2025年11月30日日曜日

AI俳画
 今日は地元の御嶽神社のどぶろく祭りに行った。

 それでは「甲戌紀行」の続き。

 24日の夜はおそらく長谷寺の宿坊に泊まったのではないかと思う。参拝は24日の夕方か25日の朝ということになる。

 栬みる公家の子たちぞはつせ山  其角

 栬は「もみぢ」。
 長谷寺は王朝時代から京都の貴族が多く訪れる場所でもあり、『源氏物語』では九州を脱出した玉鬘の一行が、旧知の右近と再会し、宮中に戻るきっかけにもなった。
 この時代でも貴族の子息が訪れていたのかもしれない。

2025年11月29日土曜日

 
AI俳画
 「甲戌紀行」の続き。

   莫嗔野店無肴核薄酒堪沽豆莢肥と周南峯が句を感す
 足あぶる亭主にきけば新酒かな  其角

 前書きは『聯珠詩格』巻五「用莫嗔字格」の、

   宿禾村      周南峰
 山雨初収涼思微 樹林陰翳逗斜暉
 莫嗔野店無肴核 薄酒堪沽豆莢肥

による。
 返り点と送り仮名がふってあるので、

 山雨初テ収テ涼思微ナリ 樹林陰翳シテ斜暉ヲ逗ス(逗字老)
 嗔莫コト野店肴核無ヲ 薄酒沽ニ堪テ豆莢肥タリ(客途即景之真味)

となる。(早稲田大学図書館による)
 『聯珠詩格』はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「聯珠詩格」の解説に、

 「中国,元の作詩法の書。于済の著。蔡正孫が増補。 20巻。大徳4 (1300) 年成立。初学者のために七言絶句の作り方を実際的に示したもの。中国で失われ,朝鮮,日本に伝わって読まれた。」

とある。
 おそらく奥津宿で一泊した時の句であろう。そこでは薄い酒に豆のような簡単な肴しかなく、寒くて足をあっためていた亭主に聞いてみると、新酒だというのでとりあえずは満足した。周南峯の詩を思い起こせば、これもまた風流。

2025年11月28日金曜日

 
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 今日の句会の句。

 七五三ちとせの剣を手に入れた
 鮟鱇の闇を恐れぬ心かな
 窓閉めてコンビニ飯や冬紅葉

 それでは「甲戌紀行」の続き。

  川芎の香に流るるや谷の水    晋子

 川芎(せんきゅう)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「川芎」の解説」に、

 「〘名〙 セリ科の多年草。中国原産で、薬用植物として栽培される。高さ三〇~六〇センチメートル。葉は二回三出の羽状複葉で各小葉には鋭い鋸歯(きょし)がある。茎葉は根生葉と同様に有柄で、葉柄の基部は幅広い鞘となってゆるく茎を抱く。秋、茎の先端に複散形花序をつけ、それぞれの枝の先に白い小さな五弁花を球状に密生する。根茎を頭痛、鎮静薬に用いる。中国四川省産の品が優れていたため四川芎藭を略して呼んだもの。漢名、芎藭。おんなかずら。女草。《季・秋》
  ※桂川地蔵記(1416頃)上「薬種〈略〉陳皮、川芎」

とある。秋の季語になる。
 宇陀地方で栽培されていたようだ。

2025年11月27日木曜日

 
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 「甲戌紀行」の続き。

 9月23日に、伊勢から長谷へ向かう。

   伊勢より長谷路へ出る田丸越して
 山畑の芋ほるあとに臥猪かな  其角

 田丸は今の玉城町で、伊勢から宮川を渡り、西へ行った所にJR参宮線の田丸駅がある。伊勢本街道になる。
 檜ノ牧は榛原檜牧であろう。今の宇陀市になる。
 伊勢本街道は今の国道368号線422号線369号線に受け継がれている道で、飼坂峠を越えて伊勢奥津(奥津宿)へ出て、石割峠を越えて榛原へ抜ける。この間は終始深い山の中を通る。
 山の中では猪の姿を見ることもあっただろう。収穫した後の里芋畑何かにも、我が物顔で猪が寝てたりする。

2025年11月26日水曜日

 
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 今日ははこね金太郎ラインから長尾峠、箱根スカイライン、芦ノ湖スカイラインと箱根外輪山を回り、箱根峠から元箱根に降りて、仙石原のススキを見て、はこね金太郎ラインで帰った。仙石原のススキはすっかり穂になっていた。

