「凩の」の巻の続き。
十三句目。
四十かぞへて跡はあそばん
世中の欲後見にある習ひ 言水
老後を悠々自適に隠居生活というのではなく、年少者の後ろ盾となってその財産を着服しという悪い爺さんに取り成す。まあ「習ひ」つまりよくあること、ということか。
十四句目。
世中の欲後見にある習ひ
菊の隣はあさがほの垣 言水
この場合は庭造りに欲を出すということか。菊があるなら、その後ろに朝顔の垣も欲しい。
十五句目。
菊の隣はあさがほの垣
名月の念仏は歌の障なして 言水
菊の酒は不老長寿の仙薬で、重陽の日に飲んだりする。
これに対し、朝顔は朝に咲いて昼には萎み、いかにも諸行無常を感じさせる。
長寿を願うのに隣では儚い命と、それはまるで名月の夜をこれから楽しもうというのに、隣から念仏が聞こえてくるようなものだ。
十六句目。
名月の念仏は歌の障なして
片帆に比叡を塞ぐ秋風 言水
和船の帆は便利なもので、ヤードを水平にすれば横帆になり、追い風で早く走ることができ、ヤードを傾けて片帆にすれば縦帆になり、向かい風で間切って進むことができる。
比叡山から琵琶湖へと吹き降ろす秋風(西風)に片帆で進む舟は、帆を左右に動かすのでそのつど月が隠れてしまう。
名月に歌の一つも詠もうにも、無粋な比叡下ろしが邪魔をする。
十七句目。
片帆に比叡を塞ぐ秋風
花笠はなきか網引の女ども 言水
「花笠」は貞徳の『俳諧御傘』にも立圃の『増補はなひ草』にも記述がない。秋風の花笠なら盆踊りの傘だろうか。笠に花籠をつけて生花を入れたものならば、花籠に準じて正花、植物、春になる。
花笠も植物に準じてか「菊の隣はあさがほの垣」から二句隔てている。
琵琶湖の秋風から花の定座への移行ということで、やや無理な展開だが、秋風を防ぐために網引の女に、盆踊りに被るような花笠はないのか、と問いかける。
十八句目。
花笠はなきか網引の女ども
牛は柳につながれて鳴ク 言水
花笠が春になるので春の場面に転じる。「なきか」という上句に「なく」で受ける。
女たちは網を引き、漁具を運ぶのに用いたか、牛が柳に繋がれている。花笠はなく、ただ牛だけがなく。
2019年11月30日土曜日
2019年11月29日金曜日
今日は久しぶりに晴れた。夕暮れの空には三日月が見えた。今日は霜月の三日。
それでは「凩の」の巻の続き。
初裏。
七句目。
春辺よながれ次第なる船
伊賀伊勢の雨に先だつ水の淡 言水
「水の淡」は「水の泡」で、この言葉はしばしば和歌にも詠まれている。
水の泡の消えでうき身といひながら
流れてなほもたのまるるかな
紀友則(古今集)
思ひ川たえずながるる水のあわの
うたかた人に逢はで消えめや
伊勢(後撰集)
『古今集』の仮名序にも「草の露、水の泡を見てわが身をおどろき」とある。
川に生じてはすぐに消えて行く水の泡の儚さは、人生にも喩えられるし、恋にも喩えられる。
伊賀と伊勢が接する加太のあたりは分水嶺で、ここに降った雨は鈴鹿川になれば伊勢へと流れ、柘植川になれば伊賀を経てやがて木津川になり、淀川に合流して大阪まで流れる。
雨で生じた水の泡も流れ次第でどこへ行くかわからない。人生はそんな流れを行く船のようなものというところか。
八句目。
伊賀伊勢の雨に先だつ水の淡
田に物運ぶ嫁身すぼらし 言水
水の泡といえば、田舎に住む百姓の嫁の物を運ぶやつれた姿か。
九句目。
田に物運ぶ嫁身すぼらし
面白や傾城連て涼むころ 言水
嫁は苦労しているというのに旦那は傾城連れていいご身分。『伊勢物語』の筒井筒からの発想か。
本説や俤ではなく、現代に移し変えて換骨奪胎するのは、談林的な手法だ。
十句目。
面白や傾城連て涼むころ
蝉ゆくかたにゆるぐ蛛の巣 言水
遊郭で遊ぶのは楽しいけど、ついついはまってお金をつぎ込んで、後が恐いもの。それを蜘蛛の巣にかかる蝉に喩える。
十一句目。
蝉ゆくかたにゆるぐ蛛の巣
しごけども紅葉は出ぬ夏木立 言水
「しごく」は「扱(こ)く」から来た言葉で、ここではむしるという意味だろう。
茂る葉をいくらむしってみても、夏に紅葉した葉っぱどこにもない。夏の蝉がなく頃には、やがて紅葉する景色もない。
やがて死ぬけしきは見えず蝉の声 芭蕉
の句は元禄三年の句だからまだ言水はまだ知らなかっただろう。蝉もいつしか死んでゆくように、夏木立もいつしか紅葉して落葉になる。
十二句目。
しごけども紅葉は出ぬ夏木立
四十かぞへて跡はあそばん 言水
昔は四十歳は初老で、これくらいの歳で隠居する事が多かった。まだ元気なうちに隠居して、後は遊んで暮らそう。
それでは「凩の」の巻の続き。
初裏。
七句目。
春辺よながれ次第なる船
伊賀伊勢の雨に先だつ水の淡 言水
「水の淡」は「水の泡」で、この言葉はしばしば和歌にも詠まれている。
水の泡の消えでうき身といひながら
流れてなほもたのまるるかな
紀友則(古今集)
思ひ川たえずながるる水のあわの
うたかた人に逢はで消えめや
伊勢(後撰集)
『古今集』の仮名序にも「草の露、水の泡を見てわが身をおどろき」とある。
川に生じてはすぐに消えて行く水の泡の儚さは、人生にも喩えられるし、恋にも喩えられる。
伊賀と伊勢が接する加太のあたりは分水嶺で、ここに降った雨は鈴鹿川になれば伊勢へと流れ、柘植川になれば伊賀を経てやがて木津川になり、淀川に合流して大阪まで流れる。
雨で生じた水の泡も流れ次第でどこへ行くかわからない。人生はそんな流れを行く船のようなものというところか。
八句目。
伊賀伊勢の雨に先だつ水の淡
田に物運ぶ嫁身すぼらし 言水
水の泡といえば、田舎に住む百姓の嫁の物を運ぶやつれた姿か。
九句目。
田に物運ぶ嫁身すぼらし
面白や傾城連て涼むころ 言水
嫁は苦労しているというのに旦那は傾城連れていいご身分。『伊勢物語』の筒井筒からの発想か。
本説や俤ではなく、現代に移し変えて換骨奪胎するのは、談林的な手法だ。
十句目。
面白や傾城連て涼むころ
蝉ゆくかたにゆるぐ蛛の巣 言水
遊郭で遊ぶのは楽しいけど、ついついはまってお金をつぎ込んで、後が恐いもの。それを蜘蛛の巣にかかる蝉に喩える。
十一句目。
蝉ゆくかたにゆるぐ蛛の巣
しごけども紅葉は出ぬ夏木立 言水
「しごく」は「扱(こ)く」から来た言葉で、ここではむしるという意味だろう。
茂る葉をいくらむしってみても、夏に紅葉した葉っぱどこにもない。夏の蝉がなく頃には、やがて紅葉する景色もない。
やがて死ぬけしきは見えず蝉の声 芭蕉
の句は元禄三年の句だからまだ言水はまだ知らなかっただろう。蝉もいつしか死んでゆくように、夏木立もいつしか紅葉して落葉になる。
十二句目。
しごけども紅葉は出ぬ夏木立
四十かぞへて跡はあそばん 言水
昔は四十歳は初老で、これくらいの歳で隠居する事が多かった。まだ元気なうちに隠居して、後は遊んで暮らそう。
2019年11月28日木曜日
「桜を見る会」(桜が見に来る会ではなかった)に出席したという元山口組系ののヤクザというのは、ネットで調べたが、新澤良文という奈良県高取町の町議会議員だそうだ。ヤクザだったのは昔の話で、とっくに足を洗った人の古傷を蒸し返して大騒ぎしている。
あと、反グレとかいうのはshimamotoshojiという人らしい。ブログは既に削除されていて、何者かはよくわからないから、本当に反グレかどうかも不明。
前夜祭は参加者が直接ホテルニューオータニに料金を払い、領収書を切っていたというから、これは開いている部屋で臨時のバイキング店を開業したようなもので、お金は参加者とホテルの間でしか動いていない。
東京新聞はビールも料理も貧弱で五千円は暴利だとの参加者の声を伝えていたし、久兵衛の寿司が出たというのもフェイクニュースだった。
まあ、野党もマスコミも今一つ攻め切れてないな。そんなことより香港やウイグルのことで何もしていないことや、習近平を国賓として招待していることなど、いくらでも安倍政権の弱点はあると思うのだが。こっちの方は放置しておくと、やがて日本が国際社会から叩かれる事態になりかねない。
他にも温暖化対策や原発再稼動など、突っ込みどころはたくさんある。でもまあ、野党のスキャンダル頼みなのは日本だけではないか。アメリカの民主党もごたごたしているから、大統領選挙の時には国民民主と立憲民主に分裂してたりして。
さて、霜月に入ったけど小雨の降る鬱陶しい日が続いている。
俳諧のほうもちょっと気分を変えて、非蕉門系の言水の独吟でも読んでみようかと思う。
『元禄俳諧集』(新日本古典文学大系71、一九九四、岩波書店)に掲載されている『新撰 都曲(みやこぶり)』(言水編、元禄三年刊)所収の独吟歌仙で、発句は言水の代表作でもある、
凩の果はありけり海の音 言水
だ。
言水は奈良の生まれで、延宝の頃は江戸に出てきていて芭蕉(当時は桃青)とも交流があった。天和二年に京都に移っている。
凩(こがらし)は木から木へと吹きすさび、その名のとおり木を枯らしてゆく。そして最後は海へと出て、後はどこへ行くのか誰も知らない。
木枯らしは放浪者の比喩でもある。風来坊などと放浪者は風に喩えられる。芭蕉も「風羅坊」を名乗り、自らを「狂句木枯し」と称し「放浪のやぶくす師竹斎」になぞらえた。そのさすらう者も海に行く手を阻まれれば、そこで引き返すことになる。
ただ、実際は「湖上眺望」という前書きの真蹟短冊があるらしく、本来は琵琶湖の景色を詠んだものだった。木枯らしも越えられないほどこの琵琶湖は巨大だという意図だったのか。
この句はすぐに有名になり、「木枯らしの言水」と呼ばれるようになったというから、元禄七年の、
あれあれて末は海行野分哉 猿雖
の句にもこの句の影響はあったのだと思う。
この凩の句に、言水自ら脇を付ける。
凩の果はありけり海の音
漂泠の火きえてさむき明星 言水
「漂泠」は「みを」と読む。澪標(みをつくし)のこと。ウィキペディアには、
「澪標は川の河口などに港が開かれている場合、土砂の堆積により浅くて舟(船)の航行が不可能な場所が多く座礁の危険性があるため、比較的水深が深く航行可能な場所である澪との境界に並べて設置され、航路を示した。同義語に澪木(みおぎ)・水尾坊木(みおぼうぎ)などがある。」
とある。夜はそこに火を灯し、灯台の役割を果たしていた。
明け方になるとその火も消え、空には明けの明星が輝く。発句の海の音に海浜をさすらう旅人の朝に旅立つ様を付ける。海を越えることなく引き返す所に、海が「果て」になっている。
第三。
漂泠の火きえてさむき明星
碁にかへる人に師走の様もなし 言水
明け方の海にたたずむ人を碁打ちとする。この時代は本因坊道策の活躍によって囲碁ブームが起きていた。漁師の間でも碁が流行っていたか。
おそらく負けて茫然自失で家路についたのだろう。そこでは世間の師走のあわただしさも他所事のようだ。
四句目。
碁にかへる人に師走の様もなし
又梅が香に調ぶ膝琴 言水
膝琴は膝に乗せて弾く古琴のことか。
前句を世俗の師走のあわただしさとは無縁な貴族か何かとする。正月前に既に咲いた寒梅を前に琴をたしなむ。
五句目。
又梅が香に調ぶ膝琴
ゆふぐれは狐の眠る朧月 言水
この狐は玉藻前のような美女に化けた狐だろうか。
六句目。
ゆふぐれは狐の眠る朧月
春辺よながれ次第なる船 言水
狐はここでは本物で、春の野辺のどこかで眠っている。そこを流れに任せて下ってゆく舟がある。
このあたりのやや浮世離れした風流が、蕉門の卑近な笑いの世界とは違う所だ。
あと、反グレとかいうのはshimamotoshojiという人らしい。ブログは既に削除されていて、何者かはよくわからないから、本当に反グレかどうかも不明。
前夜祭は参加者が直接ホテルニューオータニに料金を払い、領収書を切っていたというから、これは開いている部屋で臨時のバイキング店を開業したようなもので、お金は参加者とホテルの間でしか動いていない。
東京新聞はビールも料理も貧弱で五千円は暴利だとの参加者の声を伝えていたし、久兵衛の寿司が出たというのもフェイクニュースだった。
まあ、野党もマスコミも今一つ攻め切れてないな。そんなことより香港やウイグルのことで何もしていないことや、習近平を国賓として招待していることなど、いくらでも安倍政権の弱点はあると思うのだが。こっちの方は放置しておくと、やがて日本が国際社会から叩かれる事態になりかねない。
他にも温暖化対策や原発再稼動など、突っ込みどころはたくさんある。でもまあ、野党のスキャンダル頼みなのは日本だけではないか。アメリカの民主党もごたごたしているから、大統領選挙の時には国民民主と立憲民主に分裂してたりして。
さて、霜月に入ったけど小雨の降る鬱陶しい日が続いている。
俳諧のほうもちょっと気分を変えて、非蕉門系の言水の独吟でも読んでみようかと思う。
『元禄俳諧集』(新日本古典文学大系71、一九九四、岩波書店)に掲載されている『新撰 都曲(みやこぶり)』(言水編、元禄三年刊)所収の独吟歌仙で、発句は言水の代表作でもある、
凩の果はありけり海の音 言水
だ。
言水は奈良の生まれで、延宝の頃は江戸に出てきていて芭蕉(当時は桃青)とも交流があった。天和二年に京都に移っている。
凩(こがらし)は木から木へと吹きすさび、その名のとおり木を枯らしてゆく。そして最後は海へと出て、後はどこへ行くのか誰も知らない。
木枯らしは放浪者の比喩でもある。風来坊などと放浪者は風に喩えられる。芭蕉も「風羅坊」を名乗り、自らを「狂句木枯し」と称し「放浪のやぶくす師竹斎」になぞらえた。そのさすらう者も海に行く手を阻まれれば、そこで引き返すことになる。
ただ、実際は「湖上眺望」という前書きの真蹟短冊があるらしく、本来は琵琶湖の景色を詠んだものだった。木枯らしも越えられないほどこの琵琶湖は巨大だという意図だったのか。
この句はすぐに有名になり、「木枯らしの言水」と呼ばれるようになったというから、元禄七年の、
あれあれて末は海行野分哉 猿雖
の句にもこの句の影響はあったのだと思う。
この凩の句に、言水自ら脇を付ける。
凩の果はありけり海の音
漂泠の火きえてさむき明星 言水
「漂泠」は「みを」と読む。澪標(みをつくし)のこと。ウィキペディアには、
「澪標は川の河口などに港が開かれている場合、土砂の堆積により浅くて舟(船)の航行が不可能な場所が多く座礁の危険性があるため、比較的水深が深く航行可能な場所である澪との境界に並べて設置され、航路を示した。同義語に澪木(みおぎ)・水尾坊木(みおぼうぎ)などがある。」
とある。夜はそこに火を灯し、灯台の役割を果たしていた。
明け方になるとその火も消え、空には明けの明星が輝く。発句の海の音に海浜をさすらう旅人の朝に旅立つ様を付ける。海を越えることなく引き返す所に、海が「果て」になっている。
第三。
漂泠の火きえてさむき明星
碁にかへる人に師走の様もなし 言水
明け方の海にたたずむ人を碁打ちとする。この時代は本因坊道策の活躍によって囲碁ブームが起きていた。漁師の間でも碁が流行っていたか。
おそらく負けて茫然自失で家路についたのだろう。そこでは世間の師走のあわただしさも他所事のようだ。
四句目。
碁にかへる人に師走の様もなし
又梅が香に調ぶ膝琴 言水
膝琴は膝に乗せて弾く古琴のことか。
前句を世俗の師走のあわただしさとは無縁な貴族か何かとする。正月前に既に咲いた寒梅を前に琴をたしなむ。
五句目。
又梅が香に調ぶ膝琴
ゆふぐれは狐の眠る朧月 言水
この狐は玉藻前のような美女に化けた狐だろうか。
六句目。
ゆふぐれは狐の眠る朧月
春辺よながれ次第なる船 言水
狐はここでは本物で、春の野辺のどこかで眠っている。そこを流れに任せて下ってゆく舟がある。
このあたりのやや浮世離れした風流が、蕉門の卑近な笑いの世界とは違う所だ。
2019年11月26日火曜日
今日は神無月の晦日。今日も小雨が降った。
それでは「鳶の羽も」の巻の続き。
二裏。
三十一句目。
湖水の秋の比良のはつ霜
柴の戸や蕎麦ぬすまれて歌をよむ 史邦
いくつかの古注が、『古今著聞集』の、
盗人は長袴をや着たるらむ
そばを取りてぞ走り去りぬる
の歌を引用している。
『猿みのさかし』(樨柯坊空然著、文政十二年刊)には、
「新蕎麦と付たる句にして、時節の懸合せ初霜の降り置たるに新蕎麦と思ひ寄たる句にして、蕎麦は霜をおそるる物なれば也。その霜に倒れたる蕎麦を刈取たるなどは曲もなければ、拠(よりどころ)を踏へて一句を作りたる也と知べし。
そは古今著聞集に、澄恵僧都の坊の隣なりける家の畠にそばをうへて侍けるを、夜る盗人みな引て取たりけるを聞てよめる
ぬす人はながばかまをやきたるらん
そばをとりてぞはしりさりぬる
此俤を一句のうへに作りたる手づま也。」
とある。
霜で駄目になった蕎麦を盗まれたということにしたのかもしれない。
梅白し昨日ふや鶴を盗まれし 芭蕉
のようなものかもしれない。
三十二句目。
柴の戸や蕎麦ぬすまれて歌をよむ
ぬのこ着習ふ風の夕ぐれ 凡兆
「ぬのこ」はweblio辞書の「三省堂 大辞林 第三版」に、
「木綿の綿入れ。 [季] 冬。 → 小袖(こそで)」
とある。
時節を付けて流すわけだが、打越と被らないようにしなくてはならない。「初霜」が朝なのに対し「風の夕暮れ」とし、「ぬのこ」で冬に転じる。
『七部十寸鏡猿蓑解』(天堂一叟著、安政四年以前刊)に、
「そば盗れしと言より時分を付て、ゆふ暮とはいへる也。」
とある。
三十三句目。
ぬのこ着習ふ風の夕ぐれ
押合て寝ては又立つかりまくら 芭蕉
「かりまくら」は仮寝と同じで旅体になる。
安い宿だと一つの部屋にこれでもかと詰め込んで、押し合いながら寝ることになる。
三十四句目。
押合て寝ては又立つかりまくら
たたらの雲のまだ赤き空 去来
前句の「立つ」から早朝の旅立ちとし、製鉄所の炎のような朝焼けを付ける。
三十五句目。
たたらの雲のまだ赤き空
一構鞦つくる窓のはな 凡兆
「鞦(しりがい)」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、
「1 馬具の一。
㋐馬の尾の下から後輪(しずわ)の四緒手(しおで)につなげる緒。
㋑面繋(おもがい)・胸繋(むながい)および㋐の総称。三繋(さんがい)。押掛(おしかけ)。
2 牛の胸から尻にかけて取り付け、車の轅(ながえ)を固定させる緒。」
とある。
前句をたたらの炎の夜空を染める様とし、「まだ」に夜遅くまで働いていることを含める。
同じ頃鞍細工の職人はしりがいを一構え作り上げる。窓の外にはたたらの炎に照らされたのか、夜でも桜の花が咲いているのが見える。
対句のように並列する向え付けだが、ともに身分の低い者の過酷な労働を匂わせ響きあっている。そんな働く人にお疲れ様とばかりに窓の花を添える。
挙句。
一構鞦つくる窓のはな
枇杷の古葉に木芽もえたつ 史邦
窓の外には桜だけではなく枇杷の木も若葉が芽生えている。
枇杷の葉っぱはお灸に用いられ、労働で疲れた体に癒しを与えてくれる。「もえたつ」というのは若葉が萌えるのと、お灸の葉が燃えるのとを掛けているのか。
そういうわけでみんなお疲れ様というところでこの一巻は満尾する。
それでは「鳶の羽も」の巻の続き。
二裏。
三十一句目。
湖水の秋の比良のはつ霜
柴の戸や蕎麦ぬすまれて歌をよむ 史邦
いくつかの古注が、『古今著聞集』の、
盗人は長袴をや着たるらむ
そばを取りてぞ走り去りぬる
の歌を引用している。
『猿みのさかし』(樨柯坊空然著、文政十二年刊)には、
「新蕎麦と付たる句にして、時節の懸合せ初霜の降り置たるに新蕎麦と思ひ寄たる句にして、蕎麦は霜をおそるる物なれば也。その霜に倒れたる蕎麦を刈取たるなどは曲もなければ、拠(よりどころ)を踏へて一句を作りたる也と知べし。
そは古今著聞集に、澄恵僧都の坊の隣なりける家の畠にそばをうへて侍けるを、夜る盗人みな引て取たりけるを聞てよめる
ぬす人はながばかまをやきたるらん
そばをとりてぞはしりさりぬる
此俤を一句のうへに作りたる手づま也。」
とある。
霜で駄目になった蕎麦を盗まれたということにしたのかもしれない。
梅白し昨日ふや鶴を盗まれし 芭蕉
のようなものかもしれない。
三十二句目。
柴の戸や蕎麦ぬすまれて歌をよむ
ぬのこ着習ふ風の夕ぐれ 凡兆
「ぬのこ」はweblio辞書の「三省堂 大辞林 第三版」に、
「木綿の綿入れ。 [季] 冬。 → 小袖(こそで)」
とある。
時節を付けて流すわけだが、打越と被らないようにしなくてはならない。「初霜」が朝なのに対し「風の夕暮れ」とし、「ぬのこ」で冬に転じる。
『七部十寸鏡猿蓑解』(天堂一叟著、安政四年以前刊)に、
「そば盗れしと言より時分を付て、ゆふ暮とはいへる也。」
とある。
三十三句目。
ぬのこ着習ふ風の夕ぐれ
押合て寝ては又立つかりまくら 芭蕉
「かりまくら」は仮寝と同じで旅体になる。
安い宿だと一つの部屋にこれでもかと詰め込んで、押し合いながら寝ることになる。
三十四句目。
押合て寝ては又立つかりまくら
たたらの雲のまだ赤き空 去来
前句の「立つ」から早朝の旅立ちとし、製鉄所の炎のような朝焼けを付ける。
三十五句目。
たたらの雲のまだ赤き空
一構鞦つくる窓のはな 凡兆
「鞦(しりがい)」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、
「1 馬具の一。
㋐馬の尾の下から後輪(しずわ)の四緒手(しおで)につなげる緒。
㋑面繋(おもがい)・胸繋(むながい)および㋐の総称。三繋(さんがい)。押掛(おしかけ)。
2 牛の胸から尻にかけて取り付け、車の轅(ながえ)を固定させる緒。」
とある。
前句をたたらの炎の夜空を染める様とし、「まだ」に夜遅くまで働いていることを含める。
同じ頃鞍細工の職人はしりがいを一構え作り上げる。窓の外にはたたらの炎に照らされたのか、夜でも桜の花が咲いているのが見える。
対句のように並列する向え付けだが、ともに身分の低い者の過酷な労働を匂わせ響きあっている。そんな働く人にお疲れ様とばかりに窓の花を添える。
挙句。
一構鞦つくる窓のはな
枇杷の古葉に木芽もえたつ 史邦
窓の外には桜だけではなく枇杷の木も若葉が芽生えている。
枇杷の葉っぱはお灸に用いられ、労働で疲れた体に癒しを与えてくれる。「もえたつ」というのは若葉が萌えるのと、お灸の葉が燃えるのとを掛けているのか。
そういうわけでみんなお疲れ様というところでこの一巻は満尾する。
2019年11月25日月曜日
未だに日本と韓国は兄弟のようなものだとか双子のようなものだとか言う人がいるが、日韓同祖論がかつて韓国併合を正当化する支柱とされてきた歴史をどう見ているのだろうか。
日本と韓国はむしろ真逆と言ってもいい。日本人は江南系の民族で、長江文明の徒でもあった。漢民族に圧迫されて四散し、東の海に逃れたものが日本人となったが、そのほかのものは雲南省からベトナム、ラオス、タイ、ビルマなどの山岳地帯の少数民族として残っている。
これに対して韓国人は北方から来た騎馬民族の新羅人を中心として成り立っている。むしろ新羅に圧迫された百済人や高句麗人の方が日本人に近い。新羅人は日本人からすれば最も遠い。
言語的にも、文法は確かに似ているが基幹となる語彙はまったく異なる。父さん母さんはアポジ、オモニで全然似てないし、数の数え方も、ひいふうみいよいつむとハナトルセンネータソヨソとまったく違う。日本語と韓国語が似ているように見えるのは漢語が共通しているからだ。
まあ、同じものを学んでもしょうがない。違うものを学ぶからお互いに文化の幅が広がるのだと思う。
西洋の人も、西洋かぶれの日本人の解説する「俳句」より、日本の論理で読む俳諧のほうが役に立つのでは。
