2020年8月31日月曜日

 曇りがちで涼しくなった。
 日本でBlack Lives Matterが盛り上がらないのは、一つには人権派の人たちが日本人は加害者だということを強調するあまりに、ああいう警官が黒人を撃つ場面を見ても、自分は加害者なんだ、あの警官の方なんだという意識が刷り込まれていて、ついつい警官の方に同情してしまうのではないかと思う。
 被害者意識の安易さをあまりに糾弾するもんだから、被害者に同情できなくなってしまったのではないか。
 七十年代くらいまでは日本人はみんな戦争でひどい目にあった、俺たちは被害者だと思っていた。それが駄目だ、日本は加害者だというようになってから、反戦運動も急速に衰退したのではなかったか。
 ひどい目にあった上に、加害者としての罪まで背負わされる。いじめに関してもそれは言える。
 それでは「しほらしき」の巻の続き。

 初裏。
 九句目。

   雨に洲崎の嵒をうしなふ
 鳥居立松よりおくに火は遠く  觀生

 前句が洲崎の祇園宮だとしたら、鳥居の連想は自然の成り行き。海辺に鳥居が立っていても、宮島を別にすれば神社は波のかぶらない陸の奥の方にあることが多い。
 十句目。

   鳥居立松よりおくに火は遠く
 乞食おこして物くはせける   曾良

 神社ネタ二句続いちゃったから、曾良としてもここで神道家らしい薀蓄というわけにはいかず、神社で雨露しのぐ乞食を付ける。梵灯の『梵灯庵道の記』に「ただ蒲団を枕とし、衾を筵としてぞ、ふるき堂などには夜を明し侍し。」とあったのを思い出す。
 十一句目。

   乞食おこして物くはせける
 螓の行ては笠に落かへり    北枝

 螓は「なつぜみ」と読む。裏返しになって落ちている蝉は、死んでるのかと思って触るといきなり大きな鳴き声を上げてぶつかってきたりする。これを今日では蝉爆弾だとか蝉ファイナルだとか言う。
 乞食を起こそうとしたら落ちている蝉に触ってしまい、笠にぶつかってきたのだろう。
 十二句目。

   螓の行ては笠に落かへり
 茶をもむ頃やいとど夏の日   芭蕉

 「茶をもむ」というのは抹茶ではなく、唐茶とも呼ばれる隠元禅師がもたらした明風淹茶法で、『日本茶の歴史』(橋本素子、ニ〇一六、淡交社)には、

 「『唐茶』には、中国から伝えられた茶の意味があるものと見られ、元禄十年(一六九七)に刊行された宮崎安貞の『農業全書』に、その作り方が記されている。そこには、鍋で炒る作業と、茣蓙・筵などの上で揉む作業とを交互に行うとある。
 このように、隠元の茶については一次史料が残されてはおらず、はっきりとはわからないが、後世の展開状況からさかのぼって考えると、『鍋で炒る』と『揉む』行程を交互に行い製茶した『釜炒り茶』と同様のものではないかと見られる。」(p.143)

とある。
 唐茶は新しもの好きの俳諧師に好まれたのではないかと思われる。
 茶の収穫は八十八夜前後に限らず、夏を通して行われる。蝉の鳴くころでも別におかしくない。
 十三句目。

   茶をもむ頃やいとど夏の日
 ゆふ雨のすず懸乾にやどりけり 斧卜

 「ゆふ雨」は「ゆうだち」のこと。「すず懸(かけ)」は山伏の着る上衣で、夕立でびしょぬれになった山伏が製茶をしている小屋で雨宿りをして、篠懸を乾かす。
 十四句目。

   ゆふ雨のすず懸乾にやどりけり
 子をほめつつも難すこしいふ  北枝

 雨宿りして、そこの家の子どもを誉めてやるのだが、どうも一言多い人のようだ。
 十五句目。

   子をほめつつも難すこしいふ
 侍のおもふべきこそ命なり   皷蟾

 お侍さんは人の生死を預かる仕事なので、子供を育てるにも厳しく育てる。ただ、いきなり𠮟りつけるのではなく、最初は褒めてそのあとで欠点を指摘するというのは、今でも教育者が推奨すること。
 十六句目。

