2020年6月30日火曜日

 今年の上半期が終る。年の初めはゴーンさんだったが、もうみんな忘れているのでは。そのあとはとにかくコロナに明け暮れた。
 コロナでとにかくたくさんの人の命が奪われていった。世界では五十万人を越え、日本でも千人に迫っている。
 報道では数字ばかりだが、亡くなった人の無念、残された人の悲しみははかりしれない。
 アマビエ巻九十九句目。

   蝶の羽にも時間よ戻れ
 疫病に涙も果てぬこの世界

 それでは「早苗舟」の巻の続き。さすがに「子は裸」の巻ではちょっとという所で「早苗舟」の巻と呼称することにした。

 五句目。

   与力町よりむかふ西かぜ
 竿竹に茶色の紬たぐりよせ     野坡

 紬(つむぎ)は紬糸で織った絹織物で、紬糸はウィキペディアに、

 「絹糸は繭の繊維を引き出して作られるが、生糸を引き出せない品質のくず繭をつぶして真綿にし、真綿より糸を紡ぎだしたものが紬糸である。 くず繭には、玉繭、穴あき繭、汚染繭が含まれ、玉繭とは、2頭以上の蚕が一つの繭を作ったものをいう。」

とある。
 江戸時代にはたびたび奢侈禁止令が出され、庶民が絹を着ることを禁じられていたが、裕福な商人は一見木綿に見える紬を好んで着たという説もある。
 紬の色としては目立たない茶や鼠が用いられた。
 句は表向きは西風で竿に掛けた紬が片方に寄ったというものだが、与力が岡っ引きを引き連れてやってくるというので、あわてて干してあった紬を取り込んだとも取れる。
 六句目。

   竿竹に茶色の紬たぐりよせ
 馬が離れてわめく人声       孤屋

 荷物を運ぶ馬であろう。繋いであった馬がいつの間に綱が解けて勝手に歩き出してしまったので、みんな抑えようと大騒ぎになる。
 どさくさに紛れて干してあった紬を失敬しようということか。
 七句目。

   馬が離れてわめく人声
 暮の月干葉の茹汁わるくさし    利牛

 「干葉(ひば)」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「1 枯れて乾燥した葉。
  2 ダイコンの茎や葉を干したもの。飯に炊き込んだり汁の実にしたりする。」

とある。
 「わるくさい」はweblio辞書の「三省堂 大辞林 第三版」に、

 「( 形 ) [文] ク わるくさ・し
  〔「わるぐさい」とも〕
  いやなにおいがする。 「近く寄つたら-・い匂が紛(ぷん)としさうな/平凡 四迷」

とある。
 前句を馬子の家でのこととし、馬子の位で貧しい干葉の汁物を付けたのであろう。
 干した大根の葉の匂いは嗅いだことないからよくわからないが、ネットで見ると干葉を入浴剤に使う人が結構いるようで、それによると大根の葉には硫化イオンが含まれているので硫黄の匂いがするという。
 暮の月で時刻は秋の夕暮れ時。
 八句目。

   暮の月干葉の茹汁わるくさし
 掃ば跡から檀ちる也        野坡

 臭みのある干葉の汁を食う人を隠遁者としたか。寒山拾得ではないが、庭を掃き清めていると、そこにまた檀(まゆみ)の葉が落ちてくる。
 香木の栴檀、白檀などの檀ではなく、ここではニシキギ科のマユミのことであろう。秋には紅葉する。

2020年6月29日月曜日

 今日は晴れた。旧暦五月九日で半月が見えた。久しぶりに月を見たような気がする。
 アマビエ巻九十八句目。ラスト3。

   過ぎてった楽しい春の思い出よ
 蝶の羽にも時間よ戻れ

 さて、連歌三巻終って久しぶりに俳諧でも読んでみようかな。
 今回選んでみたのは『芭蕉七部集』(中村俊定校注、一九六六、岩波文庫)から『炭俵』所収の利牛、野坡、孤屋による三吟百韻で、芭蕉は参加していない。
 発句。

