2021年10月17日日曜日

 ラノベでも漫画やアニメでも、異世界転生ものというものが隆盛を極めているが、真面目な文学ばかり読んできた人にはついて行けない世界かもしれない。
 ファンタジーワールドを舞台にした物語というのは昔からあった。指輪物語だとかは今の異世界のイメージの原型になっているとも言えるし、神話を題材にした小説やら、魔法使いが登場する物語だとか、古くからあるものだった。
 もう一つの源流がSF小説で、基本的には科学の通用する世界が中心で魔法は登場しないが、現実には有り得ないようなタイムトラベルやワープ航法や意識を持つロボットなどが登場する辺りは、これも一種の異世界と言える。
 今の異世界転生ものはこれにゲーム世界の要素の加わったものと考えればいい。つまり、異世界は基本的にその世界を作った創造主のような開発者や管理者がいて、ゲームのように緻密な世界観設定がなされている。
 異世界転生ものに隣接するところにVRММОものがある。これは転生するのではなくゲームの世界に行くもので、現実世界と往復できるタイプのものもあれば、行ったっきり帰れないものもある。この行ったっきり帰れないタイプのVRММОだと、実質的に異世界転生になる。
 逆に言えば異世界転生もの世界は、旧来のSFファンタジーや魔法ファンタジーものとVRММОの要素が混在している世界と言ってもいい。
 異世界転生は輪廻転生ではない。輪廻転生は現実世界での転生にすぎない。そのため異世界転生は現実と切り離されたシミュレーションの世界の物語と考えればいい。主人公は転生しても読者はいつでも戻ってこれる。転生しても読者にとってみればゲーム世界に遊ぶのと何ら変わりはない。
 ゲーム世界で起きていることは現実ではない。それは人為的に作られた世界であり、その仕掛けを解き明かしたりして楽しむ世界であるとともに、その仕掛けの中に寓意や思考実験を読み取ることもできる。そこが異世界転生ものの面白さだと言える。
 異世界転生という設定だと、その世界の固有の人間を主人公にするよりも、虚構の世界に来たということがより明確に自覚され、世界を外から眺めるという視点に立ちやすい。異世界転生ものは人工的に世界-外-存在になれる文学と言ってもいいかもしれない。
 ファンタジーワールドとVRММОとの融合という発想は、筆者的には二〇〇三年の『スターオーシャン Till the End of Time』というゲームが原型になっているように思える。
 現実世界をいかにリアルに描こうとも、所詮は作者の頭の中で作られて世界で、むしろ作者の思想だとかでゆがめられた現実を押しつけられるのはたまったもんではない。最初から作り物の世界と割り切って読めるのが異世界ものの徳といえる。
 あと、天和二年春の「月と泣」の巻を鈴呂屋書庫にアップしたのでよろしく。

 さて、前日に述べたような事情で、『冬の日』の「狂句こがらし」の巻、解説のやり直しをしてみようと思う。
 鈴呂屋書庫のあの解説を書いた頃はまだ、他の俳諧はほとんど読んでなくて、当時の解説書などを参考にしたため、そのため正岡子規の貞門の洒落、談林の滑稽から写生説の発見で蕉風を開いたという当時主流の歴史観からどう逃れるかが課題だった。
 ただ、その時はまだ芭蕉は当時の俳壇の中での群を抜く天才で、自らの発想で新風を次々と開いていったというバイアスがかかっていて、名古屋の連衆のレベルを過小評価していた。
 このバイアスは結局は芭蕉が写生説を発明したが、それがあまりに近代的過ぎて、他の門人たちにはほとんど受け入れなかったという、古い歴史観の残滓によるものだった。修正しなくてはならないのはそこだ。
 まずは発句だが、

 狂句こがらしの身は竹齋に似たる哉 芭蕉

の句の破調に関して言えば、当時としてはもはや新しいものではなかった。名古屋の連衆も千春の『武蔵曲』や其角の『虚栗』は読んでいただろうし、上方の伊丹流長発句の流行も知っていたであろう。
 その意味で、この発句は多少名古屋の連衆を見くびった、これが江戸の発句だみたいな気負いがあったのではなかったか。
 竹斎は江戸時代の初期に流行した仮名草子のキャラクターで、天和に再版された『竹斎』は、絵本のように紙面いっぱいに絵が刷られていて、その上の余白に文字が書き込まれているというもので、今日で言えば漫画のようなものだ。
 元禄七年の名古屋での「世は旅に」の巻三十三句目に、

   四五畳まけてあたまぬらさず
 一冊も絵の有本はなかりけり    傘下

の句があるように、この時代はこうした絵のある本が氾濫していた。こうした中で菱川師宣のような優れた絵師が現れ、後の浮世絵の元となっていった。
 竹齋はかつて名医の誉れ高かった養父薬師(やぶくすし)の似せもので、狂歌を詠みながら、磁石山の石で作った吸い膏薬のような妖しげなアイテムを使い、時には人助けもするが、たいていは失敗し、ほうほうの体で逃げ出す。
 自分はその竹齋のような者です、という自己紹介の句になる。
 野水はこの発句をどう思ったかは知らない。この挑発をさらっと流す。

   狂句こがらしの身は竹齋に似たる哉
 たそやとばしるかさの山茶花    野水

 どうりで笠の上に山茶花が飛び散っているかと思ったら、狂句木枯らしの竹齋さんでしたか、と答える。
 第三は、

   たそやとばしるかさの山茶花
 有明の主水に酒屋つくらせて    荷兮

 有明の主水という何となくありそうな人名を出して、前句の山茶花を笠に飛び散らせている人を、酒屋を作らせるような架空の偉い人とする。
 主水は本来は水を管理する役人の官職名だが、当時の人名は官職名から来ているものが多く、特別なことではなかった。ただ、主水という名前から、明け方の有明の頃に草葉は清らかな露を結ぶから、さぞかし旨い酒が造れそうだ、とする。
 四句目。

   有明の主水に酒屋つくらせて
 かしらの露をふるふあかむま    重五

 馬がぶるぶるっと震えて露を掃う光景だろう。「あかうま」はどこにでもいる平凡な馬、駄馬という含みがある。酒屋など、商店には馬に乗った人も盛んに訪れる。
 四句目にふさわしい穏やかな展開でありながら、リアルの世界を描き出す、『俳諧次韻』の「世に有て」の巻で見せた展開に近いものが感じられる。
 五句目。

   かしらの露をふるふあかむま
 朝鮮のほそりすすきのにほひなき  杜国

 異国趣味というのは延宝・天和の頃に盛んに見られたパターンだが、「ほそりすすき」は今となっては意味不明。天和二年の朝鮮通信使行列に関係しているのか。行列なら、露を払う馬もいるだろう。
 六句目。

   朝鮮のほそりすすきのにほひなき
 ひのちりちりに野に米を刈     正平

 前句の朝鮮に応じた架空の風景であろう。「野に米を刈」は陸稲だろうか。
 初裏、七句目。

   ひのちりちりに野に米を刈
 わがいほは鷺にやどかすあたりにて 野水

  隠棲している人の風情で、鷺に宿を貸すようなところだから、川べりだろう。川原乞食などという言葉もあるように、川原は公界くがいで、特に誰の所有ということもなく、自由に棲むことができただけに、ホームレスの溜まり場にもなる。
 そんな川原に庵を構え、米を作っているという、侘びた風狂物の句とする。
 談林的な都会的リアリティーとは違った、後の蕉門のリアリティーの先駆のようなものを感じさせる。
 八句目。

   わがいほは鷺にやどかすあたりにて
 髪はやすまをしのぶ身のほど    芭蕉

 河原の住人ということで、こういうわけありの一時的な隠遁僧がいるというのは、当時のあるあるだっと思われる。
 何か不始末でもしでかして、一時的に坊主になって反省した振りをして、ほとぼりが醒めたらすぐに還俗する気でいるわけだ。「しのぶ」というのが、俳諧では恋の言葉だから、女のことで不始末を犯した男かもしれない。当時不倫は重罪だった。
 九句目。

   髪はやすまをしのぶ身のほど
 いつはりのつらしと乳をしぼりすて 重五

 打越の河原の設定が解除されるので、ここは駆け込み寺に駆け込んだ尼になった女とし、子を失ってもなお出て来る母乳を絞り捨てる。
 十句目。

   いつはりのつらしと乳をしぼりすて
 きえぬそとばにすごすごとなく   荷兮

 死んだ赤子の卒塔婆の前で泣き伏す女とする。
 十一句目。

   きえぬそとばにすごすごとなく
 影法のあかつきさむく火を焼て   芭蕉

 前句や打越のリアルでいて人情味あふれる句に、芭蕉も何か談林の流行の中で忘れていたものを思い出したのだろう。
 この付け句は、寛文の頃の貞徳翁十三回忌追善俳諧三十一句目の、

   秋によしのの山のとんせい
 在明の影法師のみ友として     宗房

の句に似ている。最近使ってなかったこの貞門時代のこのパターンが、今の時代には生かせると思ったのかもしれない。
 消えぬ卒塔婆を涙ながらに供養する人物の影が、寒さをしのぐための焚火の炎に映し出される。
 十二句目。

   影法のあかつきさむく火を焼て
 あるじはひんにたえし虚家     杜国

 虚家(からいゑ)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「空家・虚家」の解説」に、

 〘名〙 人の住んでいない家。あきや。また、家財道具もない、あきや同然の家。
  ※日葡辞書(1603‐04)「Cara(カラ) iye(イエ)」
  ※俳諧・冬の日(1685)「影法の暁寒く火を焼(た)きて〈芭蕉〉 あるじは貧に絶えし虚家(カライヱ)〈杜国〉」

