朝の四時半でももう明るく日も長くなった。そして気温も上がる。
奇しくも五月終息説が本当みたいに見えてきた。別にウィルスが暑さに弱いとかではなく、欧米での爆発的感染が一段落するのと、日本の緊急事態宣言がそこそこの効果を得たのが時期的に一致し、何となく終息ムードが生じている。
五月の中頃にはゴールデンウィークの休日効果が出て、ますます終息ムードになるのかもしれないが、ゴールデンウィーク明けで生活が元に戻ると五月末には再び感染者が増加する可能性も大きい。
自治体や何かが随分気前よく補償金を出しているが、長期化したときに本当に持続的に払える金額なのかどうか心配になる。既に財源が足りなくて国から支給される十万円を当てにしている自治体もあるようだ。
国にしてもそうだが、過大な補償金の要求は、結局長期的には首を絞めることになる。
学校の九月入学なんて呑気なことを、いつまでも言ってられる状態ならいいが、そんなことよりもネット授業による学校の再編を急いだ方がいい。
大事なのはいつ今までの日常に戻るかではなく、日常を変えることだ。
ネクタイと紺のスーツの皺伸ばし
すぐに過ぎてくたまの休日
さて、卯月の俳諧は少ないというのは前に「杜若」の巻の時にも書いたが、その少ない中からまだ残っているものをということで、『奥の細道』の旅での須賀川での興行、「かくれ家や」の巻を読んでいこうと思う。
曾良の『旅日記』には、
「一 廿四日 主ノ田植。昼過ヨリ可伸庵ニテ会有。会席、そば切。祐碩賞之。雷雨、暮方止。」
とある。卯月の二十四日の可伸庵での興行だったのがわかる。
発句は、
かくれ家や目だたぬ花を軒の栗 芭蕉
で、この句は後に、
世の人の見付ぬ花や軒の栗 芭蕉
と改められ、『奥の細道』を飾ることになる。
曾良の『俳諧書留』には、詞書が付いている。
同所
桑門可伸のぬしは栗の木の下に庵をむすべり。
伝聞、行基菩薩の古、西に縁ある木成と、
杖にも柱にも用させ給ふとかや。
隠棲も心有さまに覚て、弥陀の誓もいとたのもし
隠家やめにたたぬ花をを軒の栗 翁
稀に螢のとまる露草 栗斎
切くづす山の井の井は有ふれて 等躬
畦ぢたひする石の棚はし 曾良
歌仙終略ス
連衆 等雲・深竿・素蘭以上七人
ここでは『校本芭蕉全集 第四巻』(小宮豐隆監修、宮本三郎校注、一九六四、角川書店)に収録されている等躬撰『伊達衣』(元禄十二年刊)のテキストを用いる。
まず、発句は曾良の書留に「めにたたぬ花を」と字余りになっているのが「目だたぬ花を」に直されている。
『奥の細道』の頃の芭蕉は古典回帰から、それまでの天和の破調の句を改め、五七五にきちんと収める句が多くなっているが、まだ時折破調の句もあった。
たとえばこの後小松で詠む、
むざんやな甲の下のきりぎりす 芭蕉
の句は最初は、
あなむざんやな甲かぶとの下のきりぎりす 芭蕉
だったという。『去来抄』「修行教」に、
「魯町曰、先師も基より不出風侍るにや。去来曰、奥羽行脚の前はまま有り。此行脚の内に工夫し給ふと見へたり。行脚の内にも、あなむざんやな甲の下のきりぎりすと云ふ句あり。後にあなの二字を捨られたり。是のみにあらず、異体の句どもはぶき捨給ふ多し。此年の冬はじめて、不易流行の教を説給へり。 (岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,64)
とある。
詞書も若干推敲されている。
桑門可伸は栗の木のもとに庵をむすべり。
傳へ聞、行基𦬇の古は、西に縁有木なりと、
杖にも柱にも用ひ給ひけるとかや。
幽栖心ある分野にて、弥陀の誓もいとたのもし
かくれ家や目だたぬ花をを軒の栗 芭蕉
「𦬇」はウィクショナリー日本語版に、
「(国字)「菩」・「薩」の二字を省画し、草冠部分を合字して一字にしたもの。」
とある。「分野」は「ありさま」と読む。
発句の意味はこの詞書でほぼ言い尽くされている。可伸庵には栗の木があり、その栗のいわれが行基菩薩が西に縁のある木(栗は西木と書く)として珍重したことに由来していると聞き、この隠れ家にはそんなに目立たない花が咲いている、それは軒の栗の花だ、というわけだ。
『奥の細道』の清書の時には「世の人の見付ぬ花や」と、世間では栗の花はそのように見られていないところを、尊いことだというふうにする。
世の人はというと、目立たないというよりはむしろ強烈な匂いを放ち、その匂いが男のアレに似ているというふうに受け止める向きが多い。椎名林檎のサードアルバムのタイトルも、この世俗的な認識で付けられている。
脇。
かくれ家や目だたぬ花を軒の栗
まれに蛍のとまる露草 栗斎
栗斎は可伸のこと。栗の庵に棲んでいるので栗斎とわかりやすい。
夏の思いがけない訪問客に「まれに蛍のとまる」と芭蕉を蛍に喩えている。
2020年4月30日木曜日
2020年4月29日水曜日
今日もいい天気だった。もちろん一日籠城じゃー。
「二週間後にニューヨークのようになる」という予想は外れたんじゃない。みんなの力で防いだんだ。同じように「四十万人死ぬ」というのも予言ではない。防がなくてはいけないんだ。
感染者の増加ペースは鈍っているが、死者の数は増えている。もう少し頑張ろう。
