芭蕉脇集。
貞享四年の句は多い。今日はまだその一部。
旅に出るといろいろな出会いがあるため、脇を詠む機会も増えるのだろう。
貞享四年
南窓一片春と云題に
久かたやこなれこなれと初雲雀 去来
旅なる友をさそひ越す春 芭蕉
去来は貞享三年の『蛙合』にも参加しているが、ここでは歌仙興行の発句を務めることになる。其角、嵐雪という江戸の蕉門の主要メンバーを交えてのことで、さぞかし緊張の一句だったのではないかと思う。
「南窓一片春」の句の出典はよくわからない。「南窓」は陶淵明『帰去来辞』の「倚南窗以寄傲、審容膝之易安」によるものか。去来の名前も「帰-去来」だし。隠士の窓に小さな春が、ということか。
「久方や」は枕詞だが、九天の彼方からというような意味合いがあるし、九天の方が久方になったという説もある。ここでは「空高く」というような意味。
「こなれ」は今では「こなれ感」とかいって「こなれた」「習熟した」という意味で用いられる。ファッションでは着慣れないものを着ているような違和感がない、というような感覚で用いられる。
「なれ」は本来は輪郭を失うことで、そこで隔たりがなくなることをいう。
ただ、ここでの「こなれ」は違うように思える。これは「こ・成れ」で、「このようになれ」という意味ではないかと思う。天高く空を飛ぶ雲雀が「来てみろよ」と誘っているのではないかと思う。
だから芭蕉の脇も「旅なる友をさそひ」となる。
前句の天高く飛ぶ雲雀は言わずと知れた芭蕉の比喩だが、芭蕉は逆にして旅で江戸に来ている去来を雲雀とし、この私を旅に誘っている、と受ける。
旅泊に年を越てよしのの花にこころせん事を申す
時は秋吉野をこめし旅のつと 露沾
雁をともねに雲風の月 芭蕉
前書きの「旅泊に年を越てよしのの花にこころせん事」は『笈の小文』の旅を指す。春に去来に誘われたせいか、芭蕉も再び関西方面を旅し、吉野の桜を見ようと思い立つ。
発句はまだ旅立ちではないけど、ちょっと早い餞別句になっている。「旅のつと」の中には露沾の用意したものも多々あった。『笈の小文』の本分に、
「時は冬よしのをこめん旅のつと
此の句は露沾公より下し給はらせ侍りけるを、はなむけの初として、旧友、親疎、門人等、あるは詩歌文章をもて訪ひ、或は草鞋の料を包みて志を見す。かの三月の糧を集るに力を入れず、紙布・綿小などいふもの、帽子・したうづやうのもの、心々に送りつどひて、霜雪の寒苦をいとふに心なし。あるは小船をうかべ、別墅にまうけし草庵に酒肴携へ来りて、行衛を祝し、名残をおしみなどするこそ、故ある人の首途するにも似たりと、いと物めかしく覚えられけれ。」
とある。「別墅にまうけし草庵に酒肴携へ来りて、行衛を祝し」がこの歌仙の興行になる。
この発句に芭蕉は、「雁をともねに雲風の月」と自分の旅に思いをめぐらすに留める。
江戸桜心かよはんいくしぐれ 濁子
薩埵の霜にかへりみる月 芭蕉
これも『笈の小文』の濁子からの餞別句で、半歌仙の興行が行われている。
これから何度に時雨に打たれても、吉野の桜は江戸の桜にも通うんだという発句に、きっと薩埵峠を越えるときには江戸の方を振り返って月を見ると思うよ、と答える。
薩埵峠で振り返れば、もちろん月だけでなく富士山の姿を間近に見ることができる。
2019年10月31日木曜日
2019年10月30日水曜日
豚コレラが日本でもじわじわと入ってきている。