 子は裸父はててれで早苗舟     利牛

 「ててれ」は「ててら」ともいう。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」には、

 「〘名〙 (「てでら」とも)
  ① 襦袢(じゅばん)。膝のあたりまでしかない着物。ててれ。
  ※咄本・醒睡笑(1628)五「夕顔の棚の下なるゆふすずみ男はててら妻はふたのして」
  ② 男の下帯。ふんどし。ててれ。〔書言字考節用集(1717)〕」

とある。
 この場合どちらなのかはわからない。中村注はふんどしとしている。
 襦袢の用例として引用されている歌は、久隅守景(くすみもりかげ)が『納涼図屏風』にしている。
 「早苗舟」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 田植の時、早苗を積んで、水田に浮かべておく手押しの小舟。田植舟。《季・夏》
  ※俳諧・炭俵(1694)上「子は裸父はててれで早苗舟〈利牛〉 岸のいばらの真っ白に咲く〈野坡〉」

とある。
 当時の田植えは一種の神事で、彭城百川(さかきひゃくせん)の『田植図』を見ると烏帽子をかぶって踊ってる人がいるし、鼓を打ち鳴らす人もいる。田植えをする人はちゃんと服を来て笠を被っている。柳の木の下には見物する老人がいるが、これは、

 田一枚植て立去る柳かな      芭蕉

の芭蕉さんか。
 そうなると、このばあいの「ててれ」は半襦袢の方か。
 脇。

   子は裸父はててれで早苗舟
 岸のいばらの真ッ白に咲      野坡

 イバラは花は綺麗だけど、棘があるから裸の子供は痛そうだ。綺麗なだけで収めない所が俳諧か。
 第三。

   岸のいばらの真ッ白に咲
 雨あがり珠数懸鳩の鳴出して    孤屋

 珠数懸鳩(ジュズカケバト)はドバトと同様外来種で、本来飼育されていたものが野生化したものだろう。ウィキペディアには、

 「全長25から30センチメートル。全体的に淡い灰褐色で後頸部に半月状の黒輪がある。風切羽は黒褐色、嘴は暗褐色。シラコバトによく似ているが、背や翼の褐色がシラコバトよりも薄い。白変種をギンバト(銀鳩)といい、全身白色で嘴と脚が紅色。」

とある。クックルルルルルーとドバトよりも澄んだ声で鳴く。
 四句目。

   雨あがり珠数懸鳩の鳴出して
 与力町よりむかふ西かぜ      利牛

 ウィキペディアによれば与力は町奉行の下で行政・司法・警察の任にあたり、八丁堀に三百坪程度の組屋敷が与えられていたという。与力の下には同心がいて、その下には岡っ引きがいる。
 ここでいう与力町は八丁堀にあった片与力町、中与力町のことだろう。
 雨が上がって与力町の方から西風が吹いてくる。八丁堀から西と言えば深川の方か。何やらどやどやと一緒になって岡っ引きまでやってきそうだが。

2020年6月28日日曜日

 昨日は鈴呂屋書庫の方に「兼載独吟俳諧百韻」をアップしたが、それに続いてと思って「守武独吟俳諧百韻」を読み返していたら、

   さだめ有るこそからすなりけれ
 みる度に我が思ふ人の色くろみ
   さのみに日になてらせたまひそ
 一筆や墨笠そへておくるらん

というのがあった。
 日本人に限らず黄色人種は日焼けするもので、白くも黒くもなる。
 こと女性に関しては一五四三年に種子島にポルトガル人がやってくる以前から、色の白いのを良しとされていた。まだ白人とも黒人とも接触する前のことだ。だから、白人に憧れてでもなければ黒人を差別してでもない。
 単純に考えれば、日焼けは外に出て仕事する人がするもので、それ自体が身分の低さの象徴でもあった可能性が高い。逆に色白の女性は良家の箱入り娘というふうに見られたのだろう。
 近代でも「色の白さは七難隠す」という諺がある。これももっぱら女性に関してのものだ。
 男の場合は色黒は賤しいが働き者というプラスの価値付けもあった。
 「黒面(こくめん)」は芭蕉の時代に誠実だとか律儀だとかいう意味で用いられていた。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」には、