コロナに関しては西洋は必ずしも進んだ国ではなかったし、見習うべき国でもなかった。何でも西洋が正しいということではない。今までの日本のやり方はうまくいっている。誇りを持とう。
九月入学だって、九月にコロナが収まるなんて保証はないのに、便乗して議論する事ではない。ただJリーグは世界に合わせて九月開始でもいいのではないかと思う。選手の移籍交渉がしやすくなる。
文学でも西洋文学が必ずしも正しいわけではない。日本の俳諧にも、漫画やアニメやラノベの文化にも誇りを持とう、とこれは個人的見解。
暑さも蝉も止むことはなく
ネクタイと紺のスーツの皺伸ばし
それでは「鐵砲の」の巻の続き、挙句まで。
二裏。
三十一句目。
夕辺の月に菜食嗅出す
看經の嗽にまぎるる咳氣聲 里東
「看經(かんきん)」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、
「[名](スル)《「きん(経)」は唐音》
1 禅宗などで、声を出さないで経文を読むこと。⇔諷経(ふぎん)。
2 声を出して経文を読むこと。読経。」
というように黙読と音読の両方の意味がある。「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」には、
「かんきょう」とも読み,禅宗では「かんきん」と読む。経典を黙読すること。のちには,諷経 (ふぎん) ,読経 (どきょう) と同義となった。また経典を研究するために読む意味でも用いられる。」
とある。咳と風邪声が混ざって聞こえてくるのだから、この場合は読経であろう。
月の夕べに菜飯を食うのを風邪のせいとし、風邪引きの様子を付ける。
「風邪」だとはっきり言わずに匂わすのが匂い付け。
近代だと二十七句目の「から風」、二十九句目の「夜着」、三十一句目の「嗽」が冬の季語になるが、当時は「夜着」だけが冬で、三十句目の「菜飯」も冬として扱われていたのではないかと思う。
三十二句目。
看經の嗽にまぎるる咳氣聲
四十は老のうつくしき際 珍碩
昔は四十歳で初老と呼ばれ、隠居する時期だった。
戦後になって栄養状態がよくなり、平均寿命が一気に伸びたせいで、今は四十、五十は働き盛りとなったが、戦後間もない頃の漫画「サザエさん」では磯野波平が五十四歳の設定になっている。
三十三句目。
四十は老のうつくしき際
髪くせに枕の跡を寐直して 乙州
髪に寝癖をつけないように頭の位置を調整してまた寝なおす。隠居したばかりの初老の人がよくやることなのだろう。若い頃はすぐに髪を整えて出勤しなくてはいけないし、もっと歳だと寝癖にも頓着しなくなる。
三十四句目。
髪くせに枕の跡を寐直して
醉を細めにあけて吹るる 野徑
二日酔いの体とする。
三十五句目。
醉を細めにあけて吹るる
杉村の花は若葉に雨氣づき 怒誰
中村注にある通り、「杉村」は杉の木の群ら立つこと。
桜の頃は杉も花が咲き、今では花粉症の季節になるが、ここでは杉に囲まれた桜の花という意味だろう。
背の高い杉の若葉からは露が滴り落ちて、あたかも雨が降っているみたいだ。杉の茂りはさながら雨雲といったところか。
春の花の句なのか若葉の中に残る花の夏の句なのかは微妙な所だが、ここは春にしておいて良いか。
挙句。
杉村の花は若葉に雨氣づき
田の片隅に苗のとりさし 泥土
桜が咲いたら苗代の季節で、まだ田植えには早いが、試しにやや育った苗を植えてみたのだろう。
「二週間後にニューヨークのようになる」という予想は外れたんじゃない。みんなの力で防いだんだ。同じように「四十万人死ぬ」というのも予言ではない。防がなくてはいけないんだ。
感染者の増加ペースは鈍っているが、死者の数は増えている。もう少し頑張ろう。
コロナに関しては西洋は必ずしも進んだ国ではなかったし、見習うべき国でもなかった。何でも西洋が正しいということではない。今までの日本のやり方はうまくいっている。誇りを持とう。
九月入学だって、九月にコロナが収まるなんて保証はないのに、便乗して議論する事ではない。ただJリーグは世界に合わせて九月開始でもいいのではないかと思う。選手の移籍交渉がしやすくなる。
文学でも西洋文学が必ずしも正しいわけではない。日本の俳諧にも、漫画やアニメやラノベの文化にも誇りを持とう、とこれは個人的見解。
暑さも蝉も止むことはなく
ネクタイと紺のスーツの皺伸ばし
それでは「鐵砲の」の巻の続き、挙句まで。
二裏。
三十一句目。
夕辺の月に菜食嗅出す
看經の嗽にまぎるる咳氣聲 里東
「看經(かんきん)」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、
「[名](スル)《「きん(経)」は唐音》
1 禅宗などで、声を出さないで経文を読むこと。⇔諷経(ふぎん)。
2 声を出して経文を読むこと。読経。」
というように黙読と音読の両方の意味がある。「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」には、
「かんきょう」とも読み,禅宗では「かんきん」と読む。経典を黙読すること。のちには,諷経 (ふぎん) ,読経 (どきょう) と同義となった。また経典を研究するために読む意味でも用いられる。」
とある。咳と風邪声が混ざって聞こえてくるのだから、この場合は読経であろう。
