経哲草稿の続き。
「労働の生産物の全体は、なりたちからしても概念的に考えても労働者に属すべきものだ、と国民経済学者は言う。が、同時に、現実には生産物のごくわずかの、必要最小限の部分しか労働者のものになっていない、とも言う。」
これま「国富論」を見て来た時にいった通り、労働価値説は労働者の必要最小限の物資の価値と労働時間が等しいという前提に立っているから当然のことだ。
なぜそうなるかについては、交換価値が農民がぎりぎり食っていける生活物資に合わせて商工業者や芸能などの商品やサービスの交換レートが決まるからだ。つまりこれらの人々すべてが平均的に暮らせるように相互抑制することによって、労働者の取り分が必要最小限の物資と等価になるように定まっているからだ。
これは資本主義の発達する前からそうであり、また資本主義によって工業生産性が上がったにもかかわらずその水準が維持されていることを意味する。
「人間としてではなく労働者として生存するのに必要な部分しか、いいかえれば、人類を生み育てるのではなく、労働者という奴隷階級を生み育てるのに必要な部分しか、かれに属さない、と言う。」
前にも言ったが、小作と農奴との境界は契約の有無であり、契約によって働くか強制によって働くかの違いだと言った。
いずれにせよ、他に生存手段がないのであれば、この違いはそれほど重要ではない。基本的には生存と引き換えに服従するだけのことだ。
この生存の取引は、原始贈与社会の段階から、生存に必要な最低ラインに抑制されていた。冷たい社会では出る杭は打たれる式の相互抑制によって最低ラインに保たれ、熱い社会では灌漑農法によって農地を管理する支配者階級が誕生することで、それとの契約かあるいは隷属によって最低ラインが敷かれることになる。
基本的には人間は社会なしでは生きられないため、自らの生存を社会と取引しなくてはならない。そこに立ちふさがるのは常に出る杭は打たれる式の平均化であり、それが人を最低限の生活に縛り付けている。
それは契約であれ隷属であれ同じことだ。契約の場合は契約解除された場合、両義的な意味でのフリーになる。つまり自由であり同時にクビだ。それで生活の当てがあればいいが、なければ餓死だ。
奴隷の場合も同じく、奴隷解放は事実上のクビだ。自由人として生きてゆける当てがあればいいが、なければ餓死だ。
自由は契約の解除であり、日本でも野球の選手の場合は「自由契約」という言葉を用いる。それは生存の取引の解除だ。人は生存を担保にして自分の自由を捨てて社会の一員になる。だから人生に何か希望が持てるとしたら、それは自由になることではなく、契約を有利に更新することだ。
生存の首根っこを社会に握られ、生殺与奪権を与えている限り、基本的に資本主義だろうが社会主義だろうがそこに自由なんてものはない。
だからこそ社会主義がこの問題を解決できたのかどうかは問われなくてはならない。資本家が国家の指導体制に取って代わっただけでは、労働者の生活は変わらないどころか、むしろ効率の悪い経営によって悲惨なことになるだけだ。
マルクスのここでの問題提起が間違っていたとは思わない。ただ、本当の意味での解決策を見出せたかどうかが問題だと言ってもいい。当時の古典経済学やヘーゲル哲学で答えが出せたのか。それはまだとても科学的と言えるようなものではなく、結局ユートピア社会主義のページ数を増やしただけではなかったか。
「国民経済学者は、すべてが労働によって買われ、資本は蓄積された労働以外のなにものでもない、と言うが、同時に、労働者はすべてを買うことができるどころか、自分自身と自分の人間性を売らねばならない、と言う。」
これも当然だ。すべてを買うということはすべてが売られているということだ。自分自身と自分の人間性を売ることで、自分自身の生存そのものを買っているのだ。
「なまけものの地主の手にする地代が、大抵は農業生産物の三分の一に達し、勤勉な資本家の利潤が金利の二倍にもなるというのに、労働者が受け取る余剰分は、せいぜいのところ、四人の子どものうち二人は飢えて死ぬしかない、という程度なのだ。」
この「四人の子どものうち二人」がどこから導き出された数字かは分らないが言い得て妙だ。つまり四人の子どものうち二人死ぬことで人口は一定に維持される。
四人の子どもが四人育ったのでは人口爆発が起こる。それを今日では最初から出産する子供の数を二人以下にするということで解決していると言って良い。
労働者がそうであるなら、事情は農村でも同じだろう。四人の子どもがいれば一人は嫡男で、一人は他の嫡男の所に嫁に行く。後の二人はというと、男は都会で労働者を目指し、女は娼婦になるのかもしれない。労働者を目指す男は労働者の息子と激しい競争にさらされることになる。
「国民経済学者によれば、唯一、労働によってこそ人間は自然生産物の価値を高めることができるし、労働こそが活動する人間の財産なのだが、同じ国民経済学の言うところでは、たんに特権をあたえられたというだけの無為の神々である地主と資本家が、至る所で労働者の上に立ち、労働者に掟を押しつけてくるのだ。」
