2023年4月15日土曜日

 今日は一日雨。そんな中で今度は現職の首相を狙ったテロ事件が起きた。
 左翼やマスゴミが山上を擁護して、テロも許されるような雰囲気を作り出していれば、こういう事件はこれからも起こると思う。
 今回の報道も爆発音がしているのに発煙筒だなんて言ったりしてた。
 取り押さえた勇敢な男に、爆弾を持っているんだから逃げろよなんて言ってるのがいたが、起動装置によるのではなく着火式の爆弾だから、投げる所を目撃したなら、火をつける前なら安全と判断し、火を点けさせないように素早く取り押さえるという判断は正しかったと思う。逃げたらもう一つの爆弾を投げて、もっと大きな被害が出ていただろう。

 それでは『六百番俳諧発句合』の続き。信章(素堂)の分はこれで終わり。

四百四十一番

   左持 紅葉鯽 松賀 紫塵
 水底や嵐のしらぬもみぢ鮒
   右  砧   山口 信章
 正に長し手織紬につちの音
 水底のふな嵐をしらぬさもこそ紅葉に嵐浪もさはぐ心入あれば何とも申なし有べし。
 長夜に手織袖をうつつちの音千聲萬聲も思ひ出たり今少軽持。

 紅葉鮒はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「紅葉鮒」の意味・読み・例文・類語」に、

 「〘名〙 琵琶湖に産するフナで、秋・冬にひれが紅色になったものをいう。《季・秋》
  ※俳諧・犬子集(1633)五「川音の時雨や染る紅葉鮒〈貞徳〉」

とある。
 琵琶湖にはニゴロブナ、ゲンゴロウブナなどが生息するが、ネット上の佐野静代さんの「<論説>琵琶湖の自然環境から見た中世堅田の漁撈活動」によれば、紅葉鮒は秋冬に舟木大溝の辺りで獲れるゲンゴロウブナのことだという。本来湖の深い所に棲むものが、この辺りの地引網にかかるという。
 深い所に住むことが知られていたことから、「嵐をしらぬ」となり、地上の紅葉が嵐に散るのに対して、嵐に散らない紅葉と洒落て俳諧になる。
 信章の句の手織紬は手紬のことであろう。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「手紬」の意味・読み・例文・類語」に、

 「〘名〙 家で紡いだ手織りの紬。経(たていと)・緯(よこいと)とも手紬糸で織った織物。また、それで仕立てた着物。
  ※浮世草子・好色五人女(1686)三「すへずへの女に手紬(テツムキ)を織せて」

とある。
 庶民が絹を着ることが禁止されていた時代でも、紬は木綿に似ていることから規制が緩く、丹念に叩けば艶が出るため、手織紬は庶民の間に広まっていたと思われる。
 絹みたいにてかてかになるまで砧を打つ「つちの音千聲萬聲」が俳諧になる。
 この勝負は引き分け。


四百六十七番

   左勝 神送  藤江 野双
 暇乞やうやまつて申神送り
   右  冬籠  山口 信章
 乾坤の外家もがな冬ごもり
 左の神送八乙女も神楽をのこもげにうやまつて見申べし。
 右の乾坤の外家あまりに広大にて灯くらし冬さむかるべく冬ごもりにはひんあしからんにや宜以左可為勝。

 神無月に出雲へ行く神を送り出す神送りには八乙女が舞い、神楽男が神楽を演奏する。人間なら暇乞(いとまごひ)だが、神様の場合は敬って「神送り」という。
 信章の句は多分『和漢朗詠集』の元稹の、

 壺中天地乾坤外 夢裏身名旦暮間
 壺中の天地は乾坤の外(ほか)
 夢裏の身名は旦暮の間

によるもので、壺中の天のような浮世を離れた神仙境で隠居がしたいな、という意味だと思うが、その意図が伝わらなかったのではないかと思う。天地の外は広すぎて寒いということで信章の負け。


四百九十五番

   左持 帰花  水野 虎竹
 卯木もや後の名月かへり花
   右  茶花  山口 信章
 茶の花や利休が目にはよしの山
 左卯花のかへり花を後の名月といひなせる見るめも照かがやくここちしてめづらかに覚へ侍るを。
 右の茶の花の利休がめきき亦たがふべくも見へずをそらくは人丸が雪にも高く及ぶべければ又持とぞ申べき。

 虎竹の句は月と花がなかなか揃わないというテーマの句か。月の季節には桜は咲かず、花の季節の月は朧で、なかなか両方が揃わない。それが九月の十三夜の後の名月の時に卯の花の帰り花が咲いて、奇跡的に月と花が揃ったとすれば、これはなかなかないことで、珍しいと愛でるべきの両方の意味で「めづらか」になる。
 ただこう読むと秋の句になってしまうので、単に卯の木の帰り花を十三夜の月のように輝いてる、と取るべきなのだろう。卯の花の白も桜には及ばず、後の月も中秋の十五夜には及ばないから、似ていると言えば似ている。
 信章の句は初冬に白い花を付ける茶の木が満開になったのを見れば、千利休は吉野の千本桜を見たみたいに喜ぶのではないか、というもの。
 人丸が雪は、

 梅の花それとも見えす久方の
     あまぎる雪のなべてふれれは 
             柿本人麻呂(拾遺集)

の歌であろう。梅の花と雪との区別がつかない、というのを茶の花と吉野の桜の区別に当てはめたと思われる。
 いずれも甲乙つけ難いということで引き分け。


五百二十三番

   左持 鱈   風 虎
 釣竿や霜をつらぬく雪のうを
   右  凩   山口 信章
 凩も筆捨にけり松のいろ
 左句文集の貫霜竹をきりとりて雪魚の釣竿に用ひられし厳陵瀬の水よりいさぎよく五湖の煙濤より猶ふかし。
 右の筆捨松まことに風情面白けれど松の色といはんんいは時雨さへなどもいはまほしきにや仍以左為勝。

