2025年1月31日金曜日

  それでは『雑談集』の続き。

 「露と云ふ字もあそばねば体に成るまじき也。今や俳諧の正風おこなはれて、心の上に巧をかさね、何事も一句に云ひとらずと云ふとなし。
 然ども之をこれぞと手に取りて覚えたる人はなくて、只句作をあやかり行形をまね、それかこれかと紛らはしきばかりなる聞きとり法問なり。
 それいかにと云ふに古風のまッただ中に生れて今は六十にもあまりし人の昔風は申しけれども、今風はえ申されずと卑下せらるるにて知るべし。其書風といへる時の正章重頼立圃宗因一句とてもあだなる句はなし。
 時代蒔絵の堅地にて尤も秘蔵せらる文音とて下地鹿相に年の入らざるは兀げやすく破れやすし。今何の用にたたず。当時の作者此心を得て随分念を入れて工案せよ。千歳の後も至宝也。
 時の用にたてんとて趣向をぬすみ、てにをは人にうち任せさし合ははなひ草にて見合せ、点に長をさへとらばと思ふはいと兀げやすこ事也。
 金銀にて彩りたる筆を以て心の色を分ち侍る覚束なし。方寸の器もの手置き大事なるぞかし。」(雑談集)

 露も「あそばねば」というのは、そのままの露を詠んでも和歌で散々使われた言葉なのでなかなか俳諧らしい新味が出せず、露を白鳥と取り合わせることで、白鳥徳利の酒の露と掛けたり、そういった遊びが必要ということなのだろう。
 正風は芭蕉の蕉風のことと見て良いだろう。古池の句を以ってしてそれまでの謡曲調や奇抜な字余りをやめて本来の和歌に準じた体に戻すということで、掛詞や縁語などの貞門の技法なども復活して、一つの言葉に二重の意(こころ)を持たせたりして一句の中に多くの意味を詰め込むようになった。
 ただ、貞門時代の技術は談林の流行の中で次第に忘れられて行って、形だけ真似ている人も多くなっていた。「聞きとり法問」というのはきちんと勉強しないで聞き齧っただけの仏法知識のようなものということか。
 「古風の真っただ中に」というのは貞門時代を知っている人という意味だろう。芭蕉も伊賀にいた頃は貞門の俳諧を学び、江戸に下る前に季吟から伝授を受けたともいう。
 貞門の頃に活躍した人たちは、談林の流行期に俳諧を止めてしまった人も多かったのか、田氏捨女もそうだし、季吟自身も古典の注釈の方に専念したように思われる。今風の俳諧には着いていけなくなったという所か。
 これは貞門の句が劣ってたということではない。「正章重頼立圃宗因一句とてもあだなる句はなし。」の正章は安原貞室のことで、松江重頼、野々口立圃、西山宗因もみな貞門時代を経験している。
 煌びやかな蒔絵も下地がしっかりしてなくてはすぐにはがれてしまうように、貞門の基礎がしっかりしていれば、談林、天和調、蕉風と時代が変わってもその句の価値は衰えない。「千歳の後も至宝也」と、芭蕉の時代からはまだ千年は経ってないが、近代の西洋化の波の中でも芭蕉の句はしっかりと生き残っている。
 この基礎は単に技巧的なものだけでなく、貞門の俳諧が連歌の心をしっかり引き継いでいて、宗因も連歌師だったことを見ても、くだけた調子の句を詠んでいても季語や歌枕の本意本情、根底にある風雅の心を外すことはなかった。ただ、談林から蕉門へと移り変わる中で、若い世代にはなかなかそれがわかりにくくなっていたのだろう。其角はこの時三十一で、世代的にはおぼつかない、その自戒も込めていたのかもしれない。
 点取り俳諧という言葉は後から名付けられたのではないかと思うが、都市に住む俳諧師の生活は、少なからず弟子を集めて点料を取ることによって成り立っていた。其角もその例外ではない。芭蕉も深川隠居前はそのような生活もしていたのではないかと思うが、点者としてはさほど成功しなかったのが幸いだったのかもしれない。
 芭蕉の正風が名古屋・上方を中心に浸透していく中で、芭蕉が奥の細道に旅立ったあと、江戸は点料で生活する師匠たちの力が強くなっていったのだろう。其角も嵐雪もその波には逆らえなかった。
 ただ、点料で生活してはいても、本来の俳諧はこうではないという意識は、生涯持ち続けたのではないかと思う。芭蕉を大阪で看取った後も、芭蕉とともに過ごした延宝・天和の頃の青春時代はいつまでも甘い思い出だったに違いない。

 『雑談集』はこのあと大山詣の話になり、俳論の方はここで終わりになる。

2025年1月30日木曜日

  今日は二宮の吾妻山公園の菜の花を見に行った。今年は水仙も一緒に咲いて、どちらも見頃になっていた。

 今日は『雑談集』の方はお休み。

2025年1月29日水曜日

 今日はまた寄(やどりき)の蝋梅を見に行った。今回はほぼ満開だった。
 前に来た時には鹿シチューを食べたが、今回は猪汁を食べた。

 それでは『雑談集』の続き。

 「露といふ題は案じては成るまじき也。秋の句の付合にはかろがろしく思ひ寄り侍れども、心を付けてはそれもなりがたし。かの紀行の中に、

 朝露や指にはさまるうつの山   粛山

 これらは自然に云ひおほせたる成るべし。又、

 しら露や無分別なる置き所    梅翁

と観念のうへにかけてはいろへがし。」(雑談集)

 粛山の紀行は不明。東海道の宇津ノ谷峠のある辺りの宇津の山を旅した時の句であろう。「宇都の山で朝露の指に挟まるや」の倒置。朝早く山の中を歩いていると落ちてきた露が指の間に挟まったという、見たものそのまま詠んだと思われる。
 梅翁(宗因)の句は、辺り一面に降りた露を「無分別」という所に俳味がある。「観念」はこの場合、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「観念」の意味・読み・例文・類語」の、

 「① ( ━する ) 仏語。心静かに智慧によって一切を観察すること。また一般に、物事を深く考えること。
  [初出の実例]「親授二灌頂一、誦持観念」(出典:性霊集‐四(835頃)請奉為国家修法表)
  「我、一心に極楽を観念するに」(出典:今昔物語集(1120頃か)一五)」

の意味で、白露の観察によって、その法則の無さを見出し、そこにこの世の定めの無さまでをも感じ取る観念の句になる。
 露は涙などの比喩として用いられることが多く、季語の放り込みにも便利な上、連歌式目でも使用回数が制限されてないため、付け句では多用される。
 例えば「されば爰に談林の木あり梅の花 宗因」を発句とする『談林十百韻』の第一百韻には、

   小男鹿や藁人形におそるらん
 五色の紙に萩の下露       松臼

   つよくいさめし分別の月
 お盃存じの外の露しぐれ     松意

   山門の破損に秋やいたるらん
 手代にまかせをけるしら露    一朝

   諸方のはじめ冷ひえておどろく
 其形こりかたまりて今朝の露   正友

   網引場月の出はには西にあり
 木仏汚す蠣がらの露       雪柴

と「露」は五回用いられている。
 芭蕉・其角の参加した『俳諧次韻』にも、「鷺の足」の巻五十韻に、

   心の猫の月を背ける
 露に寐て且易馴易忘       才丸

   笑の木愁る草の野は眛く
 亦露分る娑婆の古道       揚水

 「春澄にとへ」の巻百韻に、

   月の秋うらみはこべの且夕て
 露にしがらむ妹が落髪      桃青

   月に秋とふ東-金の僧
 淋しさを蕎麦に露干す豆俵    才丸

 「世に有て」の巻百韻に、

   内に寐ても心はきのふ羇旅
 米とぐ音の耳に露けき      揚水

   粟刈敷て団子干す比
 露鶏の羽がひの鷇ひよひよと   揚水

   きたなくて清き隣と住月に
 明て寐御座をかけ渡す露     才丸

   風の月熱の御灵を鎮めける
 黄なる小僧の怪しさよ露     其角

などの句が見られる。

「石菖の露も枯れ葉や水の霜    角
 雫とは似て似ぬものや草の露   幸水

 さまざまに作り分けたる菊の中に飼れて、

 白鳥の碁石になりぬ菊の露    角」(雑談集)

 其角の句は、「石菖の露も(いつしか)枯れ葉の水の霜(となる)や」という言葉の続き方だろうか。文法的には難しい。石菖は寒さに強く冬越しもできるが、霜が降りると葉が茶色くなり枯れたみたいになる。秋の石菖に降りる露は奇麗でも、やがてその露の水は凍って霜に変わる。
 幸水の句は「草の露は雫とは似て似ぬものや」の倒置でわかりやすい。
 比喩で用いられることの多い露も発句では実際の露の興を起こして、その心に迫る方法が望ましい。追悼などの句ではその限りでないが、発句は基本的に季語の心を言い興すものだ。月見の句でも月を見る心が大事で、「月見あるある」は駄目というほどのものではないにせよ、それより一つ格が落ちる。

 白鳥の碁石になりぬ菊の露    其角

の句はいかにも其角らしい難解な句だ。
 問題はこの場合の白鳥が何を意味するかだが、「菊の中に飼われ」とあるから、今日のハクチョウとは思えない。
 和歌では「しらとり」は鷺坂山を導き出すのに用いられている。鷺坂山は今の京都府城陽市久世の辺りの坂道だと言われていて、ハクチョウの棲めそうな池もなさそうなので、しらとりは鷺を導く枕詞としてシラサギをそう呼んでいたのではないかと思われる。
 また、しらとりは鳥羽田にも詠まれる。京都伏見の鳥羽の田んぼで、これも鳥の羽に掛けたものと思われる。
 ハクチョウにせよシラサギにせよ、菊の咲く庭で飼っていたとは思えない。そうなると、ますます謎は深まる。
 ただ、昔は田んぼのある所には溜池は付き物なので、そういった所にハクチョウが飛来してたとしても不思議はない。シラサギとハクチョウの句別は、江戸時代でもツルとコウノトリの句別が曖昧だったように、それほど厳密ではなかったから、「しらとり」から鷺を導き出すのも、そんなに不自然ではあるまい。
 白鳥が文字通りのハクチョウだとすれば、「碁石になりぬ」は白い親鳥と灰色の若鳥の混在した状態だというのが理解できる。旧暦九月くらいだと雛鳥は成長したものの、まだ灰色の毛を残していて、確かにそれを碁石に見立てることも可能だろう。
 もう一つ考えられるのは、白鳥は単なる白い鳥という意味で庭で飼われる鶏か家鴨を意味していた可能性だ。家鴨も時代は下るが鈴木其一『水辺家鴨図』でも白い家鴨と濃色の家鴨とが混ぜて描かれている。これだと飼われていてもおかしくない。
 「菊の露」は菊の花に降りた露の実景として、ハクチョウの白と灰色の混じる池の畔に咲いている景色と見るのが表向きの意味になる。ただ、「菊の露」は重陽の菊の酒を連想させ、酒といえば白磁で出来た徳利のことを白鳥徳利と呼んでたことがまた連想される。
 元禄七年刊の『其便』所収の、

 白鳥の酒を吐くらん花の山    嵐雪

の句は白鳥徳利のことと思われる。
 白鳥がハクチョウなのかアヒルなのかは決定しがたいが、白鳥は白鳥徳利に掛けていて、菊の露に菊の酒の連想が生じることは狙っていたのではないかと思う。アヒルだったら酒の肴にもなる。(ハクチョウも食べてはいたがあまり一般的ではなかった。)

2025年1月28日火曜日

  それでは『雑談集』の続き。

 「なには人福の神を祈りて七人が句を奉る中に、大黒天をいさめ申せと樽ひとつ送られたり。

 年神に樽の口ぬく小槌かな    其角」(雑談集)

 難波人とあるから貞享五年に上方へ行った時のことか。西鶴にも再会している。
 七福神の句を七人に割り振ったのだろう。其角の担当は大黒天で、この場合の「いさめ」は「いさめる」で、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「勇める」の意味・読み・例文・類語」に、

 「〘 他動詞 マ行下一段活用 〙
  [ 文語形 ]いさ・む 〘 他動詞 マ行下二段活用 〙
  ① はげます。力づける。元気づける。
  [初出の実例]「あまりにおくれたれば、いさむる也、とて太刀をさされぬ」(出典:平治物語(1220頃か)中)
  ② 慰める。慰めやわらげる。
  [初出の実例]「廿一むらうちこ共、まつり事をぞはしめける、神をいさめ奉る、我てうにかくれなく」(出典:説経節・あいごの若(山本九兵衛板)(1661)六)」

とある。大黒天を囃し立てるというような意味か。
 大黒天は打ち出の小槌を持っているから、その小槌で酒樽の蓋を割って開けてくれ、となかなか面白く、見事に決まっている。

 「む月三日の暁巴山が夢に衆鼠懐に入ると語る。

 引つれて松をくはゆる鼠かな   仝」(雑談集)

 巴山は『猿蓑』に、

 青草は湯入ながめんあつさかな  江戸 巴山

の句がある。正月三日の明け方に、たくさんの鼠が懐に入ってきた夢を見たという話をしたのだろう。鼠は大黒天の使いで目出度いことには違いない。大黒天を勇むる句と並べたのもそういう意図だろう。
 鼠といえば正月初子の日に小松引きをする。だからそれはきっと、大黒天の使いの鼠たちが小松引きをやって、そのお目出度い松の枝を咥えてやって来たのだろう、と巴山に言ったのだろう。