   侍のおもふべきこそ命なり
 そろ盤ならふ末の世となる   觀生

 「末の世」はweblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」に、

 「①将来。後世。
  出典枕草子 頭の中将の
  「いと悪(わろ)き名の、すゑのよまであらむこそ、口惜しかなれ」
  [訳] まことにひどいあだ名が後世まで残るとしたらそれは、残念である。
  ②晩年。
  出典源氏物語 藤裏葉
  「残り少なくなりゆくすゑのよに思ひ捨て給(たま)へるも」
  [訳] (命が)残り少なくなってゆく晩年にお見捨てなさるのも。
  ③末世(まつせ)。
  出典源氏物語 若紫
  「いとむつかしき日の本(もと)の、すゑのよに生まれ給ひつらむ」
  [訳] たいそうわずらわしい日本の、末世にお生まれになったのだろう。」

 前句の「命なり」を「命なりけり佐夜の中山」のような、年取ってまだ生きていたんだという意味の「命なり」とし、②の意味の晩年になって算盤を習うことになるとは、とする。
 元禄の頃にはさすがに戦国時代の生き残りはいなかっただろうけど、ここにいる連衆の子どものころぐらいなら、まだ戦国のいくさをかいくぐってきたつわものがいて、平和な時代で算盤の練習をしている姿もあったのかもしれない。

2020年8月30日日曜日

 クソリプというのもひょっとしたら役に立っているのかもしれない。
 ネット上からヒットラーのような独裁者が現れるのを防ぐには、何か受けのいいこと言って多くのフォロアーを集めてゆく段階で、芽を摘む必要もある。
 アンチな人間がどうでもいいようなことで反論したりして、炎上を繰り返せば、こうした野望をくじくこともできるかもしれない。
 とにかくネット上の言論は極力規制すべきではない。反論されることなしに何でも言える空間ができれば、それこそ独裁者になろうとするものにとっては願ったりだ。
 独裁者のいる国では当然ネット上に言論の自由はない。ただ押さえつけるだけではなく、むしろ国民の世論形成に積極的にネットを利用する。これによって、海外から来る情報を単にシャットアウトするだけではなく、こうした情報に不快感を催すように大衆を操作してゆく。こうした国に対して、よその国がいかにネット上で抗議活動を行ってもほとんど効果はない。
 工作員によるネットの操作を防ぐ意味でも、ネット上は常に様々なノイズに溢れてなくてはならない。
 それでは「しほらしき」の巻の続き。

 第三。

   露を見しりて影うつす月
 躍のおとさびしき秋の数ならん 北枝

 盆踊りも遠くで音だけ聞いていると寂しく聞こえる。
 四句目。

   躍のおとさびしき秋の数ならん
 葭のあみ戸をとはぬゆふぐれ  斧卜

 「葭(よし)のあみ戸」は葭を編んだ扉だから、多分葭戸(葭簀を張った扉)とはまた違うのだろう。草庵の扉で、世間は盆踊りで盛り上がっていても一人寂しく過ごす。
 五句目。

   葭のあみ戸をとはぬゆふぐれ
 しら雪やあしだながらもまだ深 塵生

 人が訪れないのを深い雪のせいだとする。
 六句目。

   しら雪やあしだながらもまだ深
 あらしに乗し烏一むれ     志格

 嵐の風でやってきた烏の黒い姿が一面の白雪に映える。
 七句目。

   あらしに乗し烏一むれ
 浪あらき磯にあげたる矢を拾  夕市

 磯に打ち上げられた矢を拾って巣でも作るのか。自分を狙ったかもしれない矢でも何でも利用する。
 八句目。

   浪あらき磯にあげたる矢を拾
 雨に洲崎の嵒をうしなふ    致益

 「嵒」は岩のこと。
 「洲崎の岩」は臼杵湾の洲崎岩ヶ鼻にあった祇園宮のことか。キリシタン大名の大友宗麟に弾圧され、場所を転々としていたが、慶長三年にようやく臼杵市の今の八坂神社の場所に落ち着いた。明治の神仏分離で名前が八坂神社になった。
 この場合の雨は矢の雨か。

