2022年9月22日木曜日


  丹沢の山々。九月十四日撮影。

 ようやく落ち着いてきたので、俳話の方を再開しようと思う。
 休んでいる間にツイッターというのもやってみた。まあ、相変わらずフォロワーがいるわけでもなく、一人でブツブツ言っているだけだけどね。相互フォローがないのに勝手に人の所に書き込んで荒らすわけにもいかないし、案外狭い世界だ。でもいろいろ他人の面白い話は聞ける。

 そういうわけでまた俳諧を読んでみようと思う。
 今回は『炭俵』から「道くだり」の巻。
 発句。

 道くだり拾ひあつめて案山子かな 桃隣

 案山子はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「案山子・鹿驚」の解説」に、

 「① (においをかがせるものの意の「嗅(かが)し」から) 田畑が鳥獣に荒らされるのを防ぐため、それらの嫌うにおいを出して近付けないようにしたもの。獣の肉を焼いて串に刺したり、毛髪、ぼろ布などを焼いたものを竹に下げたりして田畑に置く。おどし。
 ② (①から転じて) 竹やわらで作った等身大、または、それより少し小さい人形。田畑などに立てて人がいるように見せかけ、作物を荒らす鳥や獣を防ぐもの。かがせ。そおず。かかし法師。《季・秋》

 ※虎寛本狂言・瓜盗人(室町末‐近世初)「かかしをもこしらへ、垣をも念の入てゆふて置うと存る」
 ※俳諧・猿蓑(1691)三「物の音ひとりたふるる案山子哉〈凡兆〉」
 ③ 見かけばかりで、地位に相当した働きをしない人。つまらない人間。見かけだおし。
 ※雑俳・初桜(1729)「島原で年迄取った此案山子」

 ③は②から派生した比喩で、この時代には②の案山子が普通にあったと思われる。ただ、道で拾ったもので案山子を作るのは結構難しそうで、ここは①の案山子でごみを燃やしたと見た方が良いかもしれない。「かがし」は語源的に「嗅(か)がす」から来ているという。②の意味の案山子は中世には僧都と呼ばれていた。『応安新式』に「月をあるじ 花をあるじ そうづ 山姫 木玉(已上非人倫也)」とある「そうづ」は案山子のことと思われる。
 いずれにせよ、江戸の市中で当座の景色というわけではあるまい。これまで正式に俳諧を習ったこともなく、見様見真似の案山子のようなものですという謙遜の句と見た方が良いだろう。
 脇。

   道くだり拾ひあつめて案山子かな
 どんどと水の落る秋風      野坡

 謙遜の発句に、その謙遜の意味は受けずに単なる農村風景の句とみなして、秋の台風で増水した川を付ける。
 第三。

   どんどと水の落る秋風
 入月に夜はほんのり打明て    利牛

 前句を音だけが聞こえるとして、月の既に沈んだ薄暗い夜明けとする。
 前句の秋風に、

 秋来ぬと目にはさやかに見えねども
     風の音にぞおどろかれぬる
              藤原敏行(古今集)

の「目にはさやかに」の心を読み取って付けている。
 四句目。

   入月に夜はほんのり打明て
 堀の外まで桐のひろがる     桃隣

 桐の木は成長が早い。放置された土地に雑草が生い茂ったと思ったら、すぐに桐が生えてくる。福島の立ち入り制限区域にこうした光景が見られる。
 ここでは荒れ果てた屋敷にひっそりと暮らす蓬生のイメージで良いのだろう。
 五句目。

   堀の外まで桐のひろがる
 銅壺よりなまぬる汲んでつかふ也 野坡

 銅壺はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「銅壺」の解説」に、

 「① 水時計の一つ。底に小さな穴をあけた銅製の壺に水を入れ、目盛りをつけた矢をその水中に立てて水面の低下することによって時刻をはかるもの。漏刻(ろうこく)。
  ※田氏家集(892頃)下・七月七代牛女惜暁更「箭漏応レ寛周歳会、銅壺莫レ従一宵親」 〔顧況‐楽府詩〕
  ② 銅製の器物。かまどの側壁に塗りこんだり、火鉢に仕込んだりする湯わかし。転じて、金属製の入れ物をもいう。
  ※俳諧・炭俵(1694)下「塀の外まで桐のひろがる〈桃隣〉 銅壺よりなまぬる汲んでつかふ也〈野坡〉」