 「此比落穂の題にて当座句合 沾徳判

 草枕畳のうへもおちほかな    亀翁
 鶏の卵うみすてし落穂かな    角

 鶏を家鳩とおぼして持に成りぬ。
 予おもふに題に合せて穿義すれば、家鳩よく叶へり。一句の体をいふ時は鶏といへる句から宜き也。句からと趣向との狂へる所は予が未練にや。岨のたつ木にゐる鳩鴫たつ沢の鴫いづれも全体の形容うごく事なし。

 真向きなる木兎見えぬ山路かな  子英
 茶の花に画眉ひとつを詠めかな  イセ 柴雫
 鵙なくやはつかあからむ柚の頭  尾州 野水」(雑談集)

 「落穂」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「落穂」の意味・読み・例文・類語」に、

 「① 収穫の際に落ち散ったまま見捨てられている穀物の穂。遺穂。土穂(つぶ)。《 季語・秋 》
  [初出の実例]「うちわびておちぼ拾ふと聞かませば我れも田面に行かましものを」(出典:伊勢物語(10C前)五八)
  ② 落ちた葉、または小枝。
  [初出の実例]「落穂(ヲチボ)松笠など打けぶりたる草の庵」(出典:俳諧・奥の細道(1693‐94頃)松島)」

とあるように、必ずしも稲や麦の穂を意味するのではない。落葉や落ちた枯枝などを指す場合もある。この句合でも①と②のどっちの意味でも良かったのだろう。
 亀翁の句は、旅寝のことを「草枕」とは言うけど、本当に野宿したのは昔の話で、今は宿屋に泊って畳の上に寝たりもする。ただ、畳の材料は藺草だし、藁の上に寝ているようなものだから、これも落穂の上の草枕といっても良いんではないか、といった所だろう。
 其角の句は景色を詠んだ句で、庭鳥は必ずしも鶏ではなく、庭にいる鳥の意味で、それが落葉や枯枝か、やはり藁のイメージがあるのだろうか、そこに卵を生んでそのまま行ってしまった、とする。
 こういうことをするのは鶏ではなく家鳩(今でいうドバト)ではないかということで、引き分けになった。鶏だと負けということか。
 其角も言われてみれば確かに鶏よりも家鳩の方が「あるある」だし、なるほどその方が面白いと思ったのだろう。
 最初は鶏のつもりで作ったが、言われてみると家鳩の方がいいというので、「句からと趣向との狂へる所は予が未練にや」と最初から家鳩で作れなかったのが自分でも残念だったと思ったのだろう。
 「岨のたつ木にゐる鳩」は、

 古畑の岨の立つ木にゐる鳩の
     友呼ぶ声のすごき夕暮れ
            西行法師(新古今集)

 「鴫たつ沢の鴫」は言わずと知れた、

 心なき身にも哀はしられけり
     鴫たつ沢の秋の夕暮
            西行法師(新古今集)

の歌で、こうした歌の鳩や鴫は他の鳥に替えることができない。これを「動くことなし」という。
 その後掲げる三句も、他の鳥に替えることの出来ない句ということで並べたと思われる。

 真向きなる木兎見えぬ山路かな  子英
 茶の花に画眉ひとつを詠めかな  柴雫
 鵙なくやはつかあからむ柚の頭  野水

 木兎はミミヅク。画眉はホオジロで、最近郊外でうるさく鳴いているガビチョウのことではない。鵙はモズ。

2025年1月26日日曜日

  今日の句会の句

 疑うな煌めくものは葉も牡丹
 凍月の粒子金銀降る夜かな
 水仙は星蝋梅は月の露

 それでは『雑談集』の続き。

 「自性といふ題にて

 安心の僧もかなしや秋のくれ   枳風

 或る僧難して云ふ。
 「安心の上に悲みなし。『かなしめ秋のくれ』といはば可叶」
と。
 おもふに、『や』は休め字にてただ悲しと云へる句なれば、物我のへだてなく天地一己の自性を云へる句なり。花紅葉月雪ならばまのあたり成姿の心にふれて下知すべき句の体あり。お僧の心と俳諧の見いささかたがひある事ながらも迷悟の理は申すに及ぶまじくや。僧閉口。」(雑談集)

 自性はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「自性」の意味・読み・例文・類語」に、

 「〘 名詞 〙 仏語。物それ自体の独自の本性。本来の性質。本性。
  [初出の実例]「又金剛頂経云。諸法本不生。自性離二言説一。清浄無二垢染一」(出典:即身成仏義(823‐824頃))
  「仮に自性を変化して、一念化生の鬼女となって」(出典:謡曲・山姥(1430頃))
  [その他の文献]〔金剛頂経‐上〕」

とある。
 「秋のくれ」は自ずと悲しいもので、物それ自体の性だから、悲しみなど超越したような安心の僧であっても悲しくなる。

 心なき身にもあわれは知られけり
     鴫たつ沢の秋の夕暮れ
             西行法師

の心だろう。
 ある僧が難じて言うには、安心した僧に悲しみなんてものはないけど、秋の暮なんだから悲しんでくれという句にした方がいいとのこと。
 其角が思うには、「悲しや」の「や」は治定の「や」で、「安心の僧だって秋の暮はかなしい」という意味の句だが、僧の方は反語に取って「安心の僧は悲しむか、悲しむわけのない秋の暮」と取ったのではないかと。それだと悲しくなくても秋の暮の物自体の本性を感じて悲しんでくれと直したというのもわかる。
 「や」が疑問か治定かの議論は許六と去来の間にもあって、許六の『俳諧問答』にも記されている。当時治定の「や」に違和感を感じて、疑問に取りたがる人も多かったのだろう。地域差もあったのかもしれない。
 治定の「や」は近代では詠嘆というふうに解され、疑問の意味に取ることがほとんどなくなって行く。「や」が詠嘆に解されるようになったのは、思うに関西方言の「や」の影響だろう。
 両者の見解の違いが単なる「や」の意味の取り違えにすぎないとわかれば、「迷悟の理は申すに及ぶまじくや」ということになる。秋の暮は悟りを開いた僧であっても悲しい。それは「秋の暮」の自性だからだ、ということで両者納得ということになる。
 『去来抄』にも、

 「夕ぐれハ鐘をちからや寺の秋     風国
 此句初ハ晩鐘のさびしからぬといふ句也。句ハ忘れたり。風国曰、頃日山寺に晩鐘をきくに、曾てさびしからず。仍て作ス。去来曰、是殺風景也。山寺といひ、秋夕ト云、晩鐘と云、さびしき事の頂上也。しかるを一端游興騒動の内に聞て、さびしからずと云ハ一己の私也。国曰、此時此情有らバいかに。情有りとも作すまじきや。来曰、若情有らバ如何にも作セんト。今の句に直せり。勿論句勝ずといへども、本意を失ふ事ハあらじ。」((岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,37~38)

とある。先の僧の言い分も、秋の暮で悲しくなかったなら「悲しめ」と作ると良い、というものだ。それだと本意本情は守られる。
 秋の暮が悲しいのは単に主観的なものではなく、様々に文化が違ってもある程度普遍的に見られる現象で、だから物自体に具わった性質があると考えるのもそんな不自然なものではない。
 例えば人間の脳はあらゆるものに顔面を見出そうとする性質があって、壁の染みや木の木目、岩に日の当たった時の影が顔に見えたりするし、車のフロントのデザインにも容易に顔を見出す。
 同じように、生を喜び死を悲しむ感情は、あらゆるものに拡張される傾向があるのではないかと思う。いわゆる共感というのは、人の命以外にも容易に拡大されてゆく。
 万物に生死を見出すというのは単なる個人の主観ではなく、普遍的に見られるもので、何らかの生得的な基礎があるのではないかと思う。生き物が死ぬのが悲しいのはもちろんのこと、草木が枯れるのも悲しくなるし、それはさらに花が咲くのを喜び散るのを悲しみ、芽吹くのを喜び枯葉の落ちるのを悲しむことにつながって行く。
 一日のリズムとしても日が昇るのを喜び日が沈むのを悲しみ、一年のリズムとしても春を喜び、秋を悲しむ。こうした感情は普遍性を持っている。この普遍性こそが風雅の誠の基礎になっていると言って良い。
 近代西洋哲学の霊肉二元論の主客図式だと、人の感情は霊魂の自由によるものだから、物によって拘束されるものではないということで、秋の暮が悲しくなるのは単なる気のせいで、悲しくない秋の暮の句があってもいいじゃないかということにもなる。
 科学的に見るなら霊魂というのもまた肉体の遺伝的資質が作り出すものに過ぎず、人の感情は決して自由にコントロールできるものではないし、まして勝手に作り出したり改変したりできるものではない。むしろこうした肉体的要因を意図的に無視することは、理性の暴走を生み出す元になる。
 つまり理性的であることはどんな生理的感情に反する醜悪なことでも成し遂げられる。ナチの虐殺なども良い例だ。誰でも昨日まで一緒に生活してきた隣人をガス室に送るなんてことを快く思うはずがない。それが出来てしまうのは「思想」によって「正しい」と信じ込んでしまう「汝なすべき」の実践理性のせいだ。
 我が国の風流の道は「思想」によるものではない。人間の自然な感情に基づくものだ。花の咲くのを喜び散るのを悲しむ、春の始まりを喜び秋の暮てゆくのを悲しむ、それが風雅の誠だ。

2025年1月25日土曜日

  それでは『雑談集』の続き。

 一句の主という意味では、

 目には青葉山郭公はつ鰹     素堂

の句でもって、今でも素堂は一句の主と言ってもいい。この句は延宝六年刊言水編の『江戸新道』所収でこの時点でも一世を風靡したのだろう。大胆な季重なりも談林時代なら納得がいく。
 ただそれ以上にこの句が元禄二年刊荷兮編の『阿羅野』に再録されたことが、今日までこの句が評価され続ける理由ではないかと思う。『江戸新道』という集は時代の流れとともに忘れ去られても、芭蕉七部集の一つにこの句があるせいで、近代になっても多くの人の目に留まることとなった。
 今では忘れられているが、談林時代の素堂はなかなかパワーがある。

 茶の花や利休が目にはよしの山  素堂
 遠眼鑑我をおらせけり八重霞   同
 武蔵野や月宮殿の大広間     同

 「我をおらせけり」の「折る」の用法は最近になって「心が折れる」というふうに復活している。
 言水は談林時代に『江戸新道』『江戸蛇之鮓』『江戸弁慶』『東日記』などの編纂の方で活躍したが、句の主となったのは京都に移ってからで、

 凩の果てはありけり海の音    言水

の一句を以て木枯の言水と呼ばれたという。

 「うぐひすや竹の枯葉をふみ落し 荷兮

 竹に鶯を取合せてと案じたらば古歌連歌にまぎらはしくなりて、発句に云ひとられまじくや。また初春の藪のそよぎを鶯かとも気を付けたる所、わづかに作意有り。それも又気色をさがし出て夏に之を求めて新しなどとおもはば、己れ合点したりと人の聞きしるまじき句なるべし。定家卿の歌は聞き得ること稀れ也など申すは恐れ多し。」

 竹に鶯は、

 世にふればことの葉しげき呉竹の
     うきふしごとに鶯ぞなく
            よみ人知らず(古今集)

以来、確かに和歌に詠まれている。当時の俳諧師には、

 鶯の宿しめそむる呉竹に
     まだふしなれぬわか音鳴くなり
            藤原定家(夫木抄)

の歌だったか。竹の節に鶯の鳴く声の節回しを掛けて詠むのがお約束といった所か。古い題材だけに、このまま発句にというのも難しい所だ。
 荷兮の句はこの古い掛詞に頼ってはいない。これが仮に初春の藪で音がしたのを鶯かと思うというなら、和歌にはない新味がある。初句の「鶯や」の「や」は疑いの「や」であって治定ではない。意味は「うぐひすや竹の枯葉をふみ落すや」になる。
 この時代は正岡子規の時代と異なり「作意あり」は別に悪いことではない。むしろ見どころがあるというニュアンスだろう。
 問題は「竹の枯葉」であろう。竹は冬に枯れるのではなく、初夏に竹の伸びる頃に枯れて落葉するので「竹落葉」は夏の季語になる。ただ「夏に之を求めて新し」というのは作り過ぎだ。
 竹に鶯が節を奏でるのではなく、かさこそ音を立てるという趣向迄なら俳諧らしい。鳴く蛙を飛び込む蛙にした芭蕉の句にも通う。そこに「竹の枯葉」を持って来てしまうのは興覚めだというわけだ。
 ただこれは其角の勘違いかもしれない。
 この句は元禄六年刊荷兮撰の『曠野後集』には、

 鶯や竹の古葉を踏落し      荷兮

の形で春の部に掲載されている。『雑談集』より後に出た集なので、其角は『曠野後集』が出る前に別の仕方でこの句を聞いていて、その際「古葉」が「枯葉」になってしまったのかもしれない。
 「古葉(ふるば)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「古葉」の意味・読み・例文・類語」に、

 「〘 名詞 〙 ( 「ふるは」とも ) 古びた葉。前年のまま残っている古い葉。
 [初出の実例]「Furufa(フルハ)」(出典:日葡辞書(1603‐04))」

とあるように、正月になって残っている去年の葉っぱであれば春の意味になる。
 もっとも、逆に其角のこの指摘を受けて枯葉を古葉に直した可能性もなくはないので、何とも言えない。

2025年1月24日金曜日

 今日は句会があった。

 爆音のバイクは消えて月寒し
 葉牡丹や公園は烏の歩み
 山茶花の名残ホワイトアウトする

 それでは『雑談集』の続き。

 「発句付句ともに句の主に成る事得がたき也。萬歳扇に名をはるやうにて作者の名句ことにあれども、一体を立されば其名しかと定めがたし。只持扇のやうに名を張り付けずして慥かなる句の主といはれん様に心得べし。すべてありていなる句にて秀逸なるは妙を得し上手也。