2020年8月28日金曜日

 安部首相辞任ということで、一つの時代が終わるんだろうな。江戸中期の田沼時代のように、後の人は安部時代と呼ぶかも。田沼時代は天明の飢饉や浅間山の噴火のあともわずかに続いたが、安部時代はコロナによって終わった。アベノミクスのもとに作られた成長戦略が、コロナによって息の根を止められ、修正や変更を迫られているなら、政権交代は必要だろう。古い政策をいつまでも引きずっていてもしょうがない。
 ただ、安倍政権は他にいないからという理由で永らえてきたところがあるから、ポスト安部といっても、その「他」の人たちなわけで。誰がなってもそんな長くは続きそうもない。コロナの難問はそのままだし、誰かが画期的な解決策を持っているというわけでもない。
 官邸はもう長いことサイレントマジョリティーの声を聞くことができなくなっている。まあ、官邸に限らず、この声を聞くことができたなら、すぐにでも選挙で大躍進して総理の座も夢じゃないだろうけど。
 聞こえてくるのは選挙区の様々な団体の声、経済界の様々な業界の声、マスコミの捏造するせいぜい十五パーセントくらいの「国民の声」。そんなもので政治が動いていれば、誰がやっても迷走するに決まっている。
 ネット上も一握りのパヨクのプロパガンダと、それよりもはるかに少数でありながらアカウントをたくさん持っているネトウヨの書き込み、パヨクやネトウヨを装った海外の工作員が紛れているかもしれないし、さらにそれらと無関係な膨大な数のクソリプに埋め尽くされて、そこから本当の声を拾い上げるのは難しい。
 まあ、政治家にあまり期待しない方がいいんだろうな。
 それでは俳諧の方を。
 さて、七月二十三日に宮の腰に遊んだ芭蕉は、翌二十四日には金沢を離れ、小松に着く。そして翌二十五日、
 「廿五日 快晴。欲小松立、所衆聞テ以北枝留。立松寺へ移ル。多田八幡ヘ詣デテ、真(実)盛が甲冑・木曾願書ヲ拝。終テ山王神主藤井(村)伊豆宅へ行。有会。 終テ此ニ宿。申ノ刻ヨリ雨降リ、夕方止。夜中、折々降ル。」

 多太八幡宮を詣でたことは、『奥の細道』にも、

 「此所太田(ただ)の神社に詣。真盛が甲・錦の切あり。往昔(そのかみ)、源氏に属せし時、義朝公より給はらせ給とかや。げにも平士(ひらさぶらひ)のものにあらず。目庇(まびさし)より吹返しまで、菊から草のほりもの金(こがね)をちりばめ、竜頭(たつがしら)に鍬形打(くわがたうっ)たり。真盛討死の後、木曾義仲願状にそへて此社にこめられ侍るよし、樋口の次郎が使ひせし事共、まのあたり縁紀ぎみえたり。

 むざんやな甲の下のきりぎりす」

とある。
 このあと山王神主藤井(村)伊豆宅へ行き、「有会」とある。これは「有俳」と同じで、俳諧興行があったことを示す。それが、『奥の細道』だと前後逆になるが、

  「小松と云いふ所にて
 しほらしき名や小松吹ふく萩すすき」

を発句とした世吉(よよし:四十四句)興行だった。
 発句。

 しほらしき名や小松ふく萩芒  芭蕉

 この発句については面倒なので、昔書いた『奥の細道─道祖神の旅─』をコピペしておく。

 「しほらしき…」の句は小松での俳諧興行での句。小松という地名に掛けて小さな松を秋風が吹いているようでしおらしいと詠んだもの。「しほ(を)らし」は「しをる」から来た言葉で、花が萎れるように本来は悲しげなものだった。それが転じて、はかない、控えめな弱々しい美しさ表わす言葉となり、芭蕉は「さび」と並ぶ「しほり」を俳諧の一つの理想の体とした。「萩すすき」は「萩の上露、荻の下風」を思わせるもので、本来なら「しおらしき名の小松を吹く萩すすきの風」となるべきところを省略したものだ。初案は「萩すすき」ではなく「荻すすき」だった。この方が意味はわかりやすいが、萩の方が花がある。萩の露を散らし、すすきの葉を鳴らす秋風に吹かれる小さな松は、小町の面影か。

