2025年2月28日金曜日

  今日は句会があった。

 凧天に武者も役者も中間も
 薄ら氷のかけらの如し全世代
 むしられることが前提草萌ゆる

 「句兄弟」の方、岩波文庫の『毛吹草』が届いたので、この前の七番の「禅寺のはなにこころやうき蔵主」の作者名がわかった。

 禅寺の花に心や浮坊主   弘永

とあった。堺市中央図書館/堺史のHPに、

 「夕陽菴弘永
 夕陽菴弘永其姓氏は明かでない。【堺の俳人】堺の人で、後天王寺村に卜居し導と改めた。【松江重賴の門人】俳諧を松江重賴に學び、晚年師風を變じて異體の句を吟じた。或は弘永は重賴の門葉でなく、其知友だともいはれてゐる。【家集】家集に獨吟集がある。歿年世壽は詳でない。案ずるに寬文の末頃の人であらう。(誹家大系圖)」

とある。

2025年2月27日木曜日

 今日は小田原の辻村植物公園の梅を見に行った。行く時には小田原フラワーガーデンの前を通り、そのあと小田原城にも寄った。

 それでは「句兄弟」の続き。

「九番
  兄
達磨忌やあさ日に僧のかげ法師   岩翁
  弟
達磨忌や自剃にさぐる水かがみ

 論俳句如禅日の影と水影差別なし。空房獨了の以て似ぬ影二句一物なし。」(句兄弟)

 岩翁は息子の亀翁ともども其角の門人。『雑談集』の大山詣や、この『句兄弟』所収の元禄七年の大阪行きの「隨縁記行」にも同行している。
 達磨忌はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「達磨忌」の意味・読み・例文・類語」に、

 「〘 名詞 〙 禅宗で、始祖達磨大師の忌日に行なう法会。毎年一〇月五日。少林忌。初祖忌。《 季語・冬 》
  [初出の実例]「二祖と云は、達磨忌と百丈忌とぞ」(出典:百丈清規抄(1462)三)」

とある。今は月遅れで11月5日に行う所もある。禅宗だけに、儀式にそれほどの派手さはなく、禅僧が集まって、朝日にその影が出来て、これが本当の影法師ぐらいしか見どころがなかったのだろう。
 影法師というと、貞享五年の芭蕉の『笈の小文』の旅で、吉田宿から保美の杜国の所へ向かう時に、

 冬の日や馬上に氷る影法師   芭蕉

の句を詠んでいる。「法師」というのは影が黒いから黒い僧衣を着ているみたいだといういみだろうけど、この時の芭蕉も僧形だったと思われるし、達磨忌の影法師も皆僧形で、どっちが影だか、という所が一応の面白さというか、朝日や冬の低い日に、一方では長い影が出来て、一方では日を背にしたシルエットになった黒い実体があって、どっちが影やらという、そこが重要なのかもしれない。
 ところで、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「影法師」の意味・読み・例文・類語」に、

 「① =かげえ(影絵)②③
  ② 光をさえぎったため、地上や障子、壁などにその人の形が黒く映ったもの。かげぼう。かげぼし。かげんぼし。
  [初出の実例]「影法師見苦しければ辻相撲月をうしろになしてねるかな」(出典:七十一番職人歌合(1500頃か)六三番)
  ③ 鏡や水などに映った像。
  [初出の実例]「水鏡を見てあれば、影法師が我があいてになって、いつもかわらずけらけら咲をして戯るるぞ」(出典:四河入海(17C前)二)
  ④ ( 影の人の意 ) 演劇や映画などで、ある人物の替え玉となる人。吹き替え。スタンドイン。
  [初出の実例]「ハテナ、わしゃ、かげぼうしかとおもった」(出典:咄本・出頬題(1773)芝居)
  ⑤ 想像によって目の前に描き出す、人物や物事。
  [初出の実例]「皆此方の影ぼうしを相手にして、けんくゎする様なものぢゃ」(出典:松翁道話(1814‐46)一)」

となっている。今はあまり使われないが③の意味が17世紀にはあったようだ。そこで、其角の句の「自剃にさぐる水かがみ」の水に映る自分の姿も「影法師」と呼ばれてたことがわかる。
 「論俳句如禅日の影と水影差別なし」というのが、どちらも当時は影法師と呼ばれていたという点では、確かに言葉の上では差別はない。「論俳句如禅」は当時は「俳句」という単語がなかったから、禅の如く俳の句を論ずということだろうか。その上で「日の影と水の影」は同じ影法師という言葉で言い表され、空房(他に誰もいない部屋)で獨了(一人悟る)なら、日の影と水の影は同じ物だ、と禅問答めいている。
 確かにどちらも虚像には違いない。ただ、よくよく悟るなら、目に映るものはすべてが虚。日の影も水の影も虚なら、そこにいる僧もまた虚。形あるものはすべてが影法師にすぎないということになる。
 禅においてもそうだし、俳諧でいう虚実論の「虚」もまた我々近代人が考えるような「虚構」のことではなく、神羅万象目に移り耳に聞こえるものみな「虚」に含まれる。そこから喚起される風雅の誠の情だけが「実」ということになる。

2025年2月26日水曜日

 今日は秦野の上大槻の菅原神社の梅を見に行った。
 気温もようやく昼くらいには上がって暖かくなり、もうすぐ河津桜の季節になる。それまではまだまだ梅見の季節が続く。

 それでは「句兄弟」の続き。

「八番
  兄
陰をしき師走の菊のよはひかな   露沾
  弟
秋にさへ師走の菊も麦ばたけ

 中七字珍重すべし、歳の昏の惜まるる詠より分て霜雪の凋むに後るる対をいはば僅かに萌いでし麦の秋後の菊をよそになしけん姿と句とただちに立り。愛菊の情かはらずして光陰を惜むと待とにわかれたる也。」(句兄弟)

 菊は重陽の頃を過ぎると霜に当って枯れるというのを本意とするので、そこで枯れずに残った師走の菊は長生きしたわけだが、それもおそらく年を越すことがなく、つまり露沾の句は新年を迎えて一つ年齢を重ねることもないという意味で言っているのだろう。
 長生きはしても死は免れないという、人の年齢にも重なる。
 其角はこの師走に残った菊と対句になるように、芽の出てきた麦を添える。こういう対句は漢詩的な発想だが、付け句の際の相対付けもこの発想になる。師走の菊というのが一つの趣向として面白いということで、その時芽生えた麦もやがて麦秋を迎える、という時間の半年異なるものを取り合わせるというのだが、かなり無理な感じの取り合わせだ。
 意味としては「師走に芽生えた麦もやがて夏に麦秋にさえなるものを、まして師走の菊はなお哀れなり」だが、それを五七五に収めるのはかなり苦しい。

2025年2月25日火曜日

  今日は小田原フラワーガーデンの梅を見に行った。梅も大分先揃ってきた。

 それでは「句兄弟」の続き。

「七番
  兄
禅寺のはなにこころやうき蔵主
  弟
客数寄やこころをはなに浮蔵主

 ざれ句にたてし詞ながら古来は下へしたしむ五字を今さら只ありにいひ流したれば、花見る庭の乱舞をよせたり。毛吹時代の老僧など当座取望むならば花やかに耳立たらん句よりは得興の専をとるべきや。」(句兄弟)

 兄句は正保元年(1645年)刊松江重頼編『毛吹草』所収の古い句。
 「浮蔵主(うきざうす)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「浮蔵主」の意味・読み・例文・類語」に、

 「〘 名詞 〙 ( 「蔵主」は禅寺の経蔵を管理する僧職 ) ひょうきんな僧侶。心のうわついた道楽坊主。
  [初出の実例]「禅門うき蔵主にてよき伽なり」(出典:咄本・醒睡笑(1628)一)」