 大かたの月をもめでし七十二 西岸寺 任口

 手かはりなる句にて主に成らんと工みたらば伊丹の歳旦帖みるやうにておのづから興さめぬべし。」(雑談集)

 句の主というのは今で言うとヒット作と共にその名の広く津々浦々知られることというような意味だろう。芭蕉は古池の句を以って句の主となったし、その後初時雨の句を以ってまた句の主となった。
 萬歳扇はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「万歳扇」の意味・読み・例文・類語」に、

 「〘 名詞 〙 万歳②が用いる扇。また、転じて、粗末な扇。《 季語・新年 》
  [初出の実例]「万歳扇に名をはるやうにて、作者の名、句ごとにあれども」(出典:俳諧・雑談集(1692)上)」

とある。万歳②は、

 「② 千秋万歳をことほぐ意で、新年を祝う歌舞。また、その歌舞をする者。鎌倉初期以来宮中に参入するものを千秋万歳(せんずまんざい)と呼び、織豊・徳川の頃には単に万歳(まんざい)と呼んだ。江戸時代、関東へ来るものは三河国から出るので三河万歳、京都へは大和国から出るので大和万歳といい、服装は、初めは折烏帽子(おりえぼし)・素袍(すおう)であったが、後には風折(かざおり)烏帽子に大紋(だいもん)の直垂(ひたたれ)をつけ、腰鼓(こしつづみ)を打ちながら賀詞を歌って舞い歩いた。《 季語・新年 》」

とある。千秋萬歳の角付け芸で用いるようなものだから、そんな立派なものではなく、赤い扇に萬歳と書いてあったりする。
 「萬歳扇に名をはるやうにて」というのは、一時もてはやされてもすぐに消えてしまうようなという意味で、先に出てきた白炭の忠知(神野忠知)などもその類であろう。
 今の芸能人や芸人は一発屋でも地道に長く活動する人が多いが、昭和の頃は売れるとのぼせ上ってすぐに身を持ち崩して悲惨な最期を遂げる人も多かった。
 有名な句はあってもしっかりと実力に裏付けられた基礎がないなら、一発屋に終わって、句は残っても作者の名は「誰だっけ」になったりする。
 これに対して持扇(もちおうぎ)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「持扇」の意味・読み・例文・類語」に、

 「〘 名詞 〙 所持している扇。特に、陣中で持つ扇の称。もちせんす。
 [初出の実例]「よろしき付句をいたされし時は、座中肝にめいじ、我をおぼえず同音に誉て、持扇(モチアフギ)のはしに書付」(出典:浮世草子・西鶴織留(1694)三)」

とある。これは地味で、目だったヒット作がなくても地道な努力をするということだろう。こうした努力はいつか実を結んで、自然と多くの人に評価され、句の主となってゆくのが望ましい。
 芭蕉も延宝の頃はまだ並みの作者の中の一人で、「枯枝に烏のとまりたるや秋の暮」の句でようやく世間の注目も集めるようになり、古池の句で一気に大ブレイクした。
 これに対して、其角は果たして句の主というほどのヒット作があっただろうか、ということになる。百年以上の後の竹内玄玄一の『俳家奇人談』でも其角の人柄やエピソードの方に多くが割かれていて、この一句を以てというようなものがなかったようだ。自分自身への戒めだったのかもしれない。
 「すべてありていなる句にて秀逸なるは妙を得し上手也」と凡庸で誰でも作りそうな題材や趣向であっても、その中で抜きんでることができれば、それは上手というものだ。その一つの例が、任口上人のこの句であろう。

 大かたの月をもめでし七十二 西岸寺 任口

 西岸寺の任口とあるのは、伊勢久居藩主藤堂高通の方の任口がいるからで、西岸寺の任口は伏見の任口で、芭蕉(当時は桃青)も参加した『六百番俳諧発句合』の判を務めた一人であり、『野ざらし紀行』の時にも訪ねて行っている。
 七十二になるまでにいろいろな月を見てきた。何ということもない述懐で、七十二というのもただその時の年齢を言ったまでだろう。殊更技巧を凝らしたわけでもなければ目新しい趣向があるわけでもない。それでいて言葉穏やかに品が良く、確かな技術を感じさせる句だ。
 なんか奇抜なことをやって句の主になろうと細工をしてみても、伊丹の上島鬼貫の一派の歳旦帖のようなものになる、と。
 どういう歳旦帖だったのか読んでみたいが、歳旦帖はどんど焼きで燃やされることが多かったのか、この手のものは毎年大量に発行されたにもかかわらず残っているものは少ない。

2025年1月21日火曜日

 
 今日は厚木の飯山ローバイの丘に行って来た。蝋梅は普通は「ロウバイ」の表記だが、看板にはローバイとある。ロウバイと書いてあるところもあって表記が一定してない。
 規模は寄に及ばないし、山深い隠れ里の景色もないが、東京から近く飯山温泉郷があり飯上山 如意輪院長谷寺の飯山観音がすぐそばにある。
 写真は飯山観音からの眺め。

 それでは『雑談集』の続き。
 昨日の、

 白雨の日にすかさるるくもり哉  揚水

の句は同じ『雑談集』にこのあと、

 ゆふたちの日に透さるる曇かな  揚水

の形で出てきた。

 「此比の当座に、

 小男鹿やほそき聲より此流れ

と申しける折ふし百里が旅より帰りしに、木曽路の秋を語りけるにも畳のうへにては面白からぬけしきを云ひ出てけり。梯の水音今も耳に残りて覚えぬるといはれて、世につながるる事を歎きぬ。すべて景に合せては情をこらして扨景を尋ぬるが此道の手なるべし。富士を見ては発句ちひさくなりぬるは心の及ばざるゆゑ也。」

 百里は嵐雪の弟子で『其袋に、

 菅笠や男若弱(にやけ)たる花の山 百里
 老猫の尾もなし恋の立すがた   仝

などの句がある。
 「小男鹿」の句は百里の木曽路の旅の経験から生まれた句だったのだろう。木曽の梯(かけはし)は芭蕉も、

 桟やいのちをからむつたかづら  芭蕉

と詠んだ中山道の難所で、川に沿った切り立った崖の中ほどにある道で、丸太の上に板を渡した簡単な橋が掛けられていた。そこを通過した時は山からは鹿の声がして、下からは水の音がして、百里としては忘れることの出来ない思い出だったのだろう。ただ、江戸に来て畳の上で興行しても、その臨場感はなかなか伝わってこない。
 こういう時のポイントとしては、景色を思い浮かべたら、その時の情に合わせてそれにあったものを選びだすということだと其角は教える。切り立つ崖と深い谷底の絶景を思い浮かべたなら、その時の心細かったことを思い出して、それにあった景色、たとえば「命をからむ蔦かづら」のようなものを選び出す。芭蕉はそうした、という所だ。

 桟やあぶなげもなし蝉の声    許六

ほこの後の句になるが、羽根を持つ蝉の何食わぬ様子で鳴いているのが逆説的に道の危なさを表している。
 それに比べると百里の句は、確かに鹿の声や川の音は心細い感じはするが、「命をからむ」のような力強い情の発露は感じられない。その場にあったものを並べただけという感じがしなくもない。
 「富士を見ては発句ちひさくなりぬる」というのは、富士の大きさに圧倒されて、その感動を表すにはそれなりの強い言葉が必要になるということであろう。感動が強ければ強いほど、言葉がそれに追いつず、本来の感動が月並みな言葉で矮小化されてしまう。土芳の『三冊子』「くろさうし」にも、

 「師のいはく、絶景にむかふ時は、うばはれて不叶、物を見て取所を心に留メて不消、書寫して静に句すべし。うばはれぬ心得もある事也。そのおもふ所しきりにして、猶かなはざる時は書うつす也。あぐむべからずと也。師、松島にて句なし。大切の事也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.142~143)

とある。
 「取所を心に留メて不消、書寫して静に句すべし」という意味では、芭蕉は蔦かづらを心に留め、許六は蝉を心に留めてそれを素直に句にしたという所なのだろう。「小男鹿やほそき聲より此流れ」もそうした景色をそのまま句にしたようだが、この違いはおそらく、景に情がきちんと乗ってないからなのだろう。

2025年1月20日月曜日

 
 今日は寄(やどりき)の蝋梅を見に行った。

 それでは『雑談集』の続き。

「旦
 起き起きの心うこかしかきつばた 仙花
 七くさやあとにうかるる朝烏   角」

 「旦」は夜明け、明け方、朝という意味だが「元旦」の場合は慣用的に1月1日のことを指し、必ずしも朝のことではない。ここでは元旦ではなく、普通に朝という意味。
 仙花の句は路通撰『俳諧勧進牒』に収録されているし、『猿蓑』にも、

   起て物にまぎれぬ
         朝の間の
 起々のこころうごかすかきつばた 仙花

の形で収録されている。
 「起き起き」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「起起」の意味・読み・例文・類語」に、

 「① 起きたばかりであること。また、その時。起きたて。起きぬけ。
  [初出の実例]「起出て物にまぎれぬ朝の間の 起々の心うごかすかきつばた〈仙化〉」(出典:俳諧・猿蓑(1691)二)
  ② 起きることをいう幼児語。
  [初出の実例]「朝(あった)起々したら、お目覚(めざ)にお薩をやらうヨ」(出典:滑稽本・浮世風呂(1809‐13)二)」

とある。句の意味は、朝起きたばかりのまだ忙しくならないうちに、カキツバタが咲いてるかどうか気になる、ということか。それだけ咲くのが楽しみだということなのだろう。カキツバタは浅沢小野や安積などの歌枕にも縁がある。
 其角の句は、七草の菜を朝早く摘みに行くと、カラスの方が後から起きてくる、ということか。この句も『猿蓑』に収録されている。

「昼
 鳩吹や太山は暗き昼下り     粛山
 白雨の日にすかさるるくもり哉  揚水」

 この二句はどの集のものかわからなかった。
 鳩吹はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「鳩吹」の意味・読み・例文・類語」に、

 「〘 名詞 〙 山鳩を誘いよせるため、または鹿狩の際に猟師が鹿を呼んだり仲間に鹿のいることを伝えるために、手のひらを合わせて吹き、鳩の鳴き声に似た音を出すこと。また、同様の目的で用いられる楽器にもいう。《 季語・秋 》
 [初出の実例]「鳩吹や慰ながら病あがり 命ひらうて遠山を見る」(出典:俳諧・西鶴大矢数(1681)第一一)」

とある。狩の鳩笛は昼なお暗き山に聞こえてくるものだ。
 白雨は「ゆうだち」と読むが、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「白雨」の意味・読み・例文・類語」に、

 「① 雲がうすくて明るい空から降る雨。ゆうだち。にわかあめ。《 季語・夏 》
  [初出の実例]「雷鳴白雨、陣立、按察依レ召参入」(出典:貞信公記‐抄・天暦二年(948)六月六日)
  [その他の文献]〔李白‐宿鰕湖詩〕」

とあるように、本来は暗雲垂れ込めた夕立ではなく、薄日の射した夕立をいう。「日にすかさるるくもり」はそのまんまと言えなくもない。

「暮
 やり羽子に長ばかりの日暮哉   亀翁
 日は没とくれぬは梅の木曲哉   柏舟」

 「やり羽子」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「遣羽子」の意味・読み・例文・類語」に、

 「〘 名詞 〙 一つの羽子を二人以上で突きあうこと。二人以上でするはねつき。おいばね。やりばね。《 季語・新年 》
  [初出の実例]「つき出るやりはごは皆鳥毛哉〈一雪〉」(出典:俳諧・鸚鵡集(1658)一)」

とある。今は歳旦の季語だが旧暦の時代は春の季語になる。「長」には「オトナ」とルビがある。子供は早々に遊び疲れてしまったか、それとも子供そっちのけで大人の方が夢中になってしまったか、日暮れ時に羽根突きをやってるのは大人ばかりだったりする。
 「没」は「イレ」とルビがあり、「日は入れど」になる。「曲」にも「フリ」とルビがあり、「梅の木ぶり」になる。日は沈んでも梅の木の枝ぶりは残光の中にまだはっきり見えるということか。

 「物おもへとは誰をしへけんとよまれし夕べ夕べの思ひせめて哀れふかし。起て今朝また何事をいとなまんとよみし朝烏の動静にかけて句ことの起点をはたらきぬべし。」

 「物おもへとは」は、

 あはれ憂き秋の夕べのならひかな
     物おもへとは誰をしへけむ
           宗尊親王(続古今集)

の歌であろう。夕暮れというのは物悲しいものだ。「起て今朝」は、

 起て今朝また何事をいとなまむ
     この夜明けぬと烏鳴くなり
           よみ人知らず(玉葉集)

の歌で、夕暮の心朝の心を以てして締め括りとする。朝烏が出てきた所で、

 七くさやあとにうかるる朝烏   其角

の句に戻ることになる。

2025年1月18日土曜日

  それでは『雑談集』の続き。

 「寝られぬ夜思ひ出せし句を書きとめて朝になりて吟じ返してみれば、句のふりも聊かかはりて心もたがひあるやうに覚えぬるに、陰気陽気の間か、句の浮沈おぼつかなし。荘子に陽の字を喜陰の字を怒と訓ぜしも一気のはこびなるべし。

 九たび起きても月の七ツ哉    翁
 ほととぎす我や鼠にひかれけん  角 
 起き起きの心うこがしかきつばた 仙花
 七くさやあとにうかるる朝烏   角
 鳩吹や太山は暗き昼下り     粛山
 白雨の日にすかさるるくもり哉  揚水
 やり羽子に長ばかりの日暮哉   亀翁
 日は没とくれぬは梅の木曲哉   柏舟

