農民にも定員があるが、自分たちにも定員がある。だから支配者階級も必死だった。別にのうのうと富を貪って優雅な暮らしをしていたわけではない。豪華な城や衣装やご馳走は権力闘争のライバルに自分の実力を見せつけるためのものであって、そのために裏では権謀術数の限りを尽くしていたに違いない。のんびりとする余裕なんてものはなかったはずだ。

 土地が無限にあって人口が増えても労せずに農地を広げることができたなら、15%の生産性の向上は農民を豊かにできたかもしれない。あるいはアメリカの開拓時代ならこうしたカウボーイの経済学が可能だったかもしれない。
 だがイングランドのような狭い島国で人口が2.5倍に増えたら、そりゃ地獄を見る他ない。
 生産性が向上しても、その分人口が増えて帳消しになるため、一人当たりの労働者の生産物の価値は結局変わらない。その労働者がかろうじて生きて行ける量に固定される。
 これを定数とするところに労働価値説が誕生したのではないかと思う。
 アセモグル他の「技術革新と不平等の1000年史」上の47%にこうある。

「18世紀末にマルサスがその持論を練っていたころ、すでにイングランドの人口ばかりでなく実質所得も数世紀前からの上昇傾向にあり、飢饉や疫病が必然的に生じる兆候はまるでなかった」

 資本主義の拡大再生産が機能し始めた頃にはトリクルダウンが生じて、労働者の生活は改善され始めていた。

「中世のあいだに新しいテクノロジーによって生じた余剰を食いつぶしていたのが子供を生みすぎる貧民層だけでなく、各種の贅沢品や立派すぎる大聖堂にうつつを抜かす貴族階級とキリスト教会でもあったと知られている」

これも当然で、子供を生みすぎるのは貴族も一緒だし、貴族にも定員があるから没落するものもいる。それに彼らもまた人口増加に対応すべく無茶な農地開墾に奔走して疲弊していたはずだ。 支配者階級も人口増加に悩まされていたし、教会も同じだということをこの本は認めている。
 日本の寺から推測するに、教会もまた支配者階級の余剰人口の受け皿になっていたと考えられる。家督を継ぐ長男は家に残しても、余剰となる次男三男はこうした宗教施設に押し込むというのは、洋の東西問わずあったと思われる。このことが無用な家督争いを避けることでもあった。
 しかしそうなるとまた膨大な数の貴族・武家の子孫を引き受けなくてはならなくなるから、宗教施設とは言え、とても寄付だけでは賄いきれず、所領を持ち、その余剰な人員を使って産業を興す努力が行われることになる。

   薬手づから人にほどこす
 田を買ふて侘しうもなき桑門   芭蕉

の句のように、西洋の教会もまた一方では病気の人に薬を施したりしてただろうけど、その一方では所領を経営し、薬の生産も行ってたに違いない。そこでは当然多くの人が働いてたことだろう。
 生産性の向上は人口増加に抵抗するためにやむをえずそうせざろうえなかったはずだった。もしそれとは他の道があるとしたら、必然的に生じて来る余剰人口を別の方法で減らすことになっていただろう。

 猿を聞く人捨子に秋の風いかに  芭蕉

ということになる。江戸時代は捨て子が常態化していた。これによって江戸時代を通じて大きな人口変動が抑えられていた。もちろんその一方では新田開発も行われたし、農業の技術革新も行われていた。ただ、中世のイングランドでも日本の江戸時代でも、その効果は限定的で、焼け石に水と言っても良かったかもしれない。

 アセモグル他の「技術革新と不平等の1000年史」は基本的に人口論の視点が決定的に欠落している。
 出生率が低下して人口減少が予想されるのに、何で労働者の限界生産性を高める必要があるのか。そんなことしたら人手不足になる。それで不法移民を入国させることに躍起になっているのだろうか?
 技術が進歩すると格差が広がり人々が貧しくなるというのは真実ではあり俺もそれを否定するつもりはない。
 注意しなくてはならないのは、その貧しさは相対的なものだということだ。
 それはマラソンのようなもので、走れば走るほどトップとビリの差は広がってゆく。でもビリを走ってる人も確実に前へ進んでいるのを忘れてはならない。
 もちろん「技術革新と不平等の1000年史」は技術革新が全体の生活の底上げをしたことを否定しているわけではない。ただ何ら富の配分に配慮されなければの仮定の話をしている。例えるならコロナ対策が全くなされなかったらどれだけ死んでたかのような。対策の必要を説く所に重点を置く。
 例えて言えば、ルールのないマラソンなら、先行するランナーは勝つために後続へのあらゆる妨害を行い、走れなくしてただろう、だから競走を公正に行うために競技のルールを定める必要があったと、そういう話だ。ただ、そこでは必要以上に勝者を悪者に仕立て上げている。まるでスポーツマンシップに則った競技者が一人もいないかのような言い草だ。
 問題なのは、こうしたルールの制定するにしても、そこには権力が存在するということだ。このような民衆全体のための権力はミシェル・フーコーが「監獄の誕生」で語ったような集中監視型のシステムであってはならないことはこの本にも書いてあることだ。つまり二十世紀に誕生した社会主義国家のようなシステムであってはならない。
 日本がよく最も成功した社会主義国家だと言われるのは、日本の社会には最高指導者が存在しないばかりか、目立った有力な指導者も存在しない完璧な相互監視型社会主義だからで、失敗した社会主義はどれも最高指導者のいるパノプティコン型社会主義だったからではないのか。
 パノプティコンのような集中型管理システムに対抗できるのは相互監視システムではないかと思う。日本が西洋のようにならないのは、相互監視システムがうまく機能して集中型管理を抑えてるからではないか。
 人口の減少に加えて資源の節約やゴミを減らすなどの環境圧力が強まった現代にあって、かつての大量生産大量消費をもたらすようなバンドワゴンは無理だし、労働者の限界生産性にこだわる理由もわからない。その無理をやれば移民の増加と地球環境の悪化が同時に起きるが、それがリベラルの認識なのか。
 今はまだ貧しく紛争に明け暮れてるフロンティアの国々がたくさんあるから、しばらくは移民には困らないかもしれない。しかし、かれらも政情が落ち着いて近代化が軌道に乗ったなら、当然ながら少子化するし、その少子化の中で自分の国の労働力を確保しなくてはならなくなる。そのため、移民を外に出す余力はなくなる。
 少子化が世界に広まった時、あくまで労働者の限界生産性にこだわり、労働者の数を増やそうとするなら、戦争になるだろう。多産多死時代の戦争は溢れる人口を養うための領土を奪い合う戦いだったが、少子化時代の戦争は労働力を得るために人間をさらって奴隷化する戦いになる。ウクライナではすでに多くの人々がロシアに連れ去られている。人口を考慮しない経済学では、いつか世界的に限られた人口の奪い合いが生じるであろう。
 技術革新は少ない人口でも十分な生産能力を維持するために必要なものだし、成長のためには地球環境やマイノリティの多様な消費などへ向けた新たな産業を起こせば良い。日本はその方向に向かってるし、甘利・安倍・麻生三氏によって開かれ、岸田前首相に引き継がれた「新しい資本主義」の方向性は基本的に正しかったと思う。
 その安倍さんは殺害され、甘利さんも今回の選挙で落選した今、果たしてこの方向性が維持できるのかどうか不安ではある。これまでの自民党政権ではまだ抑制されながら行われていた外国人労働者の受け入れが、この先管理されない見境の無い不法入国者を許すことになり、欧米並みの治安の悪化が起きるのではないかと心配してるのは俺だけではない。ネット上にたくさんの声が存在する。西洋の間違った経済学は阻止しなくてはならない。

2024年10月2日水曜日

 今日は山中湖を通って、山中湖花の都公園に行った。
 ピンク色の蕎麦の花が咲いてた。別の所には白い蕎麦の花もあり、他にもコスモス、百日草、向日葵が咲いていて、黄花コスモスは終わりかけてた。

 市川沙央さんのいう、敗戦によって生じたGHQになりたい願望は、実際はすぐに日本に異世界転生の流行を生み出すことはなかった。

 なぜなら洋行できるだけの余裕ある人は西洋という異世界に行って、いくらでも劣等民族日本を啓蒙するという形で復讐欲が満たされてたからだ。
 異世界転生が流行するには、逆に日本人が日本人としての誇りを取り戻して、昔のヨーロッパを現実の西洋史とは違う日本的な道に開花するという意味での逆GHQを思いついたからだ。
異世界転生で知識チートを用いても、そこに西洋思想、特に革命思想が持ち込まれることはなかった。
 異世界転生でチート能力や知識チートで無双する世界は、君主制を否定するというよりは、君主制の中で理想の世界を実現するものの方が圧倒的に多い。
日本人がGHQになって西洋を啓蒙しようとした時、基本的に一君万民にに近い考え方になった。魔王の下で全ての種族が平等になるような転スラ的な世界に。
 異世界転生もののルーツというか、タイトルは忘れたが70年代の少年漫画で、いつもいじめられている子が全てが脆くできている世界でヒーローになるというのがあったと思う。
こういう一発逆転的な発想は昔からあったのだろう。

 結局異世界転生ものが叩かれるのは、かつて西洋文化を学んで知識チートで「君、今西洋ではね」と今でいう出羽守で無双できた時代があったのが、日本が豊かになったら逆に日本の常識を異世界に持ち込んで無双するヒーローがもてはやされるようになって、自分たちが叩かれる立場になって、悔しいんだろ。
 「角川文庫発刊に際して」という1949年の角川源義さんの、

「第二次世界大戦の敗北は、軍事力の敗北であった以上に、私たちの若い文化力の敗退であった。」

の言葉は、戦後思想の出発点だったといってもいい。
 だが、一部の人は日本の敗北を日本文化そのものの敗退と捉えて反日になっていった。
 角川さんのこの文章は、

 「あくまで祖国の文化に秩序と再建への道を示し」

というここが大事で、俳句もラノベも江戸時代の日本の庶民によって作られた大衆文化の再建であって、闇雲な西洋崇拝や劣等民族論とは真逆なものだった。
 まあ、これが角川文庫が左翼知識人に軽く見られた原因でもあった。

 戦後のアカデミズム全体を覆ってた日本を否定しようという雰囲気と、騎馬民族説の流行もあって、日本にあるものが朝鮮半島でも見つかると、悉く朝鮮半島起源だと声高に主張された時期があった。今の韓国人の何でも自国起源の主張は、多分その影響が大きいのだろう。
 その後日中国交回復があり、中国南部の少数民族文化の研究が進んでくると、そちらにも似たものがあるのがわかってきて、広く長江文明に起源があると考えられるようになった。
 俳句は和歌から派生したものだったが、和歌の起源は長江文明の影響下にあった様々な地域に見られる、歌垣という男女が歌のやり取りで結婚相手を見つける習慣から来ているのだろう。
 平安時代に和歌の上句に下句で答えるやり取りから連歌が生まれ、上句が独立して発句となり、近代に俳句となった。
 今でもそうだが、文化の伝達速度は極めて速くて広範囲に及ぶもので、笙は中国南部から東南アジアにかけて広く見られるのでその辺りが起源と思われるが、これが西へ伝わるとバグパイプになり、それが大型化したのがパイプオルガンになった。
 琵琶も西へ渡るとリュートになり、ギターになった。

2024年9月1日日曜日

 伊勢湾台風に匹敵すると言われながらも、大きな被害もなく台風は熱低に変わり、天気も回復するのだろう。
 これも日本の治水技術の勝利なのだろう。

 上流のダム有り難き野分哉
 脱ダムも声なかりけり大野分

 久しぶりにコロナの時のような家にお籠もりする生活で、三年前みたいにパラリンピックのゴールボールでも見ながら、まあたまには息抜きだ。
 米が店に並ばないんで、パン、素麺、饂飩、パスタ、お好み焼き、それに駅前のネパール人の店で買ったパキスタン米をカレーにしたりリゾットにしたりで、何とか普通に生活している。
 別に昔みたいな米蔵が襲撃されるようなこともなく、日本は平和だ。米がなくても食うものは他にたくさんあるからね。ケーキだってあるし。

 俺がもし日本を弱体化させるのにはどうすればいいかと聞かれたら、たいして力のない左翼を利用するよりも、保守を分裂させることだと答えると思う。
 実こうした工作は去年のLGBT法の頃から行われてるし、それは十分な成果を挙げている。次の一手は外国人への憎悪を煽ることで、これも既に成果を挙げてる。右翼は中国の手の上で踊ってるようなものだ。

 中国が日本本土を侵略する可能性は極めて低いし、本命が台湾なのは明白だ。そのために既に沖縄は人質に取られている。
 沖縄に米軍や自衛隊の基地があることを根拠に、沖縄が戦場になるという恐怖を与え続けている。中国側に付けば沖縄が戦場にならずに平和なままでいられるとなれば、それを選択する人も当然いる。デニーさんはまさにそれだ。
 実際に中国が沖縄を攻撃してしまうと、もはやこの脅しは通用しないから、中国としては周辺の海域を封鎖することで沖縄の基地を無力化できないか探ってるのではないかと思う。
 太平洋側からの沖縄への補給路を断つのは難しいが、佐世保やあるいは韓国の基地からの沖縄への補給なら何とかなるのではないかと、今は九州の南西海上で制海権・制空権を取れるかどうかを探っているのだと思う。
 沖縄が無傷のまま台湾併合が成功すれば、次は沖縄の割譲を迫って来る可能性はある。かつての琉球は中国に朝貢してたから、沖縄が中国固有の領土だという主張は今でも見られるからだ。
 この段階で初めて本土侵略の脅しをかけてくるだろう。つまり、沖縄を切り捨てれば本土は平和のままだという餌で釣れば、日本の世論を二分できるからだ。
 台湾との戦局が悪化した時に中国が沖縄基地攻撃を行う可能性ももちろんある。ただ、この場合沖縄の人達も中国の脅威を現実的なものとして認識することになるから、中国に吸収されても良いことはないというのはわかることになる。
 最悪なのは、そこで日本が本土に戦火が及ぶことを恐れて沖縄を切り捨てる選択することだ。こうした裏切りは千年の禍根を残すことになる。逆に言えば、中国側は沖縄を差し出せば日本が安全であるかのような情報工作を日本のメディアを通じて行って来る可能性が高い。