 この発句は、曾良の『俳諧書留』では「荻薄」とあることから、ここでは初案としていたが、寛政四年刊の『草のあるじ』所収の四十四句中三十七句の発句は「萩芒」となっている。興行の時既に萩芒だったとすれば、曾良の書き間違いの可能性もある。
 脇は山王神主藤井(村)伊豆(俳号皷蟾:こせん)が付ける。

   しほらしき名や小松ふく萩芒
 露を見しりて影うつす月    皷蟾

 萩といえば露なので、この興行の発句は「荻」ではなく「萩」だったのは間違いないだろう。影は光の意味もある。月の光で露がきらめいている様に、露のような私に芭蕉さんが光を照らしてくれる、という寓意を含ませている。

2020年8月27日木曜日

 今朝は急に雨が強く降ったかと思うとすぐに止んだ。
 コロナの第二波もとりあえずピークアウトし、重症者数もそろそろ頭打ちになっている。第一波の時と違って、PCR検査数が増えたせいか、感染者数の割には重症者数が少なかった。死者もこれからそれほど大きく増えることはないだろう。
 感染者数が急増したあたりから、夜の街や外食、旅行、パーティーなどの自粛ムードが広まり、それに加えて検査数の増加によって多くの無症状者をホテルや自宅に隔離できたのも功を奏したのではなかったかと思う。そうして減少傾向になったころ、ちょうどお盆休みも重なって産業が止まったことから、一気に収束に向かうことができた。
 第一波の時にもゴールデンウィークがあり、大型連休が味方してくれたが、秋に第三波が来た時には正月まで大型連休がないのがやや不安だ。
 お盆明けで生活が元に戻り、収束ムードから緩みが出てくると、すぐに第三波がやってくる。インフルとのダブルも心配だが、インフルではないただの風邪が発症の引き金にならないかという心配もある。小生も秋から冬への季節の変わり目には必ず扁桃腺が腫れる。ひょっとしたらその時みんなとお別れになるかも。思えばつまらない何もない人生だったなあ。女房には謝らないとなあ。
 まあ、賢明な日本国民のことだから、再び感染者数が増加に転じたら、それなりの自粛をしてくれるとは思うし、国が何もしなくても、さらに対策を緩めたとしても、国民の行動にそれほど影響はないと思う。大晦日になって死者が二千人を越えてなければ、とりあえず今年一年は勝利ということでいいのではないか。
 コロナ対策とインフル対策は被る所も多いので、案外インフルの死者も大きく減るような追加効果があるかもしれない。
 一番心配なのは気の緩みなので、多少は恐怖を煽る発言をして喝を入れる人がいなくてはならない。それを自由に言える雰囲気は残していかなくてはならない。
 麻雀に喩えるなら東場東二局の終了ということで、まだまだ長丁場だから頑張ろう。
 それでは俳諧の方だが、『校本芭蕉全集 第四巻』(小宮豐隆監修、宮本三郎校注、一九六四、角川書店)には、「残暑暫」の巻の次に「西濱にて」の表六句があるので、それを見てみよう。
 発句。

   西濱にて
 小鯛さす柳すずしや海士が妻   芭蕉

 季語が「すずし」で季節が夏に戻っている。そこから、この句は当座で詠んだのではなく、夏に作った発句を流用した可能性がある。夏に詠んだとすれば酒田あたりだろうか。
 小鯛を柳の枝の串に刺してあぶって食べたのだろう。西の浜では海に日が沈むころで、涼しい海風が吹いてくる。もっとも、「すずし」は発句の場合社交儀礼で、本当は夕凪で暑かったのかもしれないが。「残暑暫」の句も、『奥の細道』に収録するときには、

 秋涼し手毎にむけや瓜茄子    芭蕉

に直している。
 脇。

   小鯛さす柳すずしや海士が妻
 北にかたよる沖の夕立      名なし

 作者の名前が不明になっている。
 沖の夕立の雲も北の方へそれていい天気ですね、といったところだろうか。「かた」を潟に掛けているとすれば、象潟の吟である可能性もある。はるばるこんな北の象潟にまで寄ってくれて、という意味が込められているとすれば、六月十七日、曾良の『旅日記』に、