とある。
 この場合は家財道具もすべて失って空き家同然になった家という意味であろう。何もないところで火だけを焚いて暖を取っている。

2021年10月16日土曜日

 今日は曇りで一時雨。

 さて、その『野ざらし紀行』の旅で、十月の大垣滞在中に、かつて江戸で俳諧を教えた人たちと再会することになる。
 延宝九年の七月二十四日に江戸滞在中の木因と会い、そこで、

   木因大雅のおとづれを得て
 秋とはば詞はなくて江戸の隠   素堂
   鯔釣の賦に筆を棹さす    木因
 鯒の子は酒乞ヒ蟹は月を見て   芭蕉

の句を詠んでいる。
 せっかく秋に訪ねてきてくれたのに文才もなく何の言葉もない江戸の引き籠りです、と素堂が発句をする。
 それに対し木因は、そんなことないでしょう、漢文が得意と聞いてます。ハゼ釣りの賦を書けば、流れに掉さすようにすらすらと書かれることでしょう、と答える。発句の「詞」を漢詩の一形式の「詞」として、今回は詞ではなく賦を書くとする。
 そして芭蕉は、多分木因の方を「こちの子は」として酒を欲しがり、素堂を蟹に喩えて月を見ているとしたのだろう。鯒(こち)はマゴチ、メゴチなどをいうが、小さいものはハゼ釣りの外道で時々かかる。
 その後嗒山も何らかの形で芭蕉の指導を受けていたのだろう。芭蕉の「天和二年三月二十日付木因宛書簡」に、

 「嗒山丈御作いかが成行申候哉、是又承度候。」

 
とある。
 この時の発句はその恩を踏まえている。

 師の桜むかし拾はん落葉哉    嗒山

 芭蕉さん、あなたの教えを受けたことがありますが、その時の芭蕉さんがくれた桜(教えられたことの比喩)も今は落葉になってしまってます、とかつて受けた恩と自らの未熟さとを謙虚に詠む。
 これに芭蕉は脇でこう答える。

   師の桜むかし拾はん落葉哉
 薄を霜の髭四十一        芭蕉
 (師の桜むかし拾はん落葉哉薄を霜の髭四十一)

 発句に対し、桜だなんてとんでもない。私も霜の降りた薄のような無精ひげを生やした四十一歳になる男です、と答える。
 当時は四十で初老と呼ばれたが、破笠の語るところによると、貞享期に初めて会った芭蕉は四十一、二歳なのに「六十有余の老人」に見えたという。
 十句目は空想趣味の句。

   武かれと聟の心やためすらん
 破軍の誓ヒ餅北に搗       芭蕉
 (武かれと聟の心やためすらん破軍の誓ヒ餅北に搗)

 「破軍」は破軍星のことで、北斗七星の柄杓の柄の一番端の星。剣の先に見立てられ、古代の北辰(北極星)信仰と習合した妙見菩薩と結びつくことで、千葉氏や九戸氏が妙見菩薩を一族の守り神とした。
 いずれにせよ破軍は軍神として信仰されていた。敵軍を破るに掛けて戦勝祈願に北の方角で餅を搗いたと、何となくありそうな話を作る。
 十七句目も、

   寄手を招く水曳の麾
 花を射て梢を船に贈けり     芭蕉
 (花を射て梢を船に贈けり寄手を招く水曳の麾)

と、巌上の桜の枝を弓で射落として、その梢に水引を付けて敵方の船にプレゼントするという、軍記物にありそうな物語を作る。
 三十三句目。

   二疋の牛を市に吟ずる
 鸚兮鵡兮朝の喧き        芭蕉
 (鸚兮鵡兮朝の喧き二疋の牛を市に吟ずる)

 「鸚兮鵡兮」は「あうなれやむなれや」と読む。オウムや九官鳥は長崎を通じて輸入されて、人の声を真似するということで人気を博していた。
 市場でもオウムが来れば人だかりができて、「おう」だの「む」だの言って騒がしかったのだろう。「オウム」という言葉の響きがどこか牛の声に似ているところから、「おう」だの「む」だの二疋の牛かっ、て突っ込みたくなったのか。
 この巻でも、江戸の都会での現実的な句は見られない。古典趣味と空想に走っていた。長い隠棲生活が、芭蕉を浮世離れさせてしまったのかもしれない。

 そこから抜け出すきっかけになったのが、名古屋で興行で、荷兮編『冬の日』に収録された五歌仙だった。
 最初の歌仙の発句は芭蕉で、

 狂句こがらしの身は竹斎に似たる哉 芭蕉

の句だった。字余り破調の句は、天和調の特徴でもある。初めて対する名古屋の連衆の前で、都会の風を吹かせたかったのかもしれない。
 竹斎は江戸時代の初期に流行した仮名草子のキャラクターで、天和に再版された『竹斎』は、絵本のように紙面いっぱいに絵が刷られていて、その上の余白に文字が書き込まれているというもので、今日で言えば漫画のようなものだ。
 かつて名医の誉れ高かった養父薬師(やぶくすし)の似せもので、狂歌を詠みながら、磁石山(じしゃくさん)の石で作った吸い膏薬(こうやく)のような妖しげなアイテムを使い、時には人助けもするが、たいていは失敗し、ほうほうの体で逃げ出す。
 自分を「狂句こがらし」だと言い放ち、それを仮名草子のキャラに例えるというこの発句は、田舎の真面目な連衆を挑発する意図もあったのではないかと思う。
 そのあとの名古屋の連衆の句だが、

   たそやとばしるかさの山茶花    野水
 有明の主水に酒屋つくらせて      荷兮
   かしらの露をふるふあかむま    重五
 朝鮮のほそりすすきのにほひなき    杜国
   ひのちりちりに野に米を刈     正平
初裏
 わがいほは鷺にやどかすあたりにて   野水

という調子だった。「有明の主水」も特に当時の有名人というわけでもなく、それっぽい名前を付けたもので、談林時代だと有名人や有名人の名前をもじって今風にしたものが多かったが、案外これは新しかったのではないか。
 鈴呂屋書庫にあげている「狂句こがらし」の巻の解説はおそらく最初に俳諧一巻を読んでみようかと思い立った時の古いもので、一順したあとだと、見方を変えなくてはならない。
 「朝鮮のほそりすすき」は未だに謎だ。そのあとの正平の句、野水の句も隠士を気取った句で、むしろこうした発想が芭蕉に刺激を与えていたのかもしれない。
 そうなると、その後の句も見方を変えなくてはならない。
 八句目。

   わがいほは鷺にやどかすあたりにて
 髪はやすまをしのぶ身のほど      芭蕉
 (わがいほは鷺にやどかすあたりにて髪はやすまをしのぶ身のほど)

 あるあるネタは芭蕉が初期の頃から得意としていたが、延宝天和の頃は空想趣味の方が受けがよかったのか、鳴りを潜めていた感があった。
 この句はむしろ、名古屋の連衆に刺激を受けて、芭蕉が本来得意としていたこのパターンをはっと思い出した瞬間だったのかもしれない。
 そのあとの、

 いつはりのつらしと乳をしぼりすて   重五
   きえぬそとばにすごすごとなく   荷兮
 影法のあかつきさむく火を燒て     芭蕉

の展開も、重五の駆け込み寺的な一時的に尼になった子持ちの女性、それをさらに未亡人へと転じる、リアルでいて人情味あふれるこの展開に、むしろ芭蕉の方が衝撃を受けたのかもしれない。芭蕉の付け句は、寛文の頃の貞徳翁十三回忌追善俳諧三十一句目の、

   秋によしのの山のとんせい
 在明の影法師のみ友として       宗房

の句を思い出し、最近使ってなかったこの貞門時代のこのパターンが、今の時代には生かせると思ったのかもしれない。
 十八句目は、前句が王朝時代の空想ネタだった。

   二の尼に近衛の花のさかりきく
 蝶はむぐらにとばかり鼻かむ      芭蕉
 (二の尼に近衛の花のさかりきく蝶はむぐらにとばかり鼻かむ)

 この種のネタは天和の頃にはよくある展開だったので、芭蕉としてもややほっとした感じがしたのではないか。
 かつての宮廷で蝶のように華やかに舞っていた身も、今や近衛の糸桜どころか、こんな雑草にとまる蝶になってしまったと涙ぐむ。「鼻かむ」というのは泣くことを間接的に言う言いまわして、風雅なようだが、何か鼻水でぐしゅぐしゅになった顔が浮かんできそうで、俳味がある。
 二十八句目も古典に密着した句で、

   あはれさの謎にもとけし郭公
 秋水一斗もりつくす夜ぞ        芭蕉
 (あはれさの謎にもとけし郭公秋水一斗もりつくす夜ぞ)

 「秋水」は本来は秋に黄河の水かさが増すことで、『荘子』の秋水編はそこから来ている。それとは別に秋の清らかな水を意味することもあるが、この場合は秋の新酒のことだろう。酒は一升も飲めば立派な酒豪だが、その十倍の一斗(十八リットル)となると、なかなか豪勢だ。
 酒豪が何人もそろって、今日は派手に飲み明かそうぜ、というわけでホトトギスにまつわる悲しい伝説など知ったことではない。
 新酒の季節とホトトギスの鳴く季節とが合わないので、前句に関しては、単なるあしらいと見た方が良い。
 三十一句目。

   巾に木槿をはさむ琵琶打
 うしの跡とぶらふ草の夕ぐれに     芭蕉
 (うしの跡とぶらふ草の夕ぐれに巾に木槿をはさむ琵琶打)