 「〘形動〙 (「こくめい(克明)」の変化した語か) 実直なさま。律義(りちぎ)なさま。まじめ。
  ※浮世草子・宗祇諸国物語(1685)五「畑の細路を黒面(コクメン)にうつむきて、爰を大事と目をくばる」

とある。
 おそらく最初は「こくめい(克明)」と言っていたのが、誰かが間違えて「こくめん」と言うようになり、それが広がったものであろう。
 最近でも「定番(ていばん)」のことをいつの間にか「鉄板(てっぱん)」と言うようになっている。最初は言い間違いだったものの、鉄板のように固い定番ということで、定着したと思われる。
 「こくめん」もそういう意味で、働き者で顔が真っ黒に日焼けした人のように克明だということで広まったのではないかと思う。
 梅若菜の巻の三十二句目にも、

   咳聲の隣はちかき縁づたひ
 添へばそふほどこくめんな顔   園風

とある。
 また、色の黒さは旅人の象徴でもあったか。

 早苗にも我が色黒き日数哉    芭蕉

の句もある。これは能因法師が白川まで旅をしてきたように見せかけるため、わざと日焼けしたという伝説に基づくものだが、「我が色黒き」には本当に旅をしてきたという自負があり、そこには旅が公界の自由を象徴するという意味も含まれていたと思われる。
 戦後になり、西洋流のレジャーが入ってくると、今度は日焼けした肌がかっこいいということになる。これはレジャーを楽しむ余裕があるということで、むしろ裕福さを象徴するものになったからだ。日焼けサロンという日焼けベッドがたくさんあって人工的に日焼けする店も繁昌した。
 この時代は男でも日焼けしてないと「青白い」とか言われ、不健康のように言われた。
 ただ、やがて紫外線の害が言われるようになると、一転して日焼けを嫌うようになった。今日の日本の美白文化にはこうした歴史による変遷を伴うもので、別に白人が良くて黒人が悪いといった感情によるものではなかった。
 日焼けとは別に九十年代のギャルの間で「がんぐろ(顔黒)」とよばれる顔を黒く塗るメイクがはやったこともあった。
 日本語の白と黒に関しては「しろうと」「くろうと」と言うように、黒には熟練したという意味もあった。単純にアメリカの価値観で美白を批判したり言葉狩りを行うようなことはしないでほしい。
 アマビエ巻九十七句目。

   早咲き枝垂れ八重の花々
 過ぎてった楽しい春の思い出よ

 それでは「寛正七年心敬等何人百韻」の続き。

 名残裏。
 九十三句目。

   川音近し谷の夕暮
 滝浪につるるあらしの吹き落ちて  量阿

 滝浪は上から落ちる瀧ではなく、吉野宮滝のような急な渓流のことであろう。『万葉集』に、

 み吉野の瀧の白波知らねども
     語りし継げば古思ほゆ
              土理宣令

の歌がある。
 急流の上に強い風が吹き荒れてごうごうと恐ろしいほどの川音を響かせている。
 九十四句目。

   滝浪につるるあらしの吹き落ちて
 さわげど鴛ぞつがひはなれぬ    専順

 激しい波と風にも負けず、オシドリのつがいは離れようとしない。
 人間の場合は、

 瀬をはやみ岩にせかるる滝川の
     われても末に逢はむとぞ思ふ
              崇徳院(詞花集)