これは地代と資本益を領主と経営者の給与と混同している。だが、この混同こそが後の「資本論」の最大の失敗に繋がるものだ。
領主は領主が食ってゆくための取り分とは別に領土を守るためのストックを必要とする。領土は絶えず侵略の恐怖にさらされるし、飢饉がきて農民がみんな餓死したら自分も餓死することになるから、それへの備えもしなくてはならない。また、領主の上にはさらに国王がいて、あるいはその上に更に皇帝がいる場合もある。そうした者の庇護を受けるためにも、それなりの交際費を支出しなくてはならない。
つまり資本益の中から自分の生活のための取り分を取ったら、あとはいざという時に備えて内部留保する必要が生じる。
確かにその生活のための取り分は、農民や労働者とは比べ物にならないほど贅沢だったかもしれない。その多くは前述の交際費に消えることになる。
領主も資本家も自らの経営能力を絶えずアピールする必要がある。そのために自分たちがいかに人の羨望を集める力があるかを競わなくてはならない。
無能と判断されれば、領主は所領を巻き上げられ、資本家はお得意様を他の資本家に奪われることになる。彼らは何もせずに無為の神々でいるのではない。神々にふさわしい消費を要求されていると言った方が良い。
特に近代の資本主義では、資本益は常に市場調査や商品開発や技術革新に投資しなくてはならず、その上で業務拡大や新規事業に更なる投資をしなくてはならない。そしてそれを引いた余りの中から経営者の賃金と株主への配当が支払われることになる。
剰余利益がすべて資本家の懐に入っているわけではない。ましてその剰余利益をすべて労働者に還元してしまったら、資本家は事業を維持することすらできない。前近代の貧しさへ逆行してゆくだけだ。
「国民経済学者によると、労働こそが物の唯一・不動の価格であるのに、労働の価格ほど偶然に左右され、大きな変動にさらされるものはない。」
これで分ったと思うが、マルクスは労働価値説を富を分析するための便宜的な尺度ではなく、形而上学的な命題として捉えていた、その証拠といっていいだろう。
労働の価格が労働者の最低限必要な生活物資の価格であることで、労働価値説が成立する。大きな変動にさらされるとしたら、それは労働者がそれ以上の配分を受けるようになった時だ。つまり、資本主義の発達によって労働者への給与が上がり、農村との格差ができた時、同じ労働者でも大きな差が生じることになる。いわゆる能力給が導入されれば、そこには出る杭は打たれる式の相互抑制が効かなくなる。だがそれは労働者の地位が上がったからで喜んだ方がいい。
これに対して社会主義は逆に労働者の賃金を農村の平均に縛り付けるしかなくなる。「我々がお百姓さんより多く貰ったんでは失礼だ」ということになる。
「分業は労働の生産力を高め、社会の富と品位を高めるものなのに、その分業が労働者を貶めて機会にしている。」
そんなことはない。労働者は最初から機械だ。
ただすべての工程をこなす機械から、一つのことを専門に行う機械になったにすぎない。
すべての行程をこなすことに人間としての喜びがあるかどうかは、ただその人の人生観によると言って良い。
昔の画家はまず絵の具を作る所から始まり、自分の納得のゆく絵具を自分で開発してから絵の制作に入っていた。
その過程を専門の絵具職人に代わってもらった時、画家はただ絵を描くだけの機械になり下がったのだろうか。
あるいは漫画家が一つのプロダクションを作って、漫画家は作品のネーム作りに専念し、原稿の制作をアシスタントがするようになったとき、漫画家はネーム製造機になったのだろうか。
労働者は分業で機械になったのではない。自営業から雇用労働者になった時点で既に機械になっている。
ならば社会主義になれば画家や漫画家は機械ではなくなるのだろうか。逆だろう。国家に命じられた物しか描けない作画機械になり下がるだけだ。
「国民経済学者によると、労働者の利害はけっして社会の利害と対立しないのに、社会は常に労働者の利害と対立している。」
これも一つ言うなら、対立してるのは「社会」だろうか。労働者と資本家が対立しているというならわかるが、何で社会と対立するのだろうか。資本家=社会なのだろうか。
敵が資本家であれば、労働者が豊かになるには資本家と対峙して、雇用契約を改善してゆけば済むことになる。つまり後のマルクス主義者の言う「組合主義」であり、資本主義の枠内での「修正主義」ということになる。
これに対してマルクス主義者は社会そのものを転覆させなくては駄目だと考える。
革命至上主義は今の日本共産党もそうだ。すべての社会問題は個々の解決の道を探るのではなく、初めに革命ありきであり、すべての不満を革命のただ一点へと誘導する。逆に言えば革命なしに勝手に解決することを許さない。
その違いが既にこの一文に現れている。