市川沙央さんの「ハンチバック」を読んでみた。純文学を読むのはまっさんの「火花」以来か。
読みやすい文章だし、ラノベファンだけあって親しみが持てる感じがした。また、それほど長くないこともあってか、一気に読めた。
ハードモードなのはラノベのダークな世界で耐性が付いていればそれほど苦にはならない。まあ、ラノベに出てくるような純情な男ではなく、いかにもいそうなダメ男が描かれてたり、そこは純文学だな。
ルソーは『人間不平等起源論』で自然状態の人間を「自然は立派な体格の人達を強くたくましいものにし、そうでない人をすべて滅ぼしてしまうのだ。」と言ってたが、「自然に帰れ」というのがいかに糞な思想かがよくわかる。高度な文明があって初めて生きられ、仕事ができ、小説が書ける人がいるというのを忘れてはならない。
これまで重度の障害者が芥川賞を取れなかったのは単純な理由で、本のページをめくることもペンによる執筆作業もできなかった人に、どうして小説が書けるのかという問題があった。iPad miniがそれを解決してくれた。
作品の中にデビット・リンチの名前が出てきたが、『エレファント・マン』のことであろう。あの中にも大勢の学者の見世物になって、生殖器だけが正常だという場面があった。「ハンチバック」もこれが下敷きになってると見ていいのかもしれない。
障害者が性的機能を持ってて何がおかしいのか。同じ人間じゃないか「I'm human being!」。あの叫びが根底にあるんだと思った。
泥をすすりながら底辺で生きている人間もいれば、高度な医療装置の中で泥に触れることを許されない人間もいる。どっちも同じ人間なんだ。I'm human being!と言って良いんだ。
蓮の花は仏教的なテーマで、和光同塵というか、泥の中で塵にまみれてこそ仏の救いが必要なんだという古典的なテーマでもある。
みず
泥や夢水耕栽培の蓮の花
最後の部分は現世間転生だろうか。ネタ的に面白い要素が詰まっているが、これについてはあまり語ると思いきりポリコレ棒で殴られそうだな。
それでは「十いひて」の巻の続き。
二表
二十三句目
長閑にすめる江戸の川口
殿風に立春風やおさるらん
花を散らす春風も江戸の殿様の風に抑えられて、江戸は平和な中に繁栄を極めている。
点なし。
二十四句目
殿風に立春風やおさるらん
弓はふくろに雲はどちやら
「弓はふくろに」に『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』(森川昭、加藤定彦、乾裕幸校注、一九九一、岩波書店)の注は謡曲『弓八幡』の、
ツレ「弓を袋に入れ、
シテ「剣を箱に納むるこそ、
ツレ「泰平の御代のしるしなれ。(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (p.118). Yamatouta e books. Kindle 版. )
を引いている。全体が天下泰平をことほぐのをテーマとして能で、
ツレ「花の都の空なれや、
シテ・ツレ「雲もをさまり、風もなし。
シテ「君が代は千代に八千代にさざれ石の、巌となりて苔のむす、(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (p.116). Yamatouta e books. Kindle 版. )
という言葉もその前の場面にある。
雲も収まりを前句の「春風やおさるらん」を受けて、「雲はどちやら」と俗語にするところに俳諧らしさがある。
長点で「一句の取合不都合によく又相叶候」とある。
二十五句目
弓はふくろに雲はどちやら
天下みな見えすくやうに治りて
占い師は算木を入れた算袋と持ち歩いていた。前句の弓をその算袋に見立てて、さて雲はどちらへ行ったかと、天下のことをみんな見え透くように占ってくれる。
「おさまる」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「治・納・収」の意味・読み・例文・類語」に、
「① 乱れや騒ぎなどがしずまること。→納まりが付く。
※歌舞伎・三人吉三廓初買(1860)三幕「『ほんに私しゃどうなることかと案じてゐたによい所へ』『文里さんのござったので』『波風なしに此場の納(オサマ)り』」
② 物事が進んでいって最後に落ち着くところ。結末。決着。また、うまく落ち着くように処置すること。→納まりが付く。
※愚管抄(1220)七「随分随分の後見と主人とひしとあひ思ひたる人の家のやうにをさまりよきことは侍らぬ也」
③ (金銭などが)受け取られること。納入されること。また、自分の所有になること。収入。
※滑稽本・浮世風呂(1809‐13)四「けふら乾魚(ひもの)を売居(うって)るやうぢゃァ納(ヲサマ)りやア悪いナ」
④ 物のすわり具合。また、物と物とのつり合いの具合。→納まりが付く。
※滑稽本・大千世界楽屋探(1817)口絵「からじるでこなからのみなほさうといふばだが、チョッ納りはわりいぜ」
とある。この場合は②にすることで、前句の賀から離れて、占いによって天下の色々な問題が解決してゆく、とする。
長点で「眼力奇妙候」とある。この言葉は『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』(森川昭、加藤定彦、乾裕幸校注、一九九一、岩波書店)の注に、「占算の看板の語」とある。
二十六句目
天下みな見えすくやうに治りて
紙一枚に名所旧跡
前句の「治りて」を収録する意味に取り成し、一枚の紙に描かれた名所図会にする。
点あり。
二十七句目
紙一枚に名所旧跡