とある。
 禅宗はあまり戒律とかに頓着しない傾向があり、座禅の瞑想による判断停止状態(エポケー)の状態で得られる、様々な先入観から解放された自由を尊ぶ所がある。一休禅師など、その典型とも言える。世間から見れば生臭坊主だとか浮蔵主とかいうことにもなる。
 兄句はそういうあたりで、禅寺の浮蔵主は花に浮かれていても、花の心は禅の心にも通じるということなのだろう。
 「花やかに耳立たらん句」の耳立はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「耳立つ」の意味・読み・例文・類語」に、

 「① 耳ざわりに聞こえる。角立って耳にさわる。
  [初出の実例]「ただならずみみたつことも、おのづから出でくるわざなれ」(出典:源氏物語(1001‐14頃)若菜上)
  ② 聞いて心にとまる。
  [初出の実例]「下のきざみといふきはになれば、ことにみみたたずかし」(出典:源氏物語(1001‐14頃)帚木)」

の意味があるが、この場合は花やかを受けて、「耳障りの良い、一般にわかりやすい」くらいのニュアンスか。面白いけど、面白さがわかりやすすぎてあざといとうことか。
 それに対し「得興の専」、興を得るを専らとする、というというのは、禅の心などと言う大仰なテーマを外すということだろう。単純に数寄者の客の求めに応じて逆らわずに心を花にできる、なかなか場を心得た浮坊主という人柄の良さの方に持っていく。

2025年2月24日月曜日

  昨日、今日と雪のちらつく寒い日が続く。昨日は句会があった。

 薄ら氷や割れて命の封を解く
 凧揚げの空に消えゆく心かな
 春愁やカードゲームの終わりなき

 それでは「句兄弟」の続き。

「六番
  兄
三絃やよし野の山をさつきさめ   曲水
  弟
三味線や寝衣にくるむ五月雨

 さみだれの長閑にくらすとも読けるに、きのふもけふも降こめて同じ空なるもどかしさよ。殊に引習と聞ゆるか。同じしらべのほちほちと軒の玉水にかよひたらば物うからましと思ひよせたる也。
 それを寝巻にといふに品かはりて閨怨の音にかよはせ侍るゆへとへかし。人の五月雨の頃と思ひなして何となく淋しき程をつくづくと思ふ心もこもり侍り。倦むと忍ぶとのたがひ決せリ。」(句兄弟)

 曲水の句の「よし野の山」は其角の解説を見ると、「同じしらべ」とあるように、どうやら三味線の曲名のようだ。おそらく貞享二年刊『大ぬさ』に収録された「吉野山」のことであろう。コトバンクの「改訂新版 世界大百科事典 「大ぬさ」の意味・わかりやすい解説」に、

 「《大怒佐》《大幣》とも表記する。近世の音楽・歌謡書。著者不詳。1685年(貞享2)初刊とされるが,87年刊《糸竹(しちく)大全》に《紙鳶(いかのぼり)》《知音の媒(ちいんのなかだち)》と合収,99年(元禄12)版が流布。4巻。〈引手あまた〉の意から大幣の字をあてて書名としたものだが,本文中にその用字はない。巻一は三味線の奏法などの記事と《吉野山》《すががき》などの譜,巻二は《りんぜつ》《れんぼながし》《当世なげぶし》の譜,巻三は三味線組歌の本手・破手(はで)の詞章と,秘曲の曲名,巻四は新曲22曲の詞章を収める。記譜のあるものは《紙鳶》の一節切(ひとよぎり)の譜と対照され,《れんぼながし》以外は《糸竹初心集》の箏譜と比較できる。これらによって近世初期の三曲合奏の実態を把握しうる。巻三・四の詞章は,地歌詞章のまとまったものとして最古のもの。

 なお,同名の歌学書もあり,これは中川自休著,1834年(天保5)刊。1冊。村田春海(はるみ)門下の秋山光彪(みつたけ)の《桂園一枝評》に対して,《桂園一枝》の作者香川景樹が自門の著者に反駁させたもの。
 執筆者:平野 健次」

とある。youtubeで桃山晴衣さんの三味線と歌を聞くことができる。
 「殊に引習と聞ゆるか」とあるように、三味線の練習で引く人が多かったのだろう。練習だから同じ曲を繰り返し繰り返し引いて、そのぽつぽつ聞こえる音が雨だれのようで、「三味線で吉野之山を五月雨のようにするや」の「や」が倒置になって、「三絃やよし野の山をさつきさめ」となる。春雨を「はるさめ」というように「五月雨」を「さつきさめ」ということもあったようだ。
 其角はそれを「寝衣」に変える。「寝衣」は「しんい」で寝巻(ねまき)と同じ。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「寝衣」の意味・読み・例文・類語」に、

 「しん‐い【寝衣】
  〘 名詞 〙 寝るときに着る衣服。ねまき。
  [初出の実例]「これを蒲豊、寝衣の下に押入れ、それをして驚き醒しめたり」(出典:西国立志編(1870‐71)〈中村正直訳〉四)
  [その他の文献]〔論語‐郷党〕」

とある。「しんい」は『論語』「郷党」にも出てくるが、ここでは「ねまき」と呼んだ方がいいのかもしれない。
 「寝衣」「寝巻」は庶民が寝る時に着る「夜着」ではない。「夜着」は「布団」ともいう。昔の布団は着るタイプのものだったが、綿が入っていて分厚い。これに対し「寝衣」「寝巻」は薄手のもので、上臈をイメージさせるものだった。
 芭蕉が『奥の細道』の旅で羽黒山で巻いた「めづらしや」の巻二十二句目に、

   此雪に先あたれとや釜揚て
 寝まきながらのけはひ美し    芭蕉

とあり、元禄三年の暮の京都で巻いた「半日は」の巻の三十二句目には、

   萩を子に薄を妻に家たてて
 あやの寝巻に匂ふ日の影     示右

の句がある。後者は同座した芭蕉が「上臈の旅なるべし」と助言したことで即座に去来が、

   あやの寝巻に匂ふ日の影
 なくなくもちいさき草鞋求かね  去来

の句を付けたことが『去来抄』に記されている。

 三味線や寝衣にくるむ五月雨   其角

 この句はそういうわけで、三味線の主は上臈で、寝衣にくるまりながら夜な夜な五月雨のように三味線を掻き鳴らす情景になる。その音はおそらく来ない夫を待つ怨嗟の調べなのであろう。「閨怨の音にかよはせ」とある。
 閨怨詩は漢詩の一つのジャンルで、中国では出征した兵士の留守を預かる夫人の情を詠んだものが多いが、それに限らず一人寝の女性の恨みをテーマにしたもの一般を指す。
 曲水の兄句は不慣れな芸伎の練習風景にすぎなかったものが、寝衣の言葉一つで閨怨詩の世界へと転じることになる。ただ、それは漢籍などの高い素養を持つものにはわかっても、一般の人には難解な句と受け止められたのではなかったかと思う。

2025年2月21日金曜日

 
 昨日は南足柄市運動公園や池ノ窪梅林を見に行き、今日は秦野西田原の香雲寺の梅を見に行った。梅三昧の日々だ。
 昔一頃ロックをやるものは生活をロックにしろと言ったものだが、俳句もまた生活を俳句にすることが大事だ。日々花を見て歩き、古典に親しみ、古典の血脈を引く非西洋芸術的なラノベ漫画アニメにも親しむ(最後は余計か?)、それが俳句の糧になる。