 物おもへどは誰をしへけんとよまれし夕べ夕べの思ひせめて哀れふかし。起て今朝また何事をいとなまんとよみし朝鳥の動静にかけて句ことの起点をはたらきぬべし。」(雑談集)

 九たび起きても月の七ツ哉    芭蕉

の句は『泊船集』では元禄四年として「旅寝長夜」と前書きがある。
 確かに「九たび」は「ここの旅」との掛詞で旅が隠されている。「七つ」は夜明け前の寅の刻で、「お江戸日本橋七つ発ち」なんて明治の頃の唄もある。芭蕉の旅でも急ぐ時には七ツ発ちをしたのだろう。『野ざらし紀行』の「残夢月遠し」のように。
 元禄四年は閏八月があり、八月の十五夜、閏八月の十五夜ともに膳所で過ごして、

 名月はふたつ過ぎても瀬田の月  芭蕉

の句を詠んでいる。九月の十三夜は之道・車庸とともに石山寺に詣でて、

 橋桁の忍は月の名残り哉     芭蕉

の句を詠んでいる。『雑談集』の末尾に「元禄辛未歳内立春月筆」とあるから、この本は元禄四年の師走までに書き上げられたことになるので、元禄四年秋の句でもおかしくない。
 この年の十一月二十九日には芭蕉は江戸に戻っているから、其角が眠れない夜にこの句を思い出したのも、それ以降のことであろう。とすると、十二月の満月の頃ということになる。
 ただ、この年は十二月十八日が新暦の二月四日になるから、それだと脱稿間際ということになってしまう。
 これと番わせている其角自身の句が時鳥の夏の句だから、芭蕉の句が元禄四年はちょっと無理があるように思える。元禄四年の夏の暑さで寝付けなかったころ、芭蕉の元禄三年以前の句を思い出したと考える方が自然なようにも思える。
 元禄三年の名月も膳所で過ごし、盛大な月見会を催し、

 名月や兒たち並ぶ堂の縁     芭蕉
 名月や海にむかへば七小町    仝
 月見する座にうつくしき貌もなし 仝

などの句を詠んでいる。
 その前年の名月の前日、元禄二年の八月十四日は福井から敦賀への長い道のりを行くため、未明に出発したと思われる。

 あさむつや月見の旅の明ばなれ 芭蕉

の句がある。同行が北枝から洞哉に変わり、洞哉も敦賀までということもあって、不安も多く、この夜眠れなかったことは十分考えられる。ここでの吟なら、後に曾良と再会した後曾良に伝え、その後江戸に持ち帰っていれば、其角も知ることとなっただろう。
 まあ、これはあくまで推測で、それより以前の句の可能性もある。
 其角の句の方は、

 ほととぎす我や鼠にひかれけん 其角

で、当時の日本橋伊勢町で時鳥の声が聞こえることもあったのか。それとも夜中に聞いた鼠の声を時鳥に見立てたのか。
 この日本橋伊勢町の其角の家は、そののち元禄十一年十二月十日の火災で類焼したが、その後も日本橋茅場町に居を構え、終生江戸の市街地に住み続けた。元禄十四年刊其角編の『焦尾琴』は新居で偏されたものだが、そこには「古麻恋句合」というまとまった猫をテーマにした発句合せがあるが、其角の猫好きも日本橋で常に鼠に悩まされていたこともあったのか。

   潜上猫若ねこにかたりて曰
 秋來鼠輩欺猫死 窺翁翻盆攪夜眠
 聞道狸奴將數子 買魚穿柳聘銜蟬
 (秋が来て鼠たちが猫が死んでこれ幸いと、
 甕を窺いお盆をひっくり返し夜の眠りを攪乱す。
 聞く所によると狸の奴に子どもが数匹いるというので、
 魚を買い柳の枝に差して銜蟬を召喚す。)

という黄庭堅の「乞猫」という詩を掲げて、

 「山谷カ猫ヲ乞フ詩也。猫死テ大勢ノ鼠ドモ秋ノ夜スガラアレマハルホドニ山谷ヲモアナヅリテ盆皿鉢ヲ打カヘシテ姦シクテネラレヌト也。サレバ猫ヲモラヒテ畜ントナリ。此比キケバ家ノ後園ニ狸共子ヲイツクモ産ミクルホドニ猫ガ居ルトシラバ一類ナレバ悦ビテ魚ヲ買テ柳ノ枝ニサシ貫ネテ人ノ如クニ禮聘シテ祝儀ヲ述ヌベシト也。䘖蟬トハ猫ノ異名也。花山院ノ御製ニモ
 敷島のやまとにはあらぬから猫を
     きみがためにと求め出たる」

と記している。
 「古麻恋句合」は推測だが、火事の時に死んだ「こま」という猫への鎮魂歌だったのではないか。いつの時代もキャットロスは悲しいものだ。
 「我や鼠にひかれけん」は時鳥ならぬ鼠の声を眠れない夜に聞くが、古人が時鳥に惹かれたように、われも鼠に惹かれるだろうか、ということだがこれは単なる疑問ではなく反語であろう。

2025年1月17日金曜日

 今日は大井町の水仙を見に行った。富士山は雲に隠れて寒かった。

 それでは『雑談集』の続き。

 「発句と付句との分別はきはめて物数寄あるべし。

 鼻紙を扇につかふ女かな     信徳

 是れは盃ほしかぬるかなど云ふ句に付る句也。もと付合の道具なるを珍しとおもへるは未練なるべし。

 河舟やみよしかくるる蘆のはな  亀翁

 これは水辺に付合の句なるを一句に優ありとて発句になほせし也。蘆間かくれに乗り越す舟工夫に落ちずして響たしか也。趣向にかかはる人はすべて発句成りがたし。風景をしる人思ひ出多し。此比信徳が文に此方などは例の発句下手にて、一句もえ申さずと卑下ながらに、

 名月よ今宵生るる子もあらん   徳

 いざよひの空や人の世の中といへる観念か是は今年就中膓先断と白氏の年を悲しみける心にもかなひて、信徳が老の誠なるべし。」(雑談集)

 「物数寄」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「物好き」の意味・読み・例文・類語」に、

 「① 物事に特別の趣向を凝らすこと。風流なおもむきを好むこと。また、そのようなものや人。そのようなさま。すき。〔文明本節用集(室町中)〕
  [初出の実例]「物数奇(モノズキ)な座敷へ通され」(出典:夜明け前(1932‐35)〈島崎藤村〉第一部)
  ② 好み。趣味。
  [初出の実例]「夫はそなたの物好が能らう」(出典:虎寛本狂言・棒縛(室町末‐近世初))
  ③ 好奇心が強いこと。また、そのような人や、さま。〔日葡辞書(1603‐04)〕
  [初出の実例]「いやしき物好にもあらず、いろなる心にもあらねど」(出典:文づかひ(1891)〈森鴎外〉)
  ④ 普通と違った物事を好むこと。風変わりなものを好むこと。好事(こうず)。また、そのような人やさま。
  [初出の実例]「長安にものすきで有程に民間に散落した石どもを買てとりて」(出典:四河入海(17C前)九)
  「物好(スキ)や匂はぬ草にとまる蝶〈芭蕉〉」(出典:俳諧・都曲(1690)上)」

とある。①は近代の意味で、当時は④の意味。一般的な趣味というよりは一部の人に好まれるということで、近代の口語でも「物好きだなあ」とか言えば、揶揄するニュアンスがある。「オタ」に近いかもしれないが、様々な趣味の文化が広まるのは江戸後期のことで、元禄の頃は遊郭や芝居や、その時々の流行を追い求めるようなことを言ったとすれば、むしろ「ミーハー」の方に近いのかもしれない。
 『去来抄』「修行教」にも、

 「去来曰、不易の句は俳諧の体にして、いまだ一の物数寄なき句也。一時の物数寄なきゆへに古今に叶へり。譬へば
 月に柄をさしたらばよき団哉   宗鑑
 是は是はとばかり花のよしの山  貞室
 秋の風伊勢の墓原猶凄なほすごし 芭蕉
是等の類也。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,62)

とあり、月を団扇に見立てるのは物数寄の内には入らないとしている。
 これに対して、

 「去来曰、流行の句は己に一ツの物数寄有て時行也。形容衣裳器物に至る迄、時々のはやりあるがごとし。 譬へば
 むすやうに夏のこしきの暑哉
此句体久しく流行す。
 あれは松にてこそ候へ枝の雪   松下
 海老肥て野老痩たるも友ならん  常矩
或は手をこめ、或は歌書の詞づかひ、又は謡の詞とりなどを物ずきしたる有り。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,62~63)

 鼻紙を扇につかふ女かな     信徳

の句は延鼻紙のことか。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「延鼻紙」の意味・読み・例文・類語」に、

 「〘 名詞 〙 延べ紙の鼻紙。江戸時代、ぜいたくな鼻紙として、遊女などの閨紙に用いられた。のべの紙。のべの鼻紙。
  [初出の実例]「犢鼻褌(ふんどし)百筋、のべ鼻紙(ハナガミ)九百丸〈略〉其外色々品々の責道具をととのえ」(出典:浮世草子・好色一代男(1682)八)」

とある。goo辞書の「デジタル大辞泉(小学館)」には、

 「のべ‐がみ【延(べ)紙】 の解説
 縦7寸(約21センチ)、横9寸(約27センチ)ほどの小形の杉原紙 (すぎわらがみ) 。江戸時代、高級な鼻紙として用いた。延べ。」

とある。厚手の杉原紙でこの大きさなら扇の代りになったのだろう。扇ぐというよりは顔や口元を隠したりするのに用いたのかもしれない。扇で顔を隠す仕草は中世の頃から絵などでよく見られる。
 「是れは盃ほしかぬるかなど云ふ句に付る句也。」とあるように遊郭で酒を酌み交わす時に口元を隠したりしたか。
 「付合の道具」という言葉があるが、この反対は「発句道具」であろう。この頃の俳諧では発句に相応しい言葉と付け合い程度に出す分には構わない言葉というのが暗黙の裡に区別されていたようだ。許六の『俳諧問答』にも、

 「一、いつぞや、『こんやの窓のしぐれ』と云事をいひて、手染の窓と作例の論あり。略ス。其後二年斗ありて、正秀三ッ物の第三ニ『なの花ニこんやの窓』といふ事を仕たり。此男も、こんやの窓ハ見付たりとおもひて過ぬ。
 予閑ニ発明するに、発句道具・平句道具・第三道具あり。正秀が眼、慥也。
 予こんやの窓ニ血脈ある事ハしれ共、発句の道具と見あやまりたる所あり。正秀、なの花を結びて第三とす。是、平句道具ニして、発句の器なし。こんやの窓に、なの花よし。又暮かかる時雨もよし、初雪もよし。かげろふに、とかげ・蛇もよし。五月雨に、なめくぢり・かたつぶりもよし。かやうに一風づつ味を持て動くものハ、是平句道具也。
 発句の道具ハ一切動かぬもの也。慥ニ決定し置ぬ。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.163~164)

 「予閑ニ発明するに、発句道具・平句道具・第三道具あり。」というのも、いきなり発明したのではなく、暗黙にそういうことが言われてたのを明確にしたと見て良い。
 この句別も何か法則があるというよりは、発句に相応しい情緒のある、いわばエモい題材で、そうでない普通の題材は平句道具、あるいは「付合の道具」で、鼻紙などというのもその類ということになる。

 河舟やみよしかくるる蘆のはな  亀翁

 この句の場合は元は付け句でも「河舟」に「芦の花」は発句に相応しい風情がある。「蘆間かくれに乗り越す舟工夫に落ちずして響たしか也。」だ。
 信徳の、

 名月よ今宵生るる子もあらん   信徳

の句は、信徳の名誉回復のために紹介したか。
 「今年就中膓先断」は『和漢朗詠集』の、

 「今年異例腸先断。不是蝉悲客意悲。
 聞新蝉 菅原道真」

のことか。「就中腸斷」は、

   暮立     白居易
 黃昏獨立佛堂前 滿地槐花滿樹蟬
 大抵四時心總苦 就中腸斷是秋天

の句があり、ごっちゃになった感じがする。蝉の声の哀しさに断腸の思いだという所は共通している。
 信徳の句は、名月に今宵生まれる子もあるというのに、それに引き換え自分は年老いて死に向かっている、という心か。

2025年1月16日木曜日

  それでは『雑談集』の続き。

 「去る比品かはる恋といふ句に

 百夜か中に雪の少将

といふ句を付けて忍の字の心をふかく取りたるよと自讃申しけるに、猿蓑の歌仙に品かはりたる恋をしてといふ句に、

 うき世のはては皆小町なり

と翁の句聞えければ、此句の錆やう作の外をはなれて日々の変にかけ時の間の人情にうつりて、しかも翁の衰病につかはれし境界にかなへる所、誠おろそかならず。少将と云へる句は予が血気に合ぬれば、句のふりもさかしく聞え侍るにや。此口癖いかに愈しぬべき。」(雑談集)

 前に支考の『葛の松原』を読んだ時にも、

 「晋子も鉄砲といふ名のいひ難しとて千々にこころはくだきけるや。おなじ集に品かはるといふ怠の論は微細のところかくぞ心をとどめけむ。殊勝の心ざしいとうらやまし。」(葛の松原)

という文章が出てきたので、そのときに、「『少将』は小町の所に百夜通いをした『深草の少将』のことで、百夜通えばその中には雪の日もあっただろうということか。芭蕉が年老いていった小町の末路に思いを馳せるのに対し、其角は小町の元に通う少将の方へ目が行ってしまった。」と記した。
 芭蕉の句の場合は、