それでは「鳶の羽も」の巻の続き。
二十五句目。
隣をかりて車引こむ
うき人を枳穀垣よりくぐらせん 芭蕉
枳穀垣(きこくがき)はカラタチに生垣のこと。2018年7月24日の俳話でも触れているが、棘のある木は防犯効果もあるので、生垣によく用いられた。
来て欲しくない人が通ってきたので、隣に車を止めさせて枳穀垣をくぐらせてやろうか、というものだが、それくらいしてやりたいということで実際にはしないだろうな。
『俳諧七部集打聴』(岡本保孝、慶応元年~三年成立)に、
「からたちの垣よりくぐらせて、からきめ見せんと女のするさま也。御車をば隣の人にたのみて引入おく意に前句をみる也。」
とある。
二十六句目。
うき人を枳穀垣よりくぐらせん
いまや別の刀さしだす 去来
『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)、『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)などは落人をかくまい、枳穀垣より逃がすことだとしている。
『猿みのさかし』(樨柯坊空然著、文政十二年刊)は『源平盛衰記』の、
いそぐとて大事のかたな忘れては
おこしものとや人の見るらん
遊女
かたみにもおひてこしものそのままに
かへすのみこそさすがなりけり
景季
の歌を引用している。
大体そういう場面と見ていいのだろう。
二十七句目。
いまや別の刀さしだす
せはしげに櫛でかしらをかきちらし 凡兆
『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)、『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)などは木曾義仲の俤としている。巴御前との別れのことか。
二十八句目
せはしげに櫛でかしらをかきちらし
おもひ切たる死ぐるひ見よ 史邦
前句をあきらめたくてもあきらめきれずに狂乱状態にある女とする。
ただ、現実には未練たらしいのは男のほうで、女の方が思い切るのが早いことが多いが。いずれにせよ苦しいものだ。
うらやましおもひ切時猫の恋 越人
の句もある。
二十九句目。
おもひ切たる死ぐるひ見よ
青天に有明月の朝ぼらけ 去来
青天は夜明け前の濃い青の空のこと。青雲はその頃の雲で、「八九間」の巻の二十二句目のところで述べた。
苦しい別れといえば後朝(きぬぎぬ)ということで、有明月の景を添えて場面転換を図る。
三十句目。
青天に有明月の朝ぼらけ
湖水の秋の比良のはつ霜 芭蕉
比良は琵琶湖西岸の山地で、比叡山より北になる。
月に湖水、朝ぼらけに初霜と四つ手に付けている。そろそろ終わりも近いので、このあたりは景色の句で軽く流しておきたい所だろう。
琵琶湖に月といえば元禄七年の「あれあれて」の巻の十二句目、
頃日は扇子の要仕習ひし
湖水の面月を見渡す 木白
も思い起こされる。
日本と韓国はむしろ真逆と言ってもいい。日本人は江南系の民族で、長江文明の徒でもあった。漢民族に圧迫されて四散し、東の海に逃れたものが日本人となったが、そのほかのものは雲南省からベトナム、ラオス、タイ、ビルマなどの山岳地帯の少数民族として残っている。
これに対して韓国人は北方から来た騎馬民族の新羅人を中心として成り立っている。むしろ新羅に圧迫された百済人や高句麗人の方が日本人に近い。新羅人は日本人からすれば最も遠い。
言語的にも、文法は確かに似ているが基幹となる語彙はまったく異なる。父さん母さんはアポジ、オモニで全然似てないし、数の数え方も、ひいふうみいよいつむとハナトルセンネータソヨソとまったく違う。日本語と韓国語が似ているように見えるのは漢語が共通しているからだ。
まあ、同じものを学んでもしょうがない。違うものを学ぶからお互いに文化の幅が広がるのだと思う。
西洋の人も、西洋かぶれの日本人の解説する「俳句」より、日本の論理で読む俳諧のほうが役に立つのでは。
それでは「鳶の羽も」の巻の続き。
二十五句目。
隣をかりて車引こむ
うき人を枳穀垣よりくぐらせん 芭蕉
枳穀垣(きこくがき)はカラタチに生垣のこと。2018年7月24日の俳話でも触れているが、棘のある木は防犯効果もあるので、生垣によく用いられた。
来て欲しくない人が通ってきたので、隣に車を止めさせて枳穀垣をくぐらせてやろうか、というものだが、それくらいしてやりたいということで実際にはしないだろうな。
『俳諧七部集打聴』(岡本保孝、慶応元年~三年成立)に、
「からたちの垣よりくぐらせて、からきめ見せんと女のするさま也。御車をば隣の人にたのみて引入おく意に前句をみる也。」
とある。
二十六句目。
うき人を枳穀垣よりくぐらせん
いまや別の刀さしだす 去来
『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)、『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)などは落人をかくまい、枳穀垣より逃がすことだとしている。
『猿みのさかし』(樨柯坊空然著、文政十二年刊)は『源平盛衰記』の、
いそぐとて大事のかたな忘れては
おこしものとや人の見るらん
遊女
かたみにもおひてこしものそのままに
かへすのみこそさすがなりけり
景季
の歌を引用している。
大体そういう場面と見ていいのだろう。
二十七句目。
いまや別の刀さしだす
せはしげに櫛でかしらをかきちらし 凡兆
『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)、『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)などは木曾義仲の俤としている。巴御前との別れのことか。
二十八句目
せはしげに櫛でかしらをかきちらし
おもひ切たる死ぐるひ見よ 史邦
前句をあきらめたくてもあきらめきれずに狂乱状態にある女とする。
ただ、現実には未練たらしいのは男のほうで、女の方が思い切るのが早いことが多いが。いずれにせよ苦しいものだ。
うらやましおもひ切時猫の恋 越人
の句もある。
二十九句目。
おもひ切たる死ぐるひ見よ
青天に有明月の朝ぼらけ 去来
青天は夜明け前の濃い青の空のこと。青雲はその頃の雲で、「八九間」の巻の二十二句目のところで述べた。
苦しい別れといえば後朝(きぬぎぬ)ということで、有明月の景を添えて場面転換を図る。
三十句目。
青天に有明月の朝ぼらけ
湖水の秋の比良のはつ霜 芭蕉
比良は琵琶湖西岸の山地で、比叡山より北になる。
月に湖水、朝ぼらけに初霜と四つ手に付けている。そろそろ終わりも近いので、このあたりは景色の句で軽く流しておきたい所だろう。
琵琶湖に月といえば元禄七年の「あれあれて」の巻の十二句目、
頃日は扇子の要仕習ひし
湖水の面月を見渡す 木白
も思い起こされる。
2019年11月24日日曜日
今日は石黒光男さんの絵を見に谷中の寺町美術館+GALLERYに行き、そのあと移動販売の店でピザを食べ谷中ビールを飲み、上野公園を通って、上野でキムチを買って帰った。
それでは「鳶の羽も」の巻の続き。
二表。
十九句目。
ひとり直し今朝の腹だち
いちどきに二日の物も喰て置 凡兆
いわゆる「やけ食い」ていうやつで、食べてストレスを解消するのはよくあることだ。
それにしても二日分はちょっと盛った感じで、まあ、そのほうが話としては面白い。
一度に二日分の飯を喰うそいつはどんなやつだという想像力をかきたてる部分もあるが、別に正解があるわけではない。
『猿談義』(戸田文鳴著、明和元年刊)は「任侠」だといい、『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)は「車力日雇」といい、『猿蓑四歌仙解』(鈴木荊山著、文政五年序)は「此人短慮我儘、平なる時は喰ひ、不平なれば不喰、只一家一軒の主人にほこり、常に妻奴を駆使する卑俗の人品なる」という。
『俳諧鳶羽集』(幻窓湖中、文政九年稿)は「疳積聚持、或は気ふれものなど」というし、『猿みのさかし』(樨柯坊空然著、文政十二年刊)は「日雇飛脚」といい、『七部婆心録』(曲斎、万延元年)は「我儘女」という。
まあ、妄想は人の自由だが、今の俳句解説でもえてしてこうした議論に陥る傾向がある。いかにも俺は深読みが出来るんだぞとばかりに妄想を競い、これがわからないなら文学を論ずべからずみたいな話になるのは愚かなことだ。
二十句目。
いちどきに二日の物も喰て置
雪けにさむき島の北風 史邦
「雪け」はコトバンクの「大辞林 第三版の解説」に、
「雪模様。 「冬の夜の-の空にいでしかど影よりほかに送りやはせし/金葉 恋下」
とある。「今にも雪の降りそうな空模様」をいう。
前句の大食いをやけ食いではなく寒さに備えてのこととする。
二十一句目。
雪けにさむき島の北風
火ともしに暮れば登る峰の寺 去来
島の山の上にあるお寺は灯台のような役割も果たしていたのだろう。寒い時でもサボるわけにはいかない。
『猿談義』(戸田文鳴著、明和元年刊)には、
「哦々たる岩根常に雲霧を帯び、嶺上嵐はげしければ住居すべきにもあらず。暮れば麓の坊より勤る。此灯は渡海船の日当ならん。」
とある。
『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)にも、
「其寒キ場ヲ付テ言外ニ渡海ノ灯籠トキカセタリ。」
とある。
二十二句目。
火ともしに暮れば登る峰の寺
ほととぎす皆鳴仕舞たり 芭蕉
ホトトギスも水無月になれば滅多に声を聞くこともなくなる。この前までけたたましく鳴いていたホトトギスも、静かになれば夜も寂しいものだ。山寺の常夜灯に火を灯す人にとっても寂しい季節になる。
『芭蕉翁付合集評註』(佐野石兮著、文化十二年)には「深林幽寺趣。」とある。これに付け加えることはない。
二十三句目。
ほととぎす皆鳴仕舞たり
痩骨のまだ起直る力なき 史邦
長く病に臥せっている間に、春も過ぎ、時鳥の季節も過ぎてしまった。
『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)に、
「啼仕廻ウト言詞ニ月日ノ早立行ヲ歎ク意トシテ、長病ノ歎ク体ヲ言。」
とある。
二十四句目。
痩骨のまだ起直る力なき
隣をかりて車引こむ 凡兆
古注に『源氏物語』夕顔巻の俤を指摘するものが多い。
夕顔巻の冒頭には、
「六条わたりの御忍びありきの頃、うちよりまかで給ふなかやどりに、大弐(だいに)のめのとのいたくわづらひてあまに成りにける、とぶらはむとて、五でうなるいへたづねておはしたり。
御車いるべき門はさしたりければ、人してこれみつ(惟光)めさせて、またせ給ひけるほど、むつかしげなるおほぢのさまをみわたし給へるに、この家のかたはらに、ひがきといふ物あらたしうして、かみははじとみ四五けん斗あげわたして、すだれなどもいとしろうすずしげなるに、をかしきひたひつきのすきかげ、あまたみえてのぞく。
源氏の君が六条御息所の所にこっそりと通ってた頃、内裏を出て六条へ向う途中の宿にと、大弐(だいに)の乳母(めのと)がひどく体調を崩し尼になったのを見舞いに、五条へとやってきました。
車を入れようとすると門は錠が鎖されていて、人に惟光(これみつ:乳母の息子)を呼んで来させて、来るのを待ちながらごちゃごちゃとした大通りの様子を眺めていると、乳母の家の隣に真新しい檜を編んで作った檜垣があり、その上半分は半蔀(はじとみ)という外開きの窓になっていて、それが四五軒ほど開いた状態になり、そこに掛けてある白い簾がとても涼しげで、女の可愛らしい額が透けて見えて、みんなで外を覗いているようでした。」
とある。
ここでは結局惟光が門を開けて車を引き入れ、別に隣を借りたわけではなかった。
それに凡兆の句では元ネタで重要な夕顔との出会いという要素を欠いているため、何となく「車」を出すことで王朝っぽい雰囲気を出すに留まる。それゆえに。これは本説ではなく俤に留まる。
それでは「鳶の羽も」の巻の続き。
二表。
十九句目。
ひとり直し今朝の腹だち
いちどきに二日の物も喰て置 凡兆
いわゆる「やけ食い」ていうやつで、食べてストレスを解消するのはよくあることだ。
それにしても二日分はちょっと盛った感じで、まあ、そのほうが話としては面白い。
一度に二日分の飯を喰うそいつはどんなやつだという想像力をかきたてる部分もあるが、別に正解があるわけではない。
『猿談義』(戸田文鳴著、明和元年刊)は「任侠」だといい、『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)は「車力日雇」といい、『猿蓑四歌仙解』(鈴木荊山著、文政五年序)は「此人短慮我儘、平なる時は喰ひ、不平なれば不喰、只一家一軒の主人にほこり、常に妻奴を駆使する卑俗の人品なる」という。
『俳諧鳶羽集』(幻窓湖中、文政九年稿)は「疳積聚持、或は気ふれものなど」というし、『猿みのさかし』(樨柯坊空然著、文政十二年刊)は「日雇飛脚」といい、『七部婆心録』(曲斎、万延元年)は「我儘女」という。
まあ、妄想は人の自由だが、今の俳句解説でもえてしてこうした議論に陥る傾向がある。いかにも俺は深読みが出来るんだぞとばかりに妄想を競い、これがわからないなら文学を論ずべからずみたいな話になるのは愚かなことだ。
二十句目。
いちどきに二日の物も喰て置
雪けにさむき島の北風 史邦
「雪け」はコトバンクの「大辞林 第三版の解説」に、
「雪模様。 「冬の夜の-の空にいでしかど影よりほかに送りやはせし/金葉 恋下」
とある。「今にも雪の降りそうな空模様」をいう。
前句の大食いをやけ食いではなく寒さに備えてのこととする。
二十一句目。
雪けにさむき島の北風
火ともしに暮れば登る峰の寺 去来
島の山の上にあるお寺は灯台のような役割も果たしていたのだろう。寒い時でもサボるわけにはいかない。
『猿談義』(戸田文鳴著、明和元年刊)には、
「哦々たる岩根常に雲霧を帯び、嶺上嵐はげしければ住居すべきにもあらず。暮れば麓の坊より勤る。此灯は渡海船の日当ならん。」
とある。
『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)にも、
「其寒キ場ヲ付テ言外ニ渡海ノ灯籠トキカセタリ。」
とある。
二十二句目。
火ともしに暮れば登る峰の寺
ほととぎす皆鳴仕舞たり 芭蕉
ホトトギスも水無月になれば滅多に声を聞くこともなくなる。この前までけたたましく鳴いていたホトトギスも、静かになれば夜も寂しいものだ。山寺の常夜灯に火を灯す人にとっても寂しい季節になる。
『芭蕉翁付合集評註』(佐野石兮著、文化十二年)には「深林幽寺趣。」とある。これに付け加えることはない。
二十三句目。
ほととぎす皆鳴仕舞たり
痩骨のまだ起直る力なき 史邦
長く病に臥せっている間に、春も過ぎ、時鳥の季節も過ぎてしまった。
『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)に、
「啼仕廻ウト言詞ニ月日ノ早立行ヲ歎ク意トシテ、長病ノ歎ク体ヲ言。」
とある。
二十四句目。
痩骨のまだ起直る力なき
隣をかりて車引こむ 凡兆
古注に『源氏物語』夕顔巻の俤を指摘するものが多い。
夕顔巻の冒頭には、
「六条わたりの御忍びありきの頃、うちよりまかで給ふなかやどりに、大弐(だいに)のめのとのいたくわづらひてあまに成りにける、とぶらはむとて、五でうなるいへたづねておはしたり。
御車いるべき門はさしたりければ、人してこれみつ(惟光)めさせて、またせ給ひけるほど、むつかしげなるおほぢのさまをみわたし給へるに、この家のかたはらに、ひがきといふ物あらたしうして、かみははじとみ四五けん斗あげわたして、すだれなどもいとしろうすずしげなるに、をかしきひたひつきのすきかげ、あまたみえてのぞく。
源氏の君が六条御息所の所にこっそりと通ってた頃、内裏を出て六条へ向う途中の宿にと、大弐(だいに)の乳母(めのと)がひどく体調を崩し尼になったのを見舞いに、五条へとやってきました。
車を入れようとすると門は錠が鎖されていて、人に惟光(これみつ:乳母の息子)を呼んで来させて、来るのを待ちながらごちゃごちゃとした大通りの様子を眺めていると、乳母の家の隣に真新しい檜を編んで作った檜垣があり、その上半分は半蔀(はじとみ)という外開きの窓になっていて、それが四五軒ほど開いた状態になり、そこに掛けてある白い簾がとても涼しげで、女の可愛らしい額が透けて見えて、みんなで外を覗いているようでした。」
とある。
ここでは結局惟光が門を開けて車を引き入れ、別に隣を借りたわけではなかった。
それに凡兆の句では元ネタで重要な夕顔との出会いという要素を欠いているため、何となく「車」を出すことで王朝っぽい雰囲気を出すに留まる。それゆえに。これは本説ではなく俤に留まる。
2019年11月23日土曜日
今日は雨を遁れて三保の松原、掛川花鳥園、浜松城に行った。
三保の松原から見た朝の富士山は、昨日の雨のせいか綺麗に線を引いたように下半分が融けてパッツン髪のような富士山になっていた。
掛川花鳥園は三年前にも行っているが、ヘビクイワシ(Secretary Bird)の蛇のおもちゃをを蹴りつけるショーが新たに加わっていた。これでもかと親の敵のように踏みつけていた。ひょっとして慎重勇者?
浜松では一応餃子を食べた。楽しい一日だった。
それと韓国さんお帰りなさい。てっきりあっちの世界に行っちゃったと思っていた。
それでは「鳶の羽も」の巻の続き。
十三句目。
芙蓉のはなのはらはらとちる
吸物は先出来されしすいぜんじ 芭蕉
江戸後期の古注には水前寺海苔のことだとする説が多いが、ウィキペディアには、
「宝暦13年(1763年)遠藤幸左衛門が筑前の領地の川(現朝倉市屋永)に生育している藻に気づき「川苔」と名付け、この頃から食用とされるようになった。1781年 - 1789年頃には、遠藤喜三衛門が乾燥して板状にする加工法を開発した。寛政5年(1792年)に商品化され、弾力があり珍味として喜ばれ「水前寺苔」、「寿泉苔」、「紫金苔」、「川茸」などの名前で、地方特産の珍味として将軍家への献上品とされていた。現在も比較的高級な日本料理の材料として使用される。」
この記述どおりだとすると、芭蕉の時代にはまだ水前寺海苔はなかったことになる。
ただ、『連歌俳諧集』(日本古典文学全集32、一九七四、小学館)の注に、
苔の名の月先涼し水前寺 支考
の句が元禄十五年刊の『東西夜話』にあることを指摘している。この「苔」が海苔のことならば、このころ既に水前寺海苔があったことになる。
コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」の水前寺海苔ところには、西鶴の元禄二年の『一目玉鉾』の「熊本の城主 細川越中守殿 名物うねもめん すいせんしのり」を引用しているから、遠藤金川堂によって商品化される前から食べられていたことは間違いないだろう。
多分保存が利くようにして全国に普及させたのが遠藤喜三衛門であって、地元ではかなり古くから食べていたのではないかと思う。
支考は元禄十一年に九州行脚しているから、実際に現地でたべたのだろう。西鶴の場合は『日本永代蔵』で豊後、筑前、長崎の商人の物語を書いているし、その方面の商人からいろいろな話を聞いていたと思われる。芭蕉も九州に行ってないが、水前寺海苔のことは噂には聞いていたのだろう。
前句の芙蓉(蓮)の散るところから、お寺を連想して水前寺に結びつけたのだろう。ただ、水前寺というお寺はない。ウィキペディアによれば平安末期に焼失したという。一般に水前寺といわれるのは熊本藩細川氏の細川忠利が一六三六年(寛永十三年)頃から築いた「水前寺御茶屋」のことで、細川綱利の時に庭園として整備された。今日では水前寺成趣園と呼ばれている。
水前寺という寺はないが、茶屋はあるから御吸物を出し、そこには水前寺海苔がもちいられ、いやあ出来(でか)した、となる。
十四句目。
吸物は先出来されしすいぜんじ
三里あまりの道かかえける 去来
「出来(でか)す」はweblio辞書の「三省堂 大辞林 第三版」に、
「①出て来させる。作り上げる。こしらえる。また,よくない事態を招く。 「おめえが-・したことだから斯議論をつめられちやあ/西洋道中膝栗毛 魯文」 「今日中に-・す約束で誂へてござるほどに/狂言・麻生」
②見事に成し遂げる。うまくやる。 「是は大事の物だと思つて尻輪へひつ付けたが,-・したではないか/雑兵物語」
とある。ここでは①の意味に取り成す。
吸い物に誘われてはみたものの、水前寺まで行かされる。それも三里の道を歩いていかなくてはならない。
『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には、
「隙をとりてめいわくなるの意に転ず。先の字をとがめていへり。」とある。
『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)にも、
「饗応却テ迷惑ノ形チヲ先ト言字ヨリ見出シテ、道カカヱケルトハ言リ。」
とある。
十五句目。
三里あまりの道かかえける
この春も盧同が男居なりにて 史邦
盧同は盧仝のことで、ウィキペディアには、
「盧仝(ろどう、795? - 835年)は、中国・唐代末期の詩人。字は不明。号は、玉のような綺麗な川から水を汲み上げ茶を沸かすことから、玉川子(ぎょくせんし)とした。
『七椀茶歌』「走筆、謝孟諌講寄新茶」(筆を走らせて孟諌講が新茶を寄せたるを謝す)では、政治的批判と、盧 仝の茶への好事家の一面が読み取れる。」
とある。
「居なり」はコトバンクの「大辞林 第三版の解説」に、
「① そのまま動かずに居ること。
②
㋐ 江戸時代、奉公人や遊女が年季を過ぎてもそのまま続けて奉公すること。重年ちようねん。
㋑ 江戸時代、役者が契約切れになっても引き続いて同じ劇場に出演すること。 〔当時は一年契約であった〕
③ 「居抜き」に同じ。 「この家を-に買うてくれぬか/浄瑠璃・近頃河原達引」
とある。
ここでは特に何らかの盧仝のエピソードによる本説というわけではなく、あくまで盧仝のような茶人という意味で、それに仕える男が今年もそのまま仕えさせられて、「三里あまりの道かかえける」となる。
十六句目。
この春も盧同が男居なりにて
さし木つきたる月の朧夜 凡兆
古注には、この男が庭木を好んで挿し木をするというものが多いが、ここは比喩としておきたい。
この男は盧仝の茶の道を受け継ぐ挿し木のようなもので、一年たってしっかりと根付いたな、と朧月の夜に喜ぶ。
十七句目。
さし木つきたる月の朧夜
苔ながら花に並ぶる手水鉢 芭蕉
苔むした手水鉢に挿しておいた木がしっかり根付く様は、桜の木にも劣らないだけの価値がある。二つ並べればさながら花に月だ。
十八句目。
苔ながら花に並ぶる手水鉢
ひとり直し今朝の腹だち 去来
花の脇にある苔むした手水鉢はなかなか風情があり、自分も花のある人を羨むのをやめて、この手水鉢のようにあるがままに生きればいいんだと納得する。
三保の松原から見た朝の富士山は、昨日の雨のせいか綺麗に線を引いたように下半分が融けてパッツン髪のような富士山になっていた。
掛川花鳥園は三年前にも行っているが、ヘビクイワシ(Secretary Bird)の蛇のおもちゃをを蹴りつけるショーが新たに加わっていた。これでもかと親の敵のように踏みつけていた。ひょっとして慎重勇者?