とある。この場合は②でウィキペディアには、「湯を沸かし燗酒をつくる民具」とある。ここでは酒ではなく、燗酒を温めた残り湯をそのまま酔い覚ましのさ湯として用いる。荒れた家の主人の人柄が知れる。
 六句目。

   銅壺よりなまぬる汲んでつかふ也
 つよふ降たる雨のついやむ    利牛

 雨でやることがないから熱燗を飲んでいたが、雨が止んだので燗のお湯を飲んで酔いを醒まして仕事の支度をする。
 初裏、七句目。

   つよふ降たる雨のついやむ
 瓜の花是からなんぼ手にかかる  桃隣

 真桑瓜は雌花が親蔓に着かず、子蔓や孫蔓に着くため、親蔓や子蔓を摘心しなくてはならない。花の頃から手がかかる。その時期は夕立の多い夏になる。
 八句目。

   瓜の花是からなんぼ手にかかる
 近くに居れど長谷をまだみぬ   野坡

 瓜というと奈良漬で白瓜を用いる。真桑瓜と同様、摘心をする。奈良漬の瓜は育てているが、忙しくてまだ長谷寺には行ったことがない。
 まあ、すぐ近くにあっていつでも行けると思うと、かえって行ったことのないままになることはよくある。
 九句目。

   近くに居れど長谷をまだみぬ
 年よりた者を常住ねめまはし   利牛

 常住はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「常住」の解説」に、

 「① (━する) 仏語。生滅変化することなく、過去・現在・未来にわたって、存在すること。じょうじゅ。
  ※勝鬘経義疏(611)歎仏真実功徳章「勝鬘応レ聞二常住一之時」
  ※徒然草(1331頃)七四「常住ならんことを思ひて、変化の理(ことわり)を知らねばなり」 〔北本涅槃経‐七〕
  ② (━する) つねに一定の所に住むこと。また、寺僧が一寺に定住して行脚(あんぎゃ)をしないこと。
  ※霊異記(810‐824)中「諾楽の京の馬庭の山寺に、一の僧常住す」 〔朱熹‐章厳詩〕
  ③ (副詞的にも用いる) 日常、ごく普通であること。また、習慣化していつもそうであるさま。ふだん。しょっちゅう。年じゅう。じょうじゅ。
  ※高野本平家(13C前)六「常住(ジャウヂウ)の仏前にいたり、例のごとく脇息によりかかって念仏読経す」
  ※浄瑠璃・夏祭浪花鑑(1745)九「アレあの通(とほり)に常住(ジャウヂウ)泣て居らるる」
  ④ 「じょうじゅうもつ(常住物)」の略。
  ※正法眼蔵(1231‐53)行持「常住に米穀なし」 〔釈氏要覧‐住持・常住〕

とある。
 長谷寺の近くのお寺の住職であろう。何かもめ事があったのか長谷寺の僧が通るたびに睨みつけて、意地でも長谷寺に行くものかというところか。
 十句目。

   年よりた者を常住ねめまはし
 いつより寒い十月の空      桃隣

 人のことを睨みつけてばかりの偏屈爺さんは、十月になっても誰にも相手にされず、寒い冬を迎える。
 十一句目。

   いつより寒い十月の空
 台所けふは奇麗にはき立て    野坡

 今年は寒い冬になりそうなので、台所の掃除を早めに済ませておく。冬の寒い時の掃除は億劫だからね。
 十二句目。

   台所けふは奇麗にはき立て
 分にならるる嫁の仕合      利牛

 相応の身分として扱われるようになった嫁は、台所を奇麗に掃除してやる気満々だ。今まで相当虐げられてきたか。
 柳田国男は分家の嫁になるという意味に解している。

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