   いのち嬉しき撰集のさた
 さまざまに品かはりたる恋をして 凡兆

と勅撰集の選者の立場に立って、様々な恋句の分類を「品かはりたる恋」としたもので、『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)にも、

  「歌集ニハ恋之部ニ、逢ヒテ別ルル恋、不逢別恋、経年恋、待恋、後朝ナドサマザマアレバ、其そのヒビキヲ付つケタリ」

とある。それを芭蕉は小野小町ならこのすべての恋を経験して年老いて卒塔婆小町のようになり果てていったことに思いを馳せている。
 其角の場合打越の句がわからないからよくわからないが、前句の「品」のいろいろある中の「忍ぶ恋」に限定して付けて、百夜通いに行き着いたように思える。
 雨の日も雪の日も通い続けた深草の少将にも深い情があるし、其角が自讃するだけあって悪い句ではない。ただ「品かはりたる恋」を一人の好色の人生として捉えて、華々しく浮名を流しながらも人はいずれ年老いて行く運命に逆らえないと、これは芭蕉の得意とするテーマでもあった。
 『奥の細道』の末の松山のくだりの、

 「末の松山は寺を造つくりて末松山まつしょうざんといふ。松のあひあひ皆墓はらにて、はねをかはし枝をつらぬる契ちぎりの末も、終つひにはかくのごときと悲しさも増まさりて、塩がまの浦に入相いりあひのかねを聞きく。」

なども、末の松山がどんな大津波でも越すことができなかったように君を愛し続けるという誓いも、結局老いには勝てず、いつか墓場の中に消えてゆくというこういう発想は、確かに芭蕉ならではのものだ。
 『野ざらし紀行』の、

 辛崎の松は花より朧にて     芭蕉

の句にしても、元の案に、

 辛崎の松は小町が身の朧

があったことが『鎌倉海道』(千梅編、享保十年刊)にそのことが記されているという。これも辛崎の松の待ち続けているうちに卒塔婆小町のように老いぼれた姿になってゆく、その身の朧に春霞の松の木を重ねたものだったようだ。
 芭蕉からすれば、「うき世のはては皆小町なり」はその意味ではごく自然な発想で出てきたのだろう。この自然さこそが其角の羨む所で、様々な品の恋の中から忍ぶ恋を選び出して深草の少将の百夜通いに至り、そこに雪を添えて過酷な忍ぶ恋を演出した其角は、確かに捻り出した感がぬぐい切れない。
 「予が血気に合ぬれば、句のふりもさかしく聞え侍るにや。此口癖いかに愈しぬべき。」
はそういう意味での反省だったのだと思う。
 これは本意本情だとか風雅の誠だとかいうのが知識として知っているのではなく、普段の人生の観想の中ですっかり身に付いて、吐く言葉吐く言葉が自然に風雅の誠にかなうからこそできることだ。
 知識で捻り出す其角に対し、芭蕉の句はその生き様そのものであり、そこには大きな溝があったと言えよう。修行や学習を越えた、それは「悟り」と言っても良い。

2025年1月15日水曜日

  昨日は日記を休んでしまったが、初句会があってどんど焼きがあった。

 寒月に枝はちくちく何を刺す
 葉牡丹の風受け流す光かな
 暖冬に雲は因果の列をなす
 気持ち的に眼下は崖の初日哉

 それでは『雑談集』の続き。

 「俳諧に新古のさかひ分ちがたし。いはば情のうすき句はおのづから見あきもし、聞きふるさるるにや。又情の厚き句は詞も心も古けれども、作者の誠より思ひ合ひぬるゆゑ、時にあたらしく不易の巧あらはれ侍る。」(雑談集)

 去来は『不玉宛論書』の中で「此道ハ心辞トモニ新ミヲ以テ命トス」とすと言っているように、おそらく芭蕉は去来に対してはそう教えたのだろう。これは裏を返すと去来の場合、発想が古いことが多かったか。『去来抄』を見ても、

 猪のねに行かたや明の月     去来

の句で芭蕉に、

 「そのおもしろき処ハ、古人もよく知れバ、帰るとて野べより山へ入鹿の跡吹おくる荻の上風とハよめり。和歌優美の上にさへ、かく迄かけり作したるを、俳諧自由の上にただ尋常の気色を作せんハ、手柄なかるべし。」

と新味のなさを指摘されている。
 狩に行って、ふとその罪に気付いて猪を見逃して帰してやるという趣向は、

 明けぬとて野べより山へ入る鹿の
    跡吹きおくる萩の下風
              源通光

以来の古典的なテーマで、芭蕉は鹿を猪に替える程度のことではなく、和歌にはなかった趣向で、

 明けぼのや白魚白きこと一寸   芭蕉
 おもしろうてやがて悲しき鵜舟哉 仝

の句を詠んでいる。俳諧は新味をもって命とすというのは、そんな去来に戒めたものだったのであろう。
 其角に対してはどう教えていたのかはわからないが、「俳諧に新古のさかひ分ちがたし」は芭蕉の其角に対する教え方だったのかもしれない。『雑談集』は芭蕉存命中に書かれているから、少なくとも師の教えに背くものではあるまい。
 「いはば情のうすき句はおのづから見あきもし、聞きふるさるるにや。」というように、むしろ本意本情が備わってない、日常のその場その場の人情に流された句はすぐに古くなって飽きられてしまうというように、不易の情を重視した教え方をしていたのかもしれない。
 「又情の厚き句は詞も心も古けれども、作者の誠より思ひ合ひぬるゆゑ、時にあたらしく不易の巧あらはれ侍る。」というように、人間のより根源的な普遍的な情、いわゆる風雅の誠の具わった句は、古いようでいて、今聞いても新鮮に感じられる。
 去来の猪の句でも、元の源通光の歌はもとより、芭蕉の句すら忘れられがちな現代にあっては、新しく感じられるかもしれない。不易の情は時代を越えて通用するので、一時的に古くはなっても、時代が変わればまた新しく感じられる。
 其角は一方で古典の蘊蓄を交えて句に権威を与えるような傾向があり、それは元禄二年の暮れに翌年の歳旦として詠んだ句、、

   手握蘭口含鶏舌
 ゆづり葉や口に含みて筆始    其角

に対して去来宛書簡で、

 「江戸より五つ物到来珍重、ゆづり葉感心に存候。乍去当年は此もの方のみおそろしく存候處、しゐて肝はつぶし不申候へ共、其躰新敷候。前書之事不同心にて候。彼義(儀)は只今天地俳諧にして萬代不易に候。」

と評している。

 「ゆづり葉を口にふくむといふ万歳の言葉*、犬打童子も知りたる事なれば、只此まヽにて指出したる、閑素にして面白覚候。」

と、「ゆづり葉を口にふくむ」という当時なら犬打童子も知ってる萬歳の言葉を持ってくる新味は評価できるが、前書きは不要だという。この前書きは岩波文庫の『芭蕉書簡集』の萩原恭男の注によれば、「漢の尚書郎が口に鶏舌香を含んで奏上し、蘭を握って朝廷に出仕した故事」だという。
 正月の目出度さは不易であり、それを祝う心も昔も今も変わらないのならば、漢の尚書郎を持ち出さなくても、萬歳の口上だけでそれは通じるというわけだ。
 今となっては萬歳の口上はほとんどの人の記憶からは消えてしまったが、「古い」というのは記憶があって、それがずいぶん昔に聞いた記憶だから古いというだけで、記憶にないことは却って新しい。去来の猪の句も夜興引(よごひき)の記憶が既に失われてしまってるため、古いというよりは、初めて聞いたということで新しさすら感じられる。
 不易の情の句は、まだ記憶があるうちは古く感じられても、記憶が一度失われてしまえば却って新しい。古いと思うのは記憶に残っているからだ。ひとたび忘れ去られてしまうと、不易の情をもつ芸術作品は再発見され新しい解釈が与えられる。
 昭和歌謡も80年代のシティーポップも、それをリアルタイムで聴いた世代からすると何を今更だが、知らない世代には却って新鮮に感じられる。
 そう思えば、古いか新しいかは長い時代の流れからすれば相対的なもので、記憶に残ってる程度の古さは古いが、それより前になると却って新しくなる。ただ、こうした再評価ができるのは不易の情を持つ作品に限られる。
 不易の情というのは、中世の顕密仏教だったり、江戸の儒学だったり、明治の国体だったり、戦後思想もまた今はまた大きな転換点を迎えていたり、思想やイデオロギーはどんどん古くなってゆくが、人間の情というのは古今東西変わらないもので、時代を越えて、国境を越えて人々に感動を与える、そういうものだ。「作者の誠より思ひ合ひぬるゆゑ、時にあたらしく不易の巧あらはれ侍る。」
 ならば去来に教えた「此道ハ心辞トモニ新ミヲ以テ命トス」は何だったのかというと、一周回れば新しくなるものでも、半歩遅れたものはどうしようもない、ということか。
 流行して多くの人に知られなければ、人々の記憶にも残りにくいし、それを後世に残そうという情熱もなかなか生まれないものだ。流行によって多くの人の心に刻まれたものだからこそ、多くの人の間にそれを残そうという情熱が生まれ、何らかの形で残っていれば一度は忘れられても時代が変わればまた復活する。

 「高位の人の取あへず思ひ出て給へる句、少年少女遊女禅門などの折にふれたる事云ひ出てしは心と心のむかひあへる故、等類ある句も聞きゆるされ侍り。なましひに点者で候といはるる心うしと嵐雪が身を恨みしもことはり也。人にはくずの松原とよばるる名さへうれしとよまれし。誠にゆかし。

 なんにも早や楊梅の実むかし口  梅翁
 四十はや朝顔の葉のいそがしや  嵐蘭
 年寄りもまぎれぬものやとしの暮 東順
   戒在色といふ所をよみて覚えて
 錦木や色のをはりの老男     是吉
 力なや麻刈あとの秋の風     越人
 陰惜き師走の菊の齢ひかな    露沾
 老の身の涼み所や蚊屋のそば   岩翁
 紙子着てくくり頭巾も三十哉   角」(雑談集)

 これは凡庸な句とて不易の情のあるものは侮ることができないということだろう。
 不易の句は普遍的であるだけに、誰もが口にすることであり、自ずと等類の句になりがちだ。今の俳句の言葉だと「類想」というが、等類・類想の多さはある意味不易である証しでもある。凡庸な句でも軽く見ることはできない。
 「高位の人の取あへず思ひ出て給へる句」というのは、高名な人にしては凡庸な句という意味であろう。
 「少年少女遊女禅門などの折にふれたる事云ひ出てしは心と心のむかひあへる」というのは、若者たちの不満の叫びや、風俗の人達の悲哀、禅問答のような人生の分かったような分からないようなもので、こういうのはいつの世でもある。今の俳句で言えば「孫俳句」なんてのもこのたぐいか。誰でも思いつく題材だから類句は多いが、それなりに共感を呼ぶもので一定の需要がある。
 点者の立場からすると類相の句は取りづらいから、頭を悩ませるところだ。
 テレビに出ているあの先生の「凡」というのもそのたぐいだ。立場から滅茶苦茶けなしはするが、本当の所自分も感動しているのではないか。
 「葛の松原」というのは、『雑談集』の一年後に支考の俳論のタイトルにもなるが、元は『選集抄』巻九第十一「覚英僧都事」に由来するもので、

 「そのかみ、陸奥の國のかたへさそらへまかりて侍りしに、信夫の郡くづの松原とて、人里遠くはなれたる所侍り。ひとへに山にもあらず、又ひたぶるなる野とも云べからず、すこしき岡と見えて、木草よしありてしげり、清水ともにながれ散れり。世をひそかにのがれて、此江のほとりに住みたきほどに見え侍り。」

という田舎の何の変哲もない所だが、世を逃れるのは良さそうな所があって、その松の木に、

 「昔は応理円宗の学徒として、公家の梵莚につらなり、今は諸国流浪の乞食として、終りをくずの松原にとる

 世の中の人にはくづの松原と
     よばるる名こそうれしかりけり

 于時、保元二年二月十七日、権少僧都覚英、生年四十一、申の刻に終りぬ」

と書いてあった、その古事による。今では桑折町の松原寺に明和5年(1768年)に建立された碑があるが、芭蕉の時代にはまだどこにあるのか特定されてなかったのかもしれない。伊達の大木戸の記述はあっても葛の松原のことは曾良の旅日記にも記されていない。桃隣の『舞都遲登理』の旅では行きにも帰りにも桑折を通っているが、朝日山法圓寺の黄金天神の記述はあるが葛の松原の記述はない。支考も芭蕉のあとを追って陸奥を旅し、その後に『葛の松原』を書き表しているが、立ち寄った記述はない。
 葛の松原は葛に埋もれた松原のような何の変哲もない場所の例えとして用いられていたのだろう。凡句でもたくさんの類句に埋もれているだけで、その人にとってはかけがえのない句だったりする。
 其角がここに掲げた句も、凡庸だが捨てがたい句ということだろうか。最後の其角の句を除けば老いを歎く句で、これも今でも定番ともいえる。

 なんにも早や楊梅の実むかし口  梅翁
 四十はや朝顔の葉のいそがしや  嵐蘭
 年寄りもまぎれぬものやとしの暮 東順
   戒在色といふ所をよみて覚えて
 錦木や色のをはりの老男     是吉
 力なや麻刈あとの秋の風     越人
 陰惜き師走の菊の齢ひかな    露沾
 老の身の涼み所や蚊屋のそば   岩翁
 紙子着てくくり頭巾も三十哉   角