 牛や馬は死ぬとすぐに専門の処理業者がやってきて解体し、使える部分は持ち帰り、使えない部分もそれ専用の処理場に集められる。いわゆる穢多と呼ばれる人たちの仕事だ。
 飼い主はこの時何もすることはない。馬の場合は江戸後期だと馬頭観音塔を建てて弔うが、この時代はよくわからない。
 まして牛の場合はどうだったのか。後世には残らなくても、何らかの形で祭壇を設けて弔っていたのではないかと思う。
 前句の琵琶法師がその現場を訪れて、そっと槿の花を添える。
 この一巻は芭蕉が『俳諧次韻』の「世に有て」の巻で試みたことを、意外なことに名古屋の連衆が受け継いでいてくれて、これこそが自分の求めていた新風だと確信した瞬間だったといってもいいのではないかと思う。
 越人が、「汝等は当流開基の次韻といふ、二百五十韻の集はしらぬか。」と言ったのも、「世に有て」の巻に蕉風が始まったという共通認識が、名古屋の連衆の間にあったからではないかと思う。

2021年10月15日金曜日

 今日も晴。
 自由民主党の平成二十二年綱領を見てたら、そこにはこう書いてあった。

 「我々が護り続けてきた自由(リベラリズム)とは、市場原理主義でもなく、無原則な政府介入是認主義でもない。ましてや利己主義を放任する文化でもない。自立した個人の義務と創意工夫、自由な選択、他への尊重と寛容、共助の精神からなる自由であることを再確認したい。従って、我々は、全国民の努力により生み出された国民総生産を、与党のみの独善的判断で国民生活に再配分し、結果として国民の自立心を損なう社会主義的政策は採らない。」

 これを見る限りは、税金を用いた富の再配分は自民党の意図するところではない。「新しい資本主義」は基本的にこれに沿ったものであり、ここからの逸脱は許されない。

 天和二年十二月二十八日、暮れも押し迫るころ、江戸の町は大火にみまわれる。天和の大火は「お七火事」とも呼ばれている。
 この火事で隅田川を渡って飛んできた火の粉に深川芭蕉庵も類焼し、芭蕉は隅田川に飛び込んで難を逃れたと言われている。
 余談だが、隅田川に飛び込むという行為は一九四五年三月十日の東京大空襲では通用しなかった。焼夷弾は油を燃やしているので水にも強い。川の水は焼夷弾の火を消すことができず、川までが炎に包まれ、隅田川に飛び込んだ多くの人も焼け死んだ。恐るべし焼夷弾。転スラの井沢静江もこの時の火災で死んだ設定になっている。
 今は亡き母の話によれば、空襲を免れた谷中の高台から見た連合軍の焼夷弾は、花火のように奇麗だったという。
 話を戻すが、天和の大火で被災した芭蕉は、翌天和三年の歳旦に、

 元日や思へばさびし秋の暮    桃青

の句を詠んでいる。被災した状況での歳旦に、目出度くもあり目出度くもなしの心境だったのだろう。
 この年の夏、芭蕉は麋塒の伝手でしばらく甲斐国谷村(今の山梨県都留市)に滞在する。
 「故艸」の巻はその滞在中のもので、

 故艸垣穂に木瓜もむ屋かな    麋塒

を発句とする。この時代に「木瓜(キュウリ)」は珍しい。ウィキペディアには、

 「日本には6世紀に華南系キュウリが中国から伝わったとされるが、明治期に華北系キュウリが入ってきたといわれ、本格的に栽培が盛んになったのは昭和初期からである。仏教文化とともに遣唐使によってもたらされたとみられているが、当初は薬用に使われたと考えられていて、空海が元祖といわれる「きゅうり加持」(きゅうり封じ)にも使われてきた。南伝種の伝来後、日本でも江戸時代までは主に完熟させてから食べていたため、「黄瓜」と呼ばれるようになった。完熟した後のキュウリは苦味が強くなり、徳川光圀は「毒多くして能無し。植えるべからず。食べるべからず」、貝原益軒は「これ瓜類の下品なり。味良からず、かつ小毒あり」と、はっきり不味いと書いているように、江戸時代末期まで人気がある野菜ではなかった。」

とある。
 第三の、

   笠おもしろや卯の実むらさめ
 ちるほたる沓にさくらを拂ふらん 芭蕉

の句は、玉屑の「閩僧可士送僧詩」の「笠重呉天雪 鞋香楚地花」の句をふまえたもので、飛び回る蛍を散った桜の花びらの空中に漂うのに喩え、「鞋香楚地花(靴は楚地の花を香らす)」に倣って沓でその花(蛍)をはらうのだろうか、とする。桜はあくまで比喩なので「らん」と疑って結ぶ。
 笠には卯の実の村雨を重ね、沓には蛍が花のように香る。漢詩の対句を踏まえた相対付けになる。
 六句目は囲碁ネタ。

   ややさぶの殿は小袖をうちかけて
 紅白の菊かぜに碁を採      芭蕉
 (ややさぶの殿は小袖をうちかけて紅白の菊かぜに碁を採)

 前句の「うちかけて」を碁の「打ち掛け(途中休憩)」と掛けて、碁の場面とする。
 打ち掛けになったので小袖をうち掛けて、ふと庭を見れば紅白の菊までが碁石に見えてくる。
 九句目は前句の「舎人」を受けての王朝時代の設定で、

   とねりは縁をかりて居ねぶる
 楊弓のそれ矢は御簾にとどまりて 芭蕉
 (楊弓のそれ矢は御簾にとどまりてとねりは縁をかりて居ねぶる)

と、貴族の館で縁側で舎人が居眠りしているところに、遊ぶ子供の放った矢が奥の御簾を直撃してしまった、とする。
 楊弓(やうきゆう)はウィキペディアに、

 「楊弓(ようきゅう)とは、楊柳で作られた遊戯用の小弓。転じて、楊弓を用いて的を当てる遊戯そのものも指した。弓の長さは2尺8寸(約85cm)、矢の長さは7寸から9寸2分とされる。中国の唐代で始まったとされ、後に日本にも伝わり、室町時代の公家社会では、「楊弓遊戯」として遊ばれた。」

とあり、江戸時代には矢場で用いられた。
 十八句目は万葉集ネタになる。この時代に『万葉集』は珍しい。

   通夜堂のかいくれ花をのぞくころ
 さくら子消てつり鐘に垂     芭蕉
 (通夜堂のかいくれ花をのぞくころさくら子消てつり鐘に垂)

 「さくら子」は『万葉集』巻十六、三七八六、三七八七の歌の前書きに登場する。

   昔者娘子(むかしをとめ)あり、字(な)を
   桜児(さくらこ)といひき。時に二(ふたり)
   の壮士(をとこ)あり。共にこの娘(をとめ)
   を誂(つまど)ひて、生(いのち)を損(す)
   てて挌競(あらそ)ひ、死を貧りて相敵(あひ
   あた)みき。ここに娘子なげきて曰ひしく。
   古より今にいたるまで、未だ聞かず。未だ見ず、
   一(ひとり)の女の身にして、二つの門に往適(ゆ)
   くといふことを。方今(いま)壮士(をとこ)
   の意和平(こころやはら)ぎ難きものあり。
   妾死(あれみまか)りて、相害(あらそ)ふこと
   永く息(や)まむには、といひき。すなはち林の
   中に尋ね入りて、樹に懸りて経(わな)き死にき。
   その両(ふたり)の壮士哀慟(をとこかなし)む
   に敢へず、血の泣襟(なみだえり)に漣(したた)り、
   各心緒(おもひ)を陳(の)べて作れる歌二首。
 春さらば挿頭にせむとわが思ひし
     桜の花は散りにけるかも
 妹が名に懸けたる櫻はな咲かば
     常にや恋ひむいや年のはに(『新訂新訓万葉集下巻』佐々木信綱編、一九二七、岩波文庫)

 二人の男から求婚されてどちらも選べずに自殺した女に二人の男が和歌を詠むというものだが、実話かどうかはわからない。そういう設定で二人の男が歌を詠むという歌合せだったのかもしれない。
 歌合せではないかというのは、その次に御丁寧にも同じような設定で三人の男から求婚されて、やはり三人の男が歌を詠むというのがあるからだ。ここでは鬘子という名前になっている。
 その「さくら子」は「樹に懸りて経き死にき」とあるから首を吊ったのだろう。それを踏まえてここでは「つり鐘に垂(たる)」とする。通夜堂だけに釣り鐘のように首を吊った。
 二十七句目は教訓めいた句だ。こういう句も芭蕉には時々ある。

   奢をのちの臣にいさめる
 千金はいやしく糞土をたからとす 芭蕉
 (千金はいやしく糞土をたからとす奢をのちの臣にいさめる)

 「糞土」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 (古くは「ふんと」)
  ① 糞と土。また、腐った土。汚ない土。
  ※正法眼蔵(1231‐53)行持下「金銀珠玉、これをみんこと糞土のごとくみるべし」 〔管子‐揆度〕
  ② 転じて、きたないもの、卑しむべきもののたとえ。
  ※薩長土肥(1889)〈小林雄七郎〉四藩政府即聯立内閣「彼等は戊辰前後より廃藩置県に至るまで天下人士の糞土視し」 〔春秋左伝‐僖公二八年〕」

とある。

 この正法眼蔵の言葉に限らなくても、金銀を卑しむ考え方は仏教や老荘思想ではそんなに珍しいものではない。「千金は卑しく糞土をたからとす」という金言もいかにもありそうだ。前句の臣を諫めた言葉とする。
 「糞土をたからとす」は農業に励めとも取れる。
 三十句目は恋で、

   吉原の三十年を老のつくも髪
 ねやのはしらに念仏書おく    芭蕉
 (吉原の三十年を老のつくも髪ねやのはしらに念仏書おく)