浜松では一応餃子を食べた。楽しい一日だった。
それと韓国さんお帰りなさい。てっきりあっちの世界に行っちゃったと思っていた。
それでは「鳶の羽も」の巻の続き。
十三句目。
芙蓉のはなのはらはらとちる
吸物は先出来されしすいぜんじ 芭蕉
江戸後期の古注には水前寺海苔のことだとする説が多いが、ウィキペディアには、
「宝暦13年(1763年)遠藤幸左衛門が筑前の領地の川(現朝倉市屋永)に生育している藻に気づき「川苔」と名付け、この頃から食用とされるようになった。1781年 - 1789年頃には、遠藤喜三衛門が乾燥して板状にする加工法を開発した。寛政5年(1792年)に商品化され、弾力があり珍味として喜ばれ「水前寺苔」、「寿泉苔」、「紫金苔」、「川茸」などの名前で、地方特産の珍味として将軍家への献上品とされていた。現在も比較的高級な日本料理の材料として使用される。」
この記述どおりだとすると、芭蕉の時代にはまだ水前寺海苔はなかったことになる。
ただ、『連歌俳諧集』(日本古典文学全集32、一九七四、小学館)の注に、
苔の名の月先涼し水前寺 支考
の句が元禄十五年刊の『東西夜話』にあることを指摘している。この「苔」が海苔のことならば、このころ既に水前寺海苔があったことになる。
コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」の水前寺海苔ところには、西鶴の元禄二年の『一目玉鉾』の「熊本の城主 細川越中守殿 名物うねもめん すいせんしのり」を引用しているから、遠藤金川堂によって商品化される前から食べられていたことは間違いないだろう。
多分保存が利くようにして全国に普及させたのが遠藤喜三衛門であって、地元ではかなり古くから食べていたのではないかと思う。
支考は元禄十一年に九州行脚しているから、実際に現地でたべたのだろう。西鶴の場合は『日本永代蔵』で豊後、筑前、長崎の商人の物語を書いているし、その方面の商人からいろいろな話を聞いていたと思われる。芭蕉も九州に行ってないが、水前寺海苔のことは噂には聞いていたのだろう。
前句の芙蓉(蓮)の散るところから、お寺を連想して水前寺に結びつけたのだろう。ただ、水前寺というお寺はない。ウィキペディアによれば平安末期に焼失したという。一般に水前寺といわれるのは熊本藩細川氏の細川忠利が一六三六年(寛永十三年)頃から築いた「水前寺御茶屋」のことで、細川綱利の時に庭園として整備された。今日では水前寺成趣園と呼ばれている。
水前寺という寺はないが、茶屋はあるから御吸物を出し、そこには水前寺海苔がもちいられ、いやあ出来(でか)した、となる。
十四句目。
吸物は先出来されしすいぜんじ
三里あまりの道かかえける 去来
「出来(でか)す」はweblio辞書の「三省堂 大辞林 第三版」に、
「①出て来させる。作り上げる。こしらえる。また,よくない事態を招く。 「おめえが-・したことだから斯議論をつめられちやあ/西洋道中膝栗毛 魯文」 「今日中に-・す約束で誂へてござるほどに/狂言・麻生」
②見事に成し遂げる。うまくやる。 「是は大事の物だと思つて尻輪へひつ付けたが,-・したではないか/雑兵物語」
とある。ここでは①の意味に取り成す。
吸い物に誘われてはみたものの、水前寺まで行かされる。それも三里の道を歩いていかなくてはならない。
『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には、
「隙をとりてめいわくなるの意に転ず。先の字をとがめていへり。」とある。
『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)にも、
「饗応却テ迷惑ノ形チヲ先ト言字ヨリ見出シテ、道カカヱケルトハ言リ。」
とある。
十五句目。
三里あまりの道かかえける
この春も盧同が男居なりにて 史邦
盧同は盧仝のことで、ウィキペディアには、
「盧仝(ろどう、795? - 835年)は、中国・唐代末期の詩人。字は不明。号は、玉のような綺麗な川から水を汲み上げ茶を沸かすことから、玉川子(ぎょくせんし)とした。
『七椀茶歌』「走筆、謝孟諌講寄新茶」(筆を走らせて孟諌講が新茶を寄せたるを謝す)では、政治的批判と、盧 仝の茶への好事家の一面が読み取れる。」
とある。
「居なり」はコトバンクの「大辞林 第三版の解説」に、
「① そのまま動かずに居ること。
②
㋐ 江戸時代、奉公人や遊女が年季を過ぎてもそのまま続けて奉公すること。重年ちようねん。
㋑ 江戸時代、役者が契約切れになっても引き続いて同じ劇場に出演すること。 〔当時は一年契約であった〕
③ 「居抜き」に同じ。 「この家を-に買うてくれぬか/浄瑠璃・近頃河原達引」
とある。
ここでは特に何らかの盧仝のエピソードによる本説というわけではなく、あくまで盧仝のような茶人という意味で、それに仕える男が今年もそのまま仕えさせられて、「三里あまりの道かかえける」となる。
十六句目。
この春も盧同が男居なりにて
さし木つきたる月の朧夜 凡兆
古注には、この男が庭木を好んで挿し木をするというものが多いが、ここは比喩としておきたい。
この男は盧仝の茶の道を受け継ぐ挿し木のようなもので、一年たってしっかりと根付いたな、と朧月の夜に喜ぶ。
十七句目。
さし木つきたる月の朧夜
苔ながら花に並ぶる手水鉢 芭蕉
苔むした手水鉢に挿しておいた木がしっかり根付く様は、桜の木にも劣らないだけの価値がある。二つ並べればさながら花に月だ。
十八句目。
苔ながら花に並ぶる手水鉢
ひとり直し今朝の腹だち 去来
花の脇にある苔むした手水鉢はなかなか風情があり、自分も花のある人を羨むのをやめて、この手水鉢のようにあるがままに生きればいいんだと納得する。
2019年11月21日木曜日
「鳶の羽も」の巻の続き。
初裏。
七句目。
人にもくれず名物の梨
かきなぐる墨絵おかしく秋暮て 史邦
前句の「人にもくれず」をケチなのではなく、人がよりつかないという意味に取り成したのだろう。
一人閉じこもって墨絵を書き殴りながら暮らす隠士は、今だったら引きニートなどといわれそうだが(引きニートもネットで絵など書いて公開してたりする)、昔は世俗のかかわりを絶つのを聖なる行動と解釈していた。
秋は暮れてゆくけど梨はくれない、というのがいちおう洒落になっている。
八句目。
かきなぐる墨絵おかしく秋暮て
はきごころよきめりやすの足袋 凡兆
メリヤスはウィキペディアに、
「日本では編み物の伝統が弱く、17世紀後半の延宝 - 元禄年間(1673年 - 1704年)に、スペインやポルトガルなどから靴下などの形で編地がもたらされた。そこで、ポルトガル語やスペイン語で「靴下」を意味するポルトガル語の「メイアシュ」(meias)やスペイン語の「メディアス」(medias)から転訛した「メリヤス」が、編み物全般を指すようになった。「莫大小」という漢字は、伸縮性があり「大小がない」こととする説がある。主に、武士が殿中に出仕する際の足袋を作る技法として一部武士から庶民にも広まった。」
とある。
まあ、当時の流行のネタと言えよう。墨絵をたしなむ風流人はここでは引きニートではなく立派な武士で、流行にも敏感なできる男だったのだろう。
九句目。
はきごころよきめりやすの足袋
何事も無言の内はしづかなり 去来
無言だと静かなのは当たり前のことで、要するに喋りだすとうるさくてしょうがないことを逆説的に言ったのだろう。
うっかり足袋のことに触れたりすると、際限なく薀蓄を語られそうだ。
十句目。
何事も無言の内はしづかなり
里見え初て午の貝ふく 芭蕉
前句の「無言」を無言行を修ずる修験者に取り成す。
『猿簔箋註』(風律著か、明和・安永頃成)には、
「前を峰入の行者など見さだめて、羊腸をたどり、人里を見おろす午時の勤行終わりしさまと見えたり。又柴灯といふ修法ありて、無言なりとぞ。午の時に行終りて下山する時、貝を吹なり。」
とある。
無言行の時は静かだが、終ればほら貝を吹く。
十一句目。
里見え初て午の貝ふく
ほつれたる去年のねござしたたるく 凡兆
古註は寝茣蓙の持ち主が貝を吹く修験者なのか里の農民なのかで割れているようだ。
ここは貧しい修験者として、寝茣蓙がほつれた上にじめじめしていて寝てられないので、里に出てきたのではないかと思う。
『七部十寸鏡猿蓑解』(天堂一叟著、安政四年以前刊)の、「前を山家と見て、貧家体を付たり。寝ござのしたたるくは、やぶれて取所なきさま也。」でいいのではないかと思う。
十二句目。
ほつれたる去年のねござしたたるく
芙蓉のはなのはらはらとちる 史邦
寝茣蓙も古くなればほつれて湿気を吹くんでゆくように、芙蓉も時が経てばはらはらと散ってゆく。どちらも無常を感じさせるという所で響きで付いている。
『七部十寸鏡猿蓑解』(天堂一叟著、安政四年以前刊)にも、「去年のねござの敗たると言るに、うるはしき芙蓉も落花するといへる観想のたぐらへ付也。此芙蓉は、蓮也と諸註に言り。いかにも、木芙蓉は、しぼみてはらはらと散姿なし。」とある。
ここでいう芙蓉はアオイ科フヨウ属の芙蓉ではなく蓮の別名のようだ。ウィキペディアにも、
「『芙蓉』はハスの美称でもあることから、とくに区別する際には『木芙蓉』(もくふよう)とも呼ばれる。」
とある。
初裏。
七句目。
人にもくれず名物の梨
かきなぐる墨絵おかしく秋暮て 史邦
前句の「人にもくれず」をケチなのではなく、人がよりつかないという意味に取り成したのだろう。
一人閉じこもって墨絵を書き殴りながら暮らす隠士は、今だったら引きニートなどといわれそうだが(引きニートもネットで絵など書いて公開してたりする)、昔は世俗のかかわりを絶つのを聖なる行動と解釈していた。
秋は暮れてゆくけど梨はくれない、というのがいちおう洒落になっている。
八句目。
かきなぐる墨絵おかしく秋暮て
はきごころよきめりやすの足袋 凡兆
メリヤスはウィキペディアに、
「日本では編み物の伝統が弱く、17世紀後半の延宝 - 元禄年間(1673年 - 1704年)に、スペインやポルトガルなどから靴下などの形で編地がもたらされた。そこで、ポルトガル語やスペイン語で「靴下」を意味するポルトガル語の「メイアシュ」(meias)やスペイン語の「メディアス」(medias)から転訛した「メリヤス」が、編み物全般を指すようになった。「莫大小」という漢字は、伸縮性があり「大小がない」こととする説がある。主に、武士が殿中に出仕する際の足袋を作る技法として一部武士から庶民にも広まった。」
とある。
まあ、当時の流行のネタと言えよう。墨絵をたしなむ風流人はここでは引きニートではなく立派な武士で、流行にも敏感なできる男だったのだろう。
九句目。
はきごころよきめりやすの足袋
何事も無言の内はしづかなり 去来
無言だと静かなのは当たり前のことで、要するに喋りだすとうるさくてしょうがないことを逆説的に言ったのだろう。
うっかり足袋のことに触れたりすると、際限なく薀蓄を語られそうだ。
十句目。
何事も無言の内はしづかなり
里見え初て午の貝ふく 芭蕉
前句の「無言」を無言行を修ずる修験者に取り成す。
『猿簔箋註』(風律著か、明和・安永頃成)には、
「前を峰入の行者など見さだめて、羊腸をたどり、人里を見おろす午時の勤行終わりしさまと見えたり。又柴灯といふ修法ありて、無言なりとぞ。午の時に行終りて下山する時、貝を吹なり。」
とある。
無言行の時は静かだが、終ればほら貝を吹く。
十一句目。
里見え初て午の貝ふく
ほつれたる去年のねござしたたるく 凡兆
古註は寝茣蓙の持ち主が貝を吹く修験者なのか里の農民なのかで割れているようだ。
ここは貧しい修験者として、寝茣蓙がほつれた上にじめじめしていて寝てられないので、里に出てきたのではないかと思う。
『七部十寸鏡猿蓑解』(天堂一叟著、安政四年以前刊)の、「前を山家と見て、貧家体を付たり。寝ござのしたたるくは、やぶれて取所なきさま也。」でいいのではないかと思う。
十二句目。
ほつれたる去年のねござしたたるく
芙蓉のはなのはらはらとちる 史邦
寝茣蓙も古くなればほつれて湿気を吹くんでゆくように、芙蓉も時が経てばはらはらと散ってゆく。どちらも無常を感じさせるという所で響きで付いている。
『七部十寸鏡猿蓑解』(天堂一叟著、安政四年以前刊)にも、「去年のねござの敗たると言るに、うるはしき芙蓉も落花するといへる観想のたぐらへ付也。此芙蓉は、蓮也と諸註に言り。いかにも、木芙蓉は、しぼみてはらはらと散姿なし。」とある。
ここでいう芙蓉はアオイ科フヨウ属の芙蓉ではなく蓮の別名のようだ。ウィキペディアにも、
「『芙蓉』はハスの美称でもあることから、とくに区別する際には『木芙蓉』(もくふよう)とも呼ばれる。」
とある。
2019年11月20日水曜日
今朝は下弦の月が見えた。もうじき神無月も終わり。
新暦十一月はまだ俳諧を読んでないので、そろそろかな。ということで、『猿蓑』の古典的名作、「鳶の羽も」の巻を読んでみようかと思う。
『連歌俳諧集』(日本古典文学全集32、一九七四、小学館)や『校本芭蕉全集第四巻』(小宮豐隆監修、宮本三郎校注、一九六四、角川書店)、それに『芭蕉連句古注集 猿蓑編』(雲英末雄編、一九八七、汲古書院)と参考になる本も多い。
発句。
鳶の羽も刷ぬはつしぐれ 去来
「刷ぬ」は「かいつくろひぬ」と読む。「も」はこの場合「力も」で、特に何かと比較してということではないと思う。『俳諧七部集打聴』(岡本保孝、慶応元年~三年成立)には「人も蓑笠に刷ふと、ひびかせたる也」とあるが、そこまで読んでも読まなくてもいい。
時雨の後の情景で、鳶が濡れた羽を繕うというところに、安堵感のようなものを感じればそれでいいのだと思う。
時雨というと、
世にふるもさらに時雨の宿りかな 宗祇
の句もあり、冷たい時雨はそれを逃れた時に逆にぬくもりを感じさせる。
興行開始の挨拶としても、「いやあ、時雨も止みましたな、それでは俳諧をはじめましょう」ということだと思う。とくに鳶の姿が見えたとか、そういうことではなかったと思う。
脇。
鳶の羽も刷ぬはつしぐれ
一ふき風の木の葉しづまる 芭蕉
発句が時雨の後の情景なので、それに答えるべく風も吹いたけど今は静まっている、と付ける。前句の安堵感に応じたもので、響き付けといえよう。『猿簔箋註』(風律著か、明和・安永頃成)の「かいつくろいぬに、しづまると請たり。」でいいと思う。
土芳の『三冊子』には、
「木の葉の句は、ほ句の前をいふ句也。脇に一あらし落葉を乱し、納りて後の鳶のけしきと見込て、発句の前の事をいふ也。ともにけしき句也。」
とある。「ほ句の前」というのは、一ふき風の木の葉もしずまったので、鳶の羽も刷ぬという意味。
発句と脇との会話という点では、
「いやあ、時雨も止みましたな、鳶の羽もかいつくろってることでしょう、それでは俳諧をはじめましょう。」
「そうですね、木の葉を一吹きしていた風もおさまったことですし。」
というところか。
「木の葉」は今は木の葉っぱ全般を指すが、古くは落ち葉のことを言うものだった。湯山三吟の発句に、
うす雪に木葉色こき山路哉 肖柏
の用例がある。薄雪の白とのコントラストで地面に散った落ち葉がの色が濃く見える。強いて寓意を持たすなら、それが集まった三人の歳を経て、なおも頑張って色を見せている姿に重なり合うということか。
第三。
一ふき風の木の葉しづまる
股引の朝からぬるる川こえて 凡兆
夕暮れの情景から朝に転じる。股引(ももひき)を濡らすというのは、膝くらいまでの浅い川を渡るということだろう。
『奥の細道』の冒頭の部分に「もゝ引ひきの破れをつゞり笠の緒付かえて」とあるように、風の止んだ静かな朝早く、浅川を越える旅人と見るのがいいだろう。
『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「人倫に転ず。旅体なり。」とある。
四句目。
股引の朝からぬるる川こえて
たぬきををどす篠張の弓 史邦
「篠張の弓」というのは篠竹で作った簡単な弓で、多分そんな殺傷力はなくて、脅かす程度のものだったのだろう。
狸はそんな恐い生き物ではないので、本来は熊除けで、弓を鳴らしながら歩いたのではないかと思う。
『俳諧鳶羽集』(幻窓湖中、文政九年稿)や『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)は狼を除けるものとしている。それがあまりに粗末な弓なので、狸程度しか脅せないなというところに俳諧があるといっていいのだろう。
『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)に「山畠かせぐ男と見なして、肩に懸たる品をいへり。」とある。前句の股引を旅人ではなく農夫と見ている。
五句目。
たぬきををどす篠張の弓
まいら戸に蔦這かかる宵の月 芭蕉
「まいら戸(ど)」は「舞良戸」と書く。コトバンクの「世界大百科事典 第2版の解説」には、
「2本の縦框(たてかまち)の間に狭い間隔で横桟(よこさん)を渡し,それに板を打ちつけた引戸をいう。主として外まわり建具として用いられた。この形式の戸は平安時代の絵巻物にすでに描かれているが,当時は〈遣戸(やりど)〉と呼ばれていた。舞良戸の語源は明らかでなく,またその語が使用されるのも近世に入ってからである。寝殿造の外まわり建具は蔀戸(しとみど)が主で,出入口にのみ妻戸(つまど)(扉)が使われていた。遣戸の発生は両者より遅れ,寝殿の背面などの内向きの部分で使われはじめたがしだいに一般化し,室町時代に入ると書院造の建具として多く用いられるようになる。」
とある。書院造りは武家屋敷か立派なお寺を連想させるが、蔦這かかるとなれば、既に廃墟と化している。
月夜に豪邸に招かれて、酒池肉林の宴をしていると、誰かが篠弓を掻き鳴らしながらやってきて、すると魔法が解けたかのように本来の廃墟に戻ってしまう。さては狸に化かされたか、そんな物語が浮かんでくる。
『猿蓑付合考』(柳津魚潜著、寛政五年一月以降成)には、「昔は富貴也ける住、荒て狐狸の類ひも徘徊すれば、今宵はと篠竹に弓の形ヲこしらへ侍るにや。」とある。
六句目。
まいら戸に蔦這かかる宵の月
人にもくれず名物の梨 去来
古註の多くが『徒然草』の第十一段を引いている。
「神無月のころ、栗栖野といふ所を過ぎて、ある山里に尋ね入る事侍りしに、遥かなる苔の細道を踏み分けて、心ぼそく住みなしたる庵あり。木の葉に埋もるゝ懸樋の雫ならでは、つゆおとなふものなし。閼伽棚に菊・紅葉など折り散らしたる、さすがに、住む人のあればなるべし。
かくてもあられけるよとあはれに見るほどに、かなたの庭に、大きなる柑子の木の、枝もたわゝになりたるが、まはりをきびしく囲ひたりしこそ、少しことさめて、この木なからましかばと覚えしか。」
山奥に住む粗末な庵にさぞや心ある人だろうとおもって庭を見ると、大きな蜜柑の木にいっぱい実がなっているのに、周りを厳重に囲って盗まれないようにしているのを見て、どこにでもいる俗人かとがっかりする話だ。
本説で付ける場合は、元ネタと少し変えて付ける。
ここでは、前句の「まいら戸」を凋落したお寺とし、そこに月も出ていれば、そこに住む人もどんな風流人かと思うところだが、実際には名物の梨も出してくれないケチな人でがっかりした、というところだろう。
新暦十一月はまだ俳諧を読んでないので、そろそろかな。ということで、『猿蓑』の古典的名作、「鳶の羽も」の巻を読んでみようかと思う。
『連歌俳諧集』(日本古典文学全集32、一九七四、小学館)や『校本芭蕉全集第四巻』(小宮豐隆監修、宮本三郎校注、一九六四、角川書店)、それに『芭蕉連句古注集 猿蓑編』(雲英末雄編、一九八七、汲古書院)と参考になる本も多い。
発句。
鳶の羽も刷ぬはつしぐれ 去来
「刷ぬ」は「かいつくろひぬ」と読む。「も」はこの場合「力も」で、特に何かと比較してということではないと思う。『俳諧七部集打聴』(岡本保孝、慶応元年~三年成立)には「人も蓑笠に刷ふと、ひびかせたる也」とあるが、そこまで読んでも読まなくてもいい。
時雨の後の情景で、鳶が濡れた羽を繕うというところに、安堵感のようなものを感じればそれでいいのだと思う。
時雨というと、
世にふるもさらに時雨の宿りかな 宗祇
の句もあり、冷たい時雨はそれを逃れた時に逆にぬくもりを感じさせる。
興行開始の挨拶としても、「いやあ、時雨も止みましたな、それでは俳諧をはじめましょう」ということだと思う。とくに鳶の姿が見えたとか、そういうことではなかったと思う。
脇。
鳶の羽も刷ぬはつしぐれ
一ふき風の木の葉しづまる 芭蕉
発句が時雨の後の情景なので、それに答えるべく風も吹いたけど今は静まっている、と付ける。前句の安堵感に応じたもので、響き付けといえよう。『猿簔箋註』(風律著か、明和・安永頃成)の「かいつくろいぬに、しづまると請たり。」でいいと思う。