月の夕べに菜飯を食うのを風邪のせいとし、風邪引きの様子を付ける。
「風邪」だとはっきり言わずに匂わすのが匂い付け。
近代だと二十七句目の「から風」、二十九句目の「夜着」、三十一句目の「嗽」が冬の季語になるが、当時は「夜着」だけが冬で、三十句目の「菜飯」も冬として扱われていたのではないかと思う。
三十二句目。
看經の嗽にまぎるる咳氣聲
四十は老のうつくしき際 珍碩
昔は四十歳で初老と呼ばれ、隠居する時期だった。
戦後になって栄養状態がよくなり、平均寿命が一気に伸びたせいで、今は四十、五十は働き盛りとなったが、戦後間もない頃の漫画「サザエさん」では磯野波平が五十四歳の設定になっている。
三十三句目。
四十は老のうつくしき際
髪くせに枕の跡を寐直して 乙州
髪に寝癖をつけないように頭の位置を調整してまた寝なおす。隠居したばかりの初老の人がよくやることなのだろう。若い頃はすぐに髪を整えて出勤しなくてはいけないし、もっと歳だと寝癖にも頓着しなくなる。
三十四句目。
髪くせに枕の跡を寐直して
醉を細めにあけて吹るる 野徑
二日酔いの体とする。
三十五句目。
醉を細めにあけて吹るる
杉村の花は若葉に雨氣づき 怒誰
中村注にある通り、「杉村」は杉の木の群ら立つこと。
桜の頃は杉も花が咲き、今では花粉症の季節になるが、ここでは杉に囲まれた桜の花という意味だろう。
背の高い杉の若葉からは露が滴り落ちて、あたかも雨が降っているみたいだ。杉の茂りはさながら雨雲といったところか。
春の花の句なのか若葉の中に残る花の夏の句なのかは微妙な所だが、ここは春にしておいて良いか。
挙句。
杉村の花は若葉に雨氣づき
田の片隅に苗のとりさし 泥土
桜が咲いたら苗代の季節で、まだ田植えには早いが、試しにやや育った苗を植えてみたのだろう。
2020年4月28日火曜日
ここのところ午後から雨になる事が多く、今日もパラパラと降ったが、夕方には止んで半月に近くなった月が見えた。
今日行ったコンビニはローソンではないが、ゴミ箱もトイレも封鎖されていて、入り口にはマットが敷かれて靴に着いた土を落とすように書いてあった。
ただ、前にも言ったが運転手にトイレがないのは厳しい。公園のトイレまでが閉鎖されたら、もうどうしようもない。大岡寺繩手だ。
いつのまに宵待草の月夜にて
暑さも蝉も止むことはなく
それでは「鐵砲の」の巻の続き。
二十五句目。
配所を見廻ふ供御の蛤
たそがれは船幽霊の泣やらん 珍碩
「船幽霊」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「〘名〙 磯や海上に出るという水死した人の亡霊。柄杓を貸せと要求するが、その底をぬいて貸さないと柄杓で水を掛けられて沈められるという。船亡霊。
※仮名草子・百物語評判(1686)四「海上の風荒く浪はげしき折からは、必ず波のうへに火の見え、又は人形などの現はれはべるをば、舟幽霊(フナイウレイ)と申しならはせり」
とある。引用されている『仮名草子・百物語評判』は貞享三年刊なので、この時代に近い。
恐ろしい怪異ではあるが、非業の死を遂げた霊で、人の心を持っていて、ちゃんとお供え物すれば成仏してくれる。前句の蛤をそのお供えとしたのだろう。
二十六句目。
たそがれは船幽霊の泣やらん
連も力も皆座頭なり 里東
船幽霊が泣いているのかと思ったら、琵琶法師の語りでみんなすすり泣いているだけだった。
二十七句目。
連も力も皆座頭なり
から風の大岡寺繩手吹透し 野徑
「太岡寺畷(だいこうじなわて)」は東海道の亀山宿と関宿の間にある鈴鹿川に沿った十八丁(約3.5キロ)にわたる土手の道で、風の通りも良い。
風の強い時は顔を上げられず、みんな目が見えないかのようだ。
二十八句目。
から風の大岡寺繩手吹透し
蟲のこはるに用叶へたき 乙州
「こはる」は「強(こは)る」という字を当てる。「こわばる」と同じ。コトバンクの「大辞林 第三版の解説」には、
「①かたくなる。こわばる。 「舌が-・つて呼吸いきが発奮はずむ/歌行灯 鏡花」 「 - ・りたる言葉は、振りに応ぜず/風姿花伝」
②腹が痛む。」
とある。
腹の虫のせいで腹がこわばって痛むので用を足したい。ただ見通しの良い縄手道では野グソというわけにもいかない。十八丁の道を我慢しなくては。
二十九句目。
蟲のこはるに用叶へたき
糊剛き夜着にちいさき御座敷て 泥土
夜着が今の布団と違い着て歩けるようになっているのは、そのまま厠に行けるからだ。
「ちいさき御座敷て」は背の低い人で、それが糊でカピカピになった夜着を着ていれば、まるで虫がこわばっているみたいだ。
月の定座だが、さすがに前句のシモネタで月は出せなかったか。
三十句目。
糊剛き夜着にちいさき御座敷て
夕辺の月に菜食嗅出す 怒誰
「菜食(なめし)」は青菜を焚き込んだご飯。
芭蕉が伊賀にいた頃の「野は雪に」の巻の六十八句目に、
焼物にいれて出せる香のもの
何の風情もなめし斗ぞ 宗房
の句がある。日常的な粗末な食事で、特に風情はない。
芭蕉が大阪で病床に臥して、丈草が、
うづくまる薬缶の下の寒さ哉 丈草
の句を詠んだ時、医者の木節は、
鬮(くじ)とりて菜飯たかする夜伽哉 木節
の句を詠んでいる。
前句の糊の利きすぎた夜着に小さな御座の人物を病人としたか、月の夕べも遊ぶでもなく菜飯を嗅ぐ。