中国では一億頭以上の豚が死んだともいわれている。イスラム教徒は正しかったのかもしれない。
二〇三〇年にはひょっとしたらオリンピックと豚肉は消えているのかもしれない。これも世の移ろいか。
それはともかく芭蕉脇集の続き。貞享三年の脇は少ない。ただ、そこには単なる寓意を込めた挨拶のやり取りから抜け出そうという意欲が感じられる。
貞享三年
深川は菫さく野も野分哉 風瀑
はるのはたけに鴻のあしあと 芭蕉
貞享三年春、深川芭蕉庵での芭蕉、風瀑、一晶、琴蔵、虚洞による五吟一巡(五句のみ)興行の脇。
発句の「野分」は本当に強い風が吹いていたのか、それとも、
芭蕉野分して盥に雨を聞く夜かな 芭蕉
を基にして、世に吹き荒れる芭蕉旋風を野分に喩えたか。
「ばしょうのわき」を変換しようとしたら「芭蕉の脇」になったが、それも掛けているのかもしれない。
芭蕉の脇は菫咲く野を春のまで作物を植えてない畑とし、そこにはコウノトリの足跡が付いている。コウノトリと鶴はしばしば混同されていて、ここでは風瀑をコウノトリに喩えたか。
風瀑は伊勢の人で『野ざらし紀行』の旅で伊勢を訪れた時に、「松葉屋風瀑が伊勢に有けるを尋ね音信て、十日計足をとどむ。」とあるようにお世話になっている。
その時の芭蕉の伊勢参宮は野分のさ中だったのか、
みそか月なし千とせの杉を抱あらし 芭蕉
と詠んでいる。その時の思い出もあってのやり取りであろう。芭蕉は嵐を呼ぶ男なのか。
夕照
蜻蛉の壁を抱ゆる西日かな 沾荷
潮落かかる芦の穂のうへ 芭蕉
貞享三年秋に興行されたと思われる、芭蕉、露沾、沾荷、嵐雪による四吟三歌仙の脇。
発句の「蜻蛉」はここでは「とんぼう」と読む。蜻蛉にとんぼ、あきつ、かげろうの三つの読み方がある事は、古文の受験勉強の時に習った。
発句は、
真萩散る庭の秋風身にしみて
夕日の影ぞかべに消え行く
永福門院(風雅集)
を本歌としたものか。壁は比喩で、一面の草原を壁に見立てている。
沾荷の発句はトンボがその草原を抱え込むかのようにトンボが留まっているとする。夕照の美しい景色に、トンボの足の仕草がよく捉えられているが、本歌が今となっては忘れ去られてしまったため、意味のとりにくい発句となってしまったのが残念だ。
芭蕉はその壁を葦原とし、海辺の風景とする。これはトンボ=秋津から秋津島=豊葦原の瑞穂の国を連想したか。深川芭蕉庵での興行であれば、海も近い。
中国では一億頭以上の豚が死んだともいわれている。イスラム教徒は正しかったのかもしれない。
二〇三〇年にはひょっとしたらオリンピックと豚肉は消えているのかもしれない。これも世の移ろいか。
それはともかく芭蕉脇集の続き。貞享三年の脇は少ない。ただ、そこには単なる寓意を込めた挨拶のやり取りから抜け出そうという意欲が感じられる。
貞享三年
深川は菫さく野も野分哉 風瀑
はるのはたけに鴻のあしあと 芭蕉
貞享三年春、深川芭蕉庵での芭蕉、風瀑、一晶、琴蔵、虚洞による五吟一巡(五句のみ)興行の脇。
発句の「野分」は本当に強い風が吹いていたのか、それとも、
芭蕉野分して盥に雨を聞く夜かな 芭蕉
を基にして、世に吹き荒れる芭蕉旋風を野分に喩えたか。
「ばしょうのわき」を変換しようとしたら「芭蕉の脇」になったが、それも掛けているのかもしれない。
芭蕉の脇は菫咲く野を春のまで作物を植えてない畑とし、そこにはコウノトリの足跡が付いている。コウノトリと鶴はしばしば混同されていて、ここでは風瀑をコウノトリに喩えたか。