 其角は漢文元年(一六六一年)の生まれで、この本の出た元禄四年(一九六一年)の時点では数えで三十一、句は前年の冬のものであろう。まだ老境の句には早いが、それを真似てみたということか。

2025年1月13日月曜日

  今日は白笹稲荷神社の骨董市に行った。

 それでは『雑談集』の続き。

 「定家卿のうす花櫻」は不明。薄花桜は薄紅の桜で襲(かさね)の色目にもなっている。

 くれなゐの薄花ざくらにほはずは
    みな白雲とみてや過ぎまし
            康資王母(詞花集)
 くれなゐに薄花ざくらほのほのと
    朝日いざよふをはつせの山
            藤原家隆(壬二集)

などの歌がある。

 「いせの蜑の貝とるにはおのが子を舟にのせてをとこにこがせて出る也。さて、かづきに入りて程へぬれば、その子の乳を乞ひて泣く声の底に聞ゆるに、やがてうかみてからき息をも吹きあへず舷に手をかけて乳房さし入れてはごくみける。此有様まことに仁心の発動せる所なれども、一句に云とることのかたき也と、翁の雑談を承りそれは露沾公にて、

 うき草をつかねて枕さだめけり

と云ふに、

 蜑の子なれば舟に乳をのむ

と付けたれども、三才図彙の絵などみるやうにて、さのみ一句の感賞にも及ばず成りにけり。付句は殊更時の宜しきをうかがひぬべし。」(雑談集)

 芭蕉が語った話として、伊勢の海女が貝を取りに行く時に我が乳飲み子を舟に乗せて、男(夫であろう)に舟を漕がせて海に出たが、潜って作業しているうちにその子供がおっぱいが欲しいと泣き出してその声が聞こえたので、急いで船の元に行き、船べりを掴んで浮いた状態でおっぱいを飲ませるのを見て、これこそ母の愛と感動したけど句にはできなかったという。
 それを聞いた岩城平藩の大名風虎の次男の内藤露沾が、

 うき草をつかねて枕さだめけり

という句(これは発句ではなく付け句だろう)が出た時にすかさず、

   うき草をつかねて枕さだめけり
 蜑の子なれば舟に乳をのむ    其角

の句を付けたという。発句には難しいけど、付け句には格好のネタだったというわけだ。
 前句の「うき草」を海女の小船の比喩として、海女の子が船の上で乳を飲むように、旅人もまた海女の家に厄介になるという、在原行平の面影であろう。
 まあ、ここで得意にならずに、「さのみ一句の感賞にも及ばず」と謙虚だが、付け句はいろいろネタを貯め込んで、ここぞという時にそれを出すのが大事だという話でまとめている。
 これはいわゆる手帳とは違う。手帳はあらかじめ句の形にまで作っておくことでで、句の形にせずに、こういうのが面白いといわゆるネタ帳に記しておくくらいは俳諧師なら誰しもやっていることだろう。
 「三才図彙の絵などみるやうにて」というのは絵に描いたような外ずらをなぞっただけのもので、情が籠もってないということか。
 「三才図彙」は寛文六年の序文を持つ『訓蒙図彙』のことだろうか。中国の万暦三五年(一六〇七年)の『三才図会』が元になっている。『和漢三才図会』は正徳二年(一七一二年)なので、この頃はまだない。様々な言葉を絵で説明した本で、他にも類似する本があったのかもしれない。

 「宮守が油さけ行く小夜更けて

と言ふ句を付け合せられければ、熱田の宮のいまだ造営なかりし年にて、人々の心も神さびたる折ふしにかなひて、皆俳諧の眼を付かへしは冬の日といふ五歌仙にてひびらき侍り、

   伊勢にまうでける年遷宮の良材ども拝みて
 大工たちの久しき顔や神の秋   其角
   次のとし宮うつしに
 たふとさに皆押あひぬ御遷宮   翁」(雑談集)

 宮守の句は、

   蜑の子なれば舟に乳をのむ
 宮守が油さけ行く小夜更けて   芭蕉

の付け句が存在してたということか。海女の子が乳を飲ませる頃、陸では宮守が灯籠の油を指しにゆくと、相対付けで神祇に転じるのはいかにもそれっぽい。
 ネット上の米谷巌さんの「『野ざらし紀行』における風狂者の造型」によると、

 「芭蕉を野ざらしの旅に招請した大垣の木因は、さらに伊勢・尾張の知友に芭蕉を紹介すべく案内する途中、伊勢の国の多度権現に参拝したが、その時のことを周知のように俳文「句商人」(『桜下文集』所収)に次のように記している。

 伊勢の国多度権現のいます清き拝殿の落書き。武州深川の隠泊船堂芭蕉翁、濃州大垣観水軒のあるじ谷木因、勢尾廻国の句商人、四季折々の句、召れ候へ。
 伊勢人の発句すくはん落葉川   木因
   右の落書をいとふのこころ
 宮守よわが名をちらせ木葉川   桃青」

 これは貞享元年の秋の終わりに木因の家に辿り着いて、

 しにもせぬ旅寝の果よ秋の暮   芭蕉

のあと、桑名本統寺へ行く途中、多度権現に参拝した時に、木因の上記の句の落書きを見つけて答えたもので、伊勢人は貞門時代の盲目の俳人として一世を風靡した望一の、

 山口も紅を差したる紅葉哉    望一

を踏まえていた。自分も望一のように有名になりたいということで、芭蕉はそれに更に対抗意識を燃やしたか、

 宮守よわが名をちらせ木葉川   桃青

と、望一よりも有名になりたいと答えた。
 この句と「宮守が油さけ行く小夜更けて」を重ねているのかもしれない。
 このあと尾張に戻るとあの『冬の日』の五歌仙を巻くことになる。この年はまだ熱田神宮は改修前で荒れ果てていて、

 しのぶさへ枯て餅かふやどり哉  芭蕉

の句を『野ざらし紀行』に記している。
 このあと、年が変わって三月の終わりに熱田で興行した時に、「つくづくと」の巻三十五句目で、

   入日の跡の星二ッ三ッ
 宮守が油さげつも花の奥     芭蕉

の句を付けている。
 その後に記されている、

   「伊勢にまうでける年遷宮の良材ども拝みて
 大工たちの久しき顔や神の秋   其角
   次のとし宮うつしに
 たふとさに皆押あひぬ御遷宮   翁」

は貞享五年に其角が伊勢に行った時の句であろう。
 其角は芭蕉が貞享五年九月に『笈の小文』旅から戻ると、入れ替わるように上方方面に旅に出る。この時に伊勢へ行ったのであろう。
 貞享九年は九月三十日に元禄元年に改元され、翌元禄二年は芭蕉が『奥の細道』の旅に出て、

 蛤のふたみにわかれ行秋ぞ    芭蕉

のあとの伊勢参宮で、「たふとさに」の句を詠んでいる。
 なお、「ふたみにわかれ」は芭蕉と曾良が伊勢に向かい、路通・越人と別れる時の句だった。曾良は伊勢に同行し、この日のために髪を伸ばして内宮にも参宮し、さぞかし感激したことだろう。外宮の押し合いへし合いに辟易してた芭蕉さんとの落差が感じられる。

2025年1月12日日曜日

  それでは『雑談集』の続き。

 「鉄砲と云ふ名のをかしければ句作に成りがたくて能く前句にも付け分ずして案ずるに、太巓和尚の百題詩に

 人間辜負悲猿境。
 辛苦管中多少泪。

と作られたり。是れは伊豆の山にて猟師の猿をみつけて鉄砲を取上げたるに哀猿断腸の声を出して叫びたるを即興の詩なるよし仰せられけり。辛苦管といへば則ち鉄砲ときこゆるにや。俳諧にてはかかる自由には手のとどくべからず思はれ侍る也。
 又かしは餅と云ふ名の面白からねば之を十七字にゆるめていかにとて初懐紙、

 餅作るならの廣葉をうち合せ

と、これほどには句作りぬれども鉄砲と云ひてよき句作には及ぶまじくや。されば句ほど作りよくて捌けにくきものはなし。定家卿のうす花櫻などいへるためしもありがたくこそ侍れ。」(雑談集)

 辜は「つみ」と読む。「多少」は花落知多少と同じだ沢山という意味。
 『雑談集』は元禄四年刊なので、元禄三年刊珍碩編の『ひさご』に、

   城下
 鐵砲の遠音に曇る卯月哉     野徑

の句は知っていたのだろう。ここでは鉄砲という俗語の響きを嫌って、大顛和尚が「辛苦管中」と鉄砲を管の字で表したような言い換えの言葉のことを言っているのではないかと思われる。柏餅を「餅作るならの廣葉をうち合せ」というような、別の言葉でということなのだろう。
 この句は貞享三年正月に其角門芭蕉門の十八人の連衆による百韻の五十九句目で、

   親と碁をうつ昼のつれづれ
 餅作る奈良の広葉を打合セ    枳風

の句だ。奈良と楢を掛けた句で、柏餅の葉はナラガシワの葉で代用することもあったようだ。この百韻の発句は、

 日の春をさすがに鶴の歩ミ哉   其角

だった。
 柏餅は元禄二年の「水仙は」の巻十三句目にも、

   餅そなへ置く名月の空
 はらはらと葉広柏の露のをと   泉川

の句がある。
 鉄砲に関しては翌年の元禄五年刊支考編『葛の松原』にも、

 「晋子も鉄砲といふ名のいひ難しとて千々にこころはくだきけるや。おなじ集に品かはるといふ怠の論は微細のところかくぞ心をとどめけむ。殊勝の心ざしいとうらやまし。晋子が語路おほむね酒盃に渡れりといふ人あるに宋ノ泊宅編にハ白氏が二千八百言飲酒の詩九百首なりと答へ侍るといへど晋子が性人にまぎれぬは楽天か。飲酒はなをかぎり有けれとて用の事かたづけ侍りぬ。」

とある。
 なお、いつ頃の句かわからないが、其角には、

 鉄砲のそれとひびくやふぐと汁  其角(五元集拾遺)

の句がある。フグのことを鉄砲と呼ぶのはこの句に起源があるのかもしれない。

2025年1月11日土曜日

 
 今日は近所の頭高山に登った。途中、水仙や蝋梅の咲いているのを見た。春も近い。

 それでは『雑談集』の続き。

 「智者仁者の山水に楽も心のうつるところにとどまれる也。是は是はと計り花の芳野山と云ひて、

 先の月みよし野の花やふしの雪   貞室
 いさのぼれ嵯峨の鮎くひに都鳥   仝

 富士角田川此二句をたしなみ琵琶を負ひ枕をかかへて身を風雲につかはれしも実深し。一生かきちらしたる短尺を買ひとりて末期の煙とせしも風雅身とともに終るならんかし。高山麋塒所持のかけものに、

 借銭の淵はうづまぬ氷かな     貞室

 少年にはみすまじき事ども也。
   極月廿七日

 いかなる折ふしにか有りけん。いと興あり。」(雑談集)

 「知者は水を楽しみ仁者は山を楽しむ」は『論語』雍也の言葉だという。「楽」の所には「子の曰」とルビがあり、論語の引用であることが示されている。
 孔子の言葉を引き合いに出して山水を楽しむ心ということを枕としながら、話題は山水の楽を愛した安原貞室へと移って行くことになる。
 貞室というと、

 これはこれはとばかり花の吉野山 貞室

の句が有名で其角はこの後の元禄七年刊『句兄弟』でこの句を冒頭に据え、

 これはこれはとばかりちるも桜哉 其角

の句を番わせている。この判の所に、

 「花満山の景を上五字に云とりて芳野山と決定したる處作者の自然ノ地を得たるにこそ俳諧の須弥山なるべし。よし野と云に対句して、ちるもさくらといへる和句也。是は是はとばかりの云下しを反転せしもの也。」

とある。この句の眼目はその湧き出てくる情を自然のままに「これはこれは」と言い下したところにあると言って良いだろう。当時は誰もが知るような有名な句だった。荷兮編元禄二年刊の『阿羅野』の冒頭を飾る句でもあった。
 ここでは其角はそれに加えて更に、

 先の月みよし野の花やふしの雪   貞室
 いさのぼれ嵯峨の鮎くひに都鳥   仝

の句を紹介する。いずれも富士山、隅田川を詠んだ旅体の句になる。
 花の吉野で見た月を今は富士の雪に見る。
 隅田川の『伊勢物語』で在原業平が「いざこととはん」と詠んだ都鳥(ユリカモメ)を見て都鳥なら都に飛んで行って俺のことを伝えてくれよというのではなく、嵯峨の桂川の鮎を食いに行って、ついでに‥‥とするところに俳諧がある。
 貞室もあちこち旅をしていたようだが、今となっては忘れ去られてしまって、その旅がどのようなものだったのかはよくわからないが、芭蕉が『奥の細道』の旅で山中温泉に来た時、その貞室の消息を聞かされたようだ。

 「あるじとする物は、久米之助とていまだ小童也。かれが父誹諧を好み、洛の貞室若輩のむかし爰に来きたりし比、風雅に辱しめられて、洛に帰りて貞徳の門人となつて世にしらる。功名の後、此一村判詞の科を請ずと云ふ。今更むかし語がたりとはなりぬ。」(奥の細道)

と記している。
 ここでも、点料を取らずに俳諧を教えたという無欲な人柄が伺える。
 「一生かきちらしたる短尺を買ひとりて末期の煙とせしも風雅身とともに終るならんかし。」
というのは、自分の短冊がプレミア付きで高く売られているのを見て、自ら買い戻したというのは、今の作家でも自分のサイン本なんかがメルカリやヤフオクで売られるのは面白くない思う、それに近いものだったのだろう。自分の書は自分の作品を本当に愛してくれる人に所有してほしいということで、大切に持っていてくれる人のものは買い上げたりせず、高山麋塒所持の掛け軸はそのまま麋塒が所持していて其角も見せてもらったのだろう。