 沖縄は本来独立国であった。
 中国に朝貢してた頃は平和だった。
 琉球処分は日本の侵略だった。
 琉球人は日本人によって長年差別を受け続けてきて、今でもそれを恨んでいる。
 太平洋戦争の時に沖縄だけが戦場になったのも、日本政府の悪意によるものだったし、日本軍が積極的に虐殺に加担していた。
 琉球人と日本人は本来相容れるものではない。

 こうしたプロパガンダの積み重ねは、左翼の間にはとっくに浸透しているが、保守の間にはほとんど効いてない。さて、保守を分断させるにはどういうプロパガンダが効果的か。多分もうすぐわかると思う。

2024年8月27日火曜日

  ジョン・レノンが「イマジン」という曲をリリースしたのは1971年のことで、既に半世紀以上前のこととなる。

 あの頃は国境のない世界というのはイマジネーションの中の世界のもので、そこに戦争も争いごともない平和な世界を夢見ていた。

 だが半世紀たった今、実際には国境は無くなってないものの、世界中の人権団体が様々な形でその世界を実現しようとしてきた結果、様々な困難な現実も見えてきた。

 そもそも国境がないということは、軍隊が自由にどこの国にでも行けるということになる。実際ロシアはウクライナを侵略したし、返り討ちに合ってひどい目にあってるもののハマスもイスラエルに侵攻した。

 そして、国際世論は決して一致団結して侵略にノーということはなく、それぞれの立場から意見はバラバラに分かれていった。

 国境を自由に越えられるのは軍隊ばかりではない。犯罪者もまた同じだ。移民や難民を装った不法入国者が世界の治安に恐怖を与えている。

 国境がないということは法律もまた国境を越えてくる。イスラム原理主義者は居住する国の法律に従うこともなく、イスラム法に従う。

 明文化された法律だけでなく、様々な国の慣習法も国境を越えて、一つの地域に複数の法律が併存する状態になった。これでは何が犯罪なのか人によって解釈が異なり、事実上の無法状態に陥ってる。

 喩えて言えば、車が右を走ったっていいじゃないか、俺の国ではそうなんだ、ってことで道路が無秩序になるようなもので、別にそのせいというわけではないけど、最近は逆走する車が多い。

 ひとたび無法状態に陥ると、暴力が社会を支配する。

 昔は任侠と呼ばれるような人たちがいて、非力なものはそれに頼って生活していたが、いまは人権団体が任侠の代りになっている。彼らも国の法律を尊重せずに、独自の価値観で暴力的な実力行使を繰り返して、社会に恐怖を与えているが、同時に弱者はそれに頼って生活している。

 パリオリンピックでもジョン・レノンの「イマジン」が流れていたが、国境のない世界の現実はもうかなり具体的にイメージできるようになっている。そこは結局秩序の破壊され、暴力が支配する世界なのは明らかだ。国が暴力を抑えてくれないなら、誰がその暴力を抑えるというのか。


 Imagine there's no countries

 殺人は野放しで取り締まる理由もないし

 死んでも宗教的な救済もない

 Imagine all the people

 混沌の中に生きてることを


 ハリスがアメリカの大統領になることで、この世界は完成に近づいてゆくことだろう。

2024年7月27日土曜日

 パリオリンピックが始まった。
 開会式というと大体は自分の国の歴史や文化を紹介するものだが、おそらく今回ほど自国の歴史文化をリスペクトしない開会式はなかっただろう。
 フランスはローマの時代まで含めて長い歴史があるのに、そういう紹介は全くなく、フランス革命はただ、マリー・アントワネットの首を抱えてただけで、ただ旧体制を破壊する自由だけが礼賛された。破壊した後にあるのは、結局フランスの歴史や文化の消滅なのだろう。
 選手の入場行進もなく、みんな船に乗ってやって来た。特に小さなボートに乗せられた小国の人達は、あたかもボートピープルのようだった。
 世界からやって来る選手団は、あたかも世界からフランスにやって来た移民や難民を象徴するかのようで、そこに闇雲な伝統文化の破壊を象徴するような、最後の晩餐のパロディーではキリスト教の公然と冒涜するし、聖火を運ぶのは殺し屋(アサシン)だったり、ジャンヌダルクがアンデッド騎士になって舞い戻って来るし、フランスはどこへ行こうとしてるのか。
 フランスがあまりに伝統を破壊しすぎてしまったことは、もうずいぶん前にレビ=ストロースも嘆いていた。フランス人の意識はサルトルの時代を未だに越えられないのだろう。
 自由の刑の中から、互いに殺し合う「愛の闘争」の闇から永遠に抜け出せないかのように、作っては壊しを繰り返す。
 日本にはまだ古い時代の構造が残っている。それも同じ破壊の圧力にさらされていて、いつまで持ちこたえられるかわからない。
 ただ、まだ神社が冒涜されたり、奈良の神鹿が蹴られたりすると怒る人達がいる。ヨーロッパにも伝統を守ろうとする人たちはたくさんいるし、アメリカにもいる。
 分断はどこの国でもますます激しいものになり、やがては自由主義諸国のあちことで内戦がおこる事態になるのかもしれない。
 その中で、かつて国家の祭典だったオリンピックが無政府主義の祭典に書き換えられ、一つの象徴的な開会式がパリで行われた。これが吉と出るか凶と出るか、まだ誰にもわからない。

 まあ、そんな暗い話ばかりでもなんだから、この前伊豆の伊東駅前で見た竜舌蘭の花の映像でも挙げておこう。
 数十年に一度花を咲かせるという。今年は暑いせいもあってか、あちこちで咲いているという。

 太陽に呼ばれて咲くや竜舌蘭

2024年7月15日月曜日

  言葉というのは自分の中にあるものを人に伝えるものではない。

 言葉はただ聞いた人の記憶を呼び起こすことができるにすぎない。

 どういう記憶を引き出すかによって、そこに絵を描いたり、物語を作らせたり、感情を引き出したりする。

 そしてそれがその人の本当に大切な記憶を引き出すことができた時、初めて名句は生まれる。

 聞いた人全員にというのは無理な話だ。

 人それぞれ違った人生があって、記憶もそれぞれ違っている。

 誰もが同じ反応を引き出すなんてことはできない。

 ただほんの何人か、あるいは一人だけでもそれを引き出すことができれば、句としては成功だ。

 俳句の修行というのは真っすぐそこに向かうべきで、寄り道すべきではない。

 自分にそれができるかどうか自信はないが、自分に言い聞かせるためにもここに言葉にしておきたい。

2024年6月13日木曜日

 昨日は下田の紫陽花を見に行った。
 紫陽花は見頃になっていて、この頃の紫陽花は本当に種類が増えたなと思った。
 色もそうだし花の形だとかも様々で、去年掛川の加茂荘花鳥園の温室で見たような変わった紫陽花がここでも見られた。

 そういえば昔は漁村に行くとたくさん猫がいたもんだが、下田では終に猫の姿は見なかった。この前西伊豆を車で走った時もそうだった。昭和の頃に大隅半島を夜に車で走った時には、道の脇に夥しい数の猫の目が光ってたが、あれから四十年になるのか。
 伊豆も一頃初島が猫島だということで有名になったが、保護活動の成果があって、そこにいた猫はみんな去勢されて一代で姿を消した。同じようなことが日本中に起きている。外を歩いてる猫は保護活動のもとにことごとく捕獲され去勢され、一代で姿を消していった。
 世界では猫のせいで固有動物が危機に瀕してるところもあるが、それだけ猫の力というのは大きい。
 日本では逆で、少なくとも江戸時代には日本中どこでも普通に猫が外を歩いていて、それこそ夥しい数の野良猫がいて、日本固有の動物の生態系を圧迫していたのだろう。
 今や保護猫活動の成果で外猫の数は激減した。最近起きているシカやイノシシやクマの人里への進出は果たして無関係なのだろうか。気になる。東京の真ん中では当たり前のようにタヌキが歩いてるし、千葉のキョンも凄いことになっているという。
 ツキノワグマはいくら最強でも、赤ちゃんは300g程度で、十分猫の狩猟対象になる。ヒグマでも赤ちゃんは400g程度しかない。実際に猫に襲われてるところを保護されたヒグマもいるという。
 野生動物が人里に出てきて農家を脅かす世界と、野良猫がたくさんいる世界と、どっちが良いのかはわからないが、どっちにしても生態系のバランスというのはそれだけ微妙で難しいということなのだろう。

2024年6月11日火曜日

 源氏物語の方も『鈴呂屋書庫』の方は行幸巻までアップしました。
 カクヨム版の方もよろしく。
 
 「秦野たばこ祭」俳句大会のほうもよろしく。

 秦野市俳句協会の事務局長だけでなく、神奈川県俳句連盟の役員までやることになって、閑な隠居生活も少しばかり忙しくなってきた。
 まあ、どっちもやることは雑用のようなもんだけどね。

 今年は5月24日に芦川のすずらん群生地を見に行った。白樺林の根元の方に鈴蘭が咲いてた。
 エゾハルゼミだろうか、この季節にヒグラシをやや騒がしくしたような蝉が鳴いてた。

 その他にも小田原城や小田原フラワーパーク、二の宮せせらぎ公園の花菖蒲も見に行った。

2024年5月16日木曜日

  二上貴夫先生は俳句の五つの型ということを言っているので、それを解説しておこう。

第一型 〇〇〇〇や+七五の型
 この形で句を作ろうとする時には、「や」の所を「に」「は」「が」「で」などの他の格助詞に置き換えて、それに続く文章を考えればいい。

例1 古池に蛙が飛び込む水の音がする
 こういうふに作ってから上五の格助詞を「や」に置き換えて、末尾や途中の助詞を省略すれば第一形になる。
完成例 古池や蛙飛び込む水の音 芭蕉

例2 名月の畳の上には松の影が映る
 同じように「の」を「や」に変えて、「は」と「が映る」を省略する。
完成例 名月や畳の上に松の影 其角

例3 種芋を花の盛りに売り歩く
 この場合はそのまま「を」を「や」に変えるだけでいい。
完成例 種芋や花の盛りに売り歩く 芭蕉

例4 花の雲は理屈なしに面白い
 この場合は「花の雲や理屈はなしに面白き」でも句になるが、倒置で「面白し」を上五に持って来て「面白や」にすることができる。
完成例 面白や理屈はなしに花の雲 越人

例5 夏草は昔のつわものどもの夢の跡のようだ
 「夏草や」にして「昔の」「のようだ」を省略する。
完成例 夏草やつわものどもの夢の跡

歴史
 切れ字の「や」は本来文末に来る疑問・反語の「や」を倒置法で前に持って来て、係助詞として用いた所に起源がある。
 「月はあらぬや」→「月やあらぬ」
 「春は昔の春ならぬや」→「春や昔の春なぬ」
 和歌では末尾を省略して体言止めで用いられることもあった。
 「うち出る浪は春のはつ花ならんや」→「うち出る浪や春のはつ花」
 特にこの「やーらん」の形は中世の連歌で多用された。
 「や」は疑問と反語の両義に取れる言葉で、その両義性から真偽のつかないものを主観的に疑いつつ肯定するという「治定」の意味で、発句にも多用されるようになった。
 もともと係助詞であるため、強調したい言葉の後に「や」を持ってくるのが基本になる。
 「古池に蛙が飛び込む水の音がする」の場合、蛙を強調したい時は、

 古池の蛙や飛び込む水の音

 飛び込むを強調したい時は、

 古池に蛙飛び込むや水の音

 水を強調したい時は、

 古池に蛙飛び込む水や音

 音を強調したい時は、

 古池に蛙飛び込む水の音や

と自在に移動させることができる。
 江戸後期になると、係助詞的な用法から独立して、詠嘆の用法が生じてくる。

 菜の花や月は東に日は西に 蕪村

 この用法の「や」は他の助詞に置き換えられないのでわかる。今日の関西方言の「や」もこの用法と言えよう。


第二型 上五+〇〇〇〇〇〇や+下五の型
 「や」という切れ字を使うと上五が強調されることになるが、これは中七を強調する型になる。
 これはたとえば、「古池や蛙飛び込む水の音」を「古池に蛙飛び込むや水の音」のような形で変換することもできるが、この用例はほとんどない。
 ほとんどは元の文章の上五の部分を末尾に持ってくる倒置形のものになる。
 たとえば「水の音」を強調しようとすると、「古池に蛙飛び込む水の音や」となっておさまりが悪いというので、「蛙飛ぶ水音聞くや古き池」と倒置させて用いる。


例1 衣更えで越後屋に衣さく音がするや
 倒置にして「越後屋に衣さく音がするや、衣更え」として、「がする」を省略する。
完成例 越後屋に衣さく音や衣更え 其角

例2 軒の栗の花は世の人の見付けぬ花や
 倒置にして「軒の栗の花」を末尾に持って行き、「花」が重複するので省略する。
完成例 世の人の見付けぬ花や栗の花 芭蕉

 こうした倒置型の場合は「や」に限らず、「か」「かな」「けり」「なり」「たり」「よ」「し(形容詞の終止形)」「む(ん)」「よ(命令の)」などの終止言となる切れ字は大体使えるので、応用範囲が大きい。

例3 最上川は五月雨を集めて早し
完成例 五月雨を集めて早し最上川 芭蕉

例4 初鰹は鎌倉を生きて出けむ
完成例 鎌倉を生きて出けむ初鰹 芭蕉

例5 柿食えば法隆寺の鐘が鳴るなり
 この場合は途中の「法隆寺」を倒置で上五に持ってくる。
完成例 柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺 子規


第三型 下五を「かな」で止める型
 これは倒置を含まず、上から下へすらすらと読み下せる場合と、倒置によって強調したいものを末尾に持ってくる場合がある。

例1 木の下では汁も鱠も桜になるのだろうか
 これは前者の例で、「なるのだろうか」は主観的な肯定で、治定の「かな」で止まる。そのほか不要な言葉を省いて行く。
完成例 木の下に汁も鱠も桜かな 芭蕉

 (「かな」は関西方言の「がな」の形で今も名残を留めている。標準語の「かな」は完全に疑問の言葉で、語尾を上げて用いているが、かつては治定の言葉で、語尾を上げずに用いてたと思われる。)

例2 枯野ではカマキリは尋常に死ぬ
 「尋常に死す」は今日だと「普通に死ぬ」に近い。動詞「死ぬ」を連体形にすることで、「枯野」を後ろに持って来て、「かな」で止める。
完成例 かまきりの尋常に死ぬ枯野かな 其角