 それでは「句兄弟」の続き。

「五番
  兄
雨の日や門提て行くかきつばた   信徳
  弟
簾まけ雨にさげくるかきつばた

 杜若雨潤の一体時節のいさぎよく云立たれども、難じていはば雪中の梅花をかざし闇夜につつじを折ル流俗の句中にはらまれて、一句の外に作うすし。されば、向上の句に於ては題と定めずして其こころ明らかなるたぐひ多かる中に、杜若景物の一品なれば異花よりも興を取ぬべくや。雨の杜若とおもひ寄たらんは句作のこなしにて手ぎは有べき所也。老功の作者を識りていふにはあらず。
 門さげてゆくと見送りし花の我宿に入来る心に反工して、花の雫もそのままに色をも香そも厭ひけるさまを、すだれまけと下知したるなり。往と来との字二にして力をわかちたると判談せん人本意なかるべし。問答の句なるゆへつのりて枳棘の愚意を申侍る。」(句兄弟)

 「門提て行く」の意味だが、評の所に「門さげてゆくと見送りし」ある所から、門を閉じて出て行くということか。
 杜若雨潤というように、雨に濡れた杜若は特に美しいから、お寺のお坊さんも今日は一日休業とばかりに門を閉めて見に行くということなのだろう。
 「雪中の梅花をかざし闇夜につつじを折ル」とある雪中梅花は画題にもなっているが、「闇夜につつじを折ル」は正徹の歌に、

 いそぐなよ手折るつつじの灯に
     よるの山路はかへりいてなん
                正徹
 夜こえむ人のためにとくらぶ山
     木の下つつし折りもつくさじ
                正徹

とあることから、ツツジは闇夜でも明るいから灯火代わりに折って行くという趣向は定番化してたのかもしれない。
 「流俗」は『拾遺和歌集』の、

  「世の中にことなる事はあらずとも富はたしてむ命長くは
  中将にはべりける時、右大弁源致方朝臣のもとへ
  八重紅梅を折りて遣はすとて
                 
 流俗の色にはあらず梅花   右大将実資

 珍重すべき物とこそ見れ   致方朝臣」

という短連歌にも用いられている。そんじょそこらのというような意味か。杜若雨潤の美しさも、ありきたりな趣向で、信徳の句に強いて難を言うなら、その趣向の凡庸さから逃れるものではない、ということなのだろう。
 「向上の句」つまりそこからさらに一歩進んだ句にするには、杜若雨潤の心を直接言うありきたりさを避けて、あえて言外に隠ように作るのが常道で、杜若とあるだけで雨に潤う景は十分伝わるし、他の花にはない杜若ならではの趣向になる。老練な作者は大体そうする。
 『去来抄』にも、

 「 つたの葉───     尾張の句
 此このほ句ハ忘れたり。つたの葉の、谷風に一すじ峯迄まで裏吹ふきかへさるゝと云いふ句なるよし。予先師に此句を語る。先師曰、ほ句ハかくの如く、くまぐま迄謂までいひつくす物にあらずト也。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,20)

とある。

 蔦の葉は残らず風のそよぎ哉   荷兮

の句のことと思われるが、蔦というだけで既に風に吹かれる蔦の葉の景色が含まれてるため、あえて言う必要がない、ということだ。
 ただ、これは通俗的に月並み化した趣向に対して言えることで、最近では夏井いつき病が凡庸な俳人の中に蔓延していて、何でもかんでもこの句のこの言葉は必要ない、無駄だなどと難じたりするが、長年俳句をやってる大ベテランなら想像のつくことでも一般の読者にはすぐには思いつかない場合も多い。読者に過大な想像力を期待するべきではないし、そういうベテラン向けの句は大体において一般人には珍紛漢紛なものだ。
 さて、其角の弟句だが、信徳の門を下げて出て行くという趣向をひっくり返して、門を提げてやってきた客人を迎え入れて、ならば簾を上げて杜若をよく見ていってくれ、という句に作り変える。
 「雨に」は杜若に掛かるのではなく客人に掛かるため、直接雨の杜若を表すのではなく、雨の杜若は間接的な想像に変わる。微妙な違いだけど、これが杜若雨潤の凡庸を回避する一つのテクニックだ。そして、門を提げてやって来た兄句に対する返答の句にもなっている。この技を今の俳人の誰が理解するだろうか。

2025年2月19日水曜日

  また少し間が開いてしまったが、「句兄弟」の続き。

「四番
  兄
祐成か袖ひきのばせむら千鳥  粛山
  弟
むらちどり其夜は寒し虎かもと

 袖引のばせとは一衣洗濯の時なるべし。さすがに高名の士なりければ、破褞袍を着て狐貉に恥じざる勇を思ひ合たるにや。村千鳥その友としてかの志をしのばれし一句に感懈あり。
 よりて其夜は虎かもとにしほたれし袖を引のばしつらんとおもひよりて、冬の夜の川風寒みのうたにみて追反せし也。是は各句合意の体也。
 兄の句に寒しといふ字のふくみて聞え侍ればこなたの句弟なるべし。」(句兄弟)

 粛山は久松粛山で、「愛媛県生涯学習センター」のデータベース『えひめの記憶』に、

 「久松粛山(1652~1706)
 俳人。松山藩家老。松山城下(現、松山市)出身。松山藩第4代藩主・松平定直に仕えて重責を果たす一方、俳諧を好み、その才能を発揮した。31歳のとき、松山に来ていた因幡国鳥取の岡西惟仲(おかにしいちゅう)の門に入り、その後、江戸在勤中に松尾芭蕉・榎本其角(えのもときかく)に俳諧を学んだ。句は其角の句集にも載せられ、定直の俳友として蕉風俳諧を松山に広めた。後に、子規から伊予未曾有の俳人と評される。また、狩野探雪の画に、芭蕉・其角・山口素堂(やまぐちそどう)の発句の賛(添え書き)を求め、松山に持ち帰った「俳諧三尊画賛」の三幅対は逸品とされ、来遊した小林一茶も感激の句をしたためている。(『愛媛人物博物館~人物博物館展示の愛媛の偉人たち~』より)」

とある。
 句の方の初句の祐成は曽我兄弟の兄十郎のことで、大磯の虎御前という遊女との関係はかつては誰もが知る有名な話だった。
 仇討を果たしそのあとすぐに斬られた祐成の遺品の袖を汐で洗ってくれ、大磯の浜に群ら立つ千鳥たちよという意味であろう。袖の汐は言うまでもなく涙と掛けて用いられている。
 祐成の命日の五月二十八日に降る雨は虎の涙の雨ということで、「虎が雨」と言われているが、この句は千鳥で冬の海の句だ。冬に大磯を訪れた時の句だろうか。かつての祐成を失った虎御前の涙を思い、今は冬だが、千鳥よ祐成の遺品の衣を汐で洗ってやってくれ、祐成か袖を引き延ばしてやってくれ群千鳥よ、となる。
 破褞袍(やれうんぽう)の褞袍はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「褞袍」の意味・読み・例文・類語」に、

 「うん‐ぽう‥パウ【褞袍・縕袍】
  〘 名詞 〙 綿を入れた着物。どてら。おんぼう。
  [初出の実例]「金減す我世の外にうかれてや〈其角〉 縕袍(ウンホウ)さむく伯母夢にみゆ〈匂子〉」(出典:俳諧・虚栗(1683)上)」

とある。
 「狐貉」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「狐貉」の意味・読み・例文・類語」に、

 「こ‐かく【狐貉】
  〘 名詞 〙 キツネとムジナ。また、その皮でつくった衣服。
  [初出の実例]「凡穿レ地得二死人一、不二更埋一、及於二塚墓一燻二狐狢一」(出典:律(718)賊盗)
  「Cocacuno(コカクノ) カワゴロモワ カルクシテ ハナハダ カンヲ フセグ」(出典:日葡辞書(1603‐04))
  [その他の文献]〔論語‐子罕〕」

