2023年7月3日月曜日

 ツイッターでイーロン・マスクさんが何かやる度にツイッター上で非難の声が上がるのは、まあ普通に不満をぶちまけるのは構わないけど、組織的に拡散しているのがいるのかな。それもまた例によってマスコミと連動して。
 つまり似せ世論を作ろうとしている奴。
 本当にマスクさんのやり方が気に入らないなら、ツイッターは義務でも何でもないし、それこそ脱退運動を起こした方が早いと思うんだが、去年までのツイッター・デモの華やかな時代をもう一度というのがあるのかもしれない。
 ツイッター内でトレンドにして圧力掛ければ元に戻せるのでは、とか思ってるのかな。
 ツイッター内で力を持ちたいなら、課金に反発するのではなく、むしろ積極的に課金会員になった方が良いと思う。口を出すなら金を出す。金を出すから口を出す。その方が普通だ。もっとお金があるんだったら株主になって発言するという手もある。
 金は出さない、口だけ出すでは切り捨てられてもしょうがないと思う。
 まあ、俺は金は出してないから口も出さないけどね。
 ツイッターはインフラなんだから国がやったらなんて言うのもいるが、官僚がまともな運営できると思ってるのかな。国と別の特殊法人を作ったらそれこそ最悪だ。NHKがもう一つできるようなもんだ。放送受信料と別に、すべてのスマホやPCの保持者から料金を徴収されることになる。

 今日は「かしらは猿」の巻はお休みで、ツイッターの奥の細道の方でも。

五月十日

今日は旧暦5月9日で、元禄2年は5月10日。奥の細道。

今日も良い天気で松島の島々が見渡せる。ここを去るのは惜しいが、長期滞留できるような門人の家もないし、雨が降ればまた道が通れなくなる。
川の向こうの高城という所からは馬次があった。石巻までは馬に乗れそうだ。

松島や鶴に身をかれほとゝぎす 曾良

昨日、松島で何か発句をと思って、ちょうどホトトギスが鳴いてたから、松島とホトトギスの取り合わせはどうかなと思った。
松島にホトトギスを詠んだ有名な歌は特になかったと思う。
あとはどう取り囃すかだ、ふと無名抄の祐盛法師の、

身にぞ知る真野の入江に冬の来て
   千鳥もかるや鶴の毛衣

を思い出して、ホトトギスに鶴のコスプレさせようかと思った。
まあ、サイズが合わないんじゃないかというツッコミも想定してのことで。

高城を出てしばらく山間の細い道を通って小野という所に出ると、そこからは平坦な道だった。
晴れたのは良いが真夏のような日が照りつけて、矢本新田の辺りで脱水状態になった。

生水は良くないと曾良が近くの農家にお湯をもらいに行ったが貰えず、たまたま通りかかったお侍さんがわざわざ離れた知人の家までお湯を取りに行ってくれた。
根子村の今野源太左衛門という者で、石巻の四兵の宿も紹介してくれた。

石巻に着くと、その紹介された四兵の宿に行った。そのあと小雨が降ったがすぐに止んだので日和山に登った。北上川河口にある小高い丘で、万石浦、牡鹿半島の山々、牧山を見渡し、真野萱原も少し見えた。

北上川に沿って上って行くと住吉社があり、鳥居の前の辺りが夫木抄の相模の歌、

みちのくの袖の渡りは涙川
   心のうちに流れてぞゆく

にある袖の渡りだという。
金華山にも行ってみたかったが、船だと十三里、陸路は険しい山道でやめた方で良いということだった。


五月十一日

今日は旧暦5月10日で、元禄2年は5月11日。奥の細道。

今朝もいい天気だが、ここのところ夕立みたいなにわか雨が多いのは梅雨明けの前兆だろうか。今日も暑い。
四兵の宿の人が一人、気仙沼へ行くついでに矢内津まで同行するという。また、登米(といま)の儀左衛門の宿の紹介所を貰った。

鹿又は北上川に北から来る飯野川が合流する地点で、ここから船に乗って飯野川を遡って行った。
川はやがて山間の細長い大きな沼になって、そこを行くと矢内津という船着場に着いた。
ここで四兵の宿の人は東の気仙沼に向かうので、お別れとなる。

矢内津で舟を降りて川沿いの道を行くと、やはり今日も雲行きが怪しくなってきた。
登米(といま)という所に渡し船があって川を渡った。
予定してた儀左衛門の宿には泊まれず、仕方なく町の検断に頼んで、検断の庄左衛門の家に泊めてもらった。


五月十二日

今日は旧暦5月11日で、元禄2年は5月12日。奥の細道。

今日は朝から曇ってて、とりあえず登米を出て平泉の方に向かった。
北上川に沿って上って行くこと三里、上沼新田という所があり、そこからさらに一里行った涌津という所で急に雨が降ったかと思うとあっという間に土砂降りになった。

足元はどろどろで、宿を取るにも辺鄙な所なので、仕方なく高いけど馬に乗った。
前も見えないくらいひどい雨で、まるで鵯越の坂落としだ。

土砂降りの雨の中、馬に乗って湧津から金沢(かざわ)へ行き、そこから先は山越の道になって、薄暗くなる頃ようやく一関に着いた。
宿も取れて良かった。明日は平泉へ行けるかな。


