今朝のニュース。
アルジャジーラ
ウクライナ軍がリシチャンシクからの軍の撤退を確認
BBC
ウクライナはロシア人によって捕えられたリシチャンシクを確認します
ブルームバーグ
キーウはその軍隊がリシチャンシクから撤退すると言います
スプートニク
ショイグがルガンスク人民共和国の開放についてプーチンにブリーフ
一方日本では、
朝日デジタル
ウクライナ軍がリシチャンスク撤退認める 「ロシア軍が優位に」
ウクライナ軍がリシチャンスク撤退 「鋼の意志だけでは」
NHK
ロシア国防相「ルハンシク州全域掌握を大統領に報告」と発表
朝日はウクライナの敗北をあざ笑うかのようなコメントを付けている。「ロシア軍が優位に」「鋼の意志だけでは」という見出しはまるでスポーツの敗者に対して言ってるかのようだ。NHKはスプートニックの見出しに比べてもいかにも戦果を強調するような書き方だ。
スポーツ新聞ならこういう書き方でもいいが、多くの人が亡くなっている戦争で、勝ち負けを中心としたこういう報道姿勢は下衆というしかない。
午後になったら今度は、
アルジャジーラ
ロシアは、国境都市ベルゴロドでミサイルを発射したとしてキーウを非難している
BBC
ロシアはウクライナが国境都市を攻撃したと非難
テレビ朝日
「ウクライナが市民を標的に」ロシア国内への攻撃
というニュースが流れた。日本のテレビのいつものパターンだが、頭にロシア側の主張をどーーーんと持ってきて、ニュースの最後の方でウクライナはこう反論していますと、申し訳程度に付け加える。
この国を何とかしなくてはと思う人は、必ず投票に行こう!
ロシアとウクライナとの国境がなくなり、ロシアと日本との国境がなくなることを、国境のない世界への第一歩だとするような連中に負けてはいけない。
世界を一つにしてはならない。世界は多様であるべきだ。世界が一つになれば個人もすべて最高指導者の一つの価値観に服従させられることになる。多様性を失った世界は滅亡する。
人間の脳は可塑性に富んでいて、生得的な差異だけでなく、生まれたから生じる様々な偶然から、一人一人他人にはできない独特な思考ができるようにできている。これによって、一人では解決できない問題を他の人の脳を借りながら解決できるようになる。
世界は七十億の脳によって並列処理されることで成り立っている。独裁はこれを一つの脳だけで処理しようというものだ。
たった一人の頭脳が支配する世界になったら、この世界の様々な難問が解決困難になるばかりか、偽りの非人間的な回答を万人が信じ込む世界になる。
間違ってはいけない。世界に正解なんてない。自分で考え、判断しろ!自らの多様性を信じろ!人と違う声を上げろ!
意見が違っても力で解決せずに、数で解決しよう。それが民主主義だ。石鹼屋というバンドが唄っていたが、この世界のノイズになれ!
選挙は出題者の言う「正解」を当てるためのクイズゲームではない。選挙に正解なんてない。答えのないこの世界の問題を、みんなで解決するための一つの手段に過ぎない。
それでは「東路記」の続き。
「沢山の古城は、鳥居本の西にあり。長き松山也。石田治部が城あと也。関が原軍の翌日、此城を攻落す。彦根の城は其西にあり。鳥居本より彦根へ行けば、沢山の古城の山を越ゆく也。鳥井本より彦根に一里に近し。彦根は湖の辺也。夫木集に、経信と弁の乳母が歌あり。関が原陣の後、沢山の城と治部少輔が領地を、井伊兵部殿に給りしが、慶長九年、沢山の城不宜とて、彦根に改て城を築かしめ給ふ。是は兵部殿死去の後也。垂井より鳥居本の間、七里は山中也。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.27~28)
滋賀県の広報によると、滋賀県には千三百を超える城があったという。ここでは「沢山」は「さわやま」と読むが、「たくさん」とも読めてしまう所が面白い。
この沢山城は今は佐和山城と表記されている。鳥居本宿のあったところには今も近江鉄道の鳥居本駅がある。西に佐和山城跡のある山があり、まだ湖の辺には出ず、山の中になる。
「関が原軍(いくさ)の翌日、此城を攻落す。」については、ウィキペディアに、
「慶長5年(1600年)9月15日の関ヶ原の戦いで三成を破った徳川家康は、小早川秀秋軍を先鋒として佐和山城を攻撃した。城の兵力の大半は関ヶ原の戦いに出陣しており、守備兵力は2800人であった。城主不在にもかかわらず城兵は健闘したが、やがて城内で長谷川守知など一部の兵が裏切り、敵を手引きしたため、同月18日、奮戦空しく落城し、父・正継や正澄、皎月院(三成の妻)など一族は皆、戦死あるいは自害して果てた。江戸時代の『石田軍記』では佐和山城は炎上したとされてきたが、本丸や西の丸に散乱する瓦には焼失した痕跡が認められず、また落城の翌年には井伊直政がすぐに入城しているので、これらのことから落城というよりは開城に近いのではないかとする指摘もある。」
