今日は名古木(ながぬき)の棚だを見に行った。
規模は小さいが荒れてたのを保存しようというのは良いことだ。
場所も富士山や箱根山の見渡せるところで、もう少し上に上ると秦野市街も見える。
今は田んぼも水を張った所で田植前だが、この時期は水面に空が映し出される。これが月夜だったら、月明りの空が田に映って田毎の月になるのだろう。
それと今日は旧暦三月二十七日で芭蕉が奥の細道に旅立った日。今年は二月閏で元禄二年は一月閏があって春が四か月あり、元禄二年の旧暦三月二十七日も新暦五月十六日だった。
つまり、今日は新暦旧暦両方とも芭蕉の旅立ちの日になった。
それでは『虚栗』から、もう一つ歌仙を見てゆくことにしよう。今回は「武さし野を」の巻。
初表
発句
一むら薄まれ人をまねいて
武さし野を我屋也けり涼み笛 翠紅
まれ人は発句を詠んだこの翠紅と思われる。この人についてはよくわからないが、『虚栗』には、
春ン柴ニ負ㇾ葩ヲ木深き宿を山路哉 翠紅
白魚は朧にて海雲を晴ルル笧哉 翠紅
などの句が入集している。
武蔵野を我が屋だと思って涼んでいきます、という挨拶になる。涼み笛は何か特別な笛があるのか、単に納涼会で笛を吹くというだけなのかよくわからない。
一晶もまた、コトバンクの「世界大百科事典 第2版 「一晶」の意味・わかりやすい解説」に、
「1643‐1707(寛永20‐宝永4)
江戸前期の俳人。姓は芳賀,名は治貞。通称は順益。別号は崑山翁,冥霊堂。似船・常矩(つねのり)の傘下から京都俳壇に登場し,秋風・信徳に兄事した。《四衆懸隔》(1680),《蔓付贅(つるいぼ)》(1681),《如何(いかが)》等を刊行し,1万3500句の矢数俳諧で名をあげ,談林俳諧の点者として認められた。1683年(天和3)に歳旦帳を刊行し,その春江戸に移住して蕉門と親交を持ち,天和蕉風の一翼を担った。」
とある。『虚栗』が天和三年六月刊なので、春に江戸に来て夏にこの一巻に参加して、すぐに刊行されたことになるが、これ以前にも春の「花にうき世」の巻に参加している。
才丸は延宝五年から江戸にいて、芭蕉や其角との親交も深い。其角は江戸っ子で父の東順は近江出身。
罔兩は「菖把に」の巻の最後の二十五句目だけ付けてたので執筆だったと思われる。この巻では三句参加している。
脇
武さし野を我屋也けり涼み笛
切麦さらすさらさらの里 才丸
切麦は麦をこねて細く切ったもので、夏に冷やして食べるのなら冷麦の原型であろう。冷水にさらしてさらさらにして食べる。
第三
切麦さらすさらさらの里
皂莢に草鞋ヲいたく径アリて 一晶
皂莢は「サイカシ」とルビがある。今日でいうサイカチのことであろう。コトバンクの「デジタル大辞泉 「皂莢」の意味・読み・例文・類語」に、
「マメ科の落葉高木。山野や河原に自生。幹や枝に小枝の変形したとげがある。葉は長楕円形の小葉からなる羽状複葉。夏に淡黄緑色の小花を穂状につけ、ややねじれた豆果を結ぶ。栽培され、豆果を石鹸の代用に、若葉を食用に、とげ・さやは漢方薬にする。名は古名の西海子(さいかいし)からという。《季 実=秋 花=夏》「夕風や―の実を吹き鳴らす/露月」
とある。
前句の切麦の里を旅の途中の涼みとして、旅体に転じる。足にできる豆と掛けているのであろう。
四句目
皂莢に草鞋ヲいたく径アリて
つばめをつかむ雨の汚レ子 其角
雨の中で泥だらけになった子供が巣から落ちた燕を掴むということか。前句を旅人から子供に転じる。
五句目
つばめをつかむ雨の汚レ子
月出て日の牛遅き夕歩み 罔兩
前句の汚れ子を牧童として、雨が上がり月の出た夕ぐれを牛とともにゆっくり帰って行く。
六句目
月出て日の牛遅き夕歩み
えぼしを餝る御所やうの松 翠紅