と、吉原で遊ぼうと思ったら遊女歴三十年のベテランが出てきたので、閨の柱に念仏を書き残してきたというネタだ。まあ、そういう遊女にも敬意を払って遊ぶのが、本当の遊び人というものだが。芭蕉の遊び人レベルはそんなに高くない。
 全体にこの巻は古典の世界に遊ぶ句が多く、それは江戸を離れて田舎に来たというのもあると思うが、まだ田家のリアルを描く段階にはなかったようだ。
 江戸に戻った後、芭蕉は故郷の母の死を知る。冬にようやく第二次芭蕉庵ができたが、俳諧の方は大きな動きもなく、深川隠棲が続く。
 翌天和四年は二月二十一日に貞享元年となる。そしてこの年の八月、芭蕉は伊賀帰郷を兼ねての『野ざらし紀行』の旅に出ることになる。

2021年10月14日木曜日

 今朝は雨が止んだ。今日は重陽。
 今までは早朝散歩だったが、涼しくなったので昼の散歩にした。店も開いていた買い物もできる。
 雨上がりだと蜘蛛の巣がたくさんある。『鬼滅の刃』で蜘蛛が怖くなった人がいたら、『蜘蛛ですが、なにか?』を見れば蜘蛛が可愛く思えてくる。アニメを見たが時系列がよくわからないので、ラノベの方を読んでいる。一巻と二巻はkindleunlimitedで読めるが、もうすぐ有料エリアに入る。
 日本では蜘蛛は大切にされていた。むやみに殺したり追出したりしてはいけない。
 あと、鈴呂屋書庫に「八人や」の巻と、天和二年春の「田螺とられて」の巻をアップしたのでよろしく。
 「田螺とられて」の巻は『校本芭蕉全集 第五巻』(小宮豐隆監修、中村俊定注、一九六八、角川書店)の「連句篇補遺」の所に収められているもので、最近になって発見されたもののようだ。
 もう一巻「月と泣」の巻があるので、追ってアップしたいと思う。

 同じ天和二年に春に、其角・嵐雪・嵐蘭という後の蕉門を支えるメンバーに一晶を加えての、「花にうき世」の巻が興行される。
 この巻は天和三年刊其角撰の『虚栗』に収録され、いわゆる虚栗調の始まりとなる。
 八句目は謡曲『蝉丸』による本説付けになる。

   琵琶洗ふ雨よし朝の時雨よし
 朝にえぼしをふるふ紙衣     芭蕉
 (琵琶洗ふ雨よし朝の時雨よし朝にえぼしをふるふ紙衣)

 前句の琵琶を楽器の琵琶として、紙衣を着た貧しい琵琶法師、蝉丸とした。
 謡曲『蝉丸』に、

 「たまたまこと訪ふものとては、峯に木伝ふ猿の声、袖を湿す村雨の、音にたぐへて琵琶の音を、弾きならし弾きならし」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.41489-41495). Yamatouta e books. Kindle 版. )

という、雨に琵琶を弾く場面がある。
 談林時代なら謡曲の詞をそのまま句の中に取り込む所だが、ここではあくまで趣向だけを取り込む。
 紙衣は紙子と同じで、防寒性にすぐれているがすぐボロボロになるところから、ボロボロの紙子を着た乞食という、ステレオタイプ的なイメージがあったようだ。
 目が見えないということで宮廷から追い出されて逢坂山の粗末な庵に棲む蝉丸の哀れを、ここでは茶化したりせずにその情をそのまま引き継ぎ、「紙衣」という所だけが俳諧になる。
 十三句目も古典の哀れの情で付けている。

   藤ハ退-之が肝-魂ヲ奪う
 雷鳥のはつねハ觜ヲ鳴ルならん  芭蕉
 (雷鳥のはつねハ觜ヲ鳴ルならん藤ハ退-之が肝-魂ヲ奪う)

 韓退之の『送孟東野序』の一節に、に『鳥ヲ以テ春ニ鳴リ、雷ヲ以テ夏ニ鳴ル』とあるによった。」

 「維天之於時也亦然 擇其善鳴者而假之鳴。是故以鳥鳴春 以雷鳴夏 以蟲鳴秋 以風鳴冬 四時之相推敓 其必有不得其平者乎。」
 (音楽と同様、天もまた時に応じて、善く鳴るもの選び、それを借りて善く鳴る。それゆえ鳥でもって春を鳴らし、雷でもって夏を鳴らし、虫でもって秋を鳴らし、風でもって冬を鳴らす。四季折々のことが推し進められれば、必ず平穏でないことなんてあるわけがない。)

とある。 
 天は四時にその時々の音を鳴らす、春は鳥、夏は雷、秋は虫、冬は風というように。
 藤というと、

 わがやどの池の藤波さきにけり
     山郭公いつか來鳴かむ
              よみ人しらず(古今集)
  この歌ある人のいはく、柿本人麿が歌なり

の歌があるように、ホトトギスの初音を期待させるものだが、ここでは雷に掛けて雷鳥の初音とする。とはいえ、雷鳥の声などほとんど聞く機会がないし、ここでは雷に似せて嘴を鳴らす音にしている。
 雷鳥の雷という所に予想外な展開をするが、韓退之の言う四季の物音が大地に平和をもたらすという本意を損なうものではない。
 なお、雷鳥は、

 しら山の松の木陰にかくろひて
     やすらにすめるらいの鳥かな
              後鳥羽院(夫木抄)

の歌にも詠まれている。
 十九句目は一応時事ネタか。

   破_蕉誤ツテ詩の上を次グ
 朝鮮に西瓜ヲ贈る遥ナリ     芭蕉
 (朝鮮に西瓜ヲ贈る遥ナリ破_蕉誤ツテ詩の上を次グ)

 天和二年は朝鮮通信使の来た年でもある。ただ、実際に来たのは六月でまだ先のことだ。来るという噂は聞いていただろう。
 この時の朝鮮通信使の様子は、「錦どる」の巻に参加した曉雲(後の英一蝶)の師匠の狩野安信が絵に描き残している。
 朝鮮(チョソン)の使節を迎える時には漢詩を交わしたりするのが通例だった。もっとも、それは韻を継いだりするもので、当然ながら上句を付けたりはしない。芭蕉が出席したら漢詩に付け句をやってくれたかも、というところで「朝鮮贈西瓜、遥也」という詩句を作る。
 二十九句目は故事による本説付けになる。

   山ン野に飢て餅を貪ル
 盗ミ井の月に伯夷が足あらふ   芭蕉
 (盗ミ井の月に伯夷が足あらふ山ン野に飢て餅を貪ル)

 伯夷(はくい)はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「中国古代、殷(いん)末周初の伝説上の人物。孤竹君の子。国君の後継者としての地位を弟の叔斉(しゅくせい)と譲りあってともに国を去り、周に行った。のち、周の武王が暴虐な天子紂王(ちゅうおう)を征伐したとき、臣が君を弑(しい)するのは人の道に反するといさめたが聞かれず、首陽山に隠れ、やがて餓死したと伝えられる。清廉な人間の代表とされる。」

とある。
 「足あらふ」は『楚辞』「漁父辞」に「滄浪之水濁兮、可以濯吾足。(滄浪の水濁らば以つて我が足を濯ふべし)」とある。
 首陽山に隠れた伯夷は漁父に諫められて、月の映る盗ミ井の水が濁ってたので足を洗い、世の流れに従おうと心に決め、餓死するのをやめて盗み食いをした。
 三十四句目はあるあるネタか。

   暁の寐言を母にさまされて
 つゐに発心ならず也けり     芭蕉
 (暁の寐言を母にさまされてつゐに発心ならず也けり)

 働くのが嫌でお寺に入ろうかななんて寝言を言っていると、母に「何言ってるの、早く起きなさい」と急き立てられ発心の夢は終わる。今だったらユーチューバーになりたいとか言うのかな。
 この年の暮の「詩あきんど」の巻は其角との両吟で、やはり天和調を代表する巻となる。
 其角の発句は、

   酒債尋常住処有
   人生七十古来稀
 詩あきんど年を貪ル酒債哉    其角

で、これに芭蕉が、

   詩あきんど年を貪ル酒債哉
 冬-湖日暮て駕馬鯉        芭蕉

の脇を付ける。
 発句の前書きの漢詩は杜甫の「曲江詩」

   曲江      杜甫
 朝囘日日典春衣 毎日江頭盡醉歸
 酒債尋常行處有 人生七十古來稀
 穿花蛺蝶深深見 點水蜻蜓款款飛
 傳語風光共流轉 暫時相賞莫相違

 朝廷を追われ春の着物を質屋に入れて送る日々
 毎日曲江の畔で酔っぱらって帰るだけだ
 行くところはどこも酒の付けがあって当たり前
 どうせ人生七十過ぎてまで生きることは稀だ
 花の間を舞うアゲハはこそこそしてるし
 水を求めるトンボはわが道を行くかのようだ
 伝えて言う、この眺望よ共に流れてゆく定めなら
 しばらくは違いに目をつぶりお互いを認め合おう

からの引用だ。「古稀」という言葉の語源と言われている。
 後半は比喩で陰謀術策をめぐらしている同僚や、周りに無関心な上司のことだろう。そして、どうせみんな最後は年老いて死んでくだけじゃないか、と語りかける。
 どうせいつかは死ぬんだから借金など気にせずに酒でも飲んで仲良くやろうじゃないか、そう言いながら「詩あきんど」つまり詩で生計を立てる者はうだうだ酒飲んでは時間を浪費し、付けが溜まってゆく。
 其角の発句は俳諧師という職業をやや自虐的にそう語っている。「年を貪ル」は今年一年を貪ってきたという意味で、歳暮の句となる。
 芭蕉野分の「駕馬鯉」は「うまにこひのする」と読む。
 「冬-湖」は前書きを受けて曲江のことであろう。一年を酒飲んで過ごした前句の詩あきんどは、曲江の湖の畔で釣りをして過ごし、鯉を馬に乗せて帰ると和す。
 鯉は龍になるとも言われる目出度い魚で、これを売って一年の酒債を返しなさいということか。
 まあ其角さんの場合、結局最後は鯉屋の旦那(杉風)が何とかしてくれるという楽屋落ちの意味があったのかもしれない。
 十七句目は前句からして楽屋落ちだが。

