「動戦士ガンダム 水星の魔女」の海外の反応を見てたらyuriはもはや世界の言葉になっているのか。そのうちアメリカ映画でも真似するかな。
まあ、とにかくスレッダとミヨリネの結婚をみんなが祝福する、日本はそういう国だ。同性婚に反対している人はそんな多くはない。
それでは「かしらは猿」の巻の続き。
三表
五十一句目
ふ屋が軒端に匂ふ梅が香
春のよの価千金十分一
当時の麦の相場はよくわからないが、麩は宮廷や寺院などで食べる高級なものだったのが、この頃次第に庶民の者になっていった時期だという。
うどんや素麺の普及などもあり、小麦が大量に消費される時代になったということは、それだけの小麦の生産の拡大があって小麦が庶民の食べ物として定着していったことを考えれば、小麦の価格が十分の一になるということもあったかもしれない。
長点で「此ほど爰元に下居候」とあり、小麦相場の暴落があった可能性が高い。
五十二句目
春のよの価千金十分一
月もいづくにかけ落の跡
春の宵が価千金というのは、
春夜 蘇軾
春宵一刻直千金 花有清香月有陰
歌管楼臺聲細細 鞦韆院落夜沈沈
(春の宵の一刻は千金のあたい、花は清く香り月の影が差し
楼閣の歌も笛も声を細て、ブランコも庭に落ちて夜が静かに)
の詩に由来するが、それも月があってのもの。月が欠けてゆけばその値も十分の一になる。
欠ける駆け落ちに掛けているが、この時代の「駆け落ち」は必ずしも男女の駆け落ちには限らず、広く失踪の意味を持っていた。恋の言葉にはならない。
コトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「欠落・駆落・駈落・馳落」の意味・読み・例文・類語」に、
「① 逃げて、行方をくらますこと。逐電。出奔。
※史記抄(1477)一五「諸客━孟嘗君が客のやうにかけをちをするぞ」
※浮世草子・御前義経記(1700)三「主君につかへて断なく出れば欠落(カケオチ)同然」
※坑夫(1908)〈夏目漱石〉「生家(うち)に居ては自滅しやうがない。どうしても逃亡(カケオチ)が必要である」
② 従軍した兵士が、戦場から逃亡すること。
※赤松記(1588)「左馬助は御陣に居候へども、中比欠落致し候」
③ 戦国時代、農民が戦乱をきっかけに離村したり、または重税からのがれるために散発的に離郷すること。また組織的に領主に抵抗するため郷村を離れることをもいう。都市への欠落ち者も多かった。
※泉郷文書‐永祿一〇年(1567)二月六日・今川氏実朱印状「若又本百姓并小作等年貢引負令二欠落一、重郷中於令二徘徊一者、見合搦捕注進之上可レ加二成敗一事」
④ 江戸時代、貧困、悪事などによって居住地を逃亡し、行方をくらますこと。これは、戸籍上、また保安上から厳しく禁じられ、欠落者の捜索方法や罰則などの細則があった。中世の逃散(ちょうさん)が団体的、政治的なのに対して、個人的な色彩が強く、法制上では現在の失踪に近い。
※慶長見聞集(1614)九「人をすかして銭金をかり、身の置処なふしてかけおちするものも有」
⑤ 相思の男女が、互いにしめし合わせて、ひそかに他所へ逃げ隠れること。
※咄本・さとすゞめ(1777)欠落「ふたりいいやわせ欠落をして、よふよふふじ沢までにげのび」
とある。
点あり。
五十三句目
月もいづくにかけ落の跡
ながらへて年より親のおもひ草
月が欠けるのを比喩として「駆け落ち」としてたのを、人の駆け落ちとする。
放蕩息子が借金こしらえて失踪して、いろいろあったけど、今はそれを月を見ながら思い出す年になった。
点なし。
五十四句目
ながらへて年より親のおもひ草
又くる秋にいたむよはごし
年寄りの悩みと言えば秋になると腰が痛くなること。
点なし。
五十五句目
又くる秋にいたむよはごし
ねぢまはすにぎりこぶしに露ちりて
前句の「よはごし」を臆病の方の弱腰とする。
人の理不尽にもただ拳を握り締めるだけで、何もできないまま時は過ぎて行く。
点なし。
五十六句目
ねぢまはすにぎりこぶしに露ちりて
うるし吹こす風は有けり
前句を漆を濾す作業とする。
