2024年12月30日月曜日

  今年も明日で終わり。白笹稲荷神社に行ったら茅の輪が用意されてた。賽銭箱は拝殿の階段の手前に置かれて、初詣の準備も出来てた。
 芭蕉の時代には初詣はなくて、大晦日の大祓に神社にお参りに行くのが普通だったという。それに倣って茅の輪をくぐってきた。
 本殿拝殿の裏手にもお稲荷さんの小さな社がいくつかあって、写真はその一つ、これは、

 米買に雪の袋や投(なげ)頭巾 芭蕉

の句の投頭巾だろうか。ただ、四角い袋ではなく、よく見ると狐耳が作ってある。

 今年もいろいろやり残したことはある。
 結局西洋哲学の弱点は人類普遍と個々の人間は思考できても、民族という曖昧なものを思考できない、それが人権思想の行き詰まりの原因ではなかったかと思う。
 人間の個々の意識は直接人類普遍の遺伝的資質によって決定されるのではない。必ず生まれ育った文化を経由する。
 言語が良い例で、人間の言語能力は遺伝的に具わったものであるにせよ、実際には既存の言語に接することによって学習されるもので、幼少期の早い時期に全く言語の無い環境に置かれると、言語の習得そのものが困難になる。また、単一言語の環境で育つと外国語の習得に苦労することになり、二言語環境だとどちらか一方になりやすい。少数民族言語が失われやすいのもこの理由による。多言語環境だと多言語を習得できるが、そのような地域は世界的にはそれほど多くはない。
 言語に限らず、社会の様々な習慣も、生まれ育った社会で学習するもので、道徳意識が何らかの生得的なものであっても、実際はその文化の価値観によって形成される。
 個の形成は類から直接的に形成されるものではなく、その中間とも言える種によって媒介されて形成される。田辺元の「種の論理」をもう一度見直してみてはどうかと思う。
 個は類より発しながらも種に媒介されて具体化される。そして、個が日常的に接するのは種の価値観であり、それを介して人類普遍を学ぶ。
 個人の権利はいきなり地球連邦を作ることはないし、地球連邦なるものがあったとしても、単一の価値観を維持することはできず、必ず地域、職種、階級、言語集団、文化圏、宗教などの一定の交友範囲が存在する限り、独自の文化が形成される。それを許さないとなるといわゆるディストピアの状態になる。
 田辺哲学が衰退したのは、種の概念が明確に定義できないことと、人種(race)と安易に混同されたことが原因だろう。
 実際、民族という言葉ですら明確に定義することは難しい。例えば日本人を大和民族と定義しようにも、それは必ずしも血縁を意味しない。古代の帰化人から、文禄・慶長の役の時に日本に来た朝鮮人(チョソンサラム)、されに近代以降に日本に帰化した様々な外国人の血が、今の日本人には混ざっているし、今も多くの人が日本に帰化して日本人になっている。
 また民族は国境で定義することもできない。外国にも日本人は住んでいるし、日本にもたくさんの外国人が住んでいる。
 また日本国内においても文化は一元的なものではない。様々な地方文化があり、その地方の人の気質があり、方言がある。また職種による常識の違いなどもあり、より細かく言えば家風なるその家独自のものもある。文化は常に多元的で、外国文化の影響も少なからず受けている。
 民族というのは定義できないがそれでも何となく存在するという曖昧なもので、この定義困難から田辺元はそれを「無」と呼んだ。「陰陽不測是を神という」という易の言葉があるが、この「無」は神であり、天皇の場所でもある。わからないから、明確に存在が規定できないから無なのであって、文字通り「何もない」ということではない。不明瞭な曖昧な有であるがゆえに、「厳密な哲学」においては無と規定されているにすぎない。
 こうした曖昧さについて、西洋の理性は十分な思考をすることができなかった。それが人権思想を中途半端且つ、人間の正常な感情に反した過激なものにしてしまったと言って良いだろう。
 類と個との関係は民族とでもいうべき種を媒介にしていることについて、きちんと考察し、法体系に反映させる必要がある。それが人権思想を救う唯一の道ではないかと思う。
 類と種の関係は、類の持つ遺伝的資質が学習によって初めて発現するということで説明できる。類は多様な種において具体化される。
 類と個の関係は俺がつねづね「生存の取引」と呼んできたものに他ならない。人は一人では生きられない以上、常に周囲の人間と個別的で具体的な取引を繰り返しながら、自分の居場所を確保する。それは決して社会契約という形で一般化できるものではない。社会との契約ではなく、具体的に周囲の一人一人の人間との取引だからだ。社会のルールというのはこれの繰り返しによって形成される。それはパロールとラングの関係でもある。
 類と種との関係は、いわば深層言語と諸言語との関係で、種と個の関係は諸言語(ラング)と発話(パロール)の関係になる。
 ただ、古典言語学が想定したような普遍的なラングは存在しない。ただ反復される夥しい数のパロールを、それぞれの個々の脳が深層言語に基づいて解析してそれぞれ下した結論がラングであるにすぎない。それは魯迅の「もともと地上に道はない、人が歩けば道ができる」というのと同じで「もともと地上にラングはない、人が喋ればそこに言語ができる(人のパロールがラングになる)」にすぎない。
 言語は人の具体的な交流の範囲によって決定される。この交流が階層的であれば言語も方言・スラング・専門用語などに階層化する。そこに明瞭な理性的な統一があるわけではない。
 民族の文化や風習・習慣などもそこには理性的な統一などない。それは人と人との交流によって不断に形成され、更新され続けている。
 田辺元は歴史的現実を過去と規定して、個々の自由の前に冷酷に立ちはだかるものと考えていたが、これは正しくない。現実は不特定多数の多くの人々が思い描く過去であり現在であり未来である。他人が進もうとしている未来と自分が進もうとしている未来がぶつかり合う、それが現実に他ならない。そして、個の対立の解消は、面倒くさいことではあるが、その異なる未来を思い描く他人一人一人と不断に生存の取引を繰り返すことに他ならない。それが生きるということだ。陳腐な言葉だが「それが人生だ!」
 個々の生存の取引の繰り返しで、種が形成され、その種を通じで新たな世代の個々が育って行く。
 類と種の否定的関係は類が単独で種を構成できない以上、類は複数の種に分断され、それが国家を形成することで、ホッブスの言うリバイアサンとリバイアサンの戦いを生み出す。この対立が種による類の否定であり、人間の普遍的理性がこの種の分断を憎むことが類による種の否定になる。しかし、種は消去することはできないし、一つにすることもできない。
 種と個の否定的関係は、まず個が生まれ落ちた時、未熟な子供は周囲の人々との関係において圧倒的に不利な状況にあり、大人たちとの妥協の元でしか自我を形成できない。これが種による個の否定になる。これに対し、個は自己の欲求に従い、周囲の大人たちの間で生きる意志を示し、自分の生きる場所を確保しようと不断の生存の取引を繰り返す。これが個による種の否定になる。
 個々の生存の取引への強い欲求と衝動は、人類の類としての遺伝的資質に根拠を持つことから、個による種の否定は類に媒介される。それが唯一、種の分断を一つの類に繋ぐ力になる。人権の根拠はそこにあり、またそこにしかない。
 人権ができるのは種の持つ習慣の更新であり、破壊ではない。つまり人権思想は国境を破壊することはできないししてはならない。そこの間違いが今の世界を大きく混乱させている原因になっている。

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