   芭蕉あるじの蝶丁見よ
 腐レたる俳諧犬もくらはずや   芭蕉
 (腐レたる俳諧犬もくらはずや芭蕉あるじの蝶丁見よ)

 前句の「蝶丁」を丁々発止の激論と取り成し、そこから論敵を激しく非難する言葉を導き出す。芭蕉の発言というよりは、逆に芭蕉がそう罵られたと自虐的に取る方がいいだろう。実際に貞門の重鎮なんかはそんなふうに思ってただろう。
 二十二句目はシモネタ。

   嘲リニ黄-金ハ鋳小紫
 黒鯛くろしおとく女が乳     芭蕉
 (嘲リニ黄-金ハ鋳小紫黒鯛くろしおとく女が乳)

 『連歌俳諧集 日本古典文学全集32』(一九七四、小学館)の注によれば、「おとく」はお多福のことだという。
 ネタとしては、いわゆる業界で言う「びーちくろいく」の類で、シモネタといっていいだろう。黒というのは使い込まれて汚れたというイメージがあるもので、遊びすぎるとあそこが黒くなるという種の猥談ネタはいつの世にもあるのだろう。
 黄金の小紫に黒鯛のお多福を対比させ、対句的に作る相対付けの句。
 二十六句目は空想趣味といえよう。

   鉄の弓取猛き世に出よ
 虎懐に妊るあかつき      芭蕉
 (鉄の弓取猛き世に出よ虎懐に妊るあかつき)

 摩耶夫人は六本の黄金の牙を持つ白いゾウが右わき腹に入る夢を見てお釈迦様を御懐妊したという。
 百合若大臣のような勇者誕生には、母親が虎が懐に入る夢を見たという逸話があってもいいではないか、というところか。
 二十八句目。

   山寒く四-睡の床をふくあらし
 うづみ火消て指の灯(ともしび) 芭蕉
 (山寒く四-睡の床をふくあらしうづみ火消て指の灯)

 「指の灯」は『連歌俳諧集 日本古典文学全集32』(一九七四、小学館)の注には、「掌(たなごころ)に油を入れ、指に燈心をつかねて火をともす仏教の苦行。」とある。
 芭蕉と同時代に了翁道覚という僧がいて、明から来た隠元和尚にも仕えた。
 ウィキペディアによれば、

 「寛文2年(1662年)にはついに「愛欲の源」であり学道の妨げであるとしてカミソリで自らの男根を断った(羅切)。梵網経の持戒を保ち、日課として十万八千仏の礼拝行を100日間続けた時のことであった。同年、その苦しみのため高泉性敦禅師にともなわれて有馬温泉(兵庫県神戸市)で療養している。摂津の勝尾寺では、左手の小指を砕き燃灯する燃指行を行い、観音菩薩に祈願している。

 翌寛文3年(1663年)には長谷寺(奈良県桜井市)、伊勢神宮(三重県伊勢市)、多賀大社(滋賀県多賀町)にも祈願している。さらに同年、了翁は京都清水寺に参籠中、「指灯」の難行を行った。それは、左手の指を砕いて油布で覆い、それを堂の格子に結びつけて火をつけ、右手には線香を持って般若心経21巻を読誦するという荒行であった。このとき了翁34歳、左手はこの荒行によって焼き切られてしまった。」

と、実際に「指の灯」を実践している。
 寛文11年(1671年)には上野寛永寺に勧学寮を建立し、この歌仙が巻かれた頃も寛永寺にいた。ウィキペディアによれば、

 「天和2年(1682年)には、天和の大火いわゆる「八百屋お七の火事」により、買い集めていた書籍14,000巻を失ったが、それでもなお被災者に青銅1,100余枚の私財を分け与え、棄て児数十名を養い、1,000両で薬店を再建し、1,200両で勧学寮を完工させ、台風で倒壊した日蓮宗の法恩寺を再建するなど自ら救済活動に奔走した。」

ということもあったようだ。奇しくもこの歌仙は天和の大火の直前に巻かれたものだった。
 天和という時期は、『俳諧次韻』の「世に有て」の風に一直線に進むのではなく、延宝の頃の芭蕉の奇抜な空想やリアルなあるある、時にはシモネタも交えた俳諧ならではの庶民の笑いとの調和を図る時代でもあった。
 古典の風雅の世界、それにリアルな現実、面白い空想、この調和はやがて芭蕉の『野ざらし紀行』から『奥の細道』に至る長い旅路の果てに「不易流行説」を生み出して行くことになった。

2021年10月13日水曜日

 今日は朝から雨。
 そういえば昔、いざや便出さん(山本七平)が全員一致の時は必ず何らかの圧力が働いていると言っていたが、ネット上でも多くの人が同じ意見を言っている時は組織の関与があると見ていい。
 前は一人でたくさんアカウントを作ってやってるいわゆるネトウヨがいたりもしたが、今のネットでは一人工作では数が追い付かない。一人工作ができる人を数多く組織しているところが勝つ。だから、筆者も2チャンネルを読むときも、できる限り一人しかいないような固有の意見を拾うようにしている。多数意見は組織の意見と考えて、読み飛ばした方が良い。
 ツイッターのトレンド入りも、政治的議題に関して言えば、まず組織的なものとして無視した方が良い。そんなもの振り回されている政治家は早いところ辞任した方が良い。岸田さんもそこが不安だ。
 ツイッターのトレンドを無視しても票は減らない。最初から左翼にしか投票しない連中だからだ。そこでぶれると保守票を失うことになる。安倍さんが驚異的な支持率を長く維持できたのは、ぶれなかったからだ。それでも最後は黒川前検事長をめぐる組織的なチートに屈して、それが辞任につながった。
 未だにあれほど大規模な組織的なツイットは見ない。まあ、あそこまでの露骨なやり方は何度もは使えないし、やれば足がつく。ただ、選挙が近いし警戒は必要だ。革命のためなら手段を選ばない連中がいる。
 とにかくまあ、ネット上の多数意見は組織の関与を疑うべし。

 さて、風流の方だが、『俳諧次韻』最後の「世に有て」の巻になると、かなり穏やかな展開になる。
 まず発句が、

 世に有て家立は秋の野中哉    才丸

で、「家立(やだち)」は『校本芭蕉全集 第三巻』の注には「家の建て具合」とある。
 これは市隠ということで、江戸の市中に住み、世俗にあっても心の中では本当の家は秋の野の中に建っている、という意味だろう。
 破調もなく、奇想もなく、隠士の志の高さを感じさせる句で、後の蕉風確立期の句の中に混じっても遜色がない。
 脇も、

   世に有て家立は秋の野中哉
 詠置月にかぶ萩を買       揚水
 (世に有て家立は秋の野中哉詠置月にかぶ萩を買)

で、月を眺めながら心を秋の野にするために、萩の株を買ってきて、庭に植えるか鉢植えにして、狭いながらも秋の野を思い浮かべる。
 前句の心に応じて、同意するように付けている。
 そして芭蕉の第三も、

   詠置月にかぶ萩を買
 哀とも茄子は菊にうら枯て    桃青
 (哀とも茄子は菊にうら枯て詠置月にかぶ萩を買)

 前句の「かぶ萩」を「蕪」と「萩」として、「蕪」に茄子を、「萩」に菊を付ける。
 季節を晩秋として茄子や菊が末枯れて、代わりに蕪と萩を植える。
 前の二巻が延宝の頃の奇想を極限にまで突き詰めた感じがするのに対し、この巻は全く違った調子で始まる。これこそ蕉風の確立と言っても良いのではないか。
 十九句目。

   米とぐ音の耳に露けき
 扨もかびて簀子折たく秋しもぞ  桃青
 (扨もかびて簀子折たく秋しもぞ米とぐ音の耳に露けき)

 「折(をり)たく」というと、

 思ひ出づる折りたく柴の夕煙
     むせぶもうれし忘れ形見に
              後鳥羽院(新古今集)

の歌が思い浮かぶ。
 黴の生えた簀子を薪にくべながら一人飯を炊くと、今は亡き人のことも思い出されるのだろう。
 このしみじみとした調子も、前の二巻の浮かれた調子と異なり、やはり後の蕉風に遜色がない。
 三十二句目の、

   俗のいふ鹿嶋の海の底なるや
 朝の日の東本地赤螺       桃青
 (俗のいふ鹿嶋の海の底なるや朝の日の東本地赤螺)

は、前句の「俗のいふ」を生かして、鹿島の海の底の仏教譚の俗説を付ける。 
 赤螺(あかにし)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

  「① アクキガイ科の巻き貝。殻高約一〇センチメートル。殻の口は大きく、内面は美しい赤色。本州・四国・九州沿岸の砂底にすみ、カキその他の二枚貝を食べるので養殖貝の害敵となることもある。殻は貝細工に、肉は食用にする。〔色葉字類抄(1177‐81)〕
  ② (①の蓋(ふた)を堅く閉じたさまが、金銀を握って放さない様子に似ているところから) けちな人をあざけっていう語。
  ※雑俳・柳多留‐一〇七(1829)「赤にしの客雨落でしゃれてゐる」

とある。結構大きな貝だ。
 鹿島灘は東の海なので、朝の日の昇る東の海に住む神を垂迹とし、その本地、つまり正体は赤螺(あかにし)だという。あくまで俗説だが、となる。
 三十五句目は貧家の吟で、

   ひそかひそかと雨蓑をもる
 月を葺夕芋の葉の片軒端     桃青
 (月を葺夕芋の葉の片軒端ひそかひそかと雨蓑をもる)