風瀑は伊勢の人で『野ざらし紀行』の旅で伊勢を訪れた時に、「松葉屋風瀑が伊勢に有けるを尋ね音信て、十日計足をとどむ。」とあるようにお世話になっている。
その時の芭蕉の伊勢参宮は野分のさ中だったのか、
みそか月なし千とせの杉を抱あらし 芭蕉
と詠んでいる。その時の思い出もあってのやり取りであろう。芭蕉は嵐を呼ぶ男なのか。
夕照
蜻蛉の壁を抱ゆる西日かな 沾荷
潮落かかる芦の穂のうへ 芭蕉
貞享三年秋に興行されたと思われる、芭蕉、露沾、沾荷、嵐雪による四吟三歌仙の脇。
発句の「蜻蛉」はここでは「とんぼう」と読む。蜻蛉にとんぼ、あきつ、かげろうの三つの読み方がある事は、古文の受験勉強の時に習った。
発句は、
真萩散る庭の秋風身にしみて
夕日の影ぞかべに消え行く
永福門院(風雅集)
を本歌としたものか。壁は比喩で、一面の草原を壁に見立てている。
沾荷の発句はトンボがその草原を抱え込むかのようにトンボが留まっているとする。夕照の美しい景色に、トンボの足の仕草がよく捉えられているが、本歌が今となっては忘れ去られてしまったため、意味のとりにくい発句となってしまったのが残念だ。
芭蕉はその壁を葦原とし、海辺の風景とする。これはトンボ=秋津から秋津島=豊葦原の瑞穂の国を連想したか。深川芭蕉庵での興行であれば、海も近い。
2019年10月28日月曜日
いつの間にか季節は変り冬になっていた。今日は旧暦十月一日。まだ気温は二十度を越えているが。
オリンピックのマラソンがいきなりIOCの決定で札幌に変更とかいっているが、こういうのを開催地に無断で決めていいことなのか、いろいろ問題は残るだろう。
アスリートの健康の問題は確かにわかる。夏の甲子園だって、あんな炎天下でやる必要があるかどうかは疑問だ。ただ、時期の変更ならわかるが、場所を変更するとなると、今後暑い地域でのスポーツの大会が困難になるのではないか。カタールもオリンピックを招致しようとしているが、カタールには札幌のような場所はない。今後オリンピックは涼しい限られた国だけで行われるようになるのか。
今やフランスだって四十五度の猛暑で、ヨーロッパ全体が暑くなっている。他のスポーツにも影響を与えれば、スポーツのできる国が限られてしまうのではないか。
一九六四年の東京オリンピックは十月にやったのに、何で今回は夏になってしまったのか、そのことも最初から引っかかっていた。
それでは芭蕉脇集。
貞享二年
われもさびよ梅よりおくの藪椿 雅良
ちやの湯に残る雪のひよ鳥 芭蕉
『野ざらし紀行』の旅の途中、伊賀で年を越し二月まで滞在した時の句。
藪椿は自生する椿のこと。梅の華やかさに較べて、濃緑の葉の中に埋もれるように咲く椿は地味だ。私もこんな風に静かに暮らしたいという発句に、静かに茶の湯を立てながら、灰色の地味なヒヨドリを雪の上に見る、と返す。
「われもさびよ」に同意し、寂びた景色を添える。季語は「残る雪」で春になる。ヒヨドリだけだと秋。
椿は茶の湯の席で茶花として用いられることが多く、茶の木自体もツバキ科ツバキ属で椿の仲間でもある。椿に近いものでサザンカがあるが山の茶花と書く。椿は茶の湯に縁がある。
我桜鮎サク枇杷の広葉哉 秋風
筧に動く山藤の花 桃青
同じく『野ざらし紀行』の旅の途中、京の三井秋風の別墅、花林園を尋ねた時の句。
発句の意味はわかりにくいが、桜はまだ咲いてないが、枇杷の広葉のような鮎の開きの一夜干を桜に見立てて、今日の宴を始めましょうということか。