前句の牛から王朝時代の牛車に乗った貴族に転じ、御所の松の周りに立派な烏帽子を被って集まる。
烏帽子は人前では脱がないものだから、烏帽子を松に飾ったのではなく、松の木を烏帽子をした人たちが飾るということであろう。
初裏
七句目
えぼしを餝る御所やうの松
鏡刻時の斧取り申ける 才丸
これも難解でよくわからない。斧取りは「よきとり」か。
宮廷で神事に使う銅鏡の模様を刻む時に、銅を溶かすための薪にする松を斧で伐採する人達が松の木の元に集まるという情景だろうか。
八句目
鏡刻時の斧取り申ける
八十万箕の霊とあらぶる 一晶
八十万は八百万(やおよろず)に一桁足りないが、八百万の神にも満たない八十万(やそよろず)の霊(たま)ということか。
箕の霊(たま)は御霊(みたま)と掛けて、前句を非業の死を遂げた御霊の荒ぶるのを鎮める儀式としたか。
九句目
八十万箕の霊とあらぶる
生姜薬をかざしにさせる市女笠 其角
生姜は薬として体を温めるのに用いられる。それを用いて市女笠の巫女が八十万の霊を鎮める。
十句目
生姜薬をかざしにさせる市女笠
関守浮ス三五夜の曲 才丸
関を越える時には頭に挿頭(かざし)を付けて晴着にする。後に芭蕉が『奥の細道』の旅で白河の関を越える時に曾良が、
卯の花をかざしに関の晴着かな 曾良
の句を詠んでいる。
生姜薬のかざしで関を越えようとする市女笠の旅の女だが、何かと出女に厳しい関所のことで、関守を懐柔するために三五夜の曲を奏でる、謡い踊る。
三五夜は十五夜のことだが、四句隔てて月があるためここで名月は出せないので「三五夜」にしてかいくぐることになる。関所抜けでもあり式目の抜けでもある。
十一句目
関守浮ス三五夜の曲
雁の来ルいで楊弓を競ふらん 翠紅
秋だから雁の渡ってくる季節でもある。十五夜の宴の余興として関守をもてなすために楊弓でもって雁を獲る競争をしよう、ということになる。
楊弓はコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ) 「楊弓」の意味・わかりやすい解説」に、
「長さ2尺8寸(約85センチメートル)ほどの遊戯用の小弓。楊弓の呼称は、古くは楊柳(やなぎ)でつくっていたからであり、またスズメを射ったこともあるため、雀弓(すずめゆみ)(雀小弓)ともよばれた。唐の玄宗が楊貴妃とともに楊弓を楽しんだという故事からも、日本には中国から渡来したものと思われる。約9寸(27センチメートル)の矢を、直径3寸(約9センチメートル)ほどの的(まと)に向けて、7間半(約13.5メートル)離れて座ったまま射る。平安時代に小児や女房の遊び道具として盛んになり、室町時代には公家(くげ)の遊戯として、また七夕(たなばた)の行事として行われた。江戸時代になると、広く民間に伝わり競技会も開かれた。寛政(かんせい)(1789~1801)のころから寺社の境内や盛り場に楊弓場(ようきゅうば)が出現した。楊弓場は主として京坂での呼び名で、江戸では矢場(やば)といった。金紙ばりの1寸的、銀紙ばりの2寸的などを使い、賭的(かけまと)の一種であったが、賭博(とばく)としては発達しなかった。矢場はむしろ矢取女という名の私娼(ししょう)の表看板として意味が深い。」
とある。本格的な狩猟でなく、あくまでゲームとして楽しむ。
十二句目
雁の来ルいで楊弓を競ふらん
治郎にくだす盞の論 罔兩
遊戯としての楊弓場は元禄の頃には一般的になるが、天和の頃はまだであろう。
ここでは武家の子どもの遊戯で、小さい子供に弓を教えながら酒の飲み方も教える。
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