とある。
 「破褞袍を着て狐貉に恥じざる」は『論語』の、

 「子曰く、敝れたる縕袍を衣、狐貉を衣たる者と立ちて恥じざる者は其れ由なるか。」

のことで、この場合の狐貉は立派な毛皮の衣ということで、いわばボロは着てても心は錦ということであろう。狐はもちろん今日でもフォックスファーと呼ばれ珍重されている。貉の方はロシアンラクーンやチャイニーズラクーンであろう。
 兄句として掲げられるくらいだから、この句も当時はかなりの評判になった句であろう。
 兄句にはただ曽我十郎祐成のたとえボロでも中華貴族の着る毛皮にも勝る遺品の衣を千鳥が波の汐で洗うという句だが、勿論そこには虎御前の涙が暗に含まれているものの、弟句ではその虎の名前を表に出す。

 むらちどり其夜は寒し虎かもと  其角

 虎が元にいた群千鳥もその夜は寒い。群千鳥は虎と共に悲しみ、冬を迎えたのだろうか。

2025年2月15日土曜日

 今日は地元の戸川公園の梅を見に行った。ここも見頃になっていた。

 それでは「句兄弟」の続き。

 「三番
  兄
また是より青葉一見となりけり  素堂
  弟
また是より木屋一見のつつじ哉

 遊子行残月とかや。花におぼれし人の春の名残りを惜みけん心をうたひける也。
 予が句うたひにたよらずして青葉一見といふ花のかへるさをとどめしゆへ、全く等類ならずとなりけりとは、素堂が平生口癖なれば是を格には取がたし。つつじといふ題にて夏にうつらふ花の名残りも有べし。
 此句意味はかはる事なし。下五字の云かへにて強弱の体をわかつもの也。」(句兄弟)

 素堂の句は延宝八年刊の不卜編『向之岡』所収のもので、「上京の比」という前書きがあり、青葉は若葉になっている。若葉の頃に上京したため、こうしてちらっと若葉を見ることになりましたという意味であろう。
 京にこれからもずっと滞在するのではなく、京の花見に来て若葉の頃になってようやく帰るというので、「一見」ということになる。
 「一見」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「一見」の意味・読み・例文・類語」に、

 「① ( ━する ) 一度見ること。一通り見ること。ちらっと見ること。一覧。
  [初出の実例]「微禽奇体、今遂二一見之望一」(出典:古今著聞集(1254)二〇)
  「黒塚(くろつか)の岩屋一見し、福島に宿る」(出典:俳諧・奥の細道(1693‐94頃)あさか山)
  [その他の文献]〔漢書‐趙充国伝〕
  ② ( ━する ) 一度会うこと。初対面。いちげん。
  ③ ( 副詞的に用いて ) ちょっと見ると。」

とある。今とそれほど意味は変わらない。
 「うたがひにたよらず」というのは、「や」や「かな」を用いずに「けり」と言い切っていることをいうのだろう。花が散ってこれから青葉の季節になるのだろうか、というのではなく、花が散ってもなかなか去りがたく、青葉になるまで滞在してしまったという意味になる。

 下下の下の客といはれん花の宿 越人

の句はこれより後の元禄二年の『阿羅野』の句になる。
 一世紀後になるが、

 葉桜や南良に二日の泊り客    蕪村

もまたこの心か。
 「遊子行残月」は『和漢朗詠集』の、

   暁賦    賈島
 佳人尽飾於晨粧。魏宮鐘動。
 遊子猶行於残月。函谷鶏鳴。
 佳人尽(ことごと)く晨粧を飾りて、魏宮に鐘動く、
 遊子なほ残月に行きて函谷に鶏鳴く


で、作者は実際は賈嵩だという。旅人の素晴らしい季節が去って行くのを惜しむ心という意味であろう。
 其角の句の方は、若葉の頃に咲くツツジに置き換えて、春の名残を惜しむという旅体から卑近な題材の句に転じるわけだ。
 コトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「木屋」の意味・読み・例文・類語」には、

 「① 材木の集散に便利な場所にあって材木を貯蔵する倉庫。材木小屋。
  [初出の実例]「山背国三処。相楽郡二処。一泉木屋并園地二町」(出典:大安寺伽藍縁起并流記資財帳‐天平一九年(747))
  ② 材木の売買を業とする人。また、その家。材木屋。材木商。
  [初出の実例]「材木〈三尋木二編、桂三本〉自木屋申二請之一」(出典:実隆公記‐明応八年(1499)六月二日)
  ③ 薪の売買を業とする人。また、その家。まきや。
  [初出の実例]「軒口にかれたる木屋が夏懸て〈道意〉 大斤両も動く浜風〈和武〉」(出典:俳諧・西鶴大矢数(1681)第六七)
  ④ ( 樹屋 ) 植木屋。
  [初出の実例]「『あの大門より北には〈略〉廿八本植へべし。直段如何程』といへば、木屋申は」(出典:咄本・軽口露がはなし(1691)一)
  ⑤ 大工が、作業をする小屋。大工の仕事小屋。
  [初出の実例]「明日先可レ立二木屋一」(出典:晴富宿禰記‐文明一一年(1479)二月二〇日)
  ⑥ すべての納屋や小屋をいう。柴木屋、こなし木屋、肥木屋(こやしきや)、収納木屋(しなきや)など。薪炭類を収蔵する木小屋の略。」

とあるが、この場合は材木や薪ではなく、④の樹屋であろう。
 江戸の街では岩躑躅の群生するような所もなく、植木屋でツツジの咲いてるのを見て春の終わりを感じるということか。ツツジを出すことで青葉に比べれば華やいだ句になる。

2025年2月14日金曜日

 今日は曽我梅林の梅を見に行った。
 ようやく暖かくなり、梅の開花も例年より遅れているとはいえ、昭和の頃にはこれが普通だったと思うと、ここ最近が早すぎたのだろう。

 アメリカではいろいろ大きな動きが出てきている。USAIDの解体、DOGEの活動(DOGEは日本語だとイッヌになるのか?)。
 思うに左翼は最近では三度の大きな試練があった。

 一度目は日本や欧米が高度成長を遂げた60年代の後半、日本では70年安保の頃、戦後の修正資本主義で豊かになり中流化した労働者は、もはや革命の主体にはなりえなくなった。そこで社会主義運動は大きな方向転換を余儀なくされた。
 かれらは革命の主体を総中流化する中で取り残されたマイノリティ、少数民族、被差別民、障害者、性的少数者(まだLGBTという言葉はなかった)と第三世界の貧しい人達に切り替えることで乗り切ろうとした。
 左翼とパレスチナとの結びつきは、テルアビブ乱射事件などによって、新たな自爆テロというスタイルを得、最初は中東の共産勢力だったが、やがて彼らはイスラム原理主義者となっていった。
 太田龍の1972年の『辺境最深部に向って退却せよ!』はそれを象徴する言葉となった。その頃から中流化した労働者は革命の敵だという考え方が広まっていった。同時に労働者の権利や待遇改善などに興味を失ってゆき、労働組合運動も政治的オルグの方が優先されるようになった。

 二度目の試練は1989年のベルリンの壁崩壊に象徴される冷戦崩壊によってもたらされた。
 ここでもはや左翼の革命運動の敗北を認め、転向してった人も多かったことだろう。俺もその一人だし。
 ただ、左翼に踏みとどまった人たちの多くは社会主義国家の終焉を認めたものの、国家でない社会主義にその活路を見い出そうとした。これによって社会主義は国際的な市民運動の性格を強め、官僚的な統一組織ではなく無数の市民団体の横のつながりを重視した、ジル=ドゥールーズの言うようなリゾームの形態をとるようになった。中心を持たない連合体として、世界中に同時多発的に活動を行うことで、政権を取る事よりも主にマイノリティを中心とした政策の実現に力を入れるようになった。
 しかし、これは政治色が強すぎて、実際のマイノリティが強く支持しているわけではなく、むしろ迷惑とすら思う人も多かった。
 この運動は表面的に革命を標榜せずに穏健な市民運動を装ってたため、じわじわと政治的中道勢力、マスコミ、官僚、法曹界を侵食し、いわゆる「無理ゲー状態」を作り出していった。彼らは法律の制定に大きな影響力を行使し、税金を湯水のように彼らの活動につぎ込ませることに成功した。
 彼らは国家レベルではなく地球規模の富の再分配を実行すべく、第三世界の貧困層を大量に先進国に入国させ、先進国の富と税金で彼らを養うことを義務化しようとしてきた。