土芳の『三冊子』には、
「木の葉の句は、ほ句の前をいふ句也。脇に一あらし落葉を乱し、納りて後の鳶のけしきと見込て、発句の前の事をいふ也。ともにけしき句也。」
とある。「ほ句の前」というのは、一ふき風の木の葉もしずまったので、鳶の羽も刷ぬという意味。
発句と脇との会話という点では、
「いやあ、時雨も止みましたな、鳶の羽もかいつくろってることでしょう、それでは俳諧をはじめましょう。」
「そうですね、木の葉を一吹きしていた風もおさまったことですし。」
というところか。
「木の葉」は今は木の葉っぱ全般を指すが、古くは落ち葉のことを言うものだった。湯山三吟の発句に、
うす雪に木葉色こき山路哉 肖柏
の用例がある。薄雪の白とのコントラストで地面に散った落ち葉がの色が濃く見える。強いて寓意を持たすなら、それが集まった三人の歳を経て、なおも頑張って色を見せている姿に重なり合うということか。
第三。
一ふき風の木の葉しづまる
股引の朝からぬるる川こえて 凡兆
夕暮れの情景から朝に転じる。股引(ももひき)を濡らすというのは、膝くらいまでの浅い川を渡るということだろう。
『奥の細道』の冒頭の部分に「もゝ引ひきの破れをつゞり笠の緒付かえて」とあるように、風の止んだ静かな朝早く、浅川を越える旅人と見るのがいいだろう。
『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「人倫に転ず。旅体なり。」とある。
四句目。
股引の朝からぬるる川こえて
たぬきををどす篠張の弓 史邦
「篠張の弓」というのは篠竹で作った簡単な弓で、多分そんな殺傷力はなくて、脅かす程度のものだったのだろう。
狸はそんな恐い生き物ではないので、本来は熊除けで、弓を鳴らしながら歩いたのではないかと思う。
『俳諧鳶羽集』(幻窓湖中、文政九年稿)や『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)は狼を除けるものとしている。それがあまりに粗末な弓なので、狸程度しか脅せないなというところに俳諧があるといっていいのだろう。
『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)に「山畠かせぐ男と見なして、肩に懸たる品をいへり。」とある。前句の股引を旅人ではなく農夫と見ている。
五句目。
たぬきををどす篠張の弓
まいら戸に蔦這かかる宵の月 芭蕉
「まいら戸(ど)」は「舞良戸」と書く。コトバンクの「世界大百科事典 第2版の解説」には、
「2本の縦框(たてかまち)の間に狭い間隔で横桟(よこさん)を渡し,それに板を打ちつけた引戸をいう。主として外まわり建具として用いられた。この形式の戸は平安時代の絵巻物にすでに描かれているが,当時は〈遣戸(やりど)〉と呼ばれていた。舞良戸の語源は明らかでなく,またその語が使用されるのも近世に入ってからである。寝殿造の外まわり建具は蔀戸(しとみど)が主で,出入口にのみ妻戸(つまど)(扉)が使われていた。遣戸の発生は両者より遅れ,寝殿の背面などの内向きの部分で使われはじめたがしだいに一般化し,室町時代に入ると書院造の建具として多く用いられるようになる。」
とある。書院造りは武家屋敷か立派なお寺を連想させるが、蔦這かかるとなれば、既に廃墟と化している。
月夜に豪邸に招かれて、酒池肉林の宴をしていると、誰かが篠弓を掻き鳴らしながらやってきて、すると魔法が解けたかのように本来の廃墟に戻ってしまう。さては狸に化かされたか、そんな物語が浮かんでくる。
『猿蓑付合考』(柳津魚潜著、寛政五年一月以降成)には、「昔は富貴也ける住、荒て狐狸の類ひも徘徊すれば、今宵はと篠竹に弓の形ヲこしらへ侍るにや。」とある。
六句目。
まいら戸に蔦這かかる宵の月
人にもくれず名物の梨 去来
古註の多くが『徒然草』の第十一段を引いている。
「神無月のころ、栗栖野といふ所を過ぎて、ある山里に尋ね入る事侍りしに、遥かなる苔の細道を踏み分けて、心ぼそく住みなしたる庵あり。木の葉に埋もるゝ懸樋の雫ならでは、つゆおとなふものなし。閼伽棚に菊・紅葉など折り散らしたる、さすがに、住む人のあればなるべし。
かくてもあられけるよとあはれに見るほどに、かなたの庭に、大きなる柑子の木の、枝もたわゝになりたるが、まはりをきびしく囲ひたりしこそ、少しことさめて、この木なからましかばと覚えしか。」
山奥に住む粗末な庵にさぞや心ある人だろうとおもって庭を見ると、大きな蜜柑の木にいっぱい実がなっているのに、周りを厳重に囲って盗まれないようにしているのを見て、どこにでもいる俗人かとがっかりする話だ。
本説で付ける場合は、元ネタと少し変えて付ける。
ここでは、前句の「まいら戸」を凋落したお寺とし、そこに月も出ていれば、そこに住む人もどんな風流人かと思うところだが、実際には名物の梨も出してくれないケチな人でがっかりした、というところだろう。
2019年11月18日月曜日
芭蕉脇集を元禄七年で終ろうとしたが、『校本芭蕉全集』第五巻(小宮豊隆監修、中村俊定校注)にはそのあと「年代未詳之部」があって、そこからもう一句追加しなくてはならない。
年代未詳
風羅坊の師、旅を好本性にて、
奥羽越後の月雪にさすらへ、
またうごきなき石山の庵とおも
ひしも幻住となして、都の納涼
の風に吹れなど、流石におもひ
定て、おもひ定めぬは風雅の情
ならん。臍の緒に啼を憐て、玉
玉ことしは東武にこころとどま
りぬ。五十の波立越、老をいた
はり、烏頭巾を送るとて、其志
の短を継そへていふ。
菅蓑の毛なみや氷る庵の暮 粛山
まれに頭巾を貰ふ木兎 芭蕉
奥の細道の旅を終えてしばらく上方に滞在した後、江戸に戻り滞在した時の冬の句だとすれば、元禄四年十一月から元禄七年五月までの間の冬、つまり元禄四年、元禄五年、元禄六年のいずれかということになる。
「五十の波立越」とあり、五十歳の時だとすれば元禄六年ということになる。
振売りの雁あはれなり恵比寿講 芭蕉
の句はこの年の十月で、ちょうど『炭俵』の風が固まった頃だ。
粛山は其角門で松山藩の家老だという。其角撰『いつを昔』(元禄三年刊)に、
亀の背に漂ふ鳰の浮巣哉 粛山
涼しさや海すこしある戎堂 同
左迁に鯖備へける文月哉 同
といった句がある。
粛山の発句は、菅蓑だけでは髪の毛も凍ってしまうでしょう、この庵で年の暮れを過ごすには、というもので、それで烏頭巾を贈ったわけだ。
烏頭巾がどのような頭巾かよくわからないが、ミミズクのように見えるとしたら角頭巾の黒いものか。
芭蕉の脇は頭巾を貰ったこととそれを被った姿がミミズクに似ていることから、「頭巾を貰ふ木兎」となる。
なお、其角撰『いつを昔』に、
けうがる我が旅すがた
木兎の独わらひや秋の暮 其角
の句がある。同じ其角の句に、
みゝつくの頭巾は人にぬはせけり 其角(五元集)
の句もある。
年代未詳
風羅坊の師、旅を好本性にて、
奥羽越後の月雪にさすらへ、
またうごきなき石山の庵とおも
ひしも幻住となして、都の納涼
の風に吹れなど、流石におもひ
定て、おもひ定めぬは風雅の情
ならん。臍の緒に啼を憐て、玉
玉ことしは東武にこころとどま
りぬ。五十の波立越、老をいた
はり、烏頭巾を送るとて、其志
の短を継そへていふ。
菅蓑の毛なみや氷る庵の暮 粛山
まれに頭巾を貰ふ木兎 芭蕉
奥の細道の旅を終えてしばらく上方に滞在した後、江戸に戻り滞在した時の冬の句だとすれば、元禄四年十一月から元禄七年五月までの間の冬、つまり元禄四年、元禄五年、元禄六年のいずれかということになる。
「五十の波立越」とあり、五十歳の時だとすれば元禄六年ということになる。
振売りの雁あはれなり恵比寿講 芭蕉
の句はこの年の十月で、ちょうど『炭俵』の風が固まった頃だ。
粛山は其角門で松山藩の家老だという。其角撰『いつを昔』(元禄三年刊)に、
亀の背に漂ふ鳰の浮巣哉 粛山
涼しさや海すこしある戎堂 同
左迁に鯖備へける文月哉 同
といった句がある。
粛山の発句は、菅蓑だけでは髪の毛も凍ってしまうでしょう、この庵で年の暮れを過ごすには、というもので、それで烏頭巾を贈ったわけだ。
烏頭巾がどのような頭巾かよくわからないが、ミミズクのように見えるとしたら角頭巾の黒いものか。
芭蕉の脇は頭巾を貰ったこととそれを被った姿がミミズクに似ていることから、「頭巾を貰ふ木兎」となる。
なお、其角撰『いつを昔』に、
けうがる我が旅すがた
木兎の独わらひや秋の暮 其角
の句がある。同じ其角の句に、
みゝつくの頭巾は人にぬはせけり 其角(五元集)
の句もある。
2019年11月17日日曜日
今日もいい天気だった。
香港ではついに人民解放軍が出動し、障害物の撤去作業を行ったという。香港の自由のために国際社会は何もできず、暴力によって殺され傷つく民衆をただ見ているしかないのだろうか。
安倍政権にもそのことを追求して欲しい所だが、野党には例の中国系議員もいることだし、桜が見にくる会の追求で忙しいようだ。
それでは芭蕉脇集の続き。
夕㒵や蔓に場をとる夏座敷 為有
西日をふせぐ藪の下刈 芭蕉
閏五月廿二日から六月十五日までの間の落柿舎滞在中の興行と思われる。
二十四句目までは為有、芭蕉、惟然、野明の四吟で、それ以降は去来、之道、野明の三吟になっている。十七句目に花が来ていて、二十四句目が特に挙句のようになってないので、未完で終わったようだ。後日三人で継ぎ足して完成させたものであろう。
また、これには元禄十一年刊の松星・夾始編『記念題』に、二十三句目から露川、如行、松星、夾始の四吟となっている別バージョンが存在する。二十二句目の「尻もむすばぬ恋ぞほぐるる 野明」が「尻もむすばぬ言をほぐるる 野明」になっていて、二十三句目の芭蕉の句と二十四句目の惟然の句がない。
夕顔は蔓性で干瓢を取るために夕顔棚を作るから、藤棚同様それなりのスペースは必要になる。落柿舎に夕顔棚があったのだろう。
発句は夕顔に場所をとられて狭いところですが、という挨拶になる。それに対し、夕顔棚は西日を防いでくれるとその徳を述べる。
久隅守景の『夕顔棚納涼図屏風』のように、夕顔棚は貧しい家の納涼風景を連想させるものだった。
菜種ほすむしろの端や夕涼み 曲翠
蛍逃行あぢさゐの花 芭蕉
六月十五日に落柿舎から膳所の義仲寺無名庵に移り、そのころの吟と思われる。曲翠は膳所藩士。
土芳の『三冊子』に、
「此脇、発句の位を見しめて事もなく付る句也。同前栽其あたりの似合敷物を寄。」とある。
以下、十月二十四日の俳話と重複するが、菜種は菜の花が咲いたあと二ヶ月から三ヶ月で種になり収穫し、乾燥させる。その頃には暑くなり、菜種を乾燥させている筵の隅っこに座って夕涼みすることはよくあったのだろう。
発句の寓意を受けずにさらっと流すのは、芭蕉の晩年に時折見られる脇の付け方だったようだ。蕉風確立期なら「蛍の止まる」とでもしそうだ。意図的にその古いパターンをはずした風にも見える。
元禄七七月廿八日夜猿雖亭
あれあれて末は海行野分哉 猿雖
鶴の頭を上る粟の穂 芭蕉
前書きにある通り、七月二十八日、伊賀の猿雖亭での興行。一度半歌仙で終ろうとして、そのあと挙句を入れ替えて歌仙にしたと思われる。六吟歌仙興行だったが、主筆と思われる木白も参加して七吟になっている。
元禄七年の七月に、伊賀の方を襲う台風があったのだろう。台風も去ってどこかの海へ出て行ったようだという発句に対し、鶴も粟畑で頭を上げていると嵐の後の平穏な風景を付ける。
土芳の『三冊子』には、「鶴の句は、野分冷じくあれ、漸おさまりて後をいふ句なり。静なる体を脇とす。」とある。
また芭蕉の元禄七年八月九日付向井去来宛書簡に、「鶴は常体之気しきに落可」とある。
この場合の鶴は季節から言ってコウノトリのことであろう。特に鶴にお目出度いという寓意はなく、粟は穂を垂れ、それと対称的に鶴は頭を上げるという嵐の去った後の景色でさらっと流している。
歌仙
残る蚊に袷着て寄る夜寒哉 雪芝
餌畚ながらに見するさび鮎 芭蕉
これも「あれあれて」の巻と同じ頃の興行と思われる。前書きに「歌仙」とあるが三十句で終っている。
すっかり夜寒になり、こうして袷を着て集まっているのは興行の時の様子であろう。寒くなったのにまだ蚊がいて、秋の蚊はしつこくて嫌ですね、といったところか。
「餌畚」は鷹匠の持ち歩く餌袋のことだが、釣の時の餌を入れる竹籠にも使う。「さび鮎」は秋の産卵期の鮎で「落ち鮎」ともいう。この時期の鮎は友釣りもできず、餌釣りも食いが悪いという。だからこの「さび鮎」は貴重なものだともいえよう。
「寒いのに蚊がいるところですいません」「いえ、この時期の鮎は貴重です」といったところか。
折々や雨戸にさはる荻の声 雪芝
放す所におらぬ松虫 芭蕉
これも同じ頃の句。
芭蕉の元禄七年八月九日付向井去来宛書簡にある句で、「いまかるみに移り兼、しぶしぶの俳諧、散々の句のみ出候」という時の句。
土芳の『三冊子』に、「この脇、発句の位を思ひしめて、匂よろしく事もなく付たる句也。」とある。
発句の雨戸に萩の枝が触れるような田舎の小さな家から、そこに住む人の位で付けたということか。松虫を捕まえたものの、可哀相になって放してあげる、そういう心やさしい住人ということなのだろう。
松茸に交る木の葉も匂ひかな 鷗白
栗のいがふむ谷の飛こえ 芭蕉
これも芭蕉の伊賀滞在中で八月中旬とされている。
発句は芭蕉の元禄四年秋の、
松茸やしらぬ木の葉のへばりつき 芭蕉
を踏まえたものだろう。もらった松茸を見ると、何だかわからない葉っぱがへばりついていることってあるよね、といったいわゆる「あるあるネタ」の句だったが、ここでは芭蕉を松茸にたとえ、伊賀の門人の名もなき木の葉にも香りを移しているという挨拶句に作りなおす。
これに対し芭蕉は、栗のイガを踏んだりしながら谷を飛び越えて参りました、と返す。イガはやはり「伊賀」に掛けているのか。ならば「栗のイガを踏んだりしながらも、伊賀の地を踏むために」となる。
八月二十三日には、
松茸や都に近き山の形(なり) 惟然
を発句とする興行もあり、九月四日には伊賀を訪れた支考と文代(斗従)を迎えての「松茸やしらぬ木の葉のへばりつき」を発句とする歌仙興行があった。さながらこの年の伊賀は松茸祭といったところか。
なお、「しらぬ木の葉」の句を支考にくっ付いてきた文代(斗従)のことだとする解釈がネット上に流布しているのは、この句を当座の興で詠んだとの誤解によるものと思われる。
猿蓑にもれたる霜の松露哉 沾圃
日は寒けれど静なる岡 芭蕉
これは九月の初め頃、前年に詠まれた沾圃の発句を元に行われた、芭蕉、支考、惟然による三吟歌仙興行の脇。この発句が『続猿蓑』のタイトルの由来ともなり、『続猿蓑』に収録されている。
発句は、美味な食材としての松露ではなく、むしろ食材を越えた純粋な冬の景物として哀れでかつ美しく、それが『猿蓑』で詠まれなかったのは残念だ、という句だ。
蓑笠を失った公界の猿の叫びも哀れだが、類稀なる才を持つ松露が霜に朽ちてゆくのもまた断腸の叫びを思わせる。
これに対し芭蕉は「日は寒けれど」という気候と「静なる岡」という背景を添えるだけの謙虚なものだ。発句を引き立てようという意図で、自己主張を抑えた感じがする。ある意味これは脇句の見本と言ってもいい、芭蕉にとっての完成された脇の形ではないかと思う。
香港ではついに人民解放軍が出動し、障害物の撤去作業を行ったという。香港の自由のために国際社会は何もできず、暴力によって殺され傷つく民衆をただ見ているしかないのだろうか。
安倍政権にもそのことを追求して欲しい所だが、野党には例の中国系議員もいることだし、桜が見にくる会の追求で忙しいようだ。
それでは芭蕉脇集の続き。
夕㒵や蔓に場をとる夏座敷 為有
西日をふせぐ藪の下刈 芭蕉
閏五月廿二日から六月十五日までの間の落柿舎滞在中の興行と思われる。
二十四句目までは為有、芭蕉、惟然、野明の四吟で、それ以降は去来、之道、野明の三吟になっている。十七句目に花が来ていて、二十四句目が特に挙句のようになってないので、未完で終わったようだ。後日三人で継ぎ足して完成させたものであろう。
また、これには元禄十一年刊の松星・夾始編『記念題』に、二十三句目から露川、如行、松星、夾始の四吟となっている別バージョンが存在する。二十二句目の「尻もむすばぬ恋ぞほぐるる 野明」が「尻もむすばぬ言をほぐるる 野明」になっていて、二十三句目の芭蕉の句と二十四句目の惟然の句がない。
夕顔は蔓性で干瓢を取るために夕顔棚を作るから、藤棚同様それなりのスペースは必要になる。落柿舎に夕顔棚があったのだろう。
発句は夕顔に場所をとられて狭いところですが、という挨拶になる。それに対し、夕顔棚は西日を防いでくれるとその徳を述べる。
久隅守景の『夕顔棚納涼図屏風』のように、夕顔棚は貧しい家の納涼風景を連想させるものだった。
菜種ほすむしろの端や夕涼み 曲翠
蛍逃行あぢさゐの花 芭蕉
六月十五日に落柿舎から膳所の義仲寺無名庵に移り、そのころの吟と思われる。曲翠は膳所藩士。
土芳の『三冊子』に、
「此脇、発句の位を見しめて事もなく付る句也。同前栽其あたりの似合敷物を寄。」とある。
以下、十月二十四日の俳話と重複するが、菜種は菜の花が咲いたあと二ヶ月から三ヶ月で種になり収穫し、乾燥させる。その頃には暑くなり、菜種を乾燥させている筵の隅っこに座って夕涼みすることはよくあったのだろう。
発句の寓意を受けずにさらっと流すのは、芭蕉の晩年に時折見られる脇の付け方だったようだ。蕉風確立期なら「蛍の止まる」とでもしそうだ。意図的にその古いパターンをはずした風にも見える。
元禄七七月廿八日夜猿雖亭
あれあれて末は海行野分哉 猿雖
鶴の頭を上る粟の穂 芭蕉
前書きにある通り、七月二十八日、伊賀の猿雖亭での興行。一度半歌仙で終ろうとして、そのあと挙句を入れ替えて歌仙にしたと思われる。六吟歌仙興行だったが、主筆と思われる木白も参加して七吟になっている。
元禄七年の七月に、伊賀の方を襲う台風があったのだろう。台風も去ってどこかの海へ出て行ったようだという発句に対し、鶴も粟畑で頭を上げていると嵐の後の平穏な風景を付ける。
土芳の『三冊子』には、「鶴の句は、野分冷じくあれ、漸おさまりて後をいふ句なり。静なる体を脇とす。」とある。
また芭蕉の元禄七年八月九日付向井去来宛書簡に、「鶴は常体之気しきに落可」とある。
この場合の鶴は季節から言ってコウノトリのことであろう。特に鶴にお目出度いという寓意はなく、粟は穂を垂れ、それと対称的に鶴は頭を上げるという嵐の去った後の景色でさらっと流している。
歌仙
残る蚊に袷着て寄る夜寒哉 雪芝
餌畚ながらに見するさび鮎 芭蕉
これも「あれあれて」の巻と同じ頃の興行と思われる。前書きに「歌仙」とあるが三十句で終っている。
すっかり夜寒になり、こうして袷を着て集まっているのは興行の時の様子であろう。寒くなったのにまだ蚊がいて、秋の蚊はしつこくて嫌ですね、といったところか。
「餌畚」は鷹匠の持ち歩く餌袋のことだが、釣の時の餌を入れる竹籠にも使う。「さび鮎」は秋の産卵期の鮎で「落ち鮎」ともいう。この時期の鮎は友釣りもできず、餌釣りも食いが悪いという。だからこの「さび鮎」は貴重なものだともいえよう。
「寒いのに蚊がいるところですいません」「いえ、この時期の鮎は貴重です」といったところか。
折々や雨戸にさはる荻の声 雪芝
放す所におらぬ松虫 芭蕉
これも同じ頃の句。
芭蕉の元禄七年八月九日付向井去来宛書簡にある句で、「いまかるみに移り兼、しぶしぶの俳諧、散々の句のみ出候」という時の句。
土芳の『三冊子』に、「この脇、発句の位を思ひしめて、匂よろしく事もなく付たる句也。」とある。
発句の雨戸に萩の枝が触れるような田舎の小さな家から、そこに住む人の位で付けたということか。松虫を捕まえたものの、可哀相になって放してあげる、そういう心やさしい住人ということなのだろう。
松茸に交る木の葉も匂ひかな 鷗白
栗のいがふむ谷の飛こえ 芭蕉
これも芭蕉の伊賀滞在中で八月中旬とされている。
発句は芭蕉の元禄四年秋の、
松茸やしらぬ木の葉のへばりつき 芭蕉
を踏まえたものだろう。もらった松茸を見ると、何だかわからない葉っぱがへばりついていることってあるよね、といったいわゆる「あるあるネタ」の句だったが、ここでは芭蕉を松茸にたとえ、伊賀の門人の名もなき木の葉にも香りを移しているという挨拶句に作りなおす。
これに対し芭蕉は、栗のイガを踏んだりしながら谷を飛び越えて参りました、と返す。イガはやはり「伊賀」に掛けているのか。ならば「栗のイガを踏んだりしながらも、伊賀の地を踏むために」となる。
八月二十三日には、
松茸や都に近き山の形(なり) 惟然
を発句とする興行もあり、九月四日には伊賀を訪れた支考と文代(斗従)を迎えての「松茸やしらぬ木の葉のへばりつき」を発句とする歌仙興行があった。さながらこの年の伊賀は松茸祭といったところか。