今日行ったコンビニはローソンではないが、ゴミ箱もトイレも封鎖されていて、入り口にはマットが敷かれて靴に着いた土を落とすように書いてあった。
ただ、前にも言ったが運転手にトイレがないのは厳しい。公園のトイレまでが閉鎖されたら、もうどうしようもない。大岡寺繩手だ。
いつのまに宵待草の月夜にて
暑さも蝉も止むことはなく
それでは「鐵砲の」の巻の続き。
二十五句目。
配所を見廻ふ供御の蛤
たそがれは船幽霊の泣やらん 珍碩
「船幽霊」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「〘名〙 磯や海上に出るという水死した人の亡霊。柄杓を貸せと要求するが、その底をぬいて貸さないと柄杓で水を掛けられて沈められるという。船亡霊。
※仮名草子・百物語評判(1686)四「海上の風荒く浪はげしき折からは、必ず波のうへに火の見え、又は人形などの現はれはべるをば、舟幽霊(フナイウレイ)と申しならはせり」
とある。引用されている『仮名草子・百物語評判』は貞享三年刊なので、この時代に近い。
恐ろしい怪異ではあるが、非業の死を遂げた霊で、人の心を持っていて、ちゃんとお供え物すれば成仏してくれる。前句の蛤をそのお供えとしたのだろう。
二十六句目。
たそがれは船幽霊の泣やらん
連も力も皆座頭なり 里東
船幽霊が泣いているのかと思ったら、琵琶法師の語りでみんなすすり泣いているだけだった。
二十七句目。
連も力も皆座頭なり
から風の大岡寺繩手吹透し 野徑
「太岡寺畷(だいこうじなわて)」は東海道の亀山宿と関宿の間にある鈴鹿川に沿った十八丁(約3.5キロ)にわたる土手の道で、風の通りも良い。
風の強い時は顔を上げられず、みんな目が見えないかのようだ。
二十八句目。
から風の大岡寺繩手吹透し
蟲のこはるに用叶へたき 乙州
「こはる」は「強(こは)る」という字を当てる。「こわばる」と同じ。コトバンクの「大辞林 第三版の解説」には、
「①かたくなる。こわばる。 「舌が-・つて呼吸いきが発奮はずむ/歌行灯 鏡花」 「 - ・りたる言葉は、振りに応ぜず/風姿花伝」
②腹が痛む。」
とある。
腹の虫のせいで腹がこわばって痛むので用を足したい。ただ見通しの良い縄手道では野グソというわけにもいかない。十八丁の道を我慢しなくては。
二十九句目。
蟲のこはるに用叶へたき
糊剛き夜着にちいさき御座敷て 泥土
夜着が今の布団と違い着て歩けるようになっているのは、そのまま厠に行けるからだ。
「ちいさき御座敷て」は背の低い人で、それが糊でカピカピになった夜着を着ていれば、まるで虫がこわばっているみたいだ。
月の定座だが、さすがに前句のシモネタで月は出せなかったか。
三十句目。
糊剛き夜着にちいさき御座敷て
夕辺の月に菜食嗅出す 怒誰
「菜食(なめし)」は青菜を焚き込んだご飯。
芭蕉が伊賀にいた頃の「野は雪に」の巻の六十八句目に、
焼物にいれて出せる香のもの
何の風情もなめし斗ぞ 宗房
の句がある。日常的な粗末な食事で、特に風情はない。
芭蕉が大阪で病床に臥して、丈草が、
うづくまる薬缶の下の寒さ哉 丈草
の句を詠んだ時、医者の木節は、
鬮(くじ)とりて菜飯たかする夜伽哉 木節
の句を詠んでいる。
前句の糊の利きすぎた夜着に小さな御座の人物を病人としたか、月の夕べも遊ぶでもなく菜飯を嗅ぐ。
2020年4月27日月曜日
今日は午後から雨になった。
公園脇で休憩すれば
いつのまに宵待草の月夜にて
それでは「鐵砲の」の巻の続き。
二表。
十九句目。
煮しめの塩のからき早蕨
くる春に付ても都わすられず 里東
田舎の蕨の煮しめに都が恋しくなる。
二十句目。
くる春に付ても都わすられず
半氣違の坊主泣出す 珍碩
「氣違」はここでは鬱病のことか。世を疎んで出家し、山に籠ったものの、
山深き里や嵐におくるらん
慣れぬ住まひぞ寂しさも憂き 宗祇(水無瀬三吟十句目)
だったのだろう。
二十一句目。
半氣違の坊主泣出す
のみに行居酒の荒の一騒 乙州
この場合の「半氣違」は半狂乱ということか。坊さんが酒を飲むのは本来はいけないのだけど、実際はそう珍しくはなかったのだろう。ただ酒暴れた末に泣き出すのは困る。
二十二句目。
のみに行居酒の荒の一騒
古きばくちののこる鎌倉 野徑
「古きばくち」というのは双六のことだろうか。今のすごろくではなくバックギャモンのことをいう。博打に喧嘩は付き物。
二十三句目。
古きばくちののこる鎌倉
時々は百姓までも烏帽子にて 怒誰
室町時代までは男は皆烏帽子を被っていた。東京国立博物館蔵の「東北院職人歌合絵巻」の博徒は烏帽子だけ被った全裸の姿で描かれると前に「兼載独吟俳諧百韻」の時に書いたが、当時は裸よりも烏帽子のないことの方が恥ずかしかったとも言われる。
戦国時代になると烏帽子は次第に廃れ、あの茶筅のようなちょん髷を露わにするようになる。
二十四句目。
時々は百姓までも烏帽子にて
配所を見廻ふ供御の蛤 泥土
「配所」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、
「罪を得た人が流された土地。配流(はいる)の地。謫所(たくしょ)。」
とある。