 それでは「甲戌紀行」の続き。

   宮川の上に酒送りせらるるに此花を肴にめでてとありければ
 重箱に花なき時の野菊かな   其角

 宮川の酒送り朝熊山に登った翌朝の23日のことと思われる。
 宮川は伊勢神宮外宮の西側を流れる川で、伊勢の入口でもあり出口でもある。
 旅立つ時に酒をふるまうのは、三島の菊の酒もあったし、芭蕉が貞享5年の『笈の小文』の旅から帰る時にも、

 朝貌は酒盛しらぬさかりかな   芭蕉

と芭蕉庵に残してきた朝顔のことを思い出しながら旅の無事を祈って三盃を傾け、木曾から姨捨山を経由して江戸への帰途に着いたように、当時の習慣の一つだった。
 折から宮川の河原には野菊が咲いていた。
 送り出す時に昼飯の弁当のサービスもあったのだろう。花見でもするのかというような立派な重箱の弁当を渡され、野菊でも見ながら食べるしかないな、というところか。

2025年11月25日火曜日

 
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 昨日は秦野市文化祭俳句大会で忙しくて「甲戌紀行」の方はお休みした。西公民館まつりの展示と時期が重なってた。

 それでは続きだが、「二見 朝熊」の朝熊の方の句。

 紅葉して朝熊の栢といはれけり 其角

 栢は柘(つげ)の誤植。
 朝熊黄楊(あさまつげ)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「朝熊黄楊」の解説」に、

 「〘名〙 (三重県朝熊(あさま)山のものが有名なところから) 植物「つげ(黄楊)」の異名。〔重訂本草綱目啓蒙(1847)〕」

とある。ツゲは若葉の頃は黄色くなるが常緑樹なので紅葉はしない。
 ただよく知らないと、紅葉で黄色くなったのがツゲだと言われてしまいそうだ。

2025年11月23日日曜日

AI俳画
 「甲戌紀行」の続き。

 9月21日、其角ら一行は二見ヶ浦に行く。

   二見 朝熊
 岩のうへに神風寒し花すすき  晋子

 海岸の岩の上の風に靡く薄は、伊勢だから神風に靡く薄になる。海から吹く風は冷たい。

2025年11月22日土曜日

AI俳画

 「甲戌紀行」の続き。

 翌九月二十日は御師の福井藤兵衛大夫の家で御神楽を見る。

   御神楽 謹上再拝
 太々や小判ならべて菊の花   其角

 太々神楽は大人数で演奏する大掛かりなものであるため、かなり高価で小判が何枚も必要だったのだろう。太々は小判の色の橙にも掛かるそれを並べるとさながら菊の花のようだ。
 「隨縁紀行」の方に、

 神の秋七十わかしいもと神子  岩翁
 四手のつゆ油気はなしみこの髪 亀翁

の句があるから、舞手の神子さんは70歳の老女だったようだ。まあ、若い娘の未熟な舞より七十の熟達した人間国宝級の舞を愛でるのが通というものなのだろう。菊は重陽の不老長寿の薬を象徴するものでもある。

2025年11月21日金曜日

 
AI俳画
 「甲戌紀行」の続き。

 9月18日に伊勢に着き、翌19日は外宮と内宮を回ることになる。

   内宮
   浮屠の属にたぐへてこゝろへだちたる五十鈴川より遥かに拝す
 身の秋や赤子もまゐる神路山  晋子

 内宮が僧形だと入れないのは芭蕉の『野ざらし紀行』にも、

 「我僧にあらずといへども、浮屠の属にたぐへて、神前に入事をゆるさず。」

とある。其角も僧形で旅をしていたのがわかる。宇治橋を渡ることができなかった。
 「身のあき」は宇津保物語の、

 待つ人の袖かと見れば花すすき
     身のあき風になびくなりけり

か。秋と飽きが掛詞になる。今日の「飽きられた」というだけでなく「厭われた」という意味を含む。
 赤ちゃんでも参拝できるのに、何で僧形というだけでこの身を厭うのか、という意味。

2025年11月20日木曜日

  
AI俳画
「甲戌紀行」の続き。

 9月16日は熱田を出て七里の渡しではなく、佐屋街道を陸路6里、津島牛頭天王社へ行く。この神社は明治の廃仏毀釈で津島神社になった。
 佐屋宿から三里の渡しでその日のうちに桑名に到着する。
 そして翌17日の朝未明に桑名を発つと、3里ほどで四日市宿に付き、その少し先の日永の追分で伊勢街道に入ることになる。津宿までがほぼ10里で一日の行程になる。
 18日は津宿を出て伊勢へ向かう。津宿からは京都・近江・方面から東海道で来た人たちが関宿から伊勢別街道で津へ出るため、その人達が加わり更に賑やかな道中となる。
 津から伊勢神宮までは1日の行程になる。