 「借銭の淵はうづまぬ氷かな     貞室

 少年にはみすまじき事ども也。
   極月廿七日」

迄がそこに記されていたもので、金に無頓着だから、十二月二十七日と暮れも押し迫っているのに、借金を返す当てはない、とこんな無様な姿を若い未来にあるものには見せられないということか。
 無欲ではあるが、傍からすると借金大王の困った人だったのかもしれない。其角も「いかなる折ふしにか有りけん。いと興あり。」というが、面白いけどどうしてそうなったか気になる、といったところか。

2025年1月10日金曜日


 今日は富士花鳥園に行った。13日で休館になるという。
 そのあと白糸の滝を見た。
 帰りはサファリパークの方を通って御殿場に出て、ほぼ富士山を一周した。
 そういうわけで、きょうは『雑談集』の方はお休み。

2025年1月9日木曜日

 それでは『雑談集』の続き。

  「於大津義仲庵
 三井寺の門たたかばやけふの月   翁

 其夜を思ひ合侍るにも名月に対して月をみるおもひ出もなく我々の口質に切字を入れて参会を紛らし侍るも本意なし。

 名月や草のいほりのあたま数    路通
 空舟の河よりあまる月見哉     仙花
 月の船けふいざ出合へ鴈の声    亀翁
 海は雲野中ににくしけふの月    普船
 名月に足のうらみる平沙哉     未陌
 けふの月縁に出たる執筆哉     遠水」

 芭蕉の句は三井寺へ行って月見をしようというもので、月を見る思いから作られている。これに対して、近頃は月見とは関係なく「口質」、つまり月にかこつけて、月見の会をするでもなくその他の景色や日常のことを適当に添えて詠んでいるというのが、ここで言おうとしていることだ。これは安易な取り合わせの弊害とも言えよう。
 路通の草の庵のあたま数は月の下で日本中のたくさんの草庵で月を見ていることだろうという、いわば他人事のような句というのが気になる所だ。「あまた庵の我もまた」とかなら良いのだろうけど。
 仙花の句もこの場合の「あまる」は空船の数を越えて人がやってくるということであろう。船が余っているのではなく人が乗り切れなくて余ってるという意味でないとよくわからない。やはりたくさんの月見を楽しむ人に対して一歩引いた斜に構えた句だ。
 亀翁の句は雁の声と張り合おうということか。どっちかというと雁の句だ。
 普船の句は海は雲がかかってるので、野中で月を待たなくてはならないのが癪に障るということか。
 未陌の句は月見にみんな船で海に乗り出すから、砂に足跡が残っているというのを、「足の裏を見る」「浦を見る」「恨み」に掛けているものの、名月を賛美する句ではなく、恨み言を言っている。
 遠水の句も句会とかでありそうなことで、句会の執筆が月を見に行って、会が中断されたというあるあるではあるし、句会の席だと勢いで受けそうな感じもするが、月の本意を踏み外している。
 芭蕉に一笑に付された、

 夕涼み疝気を起こし帰りけり    去来

の句に近い。
 名月の句は、基本的に月に誘われ、自ら月を見、月を喜び、月に嘆きといった情が基本にある。月見の周りの様子を描写するというのはちょっと違うというわけだ。 

2025年1月8日水曜日

  韓国も日本も去年の後半に急激に中国寄りに動いて、これまでバイデン政権が作って来た日韓台、それにインドを加えた南からの中国包囲網が崩壊寸前になった。
 中国の情報操作による陰謀のようなものは多少はあるだろうけど、基本的には日本の戦後思想が招いてきたことだ。
 戦後思想は簡単に言えば世界は天下統一をめぐる時代で、日本は既に敗退したから、どこが世界を統一するのか、その勝馬に乗ろうというものだ。戦後のしばらくはアメリカ追従が主流で、その一方ではソ連や中京に同調しようとする左翼がいた。特にこの反米的な人たちは、ソ連の崩壊とともに一気に中国へ流れていった。
 中国や韓国の反日感情は一朝一夕に作られたものではなく、戦後長い時間をかけて日本の左翼たちが旧日本軍の残虐さをことさら誇張して語り、歴史の捏造までして広めてきたものだった。
 反日は戦後思想に基づいて日本人が考えだし広めてきたもので、今でも高齢者に戦後思想は根強く支持されている。
 中国やロシアの脅威にしても彼らには日本を守るのではなく、いかに平和的に日本を中国に併合させるかの戦いに他ならない。プーチンと習近平が台頭してきた頃は日本で反安部闘争起し、それをマスメディアはかなり過大に誇張して伝えてきた。特に朝日新聞は2チャンネルやTwitterジャパンの中に根を下ろし、ネットでも反日工作を続けてきた。
 マスクさんが来るまでは、Twitterでは毎日のようにネットデモが行われていて、それに反対するアカウントは凍結されていった。だから、あの頃に右翼は自分たちで独自のSNSを立ち上げることを真剣に考えていた。マスクさんがTwitterを買収するまでは。
 まだ2チャンネルが健全だった頃、中国・韓国・北朝鮮・日本が一つにまとまれば最強だというようなことが言われてたが、左翼はその構想に概ね則って今日でも毎日のように中国や韓国にニュースを流してきたし、ロシアを賛美したりしてきた。
 こうした活動が去年の日本の政変と今の韓国の混乱につながり、中国包囲網はもはや崩壊寸前になり、台湾進攻の準備が整いつつある。
 おそらく水面下で彼らはこう脅してるのだろう。台湾に介入するなら沖縄などの南西諸島を攻撃すると。そして、戦後思想に毒された多くの人達が、戦争を回避するためには中国に従い、台湾を見捨てるべきだとそう考えている。それが高市さんを排除し、今の石破政権を動かしている。
 おそらく中国は台湾を併合したら、次は南西諸島は中国の固有の領土だということで、返還を要求してくるだろう。この時も、拒めば本土を攻撃すると脅せば、平和を愛する日本国民の多くは日本が戦場にならないようにするために沖縄の割譲に同意することだろう。
 そして次は日本本土だ。その時のために戦後思想の申し子達は、日本の平和的併合へと情報操作を続けている。戦争は悪だ。誰も死なないならその方がいい。国を守るために命を懸けるなんて馬鹿げたことだ。そう言い続ける。その一方で日本は相変わらず野蛮な後進国で、貧富の差が激しく、庶民は皆貧困にあえいでいて、中国が支配した方が生活が良くなるかもしれないみたいに説き伏せてくるだろう。
 日本製鉄の問題も、日本が既にいつ中国に寝返るかもしれない危険な国家として認識され始めていることの表れではないかと思う。このままだと次のトランプ政権は日本や韓国を無視して、北朝鮮やロシアとの融和を進め、北からの中国包囲網に切り替えることになるだろう。
 北朝鮮は民族自決意識が高くて中国を警戒している。北朝鮮の核兵器はアメリカの方だけを向いているのではない。またロシアとの軍事的に協力しあう条約を締結したのも、敵はアメリカだけでないはずだ。

 それでは『雑談集』の続き。たとえ日本の国境が守れないとしても、日本の文化は守らなくてはならない。

 「閑見月 更る夜の人をしづめてみる月に
        おもふくまなる松風のこゑ

 名月や畳の上に松の影      角

 難問 花影乗月上欄干 此句に思ひ合する時は畳の上の松影春秋分ならず。夏の夜の涼しき体にもかよふべきか。 答 春の月なるゆゑ花影欄干に上るとはいへり。

 おぼろとは松の黒さに月夜かな  角

 光廣卿はるの月の嵐に霞まぬ心をよませ給ひてかうもよみことはよめとも春月の本意は朧々とかすみたる体がよきなりと仰せられたり。」(雑談集)

 和歌の方は誰の歌かよくわからない。似た歌は、

 秋の夜は人をしづめてつれづれと
     かきなす琴の音にぞなきぬる
             よみ人しらず(後撰集)
 松風も空にひびきて更くる夜の
     梢に高き深山べの月
             永福門院内侍(風雅集)

がある。意味はこの二つを合わせたようなもので、人が寝静まり夜も更けていく中で聴く琴の音ならぬ松風の音が悲しい、というもの。月の夜に男の通うのを待つ女を面影だったのを、仏教の無常感に転じたといった所だろう。
 これを前書きとして、

 名月や畳の上に松の影      其角

の句が提示される。
 この句を聞くと思い出すのが、

 わが宿は四角な影を窓の月    芭蕉

の句だが、芭蕉の句は貞享元年とされているが初出は元禄九年の『芭蕉庵小文庫』、其角の方はこの『雑談集』が初出のようで、どっちが先だったか実際の所はわからない。例によってお互い張り合って作った感がする。質素な何もない部屋の四角い影で「花も紅葉もなかりけり」の寂びの境地の芭蕉、松の影を添えて華やかな幻想を誘う其角、両者の個性がにじみ出ている。
 さらに言えば、其角の句は貞徳の、

   切りたくもあり切りたくもなし
 さやかなる月をかくせる花の枝

を踏まえているとも取れる。月を遮る花の影なら迷う所だが、枝ぶりの良い松の影なら「まいっか」って気分にもなる。
 其角は総じて曖昧な句から想像を膨らますことを求める。

 あれ聞けと時雨来る夜の鐘の声  其角

の句は「あれ」が何なのかあえて謎にしておいて、三井寺の鐘なのかとあれこれ想像させておいて、『猿蓑』の巻頭で、

 初しぐれ猿も小蓑をほしげ也   芭蕉
 あれ聞けと時雨来る夜の鐘の声  其角

と並ぶと、蓑笠着た猿の断腸の声を聴けというふうにカチッとはまることになる。

 まんじゅうで人を尋ねよ山桜   其角

の句も、最初の作為はわからないが、この句をみちのくに旅立つ桃隣に餞別として送ったということになると、まんじゅうで尋ねる人が芭蕉さんのことだと、これもカチッとはまってしまう。これが其角一流のテクニックだ。
 だから、この名月やの句もそのあとの問答を通じて、何かにカチッとはめようとしてやってる感じがして、前から温めて置いたこの句を一気に引き立てようとしたのではないかと思う。
 難問は今日の意味での難しい問題ではなく、「難じて問う」であろう。

 「花影乗月上欄干 此句に思ひ合する時は畳の上の松影春秋分ならず。夏の夜の涼しき体にもかよふべきか。」

 花影乗月上欄干は、

   夜直       王安石
 金炉香尽漏声残 剪剪軽風陣陣寒
 春色悩人眠不得 月移花影上欄干

ではないかと言われている。花の影ではなくここでは松の影なので、松影の句が春とも秋ともつかないなんてのは今時のネットのDQNもやらないような言いがかりだし、自作自演の可能性がある。
 名月とある以上秋の句なのは明白だ。その情は、先のあの和歌で示したということだろう。

 「答 春の月なるゆゑ花影欄干に上るとはいへり。」

 王安石の詩なら、はっきりと春の字が書かれているし、それは疑いようもない。
 ただ、この問答をすることで、さりげなく其角のこの句が立派な中国の宮殿の欄干に映る花の影にも比すべきものだというのをアピールできる。実際、この松の影が畳と書いていあるのに、欄干に映る影を見たとする解釈もある。
 作者としてはそんなのどっちでもいいんだろう。中国の宮殿の華やかな欄干を想像しようが、長屋の畳を想像しようが、その人の趣味嗜好にカチッとはまってくれればこの句は其角にとっては成功ということになる。この変幻自在さが其角の句の味わいでもある。
 芭蕉は良いにつけ悪いにつけ、句の意味は芭蕉個人の人生というか生き様に深く結びついている。其角の句にはそれがない。「伊達を好んで細し」というのは、要は粋なかっこいい言葉を生み出すことが大事だったということだ。
 この問答のあとに付け加えた、

 おぼろとは松の黒さに月夜かな 其角

の句は、「花影欄干に上る」の興だとこういう句になるという一つの見本であろう。名月は仲秋限定だが「月夜」なら「おぼろ」と組み合わせることで春の句することができる。季語は「朧月夜」ということになる。季重なりではなく、朧月夜という季語を朧と月夜に分散させと考えた方がいい。
 光廣卿は烏丸光弘で、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「烏丸光広」の意味・読み・例文・類語」に、

 「江戸初期の公卿、歌人。権大納言。姓藤原。法名泰翁。細川幽斎の門に入って古今伝授を受け、一糸和尚に参禅。歌道、歌学の復興に努める。主著「耳底記」、家集「黄葉集」など。仮名草子「目覚し草」などの作者ともいわれる。天正七~寛永一五年(一五七九‐一六三八)」

とある。嵐に霞まぬ春の月を詠んだ歌があったのだろう。ただそれは本来霞むべき月が霞まないという所に新たな情を込めただけで、春の月は朧に霞むのを本意とする。
 烏丸光弘ではないが、中世にも既に、

 嵐ふく花は今年も春の夢
     見はてん月にきゆる白雲
              正徹

の歌があり、嵐に花が散り、月の霞も吹き飛ばされれば春も終わって行く。霞まぬ春の月も春の終わりの情なら有りだろう。

2025年1月7日火曜日

 今日は七草の日なので、このAI俳画を。

 では『雑談集』の続き。

 「双六な世のさいたんやあふ目出た

など聞くもうとましき堀句する世には何にたとへんと思ひ定めし死活の境未来記なり。

 歳旦を我も我もといたしけり   春澄
 皆人は蛍を火しやといはれけり  仝

と自暴自棄の見におちて云ふべき句も放散し、人の句も心にいらで朽廃れにけるはいかに。松のはのちり正木のかつらなどたとへ置かれし聖作にそむける俳諧の罪人これらなるべし。
 かくいへば名利の境に落ち侍れどもたたともか名のとどまるにつけても俳諧の信おこたるべからず。」(雑談集)