それに対し、芭蕉は泉の水を引いてきた筧(懸樋)に山藤の花も咲いてます、と返す。
秋風は風流人だが金持ちで、料理にはこだわりがあったのだろう。そこに山藤の花もきれいですよと、やや諌めた感じがする。
梅絶て日永し桜今三日 湖春
東の窓の蚕桑につく 桃青
これも三井秋風の花林園での句か。
梅の花は終わり桜にはまだあと三日くらい先か、という発句に春蚕の飼育も始まっていると付ける。
つくづくと榎の花の袖にちる 桐葉
独り茶をつむ藪の一家 芭蕉
三月下旬、熱田での七吟歌仙興行の発句と脇。
榎の花も地味な花で、こういう花はやはり茶花に用いるのだろう。藪椿の句と同様、茶を付ける。
夏草よ吾妻路まとへ五三日 若照
かさもてはやす宿の卯の雪 芭蕉
鳴海の知足亭での句。
江戸に帰ろうとする芭蕉に、夏草よ、吾妻路に絡まって足止めしてくれという発句に対し、卯の花が雪のようで、笠(旅に欠かせない)が必要ですね、と答える。
涼しさの凝くだくるか水車 清風
青鷺草を見越す朝月 芭蕉
六月二日。『野ざらし紀行』の旅から戻り、少ししてからの小石川での興行。出羽尾花沢の清風を迎え、其角、嵐雪、才丸、素堂、コ齋などが揃い、百韻を巻く。清風は『奥の細道』の旅のときに尋ねてゆくが、忙しくてなかなか会ってもらえなかった。
水車が涼しさを細かく砕いて撒いてくれてるようだ、という清風の発句に、青鷺が草越しに朝の月を見ていると水辺の景を添える。
オリンピックのマラソンがいきなりIOCの決定で札幌に変更とかいっているが、こういうのを開催地に無断で決めていいことなのか、いろいろ問題は残るだろう。
アスリートの健康の問題は確かにわかる。夏の甲子園だって、あんな炎天下でやる必要があるかどうかは疑問だ。ただ、時期の変更ならわかるが、場所を変更するとなると、今後暑い地域でのスポーツの大会が困難になるのではないか。カタールもオリンピックを招致しようとしているが、カタールには札幌のような場所はない。今後オリンピックは涼しい限られた国だけで行われるようになるのか。
今やフランスだって四十五度の猛暑で、ヨーロッパ全体が暑くなっている。他のスポーツにも影響を与えれば、スポーツのできる国が限られてしまうのではないか。
一九六四年の東京オリンピックは十月にやったのに、何で今回は夏になってしまったのか、そのことも最初から引っかかっていた。
それでは芭蕉脇集。
貞享二年
われもさびよ梅よりおくの藪椿 雅良
ちやの湯に残る雪のひよ鳥 芭蕉
『野ざらし紀行』の旅の途中、伊賀で年を越し二月まで滞在した時の句。
藪椿は自生する椿のこと。梅の華やかさに較べて、濃緑の葉の中に埋もれるように咲く椿は地味だ。私もこんな風に静かに暮らしたいという発句に、静かに茶の湯を立てながら、灰色の地味なヒヨドリを雪の上に見る、と返す。
「われもさびよ」に同意し、寂びた景色を添える。季語は「残る雪」で春になる。ヒヨドリだけだと秋。
椿は茶の湯の席で茶花として用いられることが多く、茶の木自体もツバキ科ツバキ属で椿の仲間でもある。椿に近いものでサザンカがあるが山の茶花と書く。椿は茶の湯に縁がある。
我桜鮎サク枇杷の広葉哉 秋風
筧に動く山藤の花 桃青
同じく『野ざらし紀行』の旅の途中、京の三井秋風の別墅、花林園を尋ねた時の句。