の「月を葺(ふく)」というのは、要するに屋根がないということ。
 名月に芋は付き物で、芋名月とも呼ばれているが、ここでは芋の葉しかないところも貧しさがにじみ出ている。
 夕べには雨が降り、びしょ濡れになる。
 趣向的には、天和二年刊千春編の『武蔵曲』に収録された、

   茅舎ノ感
 芭蕉野分して盥に雨を聞く夜哉  芭蕉

に通じるものがある。杜甫の『茅屋為秋風所破歌』の心に通じる。
 五十一句目の、

   木玉にかなで風を舞柳
 飛雨臺ノ跡ハ霞ニ空シキゾ    桃青
 (飛雨臺ノ跡ハ霞ニ空シキゾ木玉にかなで風を舞柳)

の句は、前の二巻のような注釈付けで、漢詩の注釈書を意識している。
 ただ、内容は前句の柳が風に舞い、風が柳を吹く音を木魂が奏でるという前句の心に、激しい雨が臺の跡を打ち付け、霞に空しくなる情景を付けている。単なる表記法の遊びに留まっていない。
 そして挙句。

   行くれて花に夜着かる芝筵
 狐は酔て酴醿に入ル       桃青
 (行くれて花に夜着かる芝筵狐は酔て酴醿に入ル)

 「酴醿」はここでは山吹と読む。賈至の「春思二首 其二」に、「金花臘酒解酴醿(金花の臘酒、酴醿を解く)」の詩句がある。
 単なる山吹ではなく山吹の酒に酔って山吹の黄金の世界に入って行くという、まさに貧しくても花に夜着を借りて芝の筵の上に横たわれば、俳諧の夢幻郷にいざなわれる、我々は世俗を化かすそんな狐たちだ、ということで一巻は目出度く終わる。

 『俳諧次韻』の刊行された延宝九年はその年のうちに天和に元号が変わり、翌天和二年春には「錦どる」の巻が巻かれ、同年刊千春編の『武蔵曲』に収録された。
 京から江戸に来た撰者の千春に、甲州谷村藩家老の麋塒(びじ)、それに深川芭蕉庵に居を移した桃青はここで初めて「芭蕉」の名で参加し、素堂、其角、嵐蘭といったこれからまさに蕉門をしょって立つメンバーに旧知の卜尺、似春、それに言水も参加している。
 発句は、

 錦どる都にうらん百つつじ    麋塒

で、それに千春が脇を付ける。

   錦どる都にうらん百つつじ
 壱 花ざくら 二番 山吹    千春
 (錦どる都にうらん百つつじ壱 花ざくら 二番 山吹)

 桃青の『俳諧次韻』で様々なテキストの遊びがなされていたことを受けて、ここでは目録か番付のような脇を付ける。
 ここで百韻を巻いて江戸の百のツツジを錦どる都に売りつけてやろうではないか、と気勢を上げる麋塒の発句に、花ざくらと山吹を加える。
 芭蕉は六句目に登場する。

   宵うつり盞の陣を退リける
 せんじ所の茶に月を汲      芭蕉
 (宵うつり盞の陣を退リけるせんじ所の茶に月を汲)

 『俳諧次韻』ではまだ「桃青」だったが、その前年延宝八年冬に桃青は日本橋小田原町の卜尺のもとを離れて深川に隠居し、春には李下から芭蕉一株を貰い、庭に植えた。その秋、『俳諧次韻』の興行を行い、翌春、この巻の興行になる。深川芭蕉庵(第一次)に住んで一年以上が経過していた。
 『武蔵曲』には前年の秋に詠んだ、

   茅舎ノ感
 芭蕉野分して盥に雨を聞夜哉   芭蕉

の句も掲載されている。世に桃青からより進化した「芭蕉」の名を広めるきっかけになった集だった。
 盃の陣を突破したら茶を飲む。まあ、酒に強くない芭蕉さんのことだから、さっさと宴席を抜けて、酔い覚ましにお茶の欲しいところだろう。
 せんじ所だから隠元禅師の持ち込んだ唐茶であろう。今の煎茶の原型となった飲み方だ。茶の水には月が写っている。
 十七句目は、

   捨杭の精かいどり立リ
 行脚坊卒塔婆を夢の草まくら   芭蕉
 (行脚坊卒塔婆を夢の草まくら捨杭の精かいどり立リ)

で、「捨杭の精」というわけのわからないものの登場を、いわゆる「夢落ち」にして逃げる。
 行脚の僧が卒塔婆の下で寝ていたら、捨杭の精が現れる夢を見た。
 二十六句目。

   秦の代は隣の町と戦ひし
 ねり物高く五歩に一樓      芭蕉
 (秦の代は隣の町と戦ひしねり物高く五歩に一樓)

 杜牧の『阿房宮賦』に、

 「五步一樓 十步一閣 廊腰縵回 檐牙高啄 各抱地勢 鉤心鬥角。」
 (五歩で一樓、十歩で一閣、回廊は緩く曲がり長い庇は嘴のようで、どんな地形でも建物の高さを競い合っている。)

とある。
 前句の「隣の町と戦ひし」から戦乱で物価が高騰し、一楼(料理屋)での練り物の価格が金五歩(小判一枚、一分判一枚)もする。あるいは「一樓」は「一両」に掛けたか。それだと小判二枚プラス一分判一枚になる。
 延宝七年秋の「須磨ぞ秋」の巻十八句目の、

   又や来る酒屋門前の物もらいひ
 南朝四百八十目米        桃青

と発想は同じ。
 五十六句目は、

   夢に入ル玉落の瀧雲の洞
 日を額にうつ富士の棟上ゲ    芭蕉
 (夢に入ル玉落の瀧雲の洞日を額にうつ富士の棟上ゲ)

と、前句を白糸の瀧や風穴とし、昇る朝日を門に掛ける額とし、富士山の棟上げ式が始まる。
 この辺りは談林時代の空想とそれほど変わらない。
 六十七句目は、

   月は筑地の古キにやどる
 遁世のよ所に妻子をのぞき見て  芭蕉
 (遁世のよ所に妻子をのぞき見て月は筑地の古キにやどる)

は、遁世したはずの男はこっそりと妻子の様子を覗きに来たが、崩れた塀の向こうにあるのは月だけだったという人情句になる。
 筑地(ついぢ)は泥土で作った塀で、古くなると崩れてたりして中が見える。
 九十句目も突飛な空想だ。

   肩を踏で短尺とりに立躁グ
 奥にての御遊隔塀恋       芭蕉
 (肩を踏で短尺とりに立躁グ奥にての御遊隔塀恋)

 「御遊(ぎょゆう)」は本来は宮中の遊びをいうが、ここでは江戸城大奥のことにする。
 「隔塀恋(へいをへだつるこひ)」という題なので、その題で歌を詠むかと思ったら、人の肩に乗って塀を乗り越えて短冊をゲットするというゲームになっている。
 「錦どる」の巻は「世に有て」の巻で見せた後の蕉風に通じる展開からすると、談林調に逆戻りしているという印象を受ける。他のメンバーに釣られてしまったか。

2021年10月12日火曜日

 今日は朝から曇りで気温は下がった。町田のダリア園を見に行った。ちょうど見頃でいろいろな種類のダリアが咲いていた。
 ダリアはキク科だということで、あさっては重陽、菊の節句。
 今年のノーベル経済学賞の三人の著書は日本では翻訳されていない。二〇一三年に翻訳されたヨシュア・アングリストさんの『「ほとんど無害」な計量経済学』は絶版になっていて法外な値段がついていた。
 計量経済学が今回のキーワードなのか。アベノミクスの金融緩和が何でインフレにつながらなかったか、こういう方法は何か役に立たないのかな。
 素人考えだが、経済は機械的に動くのではなく国民の期待で動いているから、国民の大多数がインフレを望まなければ、理論的にインフレが起こる状況であっても国民の方でそれを回避する行動をとる。
 最低賃金や移民の影響も、その国の国民の期待が反映されるのではないか。雇用が減っては困るという人が多ければ、国民の方でそれを回避する手立てをいろいろと講じる。それを計量化できれば、多分より正確な分析が可能になるのだろう。
 コロナ対策でも、単純にどこの街にどれくらいの人出があったかではなく、同じように人がたくさんいても、一人一人の感染対策の意識が高ければ、感染者を減らすことができる。同じ人数でもノーマスクで大声で叫んで抱き合う群衆と、マスクをして何とか距離を維持しながら努めて小声で話す群衆では、統計的に同じ人出があっても感染リスクは大きく異なる。
 あと、元禄七年夏の「世は旅に」の巻を鈴呂屋書庫にアップしたのでよろしく。

 それでは、「八人や」の巻を読み終わったところで、いよいよ『俳諧次韻』に進むとしよう。

 延宝九年は芭蕉にとって一つの節目の年になる。
 この年の一月に京でかつての盟友である信徳、春澄らが『七百五十韻』を出版した。七百五十というのが何とも半端な数で、あと二百五十句足せば千句になるというので、芭蕉、其角、揚水、才丸の四人で二百五十韻を追加し、秋には『俳諧次韻』として出版される。
 越人は後に『不猫蛇』の中で、

 「汝等は当流開基の次韻といふ、二百五十韻の集はしらぬか。信徳が七百五十韻までは、色々ありても古風なり。其次韻二百五十韻よりが当流ぞ。ここをしらで新古のわかちはしれぬぞ。」

