それでは「十いひて」の巻の続き。
初裏
九句目
塩屋の一家花野の遊舞
夕露は浦辺におゐて隠なし
『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』(森川昭、加藤定彦、乾裕幸校注、一九九一、岩波書店)の注は、
いかにせむ葛のうらふく秋風に
下葉の露のかくれなき身を
相模(新古今集)
の歌を引いている。
ただ、この場合隠せないのは泪の露ではなく、夕露という遊女であろう。上方の伝説の遊女夕霧太夫をイメージしたものか。
夕霧太夫は延宝六年没だから、この時点ではまだ現役。宗因の寛文の頃の独吟恋百韻「花で候」の巻も、
さしにさしお為に送る花の枝
太夫すがたにかすむ面影 宗因
と今を時めく太夫の登場で締めっくくっている。寛文十二年までは島原遊郭にいたが、以後大坂新町に移転している。浦辺と言えなくもない。
点なし。
十句目
夕露は浦辺におゐて隠なし
とふにおよばぬあれは船持
船持(ふなもち)は船のオーナーで、お金も持ってそうだ。
わくらばにとふ人あらば須磨の浦に
藻塩たれつつわぶとこたへよ
在原行平(古今集)
を踏まえて、行平なら隠れて住んでどうしてこんな所にいるんだと問う人もいるだろうけど、金持ちの船のオーナーはこれ見よがしで問う必要はない。
点あり。
十一句目
とふにおよばぬあれは船持
呑酒の其壺許は合点じや
舟持ちは太っ腹で、酒の一坪くらい奢るなんて何でもない。問う必要もない。
点あり。
十二句目
呑酒の其壺許は合点じや
市立さはぐ中の目くばせ
市立(いちたち)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「市立」の意味・読み・例文・類語」に、
「① 市(いち)が立つこと。また、市。→市が立つ。
※虎明本狂言・河原太郎(室町末‐近世初)「けふは天気がよひに依て、したたかな市立じゃ」
② 市に出かけること。また、その人。
※政基公旅引付‐文亀元年(1501)六月一七日「市立の人々地下よりかくして各返し申て候由」
とある。
酒一壺は市場の人への差し入れだった。
点なし。
十三句目
市立さはぐ中の目くばせ
とらへぬる盗人は是妹と背と
目配せしてたのは盗人の夫婦だった。万引き家族もこの時代ではあるあるだったか。
点あり。
十四句目
とらへぬる盗人は是妹と背と
美豆野の里に簀垣かく也
美豆野の里は、
隔河恋といへるこころをよめる
山城の美豆野の里に妹をおきて
いくたび淀に舟よばはふらん
源頼政(千載集)
の歌に詠まれている。今の 伏見区淀美豆町の辺りで桂川・宇治川・木津川の三つが交わる辺りになる。
簀垣(すがき)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「簀垣」の意味・読み・例文・類語」に、
「〘名〙 竹で作った透垣(すいがい)。
※散木奇歌集(1128頃)恋下「心あひの風ほのめかせやへすがきひまなき思ひに立ち休らふと」
とある。前句の泥棒夫婦は美豆野に住んでいて、夜な夜な船で大阪に出没していた。
点なし。
十五句目
美豆野の里に簀垣かく也
白雨や扨京ちかき瓦ぶき
美豆野の里に簀垣の家は京に近いから瓦葺だ。当時は実際にこの辺りの家の多くが瓦葺であるあるだったか。
点なし。
十六句目
白雨や扨京ちかき瓦ぶき
奉加すすむる山々みねみね
奉加は神仏への寄付で、京都の近郊の裕福そうな家は、いろんな寺から寄付を求められてたか。
点あり。
十七句目
奉加すすむる山々みねみね
客僧は北陸道に拾二人
『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』(森川昭、加藤定彦、乾裕幸校注、一九九一、岩波書店)の注は謡曲『安宅』の、
「これは南都東大寺大仏再興のため、国国をめぐり勧進を申し候。北陸道をば此の聖承つて、一紙半銭をえらはず、勧め申す勧進聖にて候。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (p.3103). Yamatouta e books. Kindle 版.)