というところだが。
 九十五句目。

   さわげど鴛ぞつがひはなれぬ
 月なれや岩ほの床の夜の友     慶俊

 オシドリは夜行性で昼は木の上で休む。
 「岩ほの床の夜の友は月なれや」の倒置で、川べりの大きな岩の上で野宿をすると、川ではオシドリが騒いでいる。オシドリに伴侶がいるように、私にはあの月が友なのだろうか、となる。
 オシドリは漂鳥で秋になると西日本の河辺にやってくる。
 九十六句目。

   月なれや岩ほの床の夜の友
 露もはらはじ苔の小筵       行助

 岩ほの床を修行僧の宿坊とする。
 島津注は、

   大峯通り侍りける時、
   笙の岩屋といふ宿にて
   よみ侍りける
 宿りする岩屋の床の苔むしろ
     幾夜になりぬ寝こそ寝られね
             前大僧正覚忠(千載集)

の歌を引いている。
 九十七句目。

   露もはらはじ苔の小筵
 松高き陰の砌りは秋を経て     心敬

 「砌(みぎ)り」は多義で、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」には、

 「名〙 階下のいしだたみ。〔新撰字鏡(898‐901頃)〕
 〘名〙 (「水限(みぎり)」の意で、雨滴の落ちるきわ、また、そこを限るところからという)
 [一]
 ① 軒下などの雨滴を受けるために石や敷瓦を敷いた所。
 ※万葉(8C後)一三・三三二四「九月(ながつき)の 時雨の秋は 大殿の 砌(みぎり)しみみに 露負ひて」
 ② 転じて、庭。また、境界。
 ※千載(1187)序「ももしきの古き跡をば、紫の庭、玉の台、千とせ久しかるべきみきりと、みがきおきたまひ」
 ③ あることの行なわれ、または、あるものの存在する場所。その所。
 ※東寺百合文書‐い・康和元年(1099)閏九月一一日・明法博士中原範政勘文案「東寺是桓武天皇草創鎮護国家砌也」
 ④ あることの行なわれる、または存在する時。そのころ。
 ※百座法談(1110)三月二七日「このみきりも、定めて過去の四仏あらはれ給ふらむを」
 ※太平記(14C後)一一「法華読誦の砌(ミギリ)には」
 [二] 水辺。水ぎわ。
 ※性霊集‐九(1079)高野四至啓白文「見二砌中円月一、知二普賢之鏡智一」
 〘名〙 「みぎり(砌)」の変化した語。
 ※謡曲・金札(1384頃)「さても山城の国愛宕の郡に平の都を立て置きたまひ、国土安全のみぎんなり」

とある。元は「水を切る」「水を防ぐ」という意味だったのだろう。
 松の下にある石畳は年を経て苔に埋もれて、今では露で濡れるがままになっている。
 ここで「砌」の文字を出すことには別の意図があったのだろう。
 九十八句目。

   松高き陰の砌りは秋を経て
 ふりぬ言葉の玉の数々       宗怡

 宗怡と「宗」の付く名前の人だから、多分師匠の宗砌さんのことを思い起こしたのだろう。宗砌は十一年前の康正元年(一四五五)に世を去っている。行助や宗祇の師匠でもある。
 九十九句目。

   ふりぬ言葉の玉の数々
 神垣や絶えず手向の茂き世に    紹永

 神社の神垣には長年にわたって多くの人が幣を奉り、手向けの言葉を掛けてきた。ここでもこの連歌興行の「言葉の玉の数々」を東国へ下向する行助さんへの手向けとできれば幸いです、というところか。
 大勢の人数を集めたこの興行は、大きな神社での興行だったのだろう。
 古代の神社には今のような本殿・拝殿はなく、神垣によって囲われた神域が神社だった。神垣に手向けをするというのはその頃の名残の言い回しであろう。
 挙句。

   神垣や絶えず手向の茂き世に
 いのりし事のたれか諸人      英仲

 「誰か諸人のいのりし事の」の倒置。「かなはざる」が省略されていると思われる。
 そういうわけで東国への旅路のご無事をみんな祈ってますと、この送別連歌百韻は終了する。