と言っているように、この集が従来の談林の風から脱却し、芭蕉独自の風を確立した節目となっている。
 芭蕉の風体は何度も変化していて、その変化も少なからず連続性を持っているから、どこ時点が蕉風の確立かなんていうことは、一概に言えるものではない。
 たとえば「古池」の句が蕉風確立だと言っても、貞享三年春に『蛙合』や『春の日』が発表された時点なのか、それとも支考の言う天和の終わり頃のことなのかということになると、一概に確定できない。
 『蛙合』が蕉風確立ならば『野ざらし紀行』や『冬の日』は蕉風ではないのか、となるとやはりそれは違うだろう。
 天和の終わりだとすると、いわゆる天和調はまだ蕉風ではなかったということになる。この頃の、

 芭蕉野分して盥に雨を聞く夜かな 芭蕉
 枯枝に烏のとまりたるや秋の暮  同
 氷苦く偃鼠が喉をうるほせり   同
 艪の声波ヲ打って腸凍る夜や涙  同

などの句は蕉風には含まれないのかということになる。
 今日ではこれを天和調・虚栗調と呼んで、天和調から徐々に脱却する『野ざらし紀行』の旅の頃からが「蕉風確立期」と呼ばれている。
 『俳諧次韻』はその一つ前の段階で、談林調から天和調への節目になる。談林調が宗因によって作られた風だったのに対し、天和調が芭蕉が中心となって開いた新風だとすれば、やはり蕉風がここから始まったと言っても間違いではない。
 信徳等の『七百五十韻』は、それまでの『桃青三百韻 附両吟二百韻』や延宝七年の「送留別三吟百韻二巻興行」の延長線上にある。
 『七百五十韻』の最後の巻「八人や」の五十韻を見ると、七句目の月の定座で、

   青物使あけぼのの鴈
 久堅の中間男影出で       常之
 (久堅の中間男影出で青物使あけぼのの鴈)

と敢えて「月」という語を抜いて、中間=中元(七月十五日)の連想で、言葉の裏に「久堅の中元の月影出て」の句を込めている。
 十一句目の、

   悟たぶんの世にもすむかな
 花山や大名隠居いまぞかり    信徳
 (花山や大名隠居いまぞかり悟たぶんの世にもすむかな)

の「花山」は「花山法皇」のことだが花の山で隠居しているとも取れる。ただ、ここでは非正花で無季の扱いにしている。
 ただ、こういう式目上の面白さを別にするならば、鴈と野菜の鍋に月が出て、悟ったふりして世に居座る大名隠居だと、趣向そのものは従来の談林調の延長になる。
 二十句目の、

   娘手のべざいてん様えびす様
 徳屋あぐり八才         春澄
 (娘手のべざいてん様えびす様徳屋あぐり八才)

にしても「徳川大奥」では恐れ多いというので、中二文字を抜いて「徳屋(奥)」としている。綱吉の大奥に入ったと噂される大戸阿久里のネタだ。ただ、こうした伏字も既に芭蕉・杉風の両吟で、杉風がやっている。
 それなら『俳諧次韻』は何が新しいのか、それをこれから見ていくことにしよう。

 まず、「八人や」の五十韻の挙句に付けた、この句から始まる。

   又かさねての春もあるべく
 鷺の足雉脛長く継添て      桃青
 (鷺の足雉脛長く継添て又かさねての春もあるべく)

 これは五十韻の挙句に付けた五十一句目である。とはいえ、月花の定座の位置は通常の五十韻の形式に従い八句目までを初表とし、初裏、二表、二裏が十四句ずつになっていて、三の表裏、名残の表裏という形にはなっていない。発句のない変則的な五十韻になる。
 長い鷺の足にさらに雉のふくらはぎを継ぎ添えて、また重ねての春もあるべく、と付く。
 これに其角が「脇」として五十二句目を付ける。

   鷺の足雉脛長く継添て
 這_句以荘-子をもって可見矣   其角
 (鷺の足雉脛長く継添て這_句以荘-子をもって可見矣)

 前句に対し注釈のように付ける。「このくそうじをもってみつべし」と読む。
 『荘子』「駢拇編」の、

 「彼至正者不失其性命之情、故合者不爲駢、而枝者不爲跂、長者不爲有餘、短者不爲不足。是故鳧脛雖短、續之則憂、鶴脛雖長、斷之則悲。故性長非所斷、性短非所續、無所去憂也。」
 (かの本当の正しさをわかっている者は生まれながらに運命付けられたありのままの姿を見失うことがない。そのため、指がくっついて四本になっていても指が異常に少ないとは思わないし、指が六本あっても異常に多いとは思わない。長くても無駄と思わず、短くても足りないとは思わない。つまりは、鴨の足が短いからといって、これを継ぎ足せば困るだろうし、鶴の足が長いからといって、これを短く切ったら悲しい。つまり、もとから長いものは切るべきでないし、もとから短いものを継ぎ足す必要はなく、悩むようなことは何もない。)

 まあ、この注釈自体が余計なもので、鷺の足に雉脛を継ぎ足すようなものだという所で落ちになる。
 天和調というのは、漢文や古典などの素養のある人にしかわからないようなマニアックなものになっていったようなイメージもあるが、もしそうした高度な読者が相手なら、わざわざこんな解説を入れるまでもなく、言わずもがなだっただろう。
 むしろ天和調の性質というのが、この其角の付け句に表れているのかもしれない。むしろ、延宝期に飛躍的に発達した出版産業によって、それまでごく一部の上層階級のものだった古典が、庶民の手の届くところで読めるようになったという背景があって、そうした古典初心者に向けて発信されたのが天和調だったのではなかったかと思う。
 そして、元禄期になり、庶民が普通に古典に親しむようになると、こうした言わずもがなの出典よりもオリジナリティーを求める傾向が強くなり、「軽み」や「匂い付け」の風が生れたと考えたほうがいいのかもしれない。
 こうした漢詩調は芭蕉の現実感覚よりも、奇抜な空想能力がより生かされることになる。八十句目(三十句目)は、

   天帝に目安を書て聞へあげ
 桂を掘て星種を植        桃青
 (天帝に目安を書て聞へあげ桂を掘て星種を植)

そうした一つの例であろう。
 前句の「目安」は訴状のことで、この時代はまだ「目安箱」はない。目安箱の設置は、一七二一年、八代将軍吉宗の時代になる。
 中国の伝説では、月には高さ五百丈(約五百メートル)もの桂の木が生えているという。この桂の茂り具合によって月の満ち欠けが起るとされ、そこから月自体のことを桂と言うこともあった。
 その桂の木を掘ってしまえば、当然月はなくなる。そこに星の草を植える。月は無くなり星月夜となる。一体天帝にどんな訴えをしたのか。
 八十八句目(三十八句目)、

   向後にて行徳寺の晩鐘を
 枸杞に初音の魂鳥の魄      桃青
 (向後にて行徳寺の晩鐘を枸杞に初音の魂鳥の魄)

 これから後は行徳寺の晩鐘を聞きながら過ごすという前句に、枸杞(クコ)に鳴くホトトギスを聞くというだけだと、これまでの談林調であろう。そこに漢文学趣味で「魂鳥の魄」とする。
 クコの実はβカロチンやビタミンAが豊富に含まれている上、赤い色素であるベタインに強い疲労回復効果があるといわれている。そのため、古くから腎臓、肺などに良く、精力をつけ、老化を防ぐと言われてきた。
 そのため、クコは仙人の食べ物とされ、「地仙」「仙人杖」「西王母杖」「仙苗」などの別名がある。実だけでなく、芽や葉も食用とされた。
 お寺に枸杞の縁は、黄庭堅の「顯聖寺庭枸杞」によるものだろうか。

   顯聖寺庭枸杞
 仙苗壽日月 彿界承露雨
 誰爲萬年計 乞此一抔土
 扶疏上翠蓋 磊落綴丹乳
 去家尚不食 齣家何用許
 政恐落人間 采剝四時苦
 養成九節杖 持獻西王母

 仙人の苗は長い月日を寿命とするのだが、なぜか仏のいるところでも雨露を受けている。
 一体誰が一万年も生きてやろうとして、この一すくいの土を与えたのだろう。
 枝葉は茂り翠の傘をさし、わさわさと赤いおっぱいをつらならせる。
 家を出るものは枸杞を食べてあまりに精力をつけてはいけないというくらいで、ましてや出家するものにどうして食うことが許されよう。
 この木にとって恐いのは俗世に落ちて、芽も葉も実も皆食われて四季を通じて苦しめられることだ。
 ここで育てられればそんな憂いもなく仙人の持つ九節の杖となり、西王母に献じるようなものにもなるだろう。

 枸杞はお寺に植えれば、不老長寿の薬として食われることがなく、悠々と育つことができる。
 魂鳥はホトトギスの別名で、ホトトギスが夜鳴くことから、その声を冥界から響いてくるような、魂の叫びともいえる切なさを感じさせる。
 前句を行徳寺での隠棲とし、不老不死の枸杞の木に死者の魂の時鳥の声を聴く、とする。何やら生死に関する奥深いものを感じさせるが、別に何か説教しているのではなく、あくまでネタだ。
 九十一句目(四十一句目)は、

   雨をくねるか夏風がつま
 夕暮は息に烟を吐思ひ      桃青
 (夕暮は息に烟を吐思ひ雨をくねるか夏風がつま)

 和歌では煙はしばしば身も焦がれる思いの象徴として用いられる。

 靡かじな海人の藻塩火焚きそめて
    煙は空にくゆりわぶとも
              藤原定家(新古今集)
 風吹けば室の八島の夕煙
    こころの空に立ちにけるかな
              藤原惟成(新古今集)

など多数の歌がある。また、煙は哀傷歌にもしばしば詠まれる。
 かといって、煙の空に消えてでは連歌の趣向で俳諧にはならない。そこで口から煙を吐くとする、ってそれじゃタバコだ、と落ちになる。
 芭蕉の句ではないが、九十八句目(四十八句目)、

   脱置し小袖よ何と物いはぬ
 朝タ枕に。とどめ。をどろく   才丸
 (脱置し小袖よ何と物いはぬ朝タ枕に。とどめ。をどろく)

