それと訂正だが、八十五句目、
乗物出しあとの追風
腹切やきのふはけふの峰の雪 在色
としてたのは「峰の雲」の間違いだった。
雲は魂に通じるもので、古代の中国語では音が似ていた。しばしば雲は死者の霊の喩えとして用いられる。
それでは「隨縁紀行」の続き。
「津の泊を出
伊勢道や往来の恩賤が秋 松翁
世の秋や女の旅も伊勢こころ キ翁
いせ路かな秋の日しらぬ気を童 尺草
雲津川にて
はなすすき祭主の輿を送りけり 晋子
外宮 近く拝まれ給へば
日は晴て古殿はきりの鏡哉 同
新藁の畚清めたり御白石 岩翁
わたらへの秋や穂をつむ子等館 尺草
唇のいろうそ寒し宮からす 亀翁
能キ時や御供いただくことし米 松翁
内宮 浮屠の属にたぐへて心へだちたる五十鈴川より遥かに拝す
身のあきや赤子もまいる神路山 晋子
また参る露の枝折や杉の札 横几
廿日 於福井藤兵衛大夫御師家
御神楽 謹上再拝
神の秋七十わかしいもと神子 岩翁
四手のつゆ油気はなしみこの髪 亀翁
秋ふかしみこの足とり鶴のこゑ 尺草
さかき葉の露にかかるや山廻り 横几
烏帽子ふる秋の調や小手つづみ 松翁
太々や小判ならべて菊の花 晋子」
十七日の朝未明に桑名を発つと、三里ほどで四日市宿に付き、その少し先の日永の追分で伊勢街道に入ることになる。津宿までがほぼ十里で一日の行程になる。それからすると「津の泊を出」は十八日ということになる。
ここから先は上方方面から来る人達が加わり、伊勢街道は賑わいを増す。津から伊勢神宮までは一日の行程になる。
津の泊を出
伊勢道や往来の恩賤が秋 松翁
伊勢の賑わいに貧しい人たちも恩恵を受けている。
世の秋や女の旅も伊勢こころ キ翁
女性の伊勢参りというと『奥の細道』の市振の遊女も思い起こされるが、当時は珍しくなかったのだろう。元禄九年の支考の『梟日記』の旅でも周防国と長門国との境に近い山中で、
「次の日此山中を通るに、めの童共の伊勢詣するに逢ふ。首途も此あたりちかきほどならん。髪かたちもいまだつやつやしきが、みな月の土さへわるゝ、といへるあつき日には、我だにたふまじきたびねの頃なるを、いかに道芝のかりそめにはおもひたちぬらん。百里のあなたははるけき我いせのくにぞよ。道のほとりなる家によび入て何がしがかたに文つかはす。その奥に此童ア共もに茶漬喰せ給へ、柹本のひじりもあはれと見たまへるものをとかきて、
姬百合の情は露の一字かな」
と記している。
いせ路かな秋の日しらぬ気を童 尺草
これも支考が目撃したような「めの童」であろう。箸が転げてもおかしい年ごろの娘たちの集団はかしましく、この世の春という感じで今が秋とは思えない。
雲津川にて
はなすすき祭主の輿を送りけり 晋子
雲津川は雲出川で、松坂の北を流れている。午前中には越える所だろう。
伊勢の祭主はコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)「祭主」の解説」に、
「伊勢(いせ)の神宮に仕える祀職(ししょく)名の一つ。神宮祭主ともよばれ、神宮にだけある職名で、天皇にかわって祭祀に仕える大御手代(おおみてしろ)として、皇族または皇族であった者のなかから選ばれる。現在の神宮祭主は池田厚子である。この起源は、神宮鎮座のとき、大鹿島命(おおかしまのみこと)が祭主に任ぜられたのに始まるという(『倭姫(やまとひめ)命世記』ほか)。初めは伊勢への幣使をいった(「大神宮式」)が、のちに中臣(なかとみ)氏を選んで祭主とし、朝廷と神宮との仲執(なかと)り持ちの役をさせた。後奈良(ごなら)天皇(在位1526~57)以降は、中臣氏のなかでも藤波家が神宮祭主職を世襲し、1871年(明治4)の神宮改正後は、皇族祭主の制が定められ、大御手代とされた。なお、祭主の語は、早く『日本書紀』の「崇神(すじん)紀」7年8月の条にみえ、そこでは祭りの主(かんぬし)(または「つかさ」)と読む。[沼部春友]」
とある。
この時の祭主は藤波景忠で、ウィキペディアに、
「正保4年(1647年)、神宮祭主藤波友忠の子として生まれる。万治4年(1661年)2月、15歳で叙爵され、同年3月には祭主となる。順調に昇叙して延宝6年(1678年)には従三位まで昇ったが、天和4年(1684年)2月9日、鷁退して正四位下まで下った。2日後の11日には昇殿を許され、貞享2年(1685年)になって従三位に復し、公卿に列せられた。正徳4年(1714年)に子の徳忠に祭主職を譲った。享保12年(1727年)、81歳で薨去した。」