2020年6月27日土曜日

 今日は曇り。
 東京の新たな感染者は五十七人で、感染経路のわからないのが三十六人。確実に上昇トレンドに入っている。
 アマビエ巻九十六句目。

   豊かさは自由があってこそのもの
 早咲き枝垂れ八重の花々

 それでは「寛正七年心敬等何人百韻」の続き。

 八十九句目。

   落つる涙にうかぶ手枕
 昔思ふ袖にかほれる梅の花     心敬

 「昔思ふ袖の香ほれる」は、

 五月待つ花橘の香をかげば
     昔の人の袖の香ぞする
            よみ人知らず(古今集)

で、この時代の連歌はそれほどマイナーな本歌を引いてくる必要はない。誰もが楽しめるように、誰もが知ってる歌を使うのが良しとされていたからだ。ただ、時代が下ると、それに飽き足らぬ作者がやたら難解な出典を好むようになり、連歌がオタク化してしまうことになる。
 島津注は、

 昔思ふさ夜のねざめの床さえて
     涙も氷る袖の上かな
            守覚法親王(新古今集)

を引くが、「袖」に「涙」を読んだ歌は無数にあり、それこそ付き物だ。
 花橘を梅の花に変えることで、『伊勢物語』の「月やあらぬ」の歌で有名な四段の、

 「またの年の正月に、梅の花盛りに、去年を恋ひて、行きて、立ちて見、ゐて見、見れど、去年に似るべくもあらず。うち泣きて、あばらなる板敷に、月の傾くまで伏せりて、去年を思ひ出でて詠める。」

の一節を思い起こさせる。
 こういう出典のわかりやすさへのこだわりも心敬さんならではのものだ。連歌はオタク文化ではなく、あくまでポップでなくてはならなかった。
 芭蕉の時代も其角などは難解な出典でオタク化の道を歩んだが、芭蕉はポップに留まろうとした。
 九十句目。

   昔思ふ袖にかほれる梅の花
 草の庵も春はわすれず       元用

 これも、「春はわすれず」とくれば、

 東風吹かばにほひおこせよ梅の花
     あるじなしとて春を忘るな
            菅原道真(拾遺和歌集)

で、島津注も引用している。「梅の花」との縁もあり、僻地に左遷され隠棲する隠士の句とする。
 九十一句目。

   草の庵も春はわすれず
 大原や山陰ふかし霞む日に     行助

 大原に隠棲となれば、『平家物語』の大原御幸であろう。
 「大原御幸」はコトバンクの「世界大百科事典 第2版の解説」に、

 「平曲の曲名。伝授物。灌頂巻(かんぢようのまき)5曲の中。後白河法皇は建礼門院の閑居訪問を思い立つ。4月下旬のことで,道には夏草が茂り,人跡絶えた山里である。山すその御堂は寂光院(じやつこういん)で,浮草が池に漂い,青葉隠れの遅桜が珍しく,山ホトトギスのひと声も,法皇を待ち顔に聞こえる。質素な女院の庵に声を掛けると,老尼が出迎え,女院は山へ花摘みに行かれたと告げる。尼は昔の阿波内侍(あわのないし)だった。」

 季節はややずれるが、本説を取る時に少し変えるのは普通のこと。古くはほとんどそのまんまでも良かったが、蕉門の俳諧では多少変えるのを良しとした。
 九十二句目。

   大原や山陰ふかし霞む日に
 川音近し谷の夕暮         宗祇

 ここは景色でさらっと流す。ただ、春の山川の霞む夕暮れは大原ではないが、

 見渡せば山もとかすむ水無瀬川
     夕べは秋となに思ひけむ
            後鳥羽院(新古今集)