 三度目の試練は今アメリカで起こっている。これがどのような結果をもたらすのか、まだわからない。


 それでは「句兄弟」の続き。

「二番
  兄
地主からは木の間の花の都かな   拾穂軒
  弟
京中へ地主のさくらやとふ胡蝶

 「老師名高き句也。反転して市中の蝶を清水の落花と見なしたる也。木の間と三字にたてふさがりて侍るを漸こてふに成て花の間を飛出たるやうに覚ゆ。先後の句立たしか也。
 飛花の蝶に似たる。

 峡蝶飛来過墻去 却疑春色在隣家

 作例多く聞ゆれども予京の一字を心かけたれば尤難有まじ。」(句兄弟)

 拾穂軒(しゅうすいけん)は季吟のこと。
 「地主のさくら」は京都の地主(じしゅ)神社の桜のことで、ウィキペディアには、

 「境内は「地主桜」と呼ばれる桜の名所で、弘仁2年(811年)に嵯峨天皇が行幸した際、一重と八重が同じ枝に咲いていた地主神社の桜の美しさに3度車を返したことから「御車返しの桜」とも呼ばれ、以後、嵯峨天皇は地主神社に桜を毎年献上させた。」

とある。地主神社は清水寺同様高台にあるので、ここから桜越しに見おろす京の町は、まさに花の都といったところだ。「老師名高き句」とあるように、かつては誰もが知る句だったのであろう。今もこの句の句碑があるという。
 これに対して其角は「木の間」の木で見えづらい桜をやめて、高台のこの地主神社から散った花びらが胡蝶となって、京の都のあちこちに落ちてくるという趣向にする。
 花びらを胡蝶に喩えることもさることながら、それが京の街中に降りそそぐとは、やや大げさに作った感じもしなくもないが、こうした華麗さもまた伊達を好む其角の持ち味なのだろう。句は「地主のさくらは京中へ訪う胡蝶(となる)や」の倒置。
 花を蝶に喩える先例として掲げている詩句は、

   雨晴      王駕
 雨前初見花間蕊 雨後兼無葉裏花
 峡蝶飛来過墻去 却疑春色在鄰家

で、王駕は百度百科に、

 「王驾(851年-?),字大用,自号守素先生,河中(今山西永济)人,女诗人陈玉兰之夫,中国唐代诗人。 
 王驾早年居乡间,颇有诗名,为时人称誉。唐僖宗中和元年(881年)秋至中和三年(883年)春间,王驾入蜀赴进士试,落第不中。后于大顺元年(890年),及第,任校书郎,官至礼部员外郎。乾宁四年(897年),在任,后弃官隐居。」

とある。851年の生まれで字を大用といい、自ら守素先生と号す。河中(今の山西省永済)の人で、陳玉蘭の夫でもある中国唐代の詩人。
 雨が降る前には花があったのに、雨のあとは葉っぱばかりでどこにも花がない。蝶が垣根を越えて行ってしまったのなら、春の景色は未だ隣の家にいるのかもしれない。確かにこの詩は花が蝶になって隣に行ってしまったという趣向なのだろう。
 花を蝶に喩える例は、近代俳句でも、

 草化して胡蝶となるか豆の花  子規

の句がある。それほど突飛な比喩でもない。
 むしろありきたりかもしれないが、王駕の詩はただ隣に行ったのかというだけなのに対し、京の街に飛んで行くという所に手柄があるのでは、と其角は自讃する。

2025年2月13日木曜日

 一週間ぶりの更新になったが、この間いろいろはまた花を見に行った。
 2月9日は小田原の句会で小田原城の桜を見た。

 紅白に残る蝋梅黄を主張
 ちらちらと短冊回る城や梅
 Xの字になり眺む揚げ雲雀

 10日は熱海桜を見に行って、そのあと前日に山焼きをやった大室山を見た。

 山焼きや焦げた思いの風世界

 写真はその大室山
 12日は小田原フラワーガーデンの梅を見に行った。

 それでは今度は其角編の『句兄弟』を読んでいこうと思う。

「一番
  兄
これはこれはとばかり花の吉野山 貞室
  弟
これはこれはとばかりちるも櫻哉 晋子

 花満山の景を上五字に云とりて芳野山と決定したる處、作者の自然ノ地を得たるに、対句してちるもさくらといへる和句也。是は是はとばかりの云下しを反転せしもの也。」(句兄弟)

 貞室の句はかつては知らない人のいないくらい有名な句だったのだろう。「句兄弟」の冒頭はこの句から始まる。
 花満山は特に固有名詞というわけではなく、山一面に花の咲いたという意味で、

  寄孫山人    儲光羲
 新林二月孤舟還 水滿淸江花滿山
 借問故園隱君子 時時來往住人間

の詩を出典とする。「これはこれは」は遥か遠くから訪ねてきたような趣があり、この詩の趣向にも適っている。そして何が「これはこれは」なのかと思わせておいて「花の吉野山」と結ぶこの構成もまた見事だ。
 芭蕉七部集の一つ、元禄二年刊荷兮編『阿羅野』の冒頭を飾る一句でもあり、『去来抄』でも不易の句の例として挙げられていて、貞門時代の句ながらも蕉門でも高く評価された一句だった。
 これを冒頭に持って来ておいて、晋子こと其角は弟句を付ける。
 「これはこれは」と咲くのも桜だが、「これはこれは」と散るのもまた桜だと、兄句に逆らわずに、同意するかのように散る時もまたと付け加える。いわゆる「和句」和する句、同意する句ということになる。
 発句に対して発句で返すというのは、ある種対抗するという意識が強いことが多く、和する時には脇で返すのが通例になっている。
 たとえば、

 草の戸に我は蓼食う蛍哉    其角

の句に対して、

 朝顔に我は飯食う男哉     芭蕉

と返す場合には、酒の肴である苦みの強い蓼酢を好んで食って、夜は遊郭の蛍になるという其角の挨拶に対して、俺は普通に朝起きて飯を食うだけの普通の男だと芭蕉は返す。これは和するというよりは、「いや、俺は違う」という対抗心を込めた句づくりで、発句に発句で返す場合はこういうパターンが多い。
 もっともこの場合、句合せの勝負を挑んだのではなく、私は草の戸で蓼を食って夜の街で輝いてるようなそんな凄い人ではなく、世間並みのごく普通の人ですという謙虚に答なわけだが。

「難云:吉野山一句の本体として上五字七字までは只ありの詞なるべし。ちると桜のうへにうつしたる本意逃句なるべし。
 答云:句は其興を聞得べきや。景情のはなるるといふ事「雑談集」に論ぜる如く也。
 近くいはば「明星やさくら定めぬ山かづら」といひし句当座にはさのみ興感せざりしを、芭蕉翁吉野山にあそべる時、山中の美景にけをされ古き歌どもの信を感ぜし叙(ツイデ)、明星の山かづらに明残るけしき此句のうらやましく覚えたるよし文通に申されける。
 是をみづからの面目になしておもふ時は満山の花にかよひぬべき一句の含はたしか也。
 尤、花の前後といふ時は聊も句心あやまるべからず。沈佺期が句を盗む癖とは等類をのがるる違有。」(句兄弟)