 「朝、小雨。昼ヨリ止テ日照。朝飯後、皇宮山蚶弥(満)寺へ行。道々眺望ス。帰テ所ノ祭渡ル。過テ、熊野権現ノ社へ行、躍等ヲ見ル。夕飯過テ、潟へ船ニテ出ル。加兵衛、茶・酒・菓子等持参ス。帰テ夜ニ入、今野又左衛門入来。象潟縁起等ノ絶タルヲ歎ク。翁諾ス。弥三郎低耳、十六日ニ跡ヨリ追来テ、所々ヘ随身ス 。」

とある、この加兵衛(俳号玉芳)の可能性もある。
 第三。

   北にかたよる沖の夕立
 三日月のまだ落つかぬ秋の来て  小春

 ここからが西浜での吟だろう。『校本芭蕉全集 第四巻』の宮本注には、『奥細道附禄』に金沢の西、宮の腰とする説があり、曾良の『旅日記』の、七月二十三日の、

 「廿三日 快晴。翁ハ雲口主ニテ宮ノ越ニ遊。予、病気故、不行。江戸へノ状認。鯉市・田平・川源等へ也。徹ヨリ薬請。以上六貼也。今宵、牧童・紅爾等願滞留。」

とあるこの日ではないかという。確かにこの表六句に曾良の名前はないし、発句以外は『俳諧書留』に書き留めてない。『奥細道附禄』所収の表六句の四句目に雲江とあるのは雲口の間違いと思われる。あとは北枝・牧童の兄弟が参加している。
 宮の腰は犀川の河口付近の金石(かないわ)海岸とされている。
 「三日月のまだ落つかぬ」は暑くて空気も秋らしい澄んだ空気ではないということだろう。北で夕立が鳴っているのだからまだまだ湿っぽい。
 四句目。

   三日月のまだ落つかぬ秋の来て
 いそげと菊の下葉摘ぬる     雲江

 これが雲口さんになる。どちらも「うんこう」と読める。
 ようやく秋の始まる文月三日頃から、長月九日の重陽へ向けて菊を育てる。
 五句目。

   いそげと菊の下葉摘ぬる
 ぬぎ置し羽織にのぼる草の露   北枝

 重陽の当日とし、正装の羽織をしばし脱いでは菊の最後の手入れをする。せっかくの羽織も草露にまみれてしまう。それほど菊が気になってしょうがない。
 六句目。

   ぬぎ置し羽織にのぼる草の露
 柱の四方をめぐる遠山      牧童

 挙句の体ではないので六句目とする。「柱の四方」は「四方の柱」のことで、相撲の土俵ではないかと思う。相撲を取るために羽織袴を脱ぐ。
 『奥細道附禄』はここで終わっている。続きがあったのかもしれない。なかったのかもしれない。わからない。

