りゅうちぇるさん自殺の報道に、間髪おかずに湧いて出て来た激しい憎悪の声は一体何だったのか。ゲーム用語から「死体蹴り」なんて言われていたが、死体蹴りを容認する論理というのがちょうど一年前の安倍元首相暗殺の時の左翼の論理とそっくりだった。
死んだから批判をしてはいけないというのはおかしいといいながら、実際やってるのは冷静な批判などではなく罵倒に他ならなかった。安倍元首相は未だに留魂碑にごみ袋をコラージュした画像を拡散して嘲笑している連中がいる。死んだものを徹底的に罵倒しても良いという悪い習慣を、安倍元首相暗殺後の左翼とマス護美が定着させてしまった。
その少し前に山下達郎さんがまた得体の知れぬ反ジャニとマス護美の攻撃に会ってたばかりだ。ツイッターが去年に逆戻りしてしまったみたいだ。
それでは「かしらは猿」の巻の続き。挙句まで。
名残裏
九十三句目
姥がそへ乳もこの秋ばかり
一かさね仕着せの外に紅葉して
仕着せはコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「御仕着・御為着」の意味・読み・例文・類語」に、
「〘名〙 (「お」は接頭語。季節ごとに与える意から「四季施」とも当てた)
① 江戸幕府から諸役人、囚人に衣服を支給すること。また、その衣服。しきせ。
※歌舞伎・三人吉三廓初買(1860)二幕「鼠布子(ねずみぬのこ)もお仕著(シキセ)の浅葱(あさぎ)とかはり」
② 時候に応じて主人から奉公人、客から遊女などへ衣服を与えること。また、その衣服。
※俳諧・西鶴大矢数(1681)第二四「雪の夕部(ゆふべ)の庭ではたらく おしきせの袖打はらふ影もなし」
③ 型どおりに物事が行なわれること。そうするように習慣化していること。また、その物。おきまり。
※浮世草子・好色一代女(1686)五「盃のくるたびたびにちと押へましょ、是非さはりますとお仕着(シキセ)の通り」
とある。今では無理やり着させられてるというイメージがあるが、今でいう職場での制服貸与に近い。
退職するので一枚赤い衣を職場服とは別に着せてやるということか。王朝時代の紅葉襲の連想を誘ったのかもしれない。
点あり。
九十四句目
一かさね仕着せの外に紅葉して
入日こぼるる鼻紙のうへ
鼻紙は懐紙ともいう。鼻をかむだけでなくいろいろな用途に用いられ、連歌や俳諧も懐紙に記入する。今のティッシュとは違う。
従業員の仕着せを重ねる時に、間に挟んだりしたのかもしれない。一番上に置かれた紙の上に夕陽が射して赤く染まると、仕着せの上が紅葉したようになる。
点なし。
九十五句目
入日こぼるる鼻紙のうへ
さし出す楊枝にかかる淡路島
これは下ネタということになるのかな。
国生み神話で最初に淡路島が出来たことがネタ元になっているが、天の沼鉾から男性器を連想し、そこから滴るものを淡路島に見立て、それが鼻紙の上に落ちる。昔の人もそういう使い方したんだな。
沼鉾が楊枝になってしまうのが情けない。
淡路島と入日の縁は『歌枕名寄』にもある、
浦遠き難波の春の夕凪に
入日霞める淡路島山
宗尊親王(続拾遺集)
などの歌による。
点なし。
九十六句目
さし出す楊枝にかかる淡路島
焼鳥にする千鳥鳴也
淡路島に千鳥といえば、
淡路島通ふ千鳥の鳴く声に
幾夜ねざめぬ須磨の関守
源兼昌(金葉集)
の歌が百人一首でも知られている。
楊枝というと今は爪楊枝を指すことが多いが、本来は三寸ほどのもので、今でいう串になる。昭和の木枯し紋次郎のドラマでも、主人公はこの高楊枝を咥えていた。
前句の「さし出す楊枝」を淡路島の千鳥を焼鳥にするための串とする。
点あり。
九十七句目
焼鳥にする千鳥鳴也
おとこめが妹許行ばへ緒付て
「おとこめ」は『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』(森川昭、加藤定彦、乾裕幸校注、一九九一、岩波書店)の注に「男妾」とある。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「男妾」の意味・読み・例文・類語」に、