   雲津川にて
 花すすき祭主の輿をおくりけり 其角

 雲津川は雲出川で、松坂の北を流れている。
 伊勢の祭主はコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)「祭主」の解説」に、

 「伊勢(いせ)の神宮に仕える祀職(ししょく)名の一つ。神宮祭主ともよばれ、神宮にだけある職名で、天皇にかわって祭祀に仕える大御手代(おおみてしろ)として、皇族または皇族であった者のなかから選ばれる。現在の神宮祭主は池田厚子である。この起源は、神宮鎮座のとき、大鹿島命(おおかしまのみこと)が祭主に任ぜられたのに始まるという(『倭姫(やまとひめ)命世記』ほか)。初めは伊勢への幣使をいった(「大神宮式」)が、のちに中臣(なかとみ)氏を選んで祭主とし、朝廷と神宮との仲執(なかと)り持ちの役をさせた。後奈良(ごなら)天皇(在位1526~57)以降は、中臣氏のなかでも藤波家が神宮祭主職を世襲し、1871年(明治4)の神宮改正後は、皇族祭主の制が定められ、大御手代とされた。なお、祭主の語は、早く『日本書紀』の「崇神(すじん)紀」7年8月の条にみえ、そこでは祭りの主(かんぬし)(または「つかさ」)と読む。[沼部春友]」

とある。
 この時の祭主は藤波景忠で、ウィキペディアに、

 「正保4年(1647年)、神宮祭主藤波友忠の子として生まれる。万治4年(1661年)2月、15歳で叙爵され、同年3月には祭主となる。順調に昇叙して延宝6年(1678年)には従三位まで昇ったが、天和4年(1684年)2月9日、鷁退して正四位下まで下った。2日後の11日には昇殿を許され、貞享2年(1685年)になって従三位に復し、公卿に列せられた。正徳4年(1714年)に子の徳忠に祭主職を譲った。享保12年(1727年)、81歳で薨去した。」

とある。
 雲出川に橋はなく、この場合の輿は蓮台渡しのことであろう。時代によっては渡し船になったたり仮の橋が掛かったりしていたようだ。
 花薄が靡いている姿を敬いひれ伏す姿に見立てて、その中をたまたま祭主の蓮台が通るのを目にすることができたか。

2025年11月19日水曜日

AI俳画
 「甲戌紀行」の続き。

 浜松から熱田神宮のある宮宿までは25里。14日15日の2日間で熱田まで熱田まで行ったのならかなりの強行軍になる。ただ、浜松藩の家老の別邸が三方ヶ原にあったのなら、御油までは姫街道を通ったと思われるから、それよりは若干距離が短くなるかもしれない。23里くらいか。

   熱田奉幣
 芭蕉翁甲子の記行には「社大にやぶれ、築地はたふれ草むらにかくる。かしこに縄をはりて小社の跡をしるし、爰に石をすゑてその神と名のる。よもぎ、しのぶ、こゝろのまゝに生たるも目出たきよりも心とまりて」とゝかれたり。與廃時あり甲戌の今は造営あらたに又めでたし
 更々と禰宜の鼾や杉の月    晋子

 熱田神宮は芭蕉の『野ざらし紀行』に、

 「社頭(しゃとう)大イニ破れ、築地(ついぢ)はたふれて草村にかくる。かしこに縄をはりて小社の跡をしるし、爰に石をすえてその神と名のる。よもぎ、しのぶ、こころのままに生ひたるぞ、中なかにめでたきよりも心とどまりける。
 しのぶさへ枯れて餅かふやどり哉」

とある。其角の引用はそれとそれほど変わってはいない。
 『野ざらし紀行』は『甲子吟行画巻』という形で貞享の頃に既に成立していたので、其角も当然ながら読んだことだろう。ただ、一点もので刊本ではないので、閲覧できた人は江戸の門人か江戸に来る機会のあった門人に限られただろう。文章の方は書き写して他の地域に伝わっていたかもしれない。
 このあとすぐに熱田神宮は改修され、3年後の貞享4年冬、ふたたび『笈の小文』の旅で熱田を訪れた芭蕉は、

