9月16日は熱田を出て七里の渡しではなく、佐屋街道を陸路6里、津島牛頭天王社へ行く。この神社は明治の廃仏毀釈で津島神社になった。
佐屋宿から三里の渡しでその日のうちに桑名に到着する。
そして翌17日の朝未明に桑名を発つと、3里ほどで四日市宿に付き、その少し先の日永の追分で伊勢街道に入ることになる。津宿までがほぼ10里で一日の行程になる。
18日は津宿を出て伊勢へ向かう。津宿からは京都・近江・方面から東海道で来た人たちが関宿から伊勢別街道で津へ出るため、その人達が加わり更に賑やかな道中となる。
津から伊勢神宮までは1日の行程になる。
雲津川にて
花すすき祭主の輿をおくりけり 其角
雲津川は雲出川で、松坂の北を流れている。
伊勢の祭主はコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)「祭主」の解説」に、
「伊勢(いせ)の神宮に仕える祀職(ししょく)名の一つ。神宮祭主ともよばれ、神宮にだけある職名で、天皇にかわって祭祀に仕える大御手代(おおみてしろ)として、皇族または皇族であった者のなかから選ばれる。現在の神宮祭主は池田厚子である。この起源は、神宮鎮座のとき、大鹿島命(おおかしまのみこと)が祭主に任ぜられたのに始まるという(『倭姫(やまとひめ)命世記』ほか)。初めは伊勢への幣使をいった(「大神宮式」)が、のちに中臣(なかとみ)氏を選んで祭主とし、朝廷と神宮との仲執(なかと)り持ちの役をさせた。後奈良(ごなら)天皇(在位1526~57)以降は、中臣氏のなかでも藤波家が神宮祭主職を世襲し、1871年(明治4)の神宮改正後は、皇族祭主の制が定められ、大御手代とされた。なお、祭主の語は、早く『日本書紀』の「崇神(すじん)紀」7年8月の条にみえ、そこでは祭りの主(かんぬし)(または「つかさ」)と読む。[沼部春友]」
とある。
この時の祭主は藤波景忠で、ウィキペディアに、
「正保4年(1647年)、神宮祭主藤波友忠の子として生まれる。万治4年(1661年)2月、15歳で叙爵され、同年3月には祭主となる。順調に昇叙して延宝6年(1678年)には従三位まで昇ったが、天和4年(1684年)2月9日、鷁退して正四位下まで下った。2日後の11日には昇殿を許され、貞享2年(1685年)になって従三位に復し、公卿に列せられた。正徳4年(1714年)に子の徳忠に祭主職を譲った。享保12年(1727年)、81歳で薨去した。」
とある。
雲出川に橋はなく、この場合の輿は蓮台渡しのことであろう。時代によっては渡し船になったたり仮の橋が掛かったりしていたようだ。
花薄が靡いている姿を敬いひれ伏す姿に見立てて、その中をたまたま祭主の蓮台が通るのを目にすることができたか。

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