大分遅くなったが、『六百番俳諧発句合』の続き。やり残していたので、片づけていくことにする。
二百四十三番
左持 納涼 高野 幽山
水無月やいつかきにけん裸島
右 同 山口 信章
峠凉し沖の小島のみゆ泊り
左は在中将をうつして暑天の諸人のありさまをいへる感吟の作為といふべし。
右は鎌倉右大臣の言の葉より波のよる事の涼しさをいはでまかせる手段誠に手たりのものと見ゆれば又持にや。
裸島はウィキペディアの「御曹司島渡」に、
「室町時代の御伽草子。作者、成立年不詳。藤原秀衡より、北の国の都に「かねひら大王」が住み、「大日の法」と称する兵法書があることを聞いた、頼朝挙兵以前の青年時代の御曹子義経は、蝦夷(えぞ)の千島喜見城に鬼の大王に会う事を決意する。四国土佐の湊から船出して喜見城の内裏へ向かう。途中、「馬人」(うまびと)の住む「王せん島」、裸の者ばかりの「裸島」、女ばかりが住む「女護(にようご)の島」、背丈が扇ほどの者が住む「小さ子の島」などを経めぐった後、「蝦夷が島」(北海道)に至り、内裏に赴いて大王に会う。 そこへ行くまでに様々な怪異体験をするが最後には大王の娘と結婚し、兵法書を書き写し手にいれるが天女(大王の娘)は死んでしまう。」
とある、この裸島ではないかと思う。
判者の季吟は在原業平中将のこととしている。『伊勢物語』六十一段の風流(たわれ)島のことと見たか。句の方は暑いから裸島に行きたいなという「暑天の諸人のありさま」の句なのは間違いない。
信章の句の判の鎌倉右大臣の言の葉というのは、
箱根路を我が越えくれば伊豆の海や
沖の小島に波の寄る見ゆ
源実朝(続後撰集)
であろう。初島の見える峠は箱根峠ではなく、箱根の南を通って伊豆山へ抜ける十国峠の道であろう。
どちらも一興あっての引き分けだが良持にはしていない。
二百七十一番
左持 富士詣 望月 千之
足を空にまどふや雲路富士詣
右 土用干 山口 信章
富士山やかのこ白むく土用干
左はつれづれ草の葉末より求め出てやさしく、
右は伊勢物がたりの詞の花をかざりてはなやかに、いづれをいづれとも申がたく只に感吟してぞやみ侍べき。
千之の「足を空にまどふや」は『徒然草』第十九段の、
「何事にかあらん、ことことしくのゝしりて、足を空に惑ふが、暁がたより、さすがに音なくなりぬるこそ、年の名残も心ぼそけれ。」
で、師走のあわただしさを形容する言葉。
ここでは富士山に登ると雲が足の下にあって、空を歩いてるみたいだという意味に転じて用いている。
信章の「かのこ白むく」は『伊勢物語』第九段の、
「富士の山を見れば、五月のつごもりに、雪いと白う降れり。
時知らぬ山は富士の嶺いつとてか
鹿の子まだらに雪の降るらむ」
から取ったもので、富士山は鹿の子柄の服と白無垢の服を土用干ししている、とする。
これも引き分け。
三百二十九番
左勝 七夕 武野 保俊
おもひ出やこよひはててらふたつ星
右 鬼灯 山口 信章
鬼灯や入日をひたす水のもの
星合の夜かの男はててら女は二のといへるをよせられたる尤興あり。
鬼灯入日をひたすは水桶にひたしをけるにや。今少不足。左勝。
「ててら」は褌のことで、
夕顔の棚の下なるゆふすずみ
男はててら妻はふたのして
の歌が元和・寛永の頃の『噺本・醒睡笑』にある。維舟の判もそれを引用している。
信章の鬼灯の句は水桶に入れた鬼灯の実が入日のようだという句。「水のもの」は水分の多い果物のことで、鬼灯の実は食用にもなる。
奇麗で品よく作ってあるが、この句合ではシモネタが勝つ。
三百五十七番
左持 踊 浅香 研思
誰をそしり誰をかほめん馬鹿踊
右 鹿 山口 信章
むさしのやふじのね鹿のね虫の音
馬鹿踊なればそしりも有まじきの云成さもあらん。富士の根鹿の音おもしろき類重てそれぞれの興あり。留りの詞少つまり候へば扨は虫と云捨中申度こそ。持とや申さん。
馬鹿踊はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「馬鹿踊」の解説」に、
「〘名〙 一定の型によらないで、むやみにはねまわって踊ること。また、盆や祭礼の時などに、馬鹿ばやしに合わせてする踊。ばか舞。
※俳諧・若狐(1652)三「をしなべて手にもとりえぬしぶ団(うちは) ばか跳にぞ夜をふかしぬる」
とある。上手いのか下手なのかよくわからない、ということか。フリースタイルでも上手い下手はあると思うが。
信章の句は、武蔵野のは富士の峰が見え、鹿の音も聞こえ風流だが、最後の「虫の音」は「ね」と読むと字足らずになるし、「こえ」や「おと」と読んだんでは「ね」つながりでなくなる。「さては虫」と結んだらと言う。
どちらも疵有りで引き分け。
三百八十五番
左 踊 黒川 行休
毎夜毎夜出るはあこぎぞ伊勢踊
右勝 紅葉 山口 信章
根来ものつよみをうつせむら紅葉
阿漕の古事をいせをどりによせさもこそ毎夜毎夜を度重なるなど申たしすべて此事あまりに云古たり大方にてはいかがと覚申
根来物強地のやうにむら栬に其色を濃移して見んとなり仕立珍し右勝
伊勢神宮に近い阿漕が浦は禁漁区とされていたが、そこでたびたび密漁をする漁師がいて、やがて捕まり海に沈められたという。
伊勢の海阿漕が浦に引く網も
度重なればあらはれにけり
という歌が『源平盛衰記』の西行発心の場面に引用されている。『夫木抄』にも、
逢ふことを阿漕の島に引くたびの
度重ならば人知りぬべし
よみ人しらず
の歌がある。『古今和歌六帖』に元があるというが、日文研のデータベースではヒットしなかった。
謡曲『阿漕』は殺生の罪に結び付けられていて、
「総じてこの浦を阿漕が浦と申すは、伊勢太神宮御降臨よりこの方、御膳調進の網を引く所 なり。されば神の御誓ひによるにや、海辺のうろくづ此の所に多く集まるによつて、浮世を渡るあたりの蜑人、この所にすなどりを望むといへども、神前の恐れあるにより、堅く戒めてこれを許さぬ処に、阿漕といふ蜑人、業に望む心の悲しさは、夜な夜な忍びて網を引く。暫しは 人も知らざりしが、度重なれば顕はれて、阿漕を縛め所をも変へず、この浦の沖に沈めけり。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (p.2684). Yamatouta e books. Kindle 版.)