(ただし、古語の「死ぬ」は本来ナ行変格活用で連体形は「死ぬる」だったが、江戸時代の俗語では今日のように「死ぬ」で連体形になってたと思われる。)

下五に季語が来ない例としては、

例3 蔦植えて竹四五本のあらし哉 芭蕉
例4 しのぶさへ枯れて餅かふやどり哉 芭蕉

などの例がある。

 「かな」は「か」に通うということで、

 木枯らしに二日の月の吹き散るか 荷兮
 木枯らしに浅間の煙吹き散るか 虚子

の例もある。


第四型 上五に季語を持って来て、末尾を「けり」で止める型。
 この句形は芭蕉の時代には稀で、近代俳句に多い。芭蕉の時代の「けり」は中七に用いて第二型で用いることが多い。「道の辺の槿は馬に食れけり 芭蕉」の句は有名だが、上五に季語を用いず、倒置も省略もなく、第三型で「かな」の代りに「けり」を用いたような句形になっている。

例1 明け方のホトトギスが鳴く頃、吉原では暁傘を買わせて追い出そうとする
 かなり思い切った省略と倒置によって、「ホトトギス」「暁傘を買わせ」だけを残して「けり」で結ぶ。
完成例 時鳥暁傘を買せけり 其角

例2 赤とんぼが飛ぶ筑波の空に雲もなかりけり
 これも思い切った省略による句。
完成例 赤とんぼ筑波に雲もなかりけり 子規


第五型 体言止めの上五に季語を入れる。
 第四型に似ているが、「けり」に拘束されないのが異なる。この形は芭蕉の時代にも見られるが、上五の体言止めは格助詞の省略で説明できるものが多い。

例1 初真桑を四つに割らんや輪に切らんや
 「初真桑を」の「を」を省略して、「や」を倒置で「四つにや」とする。
完成例 初真桑四つにや割らん輪に切らん 芭蕉

例2 カキツバタは畳へ水はこぼれても
 「こぼれても」の後に何が省略してるかは不明だが、これは其角の得意とするパターンで、特に何とは限定せずに、状況に応じて読者の頭の中でピタッと当てはまる場面があることを期待しての句だ。「あれ聞けと時雨来る夜の鐘の声 其角」の「あれ」が特に何とは言ってないのと同じ。格助詞「は」の省略。
完成例 かきつばた畳へ水はこぼれても 其角


 今日紹介した五つの型は自分もちゃんと使ってる。

第一型
 蝋梅や閉じた月日の溶け始め

第二型
 尺八は浄土の風や実朝忌

第三型
 百円でエコバッグ濡らすレタスかな

第四型
 八重桜散るというより埋もれけり

第五型
 蜃気楼知らぬ工場知らぬ塔


 俳句の添削の弊害と言うのは、例えば芭蕉の古池の句でも、直そうと思えばいろんな形が作れることだ。

 「や」の位置を変えるだけで、
 古池や蛙飛び込む水の音
 古池に蛙飛び込むや水の音
 古池に蛙飛び込む水や音
 古池に蛙飛び込む水の音や

 「や」を「哉」に変換をすると、

 古池に蛙飛び込む水音(みおと)哉

とできなくもない。
 倒置にすれば、

 水音や蛙飛び込む古き池
 水音は古池に飛ぶ蛙哉
 古池に飛び込む蛙水の音
 古池に水音蛙飛び込みぬ

などいくらでも直せる。
 実際、貞享三年刊西吟撰『庵桜』では、

 古池や蛙飛ンだる水の音 桃青

の形で掲載された。
 どんな句でも直そうと思えばいくらでも直せるんで、ある程度芯のある作者なら、どの形がベストか自分で判断するが、初心の者はそれがわからないから、師匠の言うなりになってしまい、これを句を作る度にやられると、大抵は心を折られてゆく。


 発句には「切れ」が必要だということから「切れ字」というのがあるわけだが、この「切れ」についても混乱した議論が多い。
 簡単に言えば、一句として独立した趣向を立てているかどうかで、文法とは何の関係もない。切れを文法で説明しようとしてる人が昔から多いが、どうやっても無理がある。
 今日上げた「例」はすべて独立した趣向となってることに注意。

 例えば藤原定家の有名な歌の上句、

 見渡せば花も紅葉もなかりけり

 「けり」と言う切れ字が入っているが、これでは発句にはならない。花も紅葉もないというだけで、だから何なんだという句にしかならない。

 明石潟花も紅葉もなかりけり

なら発句になる。
 実際にも、

 西行庵花も桜もなかりけり 子規

の句がある。

逆に、

 古池の蛙び込む水音に

は趣向としては「古池や蛙飛び込む水の音 芭蕉」と一緒だが、これも発句にはならない。
 最後の「に」の後に何か続く感じがして、一句として独立してないからだ。

 切れ字は本来句の独立性を出すための便利な道具であって、これを使ったから発句になるわけでもなければ、これがないから発句にならないわけでもない。
 中世の連歌書にも切れ字があっても切れない例、切れ字がなくても切れる例が紹介されている。

 切れ字の使い方は文法的に合理的に説明できないため、長いこと連歌師や俳諧師の口伝とされてきた。おそらく明治の旧派までは受け継がれてきたのだろう。
 正岡子規はそれを受け継いでいなかったし、ただ切れ字は終止言とだけ言って、それ以上の議論を禁じたため、近代俳句は切れてなくてもOKということになった。

2024年5月3日金曜日

  Kindle ダイレクト・パブリッシングの方の『源氏物語』は販売を停止してます。

 今カクヨムの方で『女房語り、超訳源氏物語』を掲載してまするが、これは登場人物に勝手に名前を付けて分かり易くしていて、名前を付けてない修正版を『鈴呂屋書庫』の方にアップしてます。

2024年4月5日金曜日

 

 この頃は俳句よりも源氏物語の方がメインになってしまっている。
 源氏物語の胡蝶巻を鈴呂屋書庫にアップしたのでよろしく。
 また、カクヨムの方でもこれまでの現代語訳源氏物語に分かり易いように登場人物に名前を付けてみたり、女房語りの雰囲気を出すために若干のフィクションを加えて見たりしている。

 源氏物語は最古のラブコメで、ハーレム展開だけでなく、曇らせ展開の元祖でもあるのではないのか。

 今年は染井吉野の咲くのが遅く、雨が多いので花見にもなかなか行けない。その中で四月二日には午前中秦野市蓑毛の淡墨桜を見に行って、午後は松田町寄(やどりき)の萱沼の枝垂桜を見に行った。途中、弘法山にも寄った。写真は淡墨桜。
 三日は一日雨だったが車で松田町のチェックメイト・カントリークラブという松田山の上にあるゴルフ場へ上る道を車で走ってみた。ここも桜並木が続いて花のトンネルのようになっている。
 四日は秦野の桜道とカルチャーパーク、水無川沿いを散歩した。染井吉野は五分咲き程度で、曇ってて途中雨も少し降った。
 今日も一日雨でどこへも行ってない。
 まあ、今年も染井吉野以外の桜はたくさん見た。
 土肥桜、熱海桜、河津桜、おかめ桜、玉縄桜、春めき桜。桜も多様性の時代だ。

 山を越え土肥か熱海か早桜
 島の浮く熱海穏やか早桜
 プレートは知らない家族花の幹
 桜咲く廃工場の追憶に

 桜以外の花もたくさん見た。

 柴犬のわけ入る土手よ水仙花
 蝋梅や閉じた月日の溶け始め
 蝋梅や琥珀は虫の眠れるを
 梅一輪一番星を見たような
 漆黒の中の光や雨の梅
 富士の白雲の白きや梅の白
 十郎やなべてこの世の花の兄
 太陽のたわわな枝やミモザの日
 金鉱か杉こもれ日のミツマタは

 俳句は俳句をやってる人にしかわからないっていう人がいるが、俳句をやってる人にしかわからない俳句は、所詮駄目な俳句だと思う。
 要するに、一般人に分らないような独りよがりの俳句しか作れない人の言い訳で、仲間内だけで固まって、互いに評価し合って、互いに句集を只配りし合って、そんなんで満足してるような俳人は、所詮仲間内でしかわからない俳句しか作れない。
 そういう閉鎖性を打ち破らないことには俳句に未来はない。
 そういうわけで、秦野市俳句協会のホームページの方もよろしく。

2024年3月20日水曜日

 

 また長いこと休んでしまった。
 一昨日は蓑毛のミツマタの群生地を見に行った。
 春めき桜も、しばらく寒い日が続いて遅くなったがようやく見頃になっている。
 現代語訳源氏物語の玉鬘巻を鈴呂屋書庫にアップしたのでよろしく。
 あと秦野市俳句協会のホームページも順次更新し、山麓427号のPDFもアップしてるのでよろしく。



2024年2月29日木曜日

  芭蕉さんの「句調はずんば舌頭に千囀(せんてん)せよ」という言葉は『去来抄』「同門評」の句の語順の問題を論じた文脈で登場する。
 ともすると「読書百遍意おのづから通ず」的な精神論にもなりがちだが、全く未知の言語ならいざしらず、辞書や文法知識や様々な情報があれば百回読まなくても、労力を節約することができる。
 近代の人だと、百囀なんて言われると、早口で何度も唱えて澱みなく発音できれば良いようなイメージがあるかもしれないが、むしろ句をできる限りゆっくり発声した方が良い。
 そして目の前で聞いてる人を想像すると良い。
上五を読んで、間を作って次に何が来るか期待させて、果たして聞いてる人は次に

 何を期待するか。
 次の中七で期待通りに盛り上がるか。
 最後の下五できちんと落ちが決まるか。

 それくらい計算しないといけないということで、無駄に百回唱えたところで何の意味もない。
 たとえば、

 うらやまし思い切るとき猫の恋 越人

の句も、元は「思い切るときうらやまし」で、これでは「ひがみたる」ということで直したという。
 意味的には、猫の恋(は)思い切る時うらやまし、だから

 猫の恋思い切る時うらやまし

 でも良さそうだし、口の中で何度も呟いても問題はなさそうだが、前に人がいて、ゆっくりと読み上げて聞かせることを想像してみると良い。尻つぼみな感じは否めないだろう。
 この句は、

 うらやまし
 えっ、何が羨ましいんや?

 思い切る時
 思い切るいうたら苦しいもんやろ、何でうらやましいんや?

 猫の恋
 あ、なるほど

と、この聞かせ方が大事。
 越人も流石に落ちを最初に言うなんてことはなかったが、あと一歩だった。
 「句調(ととの)はずんば舌頭に千囀せよ」というのはこういうこと。
 「調う」という言葉のこの使い方は、ねずっちの謎かけの「ととのいました」という時と同じ用法と考えても良い。

 猫の恋思い切る時うらやまし

は調ってない。
 こういう語順の整え方は其角さん(晋子)も上手い。

 切られたる夢は誠か蚤の跡 其角

 切られたる
 えっ、そりゃ大変やな

 夢
 何だ夢か

 はまことか
 えっ、ほんまに切られたん?

 蚤の跡
 あ、なるほど

 実際は百回囀(ツイット)しなくても、無詠唱でできればそれに越したことはない。
 「千囀(せんてん)」はしばしば「千転」と表記され、千回口の中で転がすことだと説明されることもある。確かに早稲田大学所蔵の文政期の写本には口篇はなくて、転になっているが、千回転がすでは意味が通らないので千回囀(さえず)るの間違いだろう。杜牧の詩に「夏鶯千囀弄薔薇」の用例がある。
 囀るという言葉は源氏物語玉鬘巻でも、大夫の監の言葉が訛りがひどくて意味がわからない様子を表すのにも用いられていて、鳥の囀りは無駄に長々と訴えることを揶揄するときにも用いられるが、囀りは本来繁殖期の求婚の声だからその意味でも玉鬘巻の用法は適切だ。囀りは相手に聞かせるもので、呟きではない。
 英語のツイットは辞書を見ると、なじる、あざける、しつこい批評または文句で困らせる、とか何かろくな意味はないが、実際ツイッターの実態を見るとなるほどと思う。Xになってだいぶ良くなった。ツイッターがXになった時に詠んだ句をもう一度。

 囀るなお前はもはや鳥じゃない

 それでは「雑談集」の続き。

 「山川といふ通称七年に及びぬれどもいまだ顔だに見合せぬに、志し他なく予が一癖をうつしければ尋常の反古も捨ず、はしりがき物しけり。彼花つみといふ集はやとひて清書なさしむ。又仮初に思いよりし句ともいかがなど問ひかはせば、古詩古歌の縁に叶へるも筆まめに引出ける。其力を強ひ此集にはげめかしといへば、勤めて閑かならず。それかやとより、我宿迄も心遥かにこそと折ふしの文緒は絶えずかしこといへる。同じく志シあり。

 凩よいつたたけども君が門     山川
   火燵へぐすと起臥の楽     角
 傘をかりて返さぬ雪はれて     渓石
   在所も近く薺うつなり     山川
 傀儡の肩にかけたるおぼろ月    かしこ
   馬にのせては狐うららく    仝

 鏡を形見といへる重高の歌にや。装束つくろひて鏡の間にむかへるに、

 親に似ぬ姿ながらもこてふ哉  実生 沾蓬」(雑談集)

 山川は寺村山川(てらむらさんせん)で、コトバンクの「デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「寺村山川」の解説」に、

 「?-? 江戸時代前期の武士,俳人。
  伊勢(いせ)津藩士。榎本其角(きかく)(1661-1707)の門人。通称は弥右衛門。」

とある。七年来の弟子というから、天和の終わり頃からの弟子なのだろう。天和三年刊其角編の『虚栗』にその名はなく、貞享四年刊其角編の『続虚栗』には、

 草まくら薺うつ人時とはん     山川
 子の泣てしばし音やむ砧哉     同

の句が見られる。他に嵐雪編元禄三年刊『其袋』、其角編元禄三年刊『いつを昔』、路通編元禄四年刊『俳諧勧進牒』などにもコンスタントに入集している。
 其角の弟子として活躍していながら、「いまだ顔だに見合せぬ」という状態だったようだ。直接教えを受けなくても、其角の書いたものを何一つおろそかにせずに勉強したようだ。
 それが認められて、其角編元禄三年刊『華摘』の清書を務めることとなった。
 ここに記された表六句は特に『華摘』にあるものではない。
 発句。

