2025年11月19日水曜日

AI俳画
 「甲戌紀行」の続き。

 浜松から熱田神宮のある宮宿までは25里。14日15日の2日間で熱田まで熱田まで行ったのならかなりの強行軍になる。ただ、浜松藩の家老の別邸が三方ヶ原にあったのなら、御油までは姫街道を通ったと思われるから、それよりは若干距離が短くなるかもしれない。23里くらいか。

   熱田奉幣
 芭蕉翁甲子の記行には「社大にやぶれ、築地はたふれ草むらにかくる。かしこに縄をはりて小社の跡をしるし、爰に石をすゑてその神と名のる。よもぎ、しのぶ、こゝろのまゝに生たるも目出たきよりも心とまりて」とゝかれたり。與廃時あり甲戌の今は造営あらたに又めでたし
 更々と禰宜の鼾や杉の月    晋子

 熱田神宮は芭蕉の『野ざらし紀行』に、

 「社頭(しゃとう)大イニ破れ、築地(ついぢ)はたふれて草村にかくる。かしこに縄をはりて小社の跡をしるし、爰に石をすえてその神と名のる。よもぎ、しのぶ、こころのままに生ひたるぞ、中なかにめでたきよりも心とどまりける。
 しのぶさへ枯れて餅かふやどり哉」

とある。其角の引用はそれとそれほど変わってはいない。
 『野ざらし紀行』は『甲子吟行画巻』という形で貞享の頃に既に成立していたので、其角も当然ながら読んだことだろう。ただ、一点もので刊本ではないので、閲覧できた人は江戸の門人か江戸に来る機会のあった門人に限られただろう。文章の方は書き写して他の地域に伝わっていたかもしれない。
 このあとすぐに熱田神宮は改修され、3年後の貞享4年冬、ふたたび『笈の小文』の旅で熱田を訪れた芭蕉は、

   そのとしあつ田の御造營ありしを、
 とぎ直す鏡も清し雪の花    芭蕉

の句を詠むことになるが、『笈の小文』は芭蕉の遺稿で、この先芭蕉の死後に知ることとなるだろう。そのあと元禄八年刊支考編の『笈日記』で広く知られることになった。『句兄弟』の「隨縁記行」の頃はまだ知らなくて、この前書きになったが、『俳諧錦繍緞』「甲戌紀行」の時にはすでに読んでいたことだろう。

 更々と禰宜の鼾や杉の月    晋子

 其角も元禄7年にこの新しくなった熱田神宮を目にすることになる。ただ訪れたのは15日の夜遅くか16日の朝未明だったようだ。浜松から23里を2日で来た関係で、宮宿への到着も暗くなってからだったのだろう。
 まだ暗い境内を長月の十五夜の月が照らし、禰宜もまだ鼾をかいているのだろうか、杉がさらさらと音を立てる。

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