なお、「しらぬ木の葉」の句を支考にくっ付いてきた文代(斗従)のことだとする解釈がネット上に流布しているのは、この句を当座の興で詠んだとの誤解によるものと思われる。
猿蓑にもれたる霜の松露哉 沾圃
日は寒けれど静なる岡 芭蕉
これは九月の初め頃、前年に詠まれた沾圃の発句を元に行われた、芭蕉、支考、惟然による三吟歌仙興行の脇。この発句が『続猿蓑』のタイトルの由来ともなり、『続猿蓑』に収録されている。
発句は、美味な食材としての松露ではなく、むしろ食材を越えた純粋な冬の景物として哀れでかつ美しく、それが『猿蓑』で詠まれなかったのは残念だ、という句だ。
蓑笠を失った公界の猿の叫びも哀れだが、類稀なる才を持つ松露が霜に朽ちてゆくのもまた断腸の叫びを思わせる。
これに対し芭蕉は「日は寒けれど」という気候と「静なる岡」という背景を添えるだけの謙虚なものだ。発句を引き立てようという意図で、自己主張を抑えた感じがする。ある意味これは脇句の見本と言ってもいい、芭蕉にとっての完成された脇の形ではないかと思う。
2019年11月15日金曜日
先日の大嘗祭に二十七億円の税金が使われたことで、いろいろ言われている。まあ、これを機に皇室行事をやめろだとか、そもそも皇室なんて要らないだとか言う人にいい様に利用されたりしがちだが、ただ秋篠宮さまも懸念していたことでもあるし、もっといいやり方はないものかとは思う。
二十七億のうち十九億七千万はこの儀式だけに使って後は使い捨ての大嘗宮の建設費・解体費だという。これはやはりもったいない。
大嘗宮は十一月二十一日から十二月八日まで一般公開されるが、これは有料でもよかったのではなかったか。期間も西洋のクリスマス休暇の時期まで延長すれば、外人観光客も呼べたのではなかったか。解体した後の材料も、お守りやグッズにして売れるのではないか。
大体公務員に仕事させるとどうしたって無駄が多いものだ。経済感覚がなく、見栄のために余計な金を使いがちになる。次回はイベント会社に入札させて、民間に委託した方がいいのではないか。放映権なんかも売れるのではないか。
MOTTAINAIは今や世界の言葉。大嘗祭もったいなくも大嘗祭。
それでは芭蕉脇集の続き。
元禄七年
両吟
五人ぶち取てしだるる柳かな 野坡
日より日よりに雪解の音 芭蕉
元禄七年春の野坡、芭蕉両吟歌仙興行の脇。野坡との両吟は「梅が香に」の巻の方が『炭俵』に採用され、「五人ぶち」の方は発句のみの入集となった。
「五人ぶち」は扶持(ふち)という給与のことで、一人一日五合の米を一年分というのが一人扶持だった。五人扶持は家族が何とか生活していけるだけの最低賃金といったところか。
野坡は越後屋両替店の手代だったというから、自分のことを自嘲気味に詠んだ句だったかもしれない。柳の木もほっそりしたもので、とてもじゃないが八九間とはいかなかっただろう。「しだるる」というところにも、いかにも力のなさが感じられる。
これに対し、芭蕉は日に日に雪も解けて何よりですと、野坡のこれからの出世を暗示させる。そののち番頭にまで登りつめたともいわれている。
水音や小鮎のいさむ二俣瀬 湖風
柳もすさる岸の刈株 芭蕉
これも春の興行で、六吟半歌仙になっている。
「水音は小鮎のいさむや」の倒置で、何で勇んでいるのかというと、二俣瀬で両方からやってきた鮎が縄張り争いをするからだという落ちになる。
鮎は縄張り意識が強く、侵入者には容赦なく体当たりを食らわす。それを利用したのが鮎の友釣りだ。実際に釣られているのは友ではなく敵なのだが。
鮎の争いに対して芭蕉の脇は柳もすさる、今の言葉だとドン引きというところか。柳は切り株だけ残してどこかへ行ってしまった。
ふか川にまかりて
空豆の花さきにけり麦の縁 孤屋
昼の水鶏のはしる溝川 芭蕉
元禄七年の四月、芭蕉庵での四吟歌仙興行で、この巻は『炭俵』に採られている。
以下、二〇一七年一月十八日の俳話と重複するが、ご容赦を。
初夏は麦秋ともいわれ、麦の穂が稔り、葉は枯れ、あたかも晩秋の田んぼのようになる。ソラマメもまた春から初夏にかけて、白と濃い紫とのコントラストのある、可憐な花をつける。
「まかりて」は田舎に下る時の言い回しであり、都に上るときには「まうでて」となる。
この発句は都を離れて田圃を尋ねる句であり、芭蕉を陶淵明のような田園の居に隠棲する隠士に見立ての句だ。
これに対して芭蕉は珍しいお客を迎えたことの寓意としてクイナを引き合いに出す。
クイナは水田などに住むが、夜行性でなかなか人前に姿を表わさない。そのクイナが昼間に姿を表わしたということで、この興行の来席者の寓意としている。溝川は芭蕉庵に近い小名木川のことか。
餞別
新麦はわざとすすめぬ首途かな 山店
また相蚊屋の空はるか也 芭蕉
五月十一日には芭蕉は再び上方方面へと旅に出る。そしてこれが最後の旅になる。これはその直前の両吟歌仙興行の脇になる。これとは別に「紫陽花や藪を小庭の別座敷 芭蕉」を発句とした五吟歌仙興行も行われていて、こちらの方は二〇一七年の六月十六日から六月二十六日までの俳話を参照のこと。
新麦はここでは大麦のことと思われる。麦飯に用いられる。そのまま焚いて食べる分には、やはり取れたてがいい。小麦は熟成を必要とする。新麦では粘りが足りない。
発句は、ここで新麦のご飯をすすめてしまうと、もっと食べたくなって旅に出るのをやめてしまいかねないから、という意味だろう。
脇はこれからの旅を想像してのもので、相蚊屋というのは庵に同居して芭蕉の身の回りの世話をしていた二郎兵衛少年を連れていくから、ともに同じ蚊帳の中に寝ることになるというもの。少年が出たところで余計な想像はしないように。
なお、旅立ちの時に品川宿で詠んだ句は、
麦の穂を力につかむ別れ哉 芭蕉
で、やはり麦が気になっていたか。
やはらかにたけよことしの手作麦 如舟
田植とともにたびの朝起 芭蕉
東海道を登る途中、この年は大雨で大井川が増水し、しばらく島田宿の如舟の所に逗留する。これはその時の句。
ここでどうやら柔らかい新麦の麦飯を食うことができたようだ。これに対し芭蕉は田植のころだからみんな早起きするので、川止めで宿にいても朝早く起されてしまう、とその時の状況を付ける。ぼやきとも取れるが、発句と合わせれば、朝早くから美味しい麦飯が食えるという意味だとわかる。
二十七億のうち十九億七千万はこの儀式だけに使って後は使い捨ての大嘗宮の建設費・解体費だという。これはやはりもったいない。
大嘗宮は十一月二十一日から十二月八日まで一般公開されるが、これは有料でもよかったのではなかったか。期間も西洋のクリスマス休暇の時期まで延長すれば、外人観光客も呼べたのではなかったか。解体した後の材料も、お守りやグッズにして売れるのではないか。
大体公務員に仕事させるとどうしたって無駄が多いものだ。経済感覚がなく、見栄のために余計な金を使いがちになる。次回はイベント会社に入札させて、民間に委託した方がいいのではないか。放映権なんかも売れるのではないか。
MOTTAINAIは今や世界の言葉。大嘗祭もったいなくも大嘗祭。
それでは芭蕉脇集の続き。
元禄七年
両吟
五人ぶち取てしだるる柳かな 野坡
日より日よりに雪解の音 芭蕉
元禄七年春の野坡、芭蕉両吟歌仙興行の脇。野坡との両吟は「梅が香に」の巻の方が『炭俵』に採用され、「五人ぶち」の方は発句のみの入集となった。
「五人ぶち」は扶持(ふち)という給与のことで、一人一日五合の米を一年分というのが一人扶持だった。五人扶持は家族が何とか生活していけるだけの最低賃金といったところか。
野坡は越後屋両替店の手代だったというから、自分のことを自嘲気味に詠んだ句だったかもしれない。柳の木もほっそりしたもので、とてもじゃないが八九間とはいかなかっただろう。「しだるる」というところにも、いかにも力のなさが感じられる。
これに対し、芭蕉は日に日に雪も解けて何よりですと、野坡のこれからの出世を暗示させる。そののち番頭にまで登りつめたともいわれている。
水音や小鮎のいさむ二俣瀬 湖風
柳もすさる岸の刈株 芭蕉
これも春の興行で、六吟半歌仙になっている。
「水音は小鮎のいさむや」の倒置で、何で勇んでいるのかというと、二俣瀬で両方からやってきた鮎が縄張り争いをするからだという落ちになる。
鮎は縄張り意識が強く、侵入者には容赦なく体当たりを食らわす。それを利用したのが鮎の友釣りだ。実際に釣られているのは友ではなく敵なのだが。
鮎の争いに対して芭蕉の脇は柳もすさる、今の言葉だとドン引きというところか。柳は切り株だけ残してどこかへ行ってしまった。
ふか川にまかりて
空豆の花さきにけり麦の縁 孤屋
昼の水鶏のはしる溝川 芭蕉
元禄七年の四月、芭蕉庵での四吟歌仙興行で、この巻は『炭俵』に採られている。
以下、二〇一七年一月十八日の俳話と重複するが、ご容赦を。
初夏は麦秋ともいわれ、麦の穂が稔り、葉は枯れ、あたかも晩秋の田んぼのようになる。ソラマメもまた春から初夏にかけて、白と濃い紫とのコントラストのある、可憐な花をつける。
「まかりて」は田舎に下る時の言い回しであり、都に上るときには「まうでて」となる。
この発句は都を離れて田圃を尋ねる句であり、芭蕉を陶淵明のような田園の居に隠棲する隠士に見立ての句だ。
これに対して芭蕉は珍しいお客を迎えたことの寓意としてクイナを引き合いに出す。
クイナは水田などに住むが、夜行性でなかなか人前に姿を表わさない。そのクイナが昼間に姿を表わしたということで、この興行の来席者の寓意としている。溝川は芭蕉庵に近い小名木川のことか。
餞別
新麦はわざとすすめぬ首途かな 山店
また相蚊屋の空はるか也 芭蕉
五月十一日には芭蕉は再び上方方面へと旅に出る。そしてこれが最後の旅になる。これはその直前の両吟歌仙興行の脇になる。これとは別に「紫陽花や藪を小庭の別座敷 芭蕉」を発句とした五吟歌仙興行も行われていて、こちらの方は二〇一七年の六月十六日から六月二十六日までの俳話を参照のこと。
新麦はここでは大麦のことと思われる。麦飯に用いられる。そのまま焚いて食べる分には、やはり取れたてがいい。小麦は熟成を必要とする。新麦では粘りが足りない。
発句は、ここで新麦のご飯をすすめてしまうと、もっと食べたくなって旅に出るのをやめてしまいかねないから、という意味だろう。
脇はこれからの旅を想像してのもので、相蚊屋というのは庵に同居して芭蕉の身の回りの世話をしていた二郎兵衛少年を連れていくから、ともに同じ蚊帳の中に寝ることになるというもの。少年が出たところで余計な想像はしないように。
なお、旅立ちの時に品川宿で詠んだ句は、
麦の穂を力につかむ別れ哉 芭蕉
で、やはり麦が気になっていたか。
やはらかにたけよことしの手作麦 如舟
田植とともにたびの朝起 芭蕉
東海道を登る途中、この年は大雨で大井川が増水し、しばらく島田宿の如舟の所に逗留する。これはその時の句。
ここでどうやら柔らかい新麦の麦飯を食うことができたようだ。これに対し芭蕉は田植のころだからみんな早起きするので、川止めで宿にいても朝早く起されてしまう、とその時の状況を付ける。ぼやきとも取れるが、発句と合わせれば、朝早くから美味しい麦飯が食えるという意味だとわかる。
2019年11月14日木曜日
芭蕉脇集の続き。
元禄六年
餞別
風流のまことを鳴やほととぎす 凉葉
旅のわらぢに卯の花の雪 芭蕉
元禄六年の四月、芭蕉庵での十吟歌仙興行の脇。餞別の前書きがあり、芭蕉の句も旅の句だが、誰の旅立ちなのかはよくわからない。千川の送別の歌仙は別にあるし、このときには凉葉が参加している。この歌仙が四月九日の出立の前だとしたら、このあと凉葉もどこかへ旅立ったか。許六の帰藩はもう少し後の五月になる。
「風流のまこと」は芭蕉の教えだが、折からの時鳥の季節で時鳥の一声のように貴重な一言です、と世話になった芭蕉への挨拶になる。
これに対し芭蕉は、旅の草鞋に雪のような卯の花を添える。特に寓意はない。
春風や麦の中行水の音 木導
かげろふいさむ花の糸口 芭蕉
春風にそよぐ麦畑に水の流れる音が聞こえるという長閑な農村風景に、陽炎が奮い立ち、桜が咲くのももうすぐだと時候を添える。
木導は許六と同様彦根の人で、『風俗文選』の作者列伝に、
「木導者。江州亀城之武士也。直江氏。自号阿山人蕉門之英才也。師翁称奇異逸物。」
とある。「江州亀城」は近江国彦根城のこと。
芭蕉の元禄六年五月四日付許六宛書簡に、
「木道麦脇付申候。第三可然事無御座候間、貴様静に御案候而御書付可被成候。」
とある。木導が春に詠んだ「春風や」の発句に脇を付けたので、第三を付けるようにということだが、この第三がどうなったのかはよくわからない。このあたりのことは以前に『俳諧問答』を読んだとき(二〇一九年三月十日)に書いた。
三吟
帷子は日々にすさまじ鵙の声 史邦
籾壹舛を稲のこき賃 芭蕉
七月の史邦、芭蕉、岱水による三吟歌仙興行の脇。
一重の帷子では日々寒くなる、そんな頃モズが鳴いている。
これを芭蕉は稲刈りの頃とし、脱穀の作業をした人に籾一升の給与を出すとする。
脱穀は元禄期に千歯こきが発明されたとはいえ、一般にはまだ普及してなかったのだろう。それ以前は竹製の箸のようなものを用いてたため、時間がかかった。脱穀を手伝うと脱穀したばかりの籾を一升分けてもらえたようだ。これが何割くらいなのかはよくわからない。
芭蕉は経済ネタを得意としたが、ここでは脇に持ってきている。
柴栞の陰士、無絃の琴を翫しを
おもふに、菊も輪の大ならん事を
むさぼり、造化もうばふに及ばじ。
今その菊をまなびて、をのづから
なるを愛すといへ共、家に菊ありて
琴なし。かけたるにあらずやとて、
人見竹洞老人、素琴を送られしより、
是を朝にして、あるは聲なきに聴き、
あるは風にしらべあはせて、
自ほこりぬ
漆せぬ琴や作らぬ菊の友 素堂
葱の笛ふく秋風の薗 芭蕉
十月九日、素堂亭で残菊の宴があり、その時の三吟三物の脇。第三は沾圃が付けている。
無弦の琴というと陶淵明のことが浮かぶ。『荘子』斉物論でも、昭文のような後世にまで名を残すような琴の名人の演奏でも、ひとたび音を出してしまえば、演奏されなかった無数の音がそこなわれるとあり、どんな名演奏も無音にはかなわないというわけだ。ジョン=ケージの「四分三十三秒」が思い浮かぶ。
素堂の発句もその心で、菊も大きければいいというものでもなく、琴も漆を塗らない素琴がいいという。閑花素琴という四字熟語がこの頃あったかどうかはわからないが。この場合の琴は七弦琴であろう。膝の上に乗せて演奏する。
ただ、いかにも風流だぞといった気負いのある発句なので、芭蕉は薗では秋風が葱を吹いて、笛のような音を立てているよ、と天地自然の音楽には叶わないと返す。
雪や散る笠の下なる頭巾迄 杉風
刀の柄にこほる手拭 芭蕉
冬の六吟半歌仙の脇。
「雪や散る」は「雪の散るや」の倒置だが、静かに降り積もるのではなく風に吹雪いている状態だろう。雪は笠の下にも吹き込んできて頭巾まで雪だらけになる、という発句に、刀の柄の雪を払おうとすると手拭までが凍るとする。
刀といっても武士とする必要はない、ここでは脇差か旅刀であろう。
元禄六年
餞別
風流のまことを鳴やほととぎす 凉葉
旅のわらぢに卯の花の雪 芭蕉
元禄六年の四月、芭蕉庵での十吟歌仙興行の脇。餞別の前書きがあり、芭蕉の句も旅の句だが、誰の旅立ちなのかはよくわからない。千川の送別の歌仙は別にあるし、このときには凉葉が参加している。この歌仙が四月九日の出立の前だとしたら、このあと凉葉もどこかへ旅立ったか。許六の帰藩はもう少し後の五月になる。
「風流のまこと」は芭蕉の教えだが、折からの時鳥の季節で時鳥の一声のように貴重な一言です、と世話になった芭蕉への挨拶になる。
これに対し芭蕉は、旅の草鞋に雪のような卯の花を添える。特に寓意はない。
春風や麦の中行水の音 木導
かげろふいさむ花の糸口 芭蕉
春風にそよぐ麦畑に水の流れる音が聞こえるという長閑な農村風景に、陽炎が奮い立ち、桜が咲くのももうすぐだと時候を添える。
木導は許六と同様彦根の人で、『風俗文選』の作者列伝に、
「木導者。江州亀城之武士也。直江氏。自号阿山人蕉門之英才也。師翁称奇異逸物。」
とある。「江州亀城」は近江国彦根城のこと。
芭蕉の元禄六年五月四日付許六宛書簡に、
「木道麦脇付申候。第三可然事無御座候間、貴様静に御案候而御書付可被成候。」
とある。木導が春に詠んだ「春風や」の発句に脇を付けたので、第三を付けるようにということだが、この第三がどうなったのかはよくわからない。このあたりのことは以前に『俳諧問答』を読んだとき(二〇一九年三月十日)に書いた。
三吟
帷子は日々にすさまじ鵙の声 史邦
籾壹舛を稲のこき賃 芭蕉
七月の史邦、芭蕉、岱水による三吟歌仙興行の脇。
一重の帷子では日々寒くなる、そんな頃モズが鳴いている。
これを芭蕉は稲刈りの頃とし、脱穀の作業をした人に籾一升の給与を出すとする。
脱穀は元禄期に千歯こきが発明されたとはいえ、一般にはまだ普及してなかったのだろう。それ以前は竹製の箸のようなものを用いてたため、時間がかかった。脱穀を手伝うと脱穀したばかりの籾を一升分けてもらえたようだ。これが何割くらいなのかはよくわからない。
芭蕉は経済ネタを得意としたが、ここでは脇に持ってきている。
柴栞の陰士、無絃の琴を翫しを
おもふに、菊も輪の大ならん事を
むさぼり、造化もうばふに及ばじ。
今その菊をまなびて、をのづから
なるを愛すといへ共、家に菊ありて
琴なし。かけたるにあらずやとて、
人見竹洞老人、素琴を送られしより、
是を朝にして、あるは聲なきに聴き、
あるは風にしらべあはせて、
自ほこりぬ
漆せぬ琴や作らぬ菊の友 素堂
葱の笛ふく秋風の薗 芭蕉
十月九日、素堂亭で残菊の宴があり、その時の三吟三物の脇。第三は沾圃が付けている。
無弦の琴というと陶淵明のことが浮かぶ。『荘子』斉物論でも、昭文のような後世にまで名を残すような琴の名人の演奏でも、ひとたび音を出してしまえば、演奏されなかった無数の音がそこなわれるとあり、どんな名演奏も無音にはかなわないというわけだ。ジョン=ケージの「四分三十三秒」が思い浮かぶ。
素堂の発句もその心で、菊も大きければいいというものでもなく、琴も漆を塗らない素琴がいいという。閑花素琴という四字熟語がこの頃あったかどうかはわからないが。この場合の琴は七弦琴であろう。膝の上に乗せて演奏する。
ただ、いかにも風流だぞといった気負いのある発句なので、芭蕉は薗では秋風が葱を吹いて、笛のような音を立てているよ、と天地自然の音楽には叶わないと返す。
雪や散る笠の下なる頭巾迄 杉風
刀の柄にこほる手拭 芭蕉
冬の六吟半歌仙の脇。
「雪や散る」は「雪の散るや」の倒置だが、静かに降り積もるのではなく風に吹雪いている状態だろう。雪は笠の下にも吹き込んできて頭巾まで雪だらけになる、という発句に、刀の柄の雪を払おうとすると手拭までが凍るとする。
刀といっても武士とする必要はない、ここでは脇差か旅刀であろう。
2019年11月12日火曜日
今日は満月だが寒月だとか凍月だとかいうほど寒くはない。
昼ごろは強い風も吹いたが木枯らしのような身を切る寒さはない。やはり暖かい。
それでは芭蕉脇集の続き。
元禄五年
名月や篠吹雨の晴をまて 濁子
客にまくらのたらぬ虫の音 芭蕉
八月十五日、名月の夜、大垣藩邸勤番の門人らとの五吟歌仙興行の脇。
発句の「篠吹」は、
今宵誰すず吹く風を身にしめて
吉野の嶽の月を見るらむ
従三位頼政(新古今集)
から来ているとすれば「すずふく」で、すずたけ(篠竹)のこと。
この発句は「名月は篠吹雨の晴をまてや」の倒置だが、頼政の歌を踏まえてるとして読むなら、篠吹く風だけでなく雨まで降っているが、晴れるのを待てば身に染みる名月を見るだろう、という意味になる。
これに対して芭蕉は、たくさんお客さんが来て、雨が止んで名月が見られるのを待っているというのに、枕が足りませんな、と答える。
月代を急ぐやふなり村時雨 千川
小松のかしらならぶ冬山 芭蕉
冬の芭蕉庵での八吟十六句興行の脇。未完なのか花の句がなかったのを、江戸後期の車蓋編『桃の白実』では丈草の十七句目の花の句と千川の挙句が付け加えられている。
発句の「月代」はここでは「さかやき」ではなく「つきしろ」で、月の出の前に東の空が白むこと。暗くなってから月が出るので、十月の満月より後の興行か。
時雨が晴れた時の月は感動的だが、時雨が晴れてもまだ月代だから、もっと早く登ってきてほしいものだと急かしたくなる。句では村時雨が月の出を急かしているようだとするが、急かしているのは人間の方だろう。
芭蕉の脇はその月が登る山の景色を描く。
ひょっとしたら誰か遅刻した人がいて、みんな待っているという寓意があったのかもしれない。
水鳥よ汝は誰を恐るるぞ 兀峰
白頭更に芦静也 芭蕉
これも十月の同じ頃、江戸勤番の備前岡山藩士、兀峰(こっぽう)を芭蕉庵に迎えての四吟歌仙興行の脇。途中から里東が抜けて其角が参加しているが、同じ日なのか日を変えてなのか、事情はよくわからない。