「供御(くご)」はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、
「広く貴人,将軍の食膳をさすが,特に,天皇の御膳を意味する。日常は朝夕2回。古くは屯田 (みた) ,屯倉 (みやけ) などの皇室直轄領から調進させたが,令制では,畿内の官田から供御稲を得,宮内省所属の大炊 (おおい) 寮に収納し,内膳司に分配して調理のうえ御膳に供した。平安時代中期以降は官田が荘園化し,大炊寮の収入に頼り,戦国時代には,丹波国山国荘などの皇室領の年貢に頼った。供御を進献する農民や漁民は,商業上の特権などを与えられたので,御厨子所 (みずしどころ) 供御人の身分を望む者が多かった。近世では,朝,昼,夕の3食が普通となり,主食は櫃司 (ひづかさ) ,副食は御清所 (おきよどころ) が担当した。」
とある。
隠岐に配流された後鳥羽院などのイメージだろうか。蛤を供御に差し出す地元のお百姓さんも、院に失礼のないように烏帽子を被る。
公園脇で休憩すれば
いつのまに宵待草の月夜にて
それでは「鐵砲の」の巻の続き。
二表。
十九句目。
煮しめの塩のからき早蕨
くる春に付ても都わすられず 里東
田舎の蕨の煮しめに都が恋しくなる。
二十句目。
くる春に付ても都わすられず
半氣違の坊主泣出す 珍碩
「氣違」はここでは鬱病のことか。世を疎んで出家し、山に籠ったものの、
山深き里や嵐におくるらん
慣れぬ住まひぞ寂しさも憂き 宗祇(水無瀬三吟十句目)
だったのだろう。
二十一句目。
半氣違の坊主泣出す
のみに行居酒の荒の一騒 乙州
この場合の「半氣違」は半狂乱ということか。坊さんが酒を飲むのは本来はいけないのだけど、実際はそう珍しくはなかったのだろう。ただ酒暴れた末に泣き出すのは困る。
二十二句目。
のみに行居酒の荒の一騒
古きばくちののこる鎌倉 野徑
「古きばくち」というのは双六のことだろうか。今のすごろくではなくバックギャモンのことをいう。博打に喧嘩は付き物。
二十三句目。
古きばくちののこる鎌倉
時々は百姓までも烏帽子にて 怒誰
室町時代までは男は皆烏帽子を被っていた。東京国立博物館蔵の「東北院職人歌合絵巻」の博徒は烏帽子だけ被った全裸の姿で描かれると前に「兼載独吟俳諧百韻」の時に書いたが、当時は裸よりも烏帽子のないことの方が恥ずかしかったとも言われる。
戦国時代になると烏帽子は次第に廃れ、あの茶筅のようなちょん髷を露わにするようになる。
二十四句目。
時々は百姓までも烏帽子にて
配所を見廻ふ供御の蛤 泥土
「配所」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、
「罪を得た人が流された土地。配流(はいる)の地。謫所(たくしょ)。」
とある。
「供御(くご)」はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、
「広く貴人,将軍の食膳をさすが,特に,天皇の御膳を意味する。日常は朝夕2回。古くは屯田 (みた) ,屯倉 (みやけ) などの皇室直轄領から調進させたが,令制では,畿内の官田から供御稲を得,宮内省所属の大炊 (おおい) 寮に収納し,内膳司に分配して調理のうえ御膳に供した。平安時代中期以降は官田が荘園化し,大炊寮の収入に頼り,戦国時代には,丹波国山国荘などの皇室領の年貢に頼った。供御を進献する農民や漁民は,商業上の特権などを与えられたので,御厨子所 (みずしどころ) 供御人の身分を望む者が多かった。近世では,朝,昼,夕の3食が普通となり,主食は櫃司 (ひづかさ) ,副食は御清所 (おきよどころ) が担当した。」
とある。
隠岐に配流された後鳥羽院などのイメージだろうか。蛤を供御に差し出す地元のお百姓さんも、院に失礼のないように烏帽子を被る。
2020年4月26日日曜日
今日もいい天気だった。仕事が休みなので間違いなく一日家にいた。
早くから家に籠ってコロナと戦ってくれている人たちには頭が上がらないし、とにかく感謝したい。
一度沈静化できても、ウィルスは無症状だった人や回復した人の中でも生きているかもしれないから、これから何度も波状攻撃が来るかもしれない。油断せずに頑張ろう。
かのアルベール・カミュも言った。「我反抗す、故に我等あり」と。敵がたとえどんなに無敵のウィルスであっても、最後まであらがい続けよう。
まずはゴールデンウィークで何とかピークアウトを勝ち取ろう。
偶然と思えずもしやストーカー
公園脇で休憩すれば
それでは「鐵砲の」の巻の続き。
十三句目。
一里こぞり山の下苅
見知られて岩屋に足も留られず 泥土
山の岩屋でひそかに修行していたら、下刈りに来た村人がたくさん押し寄せて場所が知られてしまい、多分ちょうどいいから詰め所に使おうということになって、立ち寄ることもできなくなった。
十四句目。
見知られて岩屋に足も留られず
それ世は泪雨としぐれと 里東
多分、借金をしたか犯罪を犯したかで逃亡し、世捨て人になり、岩屋に潜んでいたのだろう。見つかってしまい、留まることもできず、さすらいの旅は続く。
悲しみの雨に、宗祇が宿りの時雨、どこへ行っても仮住まいで安住の地はない。
十五句目。
それ世は泪雨としぐれと
雪舟に乗越の遊女の寒さうに 野徑