「おとこ‐めかけ をとこ‥【男妾】
〘名〙 情夫として女にかかえられている男。
※雑俳・川柳評万句合‐宝暦一二(1762)仁五「とんだ事男めかけが隙をとり」
とある。
妹許(いもがり)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「妹許」の意味・読み・例文・類語」に、
「〘名〙 (「がり」は接尾語) 妻、恋人の住んでいる所(へ)。妹(いも)のもと(へ)。いもらがり。
※万葉(8C後)九・一七五八「筑波嶺の裾廻(すそみ)の田井に秋田刈る妹許(いもがり)遣(や)らむ黄葉(もみぢ)手折らな」
とある。
へ緒は捉緒という字を当てる。「焼鳥に捉緒つけよ」という諺があり、焼鳥が飛んでいかないように紐を付けておけということだが、過剰と思える用心でも、しないよりやした方が良いということか。
男妾が女の所に通うと言っても、他の女の所に行かないように紐を付けておけということで、今でいう「ひも」という言葉はここから来たのか。お金を与えて他に行かないようにするということであろう。
点なし。
九十八句目
おとこめが妹許行ばへ緒付て
御身いかなる門に立らん
まあ、ひもとは言っても浮気な男は抑えられない。どこの門にいくのやら。
点なし。
九十九句目
御身いかなる門に立らん
斎米をひらける法の花衣
斎米(ときまい)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「斎米」の意味・読み・例文・類語」に、
「〘名〙 僧の食事に供する米。斎(とき)の料として僧や寺に施す米。
※俳諧・大坂独吟集(1675)上「斎米をひらける法の花衣 願以至功徳あけぼのの春〈三昌〉」
とある。
僧も飯を食わなくては生きていけないから、斎米を施す人がいてこそ仏法の花も開いて花衣を切ることもできる。
ただ得体の知れぬ乞食坊主も多いもので、托鉢に来てもどこの門(寺、宗派)だと問いただされる。
点あり。
挙句
斎米をひらける法の花衣
願以至功徳あけぼのの春
願以至功徳(ぐわんにしくどく)は願以此功徳のことであろう。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「願以此功徳」の意味・読み・例文・類語」に、
「① 仏語。いわゆる回向文(えこうもん)で最も代表的なもの。自己の修めた功徳をすべての衆生に施して、ともに仏道をまっとうしたいと願う趣意を語る。二種あり、一は「法華経‐化成喩品」にある梵天王の願文「願以二此功徳一、普及二於一切一、我等与二衆生一、皆共成二仏道一」、一は、中国唐代、善導の「観経四帖疏‐玄義分」にある「願以二此功徳一、平等施二一切一同発二菩提心一、往二生安楽国一」。後世、これを回向文として、法会(ほうえ)の終わりに唱えるようになった。
※義経記(室町中か)六「念仏高声(こうしゃう)に三十遍ばかり申して、ぐゎんいしくどくと廻向(ゑかう)して」
② (読経の最後に唱える回向文であるところから) 物事の終わり。結末。転じて、しまったの意にも用いられる。南無三宝(なむさんぼう)。
※浮世草子・日本永代蔵(1688)三「実(げに)秋の日のならひにてはや暮ておどろき、願以此功徳(グハンイシクドク)、空袋かたげて都に帰るを見て」
前句には①の意味で付くが、一巻最後の挙句ということで②の意味にもなる。
点なし。
「愚墨五十三句
長廿二
梅翁判」
点数は前の二巻に比べるとやや低めではある。
「かしらは猿、尾は猛竜、其吟虎のいきほひあり。たれか是をおそれざらんや。」
と発句の「かしらは猿」にちなんだ賛辞を送っている。
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