発句は、
水鳥のしたやすからぬ思ひには
あたりの水もこほらざりけり
よみ人しらず(拾遺集)
によるものか。「やすからぬ思ひ」を誰かを恐れているとする。ここに集まっているのは風流の徒で、あんたらを射たりはしないから安心せよ、ということか。
芭蕉の脇の「白頭更に」は杜甫の『春望』の「白頭掻けば更に短く」で、ここにいるのは年寄りだから水鳥も安心して、芦も静かだとなる。
深川の草庵をとぶらひて
寒菊の隣もありやいけ大根 許六
冬さし籠る北窓の煤 芭蕉
これも同じ十月頃で許六、芭蕉、嵐蘭が一句づつ詠み、第三で終っている。
土芳の『三冊子』には、
「此脇、同じ家の事を直に付たる也。内と外の様子也。煤の字有て句とす。」
とある。
許六の「寒菊の」の句は『俳諧問答』にも登場し、
「翁の論じて云ク、世間俳諧するもの、此場所ニ到て案ずるものなしと称し給ふ。」
とある。
いけ大根は土に埋めて保存する大根で、寒菊の隣には大根も埋まっている。冬の花の孤独に咲く姿は寓意もあり、春を待つ冬大根もその寓意に寄り添う。
これに対しての芭蕉の脇は、寒菊といけ大根の外の景色に対し、さし籠る部屋の北窓には火を焚いた煤がこびりついてゆく、と受ける。「さし籠る」は「鎖し籠る」で引き籠るに同じ。
「煤の字有て句とす」というのは、ここに春までの時間の経過が感じられ、いけ大根の春を待つ情に応じているからだろう。
寓意を弱くして、発句の情を受けながらも、前と後、内と外と景を違えて付けるのが、芭蕉の晩年の脇の風だったのだろう。
昼ごろは強い風も吹いたが木枯らしのような身を切る寒さはない。やはり暖かい。
それでは芭蕉脇集の続き。
元禄五年
名月や篠吹雨の晴をまて 濁子
客にまくらのたらぬ虫の音 芭蕉
八月十五日、名月の夜、大垣藩邸勤番の門人らとの五吟歌仙興行の脇。
発句の「篠吹」は、
今宵誰すず吹く風を身にしめて
吉野の嶽の月を見るらむ
従三位頼政(新古今集)
から来ているとすれば「すずふく」で、すずたけ(篠竹)のこと。
この発句は「名月は篠吹雨の晴をまてや」の倒置だが、頼政の歌を踏まえてるとして読むなら、篠吹く風だけでなく雨まで降っているが、晴れるのを待てば身に染みる名月を見るだろう、という意味になる。
これに対して芭蕉は、たくさんお客さんが来て、雨が止んで名月が見られるのを待っているというのに、枕が足りませんな、と答える。
月代を急ぐやふなり村時雨 千川
小松のかしらならぶ冬山 芭蕉
冬の芭蕉庵での八吟十六句興行の脇。未完なのか花の句がなかったのを、江戸後期の車蓋編『桃の白実』では丈草の十七句目の花の句と千川の挙句が付け加えられている。
発句の「月代」はここでは「さかやき」ではなく「つきしろ」で、月の出の前に東の空が白むこと。暗くなってから月が出るので、十月の満月より後の興行か。
時雨が晴れた時の月は感動的だが、時雨が晴れてもまだ月代だから、もっと早く登ってきてほしいものだと急かしたくなる。句では村時雨が月の出を急かしているようだとするが、急かしているのは人間の方だろう。
芭蕉の脇はその月が登る山の景色を描く。
ひょっとしたら誰か遅刻した人がいて、みんな待っているという寓意があったのかもしれない。
水鳥よ汝は誰を恐るるぞ 兀峰
白頭更に芦静也 芭蕉
これも十月の同じ頃、江戸勤番の備前岡山藩士、兀峰(こっぽう)を芭蕉庵に迎えての四吟歌仙興行の脇。途中から里東が抜けて其角が参加しているが、同じ日なのか日を変えてなのか、事情はよくわからない。
発句は、
水鳥のしたやすからぬ思ひには
あたりの水もこほらざりけり
よみ人しらず(拾遺集)
によるものか。「やすからぬ思ひ」を誰かを恐れているとする。ここに集まっているのは風流の徒で、あんたらを射たりはしないから安心せよ、ということか。
芭蕉の脇の「白頭更に」は杜甫の『春望』の「白頭掻けば更に短く」で、ここにいるのは年寄りだから水鳥も安心して、芦も静かだとなる。
深川の草庵をとぶらひて
寒菊の隣もありやいけ大根 許六
冬さし籠る北窓の煤 芭蕉
これも同じ十月頃で許六、芭蕉、嵐蘭が一句づつ詠み、第三で終っている。
土芳の『三冊子』には、
「此脇、同じ家の事を直に付たる也。内と外の様子也。煤の字有て句とす。」
とある。
許六の「寒菊の」の句は『俳諧問答』にも登場し、
「翁の論じて云ク、世間俳諧するもの、此場所ニ到て案ずるものなしと称し給ふ。」
とある。
いけ大根は土に埋めて保存する大根で、寒菊の隣には大根も埋まっている。冬の花の孤独に咲く姿は寓意もあり、春を待つ冬大根もその寓意に寄り添う。
これに対しての芭蕉の脇は、寒菊といけ大根の外の景色に対し、さし籠る部屋の北窓には火を焚いた煤がこびりついてゆく、と受ける。「さし籠る」は「鎖し籠る」で引き籠るに同じ。
「煤の字有て句とす」というのは、ここに春までの時間の経過が感じられ、いけ大根の春を待つ情に応じているからだろう。
寓意を弱くして、発句の情を受けながらも、前と後、内と外と景を違えて付けるのが、芭蕉の晩年の脇の風だったのだろう。
2019年11月11日月曜日
西洋以外で、文化も伝統も大きく異なるにもかかわらず、日本はいち早く近代化に成功し、民主主義も根付くことができた
しかもキリスト教のような一神教の文化を取り入れるでもなく、多神教の風土のまま近代化できたというのは、やはり奇跡なのかもしれない。
かつての新興国も、中国を筆頭にロシア、トルコ、韓国といった国が時代に逆行するようなことをする中、日本が違っていたのは、かつて和、漢、印度の文化を並存させてきたその延長で西洋の文化もうまく並存させることができたからかもしれない。
これは多言語環境に育った人が新しい外国語を容易に付け加えることができるのに似ているかもしれない。多文化環境を作るというのが、これからの世界の一つの課題になるだろう。
多文化を並存させるには、矛盾を気にしないということが大事だ。人間は矛盾した生き物で、人生に矛盾は付き物と、それくらいに考え、あまり統一ということにこだわらない方がいい。
混沌は万物の母。混沌を恐れるな。
それでは芭蕉脇集の続き。
元禄四年
芽出しより二葉に茂る柿ノ実 史邦
畠の塵にかかる卯の花 芭蕉
『嵯峨日記』の中に見られる句。
四月二十五日、落柿舎にやってきた史邦が披露した発句に、翌二十六日、この句に芭蕉が脇を付け、去来が第三、丈草が四句目、乙州が五句目を付けている。
発句の「柿ノ実」は「かきのさね」と読む。果実の中心にある枝のことで、やがて果実が実るであろう新芽の枝と思われる。
柿の芽は対生で分厚く幅の広い葉が二枚向かい合って生え、その付け根の所に蕾ができ、やがて花が咲き、実となる。落柿舎だけにちゃんと実って欲しいものだ。
これに対し、芭蕉の脇は「卯の花の塵の畠にかかる」の複雑な倒置で、柿の若葉の緑に卯の花の白を添える。
蠅ならぶはや初秋の日数かな 去来
葛も裏ふくかたびらの皺 芭蕉
七月中旬、京での五吟歌仙興行。メンバーは去来、芭蕉、路通、丈草、惟然。「牛部屋に」の巻と同じ頃のもの。ここでも路通は芭蕉の次に来ていて、去来とは当たらないようにしている。
夏の五月蝿い蠅も初秋も何日か過ぎるとおとなしく並んで留まっている。別に蠅が誰というわけではないし、特に寓意はない。
芭蕉の脇は、葛の葉が秋風に裏返るように、帷子にも皺が寄ると付ける。初秋から秋風を連想するが、風と言わずして風を表現している。
芭蕉翁行脚の時、予が草戸を扣き
て、作りなす庭に時雨を吟じ、洗
ひ揚たる冬葱の寒さを見侍る折か
らに
木嵐に手をあてて見む一重壁 規外
四日五日の時雨霜月 芭蕉
元禄四年九月二十八日、芭蕉は長い上方滞在を終え、再び江戸に向べく木曽塚無名庵を出る。そして十月三日前後、美濃垂井の規外亭に滞在する。その時の句。
発句の「木嵐」は「こがらし」と読む。薄い壁に手を当てれば、木枯らしに揺れているのが分かる、そんな粗末な家ですという謙虚な句に、芭蕉は特に寓意を返さずに、四日五日時雨が続きましたね、と単なる気候の挨拶にする。
奥庭もなくて冬木の梢かな 露川
小春に首の動くみのむし 芭蕉
十月には名古屋の露川と対面し、露川は入門する。
土芳の『三冊子』に、
「この脇、あたたかなる日のみの虫なり。あるじの貌に客悦のいろを見せたるはたらきを付たる句也。」
とあるように、葉が落ちた木の向こうには透けて見える結構な庭があるわけでもない、と小さな庭を謙遜して詠んだ発句に対し、小春の暖かな日差しに蓑虫も思わず首を出して、冬木の景色を見回しているよ、と応じる。
芭蕉が自分自身を蓑虫に喩え、「客」である芭蕉が「悦のいろを見せ」ている。初対面の挨拶ではこうした寓意のやり取りも生きている。
しかもキリスト教のような一神教の文化を取り入れるでもなく、多神教の風土のまま近代化できたというのは、やはり奇跡なのかもしれない。
かつての新興国も、中国を筆頭にロシア、トルコ、韓国といった国が時代に逆行するようなことをする中、日本が違っていたのは、かつて和、漢、印度の文化を並存させてきたその延長で西洋の文化もうまく並存させることができたからかもしれない。
これは多言語環境に育った人が新しい外国語を容易に付け加えることができるのに似ているかもしれない。多文化環境を作るというのが、これからの世界の一つの課題になるだろう。
多文化を並存させるには、矛盾を気にしないということが大事だ。人間は矛盾した生き物で、人生に矛盾は付き物と、それくらいに考え、あまり統一ということにこだわらない方がいい。
混沌は万物の母。混沌を恐れるな。
それでは芭蕉脇集の続き。
元禄四年
芽出しより二葉に茂る柿ノ実 史邦
畠の塵にかかる卯の花 芭蕉
『嵯峨日記』の中に見られる句。
四月二十五日、落柿舎にやってきた史邦が披露した発句に、翌二十六日、この句に芭蕉が脇を付け、去来が第三、丈草が四句目、乙州が五句目を付けている。
発句の「柿ノ実」は「かきのさね」と読む。果実の中心にある枝のことで、やがて果実が実るであろう新芽の枝と思われる。
柿の芽は対生で分厚く幅の広い葉が二枚向かい合って生え、その付け根の所に蕾ができ、やがて花が咲き、実となる。落柿舎だけにちゃんと実って欲しいものだ。
これに対し、芭蕉の脇は「卯の花の塵の畠にかかる」の複雑な倒置で、柿の若葉の緑に卯の花の白を添える。
蠅ならぶはや初秋の日数かな 去来
葛も裏ふくかたびらの皺 芭蕉
七月中旬、京での五吟歌仙興行。メンバーは去来、芭蕉、路通、丈草、惟然。「牛部屋に」の巻と同じ頃のもの。ここでも路通は芭蕉の次に来ていて、去来とは当たらないようにしている。
夏の五月蝿い蠅も初秋も何日か過ぎるとおとなしく並んで留まっている。別に蠅が誰というわけではないし、特に寓意はない。
芭蕉の脇は、葛の葉が秋風に裏返るように、帷子にも皺が寄ると付ける。初秋から秋風を連想するが、風と言わずして風を表現している。
芭蕉翁行脚の時、予が草戸を扣き
て、作りなす庭に時雨を吟じ、洗
ひ揚たる冬葱の寒さを見侍る折か
らに
木嵐に手をあてて見む一重壁 規外
四日五日の時雨霜月 芭蕉
元禄四年九月二十八日、芭蕉は長い上方滞在を終え、再び江戸に向べく木曽塚無名庵を出る。そして十月三日前後、美濃垂井の規外亭に滞在する。その時の句。
発句の「木嵐」は「こがらし」と読む。薄い壁に手を当てれば、木枯らしに揺れているのが分かる、そんな粗末な家ですという謙虚な句に、芭蕉は特に寓意を返さずに、四日五日時雨が続きましたね、と単なる気候の挨拶にする。
奥庭もなくて冬木の梢かな 露川
小春に首の動くみのむし 芭蕉
十月には名古屋の露川と対面し、露川は入門する。
土芳の『三冊子』に、
「この脇、あたたかなる日のみの虫なり。あるじの貌に客悦のいろを見せたるはたらきを付たる句也。」
とあるように、葉が落ちた木の向こうには透けて見える結構な庭があるわけでもない、と小さな庭を謙遜して詠んだ発句に対し、小春の暖かな日差しに蓑虫も思わず首を出して、冬木の景色を見回しているよ、と応じる。
芭蕉が自分自身を蓑虫に喩え、「客」である芭蕉が「悦のいろを見せ」ている。初対面の挨拶ではこうした寓意のやり取りも生きている。
2019年11月10日日曜日
今日は青梅に行った。Zepp Tokyoのある青海ではなく、猫町の青梅を見に行った。
「にゃにゃまがり」という猫の飾りつけのなされた狭い路地やレトロな昔の映画看板、それを猫にしたパロディ看板などが町のあちこちにあり、赤塚不二夫会館、昭和レトロ商品博物館、昭和幻燈館があった。
住吉神社には猫の夷さんと大黒さんがあった。
昨日書いた神は量子だというのは、あながち冗談ではないかもしれない。
ある主張が真実であると同時に偽りであるというのは、価値観の多様性を認めるうえでは欠かせないことだからだ。
人間の思想である以上、完全なものはないし、人それぞれ異なる資質を以て生まれ、異なる体験をしながら育ち、その中で概念を獲得し思想を形成するのだから、一人一人違ってて当然だし、哲学者の数だけ哲学があるのは厳然たる事実だ。
すべての思想は正しいと同時に間違っているという重ね合わせの状態にある。
日本語は大和言葉と漢語と主に西洋の外来語との重ね合わせの上にあり、それぞれを平仮名、漢字、片仮名で区別して表記する。その漢字も、中国由来のものは漢音、印度の仏教由来のものは呉音(稀に唐音)で更に区別してきた。こうして、複数の文化体系を常に頭の中で重ね合わせながら、それぞれの体系を並列処理しながら、最適解を見出してきた。
料理にしても、日本では和洋中華エスニックという複数の料理体系のなかから、そのつど食べたいものを選択する。
陰陽不測はそれが重ね合わせ状態にあるため、決定不能である所によるのではないかと思う。
我々は日々相矛盾する複数の思想体系の中で生きている。それを認め、重ね合わせ、同時に並列処理しながら、日々最適解を求め、意思決定をしている。我々の脳もまた一種の量子コンピュータなのではないかと思う。
西洋にもアンチノミーという考え方がある。人間の理性は必ず矛盾した二つの主張を可能にするという考え方があり、それが古代ギリシャの民主主義や裁判の基礎となっていた。
ただ、ソクラテスは古代ギリシャの多神教的世界観を否定して一神教に傾き(その罪で死刑になった)、プラトンのイデアリズムからキリスト教の受容により民主主義は否定され、王権神授の独裁国家になっていった。
近代に入って民主主義が復活したのは、「万人の万人に対する戦い」という多元主義を容認したことによる。ただ、西洋の民主主義は異なる複数の思想を並列的に思考するのではなく、異なる単一価値観を信じるもの同士の、暴力的な力学的均衡によってのみ成り立つ危うさを残している。
天皇制は何人たりとも実力で王や最高指導者になることを拒否するもので、すべてにおける最高決定は「公議」つまり臣民による並列処理によって行われる。その決定は陰陽不測であり、真実であるとともに偽りでもある。この曖昧さが対立と分断を防いでいる。分断はまつろわぬ者によって引き起こされている。
日本のこのシステムは科学的にも先鋭的なシステムではないかと思う。
君が代は千代に八千代にさざれ石の
いわおとなりて苔のむすまで
それは陰陽不測、決定できないもの、複数の思考の重ね合わせ状態を「君」として、永遠に存続させることをことほぐものではないかと思う。
まあ、長くなってしまったので、今日は芭蕉脇集のほうは一休み。
「にゃにゃまがり」という猫の飾りつけのなされた狭い路地やレトロな昔の映画看板、それを猫にしたパロディ看板などが町のあちこちにあり、赤塚不二夫会館、昭和レトロ商品博物館、昭和幻燈館があった。
住吉神社には猫の夷さんと大黒さんがあった。
昨日書いた神は量子だというのは、あながち冗談ではないかもしれない。
ある主張が真実であると同時に偽りであるというのは、価値観の多様性を認めるうえでは欠かせないことだからだ。
人間の思想である以上、完全なものはないし、人それぞれ異なる資質を以て生まれ、異なる体験をしながら育ち、その中で概念を獲得し思想を形成するのだから、一人一人違ってて当然だし、哲学者の数だけ哲学があるのは厳然たる事実だ。
すべての思想は正しいと同時に間違っているという重ね合わせの状態にある。
日本語は大和言葉と漢語と主に西洋の外来語との重ね合わせの上にあり、それぞれを平仮名、漢字、片仮名で区別して表記する。その漢字も、中国由来のものは漢音、印度の仏教由来のものは呉音(稀に唐音)で更に区別してきた。こうして、複数の文化体系を常に頭の中で重ね合わせながら、それぞれの体系を並列処理しながら、最適解を見出してきた。
料理にしても、日本では和洋中華エスニックという複数の料理体系のなかから、そのつど食べたいものを選択する。
陰陽不測はそれが重ね合わせ状態にあるため、決定不能である所によるのではないかと思う。
我々は日々相矛盾する複数の思想体系の中で生きている。それを認め、重ね合わせ、同時に並列処理しながら、日々最適解を求め、意思決定をしている。我々の脳もまた一種の量子コンピュータなのではないかと思う。
西洋にもアンチノミーという考え方がある。人間の理性は必ず矛盾した二つの主張を可能にするという考え方があり、それが古代ギリシャの民主主義や裁判の基礎となっていた。
ただ、ソクラテスは古代ギリシャの多神教的世界観を否定して一神教に傾き(その罪で死刑になった)、プラトンのイデアリズムからキリスト教の受容により民主主義は否定され、王権神授の独裁国家になっていった。
近代に入って民主主義が復活したのは、「万人の万人に対する戦い」という多元主義を容認したことによる。ただ、西洋の民主主義は異なる複数の思想を並列的に思考するのではなく、異なる単一価値観を信じるもの同士の、暴力的な力学的均衡によってのみ成り立つ危うさを残している。
天皇制は何人たりとも実力で王や最高指導者になることを拒否するもので、すべてにおける最高決定は「公議」つまり臣民による並列処理によって行われる。その決定は陰陽不測であり、真実であるとともに偽りでもある。この曖昧さが対立と分断を防いでいる。分断はまつろわぬ者によって引き起こされている。
日本のこのシステムは科学的にも先鋭的なシステムではないかと思う。
君が代は千代に八千代にさざれ石の
いわおとなりて苔のむすまで
それは陰陽不測、決定できないもの、複数の思考の重ね合わせ状態を「君」として、永遠に存続させることをことほぐものではないかと思う。
まあ、長くなってしまったので、今日は芭蕉脇集のほうは一休み。
2019年11月9日土曜日
今日は神無月の十三夜で、アーモンドのような月が見える。家の前には狸が来ていた。証城寺ではないが、浮かれ出てきたのか。
神様はみんな出雲に行ってしまって留守だけど、神社は七五三で賑わい、新天皇は大嘗祭の儀式を行う。新暦になってから日本の神様は重ね合わせの状態になってしまっている。十月十三日で出雲にいるのと同時に、十一月九日として各神社にいる。神は量子だったか。
冗談はそれくらいにして、芭蕉脇集の続き。
元禄三年
いろいろの名もむつかしや春の草 珍碩
うたれて蝶の夢はさめぬる 芭蕉
元禄三年刊の『ひさご』の所収の歌仙で、芭蕉は脇のみの参加。
土芳の『三冊子』には、
いろいろの名もまぎらはし春の草
うたれて蝶の目をさましぬる
の形で、「此脇は、まぎらはしといふ心の匂に、しきりに蝶のちり乱るる様思ひ入て、けしきを付たる句也。」とある。
以下、十月二十五日の俳話と同じになるが‥‥。
発句の名前のよくわからない春の草(今なら名もなき雑草というところだろう)に対し、まず「うたれて」と来るわけだが、これは「畑打つ」のことだろうか。
「うたれて蝶の目をさましぬる」だと、雑草が掘り起こされて、底に止まって休んでいた蝶は夢から醒めて飛び立つわけで、土芳が言うように「しきりに蝶のちり乱るる様思ひ入て、けしきを付たる句」になる。
ただ、蝶の目を覚ますという所に『荘子』の胡蝶の夢の連想が働くと、これは蝶が飛び立つと同時に、自分自身もはっと打たれたように夢から醒めて元の自分に戻ることになる。「うたれて蝶の夢はさめぬる」の形だと、よりその寓意がはっきりする。
寓意を表に出すのか裏に隠すのか、これは『去来抄』の「大切の柳」にも通じることなのかもしれない。裏に隠すのが正解なら、元禄版の『ひさご』の方が初案で、享保版『ひさご』や『三冊子』の方が改案だったのかもしれない。
市中は物のにほひや夏の月 凡兆
あつしあつしと門々の声 芭蕉
元禄三年六月、京都の凡兆宅での去来を加えた三吟歌仙興行の脇。元禄四年刊の『猿蓑』に収録されることになる。
これも土芳の『三冊子』に、「此脇、匂ひや夏の月、と有を見込て、極暑を顕して見込の心を照す。」とある。
以下、十月二十五日の俳話と重複するが、市中の物の匂いも暑さもあまり有難いものではない。市場の匂いにも夏の月があればと見込む発句に対し、芭蕉も極暑のなかで夏の月があればと見込む、というのが土芳の解釈だ。