2020年8月25日火曜日

 今日は旧暦の七夕。ほぼ半月の月が出ていた。
 前に「人権の概念」の見直しということを言ったが、人権を批判する人に一応言っておきたいが、「人権思想」という一つの思想があるわけではない。近代の歴史の中でいろいろな思想家が人権について考えてきたが、そこには様々な思想家の思想はあっても、人権思想という一つの思想があるわけではない。人権はいろいろな人に様々に解釈されて今に至っている。
 だから今でもこの種の問題に一つの答えがあるわけではない。人権派と称する人に聞いても答えはばらばらだと思う。組織に属していて組織の理論しか知らない人は別として、普通に自分で何かを考えていれば、一つとして同じ思想はない。
 前にもどこかで書いたが、概念というのは生得的なものではなく、耳にしたり書物で目にした様々なその言葉の用例から、各自それぞれ自分の頭の中で構造化して理解しているだけだ。同じDaseinという概念でもカントとハイデッガーでは全く別物であるように、哲学用語というのも哲学者によって全く違う意味に用いられる。思想というのはそういうものだ。
 だから、あたかも「人権思想」なるものがあるかのように批判しても、大体は的外れになる。それは誰かの人権思想には当てはまるかもしれないが、別の人の人権思想には当てはまらなかったりする。
 人権思想を乗る越えるとすれば、特定の思想体系を批判するのではなく、根底となる古い非科学的な説を始末するところから始めた方がいいだろう。たとえば白紙説やサピア・ウォーフ仮説のような。人権思想を否定するのではなく、古い科学や古い形而上学的独断を捨て、今の科学と今の現実に乗せ換える作業の方が大事だ。
 霊肉二元論(精神と肉体の二元論)のようなものを今どき復活させて一体何になるというのか。それは西洋理性の覇権主義を復活させ、異民族の異文化やマイノリティーの様々な可能性を、結局肉体の多様性と精神の単一性に還元し、口では多様性と言いながら、単一の思想に服従させようというものだ。
 もちろん人はそれぞれみんな違うのだから、単一の思想は不可能。ただ、共産圏がそうだったように、単一の思想の持つ強力な権力をめぐって、暴力がはびこり、最終的には暴力が世界を支配する最悪の結果を生む。
 大事なのは理性もまた人間の多様な肉体の産物であり、理性も多様で唯一無二の思想などは存在しない。多様な思想を調和させる文化のみが要求されなくてはならない。
 多様なものは多様なままにしておくべきだ。それを一つにしようとすれば必ず熾烈な権力闘争が生じる。そして、飢餓と粛清で崩壊する。
 人権は理性や思想や文化習慣を含めた多様性として理解されるべきだというのは、別に新しい思想ではない。ただ、それがなかなか徹底されることがなかっただけだ。
 国家というのも人倫の最高の統一ではなく、多様性の一つの区切りにすぎない。一つの区切りとして尊重されるべきものだ。そしてその多様性を損なわない限りにおいて国家主権というものが存在しなくてはならない。
 まあ、堅苦しい話になってしまったが、この辺で俳諧の方へ戻ろう。
 「残暑暫」の巻の続き、挙句まで。

 十三句目。

   をのが立木にほし残る稲
 ふたつ屋はわりなき中と縁組て  一泉

 「わりなし」の良い意味と悪い意味があり、宮本注は良い方に解しているが、干し残した稲が残っている辺りは、そんなに仲が良さそうに思えない。たまたま家が隣だったために無理やりくっつけられてしまったのではないか。
 十四句目。

   ふたつ屋はわりなき中と縁組て
 さざめ聞ゆる國の境目      芭蕉

 ここで良い意味に転じたのではないかと思う。国境までその噂が聞こえるほどの仲の良い二人に取り成す。
 十五句目。

   さざめ聞ゆる國の境目
 糸かりて寐間に我ぬふ恋ごろも  北枝

 「恋衣」は「凉しさや」の巻の七句目にも出てきた。

   影に任する宵の油火
 不機嫌の心に重き恋衣      扇風

 この時も引用したが、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「① (常に心から離れない恋を、常に身を離れない衣に見立てた語) 恋。
  ※万葉(8C後)一二・三〇八八「恋衣(こひごろも)着奈良の山に鳴く鳥の間なく時なし吾が恋ふらくは」
  ② 恋する人の衣服。
  ※風雅(1346‐49頃)恋二・一〇六五「妹待つと山のしづくに立ちぬれてそぼちにけらし我がこひ衣〈土御門院〉」

とある。
 「不機嫌の」の句の時とは違い、「糸かりて」「ぬふ」と明確に衣服を縫う場面なので②の意味になる。
 国の境目で、他国へ駆け落ちするところか。もっともこの時代で「駆け落ち」というと別に恋とは限らず失踪することを意味していたが。
 十六句目。

   糸かりて寐間に我ぬふ恋ごろも
 あしたふむべき遠山の雲     雲口

 旅立つ恋人のために衣服を縫う場面とする。『伊勢物語』二十三段「筒井筒」の、

 風吹けば沖つ白波たつた山
     夜半にや君がひとり越ゆらむ

の心か。
 十七句目。

   あしたふむべき遠山の雲
 草の戸の花にもうつす野老にて  浪生

 野老(ところ)はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「ヤマノイモ科の蔓性(つるせい)の多年草。原野に自生。葉は心臓形で先がとがり、互生する。雌雄異株。夏、淡緑色の小花を穂状につける。根茎にひげ根が多く、これを老人のひげにたとえて野老(やろう)とよび、正月の飾りに用い長寿を祝う。根茎をあく抜きして食用にすることもある。おにどころ。《季 新年》「―うり声大原の里びたり/其角」