 文集の貫霜竹は『白氏文集』の続古詩十首四の、

 窈窕双鬟女 容德俱如玉
 昼居不逾閾 夜行常秉燭
 気如含露蘭 心如貫霜竹
 宜当備嬪御 胡為守幽独
 ‥‥略‥‥

だが、「きりとりて」なので、出典の文脈とは関係なく「貫霜」の言葉だけを切り取って、「霜をつらぬく」と用いているだけであろう。雪魚、つまり鱈を釣り上げる釣竿が寒い海から鱈を釣り上げる様に「霜を貫く」という工夫された表現をしているという点を褒めている。
 こういう前例のない言い回しは、近代俳句でも「この言葉を最初に使ったのはこの人だ」みたいに高く評価される傾向があるが、新語の価値はそれが多くの人に広まり、日本語の中に定着するかどうかにあるので、新語が出た時点での評価は未知数ではある。未知数だから判者がこれが良いと言った時に否定も肯定もしにくいから、作品をよいしょするにはちょうどいいはったりになる。
 判詞はこれに「厳陵瀬の水よりいさぎよく」といい「五湖の煙濤」という古典の言葉を引き合いに出し、それにも勝るとして最大限に褒めたたえる。
 厳陵瀬は『和漢朗詠集』の、

 傅氏巌之嵐 雖風雲於殷夢之後
 厳陵瀬之水 猶涇渭於漢聘之初
 一条右相府辞右大臣表文 菅原文時

に由来し、「五湖の煙濤」は謡曲『船弁慶』に、

 「小船に棹さして五湖の煙濤を楽しむ。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (p.3593). Yamatouta e books. Kindle 版. )

とある。
 まあとにかく「霜をつらぬく」の詞の巧みさ最大限に持ち上げて、この句の勝利を確定する。何となれば、風虎はこの『六百番俳諧発句合』の主催者であり、磐城平藩の殿様だからだ。
 これに対して信章の句は、松の色の冬も変わらず常緑であることを、木枯らしも染めることができずに筆を捨てる、とする。まあこれも巧みな言い回しではある。
 ここで判者は松は時雨も染め兼てという、

 我が恋はまつを時雨の染めかねて
     真葛が原に風さはぐなり
             慈円(新古今集)

を引き合いに出して、木枯らしではなく時雨が染め兼ての方が欲しいと、まあこれは言い掛かりでしかない。相手が悪かった。信章の負け。


五百五十一番

   左  氷   池西 言水
 あまの息もおもふや氷る筆のうみ
   右勝 雪   山口 信章
 何うたがふ弁慶あれば雪をんな
 左かのいきをつきあへぬかづく海士を氷る筆海に思ひやれる沈思のあとみへてさも有げなれど。
 右の山姥がうみ出たりしことばの弁慶あれば雪女といへるにくらべばげに黒白のかはりあるにや仍以右為勝。

 言水は後に、

 木枯しの果てはありけり海の音 言水

の句で有名になり、「木枯しの言水」と呼ばれるようになる。
 ここでも筆も硯の水も凍るような寒さの中で字を書いていると、水に潜る海人の息継ぎの苦しさが思いやられるという、なかなか面白い発想をしている。ただ、この時代は出典があった方が有利に働いたのだろう。
 信章の「弁慶あれば雪をんな」は謡曲『山姥』の、

 「隔つる雲の身を変へ、仮に自性を変化して、一念化生の鬼女となつて、目前に来たれども、邪正一如と見る時は、色即是空そのままに、仏法あれば世法あり煩悩あれば菩提あり。仏あれば衆生あり・衆生あれば山姥もあり。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (pp.4287-4288). Yamatouta e books. Kindle 版. )

の言い回しから来たもので、雪女はしばしば山姥と同一視されていたから、「衆生あれば山姥もあり」は「弁慶あれば雪女もあり」となる。目に見える人物も目に見えぬ怪異も邪正一如、色即是空の理屈では同じものだということになる。
 弁慶が実在するなら雪女も実在する、何を疑う、ということになる。まあ、弁慶の実在は疑わしいから、雪女も疑わしい、そこを言いくるめるのがこの句の笑いということになる。信章の勝ち。


五百七十九番

   左持 古札納 児玉 久友
 古札やそのをだまきの杉のえだ
   右  鯸   山口 信章
 世の中の分別ものや鯸もどき
 左ふる札と斗にて杉の下枝にとまる心をいへるにては季の詞うすしとや申候はん。
 右鯸もどきはことうをにて実のふくとうをにはあらねば落題なるべし左右難あれば持なるべし。

 古札は年始に貰った御札が年末になって降るくなったもので、神社に納めて新年に新しいお札を貰う。そのため古札納めは冬の歳暮の季語になる。
 ただ、それを二月の初午の稲荷神社の験の杉の葉の落ちた物(おだまき)に喩えてしまうと、歳暮の意味がなくなってしまう。「季の詞うすし」はそういう意味だ。
 信章の句も、題は鯸(ふぐ)だが、句に詠まれているのは河豚もどきで、これも本題からずれている。
 河豚もどきはコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「河豚擬」の意味・読み・例文・類語」に、

 「〘名〙 鯛や鯒(こち)などの皮をはぎ、河豚のように料理して、汁などに作って食べるもの。ふくとうもどき。
  ※俳諧・おくれ双六(1681)冬「其汁の糟をすするや鰒もどき〈忠珍〉」

とある。例文にある『おくれ双六』の句はこれより後の天和元年で、この句合よりも少し後になる。
 両方とも欠点があるということでこの勝負は引き分け。

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