とある。
『夫木抄』所収の歌は、
彦根山あまねきかどと聞きしかど
八重の雲居に惑ひぬるかな
源経信(夫木抄)
と、あと日文研の和歌データベースでは「番号外作者」としか表記されてないが、
よを照らす彦根の山の朝日には
心も晴れてしかぞかへりし
(夫木抄)
の歌が弁の乳母の歌か。
彦根城はウィキペディアに、
「江戸時代初期、現在の滋賀県彦根市金亀町にある彦根山に、鎮西を担う井伊氏の拠点として築かれた平山城(標高50m)である。山は「金亀山(こんきやま)」の異名を持つため、金亀城(こんきじょう)とも呼ばれた。多くの大老を輩出した譜代大名である井伊氏14代の居城であった。」
とある。
彦根城で彦根藩というと許六がここにいたわけだが、ウィキペディアには、
「天和2年(1681年)27歳の時、父親が大津御蔵役を勤めたことから、許六も7年間大津に住み父を手伝う。」
とあり、貝原益軒が通った時には大津にいたことになる。『俳諧問答』に、
「其後転変して、自暴自棄の眼出来、我句もおかしからず。他句猶以とりがたし。所詮他人の涎をねぶらんより、やめて乱舞に遊ぶ事、又四・五年也。
しかりといへ共、元来ふかくこのめる道なれバ、終にわすれがたくて、おりふしハ他の句を尋ネ、頃日の風儀などを論ズ。其比一天下、桃青を翁と称して、彌(いよいよ)名人の号を四海にしくと沙汰ス。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.85)
とある、この頃だった。延宝の頃は田中常矩に師事し、当時の流行で速吟なども試みていたが、今一つ芽が出なかった。そこに父の左遷と談林俳諧の衰退が重なり、ぐれていた時期だった。自暴自棄になりながらも俳諧が救いだった。
芭蕉の名声は耳にしていたが、芭蕉に感化されるようになったのは元禄二年に公刊された『阿羅野』を読んだ時だった。
その年芭蕉は『奥の細道』の旅を終えて伊勢から伊賀へ行き、そして一度京都へ出た後十二月に芭蕉は膳所にやって来たのだが、悲しい哉、許六はこの年父の隠居で彦根に連れ戻され、ここで芭蕉に出会うことはなかった。芭蕉との念願の対面は許六が参勤交代で江戸勤務になった元禄五年のことだった。
「小野の宿は、鳥居本と高宮の間にあり。名所也。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.28)
鳥居宿の次は高宮宿だが、鳥居宿を出てすぐの両側に山が迫る所に「小野」という地名が今も残っていて、小野小町の里になっている。
小野を詠んだ和歌は多いが、どこにもありそうな地名だけに、ここの小野なのかどうか確証はない。
こことは別に、山科にも小野があり、「石田(いはた)の小野」「小野の細道」などが歌枕になっていて、
今はしも穂に出でぬらむ東路の
石田の小野のしののをすすき
藤原伊家(千載集)
秋といへば石田の小野のははそ原
時雨もまたず紅葉しにけり
覚盛法師(千載集)
眞柴刈る小野のほそみちあとたえて
ふかくも雪のなりにける哉
藤原為季(千載集)
などの歌に詠まれている。
山田の小野、
きぎす鳴く山田の小野のつぼすみれ
標指すばかりなりにけるかな
藤原顕季(六条修理大夫集)
小野の山里、
鹿のねを聞くにつけても住む人の
心しらるる小野の山里
西行法師(新後撰集)
を詠んだ歌もあるが、どこの小野なのか定かでない。
風越ゆる十市の末を見渡せば
雲にほのめく小野の茅原
賀茂季保(正治後度百首)
のような小野の茅原を詠んだものもあり、これだと大分イメージが違ってくる。十市が奈良橿原の十市だとしたら、また別の場所になる。
コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「小野」の解説」に、
「[1] 〘名〙 (「お」は接頭語) 野。野原。おぬ。
※古事記(712)中・歌謡「さねさし 相摸の袁怒(ヲノ)に 燃ゆる火の 火中に立ちて 問ひし君はも」
[2]
[一] 京都市山科区南端の地名。中世には小野郷。真言宗善通寺派(もと小野派本山)随心院(小野門跡)、醍醐天皇妃藤原胤子の小野陵がある。
※拾遺(1005‐07頃か)雑秋・一一四四「み山木を朝な夕なにこりつめて寒さをこふるをのの炭焼〈曾禰好忠〉」
[二] 京都市左京区八瀬、大原一帯の古名。小野朝臣当岑が居住し、惟喬(これたか)親王が閉居した所。
※伊勢物語(10C前)八三「睦月にをがみ奉らむとて、小野にまうでたるに、比叡の山の麓なれば、雪いと高し」
