それでは「かしらは猿」の巻の続き。
二表
二十三句目
雲のはたてにはづす両馬
ひつくんで名乗中にもほととぎす
「ひっくむ」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「引組」の意味・読み・例文・類語」に、
「[1] 〘自マ四〙 =ひっくむ(引組)
※源平盛衰記(14C前)三四「河端にても河中にても、引組(ヒキクン)で落(おとし)勝負を決すべしと、申定て出にけり」
[2] 〘他マ四〙 隊伍(たいご)をそろえる。
※今昔(1120頃か)二九「主(あるじ)然か聞くままに、引組(ひきくみ)て弓を取り直して、馬を押去(おしやり)て」」
とある。
前句の「雲のはたて」を②の意味に取り成して、合戦の場面にする。
近接戦になって馬に乗った武将同士が取っ組み合いになって落馬している時にもホトトギスは名乗りを挙げている。武将同士もその前にお互いに名乗りを上げていて「名乗る中にもホトトギスも名乗りを上げる」ということだろう。
ホトトギスの名乗りは、
あしひきの山杜鵑さとなれや
黄昏時に名乗りすらしも
大中臣輔親(拾遺集)
の歌にもある。
長点で「よき名乗所に候」とある。
二十四句目
ひつくんで名乗中にもほととぎす
鷲尾亀井片岡の森
鷲尾亀井片岡は『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』(森川昭、加藤定彦、乾裕幸校注、一九九一、岩波書店)の注に、義経の郎党鷲尾三郎義久、亀井六郎重清、片岡三郎経春とあり、京都上賀茂神社の片岡の森でホトトギスを聞く。
片岡の森はホトトギスの名所で、
ほととぎす声待つほどは片岡の
森の雫にたちや濡れまし
紫式部(新古今集)
の歌が證歌になる。
長点で「よくつづき候」とある。
二十五句目
鷲尾亀井片岡の森
まはり状其かみ山の奥迄も
「まはり状」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「回状」の意味・読み・例文・類語」に、
「〘名〙 順次に回覧して用件や命令などを伝える書状。回文。かいじょう。〔ロドリゲス日本大文典(1604‐08)〕」
とある。
その神山は、
ほととぎすその神山の旅枕
ほのかたらひし空ぞわすれぬ
式子内親王(新古今集)
などの歌に詠まれていて、上賀茂神社の枕詞になっている。ここでは上賀茂神社よりもずっと山の奥までということか。
長点でコメントはない。
二十六句目
まはり状其かみ山の奥迄も
松むしの声のこす口上
其かみ山の松虫の声は、
幾千代か鳴きて経ぬらむちはやぶる
其かみ山の松虫の声
藤原資季(続古今集)
の歌があり、この歌は『歌枕名寄』にも収録されている。
前句の廻り状を持ってきた使者は口上でその内容を述べた後、松虫の声だけが残る。
点あり。
二十七句目
松むしの声のこす口上
ただいまが芝居破りの秋の風
芝居破りはコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「芝居破」の意味・読み・例文・類語」に、
「〘名〙 (芝居が終わると、見物席の客を追い出すように出すところから) 芝居興行、見世物、また遊山(ゆさん)などの終わり。
※慶長見聞集(1614)二「皆人、名残惜思ふ処に風呂あかりの遊びおどりを芝居やぶりに仕へしとことはる」
※浮世草子・色里三所世帯(1688)上「是が今日の御遊山の芝居(シバヰ)やふり」
とある。延宝六年の「物の名も」の巻六十八句目にも、
朝夷奈のさぶ様四郎様五郎様の
地獄やぶりや芝居やぶりや 桃青
の句がある。
田舎の芝居小屋で芝居がおわると、終了を告げる口上とともに皆出て行って、松虫の声だけが残る。
点あり。
二十八句目
ただいまが芝居破りの秋の風
火縄のけぶりはらふ雲霧
火縄はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「火縄」の意味・読み・例文・類語」に、