漆の濾過は吉野紙が用いられる。コトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ) 「吉野紙」の意味・わかりやすい解説」に、
「大和(やまと)国(奈良県)の吉野地方で漉(す)かれる和紙の総称。この地方の紙漉きは、大海人皇子(おおあまのおうじ)(後の天武(てんむ)天皇)が村人に教えたのに始まるとの伝説があるほど古く、奈良紙の伝統が国中(くんなか)(大和平野)からしだいに山中(さんちゅう)(吉野川上流)へ移ってきたものである。室町時代に上質の雑用紙であった奈良紙は、やわら紙として名高く、また江戸時代になってからは吉野の国栖(くず)(国樔とも書く)や丹生(にう)で漉かれた同質の薄紙が、漆漉(こ)しの名で世に知られた。薄くてじょうぶなため、その名のとおり漆や油を漉すのに適し、また美しいために装飾品や菓子などの包み紙にも重宝された。同質の紙には紀伊国(和歌山県)の音無(おとなし)紙、美濃(みの)国(岐阜県)や土佐国(高知県)の典具帖(てんぐじょう)、羽前国(山形県)の麻布(あさぶ)紙などがあり、これらはごく薄手の代表的な楮紙(こうぞがみ)である。吉野郡ではこのほかに、宇陀(うだ)紙という厚手の楮紙や、三栖(みす)紙という薄紙など多くの種類の和紙が漉かれたが、これらを総称して吉野紙という。谷崎潤一郎の小説『吉野葛(くず)』に吉野紙の紙漉き村の描写があるように、現代も国の文化財保存技術者に指定された少数の漉き家に、伝統技術が受け継がれている。[町田誠之]」
とある。
点あり。
五十七句目
うるし吹こす風は有けり
三よしのの吉野を出て独すぎ
漆に吉野紙の縁で吉野の旅に転じる。
点なし。
五十八句目
三よしのの吉野を出て独すぎ
へよんな事する妹とせの山
妹背山は吉野の歌枕で、
落ちたぎつ吉野の川や妹背山
つらきが仲の涙なるらむ
藤原知家(続拾遺集)
の歌は『歌枕名寄』にもある。
「へよんな」は「ひょんな」ということ。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「ひょんな」の意味・読み・例文・類語」に、
「〘連体〙 予期に反して不都合なこと、異様なことについていう。思いがけない。意外な。また、妙な。〔日葡辞書(1603‐04)〕
※牛部屋の臭ひ(1916)〈正宗白鳥〉三「娘がひょんな噂の立てられるのさへ厭うて」
とある。まあ、どうせ夜這いか何かだろう。
長点で「瓢事何事とは不知候へども、いか様用有さうに候」とある。
五十九句目
へよんな事する妹とせの山
麻衣たつ名もしらで後から
「後ろから」は『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』(森川昭、加藤定彦、乾裕幸校注、一九九一、岩波書店)の注に男色のこととある。まあ説明の必要もあるまい。
うしろむきてぞせをかがめける
こかづしき流石に道をしりぬ覧 兼載
と中世の俳諧にもある。小喝食は稚児のこと。じゃにさんも吉次さんに後ろから。
長点で「無理若衆になしたる歟」とある。
六十句目
麻衣たつ名もしらで後から
汗になりたる恋路はいはい
「はいはい」は文字通り夜這いのことであろう。打越は「へよんな事」としか言ってないので輪廻を逃れる。宗因が「用有さう」と言ったのは、式目をかいくぐるのに便利そうだ、といういみだったか。
前句の「麻衣」を生かして、夏の麻衣を汗びっしょりにして通う、という意味になる。
後からは体位のことではなく、気付かれないようにという意味に取り成す。
点なし。
六十一句目
汗になりたる恋路はいはい
倫言はおほせのごとく馬に鞍
「倫言汗の如し」という諺があり、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「綸言汗の如し」の意味・読み・例文・類語」に、
「(「漢書‐劉向伝」の「号令如レ汗、汗出而不レ反者也、今出二善令一、未レ能レ踰レ時而反、是反レ汗也」から) 君主の言は、一度出た汗が再び体内にもどらないように、一度口から出たら、取り消すことができない。