による。
 後に『水無瀬三吟』を巻く宗祇さんだけに、やはり好きな歌だったのだろう。

2020年6月26日金曜日

 国内の新たな感染者が百人を超えた。まあ、検査体制に余裕が出来て、無症状の人も調べているというから、重篤化してもなかなか調べてもらえなかった頃とはたいぶ意味合いが違うとは言うが、それでも移動制限がなくなったからこのまままた全国に広がって行くかもしれない。
 国も自治体も金がないからと言って自粛要請をしないならば、とにかく自分の身は自分で守るしかない。外出は極力控え、人との接触も最低限に。みんな、生き残ろう。
 アマビエ巻九十五句目。

   頼むネットよ繋がってくれ
 豊かさは自由があってこそのもの

 それでは「寛正七年心敬等何人百韻」の続き。

 八十五句目。

   遠方人に千鳥立つ声
 誰かまつ妹があたりを尋ぬらん   専順

 島津注は、

 思ひかねいもがりゆけば冬の夜の
     川風さむみ千鳥なくなり
              紀貫之(拾遺集)

を引いている。
 ただここでは旅人(遠方人)と「誰かまつ妹(誰待つかの倒置)」という面識のない二人の出会いとなる。在原行平と松風・村雨の姉妹との出会いの場面も念頭にあるのか。
 八十六句目。

   誰かまつ妹があたりを尋ぬらん
 契りし頃よ更けはつる空      宗怡

 誰か待つ妹を訪ね、夜更けには契ることになる。
 八十七句目。

   契りし頃よ更けはつる空
 うたたねの夢を頼めば鐘なりて   士沅

 これは巫山の夢であろう。目覚めた時に夜明けの鐘がなる所で現実に引き戻される。
 八十八句目。

   うたたねの夢を頼めば鐘なりて
 落つる涙にうかぶ手枕       弘其

 夢に頼むというと、

 うたた寝に恋しき人を見てしより
     夢てふものは頼みそめてき
             小野小町(古今集)

 夢に出てきてくれると嬉しいけど、目覚めれば悲しい現実に引き戻される。
 「涙にうかぶ手枕」は島津注によれば『源氏物語』須磨巻の「なみだおつともおぼえぬに、まくらうくばかりになりにけり。(涙がこぼれたと思うか思わないかのうちに、枕が涙の海に浮かんでいるような心地にになりました。)」に拠るという。

2020年6月25日木曜日

 今日も朝から雨。午後には止んだが。
 重慶のほうはなんか水害で大変なことになっているようだね。三峡というと、

 巴東山峡巫峡長 猿鳴三声涙沾裳

という六朝時代の無名詩があったっけ。芭蕉の「猿を聞く人」の句に素堂は、「一等の悲しミをくはへて今猶三声のなみだたりぬ」と評してた。
 アマビエ巻九十四句目。

   終らない夢に選んだ新天地
 頼むネットよ繋がってくれ

 それでは「寛正七年心敬等何人百韻」の続き。

 名残表。
 七十九句目。

   ひとり枕にあかす夜な夜な
 虫の音や恨むる色をさそふらん   能通

 「ひとり枕」を別れた後とする。過去のことは忘れたと思っても、虫の音にいろいろ思い出すこともあるのか、過去の恨みを思い出す。
 八十句目。

   虫の音や恨むる色をさそふらん
 常より秋のつらき故郷       与阿

 恋から離れ、都を離れて帰郷した人とする。都会ではあまり聞けない虫の音も、故郷ではうるさいくらい聞こえ、都落ちした恨みを思い出す。今年の秋はいつもの秋よりも辛くなりそうだ。
 八十一句目。

   常より秋のつらき故郷
 陰寂し暴風の風のそなれ松     行助

 「暴風」は「のわき」と読む。「そなれ松」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「① 海の強い潮風のために枝や幹が低くなびき傾いて生えている松。いそなれまつ。そなれ。
  ※古今六帖(976‐987頃)六「風ふけば波こすいそのそなれまつ根にあらはれてなきぬべら也〈柿本人麻呂〉」
  ② 植物「はいびゃくしん(這柏槇)」の異名。」