とある。
花薄が靡いている姿を敬いひれ伏す姿に見立てて、その中をたまたま祭主の輿が通るのを目にすることができたか。
外宮 近く拝まれ給へば
日は晴て古殿はきりの鏡哉 晋子
伊勢神宮参拝は翌日の九月十九日のことであろう。十八日到着した日に参拝したなら、『野ざらし紀行』のように夜の参拝になって千歳の杉を抱きしめる所だ。ここには「日が晴て」とあるから、着いた翌日の参拝になる。
朝霧の中に朝日が差し込んで白く輝けば、御神体の鏡のようだ。
新藁の畚清めたり御白石 岩翁
畚はここでは字数からして「もつこ」ではなく「ふご」であろう。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「畚」の解説」に、
「① 農夫などが物を入れて運ぶのに用いる、縄の紐のついたかごの一種。竹や藁で編んだもの。〔色葉字類抄(1177‐81)〕
※広本拾玉集(1346)一「早蕨の折にしなれば賤の女がふこ手にかくる野辺の夕暮」
② 魚を入れるかご。びく。
※読本・近世説美少年録(1829‐32)一「船なる魚籃(フゴ)を、もて来て」
とある。
御白石は伊勢神宮の正殿の御敷地に敷き詰められた石で、式年遷宮の時に取り換える。式年遷宮は元禄二年にあり、芭蕉と曾良が訪れている。それから五年たったことになる。
五年たっても白石は奇麗で、これを運び込んだ新藁の畚までもが清められたことだろう。
わたらへの秋や穂をつむ子等館 尺草
子等館(こらのたち)は伊勢神宮に仕える巫女さんのいるところで、芭蕉も『笈の小文』の旅で訪れて、
「神垣のうちに梅一木もなし。いかに故有事にやと神司(かんづかさ)などに尋ね侍れば、只何とはなしおのづから梅一もともなくて、子良(こら)の館(たち)の後に、一もと侍るよしをかたりつたふ。
御子良子の一もとゆかし梅の花
神垣やおもひもかけず涅槃像」
と記している。
これは春の話だが、秋だと自分たちの食べる稲を収穫する姿が見られたのだろう。
唇のいろうそ寒し宮からす 亀翁
秋も終わりで唇が乾燥してくると黒ずんでくる。宮からすはweblio辞書の「隠語大辞典」に、
「1,神社に仕ふる人をいふ。宮雀ともいふ。
2,神社に仕へて居る神官のことをいふ。宮雀ともいふ。宮には烏や雀が居るから。〔犯罪語〕
3,神社に仕へて居る神官のことをいふ。宮雀ともいふ。宮には鳥や雀がいるから。
4,神主のことをいふ。
5,お宮仕へする神官の事をいふ。
6,神主。〔一般犯罪〕
7,神主のこと。」
とある。
能キ時や御供いただくことし米 松翁
前に祭主の輿が出て来たが、ちょうど新米の時期なので、御供の者が新米を下賜されたのだろう。
内宮 浮屠の属にたぐへて心へだちたる五十鈴川より遥かに拝す
身のあきや赤子もまいる神路山 晋子
内宮が僧形だと入れないのは芭蕉の『野ざらし紀行』にも、
「我僧にあらずといへども、浮屠の属にたぐへて、神前に入事をゆるさず。」
とある。其角も僧形で旅をしていたのがわかる。宇治橋を渡ることができなかった。
「身のあき」は宇津保物語の、
待つ人の袖かと見れば花すすき
身のあき風になびくなりけり
か。秋と飽きが掛詞になる。今日の「飽きられた」というだけでなく「厭われた」という意味を含む。
赤ちゃんでも参拝できるのに、何で僧形というだけでこの身を厭うのか、という意味。
また参る露の枝折や杉の札 横几
伊勢神宮の御札は杉でできている。横几は僧形でなかったのか、内宮でお札を貰って、またいつか来れることを祈る。
廿日 於福井藤兵衛大夫御師家
御神楽 謹上再拝
神の秋七十わかしいもと神子 岩翁
翌九月二十日は御師の福井藤兵衛大夫の家で御神楽を見る。御師はコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)「御師」の解説」に、
「御祈祷師(おんきとうし)、御詔刀師(おんのっとし)の略称で、詔刀師や祈師(いのりし)ともいい、師檀関係にある檀那(だんな)の願意を神前に取り次ぎ、その祈願を代表する神職をさす。伊勢(いせ)地方では「おんし」と読む。‥‥略‥‥伊勢の御師のおもな機能は、まず檀家(だんか)・檀那とよばれる施主や願主と師檀関係を結び、諸願成就(じょうじゅ)の祈祷を行うことである。そして年ごとに祈祷の験(しるし)である祓麻(はらえのぬさ)や伊勢土産(みやげ)をもって諸国を巡歴する。土産の品目は熨斗鮑(のしあわび)はじめ伊勢暦、鰹節(かつおぶし)、伊勢白粉(おしろい)など多彩であった。