 この「難云(なんじていう)」も実際に誰かが言ったということではなく、あくまで想定問答であろう。
 上五字七字の「これはこれはとばかり」までは日常用いるような通常の言葉で、特に何の捻りもなく、「花の吉野山」と結んで一句になるのに対し、そのこれはこれはとばかり」を散る花に取り成しただけの逃げ句ではないか、という批判は当然あることだろう、というわけだ。つまり、無理に趣向を変えて別な句に作った、ということか。
 『雑談集』の「景情のはなるるといふ事」というのは、

 「此比の当座に、

 小男鹿やほそき聲より此流れ

と申しける折ふし百里が旅より帰りしに、木曽路の秋を語りけるにも畳のうへにては面白からぬけしきを云ひ出てけり。梯の水音今も耳に残りて覚えぬるといはれて、世につながるる事を歎きぬ。すべて景に合せては情をこらして扨景を尋ぬるが此道の手なるべし。富士を見ては発句ちひさくなりぬるは心の及ばざるゆゑ也。」(雑談集)

のことだろうか。
 句というのは作者の体験と読者の体験が共有された時、その景は豊かな情を持つ。鹿の声に流れの音は、それだけでは何が面白いのか分かりにくいが、これが木曽路の秋で名所でもある桟(かけはし)をいつ落ちるかわからない橋の恐怖に心細くなっている時に、鹿の声が聞こえてきて、下からは流れの音が聞こえてくる、その想像が及んだ時、この句は意味を持ってくる。
 名所の句の場合特に、景色を描写するだけでなく、その情が伝わるような表現をしなくてはならない。景色に情を込めて、もう一度出来た句を突き放して眺めてみて、ちゃんと情がにじみ出ているかどうかを確認しないとつまらない句になる。
 「これはこれはとばかり」というのを「只ありの詞」というとしたら、それは吉野の花の景を心に描けないからで、「花の吉野山」と結ぶことで、その何でもない言葉が吉野の想像上の景色と一体となって、深い感情を呼び起こす。
 同じように「ちるも櫻哉」とその結びの言葉を変えることで、散る桜を心に描いて全く別の情を呼び起こす。これは単なる逃げ句の取り成しではなく、上句に新たな情を吹き込んでいるので、独立した一つの発句たり得る、というわけだ。

 明星やさくら定めぬ山かづら  其角

の句は貞享五年一月二十五日付けの芭蕉宛其角書簡に記されたもので、

 「明星やさくら定めぬ山かづら
如何可レ有二御ざ一哉。
 瓢覃(箪)坊に出る雨の日
 朝ごとのうずらの水をくみかへて
 人得て秋の炭がまを掘ル
 鱅鳴貴舩の鈴のころころと
どうやら五句付に成候て本心にそみ不申候へ共、是は病にてシカジカ無御ざ候て、心気恬憺ならぬように覚申候ゆへかと被存候。御句どもにて本心を洗可申候。猶重而委可申上候。以上
   正月廿五日        キ角
はせを様」

と、五句まで付けて点を乞うている。
 この年其角は秋の終わりから冬にかけて上方方面を旅しているから、その時に吉野へも寄ったのであろう。季節外れではあるが、蔦の紅葉を見て春の桜の頃を想像した句で、かづら、瓢箪、うずら、秋の炭がま、までは秋の句だが、その次の鱅鳴は何と読むのか。貴船の清流で鳴くなら河鹿かとおもわれる。夏への季移りになる。
 グーグルを見ると「鱅」はコノシロともダボハゼとも読むようだが、いずれも海の魚で鳴かないから河鹿ではないかと思う。魚のカジカは鳴かないが、かつてはカジカガエルの声が河鹿の声と混同されていた。
 井手の山吹の蛙が美しい声で鳴くカジカガエルなので、わかる人にはきちんと区別されていたのだろうけど、みんながみんな本草学者じゃないように、一般的には区別は曖昧だったのだろう。ツルとコウノトリやウグイスとメジロがしばしば混同されるのと一緒だ。現代だってみんなが生物学者なわけではない。
 話はそれたが、元に戻そう。其角の句は金星の綺麗な明け方の空にようやく見えてきた蔦カズラの紅葉を見ながら、これが桜だったらなとおもいつつ、夜が明けると今は秋だという現実に引き戻される。真っ暗の内は見えない闇に桜を思い、夜が明ければ桜ではなく蔦カズラ、そういう句だ。シュレーディンガーの猫みたいなものだ。
 沈佺期はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「沈佺期」の意味・わかりやすい解説」に、

 「[生]永徽1 (650)?
  [没]開元1 (713)?
  中国,初唐の詩人。相州内黄(河南省)の人。字は雲卿。上元2(675)年進士に及第,協律郎,給事中などを歴任したが,張易之に取り入ったため,則天武后の政権が倒れると収賄罪に問われて驩州(北ベトナム)に流された。のち神竜年間,中央に呼び戻され修文館直学士から中書舎人,太子少詹事(せんじ)となって終わった。六朝詩の影響を受けつつも清新な詩風で宋之問,杜審言らと宮廷詩人として活躍し,また宋之問とともに七言律詩(→律詩)の形式の完成に力があり,「沈宋」と並称される。」

とある。
 「沈佺期が句を盗む癖」はよくわからない。
 「花の前後といふ時は聊も句心あやまるべからず」というのは、一巻の花の定座の前後の句は確かに花の句が付くことによって、別な意味を持ってた句が花の心になる。花の句が付いて花の心となるが、その次の句は前句の花の句に付いた時でも花の別の意味にならなくてはならない。そういう場合は確かに咲く花の美しさから散る花の悲しさへ取り成すということはある。
 ただ、「これはこれはとばかり」を咲く花から散る花に転じるのは、これと同じではない。花の吉野山の句に「散る」と付けて散る花に転じるのは逃げ句かもしれないが。

2025年2月6日木曜日

 
 昨日は土肥桜を見た後下田爪木崎の水仙を見た。
 どちらも見頃で、天気は良かったが風が強かった。
 今日は初午で白笹稲荷神社に行った。

 『雑談集』の「親に似ぬ姿ながらもこてふ哉 沾蓬」の所を書き直してみた。

 「鏡を形見といへる重高の歌にや装束つくろひて鏡の間にむかへるに

 親に似ぬ姿ながらもこてふ哉 寶生 沾蓬」(雑談集)

 重高は不明。鏡と形見を掛けた歌は古来数多くある。

 おもひいでむ形見にもみよます鏡
     かはらぬ影はとどまらずとも
             惟明親王(続後撰集)
 ます鏡うつりしものをとばかりに
     とまらぬ影も形見なりけり
             行能(続拾遺集)
 ありし世の形見も悲します鏡
     うきにはかはる面影もがな
             少将内侍(文保百首)

など。
 句の「こてふ」はおそらく謡曲『胡蝶』のことで、親の形見の鏡の前で蝶の精の舞をしてみたが、親にはとても及ばない、それでも一生懸命頑張っている、と言った所か。

 句の作者に寶生とあるから宝生流の者であろう。
 宝生重高は謎だが、おそらく重友の間違いではないかと思う。高と友は草書だと似てなくもない。ただし、早稲田大学図書本、京都大学附属図書館所蔵本はともに楷書で「高」と書かれている。間違いだとすれば原稿か版本の清書の段階で間違えたことになる。
 重友には三人の子がいたとされている。

 公益社団法人宝生会のホームページによると、八代宝生大夫の重友の所に、

「重房の子。寛永一三年(1636)、重房隠居を受けて大夫を継ぎ、徳川将軍家の四代家綱、五代綱吉に仕えました。
 古将監と呼ばれる名手で、和漢の学にも通じ、伝書を残しています。
 熱心な法華経の信者であったとも伝えられています。万治二年(1659)五月、京都で四日間の勧進能を、また寛文三年(1663)七月に江戸鉄砲洲で四日間の勧進能を催しました。
 なお重友の三男の重世(しげよ)は、俳句をよくし蕉門に入って雛屋の跡を継ぎ、沾圃(せんぽ)と名乗りました。」

