それでは「十いひて」の巻の続き。
二裏
三十七句目
随気のなみだ袖に置露
芋の葉風只ぶりしやりと別れ様
「ぶりしやり」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「ぶりしゃり」の意味・読み・例文・類語」に、
「〘副〙 (多く「と」を伴って用いる) すねて相手の気をひくさまを表わす語。特に男女間の愛情表現として用いることが多い。
※俳諧・犬子集(1633)一六「ふりしゃりとする絹のふり袖 腹立てくねるもこいの憂うら見」
とある。
芋の葉は里芋の大きな葉で、前句の随気を芋の葉の柄の部分を言う芋茎(ずいき)と掛けて、芋の葉が秋風にあおられてそこに溜まってた露が柄の所に落ちて、芋茎のわがままな涙とする。
点なし。
三十八句目
芋の葉風只ぶりしやりと別れ様
男にくみのいそぐ畝みち
畝は「あぜ」とルビがある。芋畑で別れて、男を憎む女が畦道を急いで走り去る。
点なし。
三十九句目
男にくみのいそぐ畝みち
布を経る所は爰と余所心
「布を経る」は『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』(森川昭、加藤定彦、乾裕幸校注、一九九一、岩波書店)の注に、「織る前に経糸を揃えて機に掛けること」とある。蘇秦の「初出遊困而帰、妻不下機」という鶏口牛後の故事によるらしい。元ネタは金がないと家族にも相手にされないという意味のようだが、ここでは浮気のせいとする。
点あり。
四十句目
布を経る所は爰と余所心
あれたる駒をつなぐ打杭
古い形の機織機は台で固定するのではなく、杭に経糸を掛けて、手前へ引っ張りながら横糸を通して行く。機織に集中せずにほかのことを考えていると、経糸が荒れた駒のように暴れる。
心の馬という言葉があり、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「心の馬」の意味・読み・例文・類語」に、
「(「衆経撰雑譬喩‐上」の「欲求善果報、臨命終時心馬不乱、則得随意、往不可不先調直心馬」による) 馬が勇み逸(はや)って押えがたいように、感情が激して自制しがたいこと。意馬。心の駒。
※新撰菟玖波集(1495)雑「あらそへる心のむまののり物に かちたるかたのいさむみだれ碁〈よみ人しらず〉」
とある。余所心は荒れたる駒。
点あり。
四十一句目
あれたる駒をつなぐ打杭
昼休みあたりにちかき国境
前句の杭を国と国との境界の杭として、国境を越える前に一休みする人がそこに馬を繋ぐ。
点なし。
四十二句目
昼休みあたりにちかき国境
狩場の御供これまでにこそ
鷹狩だろうか。領国で行うことが多く、殿があえて国境の向こうに行くのは、何か別の意図があってのことか。
点なし。
四十三句目
狩場の御供これまでにこそ
かたみわけ三日かけて以前より
前句の狩場を富士の巻狩りとして、曽我兄弟の物語に展開する。
『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』(森川昭、加藤定彦、乾裕幸校注、一九九一、岩波書店)の注に、
「曾我兄弟は、仇討実行の三日前から、形見の品を従者の鬼王・団三郎に分け与え、故郷に帰すに当って言ったセリフが前句というわけだ。」
とある。
点あり。
四十四句目
かたみわけ三日かけて以前より
書置にする五人組判
五人組はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「五人組」の意味・読み・例文・類語」に、
「① 江戸時代、古代の五保制にならった庶民の隣保組織。「五人与(くみ)」と書き、五人組合ともいい、地方によっては十人組もあった。その長を五人組頭、または判頭(はんがしら)と称した。戦国時代、下級武士の軍事編制にも五人組がみられたが、江戸幕府成立後、民間の組織として制度化された。初めはキリシタンや浪人の取締りを主眼としたが、後には法令の遵守、相互監察による犯罪の予防・取締り、連帯責任による貢租の完納および成員の相互扶助的機能に重点がおかれるようになった。
※慶長見聞集(1614)五「とかの子細の有ければ年寄五人組引つれて御代官の花山湯島へいそぎ参るべし」
② 江戸時代、特に寺院で、ある一定の地域内での同宗派の法中五軒で組織した自治機関。
※浮世草子・新色五巻書(1698)五「一寺の和尚共いわるる身が女房狂ひなどし、あまつさへ孕(はらませ)〈略〉出家の見せしめにきっと詮義を仕る、五人組(ごにんグミ)はどこどこぞ」
③ (五本の指を用いるところから) 男子の自慰、手淫をいう語。女子の「二本指」などに対していう。
※茶屋諸分調方記(1693)四「さもあらば五人組の一せんをみづからはげみ給へ」
とある。ここでは②の意味で、『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』(森川昭、加藤定彦、乾裕幸校注、一九九一、岩波書店)の注に、
「死亡の三日前から形見分けの書留に、五人組の連判をとっておいたという意。」
とある。
点あり。
四十五句目
書置にする五人組判
慥にも見とどけ申鰹ぶし
前句の「かきおき」を削るという意味の掻き置きとする。
長点で「土佐ぶし上々」とある。鰹節は土佐の物を良しとした。鰹節は上方ではこの頃広く用いられてたが、江戸に普及するのは元禄の頃になる。
四十六句目
慥にも見とどけ申鰹ぶし
うたがひもなき初雁の汁
雁は食用にされた。元禄の頃の江戸では恵比須講の御馳走としても売られていて、
振売の雁あはれ也ゑびす講 芭蕉
の句がある。関西では鰹出しで雁を汁物にして食べたのだろう。
点なし。
四十七句目
うたがひもなき初雁の汁
律儀者の下屋敷にて月の会
関西では初雁の汁を月見の料理の定番としていたか。
長点で「鴈汁しそこなはぬ亭主歟」とある。
四十八句目
律儀者の下屋敷にて月の会
所もところ和歌も身にしむ
前句の月の会を歌会とする。
点なし。
四十九句目
所もところ和歌も身にしむ
咲花は紀路の山のとつとおく
和歌を和歌の浦として紀路(きのぢ)に展開したか。紀路はここでは和歌山街道のことであろう。和歌山と松阪を結ぶ道で途中花の吉野を通る。吉野の桜は和歌山街道の山の中にあって、ここまで来れば和歌の浦も言ってみたくなる。実際貞享五年に芭蕉は吉野から和歌の浦へ行った。
点あり。
五十句目
咲花は紀路の山のとつとおく
しぶぢの椀も霞む弁当
渋地はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「渋地」の意味・読み・例文・類語」に、
「〘名〙 木製の什器類の地に柿渋を塗り、その上に漆を塗ること。また、その塗物。
※俳諧・毛吹草(1638)四「紀伊〈略〉黒江渋地(シブヂ)椀」
とある。元は近江にいた漆器職人が紀伊の国の黒江に棲み着いて、渋地椀の一大産地となった。
花見に和歌山から吉野へ行くと、紀伊の渋地椀に入れた弁当も霞んで見える。
点なし。
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