 凩よいつたたけども君が門     山川

 君が門は其角門のことであろう。会いに行こうとするといつも留守で、なかなか会えなかったということだろうか。会いに行っても凩だけが吹いている。
 脇。

    凩よいつたたけども君が門
 火燵へぐすと起臥の楽       其角

 「ぐすと」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「ぐすと」の意味・読み・例文・類語」に、

 「〘副〙 いいぐあいにすっかりはいったり、また、円滑に抜け離れたりするさまを表わす語。すっぽり。するり。
  ※名語記(1275)五「かしらや、又、さしいでたる物を、くすとひきいるなどいへる、くす如何」
  ※咄本・鹿の子餠(1772)比丘尼「菖蒲革染をぐすとぬぎかへ、ぬっと二階へあがり」

とある。発句を家の中にいて木枯らしが戸を叩くという意味に取って、寒い日は火燵に出たり入ったりと一人気楽に過ごす。

 応々といへどたたくや雪のかど   去来

の句はもう少し後になる。去来の句は戸を叩く音がしても生返事するだけで出て行かないという「あるある」だが、ここでは起臥とあるから、木枯らしの戸を叩く音に、一応起き上がって確かめには行くのだろう。
 留守中に来たという知らせを聞いて、会えなくて残念だったという気持ちも暗に込められているのだろう。戸を叩いたなと思ったらもういなかった、という意味で。
 第三。

   火燵へぐすと起臥の楽
 傘をかりて返さぬ雪はれて     渓石

 第三は発句を離れて大きく展開する。傘は「からかさ」。旅の時に被る「笠」ではなく、柄のある傘を区別してそう呼んだ。
 雪が降ったので傘を借りて帰り、そのままだった傘を、雪が晴れたので返しに行く。
 四句目。

   傘をかりて返さぬ雪はれて
 在所も近く薺うつなり       山川

 再び山川の句となる。場面を田舎に転じ、雪の晴を正月の七草の頃とする。
 「精選版 日本国語大辞典 「薺打つ」の意味・読み・例文・類語」に、

 「陰暦正月七日の前夜から早朝にかけて、摘んできた春の七草を刻む。《季・新年》
  ※俳諧・青蘿発句集(1797)春「薺うつ遠音に引や山かづら」

とあり、七草叩きともいう。ナズナを刻む時にそのリズムに合わせて七草歌を歌うが、拍子が各々自分の叩く拍子なため、合ってなかったりする。

 君がため春の野に出でて若菜摘む
    我が衣手に雪は降りつつ
               光孝天皇(古今集)

の歌の縁で雪と薺は付け合い。
 五句目。

   在所も近く薺うつなり
 傀儡の肩にかけたるおぼろ月    かしこ

 傀儡はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「傀儡」の意味・読み・例文・類語」に、

 「① 人形の一種。歌などに合わせて踊らせるあやつり人形。かいらい。〔新訳華厳経音義私記(794)〕
  ② 「くぐつまわし(傀儡回)」の略。〔色葉字類抄(1177‐81)〕
  ③ (くぐつまわしの女たちが今様などを歌い、売春もしたところから) 舞妓や遊女。あそびめ。くぐつめ。てくぐつ。
  ※殿暦‐長治元年(1104)七月七日「今日不二出行一、密々にくくつにうたうたはす」
  [語誌]→「くぐつ(裹)」の語誌」

とある。正月にはこうした芸人も回って来たりしてたのだろう。
 六句目。

   傀儡の肩にかけたるおぼろ月
 馬にのせては狐うららく      かしこ

 「かしこ」は合略仮名で表記されている。其角・嵐雪などの集に見られる名だ。二句続く。
 「うららく」は麗(うらら)の動詞化であろう。春の季語になる。狐は近代では冬の季語だが、この時代は無季。馬と狐は稲荷様(お狐様)の初午で縁がある。初午は旧暦二月の最初の午の日で、その縁日には傀儡師がやってきて興行したりしたのだろう。

2024年2月24日土曜日

 
 今日は雨も上がり、時折晴間も出たので、四十八瀬川から戸川公園を経て水無川の方まで散歩した。
 戸川公園の河津桜も満開で、梅もまだまだ満開の見頃だった。
 水無川沿いの道はおかめ桜が咲き始めていた。
 丹沢の山は雲がかかってたが、雪が残っていた。

 それでは「雑談集」の続き。

 「正木堂鳥跡はむかし遊女あまた持ちて栄えけり。かかるいとなみあるべきことにもおもはずとて、所を去りけれども、なましひに高尊の席をたたれ、遊人もしひて交りをゆるさずなりにければ、後するがの国にしれる人とひ行きけれども、たのもしからずものしければ、有りつらへる世中をとかくもてあつかへる心にやなりけん。凩の森なるかたはらの池に身を投げ侍るそのほとりに茶酌にたんざくを付けて、

 とめこかし茶酌の雫雪の跡     鳥跡

 今は十とせにも成りぬべし。心をとけたる一句のさまいやしき人果には生まれながら、たふとき道に身をまかせけるも讃仏乗の因なるべし。」(雑談集)

 正木堂鳥跡は遊女屋の主人、いわゆる「轡(くつわ)」だったのだろう。『虚栗』のら其角・千之両吟歌仙「偽レル」の巻十九句目に、

   松ある隣リ羽かひに行
 百千鳥轡が仕着せ綺羅やかに    其角

の句がある。(轡には下級遊女の轡女郎の意味もあるが、ここでは遊女屋の主人が遊女を綺麗に着飾らせるという意味。)
 この轡はネット上の今西一さんの『芸娼妓「解放令」に関する一考察』によると、穢多に準ずるものとして差別され、遊女町以外で家を構えることが禁止されてたという。
 正木堂鳥跡はこうした轡であるとともに俳諧風流の徒でもあった。延宝九年刊言水編『東日記』に、

 更にけふ田毎の月よ段目鑑     鳥跡

の句がある。
 ある時、「かかるいとなみあるべきことにもおもはず」と自らの商売を恥じて、足を洗おうとする。「所を去りけれども」というのは遊郭の外に出るということか。遊郭の外に住むことを禁じられた者が出たらどうなるかという話だ。
 「高尊の席」はよくわからない。出家してお寺に入るとかそういうことか。遊郭で遊んでいた人たちも現役時代には親しくしていた人たちだったのだろうけど、相手にしてくれなかった。
 駿河の知人を頼っても断られ、行くところがなくなって、ついに「池に身を投げ侍る」となった。
 茶杓に短冊を付け、そこに、

 とめこかし茶酌の雫雪の跡     鳥跡

の辞世を記した。
 なぜ茶杓なのか、一つの推測だが、竹細工など賤民の仕事だったことから、住む所もないまま竹を削って茶杓を作って売って、何とか食いつないでたということか。
 冬になると野宿は辛い。雪が降れば凍死する危険が大きい。そこでもはやこれまでと観念したのだろう。雪にあっては我が命も茶杓で掬える僅かな雫のようなもの。それが最後の言葉だった。
 「今は十とせにも成りぬべし」と元禄四年(一六九一年)から十年前の出来事だったようだ。一六八一年は延宝九年のことで、『東日記』の出た年でもある。多分其角の門人というわけでもなく、噂に聞く程度の人だったため、自ら助けてあげるということもなかったのだろう。
 罪深き職業から足を洗おうとしても決して報われることはないこうした厳しい身分社会の不条理に、せめて死後の仏の加護祈るだけだった。「讃仏乗の因」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「讚仏乗」の意味・読み・例文・類語」に、

 「〘名〙 仏語。一切の衆生をことごとく成仏させる一乗真実の教法を賛嘆すること。仏乗を賛嘆すること。
  ※とはずがたり(14C前)三「ありし文どもを返して、ほけきゃうをかきゐたるも、さんふつせうのえんとはおほせられざりしことの」 〔白居易‐香山寺白氏洛中集記〕」

とある。一切の衆生が成仏できるのなら、鳥跡も成仏できたことであろう。

2024年2月23日金曜日

 今日も雨。雪にはならなかった。
 それでは「雑談集」の続き。

 「加州金沢の一笑はことに俳諧にふけりし者也。翁行脚の程お宿申さんとて遠く心ざしをはこびけるに、年有りて重労の床にうち臥しければ、命のきはもおもひとりかたるに、父の十三回にあたりて、歌仙の俳諧を十三巻孝養にとて思ひ立ちけるを、人々とどめて息もさだまらず。
 此願のみちぬべき程には其身いかがあらんなど気づかひけるに、死すとも悔なかるべしとて、五歌仙出来ぬれば、早や筆とるもかなはず成りにけるを、呼(カタイキ)になりても、猶ほやまず、八巻ことなく満足して、たれを我が肌にかけてこそさらに思ひ残せることなしと、悦びの眉重くふさがりて、

 心から雪うつくしや西の雲     一笑

 臨終正念と聞えけり。」

 加州一笑とあえて断らなくてはならないのは、尾張国津島にも一笑がいて、『阿羅野』でも加賀一笑、津島一笑と表記されていて、

 元日や明すましたるかすみ哉    一笑
 いそがしや野分の空に夜這星    同
 火とぼして幾日になりぬ冬椿    同

の三句が加賀一笑の句になる。その他時代は遡るが、芭蕉がまだ伊賀で宗房だった頃の伊賀にも一笑がいる。俳諧というのは本来人を笑わせるものだったから、破顔一笑ということで一笑の号を名乗る人があちこちにいたのかもしれない。
 (なお、底本としている『其角全集』大野洒竹編纂校訂、明治三十一年、博文館は「和州」と書き誤っている。早稲田大学図書館所蔵の『雑談集』を見ると「加」の文字のカの上に点があり、紛らわしい。)
 その一笑は芭蕉の『奥の細道』の旅の前年、元禄元年十二月に亡くなった。ただ、それ以前に、加賀へ来ることがあったら是非我が家に泊っていってくれと芭蕉にも伝えていて、其角もそのことを知っていたようだ。
 芭蕉は象潟で引き返すときに、もっと北へと、津軽や蝦夷も見て見たいという思いを我慢し、失意のまま北陸の海岸線の単調な道を猛暑の中、馬にも乗れずに歩き続け、その時は加賀まで行けば一笑に会えるということを心の支えとしていたのだろう。
 「重労」は早稲田大学図書館所蔵のを見ると「シウロウ」とルビがある。「労」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「労」の意味・読み・例文・類語」に、

 「⑥ =ろう(癆)」

とあり、精選版 日本国語大辞典 「癆」の意味・読み・例文・類語には、

 「① やせ衰えること。また、その病気。
  ② 薬物に中毒すること。薬物にかぶれること。また、その薬物の毒。〔説文解字‐七篇下・疒部〕
  ③ =ろうがい(労咳)〔改正増補和英語林集成(1886)〕」

とある。はっきりとはわからないが、ここでいう重労は重病ということでいいのだろう。
 その一笑はいつ死ぬともわからない状態にあって、父親の十三回忌供養のために、歌仙十三巻を奉納したという。
 十三巻満尾して、臨終の時の句が、

 心から雪うつくしや西の雲     一笑

だった。旧暦十二月の金沢は雪が降り、その美しい雪景色に、雪をもたらす雲もまた西方浄土からやって来るかのように見えたのだろう。

 「翌年の秋、翁も越の白根をはるかにへて丿松が家に其余哀をとぶらひ申されけるよし、

 塚もうごけ我泣く声は秋の風    翁
 常住の蓮もありやあきの風     何處
 我ばかり啼せて秋の石仏      乙州
 月すすきに魂あらば此あたり    牧童
 つれ啼きに我は泣すや蝉のから   雲口」

 そして翌年の七月十五日、芭蕉は倶利伽羅峠を越えて金沢に辿り着く。そこで金沢の大勢の人たちに迎えられて、一笑の死も知らされる。芭蕉も旅の疲れが出るが、曾良も体調を崩して療養が必要になる。
 お盆明けの七月二十日には一泉の家でようやく俳諧興行をして、

 残暑暫手毎にれうれ瓜茄子     芭蕉

の発句を詠むが、これもお盆に備えていた瓜茄子のお下がりを頂きましょうという句であろう。
 七月二十二日に一笑の兄の丿松(べっしょう)のもとに願念寺で追善法要が営まれた。子の語句はその時の追善の句になる。

 塚もうごけ我泣く声は秋の風    芭蕉

 『奥の細道』でも知られた有名な句で、説明も不要であろう。

 常住の蓮もありやあきの風     何處

 何処は大阪の上人でこの時金沢に来ていた。
 「常住」は仏教用語では過去現在未来変わることなく永遠に存在することを言い、無常の反対語になる。常住とはいわば仏であり、仏法でもある。秋風は季節の移ろいの無常を告げるけど、そこには仏様の台座の常住の蓮もあることでしょう、という意味であろう。

 我ばかり啼せて秋の石仏      乙州

 乙州は近江大津の人だが、この時加賀に滞在していた。この句も説明は不要であろう。

 月すすきに魂あらば此あたり    牧童

 牧童は北枝の兄で、北枝の方は曾良が病気で先に帰ったあと、福井まで芭蕉を送っていった。
 薄はその姿から手招きするという意味があり、お盆に返ってきた一笑の魂も、まだこの辺りに留まっているのかな、ということか。月は真如の月の意味もあり、薄に招かれた魂は月の光で成仏する。

 つれ啼きに我は泣すや蝉のから   雲口

 雲口は金沢の人で、この追善法要の翌日には芭蕉を宮ノ越に誘っている。北枝・牧童・小春も同行しているが、曾良はまだ病気が治ってなかったようだ。
 「つれなし」に「啼く」を掛けて、蝉の鳴き声に我も釣られて啼くということか。蝉の抜け殻は、魂が抜けて天に飛び立つという意味で、死を象徴する。
 曾良は病気で追善法要に参加しなかったが、

 玉よそふ墓のかざしや竹の露    曾良

の句を奉納している。竹の露の玉を魂になぞらえて、墓の挿頭とする。神道家だけあって、仏教色がない。

2024年2月22日木曜日

  今日は一日雨。雲に隠れた山に雨に映える河津桜は紅一点を添えていて、梅の幹が黒ずんで見える中に梅の花もまた鮮やかに見える。
 あと、源氏物語の乙女巻を鈴呂屋書庫にアップしたのでよろしく。
 それでは「雑談集」の続き。