発句の意味はわかりにくいが、桜はまだ咲いてないが、枇杷の広葉のような鮎の開きの一夜干を桜に見立てて、今日の宴を始めましょうということか。
それに対し、芭蕉は泉の水を引いてきた筧(懸樋)に山藤の花も咲いてます、と返す。
秋風は風流人だが金持ちで、料理にはこだわりがあったのだろう。そこに山藤の花もきれいですよと、やや諌めた感じがする。
梅絶て日永し桜今三日 湖春
東の窓の蚕桑につく 桃青
これも三井秋風の花林園での句か。
梅の花は終わり桜にはまだあと三日くらい先か、という発句に春蚕の飼育も始まっていると付ける。
つくづくと榎の花の袖にちる 桐葉
独り茶をつむ藪の一家 芭蕉
三月下旬、熱田での七吟歌仙興行の発句と脇。
榎の花も地味な花で、こういう花はやはり茶花に用いるのだろう。藪椿の句と同様、茶を付ける。
夏草よ吾妻路まとへ五三日 若照
かさもてはやす宿の卯の雪 芭蕉
鳴海の知足亭での句。
江戸に帰ろうとする芭蕉に、夏草よ、吾妻路に絡まって足止めしてくれという発句に対し、卯の花が雪のようで、笠(旅に欠かせない)が必要ですね、と答える。
涼しさの凝くだくるか水車 清風
青鷺草を見越す朝月 芭蕉
六月二日。『野ざらし紀行』の旅から戻り、少ししてからの小石川での興行。出羽尾花沢の清風を迎え、其角、嵐雪、才丸、素堂、コ齋などが揃い、百韻を巻く。清風は『奥の細道』の旅のときに尋ねてゆくが、忙しくてなかなか会ってもらえなかった。
水車が涼しさを細かく砕いて撒いてくれてるようだ、という清風の発句に、青鷺が草越しに朝の月を見ていると水辺の景を添える。
2019年10月27日日曜日
今日は芝離宮や浜離宮のあたりを散歩した。
それでは芭蕉脇集の続き。
貞享元年
何となく柴ふく風もあはれなり 杉風
あめのはれまを牛捨にゆく 芭蕉
芭蕉の『野ざらし紀行』の旅立ちの際の杉風の餞別句に付けたもの。無季の発句に対し、無季で付けている。
発句の「柴ふく風」は秋風を連想させるものの、言葉には表れていない。芭蕉の脇の「牛捨にゆく」も何を意味するのかよくわからない。寓意に囚われずに、「あはれ」から連想するものを付けたか。
芭蕉野分其句に草鞋かへよかし 李下
月ともみぢを酒の乞食 芭蕉
同じく『野ざらし紀行』の旅立ちの際の李下の餞別句に答えたもの。
「芭蕉野分」は延宝九年の秋に詠んだ、
茅舎ノ感
芭蕉野分して盥に雨を聞夜哉
を指すものと思われる。このときの茅舎は李下が贈った芭蕉一株を新しい庵に植えたことで芭蕉庵と呼ばれるようになり、それが桃青から芭蕉へと名前を変えることになった。桃青という俳号はそのまま残したものの、句に署名する時には「芭蕉」を用いるようになった。
天和三年の九月に第二次芭蕉庵が完成したが、一年も立たずに旅立つ芭蕉に、あの茅舎を草鞋に変えてしまうのですね。それもまたいいでしょう。そうしなさい、という句に、芭蕉は「月ともみぢを酒の乞食」だからそれがふさわしい、と返す。
い勢やまだにていも洗ふと云句を和す
宿まいらせむさいぎゃうならば秋暮 雷枝
はせをとこたふ風の破がさ 芭蕉
『野ざらし紀行』の旅の途中、伊勢の西行谷で、
芋洗ふ女西行ならば歌よまむ 芭蕉
と詠む。桶に芋(里芋)を入れて、それに棒を差して洗っている田舎の長い髪を結わずに後ろに垂らした古風な女性は、芭蕉の好みなのだろう。母親の俤があるのかもしれない。
その句を知った雷枝(もちろん男性)は芭蕉が宿を訪ねてきたときに、西行さんですか、と問うと、芭蕉は「いいえ、芭蕉です」と答える。