  『源氏物語』の「空蝉」か。空蝉の場合は小袿(こうちぎ)だが。
 光源氏も若い頃は闇雲にレイプを試みては失敗し、残された下着の匂いを嗅ぐ最低の男だった。
 「とどめ」は留伽羅(とめきゃら)のことらしい。
 文体は芝居の脚本か何かか。前句まえくを芝居のセリフとし、付け句をト書きとする。
 これは五十一句目(脇)の其角の注釈付けの延長と言えよう。

2021年10月11日月曜日

 今日も晴れてやや暑くなった。穏やかな一日だ。
 日本のコロナの第五波が収まったのは、ワクチン接種が進んだこととみんながきちんと自粛してくれたことが原因で、別に何一つ不思議なことではない。欧米やイスラエルはワクチン接種は進んだが、マスクを外して元の生活に戻してしまったから感染が拡大した。日本はワクチンと自粛を同時にやったから収まった。それだけのことだ。
 オリンピックでメダルを取る日本人も凄いし、ノーベル賞を取る日本人も凄いが、本当に凄いのは日本の平均的なごく普通の庶民のレベルの高さだと思う。みんな有難う。よく戦った。

 それでは「八人や」の巻の続き。挙句まで。

 二裏、三十七句目。

   ベウタレ青き苔の小筵
 相住の比丘尼道心軒ふりて    如風

 相住(あひずみ)は同居のこと。女性の一人住まいは危険が多いので、比丘尼は他の比丘尼と相住することが多かったのだろう。前句をその比丘尼の庵での食事とする。
 三十八句目。

   相住の比丘尼道心軒ふりて
 男悪みやさられたるなんど    仙菴

 「悪み」は「にくみ」。比丘尼の出家の原因は男運のなさのようだ。
 三十九句目。

   男悪みやさられたるなんど
 あだし恋気随意何れの時にか有けん 政定

 気随意(きずい)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「気随」の解説」に、

 「〘名〙 (形動) 自分の気持、気分のままにふるまうこと。また、そのさま。気まま。
  ※虎明本狂言・髭櫓(室町末‐近世初)「あまりきずいにあたった程に、ちとならはかひておじゃる」
  ※温泉宿(1929‐30)〈川端康成〉秋深き「気随に隣り村の自分の家へ帰ったり」

とある。
 実りのない恋で意のままになったためしがない。
 四十句目。

   あだし恋気随意何れの時にか有けん
 朝政手代まかせに        正長

 朝政は「アサマツリゴト」とルビがふってある。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「朝政」の解説」に、

 「[一] (「ちょうせい(朝政)」の訓読)
  ① 天皇が朝早くから正殿に出て、政務をとること。また、天皇が行なう政治。朝廷の政務。
  ※源氏(1001‐14頃)桐壺「朝に起きさせ給とても、〈略〉猶、あさまつりごとは、怠らせ給ひぬべかめり」
  ② 朝廷の官人たちが、朝早くから政務にあたること。
  ※今昔(1120頃か)二七「今は昔、官の司に朝庁(あさまつりごと)と云ふ事行ひけり」
  [二] (朝祭事) 朝、男女がまじわりをすること。
  ※咄本・鹿の子餠(1772)豆腐屋「まい朝早起して、夫婦名だいのもろかせぎ。しかるに起た時分、一朝もかかさずに朝(アサ)まつりごと」

とある。[二]の意味であろう。前句の「何れの時にか有けん」を受けて、あだし恋を朝から気随に情事に耽る。仕事は手代任せということか。
 手代はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「手代」の解説」に、

 「① 人の代理をすること。また、その人。てがわり。
  ※御堂関白記‐寛弘六年(1009)九月一一日「僧正奉仕御修善、手代僧進円不云案内」
  ※満済准后日記‐正長二年(1429)七月一九日「於仙洞理覚院尊順僧正五大尊合行法勤修云々。如意寺准后為二手代一参住云々」
  ② 江戸時代、郡代・代官に属し、その指揮をうけ、年貢徴収、普請、警察、裁判など民政一般をつかさどった小吏。同じ郡代・代官の下僚の手付(てつき)と職務内容は異ならないが、手付が幕臣であったのに対し、農民から採用された。
  ※随筆・折たく柴の記(1716頃)中「御代官所の手代などいふものの、私にせし所あるが故なるべし」
  ③ 江戸幕府の小吏。御蔵奉行、作事奉行、小普請奉行、林奉行、漆奉行、書替奉行、畳奉行、材木石奉行、闕所物奉行、川船改役、大坂破損奉行などに属し、雑役に従ったもの。
  ※御触書寛保集成‐一八・正徳三年(1713)七月「諸組与力、同心、手代等明き有之節」
  ④ 江戸時代、諸藩におかれた小吏。
  ※梅津政景日記‐慶長一七年(1612)七月二三日「其切手・てたいの書付、川井嘉兵へに有」
  ⑤ 商家で番頭と丁稚(でっち)との間に位する使用人。奉公して一〇年ぐらいでなった。
  ※浮世草子・好色一代男(1682)一「宇治の茶師の手代(テタイ)めきて、かかる見る目は違はじ」
  ⑥ 商業使用人の一つ。番頭とならんで、営業に関するある種類または特定の事項について代理権を有するもの。支配人と異なり営業全般について代理権は及ばない。現在では、ふつう部長、課長、出張所長などと呼ばれる。〔英和記簿法字類(1878)〕
  ⑦ 江戸時代、劇場の仕切場(しきりば)に詰め、帳元の指揮をうけ会計事務をつかさどったもの。〔劇場新話(1804‐09頃)〕」

とある。⑤か⑥であろう。
 この句と前句の間の上の所に「足」とある。お足は「手代まかせ」ということか。
 四十一句目。

   朝政手代まかせに
 はしたなく御格子明させ店はかせ 常之

 店は「タナ」で、手代に格子を開けさせ店を掃かせる。
 前句の「朝政」に天皇の政務というもう一つの意味があることから、商家の格子なのだけどあえて天皇の寝殿を意味する「御格子」とする。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「御格子」の解説」に、

 「① 格子、格子戸を尊んでいう語。
  ※大和(947‐957頃)一二五「みかうしあげさわぐに壬生忠岑御供にあり」
  ② (①を下ろして寝るところから) 天皇がおやすみになること。御寝。
  ※浄瑠璃・惟喬惟仁位諍(1681頃)二「其夜も更けゆきてみかうしならせ給ひければ諸卿残らず退出し」

とある。
 四十二句目。

   はしたなく御格子明させ店はかせ
 隣の神も凉みやらぬかと     如泉

 前句の「御格子」を神社の格子とする。神様も暑くて戸をあけっぱなしにする。
 四十三句目。

   隣の神も凉みやらぬかと
 肥肉の大黒殿や寐ぐるしき    信徳

 肥肉は「コエジジ」とルビがある。太った爺さんのこと。七福神の中でも恵比須、大黒、布袋は太っている。大黒様も暑くて寝られない。
 四十四句目。

   肥肉の大黒殿や寐ぐるしき
 いか程過し飯もりの山      如風

 どれほど山盛りの飯を食えばあんな太れるのか。
 四十五句目。

   いか程過し飯もりの山
 跡の峯早道人にこととはん    清澄

 前句の飯盛山は若狭と和歌山にある。若狭の方はウィキペディアに、

 「小浜市飯盛地区から見える山容が周辺の山塊がお椀に見え、飯盛山が緩やかな飯を盛った形であるためその山名がついたとの由来がある。
 山頂からの展望は西から青葉山、大島半島、小浜湾、久須夜ヶ岳、内外海半島、多田ヶ岳、頭巾山などが一望でき林道も山頂近くまで伸びており気軽に登れる。
 また、古来より若狭三山(青葉山、多田ヶ岳、飯盛山)の一つとして修験道が盛んに行われていた。」

とある。
 和歌山の方も葛城修験道の山でどちらも修験に関係がある。
 前句の「飯もりの山」を修験の山とし、後から峯入りする人が先に行った人に近道がないか聞く。
 四十六句目。

   跡の峯早道人にこととはん
 嵐に落る膓もちの鮎       政定

 秋に川を下る落ち鮎のことで、「膓(わた)もち」は正確には卵持ちのことだ。
 峯を下りた人が早く子持ち鮎を食べたいということか。
 四十七句目。

   嵐に落る膓もちの鮎
 石川やそへ小刀の月さびて    仙菴

 落ち鮎は体が赤くなるところから錆鮎とも言う。その姿が錆びた小刀のようでもあり、赤い三日月のようでもある。
 四十八句目。

   石川やそへ小刀の月さびて
 君が代久し文台の露       信徳

 石川と君が代は、

 君が代も我が世もつきじ石川や
     瀬見の小川の絶えじとおもへは
              源実朝(続古今集)

の歌の縁がある。
 石川の月も暗く、王朝時代も遠い昔になり、文台には涙がこぼれる。
 四十九句目。

   君が代久し文台の露
 挨拶を爰では仕たい花なれど   正長

 一巻の興行の終わりでここでお別れの挨拶をしたい花の定座ではあるけれど、王朝時代も遠い昔となった文台の露のようなこの俳諧に。
 五十韻一巻の終わりであるとともに、『俳諧七百五十韻』の締めくくりでもある。
 挙句。

   挨拶を爰では仕たい花なれど
 又かさねての春もあるべく    常之

 今はお別れだけど、また来る春もあるので、その時はまた会いましょう、ということで一巻および七百五十韻は目出度く終わる。
 まあ、これで終わらなかった。『俳諧七百五十韻』を読んだ芭蕉はこう続ける。
 五十一句目。

   又かさねての春もあるべく
 鷺の足雉脛長く継添て      桃青