扇まつ歌人居ながら抜出し
歌人というのは行ったこともない歌枕の歌をさも見てきたかのように詠むもので、扇に名所旧跡の歌を書くように言われた歌人は、きっと魂が抜けだして名所へ飛んでるのだろう。
点あり。
二十八句目
扇まつ歌人居ながら抜出し
みださざりける大うちの時宜
『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』(森川昭、加藤定彦、乾裕幸校注、一九九一、岩波書店)の注によると、前句を扇の拝に取り成したのだろいう。
扇の拝はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「扇の拝」の意味・読み・例文・類語」に、
「中古、陰暦四月一日に、役人たちを宮中に召し出し、酒を賜わり、政治のことをお聞きになった朝廷の儀式。孟夏旬(もうかのじゅん)にあたって、役人たちに扇を分け与えることから、この名が生じた。《季・夏》 〔公事根源(1422頃)〕」
とある。
まあ、宮中の役人といえば歌人も多いことだろう。ただ、「居ながら抜出し」は生かされてないように思える。
点なし。
二十九句目
みださざりける大うちの時宜
果報力つよき上戸の差合に
果報力(くわほうりき)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「果報力」の意味・読み・例文・類語」に、
「〘名〙 前世の因によって現世でよい報いを受ける力。幸運を呼ぶ力。
※御伽草子・釈迦の本地(室町時代物語集所収)(室町末)「太子の、御くゎほうりきによって、どくにも、やぶられたまはず」
とある。まあ、強運に恵まれてるくらいの意味か。
こういう人は酔っ払って喧嘩しても不思議と許されてしまうものだ。
点あり。
三十句目
果報力つよき上戸の差合
耳引手をねぢ分も御座らぬ
酔っぱらいの喧嘩は耳を引っ張ったり手をねじ上げたりしても、咎められると「いや何でもない」とか言って治まる。
点あり。
三十一句目
耳引手をねぢ分も御座らぬ
喧嘩をばかやうかやうに仕ちらかし
火事と喧嘩は江戸の華というが、大阪も一緒だったのだろう。市場でも長屋でも喧嘩は日常茶飯事で、それでも大怪我したり死んだりすることはほとんどなくて、次の日にはお互いけろっとしてたりする。
長点で「下々のありさま見るやうに候」とある。武士だとそうはいかない。すぐ刀を抜いて、末は切腹お取り潰しで、庶民が羨ましかろう。
三十二句目
喧嘩をばかやうかやうに仕ちらかし
目安にのするより棒の事
これもまあ、庶民の喧嘩も素手で仲良く喧嘩してればいいが、大喧嘩になれば六尺棒を持った岡っ引きがわらわらとやって来て取り調べを受ける。
長点で「たたかれたるよしを申上候哉」とある。
三十三句目
目安にのするより棒の事
私儀木戸のものにて候き
木戸番であろう。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「木戸番」の意味・読み・例文・類語」に、
「① 江戸の町に設けた木戸の自身番屋。また、そこの番人。番所は中番、番人は番太郎ともいった。
※御触書寛保集成‐三九・寛文二年(1662)九月「一、町中木戸番之者、夜中川岸棚下入念を相改」
② 芝居小屋、また相撲、見世物などの興行場の木戸口を守り、客を引いた番人。
※仮名草子・都風俗鑑(1681)三「狂言のはてくちに、彼城戸(キド)ばんが『御評判御評判』と、息すぢはりてわめくがくだなり」
③ 転じて、一般に人の出入りするところの番をすることや、店先で客の来るのを待つことなどにいう。
※滑稽本・八笑人(1820‐49)三「蚊を入れられては恐れるから、おれが木戸番をしてやらう」
とある。目安の申し立てを①の木戸番とした。番太郎はウィキペディアに「多くは非人身分であった。」とある。もっとも不釣り合いだから俳諧の笑いになるのだろうけど。
長点でコメントはない。
三十四句目
私儀木戸のものにて候き
銭はもどりに慈悲を給はれ
前句を②の方の芝居小屋の木戸番とする。芝居がコケて客が金返せと騒ぎだしたのだろう。金は返しますから、どうかお慈悲を。
点あり。
三十五句目
銭はもどりに慈悲を給はれ
月影も廻り忌日の寺まいり
期日にお寺へお参りに行ったら、帰りの門前で乞食がお恵みをと言ってきた。
点なし。
三十六句目
月影も廻り忌日の寺まいり
随気のなみだ袖に置露
随気(ずいき)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「随気」の意味・読み・例文・類語」に、
「〘名〙 わがまま。きまま。気随。」
とある、気随気儘という言葉もある。
同音で隋喜だと、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「随喜」の意味・読み・例文・類語」に、
「① 仏語。他人のなす善を見て、これにしたがい、喜びの心を生ずること。転じて、大喜びをすること。
※法華義疏(7C前)四「第二拠二随喜功徳一作レ覓」
※霊異記(810‐824)中「王聞きて随喜し、坐より起ち長跪(ひざまづ)きて、拝して曰く」 〔法華経‐随喜功徳品〕
② (①から転じて) 法会などに参加、参列すること。
※栄花(1028‐92頃)うたがひ「その日藤氏の殿ばら、かつはずいきのため、聴聞の故に残りなく集ひ給へり」
とある。これだと当たり前すぎるので随喜に掛けて随気としたか。
点なし。
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