   そのとしあつ田の御造營ありしを、
 とぎ直す鏡も清し雪の花    芭蕉

の句を詠むことになるが、『笈の小文』は芭蕉の遺稿で、この先芭蕉の死後に知ることとなるだろう。そのあと元禄八年刊支考編の『笈日記』で広く知られることになった。『句兄弟』の「隨縁記行」の頃はまだ知らなくて、この前書きになったが、『俳諧錦繍緞』「甲戌紀行」の時にはすでに読んでいたことだろう。

 更々と禰宜の鼾や杉の月    晋子

 其角も元禄7年にこの新しくなった熱田神宮を目にすることになる。ただ訪れたのは15日の夜遅くか16日の朝未明だったようだ。浜松から23里を2日で来た関係で、宮宿への到着も暗くなってからだったのだろう。
 まだ暗い境内を長月の十五夜の月が照らし、禰宜もまだ鼾をかいているのだろうか、杉がさらさらと音を立てる。

2025年11月18日火曜日

AI俳画
  今日は南足柄の花咲く里山へざる菊を見に行った。

 「甲戌紀行」の続き。

 十三夜は浜松藩の家老の別邸か何かに呼ばれたのだろうか。『句兄弟』「隨縁紀行」に、
 
 内玄関家老の客や十三夜    亀翁

の句があり、家老の家に呼ばれている。また、

 後の月味方か原を一目かな   尺草

の句がある処から、三方ヶ原の方に呼ばれたと思われる。

   十三夜浜松にていづれも古郷をかたるに
 後のつき松やさながら江戸の庭 晋子

 この家老の別邸の松を見ていると、江戸の自分の家を思い出す。其角も親が名医だったから、それなりの家に住んでいたのだろう。其角で松と言えば、

 名月や畳の上に松の影     其角

の句が、この『句兄弟』にも収録されている。おそらく貞享元年の句で、芭蕉がそれに対抗して、

 わが宿は四角な影を窓の月   芭蕉

の句を詠んだのではないかと思う。

2025年11月17日月曜日

  今日は渋沢丘陵を通って震生湖まで散歩した。

AI俳画
 皇帝のダリア寝ぼけた朝の色
 海見よとパンパスグラス背伸びする
 薄紅葉今日も工事の震生湖

 それでは「甲戌紀行」の続き。

 其角ら一行は雲名橋から天竜川を下る。
 山から平野部に出るあたりに今も二俣という地名がある。二俣川が天竜川に合流する。

   二股川
 打つ櫂に鱸はねたり淵の色    其角

 椎河脇の御社は今の椎ヶ脇神社と思われる。川の脇にある。この辺りまで来ると淵も深くなり、スズキもいたのだろう。
 二俣の対岸は鹿島という地名になっている。遠州鉄道の西鹿島駅がある。ここで陸に上がって浜松へ向かったのだろう。今も笠井街道という名の道がある。
 9月9日の朝、三島で重陽を迎えて其角等御一行は由比まで行き、9月10日に清見潟から宇津の山を越え岡部宿まで行き、そして11日に小夜の中山を越えて掛川に至り、12日に秋葉山下社の宿坊に泊まり、13日朝に上社に参拝して山を下り、浜松で十三夜を迎える。

2025年11月16日日曜日

 
AI俳画
 「甲戌紀行」の続き。

 秋葉神社への行きは掛川から入ったが、帰りは浜松へ出る。9月13日の朝に上社を参拝し、その日のうちに浜松へと向かうことになる。
 雲名橋の辺りから船に乗って天竜川を下ったのだろう。山道はそこで終わりということで、杖を捨てる。

 かし鳥に杖を投げたるふもと哉 其角

 かし鳥はカケスのこと。

2025年11月15日土曜日

AI俳画

 「甲戌紀行」の続き。

 9月13日の朝、其角ら一行は秋葉神社上社へと向かう。

 合羽着て鹿にすがるや秋葉道  晋子

 この場合の合羽は防寒着とも思われるが、別に雨が降っていたとしてもおかしくない。ここまでの旅が駕籠によるものだったら、雨もそんなに関係なかったかもしれないが、山路を歩くとなれば雨具は必要だし、山の中だから霧に巻かれて、実際に道端に出て来ていた鹿を辿るように上社まで行ったのかもしれない。
 参拝を終えると、元来た道を引き返すのではなく天竜川の方へ降り、浜松へと向かう。今の天竜スーパー林道の方の道で、雲名橋へ降り、ここから船で下ったのではないかと思われる。