「雪舟」は「そり(橇)」と読む。「越の遊女」は芭蕉の『奥の細道』の市振の遊女を髣髴させる。「山中三吟」にも、
霰降るひだりの山は菅の寺
遊女四五人田舎わたらひ 曾良
の句がある。
田舎渡りの遊女の悲哀はある種鉄板(定番)だったのかもしれない。
十六句目。
雪舟に乗越の遊女の寒さうに
壹歩につなぐ丁百の錢 乙州
コトバンクで「丁百の錢」を引くと「丁銭」とあり、「丁銭」を引くと「丁百」とある。「丁百」は「デジタル大辞泉の解説」に、
「江戸時代、銭96文を100文に通用させた慣行に対して、100文をそのまま100文として勘定すること。丁銭。調銭。→九六銭(くろくぜに)」
とある。「九六銭」は「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「〘名〙 江戸時代に、銭九六文を「さし」に通してまとめ、一〇〇文として通用させたもの。また、その計算法。中国の商習慣をうけいれたもので、九六という数字は、比較的多くの数で割り切れるので、取引上便利なために江戸時代には広く行なわれた。省百(せいひゃく)。くろく。
※増補田園類説(1842)下「寛永新銭の頃より、九六銭に成たると見えたり」
とある。
「壹歩(一歩)」は一分金(一歩判)と「一歩進む」に掛けたもので、遊女の一歩は、丁百をこつこつと貯めて行き、やがては一分金になるとする。一分金四枚で一両(小判一枚)になる。一歩は約千文なので、丁百の錢十本となる。
田舎わたらいの遊女は一歩稼ぐのも大変だったのだろう。
十七句目。
壹歩につなぐ丁百の錢
月花に庄屋をよつて高ぶらせ 珍碩
丁百は田舎の方で用いられることが多かったのか、田舎の庄屋を月花にかこつけて酔わせてご機嫌をとれば、一歩相当の銭でもぽんと気前よく出してくれる。
中村注には「よつて」を「寄ってたかって」の意味としている。「寄って」と「酔って」をかけているので、あえて平仮名で「よつて」としているのであろう。
十八句目。
月花に庄屋をよつて高ぶらせ
煮しめの塩のからき早蕨 怒誰
田舎の庄屋の月花の宴にふさわしい肴といえば、塩辛い早蕨の煮しめだったのだろう。
早くから家に籠ってコロナと戦ってくれている人たちには頭が上がらないし、とにかく感謝したい。
一度沈静化できても、ウィルスは無症状だった人や回復した人の中でも生きているかもしれないから、これから何度も波状攻撃が来るかもしれない。油断せずに頑張ろう。
かのアルベール・カミュも言った。「我反抗す、故に我等あり」と。敵がたとえどんなに無敵のウィルスであっても、最後まであらがい続けよう。
まずはゴールデンウィークで何とかピークアウトを勝ち取ろう。
偶然と思えずもしやストーカー
公園脇で休憩すれば
それでは「鐵砲の」の巻の続き。
十三句目。
一里こぞり山の下苅
見知られて岩屋に足も留られず 泥土
山の岩屋でひそかに修行していたら、下刈りに来た村人がたくさん押し寄せて場所が知られてしまい、多分ちょうどいいから詰め所に使おうということになって、立ち寄ることもできなくなった。
十四句目。
見知られて岩屋に足も留られず
それ世は泪雨としぐれと 里東
多分、借金をしたか犯罪を犯したかで逃亡し、世捨て人になり、岩屋に潜んでいたのだろう。見つかってしまい、留まることもできず、さすらいの旅は続く。
悲しみの雨に、宗祇が宿りの時雨、どこへ行っても仮住まいで安住の地はない。
十五句目。
それ世は泪雨としぐれと
雪舟に乗越の遊女の寒さうに 野徑
「雪舟」は「そり(橇)」と読む。「越の遊女」は芭蕉の『奥の細道』の市振の遊女を髣髴させる。「山中三吟」にも、
霰降るひだりの山は菅の寺
遊女四五人田舎わたらひ 曾良
の句がある。
田舎渡りの遊女の悲哀はある種鉄板(定番)だったのかもしれない。
十六句目。
雪舟に乗越の遊女の寒さうに
壹歩につなぐ丁百の錢 乙州
コトバンクで「丁百の錢」を引くと「丁銭」とあり、「丁銭」を引くと「丁百」とある。「丁百」は「デジタル大辞泉の解説」に、
「江戸時代、銭96文を100文に通用させた慣行に対して、100文をそのまま100文として勘定すること。丁銭。調銭。→九六銭(くろくぜに)」
とある。「九六銭」は「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「〘名〙 江戸時代に、銭九六文を「さし」に通してまとめ、一〇〇文として通用させたもの。また、その計算法。中国の商習慣をうけいれたもので、九六という数字は、比較的多くの数で割り切れるので、取引上便利なために江戸時代には広く行なわれた。省百(せいひゃく)。くろく。
※増補田園類説(1842)下「寛永新銭の頃より、九六銭に成たると見えたり」
とある。
「壹歩(一歩)」は一分金(一歩判)と「一歩進む」に掛けたもので、遊女の一歩は、丁百をこつこつと貯めて行き、やがては一分金になるとする。一分金四枚で一両(小判一枚)になる。一歩は約千文なので、丁百の錢十本となる。
田舎わたらいの遊女は一歩稼ぐのも大変だったのだろう。
十七句目。
壹歩につなぐ丁百の錢
月花に庄屋をよつて高ぶらせ 珍碩
丁百は田舎の方で用いられることが多かったのか、田舎の庄屋を月花にかこつけて酔わせてご機嫌をとれば、一歩相当の銭でもぽんと気前よく出してくれる。