とその由来が語られている。ネット上に流布している、「母の病気のためここで漁をした」とかいうのは後から付け加えられたものか。
毎晩行われる伊勢踊りを阿漕が浦に結び付ける発想は判者の維舟によるなら、当時としてはよくある月並みな発想だったようだ。
なお、この時代はいまのような「阿漕な」というだけで悪事を意味するわけではなかったようだ。
コトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「阿漕」の意味・読み・例文・類語」には、
「[2] 〘名〙 (形動) ((一)の伝説や古歌から普通語に転じて)
① たび重なること。また、たび重なって広く知れわたること。
※源平盛衰記(14C前)八「重ねて聞食(きこしめす)事の有りければこそ阿漕(アコギ)とは仰せけめ」
※浄瑠璃・丹波与作待夜の小室節(1707頃)夢路のこま「阿漕(あこぎ)の海(あま)のあこぎにも過ぎにし方を思ひ出て」
② どこまでもむさぼること。しつこくずうずうしいこと。押しつけがましいこと。また、そのようなさま。
※波形本狂言・比丘貞(室町末‐近世初)「あこぎやの、あこぎやの、今のさへやふやふと舞ふた、最早ゆるしてたもれ」
※浄瑠璃・夕霧阿波鳴渡(1712頃)中「あこぎな申ごとなれど、お侍のお慈悲に、父(とと)かといふて私にだき付て下されませ」
[語誌](一)の伝説から、(二)①の意に用いられたが、江戸初期から「図々しい」「強引だ」というマイナスの意味が派生した。これは謡曲「阿漕」や御伽草子「阿漕の草子」、浄瑠璃「田村麿鈴鹿合戦」などをはじめ、神宮御領地を犯す悪行として描いた作品によって定着していった解釈に基づくものと思われる。」
とあり、「図々しい」「強引だ」という意味で灰汁の強いという元の意味の「あくどい」に近いが、多分「あこ・あく=悪」の語感に釣られて、近代には極悪非道なことを「阿漕な」「あくどい」と言うようになったのだろう。
今の語感だと伊勢踊りを毎日やるってそんな悪いことなのか、って思ってしまうが、当時はそんなニュアンスはなかった。
素堂の句の「根来もの」は根来法師から来た言葉で、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「根来法師」の意味・読み・例文・類語」に、
「〘名〙 紀伊国の根来寺の僧兵。その勢力は室町時代に強大となり、戦国時代には鉄砲で武装して一揆を起こすなどの威勢をふるった。石山合戦の時、織田信長方について本願寺と対立したが、小牧・長久手の戦いでは雑賀(さいか)衆と共に豊臣秀吉と戦って討伐された。根来寺衆。根来衆。根来の衆。
※俳諧・犬筑波集(1532頃)雑「わるさするつぶりに槌をあてがひて ねころ法師の坊の棟あげ」
とある。
根元に落ちた落葉の色濃くなるのを、根来ものの強情に喩える所に新味があり、信章の勝ちになる。
落葉の色の濃いのは、湯山三吟発句にも、
うす雪に木葉色こき山路哉 肖柏
の句がある。
四百十三番
左勝 名月 松村 吟松
さればこそ夜分のがれてけふの月
右 月 山口 信章
宗鑑老下の客いかに月の宿
名月の青天夜さへ昼の仕立さもこそあらめ連歌に今日の月夜分ならねば其理よく聞へたり。
宗鑑老下の客いかにとは俳諧連中月迄会合の体にや珍作ながら下の客今少云成申度左勝。
「今日の月」が夜分にならないというのは、貞徳の『俳諧御傘』に、
「一けふのこよひ 非夜分、けふといへば夜の詞入ても夜分ニ非ず。」
とあるのと同じ理屈か。今日という時点では夜ではないので「今日の今宵」も「今日の月」も夜分ではないということなのだろう。
ここでは名月が明るいから夜分ではないという、もう一つの理屈を加えて俳諧としている。
宗鑑の下の客は宗鑑が庵の入口に掛けていたと言われている狂歌、
上は来ず中は日がへり下はとまり
二日とまりは下下の下の客
宗鑑
によるもので、月見に来て泊って行く客は下の客ということになる。夜やる月見だから大抵の客は泊りになるから、みんな下の客というわけだ。
句としては珍しくても、普段の会話では度々聞くことなので信章の負け。
句としては後の元禄二年刊の『阿羅野』に、
下々の下の客といはれん花の宿 越人
の句がある。これは二日は泊って行きたいという強い意志を宗鑑の歌になぞらえた句で、そこに新味があったと思われる。
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