ただ、芭蕉はこの頃から脇を形式ばった挨拶にする事に疑問を感じていたのだろう。それは後の「蛍迯行」と同じで、それまでの脇句の常識だと、夏の月が出たのだから、それに対し「涼しい」と付けて主人を持ち上げるものだったところを、あえて「いやー、それにしても暑い」と本音で返す所に新味があったのではないかと思う。
ただ、この「あつしあつし」も発句の「物の匂いや」に同意しているわけだから、失礼にはならない。同意しながらともに「夏の月」の有難さがあればと見込む意味では、土芳の解釈も当を得ている。
灰汁桶の雫やみけりきりぎりす 凡兆
あぶらかすりて宵寝する秋 芭蕉
元禄三年八月下旬、膳所での興行か。凡兆、芭蕉、野水、去来の四吟歌仙で、元禄四年刊の『猿蓑』に収録される。
灰汁(あく)は染色の際の媒染液で、椿や榊を燃やした灰を水で溶いた上澄を用いる。染料につけた布を灰汁に浸して干した時、雫しずくが灰汁桶にぽとぽと垂れ、その雫の音も止むころには日も暮れ、コオロギの声が聞こえてくる。「きりぎりす」はかつてはコオロギのことだった。
この発句に対し、芭蕉は「あぶらかすりて」、つまり行灯の油も底を尽きたということで、仕方ない、まだ宵の口だがもう寝るか、と付ける。
発句が興行開始の頃の状況を詠んだだけの句で、特に寓意もないし、芭蕉の脇も興行の開始とは関係なく宵寝してしまっている。
景を添えるという連歌の時代の脇の原点に返ったような句で、これ以降こういう脇が多くなる。
鳶の羽も刷ぬはつしぐれ 去来
一ふき風の木の葉しづまる 芭蕉
「刷ぬ」は「かひつくろひぬ」と読む。元禄三年十一月、京都での芭蕉、去来、凡兆、史邦による四吟歌仙で、これも『猿蓑』に収められることになる。
鳶が時雨に濡れた羽をつくろっているという発句は、当座の興ではなく、それに風が一吹きした後木の葉も静かになる景を付ける。いずれも寓意は感じられない。時雨の後の羽繕いに風の後の静まる木の葉と響きで付けている。
神様はみんな出雲に行ってしまって留守だけど、神社は七五三で賑わい、新天皇は大嘗祭の儀式を行う。新暦になってから日本の神様は重ね合わせの状態になってしまっている。十月十三日で出雲にいるのと同時に、十一月九日として各神社にいる。神は量子だったか。
冗談はそれくらいにして、芭蕉脇集の続き。
元禄三年
いろいろの名もむつかしや春の草 珍碩
うたれて蝶の夢はさめぬる 芭蕉
元禄三年刊の『ひさご』の所収の歌仙で、芭蕉は脇のみの参加。
土芳の『三冊子』には、
いろいろの名もまぎらはし春の草
うたれて蝶の目をさましぬる
の形で、「此脇は、まぎらはしといふ心の匂に、しきりに蝶のちり乱るる様思ひ入て、けしきを付たる句也。」とある。
以下、十月二十五日の俳話と同じになるが‥‥。
発句の名前のよくわからない春の草(今なら名もなき雑草というところだろう)に対し、まず「うたれて」と来るわけだが、これは「畑打つ」のことだろうか。
「うたれて蝶の目をさましぬる」だと、雑草が掘り起こされて、底に止まって休んでいた蝶は夢から醒めて飛び立つわけで、土芳が言うように「しきりに蝶のちり乱るる様思ひ入て、けしきを付たる句」になる。
ただ、蝶の目を覚ますという所に『荘子』の胡蝶の夢の連想が働くと、これは蝶が飛び立つと同時に、自分自身もはっと打たれたように夢から醒めて元の自分に戻ることになる。「うたれて蝶の夢はさめぬる」の形だと、よりその寓意がはっきりする。
寓意を表に出すのか裏に隠すのか、これは『去来抄』の「大切の柳」にも通じることなのかもしれない。裏に隠すのが正解なら、元禄版の『ひさご』の方が初案で、享保版『ひさご』や『三冊子』の方が改案だったのかもしれない。
市中は物のにほひや夏の月 凡兆
あつしあつしと門々の声 芭蕉
元禄三年六月、京都の凡兆宅での去来を加えた三吟歌仙興行の脇。元禄四年刊の『猿蓑』に収録されることになる。
これも土芳の『三冊子』に、「此脇、匂ひや夏の月、と有を見込て、極暑を顕して見込の心を照す。」とある。
以下、十月二十五日の俳話と重複するが、市中の物の匂いも暑さもあまり有難いものではない。市場の匂いにも夏の月があればと見込む発句に対し、芭蕉も極暑のなかで夏の月があればと見込む、というのが土芳の解釈だ。
ただ、芭蕉はこの頃から脇を形式ばった挨拶にする事に疑問を感じていたのだろう。それは後の「蛍迯行」と同じで、それまでの脇句の常識だと、夏の月が出たのだから、それに対し「涼しい」と付けて主人を持ち上げるものだったところを、あえて「いやー、それにしても暑い」と本音で返す所に新味があったのではないかと思う。
ただ、この「あつしあつし」も発句の「物の匂いや」に同意しているわけだから、失礼にはならない。同意しながらともに「夏の月」の有難さがあればと見込む意味では、土芳の解釈も当を得ている。
灰汁桶の雫やみけりきりぎりす 凡兆
あぶらかすりて宵寝する秋 芭蕉
元禄三年八月下旬、膳所での興行か。凡兆、芭蕉、野水、去来の四吟歌仙で、元禄四年刊の『猿蓑』に収録される。
灰汁(あく)は染色の際の媒染液で、椿や榊を燃やした灰を水で溶いた上澄を用いる。染料につけた布を灰汁に浸して干した時、雫しずくが灰汁桶にぽとぽと垂れ、その雫の音も止むころには日も暮れ、コオロギの声が聞こえてくる。「きりぎりす」はかつてはコオロギのことだった。
この発句に対し、芭蕉は「あぶらかすりて」、つまり行灯の油も底を尽きたということで、仕方ない、まだ宵の口だがもう寝るか、と付ける。
発句が興行開始の頃の状況を詠んだだけの句で、特に寓意もないし、芭蕉の脇も興行の開始とは関係なく宵寝してしまっている。
景を添えるという連歌の時代の脇の原点に返ったような句で、これ以降こういう脇が多くなる。
鳶の羽も刷ぬはつしぐれ 去来
一ふき風の木の葉しづまる 芭蕉
「刷ぬ」は「かひつくろひぬ」と読む。元禄三年十一月、京都での芭蕉、去来、凡兆、史邦による四吟歌仙で、これも『猿蓑』に収められることになる。
鳶が時雨に濡れた羽をつくろっているという発句は、当座の興ではなく、それに風が一吹きした後木の葉も静かになる景を付ける。いずれも寓意は感じられない。時雨の後の羽繕いに風の後の静まる木の葉と響きで付けている。
2019年11月7日木曜日
日本の現代美術も衰退が著しいせいか、最近ではほとんど炎上商法に成り下がっている。確かに右翼が騒げばマスコミも取り上げ、話題になるには違いない。ただ、結局今の日本の現代美術はその程度のものかということにもなりかねない。程々にしておいたほうが良いと思う。
風刺ネタはあくまで人を嘲笑する勝ち誇った笑いで、あるあるネタのような共感でもって人と人とを繋ぐ笑いとは質を異にする。
あと、あいちトリカエナハーレ、パヨクの猿真似じゃないか。芭蕉は「像(かたち)花にあらざる時は夷狄にひとし。」と言ったが、あれのどこに花があるのかな。
まあ、それはともかく芭蕉脇集、元禄二年の続き。
翁を一夜とどめて
寝る迄の名残也けり秋の蚊帳 小春
あたら月夜の庇さし切 芭蕉
『奥の細道』の旅で七月十六日から二十四日まで金沢の宮竹や喜左衛門方で過ごす。『校本芭蕉全集』第四巻(宮本三郎校注、1964、角川書店)の注によると、喜左衛門は旅宿業で小春はその子だという。
「一夜とどめて」とあるから、七月十七日の吟か。曾良の『旅日記』よると、この日芭蕉は源意庵へ遊び、曾良は病気で留守番だったようだ。このときの病気が八月五日の山中温泉での別れにつながるのか。
発句は前日の夜を思い出しての句であろう。蚊帳を吊った中で芭蕉、曾良、北枝らと遅くまで話し込んで、遅くなってから寝たのだろう。その寝るまでの楽しかったことを思い出して、秋の蚊帳がその名残を留めている。
これに対して芭蕉は月夜なのに庇を閉ざしてしまったのが悔やまれる、とする。事実をそのまま付けたのであろう。
このあと、曾良が第三を詠み、北枝が四句目を詠んでいる。
ばせを、いせの国におもむけるを
舟にて送り、長嶋といふ江によせ
て立わかれし時、荻ふして見送り
遠き別哉 木因。同時船中の興に
秋の暮行さきざきの苫屋哉 木因
萩に寝ようか荻にねようか 芭蕉
八月二十一日、芭蕉は途中で迎えにきた路通とともに大垣に着き、九月四日には病気で先に帰った曾良とも合流することになる。
そして九月六日には伊勢へと向う船に乗る。これはその時の船の中での吟。
この句は土芳の『三冊子』にも、「此脇、発句の心の末を直に付たる句なり。」とある。
行く先々に萩や荻が付き、苫屋に寝るが付く。萩と荻は字が似ていて紛らわしいし、苫屋に泊るというところには謡曲『松風』の在原行平の俤も感じられる。
草箒かばかり老の家の雪 智月
火桶をつつむ墨染のきぬ 芭蕉
『奥の細道』の旅も伊勢で終わり、芭蕉は一度故郷の伊賀に戻る。このときあの「初しぐれ猿も小蓑をほしげなり 芭蕉」の句が生まれる。そしてそのあと芭蕉は奈良から京都へ行き、十二月には大津の智月宅を訪ねる。
そこでまず芭蕉の方から、
少将のあまの咄や志賀の雪 芭蕉
と挨拶する。少将の尼は藻壁門院少将(そうへきもんいんのしょうしょう)のことで、藤原信実の娘。鎌倉時代の人。
関白左大臣家百首歌よみ侍りけるに
おのがねにつらき別れはありとだに
思ひもしらで鳥や鳴くらむ
藻壁門院少将(新勅撰集)
の歌が代表作といえよう。この歌を以てして「おのがねの少将」と呼ばれている。芭蕉も智月に「おのがねの少将」のような恋物語を期待したのだろうか。智月は、
少将のあまの咄や志賀の雪
あなたは真砂爰はこがらし 智月
と返す。
真砂というと、
君が代の年の数をば白妙の
浜の真砂と誰かしきけむ
紀貫之(新古今集)
の賀歌のように、砂の数を歳の数に喩え、長寿をことほぐのに用いられる。芭蕉は寛永二十一年(一六四四)生まれで、智月は寛永十年(一六三三)頃の生まれとされている。年齢からすると智月の方が一回り以上上になる。
智月の脇はその年齢差のことをネタにして、あなたはまだこれから長生きするでしょう。でも私は木枯らしで先がない。まあ、少将の尼に喩えてくれるのは嬉しいけど歳が違いすぎますよ、という返しだったのだろう。
もっとも、芭蕉はこの五年後に亡くなるのに対し、智月の方は 享保三年(一七一八年)、八十五歳まで長生きしている。
このあと、智月は、
草箒かばかり老の家の雪 智月
と発句を詠む。草箒しかないような殺風景な雪の積もる家です。という謙虚な句に対し、芭蕉は、
草箒かばかり老の家の雪
火桶をつつむ墨染のきぬ 芭蕉
いえ、その墨染めの衣は火桶を隠し持ってますね。暖かいですね。ここで芭蕉はこの火桶の火に恋の炎を期待していたのかもしれない。まあ、あくまで想像だが。
これは筆者が芭蕉はホモではなく、熟女趣味だったと思う根拠の一つでもある。
風刺ネタはあくまで人を嘲笑する勝ち誇った笑いで、あるあるネタのような共感でもって人と人とを繋ぐ笑いとは質を異にする。
あと、あいちトリカエナハーレ、パヨクの猿真似じゃないか。芭蕉は「像(かたち)花にあらざる時は夷狄にひとし。」と言ったが、あれのどこに花があるのかな。
まあ、それはともかく芭蕉脇集、元禄二年の続き。
翁を一夜とどめて
寝る迄の名残也けり秋の蚊帳 小春
あたら月夜の庇さし切 芭蕉
『奥の細道』の旅で七月十六日から二十四日まで金沢の宮竹や喜左衛門方で過ごす。『校本芭蕉全集』第四巻(宮本三郎校注、1964、角川書店)の注によると、喜左衛門は旅宿業で小春はその子だという。
「一夜とどめて」とあるから、七月十七日の吟か。曾良の『旅日記』よると、この日芭蕉は源意庵へ遊び、曾良は病気で留守番だったようだ。このときの病気が八月五日の山中温泉での別れにつながるのか。
発句は前日の夜を思い出しての句であろう。蚊帳を吊った中で芭蕉、曾良、北枝らと遅くまで話し込んで、遅くなってから寝たのだろう。その寝るまでの楽しかったことを思い出して、秋の蚊帳がその名残を留めている。
これに対して芭蕉は月夜なのに庇を閉ざしてしまったのが悔やまれる、とする。事実をそのまま付けたのであろう。
このあと、曾良が第三を詠み、北枝が四句目を詠んでいる。
ばせを、いせの国におもむけるを
舟にて送り、長嶋といふ江によせ
て立わかれし時、荻ふして見送り
遠き別哉 木因。同時船中の興に
秋の暮行さきざきの苫屋哉 木因
萩に寝ようか荻にねようか 芭蕉
八月二十一日、芭蕉は途中で迎えにきた路通とともに大垣に着き、九月四日には病気で先に帰った曾良とも合流することになる。
そして九月六日には伊勢へと向う船に乗る。これはその時の船の中での吟。
この句は土芳の『三冊子』にも、「此脇、発句の心の末を直に付たる句なり。」とある。
行く先々に萩や荻が付き、苫屋に寝るが付く。萩と荻は字が似ていて紛らわしいし、苫屋に泊るというところには謡曲『松風』の在原行平の俤も感じられる。
草箒かばかり老の家の雪 智月
火桶をつつむ墨染のきぬ 芭蕉
『奥の細道』の旅も伊勢で終わり、芭蕉は一度故郷の伊賀に戻る。このときあの「初しぐれ猿も小蓑をほしげなり 芭蕉」の句が生まれる。そしてそのあと芭蕉は奈良から京都へ行き、十二月には大津の智月宅を訪ねる。
そこでまず芭蕉の方から、
少将のあまの咄や志賀の雪 芭蕉
と挨拶する。少将の尼は藻壁門院少将(そうへきもんいんのしょうしょう)のことで、藤原信実の娘。鎌倉時代の人。
関白左大臣家百首歌よみ侍りけるに
おのがねにつらき別れはありとだに
思ひもしらで鳥や鳴くらむ
藻壁門院少将(新勅撰集)
の歌が代表作といえよう。この歌を以てして「おのがねの少将」と呼ばれている。芭蕉も智月に「おのがねの少将」のような恋物語を期待したのだろうか。智月は、
少将のあまの咄や志賀の雪
あなたは真砂爰はこがらし 智月
と返す。
真砂というと、
君が代の年の数をば白妙の
浜の真砂と誰かしきけむ
紀貫之(新古今集)
の賀歌のように、砂の数を歳の数に喩え、長寿をことほぐのに用いられる。芭蕉は寛永二十一年(一六四四)生まれで、智月は寛永十年(一六三三)頃の生まれとされている。年齢からすると智月の方が一回り以上上になる。
智月の脇はその年齢差のことをネタにして、あなたはまだこれから長生きするでしょう。でも私は木枯らしで先がない。まあ、少将の尼に喩えてくれるのは嬉しいけど歳が違いすぎますよ、という返しだったのだろう。
もっとも、芭蕉はこの五年後に亡くなるのに対し、智月の方は 享保三年(一七一八年)、八十五歳まで長生きしている。
このあと、智月は、
草箒かばかり老の家の雪 智月
と発句を詠む。草箒しかないような殺風景な雪の積もる家です。という謙虚な句に対し、芭蕉は、
草箒かばかり老の家の雪
火桶をつつむ墨染のきぬ 芭蕉
いえ、その墨染めの衣は火桶を隠し持ってますね。暖かいですね。ここで芭蕉はこの火桶の火に恋の炎を期待していたのかもしれない。まあ、あくまで想像だが。
これは筆者が芭蕉はホモではなく、熟女趣味だったと思う根拠の一つでもある。
2019年11月6日水曜日
ようやく晴天が続くようになった。それとともに気温も下がってきた。
今日の月は半月よりわずかに膨らんでいる。
それでは芭蕉脇集。
元禄二年
松島行脚の餞別
月花を両の袂の色香哉 露沾
蛙のからに身を入る声 芭蕉
前に『笈の小文』の旅のときにも餞別をくれた露沾だが、『奥の細道』の旅のときにも餞別句を詠んでいる。
『奥の細道』に「むつまじきかぎりは宵よりつどひて、船に乗て送る。」とあるから、旅立ちの前の晩の杉風採茶庵での吟かもしれない。
芭蕉庵から採茶庵に移る時に「表八句を庵の柱に懸置」とあるから、このとき集まったのは芭蕉を入れて八人だったか。
「色香」は今日では女の色っぽい様子をいうが、ここでは文字通り色と香りの意味であろう。ただ、「月花を両の袂」とは言っても、松島の月を見るのは一つの目的だし、やがて名月の季節も来るのは分かる。だが花(桜)の方は旅立ちのときにはもう散っていたし、来年の花ということもないだろう。それでも、月花を両方持っているかのような芭蕉さんの旅姿です、と褒めはやす。
これに対して芭蕉の脇だが、実は知らなかったが蛙も脱皮をするという。ただ、その皮は薄くてすぐに食べてしまうらしい。
まあ、月花を袂になんて、そんなカッコいいものではなく、蛙の抜け殻をかぶっているだけです、と答える。蛙は古今集仮名序の、
「はなになくうぐひす、みづにすむかはづのこゑをきけば、いきとしいけるものいづれかうたをよまざりける。」
から歌詠みの象徴ともされ、
手をついて歌申しあぐる蛙かな 宗鑑
と俳諧の祖も詠んでいる。その後は俳諧師も歌詠みの一種として蛙に象徴的に表わされるようになった。
延宝四年の句に、
此梅に牛も初音と鳴つべし
ましてや蛙人間の作 信章
とあるのも、蛙を俳諧師の象徴として用いている。
古池の句を記念して作られた『蛙合』も芭蕉の門人達がそれぞれ蛙を詠むことで、大勢の蛙(俳諧師)の集まりをアピールするものとなっている。
だから、自分を蛙に喩えることは、謙虚なようでいて俳諧師としての誇りを感じさせる。ただ、「蛙のから」としたところは、後の元禄六年の歳旦、
年々や猿に着せたる猿の面 芭蕉
に通じるものがある。
この日や田植の日也と、めなれぬ
ことぶきなど有て、まうけせられ
けるに、
旅衣早苗に包食乞ん 曾良
いたかの鞁あやめ折すな 芭蕉
これは『奥の細道』の旅の途中、四月二十四日、須賀川での吟。「包食乞ん」は「つつむめしこわん」と読む。
昔の田植えはお祭で、彭城百川の『田植図』を見ればわかるように、烏帽子をかぶった神主のような人が幣をもって踊り、横では鼓もあれば笛もある。そんな日だから、旅人にもご馳走をふるまったりしたのだろう。
曾良の発句は、旅人だから旅に持ってゆけるように飯を包んでくれというもので、芭蕉は乞食僧の鞁(鼓)を打って廻るのはいいが、アヤメを折るなよ、と返す。
「いたか」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」には、
「 (「板書(いたか)き」の意か) 乞食坊主の一種。供養のために、板の卒塔婆(そとば)に経文、戒名などを書いて川に流したり、経を読んだりして銭をもらって歩くもの。また、堕落した僧侶を卑しめてもいう。」
とある。また、『校本芭蕉全集』第四巻(宮本三郎校注、1964、角川書店)の注には、
「『いたか』は大黒・夷などの神像を祭り、太神楽などをし祝言を述べて歩く一種の乞食芸人。」
とある。
前の越人との両吟がそうだったが、親しい間柄では形式ばった挨拶のやり取りではなく、こうしたちょっと砕けた調子で脇を付けることもある。
おきふしの麻にあらはす小家かな 清風
狗ほえかかるゆふだちの蓑 芭蕉
『奥の細道』の旅で尾花沢の清風のもとを訪ねたときの句。五月十七日から二十七日まで滞在するが、その間の興行した歌仙が二巻残されている。これはその一つ。
発句は麻畑の麻が揺れ動くと、その合い間に小家が見えるというもので、寓意は感じられない。麻は高さが2.5メートルにもなる。人の視点の高さからすれば家くらい隠れてしまう。
これに対し芭蕉も、その小家の情景を軽く付けているのみで、これも寓意は感じられない。
新庄
御尋に我宿せばし破れ蚊や 風流
はじめてかほる風の薫物 芭蕉
『奥の細道』の旅の途中、六月二日、新庄での七吟歌仙興行の発句と脇。
風流は尾花沢での「おきふしの」の巻ではない方の「すずしさを我やどにしてねまる也 芭蕉」を発句とする歌仙に参加している。
風流の発句は、せっかく来ていただいたのに、部屋はこのとおり狭く、蚊帳も破れてしまっている、と謙虚な挨拶になっている。
これに対して芭蕉は、破れた蚊帳の中に吹いて来る外の風が、風薫る季節と相成って、薫物のようです、と答える。
羽黒より被贈
忘るなよ虹に蝉鳴山の雪 會覚
杉の茂りをかへり三ヶ月 芭蕉
六月の中旬から下旬、酒田での吟。以前にこの俳話で、曾良の『旅日記』に、
「十八日 快晴。早朝、橋迄行、鳥海山ノ晴嵐ヲ見ル。飯終テ立。アイ風吹テ山海快。暮ニ及テ、酒田ニ着。」
とある、この時の吟ではないかという推測を述べたことがあった。
会覚の発句は曾良の『旅日記』の、
「十三日 川船ニテ坂田ニ趣。船ノ上七里也。陸五里成ト。出船ノ砌、羽黒ヨリ飛脚、旅行ノ帳面被調、被遣。又、ゆかた二ツ被贈。亦、発句共も被為見。」
の時の発句と思われる。虹に蝉鳴く月山の雪を忘れないでくれ、というもの。
これに対し芭蕉は、かえり見ると三日月を掛けて、あの杉の山の上に見た三日月のことは今でも忘れませんと答える。
今日の月は半月よりわずかに膨らんでいる。
それでは芭蕉脇集。
元禄二年
松島行脚の餞別
月花を両の袂の色香哉 露沾
蛙のからに身を入る声 芭蕉
前に『笈の小文』の旅のときにも餞別をくれた露沾だが、『奥の細道』の旅のときにも餞別句を詠んでいる。