 「去年にかはりて山のにぎはひ又更なり。

 小坊主や松にかくれて山ざくら  角
 香煎ふる素湯に桜の一重かな   普船
 くもる日は一日花に照れけり   挙白
 さそはれて花に嬉しく親の供   浮萍
 物見よりさくら投げこめ遊山幕  亀翁
 花の雨小袖惜うてかへるかや   水花」(雑談集)

 「去年にかはりて」とあるのは、前の段の「其弥生」の句が元禄三年で、これはその翌年の元禄四年の花見と見て良いのだろう。『雑談集』はこの年にまとめられ、翌年刊行された。
 小坊主の句は、この年元禄四年の七月に刊行された去来・凡兆編『猿蓑』にも、

   東叡山にあそぶ
 小坊主や松にかくれて山ざくら  其角

とある。
 この句は「山桜(に)小坊主も松に隠れてや」の倒置であろう。小坊主が何で隠れているのか、やや言いおおせぬ感じが其角らしい。ただ、江戸時代に寛永寺だ花見をした人なら、その情景がすぐに浮かび、「あるある」と思ったのだろう。
 推測だが、いつもなら境内を掃除したり、せわしく働いてる小坊主だが、この日は花見の人が多くて、表へ出てこず、桜の無い松の木の辺りで何やらやってる、というそんな情景ではないかと思う。

 香煎ふる素湯に桜の一重かな   普船

 「香煎」には「コガシ」とルビがある。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「香煎」の意味・読み・例文・類語」に、

 「① 麦や米をいって挽いて粉にしたこがしに、紫蘇(しそ)や蜜柑(みかん)の皮などの粉末を加えた香味を賞する香煎湯の原料をいう。こがし。
  ※狂歌・卜養狂歌集(1681頃)冬「或る人の許より、かうせんのおこしけるに、中に匙を入れておこし」
  ② =むぎこがし(麦焦)〔物類称呼(1775)〕
  ③ 茶事で、「こうせんゆ」をいう。寄付待合(よりつきまちあい)に人がそろった時、詰(つめ)(=末客)にあたる人、または亭主側から、のどをうるおすために出す。」

とあり、②の麦焦がしは、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「麦焦」の意味・読み・例文・類語」に、

 「〘名〙 大麦を煎ってこがし、臼でひいて粉にしたもの。これに砂糖を混ぜ、水で練ったりして食べる。また、菓子の材料としても用いる。煎り麦。はったい。麦粉。香煎(こうせん)。麦香煎。《季・夏》
  ※俳諧・五色墨(1731)「麦こがし我も付木の穂に出て〈蓮之〉 御葛籠馬の通る暑き日〈宗瑞〉」

と夏のものになっている。ここでは①の方で、「香煎湯の原料」とあるように、粉状の「コガシ」を素湯に入れて飲んでいたのだろう。そこに一重の花びらが落ちる。一枚の花弁というよりは、鳥などが落とした五枚の花弁がついた一重の花ということだろう。

 くもる日は一日花に照れけり   挙白

 この日は花曇りで曇っていたのだろう。それでも花そのものの白い輝きに、あたかも日が照ってるようだ。

 さそはれて花に嬉しく親の供   浮萍

 浮萍についてはよくわからない。普船とともに元禄三年刊路通撰『俳諧勧進牒』にその名があり、

 出がはりのあいだやあそぶ花のとき 浮萍
   六阿弥道者のうちむれたる中に
 いくたびの彼岸にあふや珠数のつや 同
 雛の日や子よりもうばの高笑    同

の句がある。
 親と同伴したいきさつは分らないが、親思い、家族思いの人柄が感じられる。

 物見よりさくら投げこめ遊山幕  亀翁

は其角の弟子の中でもよく出てくる名前で、元禄七年の大阪への旅にも同行し、住吉大社で他の同行者と一緒に江戸に帰り、其角のみが死の前日の芭蕉のもとを訪ねることになる。『雑談集』にこのあと大山詣の一連の句があるが、この旅にも親子ともども参加している。
 名前は「翁」だが、元禄三年の『俳諧勧進牒』には「十四歳亀翁」とある。父も岩翁で其角の門人。
 「遊山幕」は花見の人の宴席を囲う幕のことであろう。「物見遊山」という言葉に掛けて、物見をするより、遊山幕に桜を投げ込め、とする。
 幕で囲ったんでは花がよく見えないじゃないか。花がなければただの物見だ。ならば、桜を折って遊山幕に投げ込んでやろう。まあ、そこは冗談で、本当に桜の枝を折ったりはしない、というところか。

 花の雨小袖惜うてかへるかや   水花

 水花はよくわからない。
 挙白は「くもる日は」と言ったが、そのうち雨になってしまったのだろう。せっかくの小袖が濡れるのが惜しくて帰るのか、という意味だが、「かや」はこの場合反語に取った方が風流だ。

 「嵐蘭が母は田中宗夫と云ひし人の孫にて、かの宗夫の武功をよく知りて語り申されけり。
 和州誉田の田夫にてはじめ中間より後ち松倉豊後守の家老となり侍る。
 されば子孫に伝えて語りけるに士は畳の上にてむまれ田の畦にて死すべしと、これを家訓として心ざしをかかす懐旧、

 死なば爰秕穂に出る小田の霜   嵐蘭」(雑談集)

 嵐蘭が鎌倉から帰る途中に客死したのは元禄六年八月二十七日だから、その運命はまだ知る由もない。
 嵐蘭の死に際して芭蕉は『嵐蘭ノ誄』を書き記し、許六編の『風俗文選』に収録されている。
 母に関しても、

 「此三とせばかり、官を辞して、岩洞に先賢の跡をしたふといへども、老母を荷なひ、稚子をほだしとして、いまだ世渡にただよふ。」

と嵐蘭が老母を養っていて、

 「七十の母に先だち、七歳の稚子におもひを残す。」

この母のことを気遣うほど、嵐蘭の母親思いは門人の誰しも知る所だったのだろう。

2024年2月20日火曜日

 
 今日はおおいゆめの里の河津桜を見に行った。
 花は満開で、一部はもう散り始めていた。この前は五分咲きと聞いて、いつか見に行こうと思ってたが、土日は混むからと後回しにして、昨日は雨で今日は何とか花の盛りに間に合った。
 富士山は雲がかかって、なかなか全体の姿を現さなかったが、霞と雲の合間に何とか見ることができた。
 花見の人も多く、平日とは思えない賑わいだった。

 それでは「雑談集」の続き。

 「あすは桃のはじめに人心うつろひ安からんも覚つかなしと、上野の桜みにまかりしに、門主例ならず聞えさせ給へば、山の気色いと閑なるに花もうれふるにやと心うごかす。霞の底もしめやかに鳥の声定まらざりし。日比にかはることいたづらになせそと、亦とがむる人をも心つかひせしかば、興なくかへりぬべきに成て、風雲の私にひかれ、大師の御座清水の糸ざくらなど、只おぼかたに詠みけるに、彼さくらの木に添て、舞台の右の方に鐘かけたり。片枝はさながら鐘をきくばかりにほころびたれば、

 鐘かけてしかも盛りのさくら哉  角」

 「桃のはじめ」は後でこの日が弥生の二日なのがわかるから、三月三日の桃の節句のことであろう。この日は海に潮干狩りに行き、獲れた海産物をお供えする。延宝の頃の芭蕉の句に、

 竜宮もけふの鹽路や土用干し   桃青

の句がある。
 せっかく桜の季節だというのに、移ろいやすい江戸っ子の心はすっかり潮干狩りムードで、それならと、其角は上野寛永寺の桜を見に行く。花見の名所だった。
 寛永寺の門主の所を訪ねて行ったのだろう。この日は人も少なく上野山は静かで、「花もうれふる」というくらい寂しかった。
 晩春の霞の中に鳥の声もはっきりとは聞こえない。今までとうって変わった景色だし、門主からも何やらお咎めがあったのか、すっかり興も醒めてしまった。
 だったらと「風雲の私にひかれ」というのは、ちょっと別の所を散歩してみようくらいのことか。風雲といっても旅というほどのものでもあるまい。
 「大師の御座清水の糸ざくら」は上野山を西側に降りた不忍の池の北側にある谷中清水稲荷社のことだろうか。弘法大師が掘り当てた清水の伝説がある。
 この糸桜(枝垂桜)の木の横に鐘が掛けてあった。半鐘か何かだろうか。「片枝はさながら鐘をきくばかりにほころびたれば」とあり、この糸桜も綺麗に咲いていたのだろう。

 鐘かけてしかも盛りのさくら哉  其角

ということになる。

 「入相と聞えしほどに門主も薨御のよしをふれて、鳴り物とどめさせ給へば、悲き哉やかるる日かかる時ありて、かくは世をさとしめ給ふことよと仏身非情草木にいたる迄、さてのみこそは侍りけれど愁眉沙汰する事をおもひて、

 其弥生その二日ぞや山ざくら   角」

 夕方の入相の鐘の頃になって再び寛永寺に戻って来たのだろう。ここでお寺が静かだった原因が薨御(こうぎょ)にあったことを知らされる。
 薨御はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「薨御」の意味・読み・例文・類語」に、

 「〘名〙 親王、女院、摂政、関白、大臣などの死去すること。
  ※太平記(14C後)一三「兵部卿宮薨御(コウキョ)事」

とある。
 ウィキペディアを見ると寛永寺の項に、

 歴代寛永寺貫首(輪王寺宮)
  1.天海
  2.公海
  3.守澄法親王(第179世天台座主。輪王寺宮門跡の始まり。後水尾天皇第3皇子)
  4.天真法親王(後西天皇第5皇子)

とある。この4の天真法親王はコトバンクの「デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「天真法親王」の解説」に、

 「1664-1690 江戸時代前期,後西(ごさい)天皇の第5皇子。
  寛文4年7月28日生まれ。母は清閑寺共子。延宝元年得度。8年東叡山(とうえいざん)輪王寺貫主となる。日光の大火のおり被災した住民に食料をほどこしたという。元禄(げんろく)3年3月1日死去。27歳。俗名は幸智。幼称は益宮(ますのみや)。法名ははじめ守全。法号は解脱院。」

とある。元禄三年三月一日死去とあるから、其角が上野に花見に行ったのはおそらくその翌日であろう。
 なお、この句は『五元集』には、

   辛未の春上野にあそべる日
   門主薨御のよしをふれて世上一時に
   愁眉ひそめしかば
 其弥生その二日ぞや山ざくら

とある。
 辛未は元禄四年で『雑談集』の成立した年とされていて、巻末に「元禄辛未歳内立春日筆納往而堂燈下」とある。つまり元禄四年の師走に書き上げられたことになる。西暦では年が改まって一六九二年になる。
 そうなると、この辛未の春は元禄四年の春(一六九一年)ということになり、この時に皇族関係で亡くなった人がいたかということになるが、『五元集』が後に編纂されたことを考えるなら、元禄三年庚午の間違いと見て良いのではないかと思う。
 愁眉沙汰するの愁眉はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「愁眉」の意味・読み・例文・類語」に、

 「〘名〙 心中の悲しみや心配が表われた、しかめたまゆ。悲しみや心配のありそうな顔つき。
  ※傀儡子記(1087‐1111頃)「女則為二愁眉啼一、粧二折腰歩齲歯咲一」
  ※新撰朗詠(12C前)下「縦ひ酔へる面の、桃競ふこと無くとも暫く愁眉の柳与開くること有り〈慶滋保胤〉」 〔後漢書‐五行志〕」

とある。桜が今を盛りと咲き誇っているのに、今日は悲しんで顔をしかめるべき日ということで、

 其弥生その二日ぞや山ざくら   其角

の句を追悼に捧げることとなった。

2024年2月19日月曜日

  河津桜の季節になったが、同もしばらく雨が続きそうだ。気温が下がれば、花も長持ちしてくれるのだが。

 それでは「雑談集」の続き。

 「翁北国行脚のころさらしなの三句を書きとめ、いづれかと申されしに、

 俤や姨ひとり泣く月の友

といふ句を可然に定めたりと申しければ、『誠しかなり。一句人目にはたたず侍れども、其夜の月の天心にいたる所、人のしる事少なり』と悦び申されけり。されば友吉が、

 さらしなの月は四角にもなかりけり

といふ句は武さし野の月須磨あかし絵島にかけても影同じ。さみだれにかくれぬ橋いかでふみたがふべきや。」(雑談集)

 これも、五月雨の句の続きともいえる、ふるふらぬ論になる。

 「北国行脚のころ」とあるが、これは美濃から信州姥捨て山へ行った時の句で、これを其角に見せたのは江戸に帰ってからのことで、その翌年の春は『奥の細道』の旅に出るから、間違いではない。北国行脚の前ということになる。
 三句あったというが、他の句は残っていない。『更科紀行』には、

 いざよひもまださらしなの郡哉   芭蕉
 更科や三みよさの月見雲もなし   越人

の句が並べられているが、十五夜、十六夜、十七夜と日にちを違えた句で、この三句というわけではないのだろう。
 芭蕉は時折弟子に句を選ばせるが、本当に迷っている時もあれば、弟子の力量を試す場合もある。この場合どっちだったかはわからない。ただ、其角が選んだこの句に芭蕉も納得してったようだ。
 そんな目立った景物などがあるわけではないが、姨捨の伝説は誰もが知る所で、姨捨の月の天心に懸かれば、それを見た姨が独り泣いているその情は誰しもわかる。姨捨山の月でなければ詠めない句だ。
 これに対して、

 さらしなの月は四角にもなかりけり 友吉

の句は単に更科の月だからと言って特別四角かったりするわけではない、という句で、これならどこの月だって四角ではない。
 名所だから特別ではないという所に意味があるとしても、月の名所はたくさんある。つまりこの句の更科は武蔵野の月でもいいし、須磨明石など何でもいいということになる。
 五月雨の隠れぬ橋は琵琶湖の景色があって意味があるから勢田の橋は動かせない。それは姨ひとり泣く月が姨捨山の月でなくてはならないのと同じだ、ということになる。
 ちなみに友吉の句は其角撰『虚栗』に収録されている。

 「かりそめの旅に立出てても先づ思ひ合らる川風寒み千鳥なく也。此歌炎暑にも寒しとは俊成卿の雑談也。

 出女や一匹なけば蝉の声      自悦」(雑談集)