とある。①の意味であろう。
 ここでは海辺の故郷となり、いつもの秋よりも辛いのは台風のせいだと

する。
 八十二句目。

   陰寂し暴風の風のそなれ松
 思はず月にきさ山の暮       量阿

 「きさ山」は吉野にある。「象山」という字を当てる。
 暴風の磯のそなれ松に、月の吉野の象山はいわゆる相対付けであろう。江戸時代の俳諧では「向え付け」という。
 きさ山は「月に来し」に掛けて「月にきさ山」で、大阪の高師浜の方から吉野にやってきたか。
 八十三句目。

   思はず月にきさ山の暮
 袖寒く渡る小川に雨晴れて     心敬

 吉野の青根ヶ峰から流れ出た水は象山の麓を通り、この川は古来象(きさ)の小川と呼ばれていた。今は喜佐谷川という名前になっている。宮滝で吉野川にそそぐ。
 前句の「思はず月に」を思いがけなく雨も晴れて月が見えるとする。「きさ山」に「小川」が付く。秋の夕暮れは袖も寒い。
 八十四句目。

   袖寒く渡る小川に雨晴れて
 遠方人に千鳥立つ声        慶俊

 海辺の景色に転じる。
 「遠方人(おちかたびと)」は遠くにいる人という意味だけでなく旅人という意味もある。

2020年6月24日水曜日

 晴れ間も見えたが、鬱陶しい季節が続く。
 アマビエ巻名残の裏に入る。九十三句目。

   中央道を西へと向かう
 終らない夢に選んだ新天地

 それでは「寛正七年心敬等何人百韻」の続き。

 七十五句目。

   うつるひかりの影をしめ只
 老い果てば無きが如くと思ふ身に  宗祇

 これより三十三年後になるが、『宗祇独吟何人百韻』の挙句に、

   雲風も見はてぬ夢と覚むる夜に
 わが影なれや更くる灯       宗祇

の句がある。文字通り老い果てた宗祇法師の句だが、灯の光の影に対して、人生をしみじみと振り返っている。
 自分の影と対すというのは李白の『月下独酌』の、

 舉杯邀明月 對影成三人

の句から来ていると思われる。ここでは月と自分と自分の影の三人ということになっている。
 前句の「をしめ」を「惜しめ」から「愛しめ」に取り成した句だということは島津注も指摘している。
 老い果てて、自分を知る人も世を去って、友もなく有るか無しか境遇になったなら、自分の影と対座してそれだけを頼りに過ごせということなのだろう。
 この句の着想はずっと宗祇法師の心に残ってたのだろうか。宗祇法師の遺訓とも言われる独吟百韻の最後もこの趣向で締めくくることとなる。
 七十六句目。

   老い果てば無きが如くと思ふ身に
 有りて命の何をまつらん      専順

 「命」は「いのち」と読むが「拠り所」の意味もある。「応仁二年冬心敬等何人百韻」四十九句目の、

   わすれぬ物を人や忘れん
 かはらじのその一筆を命にて    心敬

の用法だ。
 島津注は「命の有りて何をまつらん」の倒置と取るが、「有りて何の命をまつらん」の倒置とも取れる。これだと出世の欲を捨てるという意味になる。生きて一体何を当てにして待てというのか、となる。
 七十七句目。

   有りて命の何をまつらん
 ひまもなき心の程はしる袖に    紹永

 「ひまもなき心」は島津注にもあるとおり、

 秋の夜は月にこころのひまぞなき
     いづるをまつといるををしむと
            源頼綱朝臣(詞花集)

の用例がある。心の休まる時がない、悩ましくてしょうがない、という意味。
 悩ましくて他のことも手につかない今の心を知っている涙に濡れた袖に、一体何の拠り所を待てというのか、となる。
 七十八句目。

   ひまもなき心の程はしる袖に
 ひとり枕にあかす夜な夜な     慶俊

 ひとり枕で片思いとする。