とある。『笈の小文』の伊勢菩提山神宮寺の荒れ果てた姿を見ての句に、

    菩提山
  此山のかなしさ告げよ野老掘(ところほり) 芭蕉

の句がある。
 野老には山で採れる田舎の素朴さと長寿のお目出度さの両面がある。
 この句の場合は正月飾りの野老に花の春を感じさせるとともに、草庵に住む老人のまた旅に出る姿とが重ね合わされている。
 芭蕉が後に『猿蓑』の「市中は」の巻で詠む、

   ゆがみて蓋のあはぬ半櫃
 草庵に暫く居ては打やぶり    芭蕉

に影響を与えていたかもしれない。
 挙句。

   草の戸の花にもうつす野老にて
 はたうつ事も知らで幾はる    曾良

 人徳のせいか近所の人がいろいろ援助してくれて、働かなくても生活できる修行僧なのだろう。それはまあ目出度いことだ。

2020年8月24日月曜日

 何となく少し涼しくなったかな。
 「残暑暫」の巻の続き。

 初裏。
 七句目。

   小桶の清水むすぶ明くれ
 七より生長しも姨のおん     雲口

 「ななつよりひととなりしもおばのおん」と読む「姨(おば)」は姨捨山のように単に老女の意味する場合もある。この場合も七つよりで生まれた時からではないから、何らかの事情で途中から老女に育てられたということだろう。水を汲んだり苦労して育ててくれたんだ、と人情句。
 八句目。

   七より生長しも姨のおん
 とり放やるにしの栗原      乙州

 「とり(鳥)放つ」は放生会の時だけでなく、葬式の時にも行われることがある。コトバンクの放鳥の意味として「精選版 日本国語大辞典の解説」には、

 「〘名〙 死者の供養のために、鳥を買って放すこと。また、その鳥。はなちどり。
  ※浮世草子・好色二代男(1684)八「三拾文はなし鳥(ドリ)三羽」

とある。
 自分を一人前に育ててくれた姨の葬儀に、放鳥を行う。
 栗は西の木と書くので、西の栗原というと何となく葬儀場っぽい。
 九句目。

   とり放やるにしの栗原
 読習ふ歌に道ある心地して    如柳

 読み習った歌というのはもしかして、

 心なき身にもあはれはしられけり
     鴫立つ沢の秋の夕暮
               西行法師

かな。飛び立ってゆく鴫が歌の道なら、放生会で飛び立ってゆく鳥にもその心は通じるのではないか。
 十句目。

   読習ふ歌に道ある心地して
 ともし消れば雲に出る月     北枝

 歌の心というと月花の心。灯りを消すと雲の間から月が出て明るく照らしてくれるなら、心ある月といえよう。
 十一句目。

   ともし消れば雲に出る月
 肌寒咳きしたる渡し守      曾良

 「はださむみしわぶきしたる」と読む。月が出たから船が出せると、それとなく咳をして誰かに知らせているのだろうか。
 十二句目。

   肌寒咳きしたる渡し守
 をのが立木にほし残る稲     流志

 「をの」は小野だろう。前句を普通に肌寒くて咳をしたとして、渡し場の景を付ける。

2020年8月23日日曜日

 さて、秋になり昨夜は北の空が雷鳴もなく光って見えた。夕立は夏、稲妻は秋ということで、稲妻や夜に現る雲の崖。
 夜中に雨が降ったらしい。今日は朝から曇り。昼前から雨になって午後には上がる。
 それでは秋の俳諧ということで、まだ旅気分を残しながら、芭蕉の『奥の細道』の旅の途中、金沢での半歌仙を見てみよう。曾良の『旅日記』七月二十日のところにこうある。

 「廿日 快晴。庵ニテ一泉饗。俳、一折有テ、夕方、野畑ニ遊。帰テ、夜食出テ散ズ。子ノ刻ニ成。」

 天気は良かったが残暑厳しい頃だ。一泉は金沢の人で犀川の畔に松玄庵を構えていたという。暑い中を一折、つまり初の懐紙の表裏のみを巻いた。半歌仙とはいえ、芭蕉を含め十三人、北枝、乙州等も参加したにぎやかな興行だった。夕方には野畑を散歩し、夜食を食べてから解散したが、子の刻というから真夜中だった。
 発句は、