とある。

重友(1619-1685)
八代宝生大夫
コトバンクの「デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「宝生重友」の解説」に、
 「1619-1685 江戸時代前期の能役者シテ方。
元和(げんな)5年生まれ。宝生重房(しげふさ)の子。父の跡をついで宝生流8代となり,将軍徳川家綱・綱吉(つなよし)につかえた。宝生流になかった獅子舞(ししまい),乱拍子(らんびょうし)などを考案して,古将監(こしょうげん)とよばれた。貞享(じょうきょう)2年8月死去。67歳。通称は九郎,将監。」
とある。

友春(1654-1728)
重友の長男。
九代宝生大夫
コトバンクの「デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「宝生友春」の解説」に、
 「1654-1728 江戸時代前期-中期の能役者シテ方。
承応(じょうおう)3年生まれ。宝生重友(しげとも)の子。父の跡をつぎ,宝生流9代となる。将軍徳川綱吉(つなよし)・家宣(いえのぶ)・家継・吉宗(よしむね)につかえた。金沢藩主前田綱紀(つなのり)の愛顧をうけて加賀宝生流の基礎をつくった。享保(きょうほう)13年8月8日死去。75歳。通称は九郎,将監。」
とある。

重賢(1658-1746)
重友の次男
12世観世大夫
ウィキペディアに、
 「観世 重賢(かんぜ しげかた、万治元年(1658年) - 延享3年4月23日(1746年6月11日))は、江戸時代の猿楽師。12世観世大夫。通称は初め三郎次郎、大夫就任と同時に左門を名乗る。隠居してのちは服部十郎左衛門、さらに出家して服部周雪と改めた。
 宝生家からの養子として観世大夫を嗣ぐが、29歳でその地位を去る。以後は前大夫として尊重を受けつつ京・江戸で隠居暮らしを送り、89歳で死去した。」
 ウィキペディアの「観世流」の方には、
 「12.左門重賢
 1658年〜1746年。宝生大夫重友の子。29歳の時、在任4年で大夫を退き、以後は京都などで隠居生活を送り、いわゆる京観世にも影響を与える。」
とある。引退の年はウィキペディアの観世重賢の所に、
 「ところがそれを見届けるや同年5月19日、重賢は病気を理由に幕府に隠居願を出し、在任4年にして観世大夫の座を織部に譲ってしまう。
 29歳という若さでの隠居は異例であり、その原因がさまざまに推測されている。重賢が当時病を患っていたことは事実らしいが、とはいえ隠居の必要までは感じられない[13]。宝暦10年(1760年)に著された『秦曲正名閟伝』は(養子ゆえの)周囲からの孤立が隠居の要因であると示唆し、また『素謡世々之蹟』は重賢自身の宮仕えを嫌う気ままな性格に原因を求めている。能楽研究者の表章はこれらに加え、上述したような綱吉政権下における能界の混乱に嫌気が差したことが大きな理由だったのではないかと推測している。」
とあるが、前年の父の死が影響している可能性は十分ある。

重世(1663-1745)
重友の三男
コトバンクの「デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「服部沾圃」の解説」に、
 「1663-1745 江戸時代前期-中期の能役者,俳人。
寛文3年生まれ。宝生重友の3男。野々口立圃(りゅうほ)の養子。陸奥(むつ)平藩(福島県)の内藤義英(露沾)に約30年間つかえる。元禄(げんろく)6年(1693)松尾芭蕉(ばしょう)の晩年の弟子となり,2代立圃をつぐ。のち宝生流11代宝生友精(ともきよ)の後見役をつとめた。延享2年10月2日死去。83歳。名は重世。通称は左(佐)大夫。別号に幾重斎。」
とある。

 宝生重友は貞享2年に亡くなっていて、『雑談集』の頃の其角の記憶にも残っていることだろう。胡蝶は荘子の『胡蝶の夢』を題材にした能で、生まれ変わりの意味がある。父の生まれ変わりにはなれなかったという嘆きをこの句に込めたように感じられる。これはその頃の句であり、友春が九代宝生大夫を継いだことで家督を継げなかった重賢か重世が、引退の決意として詠んだのではないかと思われる。
 そうなると、沾蓬は後に『続猿蓑』を編纂した沾圃、つまり重世である可能性が高い。
 沾蓬は元禄7年春の芭蕉同座の興行で、

 水音や小鮎のいさむ二俣瀬     湖風
   柳もすさる岸の刈株      芭蕉
 見しりたる乙切草の萌出て     沾蓬

に始まる半歌仙に参加している。
 同じ頃「八九間」の巻で、

 八九間空で雨降る柳かな      芭蕉
   春のからすの畠ほる声     沾圃

と芭蕉と同座している。「八九間」の方は沾圃の撰による『続猿蓑』に収録されている。

 なお、沾蓬については『元禄の奇才 宝井其角』(田中善信、2000,新典社)には、

 「『露沾俳諧集』に沾蓬の句が多数収録されているから、彼は露沾に使えていたと思われるが、露沾が磐城に隠棲した際、沾蓬も露沾に同行して磐城に移住したのであろう。同集には次のような露沾の句がある。

   土田沾蓬に立圃が已前の誹名をゆづりけるに、此心にて予に句を乞
 文字ごころ麻に秀でてさしも草  露沾

 この土田沾蓬は宝生沾蓬と同一人物とみて間違いあるまい。宝生沾蓬は後に姓を土田に変えたのであろう(あるいは土田が沾蓬の本姓かもしれない)。右の句の前書きに記された立圃は芭蕉の門人の宝生沾圃(通称は左太夫)の俳号で、彼は元禄六年(一六九三)に二世立圃を襲名している。したがって「立圃が已前の誹号をゆづりける」というのは、立圃が彼の前号である沾圃を沾蓬に譲ったという意味であり、沾蓬が二世沾圃を襲名したことになる。宝生沾圃こと一世沾圃と、宝生沾蓬こと二代目沾圃の関係については不明である。」

と記している。
 まず、当時は姓が複数あっても珍しくはない。其角も榎本其角であり宝井其角でもある。榎本は母方の姓で、父方の姓で呼ぶなら木下其角になる。一世紀後の谷口蕪村も与謝野蕪村を名乗っている。
 当時の姓は三種類あったと考えられる。
 一つは源、平、藤原などの本来の意味での姓で、これだと徳川家康の姓は源で、源家康が本来の姓になり、徳川は名字ということになる。芭蕉も先祖の柘植氏の姓が平だったから、平姓と見て良い。
 もう一つが武家などのいわゆる名字のことで、田氏捨女の田(でん)は名字であって、本来の姓ではない。松尾もその先祖の柘植も名字であり、名字は分家などすると新たに作られる。
 つまり家督を継ぐ必要のない者は、必ずしも先祖の名字を名乗る必要はない。だから新たな名字を作ることも普通に行われていた。多分其角の宝井もそういうものだったのではないかと思う。
 それで行くと、宝生重賢の場合、元の名字は宝生だったが、観世家に養子に入ることで観世になり、引退すれば宝生でも観世でもなくなるから、新たに別の名字の服部を名乗っていた。
 さて、それなら三男の宝生重世の場合も、能役者をやってるうちは宝生でも、引退した後は基本的には兄と同じ服部だが、兄と区別するために土田の名字を名乗った可能性はある。
 重世が宝生家の者であり、引退した場合に服部氏に戻る所を同時に兄の重賢も引退したためにあらたに土田を名乗り、宝生重世=服部重世=土田重世となったのなら、=土田沾蓬=沾圃(『続猿蓑』の編者)、そして=二代目立圃ということで間違いないだろう。全部同一人物と考えて良い。