「語つてきかせ申さう。さても頼朝義経御兄弟の御仲不和にならせ給ひ、義経は都の住居かなはせ給はず、十二人の作り山伏となり、奥州秀衡を頼み御下向のよし頼朝聞こしめし及ばせ給ひ、国 国に新関をすゑ、山伏をかたくえらみ申せとの御事にて候程に、一人をも通し申すまじく候。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (pp.3103-3104). Yamatouta e books. Kindle 版. )
を引いている。前句を奥州に遁れる九郎判官義経等十二人とする。
点あり。
十八句目
客僧は北陸道に拾二人
きのふも三度発るもののけ
物の怪の病はコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ) 「物の怪」の意味・わかりやすい解説」に、
「生霊(いきりょう)、死霊などの類をいい、人に取り憑(つ)いて、病気にしたり、死に至らせたりする憑き物をいう。平安時代の文献にはよくこのことが記録されている。『紫式部日記』には、中宮のお産のとき、物の怪に対して屏風(びょうぶ)を立て巡らし調伏(ちょうぶく)したことが記されている。『源氏物語』葵(あおい)の巻に、「物の怪、生霊(いきすだま)などいふもの多く出で来てさまざまの名のりする中に……」とあり、また同じ巻に「大殿(おおとの)には、御物(おんもの)の怪(け)いたう起こりていみじうわづらひたまふ」などとある。清少納言(せいしょうなごん)も『枕草子(まくらのそうし)』のなかで、昔評判の修験者(しゅげんじゃ)があちこち呼ばれ、物の怪を調伏する途中疲れて居眠りをしたので非難されたことなどを記している(「思はむ子を」)。ほかに『大鏡』『増鏡』などにも物の怪の記述がみえ、これらは閉鎖的な宮廷社会での平安貴族の精神生活の一面を反映したものとみられる。物の怪に取り憑かれることを「物の怪だつ」といい、これにかかると、僧侶(そうりょ)や修験者を招き、加持祈祷(かじきとう)により調伏・退散させた。これには、物の怪を呪法(じゅほう)によって追い出し、別の人(憑坐(よりまし))にのりうつらせ、さらにそこから外界へ追い出し平癒させた。[大藤時彦]」
とある。
謡曲『安宅』では義経等十二人の到着の前日に、
「昨日も山伏を三人斬つてかけて候。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (p.3104). Yamatouta e books. Kindle 版. )
とあることから、この三人の怨霊のせいで三回物の怪の病の発作が起きた。
点なし。
十九句目
きのふも三度発るもののけ
難産を告る使は追々に
これは『源氏物語』の葵上の出産の本説。妻が物の怪の病に苦しんでいるというのに、源氏の君の方は二条院や六条御息所の方で忙しかった。
長点で「葵の上の御産尤〃〃」とある。
二十句目
難産を告る使は追々に
酢をもとめてよ馬でいそがせ
よく妊娠すると酸っぱいものが食べたくなるというが、今でも酢はカルシウムの吸収効率を良くすると言われている。『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』(森川昭、加藤定彦、乾裕幸校注、一九九一、岩波書店)の注も『和漢三才図会』の、
「産婦房中常以火炭沃醋気為佳。酸益血也。胞衣不下者、腹痛則甚危。以水入醋少許噀面神効也。」
を引いている。
ただ、既に難産になってから慌てて巣を買いに行くのは泥縄というものだ。
点なし。
二十一句目
酢をもとめてよ馬でいそがせ
花の宿に醤油舟は月の暮
これは相対付けであろう。花の宿に月の暮といえば春宵一刻価千金。こんな宵はご馳走を並べて宴会をしたいものだ。というわけで馬で急いで酢を買いに行かせ、醤油を乗せた船も急がせる。
醤油舟は酒舟と同様で、醬油か酒かの違いと思われる。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「酒槽・酒船」の意味・読み・例文・類語」に、
「[一] (酒槽) (「ふね」は液体をたたえておく容器)
① (「さかふね」とも) 酒を入れておく大きな木製の容器。
※古事記(712)上「其の佐受岐(さずき)毎に酒船(さかふね)を置きて船毎に其の八塩折(やしほをり)の酒を盛りて」
※太平記(14C後)二五「八醞(やしぼり)の酒を槽(サカブネ)に湛(たたへ)て」
② 酒をしぼるのに用いる長方形の容器。この器に醪(もろみ)の入った多くの酒袋を入れ、押しぶたを押すと、底に近い側面の穴から酒が流出し、袋の中に酒の粕(かす)だけが残る。〔羅葡日辞書(1595)〕
[二] (酒船) 酒を積んでいる船。特に、江戸時代、酒樽積廻船(さかだるづみかいせん)をいう。
※俳諧・江戸十歌仙(1678)八「菊やどの家に久しき雁鳴て〈芭蕉〉 酒舟あれば汀浪こす〈春澄〉」
とある。ここでは[二] であろう。この時代醤油は上方には普及してたが、江戸の方ではまだ珍しかった。例文にある付け合いの芭蕉は伊賀の料理人で京料理にも通じていたと思われるし、春澄も京の人。
中京地区でも溜まり醤油が早くから用いられていた。
点なし。
二十二句目
花の宿に醤油舟は月の暮
長閑にすめる江戸の川口
江戸の川口がどこを指すのかよくわからない。今の埼玉県川口市になる日光御成道の川口宿はあるが、関西人にとってそんなに知られた場所だったかどうかは定かでない。一般名詞としての川口だと、隅田川が東京湾にそそぐ辺りか。
歌枕に川口の関があるが、これは伊勢であって江戸ではない。
となると何となく隅田川河口域を思い浮かべて、この辺りにも醤油舟が行くのかなって感じで付けたか。醤油をほとんど消費しない江戸では、確かに醤油舟がやってきても長閑なものだろう。
点なし。
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