[三] 滋賀県彦根市の地名。中世の鎌倉街道の宿駅で、上代には鳥籠(とこ)駅があった。小野小町の出生地と伝えられる。
※義経記(室町中か)二「をのの摺針(すりばり)打ち過ぎて、番場、醒井(さめがい)過ぎければ」
[四] 兵庫県中南部、加古川中流域の地名。小野氏一万石の旧城下町。特産品に鎌、はさみ、そろばんなどがある。昭和二九年(一九五四)市制。」
とある。[1] は一般名詞としての小野で、[四]は歌枕ではない。
「高宮より多賀へ、一里あり。南にあたる。多賀に多賀大明神の社有。伊弉諾尊なり。参詣する人多し。高宮より彦根へも一里有。高宮の町に、布を多くうる。高宮と愛智川の間に、つづらおり村と云所あり。水口のごとく、つづら行李を多く作りてうる処也。高宮の町の西の出口に川あり。犬上川と云。此辺は犬上の郡也。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.28)
高宮には今も近江鉄道高宮駅がある。南西に多賀大社があり、近江鉄道多賀大社線が通っている。多賀大社はウィキペディアに、
「和銅5年(712年)編纂の『古事記』の写本のうち真福寺本には「故其伊耶那岐大神者坐淡海之多賀也。」「伊邪那岐大神は淡海の多賀に坐すなり」(いざなぎのおおかみは あふみのたがに ましますなり)との記述があり、これが当社の記録だとする説がある。」
とある。
元禄三年の伊賀での「種芋や」の巻十句目に、
やすやすと矢洲の河原のかち渉り
多賀の杓子もいつのことぶき 半残
の句がある。伊賀からだと甲賀の水口を経由して多賀へ向かうから、野洲川を上流の方で安々と渡ることになる。
多賀の杓子はウィキペディアに、
「多賀社のお守りとして知られるお多賀杓子は、元正天皇の養老年中、多賀社の神官らが帝の病の平癒を祈念して強飯(こわめし)を炊き、シデの木で作った杓子を添えて献上したところ、帝の病が全快したため、霊験あらたかな無病長寿の縁起物として信仰を集めたと伝わる。元正天皇のころは精米技術が未発達で、米飯は粘り気を持つ現代のものとは違い、硬くてパラパラとこぼれるものだったらしく、それをすくい取るためにお多賀杓子のお玉の部分は大きく窪んでいて、また、柄は湾曲していたとのことで、かなり特徴のある形だったという。なお、現代のお多賀杓子はお玉の形をしていない物が多く、今様の米に合わせて平板な物が大半である。このお守りは、実用的な物もあれば飾るための大きな物もある。」
とある。
高宮布はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「高宮布」の解説」に、
「〘名〙 滋賀県彦根市高宮付近で産出される麻織物。奈良晒(ならざらし)の影響を受けてはじめられ、近世に広く用いられた。高宮。〔俳諧・毛吹草(1638)〕」
とある。この麻織物は生平(きびら)とも呼ばれ、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「生平・黄平」の解説」に、
「〘名〙 からむしの繊維で平織りに織り、まだ晒(さら)してないもの。上質であるため、多く帷子(かたびら)や羽織に用いる。滋賀県彦根市高宮付近から多く産出した。大麻の繊維を用いることもある。《季・夏》
※浮世草子・日本永代蔵(1688)五「生平のかたびら添てとらすべし」」
とある。また、「世界大百科事典内の生平の言及」に、
「農民は特殊なものでないかぎり紬以上を禁じられた。武家の下僕は豆腐をこす袋や暖簾(のれん)に使う細布(さいみ)(糸の太い粗布)を紺に染めて着,民間の下僕は生平(きびら)(さらさない麻布)を着た。一般の民衆は麻または木綿を常用した。」
とある。天和二年の「錦どる」の巻九十五句目に、
藍搗臼のごほごほし声
市賤の木びらを負る木陰には 曉雲
の句がある。藍搗の作業場の下僕が着ていたのだろう。
は高宮宿の次の宿は愛知川(えちがわ)宿で、JR愛知川駅がある。高宮宿を出てすぐに犬上川を渡ると彦根市葛籠町という地名がありここがかつての「つづらおり村」だったのだろう。ウィキペディアに、
「行李(こうり)とは、竹や柳、籐などを編んでつくられた葛籠(つづらかご)の一種。直方体の容器でかぶせ蓋となっている。衣料や文書あるいは雑物を入れるために用いる道具。衣類や身の回りの品の収納あるいは旅行用の荷物入れなどに用いられた。半舁(はんがい)ともいう。」
とある。元禄七年、芭蕉が最後の旅で潤五月に京都に来た時に、
柳行李片荷は凉し初真桑 芭蕉
の句を詠み、六吟歌仙興行が行われている。この柳行李もこうした葛籠だった。