2025年2月4日火曜日

 
 一昨日の夜から昨日の朝にかけて雨が降ったが、丹沢の山の方は雪が降って、この冬初めての冠雪となった。
 その前にも山頂の所だけ雪が降ったことはあったようだが、下からではほとんど見えなかった。

 さて、まだ次に読むものが決まらないが、『雑談集』をホームページに掲載しようと読み返したら、早速しょっぱなから間違えがあった。

 「其角は貞享五年に西鶴の住吉大社での矢数俳諧興行のために上方へ行っているが」

 これは間違い。

 矢数俳諧興行は貞享元年。そういうわけで、書き直した。

 「一、伏見にて一夜俳諧もよほされけるに、かたはらより芭蕉翁の名句いづれにてや侍ると尋ね出でられけり。折ふしの機嫌にては大津尚白亭にて、

 

 辛崎の松は花より朧にて

 

と申されけるこそ一句の首尾、言外の意味あふみの人もいまだ見のこしたる成るべし。」(雑談集)

 

 其角は貞享元年に西鶴の住吉大社での矢数俳諧興行のために上方へ行っているが、これはそのあと貞享五年に再び上方を尋ねた時のことと思われる。

 貞享五年というと、前年の貞享四年の冬には芭蕉が『笈の小文』の旅に出て、貞享五年の八月下旬に越人を連れて江戸に戻っている。それと入れ替わるように九月に其角は近江堅田へと旅立つ。

其角も父の東順が近江膳所藩の医者だったことから、近江国とは縁が深い。

 そのことからも、伏見に来た時、芭蕉の名句はと問われると、この句が浮かんできたのだろう。

伏見は近江から逢坂山を越え、京へ向かわずに山科から南に行ったところにあり、つい先だって近江から来たばかりだったかもしれない。

 「松は花より朧にて」と、後ろに何か省略した感じが、いかにも「言外の意味」を残し、「近江に住んでる人すら思いつかないことだ」と近江に縁の深い人だからこそ言える言葉だ。

 ただ、この句の「にて」留の是非についてはいろいろ議論のある所で、其角としてはその議論を誘う意図があったのかもしれない。

 

 「其けしきここにもきらきらとうつろひ侍るにや、と申したれば、又かたはらより中古の頑作にふけりて是非の境に本意をおぼわれし人さし出て、其句誠に俳諧の骨髄得たれども慥なる切字なし。すべて名人の格的にはさやうの姿をも発句とゆるし申すにや、と不審しける。」(雑談集)

 

 「中古の頑作に」は「中古のかたくな作(さく)に」だろうか。「頑作」という単語が検索にかからない。

 中古は貞門の時代を上古、談林の時代を中古、そして今は芭蕉の正風という意味で、ここでは蕉風確立前の談林の作風に頑なにこだわっているという意味だろうか。 

談林もまた貞門の型を破ってきたが、そこでも雅語の使い方に證歌を求めたり、堅苦しい部分はあった。貞享の時代にあっては保守派に回ってたということだろう。

 芭蕉が『野ざらし紀行』の旅で訪ねた伏見の任口は既に世を去っていたが、談林系の門人はまだ伏見にいくらもいたのだろう。

 発句というのは切れ字を使うもので、というのは当時の一般的な認識で、切れ字なくても切れている大廻しや三体発句は連歌の時代から知られていたが、「にて」留の発句は前例がないし、それ以降もほとんど真似されていない。

 荷兮編『冬の日』には、

 

 霜月や鸛の彳々ならびゐて     荷兮

 

という発句があるが、この句には「や」という切れ字が入っていて、句は「霜月に(こう)彳々(つくつく)ならびゐてや」の倒置になるから、「て」留にそれほどの違和感はない。

 芭蕉が「松は花より朧にて」の句を詠んだのはその次の年の春であることから、この句の影響を受けた可能性は十分ある。

 いずれにせよ芭蕉のこの句は発句の体ではないというのは、当時の一般的な認識だったし、後に蕉門を離れた荷兮も元禄十年刊『橋守』巻三で、自分の「霜月」の句を「留りよろしからざる体」とし、芭蕉の句は「俳諧にあらざる体」としている。

 

 「答へに、哉とまりの発句に、にてとまりの第三を嫌へるによりて志らるべきか、おぼろ哉と申す句なるべきを句に句なしとて、かくは云ひ下し申されたるなるべし。朧にてと居ゑられて、哉よりも猶ほ徹したるひびきの侍る。是れ句中の句他に的当なかるべしと。」(雑談集)

 

 其角の答は、(かな)の句に「にて」留の第三を嫌うのは、哉と「にて」が似通ってるからだということから、この句は、

 

 辛崎の松は花より朧哉

 

としても良いような句で、哉より「にて」の方が「徹したるひびき」というのは、哉が治定の意味で、花より朧だろうかと疑いつつ、主観的に朧だと断定するのに対し、「にて」だと、「にては如何に」と強く疑問を問い掛けつつ断定することになる、そういうことではないかと思う。

 この語感の違いはもっともだと思し、哉と「にて」の働きの似ているのも納得できる。ただ、「哉とまりの発句に、にてとまりの第三を嫌へる」というのは特に式目にあるわけではない。『寛正七年心敬等何人百韻』では、

 

 比やとき花にあづまの種も哉    心敬

   春にまかする風の長閑さ    行助

 雲遅く行く月の夜は朧にて     専順

 

というように、「哉」で切れる発句に「にて」で終る第三を付けている。もっとも、江戸時代の慣習としては、そういう嫌いもあったのかもしれない。

 この其角の議論は後に『去来抄』でも取り上げられることになる。

 

 「伏見の作者、にて留どめの難有あり。其角曰、にては哉にかよふ。この故に哉どめのほ句に、にて留の第三を嫌ふ。哉といへば句切迫しくなれバ、にてとハ侍る也。呂丸曰、にて留の事は已に其角が解有。又此ハ第三の句也。いかでほ句とはなし給ふや。去来曰、是ハ即興感偶にて、ほ句たる事うたがひなし。第三ハ句案に渡る。もし句案に渡らバ第二等にくだらん。先師重て曰、角・来が辨皆理屈なり。我ハただ花より松の朧にて、面白かりしのみト也。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,1011

 

 「伏見の作者」とまで特定されているから、これは『雑談集』を読んだ去来・呂丸と芭蕉の問答であろう。

 

 「此論を再び翁に申し述べ侍れば一句の問答に於ては然るべし。但し予が方寸の上に分別なし。いはば『さざ波やまのの入江に駒とめてひらの高根のはなをみる哉』只根前なるはと申されけり。」(雑談集)

 

 『雑談集』での芭蕉の其角に対する答は、其角の言うのはもっともだが、そんなことを考えて「にて」にしたのではない。

 

 さざ波やまのの浜辺に駒とめて

     ひらの高根のはなをみる哉

             源頼政(新続古今集)

 近江路やまのの浜辺に駒とめて

     ひらの高根のはなをみる哉

             源頼政(夫木抄・歌枕名寄)

 

の歌を踏まえて、比良の高嶺の花の朧よりも辛崎の松の方がより手の届かないもののように見える、というこれは完全にネタを明かしてると言ってもいいかもしれない。

 芭蕉は春の霞のかかる松の朧に即興感隅したというより、比良の高嶺の花より朧なのが面白いという比較に重点を置いていて、こっちの方が朧じゃない?という問いかけにしたかったのではなかったかと思われる。

 いずれにせよ、芭蕉としては発句の慣習に囚われず、俳諧の自由というところにあえて「にて」留をしてみたのではなかったかと思う。そして、その試みはまだ談林の自由の残る貞享二年だからできたことで、後の俳諧の流れの中で、これ一句で終わってしまった試みだったのであろう。