また檀那の参宮には御師の自邸に宿泊せしめ、神楽殿(かぐらでん)において太々(だいだい)神楽を奏行、両宮参詣(さんけい)や志摩の遊覧などに便宜を図った。概してその活動は内宮(ないくう)側の宇治(うじ)より外宮(げくう)側の山田が隆昌(りゅうしょう)を極め、三日市大夫(みっかいちだゆう)、竜大夫(りゅうだゆう)、福島みさき大夫などは、その規模が大きく代表的なものであった。また山田の御師数では寛文(かんぶん)期(1661~73)に391軒、文政(ぶんせい)期(1818~30)に385軒を数えたという。これら御師の活動が師檀関係の強化や新たな檀家の獲得を目ざすことはもとより、全国的にみて伊勢信仰の普及や教化、あるいは伊勢講の組織に大きな役割を果たしたのである。」
とある。「檀那の参宮には御師の自邸に宿泊せしめ、神楽殿(かぐらでん)において太々(だいだい)神楽を奏行」とある、これであろう。
神子はここでは「みこ」と読むが「しんし」のことで、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「神子」の解説」に、
「① 神に仕え、神楽を奏して神意を慰めたり、神意をうかがって神の託宣を告げたりする人。かんなぎ。みこ。
※和漢三才図会(1712)七「巫(かんなぎ・みこ)神子、和名、加牟奈岐、俗云美古」
とある。七十になる婆さん神子だったのだろう。
四手のつゆ油気はなしみこの髪 亀翁
四手(しで)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「四手・垂」の解説」に、
「① 注連縄(しめなわ)、または玉串(たまぐし)などにつけて垂らす紙。古くは木綿(ゆう)を用いた。」
とある。神楽を舞う婆さん神子の描写になる。
秋ふかしみこの足とり鶴のこゑ 尺草
神子の足取りが鶴の歩み(かなりゆったりした歩み)だということで、神子の発する占いも鶴の一声ということになる。
鶴の歩みは貞享三年正月の、
日の春をさすがに鶴の歩ミ哉 其角
の発句がある。初日の厳かに登る様子を鶴の歩みとしている。
さかき葉の露にかかるや山廻り 横几
山廻りというのは、
「よし足引の山姥が、山めぐりすると作られたり。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.89714-89716). Yamatouta e books. Kindle 版. )
「よし足引の山姥が、よし足引の山姥が・山廻りするぞ・苦しき。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.89858-89860). Yamatouta e books. Kindle 版.)榊の葉を持つ姿は山の中を廻り歩く山姥のようだ。
といった謡曲『山姥』のイメージか。
烏帽子ふる秋の調や小手つづみ 松翁
手鼓はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「手鼓」の解説」に、
「① 桴(ばち)を用いないで、手で打ち鳴らすつづみ。腰鼓(ようこ)やタンバリンの類も含まれるが、一般には能楽や長唄囃子の小鼓をいう。小つづみ。また、それを打つこと。
※源平盛衰記(14C前)三四「あの知康は、九重第一の手鼓(テツヅミ)と一二との上手ときく」 〔音楽字典(1909)〕
② 手を打ち鳴らして拍子を取ること。手拍子。
※浄瑠璃・猫魔達(1697頃)一「手つづみうって、一せいをあげ」
とある。この場合どっちなのかはわからない。神楽の様子であろう。
太々や小判ならべて菊の花 晋子
太々はこの場合は太太神楽(だいだいかぐら)のことであろう。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「太太神楽・大大神楽」の解説に、
「[1] 〘名〙 伊勢神宮へ一般参詣人が奉納する太神楽のうち、最も大がかりな神楽。江戸時代、御師の邸内で催され、奉仕の楽人は一〇〇人を超えた。明治四年(一八七一)神宮の改革以来、神楽殿の規定により、太神楽は太太神楽・大神楽・小神楽の等級に分けて奉納されている。だいだい。
※梅津政景日記‐元和八年(1622)正月二八日「大大神楽御祈念幾久敷相極候由、久保倉所より拙者式へも状有」
とある。
老婆神子の神楽ではなく太太神楽を見るとなると、小判が何枚も必要になる。太太と小判の橙色とを掛け、季節がら菊の花をあしらう。