五月十三日

今日は旧暦5月12日で、元禄2年は5月13日。奥の細道。

昨日の雨は上がって今朝は晴れたが、道はまだ濡れてて出発を遅らせた。
山ノ目の峠までが一里。ここが大門になるのか。
平泉はそこからまた一里ちょっとで、何とか午前中に着いた。

平泉の高館は小高い丘の上にお堂が一つあるだけだった。
林鵞峰の編纂した「本朝一人一首」の無名詩に、

高館聳天星似冑 衣川通海月如弓
高館は天に聳え星は兜に似て
衣川は海に通じて月は弓の如し

ってあったが、随分誇張したもんだ。

北上川に沿って行くと左側から合流する川があって、これが衣川だという。川に沿って上って行くと、対岸に泉城の跡があり、その奥に衣川の関があったという。
霧山も西にあるらしいが、雲がかかっててよくわからない。

この道の先に達谷が窟があるというが、遠くて行ったら戻ってこられないと曾良がいうので、仕方なく元来た道を戻った。

さて、中尊寺だが、今は東叡山末寺とはいえなかなかの大伽藍で、沢山のお堂が並び、境内には白山や月山の社もあった。
曾良が別当を呼んできてくれて、その案内の元に光堂をみた。
鞘堂を作って五百年の雨風を防ぎ、このお堂を守ってきたという。

中の黄金の煌びやかな仏像たちは薄暗い中でほんのりと光っていた。そのキラキラとした断片的な光はまるで飛び交う蛍のようだった。
経堂の方はまた別の別当が管理してるのか、中を見ることができなかった。

中尊寺を出ると一関までの帰り道で、毛越寺の新御堂と無量光院の跡を見て帰った。
金色堂はまさに奇跡で、他のものはみんな跡になって、どこも夏草が茂っていた。
帰ると宿の人が水風呂を沸かして待っててくれた。


五月十四日

今日は旧暦5月13日で、元禄2年は5月14日。奥の細道。

今日も天気は良く、一関から清風のいる尾花沢へ向かう。そこなら久しぶりに俳諧興行もできそうだ。
途中、尿前の関を越えなくてはならない。行けるところまでかな。

夢となりし骸骨踊る荻の声 其角

晋ちゃんのこの句は延宝の頃の「田舎句合」の野人の句で、農夫の羽二重の句に負けてたが、この「夢」の用法は気になる。
夢となるというのは人生は夢まぼろしから来た発想で、死んでしまえば現世のことはみんな夢となって終わる、という意味なんだろうな。

昨日見た夏草の茂る旧蹟も、そんな人生が夢となってしまった人たちの跡なんだろうか。
夏草、生命の過剰は互いに生きるための争いを引き起こして、春のめずらしい花や鳥も埋めて行ってしまう。それは夢となった人の跡なのだろうか。

一関を出ると曾良がまた変な道を通ろうとする。古代の道はこっちだって行って。
街道を右の方へそれて岩ヶ崎というところに来た。
そこからさらに西へゆき、茂庭という所で最初の迫川(はざまがわ)を越えた。

茂庭から南西のルートを取って、二つ目の迫川を越えて、三つ目の迫川がある真坂というところに出た。この頃また雷雨になった。
雨が小降りになるのを待って、そこからさらに行くと確かに岩手山の宿に出た。
今日はここに一泊。明日は尿前の関へ。


五月十五日

今日は旧暦5月14日で、元禄2年は5月15日。奥の細道。

朝から小雨が降ってる。
岩手山宿を出ると少し戻って川を渡ることになるが、そこから川沿いに登って行けば尿前の関を越えられる。

曾良「このまま昔の道を行って、色麻駅のあった中新田から小野田を経て門沢の関を越えようかと思ってたけど、遠回りだし難所も多いと聞いて、尿前の関を越える一般的なルートを行くことにした。古代の道への興味は尽きないけどね。
尿前の関へ行くとなると、手形が‥。」

下宮を過ぎて鍛冶屋沢へ向かう途中、小黒崎と美豆の小島があったが、今は河原の小山になってる。昔はこの辺りの水量が多く、入江のようだったという。
古今集読人不知の、

おぐろ崎みつの小島の人ならば
   宮このつとにいざと言はまし

の歌に詠まれている。
雨でなければゆっくり見て行きたいところだ。
さらに行くと、鳴き子の湯があった。

あかずして別れし人の棲む里は
   沢子の見ゆる山のあなたか

という拾遺集読人不知の歌に詠まれた沢子の湯だという。

鳴き子温泉の先の川を渡ると尿前の関だった。
曾良が手形がを用意してなくて、他の関所の手形じゃ駄目かとか、出羽三山巡礼だからだとか色々言ってたけど、かなりあれこれ詮索された。まあ結局は通してくれたけどね。

今日はこんな雨で他に関を越える人もいないし、関守のいい暇つぶしにされちゃったかな。
おかげですっかり遅くなって、仕方なくすぐ先の堺田で宿を取ることになった。
馬屋のすぐ隣の部屋で、汚いし、臭うし‥。

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