 歳旦の句は俳諧師たちがこぞって毎年歳旦帖を出すため、それを十年二十年続けるとなるとネタ切れになるのも仕方ない。『三冊子』にも、

 「としの松、年の何、などゝ近年は歳旦に用る事あり。いかゞとたづね侍れば、師のいはく、達人のわざにあらず、論に不及と也。
 去年今年春季也。當年といふ事も季に心をなさば成べしと也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.136)

というように、ネタに困ってか何でも「年の」を付けて無理やり歳旦にするようなこともあったのだろう。「論に不及」つまり論外だということ。
 双六の句の作者はここには書いてないが、「さいたん」とひらがなで書くときは大抵掛詞というか駄洒落で、「歳旦」と「サイコロ」を掛けているのだろう。サイコロだから「合う目」が出た、「目出度い」というわけだ。
 「堀句」は「発句」をもじって、墓穴を掘ったような句という揶揄を込めての当て字だろうか。
 「死活の境」は囲碁用語で、生きてるのかどうかも怪しい、発句と言えるかどうかの境目という所だろうか。
 「未来記」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「未来記」の意味・読み・例文・類語」に、

 「① 未来の出来事を予言もしくは空想して書いた書物。聖徳太子に仮託されたものが名高く、終末論的な内容のものが多い。
  [初出の実例]「聖徳太子の未来記にも、けふのことこそゆかしけれ」(出典:平家物語(13C前)八)
  ② 転じて、予言。
  [初出の実例]「以前の搦手をからめ返し、せばめし者を随ゆべしとの未来記を、遂給ふ者也」(出典:ぎやどぺかどる(1599)上)
  ③ ( [ 二 ]から転じて ) 和歌・連歌などで、表現や趣向をこらしすぎて不自然になったものをいう。
  [初出の実例]「首尾のかけあはぬ事のみ体に成侍べしと、戒め給ふ、未来記と申也」(出典:砌塵抄(1455頃))」

とある。この場合は③の意味。
 春澄の歳旦と蛍の二句も自暴自棄、いわば「やけくそ」というやつで、ネタがない所でそれでもどうしても作らねばと苦し紛れで捻り出した感がある。
 確かに俳諧師はみんな歳旦帖を出すから、「我も我も」ではある。まあ、春澄さんもその一人だが。
 蛍の句の方は「火しや」は火車のことか。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「火車」の意味・読み・例文・類語」に、

 「① 仏語。火の燃えている車。生前、悪事を犯した罪人を乗せて地獄に運ぶという。また、地獄で罪人を乗せて責める火の車。」

とある。
 蛍は身を焦す恋心などにもよく喩えられるが、そういう煩悩の火という意味で「火しや」ということか。自分の心を喩えるならまだしも、いかにも他人事のように言うのが何とも言えない。
 「松のはのちり正木のかつら」は

 をしほやまゆふしも白き松の葉の
     ちりも幾夜の年つもるらむ
             行能(夫木抄)
 松に這ふ正木のかつら散りにけり
     とやまの秋は風すさぶらむ
             西行法師(新古今集)

だろうか。松の葉の散るは塵、つまり煩悩の積ると掛詞になり、それを西行はさらに松に絡みついた正木かづらの煩悩の散る=塵に掛けて、無情の秋風に仏の救いを求める寓意を持たせている。「聖作」は御製の意味もあるが、ここでは神のような作品ということで、今でいう神に近い言い回しということでいいのだろう。
 こうした古人の高度な掛詞の技法を、双六の目の目出たいなどといういかにも俗っぽい、いわゆる駄洒落にしてしまってるのは、いくら俳諧が笑いを追求するものだとは言っても、ちょっと違う。「聖作にそむける俳諧の罪人」というわけだ。
 「ば名利の境に落ち侍れども」というのは俳諧師としてのルーティンを優先させてということなのだろう。とはいえ、結局駄作をばら撒けばその名も落すことになりそうなものだが。「たたともか名のとどまる」はよくわからない。名を留めるということか。
 「俳諧の信」は「俳諧のまこと」であろう。それに反するということだ。これは春澄のことだけでなく、その前の忠知の素行の悪さも含めてのことであろう。

2025年1月6日月曜日

 今年は蛇年ということでAI俳画で貞徳の句。

 雲は蛇呑みこむ月の蛙かな    松永貞徳

 貞門の時代は俳号ではなく名字と名乗りで記すことが多かった。『佐夜中山集』では、芭蕉は松尾宗房、これから『雑談集』に出て来る忠知も神野忠知と表記されている。

  では『雑談集』の続き。

 「家を売りたるふち瀬にとは盛衰の至誠をよまれたり。負物いたく成りぬれば風雅なりとて主人ゆるさず。されば白炭と聞えし忠知が、

 霜月やあるはなき身の影法師

と辞世して腹切りける。いかにせまりたる浮世にはなりけん哀れなり。かの佐木をさへ忠知が子なりといへば人も憐み見かはしけり。五十年来の俳諧の正風をそえいれるもの獨なり。

 元日や何にたとへん朝ぼらけ    忠知」(雑談集)

 忠知は神野忠知でコトバンクの「デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「神野忠知」の解説」に、

 「1625-1676 江戸時代前期の俳人。
 寛永2年生まれ。江戸の人。井坂(井上)春清(しゅんせい)の門人。「白炭ややかぬむかしの雪の枝」の句により白炭の忠知とよばれた。延宝4年11月27日自刃(じじん)したという。52歳。通称は長三郎,長右衛門。号は沾木子(せんぼくし)。」

とある。
 竹内玄玄一の『俳家奇人談』(1816年刊)にも、

 「神野忠知は江戸の人、俗称長三郎、承応の頃、井坂春清が俳諧をまなぶ。

 元日や何にたとへん朝ぼらけ
 何心つかぬに土手の菫かな

 また、

 白炭ややかぬ昔の雪の枝

 この秀詠より白炭の忠知と嘆美せらる。其角が雑談集に曰く、白炭を聞えし忠知が、

 霜月やあるはなき身の影法師

と、辞世して腹切りける。いかに浮世とは言ひながら哀れなりと。」(『俳家奇人談・続俳家奇人談』竹内玄玄一著、雲英末雄校注、1987,岩波文庫p.53)

とある。
 白炭の句で一世を風靡したようだが、その後忘れ去られてしまったか、『俳家奇人談』も其角の情報をなぞってるだけだ。雑談集に「家を売りたる」「負物いたく成りぬれば」とあることから、借金をこさえて家を売り払って、「主人ゆるさず」は勘当されたということか。
 いかに俳諧の才能があっても私生活がだらしなければ身が持たないという戒めなのだろう。
 白炭は風虎主催、任口、季吟、維舟判の延宝五年(一六七七年)『六百番俳諧発句合』も、

 白炭や彼うら島が老のはこ     桃青

の句を詠んでいる。黒く焼いた炭に灰をかけて表面を白したもので、

 白炭ややかぬ昔の雪の枝      忠知

の句も、古くなって使い古され黒ずんだ杖に雪がかかって、まるで白炭みたいだというもの。「やかぬ昔の雪の杖は白炭や」の倒置。松江重頼編寛文4年(1664)刊の『佐夜中山集』にある。
 菫の句は荷兮編元禄二年刊の『阿羅野』に、

   暮春
 何の気もつかぬに土手の菫哉   忠知

とある。貞享二年春の、

 山路来て何やらゆかしすみれ草  芭蕉

の句に先行する句ということもあって再評価され、ここに掲載されたか。

2025年1月5日日曜日

 一年の始まりということで、今日は縁起の良い富士山の写真から。
 これは今日震生湖まで散歩した時の写真。大分雲が多い。

 それでは久しぶりに『雑談集』の続き。

 「鏡を形見といへる重高の歌にや装束つくろひて鏡の間にむかへるに

 親に似ぬ姿ながらもこてふ哉 寶生 沾蓬」(雑談集)

 重高は不明。鏡と形見を掛けた歌は古来数多くある。

 おもひいでむ形見にもみよます鏡
     かはらぬ影はとどまらずとも
             惟明親王(続後撰集)
 ます鏡うつりしものをとばかりに
     とまらぬ影も形見なりけり
             行能(続拾遺集)
 ありし世の形見も悲します鏡
     うきにはかはる面影もがな
             少将内侍(文保百首)

など。
 句の作者に寶生とあるから宝生流の者であろう。公益社団法人宝生会のホームページによると、八代宝生大夫の重友の所に、

「重房の子。寛永一三年(1636)、重房隠居を受けて大夫を継ぎ、徳川将軍家の四代家綱、五代綱吉に仕えました。
 古将監と呼ばれる名手で、和漢の学にも通じ、伝書を残しています。
 熱心な法華経の信者であったとも伝えられています。万治二年(1659)五月、京都で四日間の勧進能を、また寛文三年(1663)七月に江戸鉄砲洲で四日間の勧進能を催しました。
 なお重友の三男の重世(しげよ)は、俳句をよくし蕉門に入って雛屋の跡を継ぎ、沾圃(せんぽ)と名乗りました。」

とあるから、重高も沾蓬も、後に『続猿蓑』を編纂することになる沾圃や、その義理の父の野々口立圃などと近しい間柄だったのだろう。
 句の「こてふ」はおそらく謡曲『胡蝶』のことで、親の形見の鏡の前で蝶の精の舞をしてみたが、親にはとても及ばない、それでも一生懸命頑張っている、と言った所か。
 この内容からすると沾蓬は宝生重友の親族に重高というのがいて、その息子だったのかもしれない。
 宝生重友は貞享2年に亡くなっていて、『雑談集』の頃の其角の記憶にも残っていることだろう。重友には友春と重賢(しげかた)がいて、九代宝生大夫を継いだのは友春の方だった。コトバンクの「デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「宝生友春」の解説」に、

 「1654-1728 江戸時代前期-中期の能役者シテ方。
承応(じょうおう)3年生まれ。宝生重友(しげとも)の子。父の跡をつぎ,宝生流9代となる。将軍徳川綱吉(つなよし)・家宣(いえのぶ)・家継・吉宗(よしむね)につかえた。金沢藩主前田綱紀(つなのり)の愛顧をうけて加賀宝生流の基礎をつくった。享保(きょうほう)13年8月8日死去。75歳。通称は九郎,将監。」

とある。
 重賢の方はウィキペディアに、

 「観世 重賢(かんぜ しげかた、万治元年(1658年) - 延享3年4月23日(1746年6月11日))は、江戸時代の猿楽師。12世観世大夫。通称は初め三郎次郎、大夫就任と同時に左門を名乗る。隠居してのちは服部十郎左衛門、さらに出家して服部周雪と改めた。
 宝生家からの養子として観世大夫を嗣ぐが、29歳でその地位を去る。以後は前大夫として尊重を受けつつ京・江戸で隠居暮らしを送り、89歳で死去した。」

 ウィキペディアの「観世流」の方には、

 「12.左門重賢
 1658年〜1746年。宝生大夫重友の子。29歳の時、在任4年で大夫を退き、以後は京都などで隠居生活を送り、いわゆる京観世にも影響を与える。」

とある。引退の年はウィキペディアの観世重賢の所に、

 「ところがそれを見届けるや同年5月19日、重賢は病気を理由に幕府に隠居願を出し、在任4年にして観世大夫の座を織部に譲ってしまう。
 29歳という若さでの隠居は異例であり、その原因がさまざまに推測されている。重賢が当時病を患っていたことは事実らしいが、とはいえ隠居の必要までは感じられない[13]。宝暦10年(1760年)に著された『秦曲正名閟伝』は(養子ゆえの)周囲からの孤立が隠居の要因であると示唆し、また『素謡世々之蹟』は重賢自身の宮仕えを嫌う気ままな性格に原因を求めている。能楽研究者の表章はこれらに加え、上述したような綱吉政権下における能界の混乱に嫌気が差したことが大きな理由だったのではないかと推測している。」

とあるが、前年の父の死が影響している可能性は十分ある。
 この二人とは別に、宝生会のホームページによると、重友には友春と重賢の他に三男の重世(しげよ)がいて、これが沾圃だという。ここで沾蓬と沾圃の名前が似ているのが気になではなかったか。
 一つの推測だが、重高は重友の間違いで、沾蓬は沾圃ではなかったか。高と友は草書だと似てなくもない。(ただし、早稲田大学図書本、京都大学附属図書館所蔵本はともに楷書で「高」と書かれている。間違いだとすれば原稿か版本の清書の段階で間違えたことになる。)
 また、沾蓬が沾圃とは別人ならば、隠居した重賢の可能性もある。いずれにせよ、父のように上手く胡蝶を舞えない所に負い目を感じて詠んだ句に思われる。
 胡蝶は荘子の『胡蝶の夢』を題材にした能で、生まれ変わりの意味がある。父の生まれ変わりにはなれなかったという嘆きをこの句に込めたように感じられてならない。
 沾蓬は『雑談集』に、

 はつ茸のうらより朽る日蔭かな   沾蓬

の句がある他、

 黒塚の誠こもれり雪をんな     其角
   蹴あげ目にたつ白革の足袋   沾蓬

に始まる両吟歌仙を巻いている。
 また、元禄7年春の芭蕉同座の興行で、

 水音や小鮎のいさむ二俣瀬     湖風
   柳もすさる岸の刈株      芭蕉
 見しりたる乙切草の萌出て     沾蓬

に始まる半歌仙に参加している。
 同じ頃「八九間」の巻では沾圃と同座している。