『奥の細道』に「むつまじきかぎりは宵よりつどひて、船に乗て送る。」とあるから、旅立ちの前の晩の杉風採茶庵での吟かもしれない。
芭蕉庵から採茶庵に移る時に「表八句を庵の柱に懸置」とあるから、このとき集まったのは芭蕉を入れて八人だったか。
「色香」は今日では女の色っぽい様子をいうが、ここでは文字通り色と香りの意味であろう。ただ、「月花を両の袂」とは言っても、松島の月を見るのは一つの目的だし、やがて名月の季節も来るのは分かる。だが花(桜)の方は旅立ちのときにはもう散っていたし、来年の花ということもないだろう。それでも、月花を両方持っているかのような芭蕉さんの旅姿です、と褒めはやす。
これに対して芭蕉の脇だが、実は知らなかったが蛙も脱皮をするという。ただ、その皮は薄くてすぐに食べてしまうらしい。
まあ、月花を袂になんて、そんなカッコいいものではなく、蛙の抜け殻をかぶっているだけです、と答える。蛙は古今集仮名序の、
「はなになくうぐひす、みづにすむかはづのこゑをきけば、いきとしいけるものいづれかうたをよまざりける。」
から歌詠みの象徴ともされ、
手をついて歌申しあぐる蛙かな 宗鑑
と俳諧の祖も詠んでいる。その後は俳諧師も歌詠みの一種として蛙に象徴的に表わされるようになった。
延宝四年の句に、
此梅に牛も初音と鳴つべし
ましてや蛙人間の作 信章
とあるのも、蛙を俳諧師の象徴として用いている。
古池の句を記念して作られた『蛙合』も芭蕉の門人達がそれぞれ蛙を詠むことで、大勢の蛙(俳諧師)の集まりをアピールするものとなっている。
だから、自分を蛙に喩えることは、謙虚なようでいて俳諧師としての誇りを感じさせる。ただ、「蛙のから」としたところは、後の元禄六年の歳旦、
年々や猿に着せたる猿の面 芭蕉
に通じるものがある。
この日や田植の日也と、めなれぬ
ことぶきなど有て、まうけせられ
けるに、
旅衣早苗に包食乞ん 曾良
いたかの鞁あやめ折すな 芭蕉
これは『奥の細道』の旅の途中、四月二十四日、須賀川での吟。「包食乞ん」は「つつむめしこわん」と読む。
昔の田植えはお祭で、彭城百川の『田植図』を見ればわかるように、烏帽子をかぶった神主のような人が幣をもって踊り、横では鼓もあれば笛もある。そんな日だから、旅人にもご馳走をふるまったりしたのだろう。
曾良の発句は、旅人だから旅に持ってゆけるように飯を包んでくれというもので、芭蕉は乞食僧の鞁(鼓)を打って廻るのはいいが、アヤメを折るなよ、と返す。
「いたか」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」には、
「 (「板書(いたか)き」の意か) 乞食坊主の一種。供養のために、板の卒塔婆(そとば)に経文、戒名などを書いて川に流したり、経を読んだりして銭をもらって歩くもの。また、堕落した僧侶を卑しめてもいう。」
とある。また、『校本芭蕉全集』第四巻(宮本三郎校注、1964、角川書店)の注には、
「『いたか』は大黒・夷などの神像を祭り、太神楽などをし祝言を述べて歩く一種の乞食芸人。」
とある。
前の越人との両吟がそうだったが、親しい間柄では形式ばった挨拶のやり取りではなく、こうしたちょっと砕けた調子で脇を付けることもある。
おきふしの麻にあらはす小家かな 清風
狗ほえかかるゆふだちの蓑 芭蕉
『奥の細道』の旅で尾花沢の清風のもとを訪ねたときの句。五月十七日から二十七日まで滞在するが、その間の興行した歌仙が二巻残されている。これはその一つ。
発句は麻畑の麻が揺れ動くと、その合い間に小家が見えるというもので、寓意は感じられない。麻は高さが2.5メートルにもなる。人の視点の高さからすれば家くらい隠れてしまう。
これに対し芭蕉も、その小家の情景を軽く付けているのみで、これも寓意は感じられない。
新庄
御尋に我宿せばし破れ蚊や 風流
はじめてかほる風の薫物 芭蕉
『奥の細道』の旅の途中、六月二日、新庄での七吟歌仙興行の発句と脇。
風流は尾花沢での「おきふしの」の巻ではない方の「すずしさを我やどにしてねまる也 芭蕉」を発句とする歌仙に参加している。
風流の発句は、せっかく来ていただいたのに、部屋はこのとおり狭く、蚊帳も破れてしまっている、と謙虚な挨拶になっている。
これに対して芭蕉は、破れた蚊帳の中に吹いて来る外の風が、風薫る季節と相成って、薫物のようです、と答える。
羽黒より被贈
忘るなよ虹に蝉鳴山の雪 會覚
杉の茂りをかへり三ヶ月 芭蕉
六月の中旬から下旬、酒田での吟。以前にこの俳話で、曾良の『旅日記』に、
「十八日 快晴。早朝、橋迄行、鳥海山ノ晴嵐ヲ見ル。飯終テ立。アイ風吹テ山海快。暮ニ及テ、酒田ニ着。」
とある、この時の吟ではないかという推測を述べたことがあった。
会覚の発句は曾良の『旅日記』の、
「十三日 川船ニテ坂田ニ趣。船ノ上七里也。陸五里成ト。出船ノ砌、羽黒ヨリ飛脚、旅行ノ帳面被調、被遣。又、ゆかた二ツ被贈。亦、発句共も被為見。」
の時の発句と思われる。虹に蝉鳴く月山の雪を忘れないでくれ、というもの。
これに対し芭蕉は、かえり見ると三日月を掛けて、あの杉の山の上に見た三日月のことは今でも忘れませんと答える。
2019年11月5日火曜日
そういえば一昨日相馬中村神社に寄ったら、神使の馬がいなくなっていて、厩舎も荒れ果てていた。何があったのだろうか。
まあ、それはともかく、芭蕉脇集の続き。
貞享五年
かへし
時雨てや花迄残るひの木笠 園女
宿なき蝶をとむる若草 芭蕉
貞享五年二月、芭蕉が『笈の小文』の旅で伊勢滞在中、園女のもとに招かれたときの句。
園女亭
暖簾の奥もの深し北の梅 芭蕉
松散りなして二月の頃 園女
に対する返しとして園女が発句を詠み、芭蕉が脇を付けている。
「時雨てや」はやはり旅立ちの頃の「旅人と我名よばれん初しぐれ 芭蕉」の句を踏まえたもので、いくたび時雨にあっても檜笠は朽ちることなく、花の季節でもそのままだ、という意味になる。これに対し芭蕉の脇は、時雨や笠の興には付けずに、時分を宿なき蝶に喩え、園女を若草に喩える。
ところどころ見めぐりて、洛に
暫く旅ねせしほど、みのの国より
たびたび消息有て、桑門己百のぬ
しみちしるべせむとて、とぶらひ
来侍りて、
しるべして見せばやみのの田植歌 己百
笠あらためむ不破のさみだれ 芭蕉
芭蕉が『笈の小文』の旅を終え、京に行った時の句。己百は岐阜の妙照寺の住職。土芳の『三冊子』には、「此脇、名所を以て付たる句也。心は不破を越る風流を句としたる也。」とある。
「美濃の田植歌へとご案内しましょうか」という発句に対し、「それじゃあ不破の関の五月雨に備えて笠を新しくしましょう」と答える。
実際に芭蕉はこのあと岐阜へ行き「十八楼ノ記」を書き記している。
どこまでも武蔵野の月影涼し 寸木
水相にたり三またの夏 芭蕉
六月十七日、岐阜の長良川にも近い三ツ又で名古屋の荷兮、越人なども交え、六吟表六句を巻く。
発句は江戸で成功を収めた芭蕉を武蔵野の月に喩え、どこまでも涼しいと称える。
これに対し芭蕉はこの三ツ又の地が深川に似ている、と答える。
茄子絵
見せばやな茄子をちぎる軒の畑 惟然
その葉をかさねおらむ夕顔 芭蕉
同じく六月、惟然が芭蕉の元を訪れ、入門する。
茄子の絵を見ての吟だったか。即興で農家の身に成り代わって詠んだのだろう。
これに芭蕉は、うらぶれた軒端の風景から『源氏物語』の夕顔の家を思い浮かべたか。茄子の大きな葉を重ねて扇を作り、その上に夕顔を折ってのせてみよう、と返す。
雁がねも静にきけばからびずや 越人
酒しゐならふこの比の月 芭蕉
芭蕉は岐阜から越人を連れて『更科紀行』の旅に出、そのまま八月下旬に江戸に戻る。そして九月中旬に越人と両吟歌仙を巻く。これはその時の句。
「からびる」には萎れる、古びて落ち着いた感じになる、声がしゃがれるといった意味がある。どれでも当てはまりそうだ。
雁の声も静かに聴けば、萎れることもなく声も澄んで、古びて落ち着いた感じになる(この場合だけ反語になる)。
これに対し芭蕉は、酒を勧められることにも慣れたな、と返す。両吟で、長くともに旅をした間柄だからだろう。無理にお世辞で返すのではなく、自然体で返す。
まあ、それはともかく、芭蕉脇集の続き。
貞享五年
かへし
時雨てや花迄残るひの木笠 園女
宿なき蝶をとむる若草 芭蕉
貞享五年二月、芭蕉が『笈の小文』の旅で伊勢滞在中、園女のもとに招かれたときの句。
園女亭
暖簾の奥もの深し北の梅 芭蕉
松散りなして二月の頃 園女
に対する返しとして園女が発句を詠み、芭蕉が脇を付けている。
「時雨てや」はやはり旅立ちの頃の「旅人と我名よばれん初しぐれ 芭蕉」の句を踏まえたもので、いくたび時雨にあっても檜笠は朽ちることなく、花の季節でもそのままだ、という意味になる。これに対し芭蕉の脇は、時雨や笠の興には付けずに、時分を宿なき蝶に喩え、園女を若草に喩える。
ところどころ見めぐりて、洛に
暫く旅ねせしほど、みのの国より
たびたび消息有て、桑門己百のぬ
しみちしるべせむとて、とぶらひ
来侍りて、
しるべして見せばやみのの田植歌 己百
笠あらためむ不破のさみだれ 芭蕉
芭蕉が『笈の小文』の旅を終え、京に行った時の句。己百は岐阜の妙照寺の住職。土芳の『三冊子』には、「此脇、名所を以て付たる句也。心は不破を越る風流を句としたる也。」とある。
「美濃の田植歌へとご案内しましょうか」という発句に対し、「それじゃあ不破の関の五月雨に備えて笠を新しくしましょう」と答える。
実際に芭蕉はこのあと岐阜へ行き「十八楼ノ記」を書き記している。
どこまでも武蔵野の月影涼し 寸木
水相にたり三またの夏 芭蕉
六月十七日、岐阜の長良川にも近い三ツ又で名古屋の荷兮、越人なども交え、六吟表六句を巻く。
発句は江戸で成功を収めた芭蕉を武蔵野の月に喩え、どこまでも涼しいと称える。
これに対し芭蕉はこの三ツ又の地が深川に似ている、と答える。
茄子絵
見せばやな茄子をちぎる軒の畑 惟然
その葉をかさねおらむ夕顔 芭蕉
同じく六月、惟然が芭蕉の元を訪れ、入門する。
茄子の絵を見ての吟だったか。即興で農家の身に成り代わって詠んだのだろう。
これに芭蕉は、うらぶれた軒端の風景から『源氏物語』の夕顔の家を思い浮かべたか。茄子の大きな葉を重ねて扇を作り、その上に夕顔を折ってのせてみよう、と返す。
雁がねも静にきけばからびずや 越人
酒しゐならふこの比の月 芭蕉
芭蕉は岐阜から越人を連れて『更科紀行』の旅に出、そのまま八月下旬に江戸に戻る。そして九月中旬に越人と両吟歌仙を巻く。これはその時の句。
「からびる」には萎れる、古びて落ち着いた感じになる、声がしゃがれるといった意味がある。どれでも当てはまりそうだ。
雁の声も静かに聴けば、萎れることもなく声も澄んで、古びて落ち着いた感じになる(この場合だけ反語になる)。
これに対し芭蕉は、酒を勧められることにも慣れたな、と返す。両吟で、長くともに旅をした間柄だからだろう。無理にお世辞で返すのではなく、自然体で返す。
2019年11月4日月曜日
昨日は南相馬から飯舘村を通って霊山に行った。今年は紅葉が遅いが、それでも流石にここまで来れば多少は色づいていた。去年は妙義山だったが、今年は随分北まで来た。
飯舘の雪っ娘かぼちゃはほくほくして美味しかった。
それでは芭蕉脇集、貞享四年の続き。
しろがねに蛤をめせ夜の鐘 松江
一羽別るる千どり一群 芭蕉
発句の松江についてはよくわからない。
十吟一巡の興行で、ともに鹿島詣でをした曾良が第三を詠んでいる。
銀をはたいてでも桑名の蛤は食った方が良いということか。もちろんその銀は松江さんからの餞別であろう。
それに対し芭蕉は千鳥の群から一羽だけ別れて旅立つという比喩で返す。
時雨時雨に鎰かり置ん草の庵 挙白
火燵の柴に侘を次人 芭蕉
これも挙白からの餞別句に芭蕉が脇を付けて返したもの。このあと溪石、コ齋、其角、嵐雪、トチらが句を連ね、十句興行にする。
これから時雨の季節になるけど、芭蕉庵の鍵を預り守っていきたい、という発句に、私の代わりに火燵(炬燵)の火に柴をくべて、侘びて過ごしてくれるのでしょうか。と返す。
挙白は後の元禄二年に『奥の細道』の旅に出る芭蕉に、
武隈の松みせもうせ遅桜 挙白
の句を餞別に送っている。挙白は東北の出身の商人で、一度は名取川の橋杭にするために切られてしまった武隈の松が復元されているのを知っていて、あれを見せてあげたい、と詠んでいる。
はせをの翁を知足亭に訪ひ侍りて
めづらしや落葉のころの翁草 如風
衛士の薪を手折冬梅 芭蕉
『笈の小文』の旅に出た芭蕉が、十一月四日には尾張鳴海の知足亭に到着し、翌日には七吟歌仙興行が行われ、如風も出席している。その如風の如意寺如風亭での七吟歌仙興行の時の句。
発句は、芭蕉が翁と呼ばれているところから、この落ち葉の季節に翁草とは珍しい、とする。
翁草は通常はキンポウゲ科の多年草のことで、春に花をつけるが、松や菊の別名でもある。長寿を象徴する植物なら翁に喩えられることもあったのだろう。
芭蕉はこの季節はずれの翁草を梅のこととする。風流に縁のなさそうな衛士が梅を折ったので珍しいと思ったら、薪にしただけだった。
翁草なんてものではありません。狂い咲きの梅の花です、と謙虚のようでいて、風流でないものには価値のわからないという寓意で、自分の価値を主張している。
芭蕉翁もと見給ひし野仁を訪らひ、
三川の国にうつります。所ハ伊羅古
崎白波のよする渚ちかく、ころは
古枯の風頭巾を取る。旅のあハれ
を帰るさに聞て
やき飯や伊羅古の雪にくづれけん 寂照
砂寒かりし我足の跡 芭蕉
芭蕉が『笈の小文』の旅で、伊良胡から鳴海にもどり、十一月十六日に知足亭で越人も交えて表六句が巻かれる。
焼き飯は今日のチャーハンではなく、焼きおにぎりに近い携帯食で、それを持って伊良胡を旅してが、寒さに形も崩れてしまったでしょう、という発句に、冷たい砂の上に足跡を残してきました、と返す。
荷兮子翁を問来て
幾落葉それほど袖も綻びず 荷兮
旅寝の霜を見するあかがり 芭蕉
十一月十八日。名古屋から荷兮・野水が知足亭にやってくる。芭蕉、寂照を交えた四句が残っている。
『野ざらし紀行』の旅で『冬の日』をともに巻いた頃から、幾たびも落ち葉が落ちましたが、袖は綻びていません、要するに俳諧のほうは劣化してません、という発句に芭蕉は、そうですか、こちらは霜の中を旅してあかぎれがひどいのですが、と答える。
同じ月末の五日の日名古や荷兮宅
へ行たまひぬ。同二十六日岐阜の
落梧といへる者、我宿をまねかん
事を願ひて
凩のさむさかさねよ稲葉山 落梧
よき家続く雪の見どころ はせを
『笈の小文』の旅で十一月二十六日、岐阜の落梧と蕉笠が荷兮方へやってきて、荷兮、野水、越人などを含めた八吟歌仙興行が行われる。
稲葉山は今の岐阜の金華山のことで、ここにあった稲葉山城は齋藤道三や織田信長がいたことでも有名だが、慶長六年(一六〇一)廃城になる。
城は今の岐阜市南部の加納に移転し、加納藩になる。この頃は松平光永の時代だった。
そういうわけで稲葉山は木枯らしが吹くだけの何もない山だった。ただ、岐阜は松平家によってよく治まっていて、芭蕉も「よき家続く雪の見どころ」と岐阜の地を称える。
芭蕉老人京までのぼらんとして
熱田にしばしとどまり侍るを訪
ひて、我名よばれんといひけん
旅人の句をきき、歌仙一折
旅人と我見はやさん笠の雪 如行子
盃寒く諷ひさふらへ はせを
十二月一日、熱田桐葉亭へ戻り、大垣の如行と三吟半歌仙が巻かれる。
芭蕉が旅立つ時の、
旅人と我名よばれん初しぐれ 芭蕉
の句を聞いた如行が、芭蕉に「旅人」と見はやさん、と詠む。その笠の雪を見れば、どう見ても旅人でしょう、というわけだ。本当に芭蕉のことを「旅人」と呼んだのかな。
これに対し芭蕉は、謡曲『猩々』の謡のイメージだったのか、実際には寒いけど、
シテ「吹けども吹けども」
地 「更に身には寒むからじ」
シテ「理りやしら菊の」
地 「理りやしら菊の 着せ綿を温めて酒をいざや酌もうよ」
とばかりに謡おうではないか、と返す。
飯舘の雪っ娘かぼちゃはほくほくして美味しかった。
それでは芭蕉脇集、貞享四年の続き。
しろがねに蛤をめせ夜の鐘 松江
一羽別るる千どり一群 芭蕉
発句の松江についてはよくわからない。
十吟一巡の興行で、ともに鹿島詣でをした曾良が第三を詠んでいる。
銀をはたいてでも桑名の蛤は食った方が良いということか。もちろんその銀は松江さんからの餞別であろう。
それに対し芭蕉は千鳥の群から一羽だけ別れて旅立つという比喩で返す。
時雨時雨に鎰かり置ん草の庵 挙白
火燵の柴に侘を次人 芭蕉
これも挙白からの餞別句に芭蕉が脇を付けて返したもの。このあと溪石、コ齋、其角、嵐雪、トチらが句を連ね、十句興行にする。
これから時雨の季節になるけど、芭蕉庵の鍵を預り守っていきたい、という発句に、私の代わりに火燵(炬燵)の火に柴をくべて、侘びて過ごしてくれるのでしょうか。と返す。
挙白は後の元禄二年に『奥の細道』の旅に出る芭蕉に、
武隈の松みせもうせ遅桜 挙白
の句を餞別に送っている。挙白は東北の出身の商人で、一度は名取川の橋杭にするために切られてしまった武隈の松が復元されているのを知っていて、あれを見せてあげたい、と詠んでいる。
はせをの翁を知足亭に訪ひ侍りて
めづらしや落葉のころの翁草 如風
衛士の薪を手折冬梅 芭蕉
『笈の小文』の旅に出た芭蕉が、十一月四日には尾張鳴海の知足亭に到着し、翌日には七吟歌仙興行が行われ、如風も出席している。その如風の如意寺如風亭での七吟歌仙興行の時の句。
発句は、芭蕉が翁と呼ばれているところから、この落ち葉の季節に翁草とは珍しい、とする。
翁草は通常はキンポウゲ科の多年草のことで、春に花をつけるが、松や菊の別名でもある。長寿を象徴する植物なら翁に喩えられることもあったのだろう。
芭蕉はこの季節はずれの翁草を梅のこととする。風流に縁のなさそうな衛士が梅を折ったので珍しいと思ったら、薪にしただけだった。
翁草なんてものではありません。狂い咲きの梅の花です、と謙虚のようでいて、風流でないものには価値のわからないという寓意で、自分の価値を主張している。
芭蕉翁もと見給ひし野仁を訪らひ、
三川の国にうつります。所ハ伊羅古
崎白波のよする渚ちかく、ころは
古枯の風頭巾を取る。旅のあハれ
を帰るさに聞て
やき飯や伊羅古の雪にくづれけん 寂照
砂寒かりし我足の跡 芭蕉
芭蕉が『笈の小文』の旅で、伊良胡から鳴海にもどり、十一月十六日に知足亭で越人も交えて表六句が巻かれる。
焼き飯は今日のチャーハンではなく、焼きおにぎりに近い携帯食で、それを持って伊良胡を旅してが、寒さに形も崩れてしまったでしょう、という発句に、冷たい砂の上に足跡を残してきました、と返す。
荷兮子翁を問来て
幾落葉それほど袖も綻びず 荷兮
旅寝の霜を見するあかがり 芭蕉
十一月十八日。名古屋から荷兮・野水が知足亭にやってくる。芭蕉、寂照を交えた四句が残っている。
『野ざらし紀行』の旅で『冬の日』をともに巻いた頃から、幾たびも落ち葉が落ちましたが、袖は綻びていません、要するに俳諧のほうは劣化してません、という発句に芭蕉は、そうですか、こちらは霜の中を旅してあかぎれがひどいのですが、と答える。
同じ月末の五日の日名古や荷兮宅
へ行たまひぬ。同二十六日岐阜の
落梧といへる者、我宿をまねかん
事を願ひて
凩のさむさかさねよ稲葉山 落梧
よき家続く雪の見どころ はせを
『笈の小文』の旅で十一月二十六日、岐阜の落梧と蕉笠が荷兮方へやってきて、荷兮、野水、越人などを含めた八吟歌仙興行が行われる。
稲葉山は今の岐阜の金華山のことで、ここにあった稲葉山城は齋藤道三や織田信長がいたことでも有名だが、慶長六年(一六〇一)廃城になる。
城は今の岐阜市南部の加納に移転し、加納藩になる。この頃は松平光永の時代だった。
そういうわけで稲葉山は木枯らしが吹くだけの何もない山だった。ただ、岐阜は松平家によってよく治まっていて、芭蕉も「よき家続く雪の見どころ」と岐阜の地を称える。
芭蕉老人京までのぼらんとして
熱田にしばしとどまり侍るを訪
ひて、我名よばれんといひけん
旅人の句をきき、歌仙一折
旅人と我見はやさん笠の雪 如行子
盃寒く諷ひさふらへ はせを
十二月一日、熱田桐葉亭へ戻り、大垣の如行と三吟半歌仙が巻かれる。
芭蕉が旅立つ時の、
旅人と我名よばれん初しぐれ 芭蕉
の句を聞いた如行が、芭蕉に「旅人」と見はやさん、と詠む。その笠の雪を見れば、どう見ても旅人でしょう、というわけだ。本当に芭蕉のことを「旅人」と呼んだのかな。
これに対し芭蕉は、謡曲『猩々』の謡のイメージだったのか、実際には寒いけど、
シテ「吹けども吹けども」
地 「更に身には寒むからじ」
シテ「理りやしら菊の」
地 「理りやしら菊の 着せ綿を温めて酒をいざや酌もうよ」
とばかりに謡おうではないか、と返す。
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