花の咲みながら草の翁かな 勝延
秋にしほるる蝶のくづをれ 芭蕉
発句の「みながら」は「身ながら」で、「花の咲く身」とはいっても桜ではなく草の花の咲く翁でしょうか、と疑いつつ治定する「かな」を用いる。草の花は花野の花で秋になる。
これに対し芭蕉は「草の翁」なんてそんな立派なもんではない、秋に萎れて老いぼれてゆく蝶のようなものです、と返す。
師の桜むかし拾はん落葉哉 嗒山
薄を霜の髭四十一 芭蕉
『野ざらし紀行』の旅で大垣の木因の元を尋ね、芭蕉、木因、嗒山、如行の四人で四吟歌仙を興行した時の句。
天和の頃芭蕉さん、あなたの教えを受けたことがありますが、その時の芭蕉さんがくれた桜(教えられたことの比喩)も今は落葉になってしまってます、と謙虚な発句に対し、芭蕉も、私も霜の降りた薄のような無精ひげを生やした四十一歳になる男です、と答える。
昔は四十で初老と呼ばれていたし、四十前後での隠居も普通だった。それにもまして芭蕉は実年齢以上に老けて見えたという。
霜の宿の旅寝に蚊帳をきせ申 如行
古人かやうの夜のこがらし 芭蕉
これも大垣滞在中の句。
蚊帳は夏の蚊を防ぐだけでなく、細かい網目は風を通さないから防寒具としても役に立つ。こうした生活の知恵に、古人もこうして夜を暖かく過ごしたのだろうかと感慨を述べる。
能程に積かはれよみのの雪 木因
冬のつれとて風も跡から 芭蕉
同じく大垣滞在中の句。
旅に支障のない程度に程よく積もってくれという木因の発句に、私が冬の風を連れてきてしまったかな、と返す。
田家眺望
霜月や鸛の彳々ならびゐて 荷兮
冬の朝日のあはれなりけり 芭蕉
『野ざらし紀行』の旅で、十一月に名古屋で興行した時の句。芭蕉、野水、荷兮、重五、杜国、正平、野水に途中から羽笠も加わって巻いた五歌仙と表六句は、『冬の日』(荷兮編貞享元年刊)として刊行された。
これはその五番目の歌仙の句。「て」留めのこれまでの常識を破るような発句に対し、脇も体言止めではなく「けり」で応じる。
霜月の鸛に朝日の哀れを添える。軽く流したようでいながら、興行の場所を褒め称える寓意を含んでいる。
発句と脇を合わせると、
霜月や鸛の彳々ならびゐて
冬の朝日のあはれなりけり
と和歌のように綺麗につながる。
檜笠雪をいのちの舎リ哉 桐葉
稿一つかね足つつみ行 芭蕉
『野ざらし紀行』の旅で、十二月に熱田で桐葉からの送別句に答える。
発句は、檜笠(ひのきがさ)に雪の積もるのを見て、この笠が命を守ってくれると詠む。芭蕉が延宝四年に詠んだ、
命なりわづかの笠の下涼み 桃青
の句を髣髴させる。
これに対し芭蕉は、藁一束(わらひとつかね)で足を包みながら行きますと返す。命を守るものは笠だけではない。
それでは芭蕉脇集の続き。
貞享元年
何となく柴ふく風もあはれなり 杉風
あめのはれまを牛捨にゆく 芭蕉
芭蕉の『野ざらし紀行』の旅立ちの際の杉風の餞別句に付けたもの。無季の発句に対し、無季で付けている。
発句の「柴ふく風」は秋風を連想させるものの、言葉には表れていない。芭蕉の脇の「牛捨にゆく」も何を意味するのかよくわからない。寓意に囚われずに、「あはれ」から連想するものを付けたか。
芭蕉野分其句に草鞋かへよかし 李下
月ともみぢを酒の乞食 芭蕉
同じく『野ざらし紀行』の旅立ちの際の李下の餞別句に答えたもの。
「芭蕉野分」は延宝九年の秋に詠んだ、
茅舎ノ感
芭蕉野分して盥に雨を聞夜哉
