2023年4月16日日曜日

 
 今日は渋沢の丹沢祭を見に行った。ブラスバンドのパレード、山伏の法螺貝、御輿などがあった。メイン会場にはステージがあり、沢山の屋台が並んでいた。

 夾竹桃さんの戦国小町苦労譚を読み始めたが、最初の方に信長のような目上の人を諱で呼んではいけないというのがあった。
 本名で呼ぶことを嫌う習慣は結構世界中普遍的にあって、英語圏でも略称を用いるのが普通で、本名を言うと慇懃無礼な感じになる。
 現代日本でも親しい間柄を示すのにあだ名を用いる。あだ名がないというのはある意味ボッチの証で、ぼっち・ざ・ろっくでは「ボッチちゃん」というあだ名がついたことでボッチでなくなるという逆説が用いられている。
 そうなると逆に謎なのは、初期の貞門俳諧ではなぜ俳号ではなく名乗りが用いられたのかということだ。
 芭蕉も「貞徳の涎をねぶる」なんていう時には貞徳だが、敬意をはらう時は長頭丸を用いる。
 芭蕉の時代の俳諧師は、俳号で呼ぶことも諱と同様慇懃無礼な印象を与えたのかもしれない。
 其角を晋子と呼び、支考を盤子と呼ぶのもそれだし、桃青を芭蕉と呼ぶもの凡兆を加生と呼ぶのもそれなのかもしれない。
 ただ、膳所の正秀だけは、代々受け継がれた名乗りに愛着があるのか、正秀を用いている。
 アメリカの人権団体があだ名を禁止しようというのは、親しい間柄を作るということが親しい人と親しくない人との差別を生むという論理によるもので、親友を作ることを禁ずるのと同じ理屈。はっきり言って糞だ。それこそ集団結婚の発想だ。
 日本は古代から名前ではなく官職名で呼ぶ習慣があり、源氏物語でも登場人物のほとんどは官職名で呼ばれている。本名で呼ばれるのは惟光、良清の二人でいずれも源氏の随身。
 江戸時代は実際の職名とは異なる実体のない官職名で呼び合うようになったが、現代の日本の職場では相変わらず部長だの課長だの職名で呼ぶのが常態になっている。

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