「① 竹の繊維や檜(ひのき)の皮または木綿糸を縄に綯(な)って、それに硝石を吸収させたもの。火持がよいので、火をつけておいて、火縄銃やタバコに火をつけるために用いた。〔日葡辞書(1603‐04)〕」
とある。必ずしも鉄砲とは限らない。芝居と言えば煙草は付き物で、当時の芝居小屋は煙たかったのだろう。
芝居が終わると秋風がその煙を払う。
点なし。
二十九句目
火縄のけぶりはらふ雲霧
狼のまなこさやかに月更て
火縄が出たからには鉄砲に転じるのはお約束と言えよう。狼を鉄砲で追払おうとするが、硝煙が風て晴れると狼の目は爛々としていて、狼退治は失敗。
点なし。
三十句目
狼のまなこさやかに月更て
いきてはたらくとらの刻限
狼の活動の盛んになるのは夜明けも近い寅の刻。
点なし。
三十一句目
いきてはたらくとらの刻限
あそばした一字の夢やさますらん
「あそばす」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「一字」の意味・読み・例文・類語」に、
「(「遊ばす」は「する」の尊敬語。間に動詞連用形を入れて用いる) 他人の動作に用いて尊敬の意を表わす。お…なさる。
※浮世草子・好色一代男(1682)八「太夫様御機嫌よく、是へお出と申せば、〈略〉上座の中程に御なをりあそばしける」
とあり、「一字」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「一字」の意味・読み・例文・類語」に、
「① 一つの文字。
※性霊集‐一(835頃)遊山慕仙詩「光明満二法界一、一字務二津梁一」
※開化のはなし(1879)〈辻弘想〉二「僻陬(いなか)には一丁字(イチジ)も読ぬ水呑百姓のみにて」 〔晉書‐衛恒伝〕
② 漢数字の「一」の文字。真一文字。
③ 「一字御免」において高貴の人が与える諱(いみな)の一つの文字。普通、諱の下字を与えるが、上字を与えるときは優遇を意味する。一字拝領した者は自家の通り名をその下に付して自身の諱とする。僧家、公家にも例を見るが、武家においてはすでに頼朝に始まる。
※鎌倉殿中以下年中行事(1454か)正月一四日「国人一揆中には御酒一献。但元服ありて御一字を被レ申時は三献」
④ 一文銭の四分の一。二分五厘にあたる。一文銭の表に四文字あるところからいう。〔書言字考節用集(1717)〕
⑤ 小額な金としての銭一文を強調していう。「一文一字」「一字半銭」「一銭一字」などと熟して用いる。
※浄瑠璃・心中二枚絵草紙(1706頃)中「一文一字ちがふても、おのれがいけておかれうか」
⑥ 一筆書(ひとふでが)きのこと。
※俳諧・大坂独吟集(1675)上「あそばした一字の夢やさますらん 其時てい家むねに手ををく〈三昌〉」
⑦ ⇒いちじ(一時)⑥」
とある。『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』(森川昭、加藤定彦、乾裕幸校注、一九九一、岩波書店)の注は⑥の意味として、「あそばした一筆書きの虎の絵が、寅の刻限に目を覚まし、生きてはたらくというのである」としている。
どっちにしてもそんなに面白くはない。点なし。
三十二句目
あそばした一字の夢やさますらん
其時てい家むねに手ををく
乱曲に定家一字題というのがある。
一字の題に夢の醒めたような心地だったか、定家の卿は胸に手を当てて歌を案じる。
長点で「一字題の歌の時歟」とある。
三十三句目
其時てい家むねに手ををく
はたさんとゆふべちかづく揚屋町
前句の「てい家」を謡曲『定家』のこととしたか。式子内親王への邪淫の妄執が定家葛となった物語を、遊女に執着して揚屋町に通う時にふと胸に手を当てって思い興す。
点あり。
三十四句目
はたさんとゆふべちかづく揚屋町
恋にひかるる弓矢八幡
弓矢八幡はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「弓矢八幡」の意味・読み・例文・類語」に、