 歌は、

 思ひかねいもかりゆけば冬の夜の
     川風寒み千鳥なくなり
              紀貫之(拾遺集、和漢朗詠集)

の歌だろう。
 「此歌炎暑にも寒しとは俊成卿の雑談也」とあるのは、鴨長明『無名抄』の「俊恵歌体を定むること」の、

 「この歌ばかり面影あるたぐひはなし。『六月二十六日の寛算が日も、これだに詠ずれば寒くなる』とぞ、ある人は申し侍りし。」

のことか。だとすると、俊恵との記憶違いか。
 自悦は京の人で延宝の頃に『釈教俳諧』『洛陽集』『花洛六百句』などを編纂し、高政・常矩らとともに活躍した人のようだ。(『芭蕉と京都俳壇: 蕉風胎動の延宝・天和期を考える
』佐藤勝明著)
 句の方は、この句も同じように涼しくなるという意味か。
 出女はウィキペディアに、

 「出女(でおんな)は、 江戸時代の私娼の一種である。各地の宿場の旅籠にいて、客引きの女性であるが、売春もした。曲亭馬琴の『覉旅漫録』20に、岡崎の出女の項に、娼婦の意で用いている。
 森川許六編の『風俗文選』に載る直江木導の「出女説」には、「出女(省略)あるは朝立の旅人を送り、打著姿(うちぎぬすがた)をぬぎ捨てて箒を飛ばし、蔀(しとみ)やり戸おしひらきてより、やがて衣引きかつぎ、再寝(またね)の夢のさめ時は、腹の減る期(ご)を合図と思へり、(省略)やうやう昼の日ざし晴やかに輝く頃、見世の正面に座をしめ、泊り作らんとて両肌(もろはだ)ぬぎの大けはひ、首筋のあたりより、燕の舞ひありく景気こそ、目さむる心地はせられ」とある。飯盛り女、留女と同類のものである。」

とある。出女に見送られて宿を出るとちょうど蝉が鳴き始める、ということか。

2024年2月18日日曜日

  それでは「雑談集」の続き。

 「さみだれにかくれぬ物や勢田のはし  翁

 此はしの名大かたの名所にかよひて矢矧のはしとも申すべきにや、長橋の天にかかる勢多一橋にかぎるべからずと難ぜしよし、京大津より聞え侍るに、去来が、

 湖の水まさりけり五月雨

と云へ、まことに湖鏡一面にくもりて水天ニ接スとみえぬ。八景を亡せし折から此一橋を見付けたる時と云ひ、所といひ一句に得たる景物のうごかざる場をいかで及びぬべきや。文章のみものにあつからずと云へる瞽者のたぐひなるべし。」(雑談集)

 芭蕉の「さみだれに」の句は元禄二年刊荷兮編の『阿羅野』に収録されている。貞享五年五月末からの大津滞在中の句であろう。同じ頃、

 目に残る吉野を瀬田の蛍哉     芭蕉

の句を詠んでいる。貞享五年の春には『笈の小文』の旅で吉野を訪れていた。

 湖の水まさりけり五月雨      去来

の句も同じく『阿羅野』に収録されている。共に巻之七の「名所」の所に二句並べられている。
 勢田の橋はウィキペディアの「瀬田の唐橋」の項に、

 「歴史上、さまざまに表記・呼称されてきた。瀬田橋や勢多橋、勢多大橋のほか、勢多唐橋とも記される。また、瀬田の長橋とも称された。」

とあるように、充てる漢字もいろいろで、音があっていれば昔の人はそれほど字面にはこだわらなかった。和歌では「せたのながはし」が多く用いられる。

 さみだれにかくれぬ物や勢田のはし 芭蕉

 この句に対して京や大津の人から勢田の橋は他の橋でもいいじゃないかという、いわゆる「ふる、ふらぬ」の論が起きたという。名古屋の矢矧橋でもいいではないか、というものだ。
 単に五月雨の雨が強くてあたりの景色がよく見えない、というだけの句ならば、それも言えるかもしれない。ただ、琵琶湖の五月雨に朦朧とけぶる景色の風情は瀟湘八景の美にも通じる。
 勢田の橋とあれば、琵琶湖の景色が浮かんでくるが、矢矧橋は東海道岡崎宿の西の有名な長い橋ではあるが、比較的新しい橋なのか、和歌には矢作川は詠まれているが矢矧橋はないし、特に風光明媚で知られてたわけでもない。
 『阿羅野』ではこの後に去来の句が並べられているように、勢田の橋がなくても五月雨の琵琶湖はそれだけで一句のテーマとなるようなものだった。
 其角も「まことに湖鏡一面にくもりて水天ニ接スとみえぬ」という。其角の父は近江膳所藩の藩医で其角自身もこの辺りの景色の美しさは熟知していた。それだけに、五月雨の琵琶湖の風情を熟知していた京や大津の人からこんな横やりが入るのは解せぬことだ。
 もっとも地元の人にしてみれば当たり前すぎて、却って余所物の方がその美しさに感動するのかもしれない。
 「水天ニ接ス」は蘇軾『前赤壁賦』の「白露横江、水光接天。」のことで、当時は誰もが知るような漢詩の一節だった。

 「壬戌之秋、七月既望、蘇子與客泛舟、遊於赤壁之下。清風徐来、水波不興。挙酒蜀客、誦明月之詩、歌窈窕之章。少焉月出於東山之上、徘徊於斗牛之間。白露横江、水光接天。縦一葦之所如、凌萬頃之茫然。」
 (壬戌の年の秋、七月の十六夜、蘇子は客と船を浮かべ、赤壁のもとに遊ぶ。涼しい風が静かに吹くだけで波もない。酒を取り出して客に振る舞い、明月の詩を軽く節をつけて読み上げ、詩経關雎の詩を歌う。やがて東の山の上に月が出て射手座山羊座の辺りをさまよう。白い靄が長江の上に横たわり、水面の光は天へと続く。小船は一本の芦のように漂い、どこまでも広がる荒涼たる景色の中を行く。)
 芭蕉もこのイメージで後の元禄六年に、

 ほととぎす声横たふや水の上    芭蕉

の句を詠む。
 「文章のみものにあつからずと云へる瞽者」というのは、実際に旅をしたりせずに、頭の中だけで歌枕のことや何かを考えている、ということか。まあ、当時は動画も写真もないから、実際琵琶湖を見たことないと、どういう景色か想像もつかなかったのかもしれない。
 瞽者は「コシャ」とルビがある。目の不自由な人のこと。

2024年2月17日土曜日

  それでは「雑談集」の続き。

 「西岸寺任口上人のたんざく二枚

 草ばうばう刈ぬも荷ふ花のかな
 蓼醋とも青海原をみるめかな

 伏見にて乞取り侍るその朝、京へ出るとて稲荷山にてふところさがしたれば、道すがらに落したるを、あはやとてかる籠かく男はしりかへらせけるに、誰人のひろひてか左の方の藪垣根にはさみてあり。海にひろへるかひありけりと、かさねて袖につつみけるかの短尺の畳紙の上に男山正八幡大菩薩と仇書せしを、おそろしと思ひて内を見ずしてやふね垣にははさみて捨てつらん。但シ神名のかろがろしからぬにや。旅する人は心得ぬべし。」(雑談集)

 任口上人はコトバンクの「デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「西岸寺任口」の解説」に、

 「1606-1686 江戸時代前期の俳人。
慶長11年生まれ。京都伏見(ふしみ)西岸寺の住職。俳諧(はいかい)を松江重頼(しげより)に,和歌と連歌を里村昌程(しょうてい)にまなぶ。松尾芭蕉(ばしょう),井原西鶴(さいかく)らと交遊があった。句は「俳諧続独吟集」「古今誹諧師手鑑」などにある。貞享(じょうきょう)3年4月13日死去。81歳。別号に如羊。」

とある。
 芭蕉ともかかわりの深い人で、延宝五年(一六七七年)に磐城平藩藩主の内藤風虎主催の『六百番俳諧発句合』に芭蕉が素堂とともに参加した時の季吟・重頼とともに判者を務めた一人でもあった。
 貞享二年、『野ざらし紀行』の旅で伏見を訪れた芭蕉は老いた任口上人に会って、

 我がきぬにふしみの桃の雫せよ   芭蕉

の句を詠んでいる。
 其角はその前年の貞享元年二月中旬に上京している。(『元禄の奇才 宝井其角』田中善信、二〇〇〇、新典社)九月までの滞在の間に伏見の任口のもとを訪れ、この短冊を貰ったのであろう。
 「草ぼうぼう」の句は『阿羅野』の初秋の所にも見られる。夏の草ぼうぼうと茂った様に、それを刈らぬまま秋の花野になった、ということで秋の句になる。邪魔だからと刈ってしまえば花も咲かないという寓意を込めてのことであろう。
 「蓼醋とも」の句は蓼酢・海松ともに夏の季語で、鉢に入った緑色の蓼酢を海に見立てて、蓼の緑が海の海松の緑のようだ、という句であろう。
 任口上人のいた伏見西岸寺は宇治川に近い伏見桃山にあり、稲荷山は北へ一里ほど行ったところの伏見稲荷の辺りということであろう。別に山に登ったわけではなく、伏見稲荷のある伏見山の前をということ。
 そこで短冊を落としたのに気付いて、駕籠かきに引き返すように言ってしばらく戻ったら、誰かが拾っておいてくれて、道の脇の垣根の所に挿してあった。今でも落し物などはこうやって見える所に置いておく場合が多い。
 「海にひろへるかひありけり」は「青海原をみるめかな」に掛けて言っているのだろう。「かさねて袖に包みけるか」も共に七六で、脇になりそうでならない微妙な音数で面白い。二枚の短冊は重ね合わせて畳紙で包んであったのだろう。その紙に男山正八幡大菩薩と書いてあったので、拾った人も神のものなら着服したらばちが当たると思って、こうやって置いて行ってくれたのだろう、と推測し、神の名はおろそかにしてはいけないと旅人への教訓とする。
 男山正八幡大菩薩は石清水八幡宮のことで、伏見の南西、宇治川・木津川・桂川の交わる辺りだから、拾った人は石清水八幡宮のお札を京へ帰る人が落したと思ったのかもしれない。
 江戸時代は今よりはるかに治安が悪かったから、落したものが返ってくるというのは珍しいことだったのかもしれない。
 それでも元禄二年に芭蕉が『奥の細道』の旅を終えたあと、路通と一緒に大津に来た時、路通が天和の頃に大阪の宿に置き忘れて行った五器が粟津に届いていたという、そういうこともあった。

2024年2月15日木曜日

  バレンタインは日本ではチョコレートの日として定着しているが、最初は女が男に告白する時にあげるもので、ただ女性からの愛の告白は稀で、実際に貰えない人が多い所から、実態は伴わなくても形だけチョコレートをあげるようになっていった。
 チョコレートが欲しい人は事前に知り合いの女に片っ端から根回しして、結構無理にチョコレートを持ってくるようにさせてたし、その一方で貰えない大半の男に対して一様にチョコレートを配って歩き、これが義理チョコと呼ばれるようになった。
 義理チョコは平成の頃まで多くの職場で行われていたし、バブルの頃はそれなりに華やかだったが、平成末になると急速に廃れ、友チョコや自分チョコが流行るようになった。
 友チョコと言っても男がチョコレートを交換する習慣がないので、女同士のということになるが、そこに最近は男の妄想が入って、百合イラストにチョコレートを組み込んだものがXのTLに多く流れている。これは百合チョコと言っていいものか。
 そういうわけでバレンタインはそのうち百合の日になるのではないか。
 戦後、欧米を中心に性の解放ということが言われて、自由恋愛が西洋の進んだ自由な男女の在り方だというのが世界的に喧伝されたが、八十年代くらいを境にして、西洋社会は性の自由に関してもジェンダーの自由に関しても大きく後退してゆくことになった。
 まあ、多分自由恋愛は男と女の騙し騙されの難しい駆け引きとなって、結局愛憎入り混じったどろどろとした地獄に落ちて行くことが多かったのだろう。七十年代くらいのポップスの歌詞は、そういうどろどろした世界を描いて、死にたくなるような苦しみを唄った暗い歌が多かった。
 八十年代には、男が女にモーションかけたり口説いたりする行為がセクシャルハラスメントとみなされるようになり、またこの頃にアメリカでは未成年のヌードが禁止された。
 そして、強姦が暴力によってではなく不同意によって定義し直され、性的同意の有無の証明が事実上困難であり、また強姦は夫婦間であっても認められるということで、現実の性行為に関しては誰しも委縮し、草食にならざるをえなくなった。
 同性愛に関しても、ゲイの開放は八十年代までで、特にアメリカではトランスジェンダーの観念が拡大解釈され、かつてのお転婆で男勝りの少女はトランスジェンダー認定され、いわば女性というジェンダーを剝奪されて、ホルモン投与や胸部の切除手術などを受けるようになっていった。それでいて男性になれるわけではない。あくまでトランスジェンダーという不安定な地位に留まっている。
 女性的な男性もまたトランスジェンダーに分類されるが、こちらの方も拡大解釈され、男性器を持ったままのトランスジェンダーが、本来男性から保護されるべき場所への出入りを要求したり、スポーツに女性として参加することを要求したり、ごく一部とはいえレズだと称して強姦事件をも起こしている。
 女性としてのジェンダーを奪われて孤立し、自殺に追い込まれることの多い女性トランスジェンダーに対して、傍若無人にふるま男性トランスジェンダーは、結局西洋社会が男尊女卑から脱却できなかった証拠ではないかと思う。結局ペニスを持つ者が優位に立っている。
 幸いこの流れの流入を今の所日本は喰い止めている。トランスジェンダーは自認ではなく、医者の証明を必要として、十分な管理下にある。
 多くの人はアメリカ式のやり方を正しいと思ってないし、それが日本に流入することは大きな危機感を抱いている。この問題で日本の岩盤保守層に亀裂が入り、岸田内閣の支持率を大きく低下させる原因になった。
 生まれながらの身体的性別と心のジェンダーは別物だし、一致する必要もない。心のジェンダーは多様かつ連続的なもので、どこからがトランスジェンダーだなんて境界線を弾くことはできない。それは虹の七色が連続したグラデーションで、切れ目がないのと一緒だ。
 そもそも日本では虹は七色だが、国によって六色だったり五色だったりする。色の区切りはあくまで任意のもので絶対的なものではない。
 それと同様LGBTのLとGは生まれながらの染色体上の性別で区別されているし、BはLとシス、Gとシスとに跨るもので、境界線はない。Tは日本では医学的診断を必要とするもので、染色体上の性別とジェンダーが著しく逆転するケースに限定されている。今のアメリカが典型的な男のシスと典型的な女のシス以外をトランスジェンダーで全部くくった上で、ありのままのジェンダーを受け入れず、無理やり肉体を男か女かどちらかに魔改造しようとしている。
 日本ではシスであってもある程度のトランスジェンダー的傾向を内包するものとして、幅広く固有の性癖が承認されている。バイに関しても肉体を改造する必要はない。性転換手術は極めて限られた人のものとされている。
 今の日本人は西洋をもはや手本とは考えてないし、西洋崇拝の時代をとっくに脱却している。
 性的には確かに七十年代のようなどろどろとした世界はなく、結婚は恋愛結婚から婚活結婚へと変わりつつある。これはかつての見合い結婚を家から切り離した核家族社会に適応させるものだ。そういう意味でバレンタインも恋愛や結婚から切り離され、主に女性を中心としてチョコレート祭へと姿を変え、男性は百合女性の夢を見る日になりつつある。
 セックスやジェンダーの困難な問題の解決には、様々な方法が試され、試行錯誤してゆくことを必要としている。そのためには各国、各民族が多種多様な考えでそれぞれ解決を模索してゆく「並列処理」の方が間違いなく効率が良い。

