2022年9月24日土曜日

 明日はたばこ祭見に行こうかな。台風も消えたことだし。
 
 生産が停滞し常に人口増加圧にさらされる前近代のマルサス的状況では、今の価値観と真逆な価値観が生じる。
 殺戮は人口調整のために善ではないとしても必要悪となり、その執行は正義となる。戦争は勝ち負けではなく人口調整のために避けられないもので、殺戮は正当化される。
 そこから、より多く敵を倒して自らも命を絶つことは一つの美学になる。多くの人を殺したその罪に、自らも死を受け入れることでバランスを取る。江戸時代の平和な時代に生き永らえた人がその時代を振り返って言った言葉は、「武士道とは死ぬことと見つけたり」だった。
 この論理はイスラム原理主義者の間では生きている。自爆テロはまさにこの美学に一致する。ひょっとしたら一部のロシア人の間でも生きているのかもしれない。
 今の戦争は犠牲者を最小にしようとするが、昔の戦争は殺戮そのものが目的だったと言ってもいい。
 江戸時代は新田開発によって生産力が向上したが、平安時代がなぜ平和だったのかと思うと、やはり荘園開発によって生産力が向上したからだったか。荘園開発が飽和状態になったことで保元・平治の乱以降の乱世になったのかもしれない。
 清盛は右肩上がりの時代から抜け出せなかった人だったのだろう。そのあとに起きた「鎌倉殿の13人」のバトルロワイアルも、膨れ上がった坂東武士の人員整理と見た方が良いかもしれない。

 それでは「道くだり」の巻の続き、挙句まで。
 二十五句目。

   杉の木末に月かたぐ也
 同じ事老の咄しのあくどくて   桃隣

 「あくどくて」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「あくどい」の解説」に、

 「〘形口〙 あくど・し 〘形ク〙 ものごとが度を超えていていやな感じを受ける場合に用いる。
  ① 色、味、やり方などがしつこい。くどい。
  ※俳諧・炭俵(1694)下「同じ事老の咄しのあくどくて〈桃隣〉 だまされて又薪部屋(まきべや)に待(まつ)〈野坡〉」
  ※桑の実(1913)〈鈴木三重吉〉一「少しもあくどい飾りなどのない、さっぱりした店である」
  ② やり方や性格などがどぎつくて、たちが悪い。悪辣(あくらつ)なさま。
  ※堕落論(1946)〈坂口安吾〉「人前で平気で女と戯れる悪どい男であった」

とある。元々は「くどい」の強化系だったのが、近代には「あく」の音に釣られて「悪どい」になったようだ。
 老人の繰り言を聞かされてゆくうちに夜も更け、朝になろうとしている。
 二十六句目。

   同じ事老の咄しのあくどくて
 だまされて又薪部屋に待     野坡

 ほんのちょっとで話が終わるからと薪部屋に待たされたが、年寄りの話が早く終わるはずがない。
 二十七句目。

   だまされて又薪部屋に待
 よいやうに我手に占を置てみる  利牛

 占は「サン」とルビがある。算木のことであろう。待たされて暇だから、薪を算木にして吉が出るまで何度も占ってみる。
 二十八句目。

   よいやうに我手に占を置てみる
 しやうしんこれはあはぬ商    桃隣

 「しやうしん」は『芭蕉七部集』の中村注に「正真、全く」とある。暇な占い師か。
 二十九句目。

   しやうしんこれはあはぬ商
 帷子も肩にかからぬ暑さにて   野坡

 一重の帷子(かたびら)でも暑くて、みんな上半身裸になって仕事している。汗だくになってももらえる金は変わらない。こりゃ合わないな。
 三十句目。

   帷子も肩にかからぬ暑さにて
 京は惣別家に念入        利牛

 惣別は総じてということ。京都は盆地で夏は暑い。家にはいろいろ暑さ対策に工夫を凝らすが、着物は脱ぐしかない。
 二裏、三十一句目。

   京は惣別家に念入
 焼物に組合たる富田魵      桃隣

 富田魵(えび)は『芭蕉七部集』の中村注に『七部婆心録』(曲斎、万延元年)の引用として、「摂津島上郡富田の玉川に産する川えび」とある。今の大阪府三島郡島本町の辺りで、六玉川の一つ、摂津三島の玉川がある。水無瀬川のことで川エビ(テナガエビ科のスジエビ)が獲れる。
 京の食卓ではスジエビの焼物が定番だったか。
 三十二句目。

   焼物に組合たる富田魵
 隙を盗んで今日もねてくる    利牛

 富田エビを取ってくると言って出かけては、実際には昼寝している。
 三十三句目。

   隙を盗んで今日もねてくる
 髪置は雪踏とらする思案にて   野坡

 髪置(かみおき)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「髪置」の解説」に、

 「① 幼児が頭髪を初めてのばす時にする儀式。江戸時代、公家は二歳、武家・民間では三歳の一一月一五日にすることが多かったが、必ずしも一定していない。小笠原流では白髪をかぶせ、頂におしろいの粉を付け、櫛(くし)で左右の鬢(びん)を三度かきなでて無病長寿を祈るのを例とした。現在でも男子の袴着、女子の帯解とともに「七五三の祝い」として残されている。髪立て。《季・冬》

  ※看聞御記‐応永二九年(1422)一二月三日「姫宮〈予第三宮〉御髪置有祝着之儀、芝殿役レ之、殊更三觴祝着如例」
  ② 江戸時代、僧侶が伊勢参詣をする時、付け鬢(びん)をしたこと。
  ※雑俳・柳多留‐二五(1794)「伊勢で髪おき高縄では袖とめ」
  ③ 唐衣(からぎぬ)の襟の中央背面で垂髪(すいはつ)のあたる部分。」

とある。今の七五三の三歳の祝いの前身とも言えよう。女の子の儀式となると、たいてい男は邪魔なものだ。
 三十四句目。

   髪置は雪踏とらする思案にて
 先沖まではみゆる入舟      桃隣

 先は「まず」。
 よくわからないが、『源氏物語』の明石の姫君の京へ行く場面か。
 三十五句目。

   先沖まではみゆる入舟
 内でより菜がなうても花の陰   利牛

 前句を沖に出ても花は見えるとして、船の上で何のおかずもなくて握り飯を食っていても、花を見ながら食う飯は内で食うよりも良い、とする。
 挙句。

   内でより菜がなうても花の陰
 ちつとも風のふかぬ長閑さ    野坡

 花の下で食う飯は格別で、まして風も吹かなければまだ花も散らない、と目出度く一巻は終わる。
 『ひさご』の、

 木のもとに汁も膾も桜かな    芭蕉

の句を思い出したのかもしれない。

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