中村注には「よつて」を「寄ってたかって」の意味としている。「寄って」と「酔って」をかけているので、あえて平仮名で「よつて」としているのであろう。
十八句目。
月花に庄屋をよつて高ぶらせ
煮しめの塩のからき早蕨 怒誰
田舎の庄屋の月花の宴にふさわしい肴といえば、塩辛い早蕨の煮しめだったのだろう。
2020年4月25日土曜日
今日はいい天気だったけど、どこも道はすいていて人も少なかった。これからゴールデンウィークに向けて外出を控えて、一気にピークアウトにもって行きたい所で、そういう意識を多くの人が共有できたのだとしたら心強い。
万博あとにまためぐり逢い
偶然と思えずもしやストーカー
それでは「鐵砲の」の巻の続き。
初裏。
七句目。
秋の夜番の物もうの聲
女郎花心細氣におけはれて 筆
中村注によると、「おけはれて」は「おそはれて」の間違いで「魘はれて」という字を当てる、悪夢に魘(うな)されるという意味だという。
「女郎花」は比喩で女郎(遊女)のことであろう。心配になった男が番小屋に駆け込んでくる。
八句目。
女郎花心細氣におけはれて
目の中おもく見遣がちなる 野徑
目も虚ろでどんよりとしていて、遠い目をしているということか。女郎さんの状態を付ける。
九句目。
目の中おもく見遣がちなる
けふも又川原咄しをよく覺え 里東
「川原咄し」は中村注に「芝居話」とある。四条河原で芝居が行われていたことからそう言うようだ。歌舞伎役者も身分的には河原乞食で非人だった。
ウィキペディアによると、
「近世初期には長吏頭・弾左衛門の支配下にあった。しかし歌舞伎関係者は自分たちの人気を背景に弾左衛門支配からの脱却をめざした。宝永5年(1708年)に弾左衛門との間で争われた訴訟をきっかけに、ついに「独立」をはたす。江戸歌舞伎を代表する市川團十郎家は、このことを記念する『勝扇子(かちおうぎ)』という書物を家宝として伝承していた。」
「しかし、歌舞伎役者は行政的には依然差別的に扱われた。彼らは天保の改革時には、差別的な理由で浅草猿若町に集住を命ぜられ、市中を歩く際には笠をかぶらなくてはならないなどといった規制も受けた。歌舞伎が法的に被差別の立場から解放されるのは、結局明治維新後のことだった。」
とある。
歌舞伎役者に夢中になっている女性は、うっとりとしたような遠い目をしている。
十句目。
けふも又川原咄しをよく覺え
顔のおかしき生つき也 泥土
「おかしき」は古代では良い意味で用いられるが、江戸時代では面白い、ちょっと変わったというニュアンスになる。
今で言う芸人の顔のような、ちょっと灰汁の強い感じなのではないかと思う。
芝居の話をしながら物真似を交えたりしていたのだろう。でも何かちょっと変で笑いを誘う。
十一句目。
顔のおかしき生つき也
馬に召神主殿をうらやみて 乙州
神田祭の行列を先導する騎馬神職のことだろうか。やはり顔が良いのが選ばれるのだろう。
十二句目。
馬に召神主殿をうらやみて
一里こぞり山の下苅 怒誰
「こぞり」は「諸人こぞりて」というクリスマスソングもあるように、集まるという意味。
「山の下苅」は夏になると林の下草が茂りすぎるので、刈ってすっきりさせることをいう。山の面積は広いので村人総出で行う。
祭の行列は神田祭、山王祭など夏に行われることが多く、その頃農民は山の下刈りに追われている。
万博あとにまためぐり逢い
偶然と思えずもしやストーカー
それでは「鐵砲の」の巻の続き。
初裏。
七句目。
秋の夜番の物もうの聲
女郎花心細氣におけはれて 筆
中村注によると、「おけはれて」は「おそはれて」の間違いで「魘はれて」という字を当てる、悪夢に魘(うな)されるという意味だという。
「女郎花」は比喩で女郎(遊女)のことであろう。心配になった男が番小屋に駆け込んでくる。
八句目。
女郎花心細氣におけはれて
目の中おもく見遣がちなる 野徑
目も虚ろでどんよりとしていて、遠い目をしているということか。女郎さんの状態を付ける。
九句目。
目の中おもく見遣がちなる
けふも又川原咄しをよく覺え 里東
「川原咄し」は中村注に「芝居話」とある。四条河原で芝居が行われていたことからそう言うようだ。歌舞伎役者も身分的には河原乞食で非人だった。
ウィキペディアによると、
「近世初期には長吏頭・弾左衛門の支配下にあった。しかし歌舞伎関係者は自分たちの人気を背景に弾左衛門支配からの脱却をめざした。宝永5年(1708年)に弾左衛門との間で争われた訴訟をきっかけに、ついに「独立」をはたす。江戸歌舞伎を代表する市川團十郎家は、このことを記念する『勝扇子(かちおうぎ)』という書物を家宝として伝承していた。」
「しかし、歌舞伎役者は行政的には依然差別的に扱われた。彼らは天保の改革時には、差別的な理由で浅草猿若町に集住を命ぜられ、市中を歩く際には笠をかぶらなくてはならないなどといった規制も受けた。歌舞伎が法的に被差別の立場から解放されるのは、結局明治維新後のことだった。」
とある。
歌舞伎役者に夢中になっている女性は、うっとりとしたような遠い目をしている。
十句目。
けふも又川原咄しをよく覺え
顔のおかしき生つき也 泥土
「おかしき」は古代では良い意味で用いられるが、江戸時代では面白い、ちょっと変わったというニュアンスになる。