 それでは「雑談集」の続き。

 「荷兮集あら野に辞世とあり。

 散る花を南無阿弥陀仏と夕べ哉   守武

 彼集のあやまりか。神職の辞世として何ぞ此境をにらむべきや。只嗚呼と歎美してうちおどろきたる落花か。」(雑談集)

 元禄二年刊荷兮編『阿羅野』に確かにこの句があるが、言われてみればその通りだ。これに関しては江戸後期の『俳家奇人談』(竹内玄玄一著、文化十三年刊)にも、

 「世に、
 散る花を南無阿弥陀仏と夕べ哉(江戸亀屋源太郎所持守武自筆の短尺に、菩提山にてといふ前書して、この句あり)
の句を辞世なりと為すものは、非なること晋子すでに弁ぜり、天文十八年八月卆す。辞世の歌、

 越しかたもまた行末も神路山
     峰の松風峰の松風

 発句、

 朝顔に今日は見ゆらんわが世かな」(『俳家奇人談・続俳家奇人談』岩波文庫)

とある。
 守武がこの句を詠んだのは間違いではないが、辞世の句ではなく、かつて朝熊山の梺にあった菩提山神宮寺に詣でた時の句だったのであろう。たまたま桜の散る季節だったということであれば、この句もその時の興で詠んだ句ということで納得がいく。
 芭蕉も『笈の小文』の旅でここを訪れ、

 此山のかなしさ告げよ野老堀    芭蕉

の句を詠んでいる。コトバンクの「日本歴史地名大系 「菩提山神宮寺跡」の解説」には、

 「[現在地名]伊勢市中村町 菩提山
五十鈴川が朝熊あさま山の山塊にぶつかり、北に方向を変える個所、丸山まるやま古墳群のすぐ下の標高八―一六メートルの個所である。尾根筋を径一〇〇メートル四方に加工したと思われる緩やかな傾斜地で、現在各所に土壇・土塁・石垣がみられる。「五鈴遺響」に記される寺伝によれば、天平一六年(七四四)聖武天皇の勅願により僧行基が創建し、その後、文治元年(一一八五)良仁が再建、中興開山と称された。弘長二年(一二六二)火災にあい、堂宇をことごとく焼失、宝暦一〇年(一七六〇)に朝熊ヶ岳明王院の尊隆により再建されたとある。「伊勢名勝志」によればもと内宮の神域内にあって太神宮寺と称され、その後、この地に移され菩提山神宮寺と改称、明治二年(一八六九)に廃寺となったという。」

とある。

 「先年上京の挨拶に、   季吟

 目をしやれよ花しほれたる庭など

 なんどいふ読み癖を通音の句なり。」(雑談集)

 其角は貞享五年に上方へ行っているが、これもその時のことだろう。この頃はまだ季吟も京にいた。将軍家の歌学方として江戸に移るのは翌元禄二年のことだ。(貞享五年は九月三十日に改元し、元禄元年となる。)
 この句の下五「庭など」は字足らずに見えるが、「にわなんど」と読んで五音になる。
 通音はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「通音」の意味・読み・例文・類語」に、

 「② 平安時代の韻学で、ナとダ、マとバのように類似した音で、清と濁とが相通じて用いられる関係にある音のこと。
  ※悉曇要集記奥文(11C後‐12C前)「通音者濁、濁。〈略〉通二声一、通二声一、通二声一、通二声一。互相通随レ便呼レ之也」
  ③ =つういん(通韻)③
  ※悉曇秘釈字記(1090)「アイウエヲ通音」
  ④ =つういん(通韻)④
  ※随筆・胆大小心録(1808)一四七「垣つ幡と万葉に見ゆるは、波と多と通音にて、ハタ薄・花すすきの類ひの証訓なり」
  ⑤ =つういん(通音)②
  ※滑稽本・大千世界楽屋探(1817)上「勇士をさして武者(むしゃ)といふ。其武者の言語応待を、武者言(ことば)といふ。むと もと通音(ツウオン)、且 しやの反(かへし) さ也。武者言(むしゃことば)を もさ言と呼来る」
  [補注]ふりがなのない例は「つういん」と読んでいた可能性もある。」

とあり、(通韻)②③④は、

 「② 悉曇(しったん)学で、同じ母音を持つ文字間の関係。
  ※悉曇蔵(880)二「右迦等三十三字承二上阿等一。是通韻也」
  ③ 平安時代以降の韻学で、五十音図の同じ段の文字に共通する音。大体現在の母音に当たり、アイウエオを指したが、ヤ行・ワ行の音は別と考えていた。通音。
  ※反音作法(1093)「初のアイウエオの五字者は、是諸字の通韻也」
  ④ 江戸時代以前の国語学の学説で、五十音図中の同じ段の文字が相通じて変化することを説明する語。「けむり」を「けぶり」、「あたり」を「わたり」というようなことをさす。通音。
  ※滑稽本・風来六部集(1780)放屁論後編「えびすはへびすの間違にて、あいうえを、はひふへほの通韵(ツウイン)より誤り来れり」

とある。
 この場合は④の意味で、今日の言語学で言う「交替」のことだが、其角のこの文脈は「など」を「なんど」と読んだりする「ん」の有無の交替は「念仏(ねんぶつ、ねぶつ)」「陰陽師(おんみょうじ、おみょうじ)」など、数多く見られる。また古くは「ん」の字は省略して表記されることが多かった。

 「五十匂百匂とわかるる事北野梵灯より始む。」(雑談集)

 匂は勻の字形を変えたもので、ここでは韵のことであろう。連歌の五十句連ねるものを五十韻(韵)と言い、百句連ねるものを百韻(韵)と言う。
 古い時代の連歌は百韻が標準で、あとの形式はその簡略化されたもので、あとからできたものであろう。中世の連歌のほとんどは百韻の形を取っている。
 つまり、五十韻ができたのは梵灯庵主(朝山師綱)が北野連歌会所にいた頃に定めたものということで、真偽のほどはよくわからない。

2024年2月14日水曜日

 今日は小田原フラワーガーデンの梅を見に行った。
 早咲きの梅もまだ残り、遅咲きの梅の開き始める、時期としては申し分なく、それだけに平日とはいえ大勢の人が来ていた。
 赤白ピンク、一重八重はもとより、源平咲きの梅、花びらの細い梅、五芒星のような梅などいろいろな花が咲いていた。蝋梅もまだ咲いていた。
 河津桜も三分咲きで、遠くの松田の河津桜もピンク色になってきた。
 遠くには丹沢の山も見える。二ノ塔三ノ塔のハート形ももちろんのこと。

 あれあげようバレンタインの三ノ塔

 それでは「雑談集」の続き。

 「貞享乙丑年九月十四日の暁の夢に鶴岡へまうで侍ると覚えて、その身ひら包首にかけ、菅笠手に持ちて段かづらの下道ならびの松を見あげ行くまま、沖のかたしきりに時雨来てはやく拝殿に走りつきたれば、社人立ちさわぎて蔀さしおろすと、その蔀はむさう屏風といふものを畳みたるやうに有りけるか、はらはらとさしおろすその陰によりて、雨しのぎたるさまを社人見とがめて、とく出でよとせめながら、時にとりてのけしき一句つかふまつらばゆるし侍らめとつぶやく。」(雑談集)

 貞享乙丑は貞享二年(一六八五年)で、芭蕉が「野ざらし紀行」の旅から帰ったあとになる。九月十四日といえば十三夜の翌日で、十四日から十五日朝にかけての夢ということになる。
 夢に鎌倉の鶴岡八幡宮に行き、菅笠を手に持って若宮大路の段葛(だんかずら)を行くのだが、「下道ならびの松を見あげて」というのは、一段高い中央の段葛の道ではなく、その脇の道から、当時は桜ではなく松並木だった段葛を見あげる、ということか。
 後ろの海の方から時雨の雲が迫っていて、急いで拝殿に辿り着くと、神社の人達が大急ぎで蔀(しとみ)を閉めていて、その蔀は無双屏風を畳んだようだったという。どういうものなのかわからないが、蔀戸は通常上に跳ね上げて開けるもので、一枚の板のようになっているが、それが左右に折り畳み式になっているということか。
 多分その跳ね上がった状態の蔀戸の下で雨宿りをしたのだろう。閉めるからそこをどけということだろう。一句詠むから見逃して、ここだけは閉めずにいてくれ、ということで一句詠む。

 「あはれ爰にてこそとゆめそぞろに面白く海みやらるる松の葉の末に由井の浜風吹きわたり波と空とのわかるるやうにおもひまして、

 松原のすきまを見する時雨かな

と申し出でたれば、社人しはめる顔にて吟じ返し、当意よろしく神もさこそは、とうなづきぬともおぼえて、夢さめたり。」(雑談集)

 鶴岡八幡宮の拝殿は長い石段を登った所にあるので、登れば海が見える。時雨に沈む海の景色は、かつての日本人の愛した景色でもあった。大正の頃の北原白秋作詞の唱歌「城ヶ島の雨」のような「利休鼠の雨」であろう。
 上には近くの松の木の枝があり、見降ろせば海辺の松林の向こうに海と空が見える。上下の松に挟まれた雨にけぶって曖昧模糊となった水平線は、水墨画の瀟湘八景なども彷彿させる。最近の日本人の忘れてしまった美学であろう。
 この景色を其角は夢の中で、

 松原のすきまを見する時雨かな

と即興で詠む。
 やまと歌の言の葉の道は鬼神を感応させ、猛き武士(もののふ)も慰めるもので、その効果あったのか、急な雨でピリピリしてた社人の心も和ませ、神もお許しになると雨宿りが認められた所で目が覚める。

 「明れば十五日の朝深川の八幡宮に詣で侍る。次て芭蕉庵をとひて、ありし夢に申し侍りと語りければ、現にはかかる口きよき姿は及ぶまじきをと申されたり。魂の遊ぶ所まことに虚霊不昧なる事を知る。」(雑談集)

 目が覚めれば十五日の朝で、深川の富岡八幡宮に詣でる。一句ものにしたことへの感謝のお礼参りであろう。
 この頃其角は日本橋のてりふり町に住んでいたと思われる。(『元禄の奇才 宝井其角』田中善信、二〇〇〇、新典社)わざわざ深川まで行ったのだから、深川の第二次芭蕉庵にも寄っていこうと思ったのだろう。
 そこで芭蕉に夢の話をし、その発句を披露したのだろう。そしたら芭蕉は、起きてたらいろいろ句を上手く作ろうだとか、却って雑念が入って、こんな素直な奇麗な句は浮かばなかっただろう、と言う。
 「虚霊不昧」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「虚霊不昧」の意味・読み・例文・類語」に、

 「〘名〙 (「大学章句」の「明徳者、人之所レ得二乎天一、而虚霊不昧、以具二衆理一、而応二万事一者也」から) 天から享(う)ける明徳の精神は清浄霊妙で、邪欲に昧(くら)まされることなく、それ自体は空であるが万物に対し鏡のように照応するの意。天性の徳のすぐれて明らかなることをいう。
  ※惺窩文集(1627頃)二・小蓬壺記「虚霊不レ昧、衆理万事顧二諟明命一、通天之犀也、夜明之犀也」

とある。句を案じる時の巧者の弊の戒めともいえよう。

2024年2月12日月曜日

 今日は秦野の白笹稲荷神社の初午祭だった。
 去年もそうだったが、露店が並び、多くの人で賑わっていた。
 それでは其角『雑談集』の続き。

 「支那彌三郎入道宗鑑は生涯をかろんじて隠徳高く山崎の桑の門しかも車馬の喧きなし。ひとひ近衛殿宇治へ逍遥の比、去る法師しれるものなりと尋ね入らせ給ひけるに、痩労れたる老法師ひとり庭草取りなどして、そのほどの池のたたえに水かがみ見けるさまを、

 宗鑑がすがたをみよやかきつばた

と仰せ下されたれば、則ち、

 のまんとすれば夏の澤水

とつかふまつりける。」(雑談集)

 俳諧の祖と呼ばれる山崎宗鑑は一四六五年頃の生まれで連歌師の宗長よりも二回りくらい年下になる。コトバンクの「デジタル大辞泉 「山崎宗鑑」の意味・読み・例文・類語」には、

 「室町後期の連歌師・俳人。近江の人。本名、志那弥三郎範重。将軍足利義尚に仕え、のち出家して山城国山崎に閑居したという。「新撰犬筑波集」の編者。荒木田守武とともに俳諧の祖とされる。生没年未詳。」

とある。
 芭蕉も貞享五年夏、『笈の小文』の旅を明石で終えて帰る途中、山崎に立ち寄り、

 有がたきすがた拝まん杜若    芭蕉

の句を詠んでいる。近衛殿が宗鑑を訪ねて行くと、宗鑑の痩せ細った哀れな姿を見て、まるで餓鬼のようだと「餓鬼つばた」の句を詠んだというのは、多分に伝説に属するものであろう。芭蕉や其角の時代にはこの形で流布していたようだ。
 時代が下って江戸後期の『俳家奇人談』(竹内玄玄一著、文化十三年刊)には、

