広島サミットも終わり、混乱もほとんどなくて、アメリカ大統領が来れただけでなく、中東からゼレンスキー大統領まで来て、さながらヤルタ会談かポツダム会談か。
多分ウクライナがなかなか攻勢に出ずに武器を集めた状態で留まっているのは、もはやロシアの自壊待ちで、戦わずして勝つことを考え出してるんじゃないかな。
超音速ミサイルキンジャールがパトリオットで対応可能なのが分ったのは大きい。これなら核攻撃をされても防げる可能性が出て来た。これは北朝鮮にとっても衝撃だろう。核の脅しが迎撃技術で無効化されるなら、多額の予算をかけた核開発も無駄になる。核なき世界へ一歩前進となる。
広島で世界の首脳が慰霊碑に花を捧げ核廃絶に大きく動き出したのも、核を無効化できるという希望が湧いたことも大きく左右したのではないか。
自由ロシア軍も密かに活動を始めている。ウクライナと戦って犬死するくらいなら、プーちんに抵抗して死ぬ方がまだ良いと思うようになってきたのか。
ロシアが負けた場合、焦点となるのはロシアを非核化できるかどうかだろう。かつてウクライナを非核化したことが今回一つの弱点になったが、非核化した国を国際社会が救うことができたことは日本にとっても大きな希望になる。
ロシアが非核化し、自由主義社会の一員になり、NATOに加盟することになれば、中国と北朝鮮の包囲網は完成する。インドも今更中国には付かないだろう。中国が開放路線に復帰する可能性も高くなる。
そこまで考えるなら、世界は核なき世界に大きく前進することになる。一年前にロシアがウクライナを侵略した時は絶望的な気にもなったが、災い転じて福となすことができそうだ。自由主義の勝利が核なき世界への大きな前進となる。
そして、広島サミットがその大きな歴史的転換点として、後世に名を残すことになるかもしれない。
今は焼け野原になったバハムトも十年後には今の広島のような町になっているかもしれない。とにかく希望を持とう。
それと、去年からTwitterを始めて分かったのは、マスゴミの贋炎上記事が多いということだ。
そりゃ夜明け前の一番ツイート数の少なくなる時間帯に一瞬でもトレンド入りすれば、「トレンド入り」という報道は間違ってはいないことになる。
「炎上」という表現はもっと曖昧で、一体何軒の書き込みがあれば炎上なのか定義がないから、一件でも非難するコメントがあれば炎上したと言えてしまう。
マスクさんのおかげでボットが使用できなくなったのか、今やツイッターデモのトレンド入りも明け方の限られた時間に限られている。
それではTwitterで呟いたなりきり奥の細道でも。
三月二十七日
今日は旧暦3月27日で、芭蕉さんの奥の細道旅立ちの日。
草の戸も住かはるよや雛の家 芭蕉
元禄2年3月27日、みちのくへ旅立つ日が来た。
実はそれ以前に住んでた庵は新しい居住者に引き渡していて、近くにある鯉屋の旦那の採荼庵に止まっていた。
最初は20日に旅立つはずだった。
路通が一緒に行く予定でずっと江戸にいたんだが、急に曾良に変わった。
磐城平藩の方に意向があったようだ。スポンサーになる以上、予算管理のしっかりできる同行者が求めるのは仕方ない。確かに路通は経済感覚ゼロだからな。
曾良はみちのくの有力者にコネがあるようだし、神社の調査もあるようだ。
一度は26日に旅立つことが決まったが、昨日は門人たちが集まって来て、名残を惜しんでるうちにいつのまにか飲み会になってて、勝手に盛り上がってしまった。
おかげで今朝早く船で千住まで行って、春日部までの強行軍になってしまった。
芭蕉庵の方は娘を連れた人が住んで、最近流行のきらびやかに染めた新しい大きな紙製の立ち雛に、先代の立ち雛を何対も並べて飾ってた。
世の中変わったもんだ。
昨日酔いに任せて百韻巻こうなんて言って、表八句で終わってしまった懐紙は採荼庵に置いて行く。まあ、出来も悪いし反故だろうな。
鮎の子の白魚送る別かな 芭蕉
巳の刻にようやく千住に着いた。
ここで見送りに来た門人たちともお別れで、ここからは曾良と二人旅になる。
海に住むたくさんの白魚たちが、川を上って行く二匹の鮎を見送ってるかのようだ。
夜になって無事に春日部に着いた。船にも馬にも乗ったが九里は長かった。
そうそう、芭蕉庵の引き渡しは2月の終わりだったね。だから雛人形が飾られるのを見たわけだし。
三月二十八日
今日は旧暦3月28日で、芭蕉さんの奥の細道旅立ちの次の日。
朝明るくなってから春日部宿を馬で出発する。夜のうちに雨が降って一時止んでたが、出発する頃また降り出した。
小さな川を渡ったが、かつて下総に流れてた太日川の名残だという。これも東照宮様の御威光とか。
昼から雨も止んで、栗橋の関を通過した。
栗橋と利根川の対岸の中田宿との間の房川の渡しが関所になっていたが、勝手に通れって感じだった。
関所も関守によりけりで、いい加減な所もあれば厳しい所もある。
今日は間々田宿に泊まる。明日は室の八島だ。街道から外れるが、馬はあるのかな。
三月二十九日
今日は旧暦3月29日で、芭蕉さんの奥の細道旅立ちの次の次の日。
令和5年の3月は大の月なので明日は30日だが、元禄2年の3月は小の月なので、春は今日で終わる。
今日も朝明るくなってから間々田を出る。いい天気だ。小山宿まで日光街道で、そこから左へ折れて室の八島に向かう。
小山宿から先はやはり歩きだった。
小山宿を通る時、右側に本陣が見えて、あれが有名な小山の屋敷なのかと、曾良と二人で話してた。
木沢追分という壬生街道の分岐点があって、そこから飯塚宿は近かった。
ここから街道を外れる、河原を歩いた。
惣社河岸で川を渡り、少し行くと室の八島だった。
糸遊に結つきたる煙哉 芭蕉
室の八島には昼頃着いた。
北条氏直によって焼き払われたという大神神社は天和の頃に再建され、真新しい社殿が建っていたが、実方朝臣が、
いかでかは思ひありともしらすべき
室の八島の煙ならでは
と詠んだような煙はどこにもなく、陽炎だけがゆらゆらとしてた。
神道家の曾良は大喜びでコノシロの蘊蓄などいろいろ語ってた。正直うざいけど、紀行文にする時のネタにはなるからメモしておこう。
室の八島から壬生宿まではすぐだった。ここで壬生街道に戻った。
壬生を出て少し行くと金売吉次の塚が畑の真ん中にあった。
入かゝる日も程々に春の暮 芭蕉
折しも3月29日の小晦日で、春も今日で終わり。
室の八島に行った時には晴れてたが、だんだん雲が出てきて、今では夕日も見えなくなって、薄暗くなってゆくだけの春の終わりはちょっと寂しい。
もうすぐ鹿沼宿。
鐘つかぬ里は何をか春の暮 芭蕉
入逢の鐘もきこえず春の暮 同
今日は鹿沼に泊まる。
この辺りは入相の、鐘の音も聞こえてこない。
明日は日光に行くんで、曾良が宿の人に道を聞いてメモを取っていた。
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