「[1] 弓矢の神である八幡大菩薩。武士が誓いを立てる時に、「照覧あれ」などを伴って用いた。
※大観本謡曲・檀風(1465頃)「かかる口惜しき事を承り候ものかな。弓矢八幡氏の神も御照覧あれ。懇に申して候」
[2] 〘感動〙
① (「弓矢八幡にかけて誓って」の意) 武士などが自分の心やことばに偽りがないことなどを誓うときに言うことば。神かけて。誓って。断じて。決して。本当に。
※虎明本狂言・武悪(室町末‐近世初)「『いや真実か』『弓矢八幡某に仰付られた』」
② 残念に思う時、失敗を悟った時、驚いた時、また、次に言う語を強める時などに発することば。南無三宝(なむさんぼう)。
※浮世草子・好色一代男(1682)六「声あらく、弓矢(ユミヤ)八幡、大事は今、七左様のがさじと」
とある。①のように遊女の心を射止めようと弓を引くが、結果は②になる。英語でいうジーザスクライストか。
点あり。
三十五句目
恋にひかるる弓矢八幡
爰に又はたち計のおとこ山
前句の八幡を石清水男山八幡に取り成す。ウィキペディアに、
「石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)は、京都府八幡市八幡高坊にある神社。旧称は「男山八幡宮」。」
とある。
何となく男色を匂わせる。
長点で「弓力の盛にて候」とある。弓力はコトバンクの「普及版 字通 「弓力」の読み・字形・画数・意味」に、
「弓の力。弓勢(ゆんぜい)。〔南史、孝義上、卜天与伝〕天與、射を善くし、弓力倍なり。」
とあり、弓勢は「精選版 日本国語大辞典 「弓勢」の意味・読み・例文・類語」に、
「〘名〙 (「ゆみせい」の変化した語) 弓を引く力量。弓を射る力の強さ。弓力(ゆんりき)。ゆぜい。
※扶桑略記(12C初)康平五年一二月二八日「語二義家一曰、僕欲レ試二君弓勢一如何」
※読本・椿説弓張月(1807‐11)後「あなおそろしの弓勢(ユンセイ)やとて、舌を巻て感じあへりしかば」
とある。
当時元服は十五くらいで二十歳は最も体力のある脂の乗り切った頃。
三十六句目
爰に又はたち計のおとこ山
三月五日たてりとおもへば
三月五日は出替りの日で、コトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ) 「出替り」の意味・わかりやすい解説」に、
「出替り奉公人の略で、短期雇いの奉公人のこと。譜代(ふだい)奉公や年季(年切(ねんきり))奉公が1年ないしそれ以上にわたるのに対し、半年または長くも1年を奉公期間とし、これを半季居(ずえ)・一季居奉公と称した。武家奉公や町屋の丁稚(でっち)奉公は、代々勤める譜代・子飼(こがい)や長年季奉公が主であったが、富農・商家において雑役に従事する下男や下女は、出替りが多かった。近世後期には武家奉公ですら出替りが増え、しだいに若党(わかとう)、中間(ちゅうげん)、小者(こもの)、草履取(ぞうりとり)らに及んだ。
その原因は、各地に商品生産の加工業者が増え、雇用労働を多く必要とするようになったこと、一方、季節労働を含めて農村から都市や手工業生産地への出稼ぎが増大したことなどによる。すなわち、出替りの一般化は、近世における商品生産の展開、手工業の発達に伴うものであったといえる。新旧の奉公人が交替する出替り時節は、初め2月、江戸の明暦(めいれき)大火(1657)後は3月5日とされていた。
[北原 進]」
とある。
ただ、『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』(森川昭、加藤定彦、乾裕幸校注、一九九一、岩波書店)の注には「寛文八年の大火」とある。
前句の二十歳の血気盛んな男は三月五日の出替りにやってきた。
長点ではなく普通の点だが「近日に罷成候」とある。三月五日になったのは最近の事ということか。
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