 「ある時逍遙院殿(実隆卿)へ宗長諸とも参るとて、つねに愛しける杜若を折りて献りけるに、卿御覧じて、

 手に持てる姿を見れば餓鬼つばた

と興じ給ひけるを、

   のまんとすれど夏の沢水     宗長
 くちなわに追はれて何地かへるらん

 鑑が第三なり(案ずるに雑談集、俳諧句解、閑田耕筆等みな誤りて実隆公を竜山公とし、宗長が脇を鑑となす。」(『俳家奇人談・続俳家奇人談』岩波文庫)

となっている。
 出典は『滑稽太平記』(作者、成立年不明)だという。ただ、近衛殿が竜山公近衛前久だとすると、天文五年(一五三六年)生まれの竜山公が天文二十三年(一五五四年)に宗鑑が没する前に会ったということだから、十代の頃の話となり、やや無理がある。その辺りから、同時代の三条西実隆の話とする方が、理にかなっている。
 どっちが正しいのか、はたまた両方とも都市伝説的なものなのかは定かではない。ただ、其角や芭蕉の知ってたのは『滑稽太平記』の方ではなく、其角が『雑談集』の方に記した方のもので、こちらの方が原型で『滑稽太平記』の方が尾鰭のついた話だったとも考えられる。

 「当意興ありけるにや。元政上人の隠逸伝には宗鑑が伝も入れらるべきを、此ワキ凡俗にかへりたる本心ありとてのぞかれ侍ると也。一句一生の徳を無(なみ)しけるはあさましき有様なれど、昼寝(ちうしん)のせめにおもひ合せてはいかにぞも思ひゆるすべき事ども也。」(雑談集)

 元政上人はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「元政」の意味・読み・例文・類語」に、

 「江戸前期の日蓮宗の僧。漢詩人。歌人。姓は石井氏。諱(いみな)は元政、法名は日政。はじめ彦根藩に仕えたが、のち妙顕寺の日豊に師事。京都深草に元政庵(竹葉庵・称心庵)を建てて法華経の修行に励んだ。詩文にすぐれ、熊沢蕃山、石川丈山、明人陳元、斌貝らと交遊。「深草の元政」とも。著に「扶桑(ふそう)隠逸伝」「本朝法華伝」「食医要編」、詩文集「艸山集」など。元和九~寛文八年(一六二三‐六八)」

とある。隠逸伝は寛文四年(一六六四年)刊の『扶桑隠逸伝』のことであろう。この宗鑑の伝承が省かれたことを残念がっている。
 餓鬼だから夏の沢水を啜って生きているというのが凡俗だというのだろうか。

 「後は山崎の草庵はそのまま古沓と法衣をのこして、さらに行く所をしらず。俗にやはた山の天狗になりて廿余年の後も月のあかき夜など八幡山崎のあたりをさまよひける。人に逢ひてもものいふことなし。凉(しをけ)しまなこ角(かど)ありて人をあやしとのみ見かはしたるをおそれて、それかともとがめず正に見たりしといふ人まれ多し。」(雑談集)

 宗鑑のいた山崎の草庵は残っていて、芭蕉も訪ねているし、其角も訪れていたのだろう。宗鑑はその後行方をくらまし、八幡山の天狗になったというのも、当時の宗鑑の伝説の一つだったか。

2024年2月11日日曜日

 随分また間が空いてしまったが、今年もいろいろ花を見に行った。寄(やどりき)の蝋梅、

 蝋梅や閉じた月日の溶け始め
 蝋梅や琥珀は虫の眠れるを

の二句は秦野の句会に出した。
 土肥の土肥桜、下田の水仙、熱海の熱海桜も見に行った。熱海桜を見に行った時は、海に島が若干浮き上がって見えるという、浮島という蜃気楼の一種を見た。

 島の浮く熱海穏やか早桜

 曽我梅林の梅も見に行った。

 富士の白雲の白きや梅の白

 さて、この俳話も長く休みがちだったけど、そろそろ何か読んでみようかと思い、其角の元禄四年刊の『雑談集』の俳論を見て行こうかと思う。

 「伏見にて一夜俳諧もよほされけるに、かたはらより芭蕉翁の名句いづれにてや侍ると尋ね出でられけり。折ふしの機嫌にては大津尚白亭にて、

 辛崎の松は花より朧にて

と申されけるこそ一句の首尾、言外の意味あふみの人もいまだ見のこしたる成るべし。」(雑談集)

 其角は貞享五年に西鶴の住吉大社での矢数俳諧興行のために上方へ行っているが、その頃のことだろうか。其角も父の東順が近江膳所藩の医者だったことから、近江国とは縁が深い。
 そのことからも、伏見に来た時、芭蕉の名句はと問われると、この句が浮かんできたのだろう。伏見は近江から逢坂山を越え、京へ向かわずに山科から南に行ったところにあり、つい先だって近江から来たばかりだったかもしれない。
 「松は花より朧にて」と、後ろに何か省略した感じが、いかにも「言外の意味」を残し、近江に住んでる人すら思いつかないことだ、と近江に縁の深い人だからこそ言える言葉だ。
 ただ、この句の「にて」留の是非についてはいろいろ議論のある所で、其角としてはその議論を誘う意図があったのかもしれない。

 「其けしきここにもきらきらとうつろひ侍るにや、と申したれば、又かたはらより中古の頑作にふけりて是非の境に本意をおぼわれし人さし出て、其句誠に俳諧の骨髄得たれども慥なる切字なし。すべて名人の格的にはさやうの姿をも発句とゆるし申すにや、と不審しける。」(雑談集)

 「中古の頑作に」は「中古のかたくな作(さく)に」だろうか。「頑作」という単語が検索にかからない。
 中古は蕉風確立前の談林の作風に頑なにこだわっているという意味だろうか。談林もまた貞門の型を破ってきたが、そこでも雅語の使い方に證歌を求めたり、堅苦しい部分はあった。貞享の時代にあっては保守派に回ってたということだろう。伏見の任口は既に世を去っていたが、談林系の門人はまだ伏見にいくらもいたのだろう。
 発句というのは切れ字を使うもので、というのは当時の一般的な認識で、切れ字なくても切れている大廻しや三体発句は連歌の時代から知られていたが、「にて」留の発句は前例がないし、それ以降もほとんど真似されていない。
 荷兮編『冬の日』には、

 霜月や鸛の彳々ならびゐて     荷兮

という発句があるが、この句には「や」という切れ字が入っていて、句は「霜月に鸛(こう)の彳々ならびゐてや」の倒置になるから、「て」留にそれほどの違和感はない。
 ただ、芭蕉が「松は花より朧にて」の句を詠んだのはその次の年の春であることから、この句の影響を受けた可能性は十分ある。
 いずれにせよ芭蕉のこの句は発句の体ではないというのは、当時の一般的な認識だったし、後に蕉門を離れた荷兮も元禄十年刊『橋守』巻三で、自分の「霜月」の句を「留りよろしからざる体」とし、芭蕉の句は「俳諧にあらざる体」としている。

 「答へに、哉とまりの発句に、にてとまりの第三を嫌へるによりて志らるべきか、おぼろ哉と申す句なるべきを句に句なしとて、かくは云ひ下し申されたるなるべし。朧にてと居ゑられて、哉よりも猶ほ徹したるひびきの侍る。是れ句中の句他に的当なかるべしと。」

 其角の答は、哉の句に「にて」留の第三を嫌うのは、哉と「にて」が似通ってるからだということから、この句は、

 辛崎の松は花より朧哉

としても良いような句で、哉より「にて」の方が「徹したるひびき」というのは、哉が治定の意味で、花より朧だろうかと疑いつつ、主観的に朧だと断定するのに対し、「にて」だと、「にては如何に」と強く疑問を問い掛けつつ断定することになる、そういうことではないかと思う。
 この語感の違いはもっともだと思し、哉と「にて」の働きの似ているのも納得できる。ただ、「哉とまりの発句に、にてとまりの第三を嫌へる」というのは特に式目にあるわけではない。『寛正七年心敬等何人百韻』では、

 比やとき花にあづまの種も哉    心敬
   春にまかする風の長閑さ    行助
 雲遅く行く月の夜は朧にて     専順

というように、「哉」で切れる発句に「にて」で終る第三を付けている。もっとも、江戸時代の慣習としては、そういう嫌いもあったのかもしれない。
 この其角の議論は後に『去来抄』でも取り上げられることになる。

 「伏見の作者、にて留どめの難有あり。其角曰、にては哉にかよふ。この故に哉どめのほ句に、にて留の第三を嫌ふ。哉といへば句切迫しくなれバ、にてとハ侍る也。呂丸曰、にて留の事は已に其角が解有。又此ハ第三の句也。いかでほ句とはなし給ふや。去来曰、是ハ即興感偶にて、ほ句たる事うたがひなし。第三ハ句案に渡る。もし句案に渡らバ第二等にくだらん。先師重て曰、角・来が辨皆理屈なり。我ハただ花より松の朧にて、面白かりしのみト也。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,10~11)

 「伏見の作者」とまで特定されているから、これは「雑談集」を読んだ去来・呂丸と芭蕉の問答であろう。

 「此論を再び翁に申し述べ侍れば一句の問答に於ては然るべし。但し予が方寸の上に分別なし。いはば『さざ波やまのの入江に駒とめてひらの高根のはなをみる哉』只根前なるはと申されけり。」(雑談集)

 「雑談集」での芭蕉の其角に対する答は、其角の言うのはもっともだが、そんなことを考えて「にて」にしたのではない。

 さざ波やまのの浜辺に駒とめて
     ひらの高根のはなをみる哉
             源頼政(新続古今集)
 近江路やまのの浜辺に駒とめて
     ひらの高根のはなをみる哉
             源頼政(夫木抄・歌枕名寄)

の歌を踏まえて、比良の高嶺の花の朧よりも辛崎の松の方がより手の届かないもののように見える、というこれは完全にネタを明かしてると言ってもいいかもしれない。
 芭蕉は春の霞のかかる松の朧に即興感隅したというより、比良の高嶺の花より朧なのが面白いという比較に重点を置いていて、こっちの方が朧じゃない?という問いかけにしたかったのではなかったかと思われる。
 いずれにせよ、芭蕉としては発句の慣習に囚われず、俳諧の自由というところにあえて「にて」留をしてみたのではなかったかと思う。そして、その試みはまだ談林の自由の残る貞享二年だからできたことで、後の俳諧の流れの中で、これ一句で終わってしまった試みだったのであろう。

2024年1月18日木曜日

 今日の秦野散歩は湘南軽便鉄道廃線跡ということで、とりあえずイオン秦野店の前に来た。
 NTTのビルの前に「軽便みち」と書いた石塔があって、この辺りに秦野駅があったらしい。
 その横の道を行くと正面に権現山が見える。今日は暖かくて、その先の家の庭のミモザが咲き始めていた。
 線路跡の道を辿って、龍門寺の前、その先少し入った所にある八坂神社があった。台町駅跡の説明板で道は途切れるが、おそらくこの先を緩やかにカーブしながら、命徳寺の駐車場から墓地の方を通って水無川を渡ったのだろう。
 対岸に秦野ガスのタンクが二つあり、ここから真っすぐに進む道はないので秦野郵便局の方を回って室川を渡る。養泉院の前に「軽便みち」の石塔があり、この辺りで線路跡に合流するのだろう。
 ここを登って行くと小田急線のガードをくぐるが、二宮から来た列車はここを抜けると視界が開けて、秦野に来たという感じだったか。
 上智大学入口の交差点を直進すると、やがて嶽神社がある。去年七福神巡りで来た所で七福神ではなく、七福神鶴亀廻りの鶴の像がある。その先に大竹駅跡の説明板がある。
 この先に行くとすずちゃんが晩年お世話になった動物病院がある。去年は何度もここに来た。
 大竹の先で広い道を越えると、トラックの休憩するのに丁度良いような行き止まりの道になり、途中のファミマで昼食のパンを買って広い道を通って秦野中井インターを越えた。
 この先から秦野散歩ではなく中井散歩になる。
 右側に入ると中井町の中心部へ続く道で、やがて上井ノ口跡の説明板があり、その先に蓑笠神社がある。蓑笠は神具で旅人の象徴だ。
 去年句会で行った井ノ口公民館の先の左へ入った所に厳島湿生公園(写真)があった。ここでさっき買ったパンを食べた。
 厳島湿生公園の先に宮川酒店があった。やはり中井町に来たらこれ、厳島神社ビア。中井産の生姜が入っている。
 そこから先に下井ノ口駅跡の説明板があり、その先に行くと中井散歩から二宮散歩になる。梅に蝋梅に水仙が咲いている長閑な道だ。
 左に浄源寺があり、その先に一色駅跡の説明板があった。
 一色駅跡の先の二宮高校入口で大きな道路に出る。その手前辺りからダイソーやザ・ビッグ二宮店の看板が見え、街に来た感じがする。
 出てすぐ左に入る道があり、これもすぐに小田厚道路の手前で元の道に戻るから、これも線路跡の道か。
 小田厚道路をくぐったあと、中里歩道橋で右に入り、ふたたび広い道を横切る手前に中里駅跡の説明板があった。
 ここを直進し、その先新幹線をくぐって萬年橋を渡ると、いつも吾妻山公園に来る時に降りてくる道に出る。
 ここからは歩いたことがある。落花生屋さんがあって、生涯学習センター前の交差点は渡らずに、また右側に道に入ると、商店街を通って駅前に出る。まだ明るいが、吾妻山に登る元気はなく、そのままバスに乗って帰った。
 そういえば二宮駅跡の説明板を見落とした。後でストリートビューで調べたら、みちる愛児園の前にあった。

2024年1月16日火曜日

 
 鈴呂屋書庫の現代語訳『源氏物語』、一昨年の引越しの頃からずっと止まっていたが、ようやく槿巻をアップしたのでよろしく。今年は紫式部が大河ドラマになったけど、あまり影響はなさそうだ。
 二度ほど長く中断したけど、あらためて全巻読破を目指したい。
 それと秦野市俳句協会のホームページの方もよろしく。
 写真は今日行った秦野市鶴巻の極楽寺の蝋梅。