2025年11月14日金曜日

AI俳画
 「甲戌紀行」の続き。

 9月10日の夜は岡部宿に泊まり、翌11日は小夜の中山を越えて掛川へ向かう。

   小夜中山
 道役に紅葉はくなり小夜の山  其角

 道役は道路の管理人で、紅葉を掃いて街道をきれいに保つ。
 翌9月12日は掛川から東海道を離れて秋葉神社に向かう。「隨縁紀行」の方には森、三倉、四十八瀬、といった道筋が記されている。
 森は新東名の森掛川インターの方に森町がある。そこから北へ三倉川に沿ってゆくと今の森町三倉がある。県道58号線袋井春野線が昔の秋葉街道を踏襲するものであろう。
 途中に「隨縁紀行」には、

 袖すりや息杖できる松の蔦   松翁

の句があり、駕籠の乗って行ったのがわかる。
 息杖(いきづゑ)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「息杖」の解説」に、

 「〘名〙 物をかつぐ者が持つ杖。かごかきなどが一息入れたり、荷物を支えるときなどに使用する。
  ※武家事記(1673)下「旗に用の器。請筒あり、手縄あり、息杖あり」

とある。芭蕉の旅は馬に乗ることが多かったが、其角さん御一行は駕籠に乗ることが多かったのだろう。其角はともかくとして、あとのメンバーはあまり旅に慣れてなかったのかもしれない。
 駕籠かきは袖に触れるじゃまっけな蔦を息杖で切りながら進んでゆく。
 おそらくこの日は下社の宿坊に泊まったのではないかと思う。参拝は翌日になる。

2025年11月13日木曜日

 
AI俳画
 「甲戌紀行」の続き。

   うつの山
 うらがれや馬も餅くふうつの山 其角

 9月10日の午後、其角ら一行は宇津の山を越える。蔦の細道とも呼ばれていた。
 名物の十団子は元禄に入ってからの米価高騰のせいで、通るたびに小さくなっているような状態で、許六が詠んだ、

 十団子も小粒になりぬ秋の風  許六

の句もこの二年前の元禄5年のことだ。十個入りの団子が昔からの売りだから数は減らせないし、旅のついでに気軽に買える価格を維持したいというので、やむを得ず一粒を小さくすることになったのだろう。
 ウィキペディアに引用されている『日本史小百科「貨幣」』『近世後期における物価の動態』を基に作成した銀建による米価の変遷の図によれば、貞享の頃には一石40匁だったのが元禄の初め頃には100匁まで跳ね上がっている。
 元禄7年春の興行で『炭俵』にも収録された「むめがかに」の巻の四句目にも、

   家普請を春のてすきにとり付て
 上のたよりにあがる米の値   芭蕉

の句があった。
 餅は本来馬にやるべきものではないが、小さな十団子なら、あるいはあげたりしてたのかもしれない。西洋だと馬にご褒美として角砂糖を与えたりするようだが、それと同じで、峠を越えた馬のご褒美だったのではないかと思う。

2025年11月12日水曜日

AI俳画

 今日は小田原へざる菊を見に行った。


 それでは「甲戌紀行」の続き。

   原回頭
 朝霧や空飛ぶ夢を富士颪 其角

 「回頭」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「回頭」の解説」に、

 「① 頭をめぐらすこと。ふりむくこと。
  ※正法眼蔵(1231‐53)仏性「長老見処麽と道取すとも、自己なるべしと回頭すべからず」
  ② 船、飛行機などが進路を変えること。変針。転進。
  ※官報‐明治三七年(1904)六月二七日「我艦隊は一斎に右八点に回頭し」

とある。この場合は①の方で、原を過ぎて富士の方を振り向くという意味であろう。特に進路を変えた形跡はないし、おそらく②は近代に入ってからの意味であろう。
 沼津では富士山は愛鷹山に隠れてよく見えないが、原の辺りに来るとよく見えるようになる。その辺りで富士山の方を向いてということか。
 三島から原までは三里くらいで、暗いうちに三島を出たなら、朝霧が晴れる頃だ。
 朝霧の中ではどのみち手前の愛鷹山も見えないが、心の中では空を飛んで富士の姿を思い浮かべる。
 芭蕉の『野ざらし紀行』の、