今で言う芸人の顔のような、ちょっと灰汁の強い感じなのではないかと思う。
芝居の話をしながら物真似を交えたりしていたのだろう。でも何かちょっと変で笑いを誘う。
十一句目。
顔のおかしき生つき也
馬に召神主殿をうらやみて 乙州
神田祭の行列を先導する騎馬神職のことだろうか。やはり顔が良いのが選ばれるのだろう。
十二句目。
馬に召神主殿をうらやみて
一里こぞり山の下苅 怒誰
「こぞり」は「諸人こぞりて」というクリスマスソングもあるように、集まるという意味。
「山の下苅」は夏になると林の下草が茂りすぎるので、刈ってすっきりさせることをいう。山の面積は広いので村人総出で行う。
祭の行列は神田祭、山王祭など夏に行われることが多く、その頃農民は山の下刈りに追われている。
2020年4月24日金曜日
今日もいい天気で、車が渋滞した。何だか緊急事態宣言の前に戻ったような混み具合だった。
外出するなと言われても海辺や風光明媚な観光地に押しかけてしまうのは日本人だけではないらしい。もっと多くの死者が出ているところでもそうなら、止められないのかもしれない。
まあ、何年かしてコロナの猛威が去ったら、パリピ遺伝子は淘汰され、オタクや引き籠り遺伝子が支配的な世の中になるのかもしれない。
七十年過ぎてから言う好きだった
万博あとにまためぐり逢い
それでは「鐵砲の」の巻の続き。
四句目。
西風にますほの小貝拾はせて
なまぬる一つ餬ひかねたり 乙州
「なまぬる」は中村注には「微温湯」とある。「餬」は「かゆ(=粥)」という字だが、ここでは「もらひ」と読む。お粥を口に含ませるように、なまぬるを口に含むために貰おうとしたら貰えなかったということか。
ただ、何でぬるま湯を口に含もうとしたかよくわからない。「なまぬる」はここでは生ぬるいお粥のことではなかったか。小貝を拾って歩いているうちに、宿のお粥がなくなってしまったということか。
五句目。
なまぬる一つ餬ひかねたり
碁いさかひ二人しらける有明に 怒誰
昔は賭け碁をする人が多かったから、いろいろズルをする人もいて喧嘩になることも多かったのだろう。
賭け碁でなくても『源氏物語』で空蝉と軒端荻が碁を打つ場面があって、軒端荻が整地でごまかそうとして空蝉に阻止される場面がある。
碁をめぐってさんざん罵りあった後、夜も白む有明の頃には気分の方もすっかり白けてしまい、くーっと腹の虫が鳴く。そういやお粥食い損なっちゃったな、というところか。
六句目。
碁いさかひ二人しらける有明に
秋の夜番の物もうの聲 珍碩
「物もう」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、
「[感]《「物申す」の略》他家を訪問して案内を請うときにいう語。たのもう。ごめんください。
「―。案内まう」〈虎清狂・泣尼〉」
とある。
街の警護のための番小屋で夜番をしていた二人だが、閑なので囲碁を打っていたのだろう。いさかいになって罵り合っているところに「ものもう」と誰かがやってきて、急に我に帰る。
外出するなと言われても海辺や風光明媚な観光地に押しかけてしまうのは日本人だけではないらしい。もっと多くの死者が出ているところでもそうなら、止められないのかもしれない。
まあ、何年かしてコロナの猛威が去ったら、パリピ遺伝子は淘汰され、オタクや引き籠り遺伝子が支配的な世の中になるのかもしれない。
七十年過ぎてから言う好きだった
万博あとにまためぐり逢い
それでは「鐵砲の」の巻の続き。
四句目。
西風にますほの小貝拾はせて
なまぬる一つ餬ひかねたり 乙州
「なまぬる」は中村注には「微温湯」とある。「餬」は「かゆ(=粥)」という字だが、ここでは「もらひ」と読む。お粥を口に含ませるように、なまぬるを口に含むために貰おうとしたら貰えなかったということか。
ただ、何でぬるま湯を口に含もうとしたかよくわからない。「なまぬる」はここでは生ぬるいお粥のことではなかったか。小貝を拾って歩いているうちに、宿のお粥がなくなってしまったということか。
五句目。
なまぬる一つ餬ひかねたり
碁いさかひ二人しらける有明に 怒誰
昔は賭け碁をする人が多かったから、いろいろズルをする人もいて喧嘩になることも多かったのだろう。
賭け碁でなくても『源氏物語』で空蝉と軒端荻が碁を打つ場面があって、軒端荻が整地でごまかそうとして空蝉に阻止される場面がある。
碁をめぐってさんざん罵りあった後、夜も白む有明の頃には気分の方もすっかり白けてしまい、くーっと腹の虫が鳴く。そういやお粥食い損なっちゃったな、というところか。
六句目。
碁いさかひ二人しらける有明に
秋の夜番の物もうの聲 珍碩
「物もう」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、
「[感]《「物申す」の略》他家を訪問して案内を請うときにいう語。たのもう。ごめんください。
「―。案内まう」〈虎清狂・泣尼〉」
とある。
街の警護のための番小屋で夜番をしていた二人だが、閑なので囲碁を打っていたのだろう。いさかいになって罵り合っているところに「ものもう」と誰かがやってきて、急に我に帰る。
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