   少幻菴にて
 残暑暫手毎にれうれ瓜茄子    芭蕉

 で、『奥の細道』では、

   ある草庵にいざなはれ
 秋涼し手毎にむけや瓜茄子    芭蕉

に改められている。
 十五日に芭蕉は加賀の一笑の死を聞かされる。一笑は元禄二年刊の『阿羅野』にその名が見られるが津島の一笑もいるため、紛らわしい。加賀と明示されている句は、

 元日は明すましたるかすみ哉   一笑
 いそがしや野分の空の夜這星   同
 火とぼして幾日になりぬ冬椿   同
 齋に来て庵一日の清水哉     同

の四句ある。元禄五年刊句空編の『北の山』には、亡人の句として、

 珍しき日よりにとをる枯野哉   一笑

の句が収められている。三十五歳(数えで三十六)でまだこれからというときに亡くなった一笑を惜しみ、折からの初盆に一笑の墓に参り、七月二十二日の追善会で、

 塚も動け我泣声は秋の風     芭蕉

の句を詠む。誇張なしの号泣だったのだろう。
 そういう事情でお盆という季節柄もあって、興行もまた追善興行にならざるを得なかった。
 瓜や茄子は故人へのお供え物で、精霊棚にみんなそれぞれ皮をむいて故人に供え、故人と一緒に食べましょうということだろう。キュウリやナスで馬を作るようになったのは多分もっと時代の下った後のことだろう。
 実際には送り火も過ぎて精霊棚はなかっただろう。それでも気持ちとして今日は故人とともにこの興行を行いましょうという意味だろう。
 「れうれ」は料理(れうり)を「料(れう)る」と動詞化した命令形で、名詞の動詞化は今日でも色々見られる。昔筆者が書いた『奥の細道─道祖神の旅─』には「メモれ、コピれ、テプれ」なんて書いたが、さすがに今となっては古い。八十年代のビートきよしのネタだったか。「みんなメモれ、コピれ」はスチャダラパーの『今夜はブギーバック』にもあるから、九十年代くらいまではよく用いられていた。さすがにカセットテープの時代は終わっていたか「テプれ」はないが。
 まだ残暑の厳しい折だが、みんな一笑さんに手毎に瓜茄子を剥いてあげましょう、というこの発句に、亭主の一泉さんはこう和す。

   残暑暫手毎にれうれ瓜茄子
 みじかさまたで秋の日の影    一泉

 秋の日はまだそんなに短くもなってなく、まだまだ残暑が厳しいというの表向きの意味だが、「みじかさまたで」には若くして世を去った一笑への追善が含まれている。秋の日の短くなるのを待たずに逝ってしまった故人の影が偲ばれます、というのがもう一つの意味になる。
 第三。

   みじかさまたで秋の日の影
 月よりも行野の末に馬次て    左任

 秋で前句に天象もあるから、ここは月を出すしかない。
 秋の日の影も短さを待たずに沈んでゆき、それと入れ替わるかのように月が登れば、自らの旅路も行野の末で馬を乗り換えることになる。
 四句目。

   月よりも行野の末に馬次て
 透間きびしき村の生垣      丿松

 「丿」は「べつ」と読む。右から左へ戻るという意味で、「丿乀(へつぽつ)」だと船が左右に揺れる様だという。丿松は『校本芭蕉全集 第四巻』(小宮豐隆監修、宮本三郎校注、一九六四、角川書店)の宮本注に、一笑の兄とある。
 馬を乗り次いで旅をしていると、やけに生垣の立派で厳めしい村に着く。これでは月が見えないのでは。
 五句目。

   透間きびしき村の生垣
 鍬鍛冶の門をならべて槌の音   竹意

 やけに生垣が立派だと思ったら、鍬鍛冶が何軒も軒を並べている。燕三条のように代官が政策的に鍛冶職人を集め、領民の副業として推奨していたのだろう。燕三条は釘鍛冶を集めたが、ここでは鍬鍛冶にしている。
 六句目。

   鍬鍛冶の門をならべて槌の音
 小桶の清水むすぶ明くれ     語子

 鍛冶屋がたくさんあれば、それだけ大量の水を消費する。