 霧しぐれ富士を見ぬ日ぞ面白き 芭蕉

の句を思い出させる。
 そして実際に原に着いて実際の富士山が見えると、ちょうど富士から吹き下ろす風も強く、空に放り出されたような気分だったのだろう。
 このあと富士川、清見が関では其角の句はなく、「甲戌紀行」には何も記されてない。
 その次の「しづはた」だが、前に書いた時には気付かなかったが、このしつはたは静岡の賤機山(しづはたやま)のことだ。
 東海道の道筋は賤機山の南端にある浅間神社の南の平野部を通り抜けるため、わざわざ賤機山の山路を通ったというわけではあるまい。おそらく、これから行く宇津の山の山路を前に、府中宿の紙子屋に「冬は」と問うたという意味だろう。
 紙子は風を遮るので冬の防寒具として優れているが、ぼろぼろになった紙子は乞食のイメージでもある。
 歌枕は掛詞として用いられることが多いため、一応一般名詞としての「しつはた」を見てみよう。
 「しつはた」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「倭文機」の解説」に、

 「〘名〙 (古くは「しつはた」) 倭文を織る織機。また、それで織った織物。しず。
  ※書紀(720)武烈即位前・歌謡「大君の 御帯の之都波(シツハタ) 結び垂れ 誰やし人も 相思はなくに」

とある。
 賤機山からシツハタの連想で、これから行く山路に冬の防寒対策を案じる。「冬はと問」はまだ冬は来てないがこれから来る冬を問うということだから、秋の季語になる。

2025年11月11日火曜日

AI俳画
 「甲戌紀行」の続き。

   三島旅中佳節
 門酒や馬屋のわきの菊を折る 其角

 「隨縁紀行」では前書きは「三嶋にて旅行の重陽を」だった。
 9月6日に旅立ち、通常の日程だとその日は戸塚まで行き、7日に小田原、8日に箱根を越えて三島に着き、9月9日の重陽の朝を迎えることになる。ここまでは順調だったということだ。ちなみにこの日芭蕉は奈良にいて、この日暗(くらがり)峠を越えて大阪に入る。
 出発時に宿屋の主人から重陽の菊酒を振舞われたのだろう。それもその場で菊を折ってというのが、なかなか粋だ。

2025年11月10日月曜日

 

 今日は掛川の西山桜の郷に藤袴を見に行った。赤と白の花があって、奇麗な蝶も飛んでいた。
 そのあと掛川花鳥園へも行った。

2025年11月9日日曜日

 Xの方でAI俳画を先に流しているが、ここでも其角の元禄十年の『俳諧錦繍緞』に収録されている「甲戌紀行」を見て行こうと思う。
 これは元禄七年秋の其角らの江戸から大阪への旅の句を並べたものとしては、同じ其角編の元禄7年の『句兄弟』に収録された「隨縁記行」と重複するものだが、「甲戌紀行」の方は其角の句のみを記し、簡略化されている。始まりも箱根からになっている。
 「隨縁記行」の方はこの俳話でも2022年11月29日から12月15日まで取り上げている。
 「隨縁紀行」には甲戌仲秋(元禄7年8月)の名月の句から始まっている。

 木母寺に歌の会ありけふの月  晋子

 木母寺は今も墨田区にある天台宗の寺院で、東白髭公園の中にある。ウィキペディアによると、

 「この寺の寺伝によれば、976年(貞元元年)忠円という僧が、この地で没した梅若丸を弔って塚(梅若塚:現在の墨田区堤通2-6)をつくり、その傍らに建てられた墨田院梅若寺に始まると伝えられる。」

という。場所的にもちょうど古代東海道がこの辺りを通っていた。
 そして9月6日に其角は岩翁・亀翁・岩翁・尺草・横几とともに6人で上方方面へと旅立つ。
 首途の句、六郷の渡りの句に其角の句はない。其角の最初の句は箱根峠で始まるということで、ここから「甲戌紀行」は始まる。

   箱根峠にて
 杉の上に馬ぞみえ来る村櫨   晋子

の句は、ここでは、

   箱根峠
 杉の上に馬ぞ見え來るむら栬  其角

となる。櫨も栬も「もみぢ」と読む。
 2022年11月29日の時は、

 「山は紅葉しているが、街道の関所の辺りの平地は杉並木なので、杉並木を出て山を登って行く馬が紅葉の中を行くのが見える。」

としたが、箱根峠を登ってゆくうちに下界の杉並木から馬が登ってくる様子としてみてもいい。
 そのあとに、

 「秋の空尾上の杉をはなれたりといふ吟ここにもかなふべし。」

とある。

 秋の空尾上の杉にはなれたり  其角(炭俵)

の句を指す。