※康頼宝物集(1179頃)下「爰以仏は虚妄せずと言給ひ、綸言汗のことし。天子は二言なしと申たり」
とある。
ここでは単に忠告は受けながらも、取り返しのつかないことをしてしまった、ということで、「はいはい」は女のもとに通うのに馬に乗って行った、ということにする。
「はいはい」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「はいはい」の意味・読み・例文・類語」に、
「[1] 〘感動〙 (「はい」を重ねて強めたもの)
① 応答のことば。多く、相手の呼びかけに気軽に応じたり、相手のいうことを抵抗なく承認したりする時に用いる。現代、「二つ返事」と称する。
※随筆・羇旅漫録(1802)下「素人にてもハイハイと返詞をするものを、小芝居出といふて笑ふなり」
※十三夜(1895)〈樋口一葉〉中「唯々(ハイハイ)と御小言を聞いて居りますれば」
② 相手の注意をうながす時に用いることば。
※浄瑠璃・女殺油地獄(1721)上「手振の先供はいはい、はいはいの声をも聞ず与兵衛が」
③ 牛馬を追う時の掛け声。
※俳諧・談林十百韻(1675)上「落城や朝あらしとぞなりにける〈志計〉 はや馬はいはい松の下道〈一鉄〉」
[2] 〘名〙
① 馬をいう幼児語。馬を追う掛け声からいう。
② とるにたりない者。未熟な者。ぱいぱい。
※浮世草子・人倫糸屑(1688)若衆上「配々(ハイハイ)の寺児姓、おおくは根ざし下輩民間より出たる」
③ 「はいはいやくしゃ(━役者)」の略。
※雑俳・柳多留‐九(1774)「はいはいは毛氈なしにころげ込み」
とある。
馬を追う掛け声>馬>幼児の四つん這いになったものと思われる。
『源氏物語』でもお忍びで通う時には牛車ではなく馬を用いる場面がある。夕顔巻に、
「知っている女に会いに来たというわけではないので、源氏の君も特に名乗ることもなく、やむをえないとは言えわざとみすぼらしい格好をしたのですが、さすがに牛車から降ろして歩かせるなんてことは前例のないことで、配慮に欠けると思われてもいけないので、惟光は自分の馬を貸して、自分は走ってお供をしました。」
という場面がある。
長点だがコメントはない。
六十二句目
倫言はおほせのごとく馬に鞍
双六のさいでつちはくるか
「双六の賽、丁稚は来るか」。
双六のサイコロで重一(今の言葉だと「ぴんぞろ」)のことを「でっち」と言った。「重一(でふいち)」の訛りだという。
双六のサイコロを握り締めて、「さあ、重一(でっち)が来るかな、重一(でっち)よ馬に鞍持ってやって来い!」とか言って振る情景が目に浮かぶ。
点あり。
六十三句目
双六のさいでつちはくるか
お日待の更行空に湯のみたい
日待ちはコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「日待」の意味・読み・例文・類語」に、
「〘名〙 人々が集まり前夜から潔斎して一夜を眠らず、日の出を待って拝む行事。普通、正月・五月・九月の三・一三・一七・二三・二七日、または吉日をえらんで行なうというが(日次紀事‐正月)、毎月とも、正月一五日と一〇月一五日に行なうともいい、一定しない。後には、大勢の男女が寄り集まり徹夜で連歌・音曲・囲碁などをする酒宴遊興的なものとなる。影待。《季・新年》
※実隆公記‐文明一七年(1485)一〇月一五日「今夜有二囲棊之御会一、終夜不レ眠、世俗称二日待之事一也云云」
とある。第二百韻の八十五句目にも
十方はみな浄土すご六
お日待の光明遍照あらた也 幾音
の句があり、日待ちの双六はお約束だったのだろう。
前句の「丁稚はくるか」を「湯のみたい」で受ける。
点あり。
六十四句目
お日待の更行空に湯のみたい
岩戸をすこしひらく弁当
日待ちを日の神天照大神を待つ行事に見立てて、岩戸に籠った天照大神が戸を少し開いて弁当を受け取り、「湯も飲みたい」という。何か今のただの引き籠りみたいだ。この時代にもヒキニートっていたのだろう。
長点だがコメントはない。
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