を指すものと思われる。このときの茅舎は李下が贈った芭蕉一株を新しい庵に植えたことで芭蕉庵と呼ばれるようになり、それが桃青から芭蕉へと名前を変えることになった。桃青という俳号はそのまま残したものの、句に署名する時には「芭蕉」を用いるようになった。
天和三年の九月に第二次芭蕉庵が完成したが、一年も立たずに旅立つ芭蕉に、あの茅舎を草鞋に変えてしまうのですね。それもまたいいでしょう。そうしなさい、という句に、芭蕉は「月ともみぢを酒の乞食」だからそれがふさわしい、と返す。
い勢やまだにていも洗ふと云句を和す
宿まいらせむさいぎゃうならば秋暮 雷枝
はせをとこたふ風の破がさ 芭蕉
『野ざらし紀行』の旅の途中、伊勢の西行谷で、
芋洗ふ女西行ならば歌よまむ 芭蕉
と詠む。桶に芋(里芋)を入れて、それに棒を差して洗っている田舎の長い髪を結わずに後ろに垂らした古風な女性は、芭蕉の好みなのだろう。母親の俤があるのかもしれない。
その句を知った雷枝(もちろん男性)は芭蕉が宿を訪ねてきたときに、西行さんですか、と問うと、芭蕉は「いいえ、芭蕉です」と答える。
花の咲みながら草の翁かな 勝延
秋にしほるる蝶のくづをれ 芭蕉
発句の「みながら」は「身ながら」で、「花の咲く身」とはいっても桜ではなく草の花の咲く翁でしょうか、と疑いつつ治定する「かな」を用いる。草の花は花野の花で秋になる。
これに対し芭蕉は「草の翁」なんてそんな立派なもんではない、秋に萎れて老いぼれてゆく蝶のようなものです、と返す。
師の桜むかし拾はん落葉哉 嗒山
薄を霜の髭四十一 芭蕉
『野ざらし紀行』の旅で大垣の木因の元を尋ね、芭蕉、木因、嗒山、如行の四人で四吟歌仙を興行した時の句。
天和の頃芭蕉さん、あなたの教えを受けたことがありますが、その時の芭蕉さんがくれた桜(教えられたことの比喩)も今は落葉になってしまってます、と謙虚な発句に対し、芭蕉も、私も霜の降りた薄のような無精ひげを生やした四十一歳になる男です、と答える。
昔は四十で初老と呼ばれていたし、四十前後での隠居も普通だった。それにもまして芭蕉は実年齢以上に老けて見えたという。
霜の宿の旅寝に蚊帳をきせ申 如行
古人かやうの夜のこがらし 芭蕉
これも大垣滞在中の句。
蚊帳は夏の蚊を防ぐだけでなく、細かい網目は風を通さないから防寒具としても役に立つ。こうした生活の知恵に、古人もこうして夜を暖かく過ごしたのだろうかと感慨を述べる。
能程に積かはれよみのの雪 木因
冬のつれとて風も跡から 芭蕉
同じく大垣滞在中の句。
旅に支障のない程度に程よく積もってくれという木因の発句に、私が冬の風を連れてきてしまったかな、と返す。
田家眺望
霜月や鸛の彳々ならびゐて 荷兮
冬の朝日のあはれなりけり 芭蕉
『野ざらし紀行』の旅で、十一月に名古屋で興行した時の句。芭蕉、野水、荷兮、重五、杜国、正平、野水に途中から羽笠も加わって巻いた五歌仙と表六句は、『冬の日』(荷兮編貞享元年刊)として刊行された。
これはその五番目の歌仙の句。「て」留めのこれまでの常識を破るような発句に対し、脇も体言止めではなく「けり」で応じる。
霜月の鸛に朝日の哀れを添える。軽く流したようでいながら、興行の場所を褒め称える寓意を含んでいる。
発句と脇を合わせると、
霜月や鸛の彳々ならびゐて
冬の朝日のあはれなりけり
と和歌のように綺麗につながる。
檜笠雪をいのちの舎リ哉 桐葉
稿一つかね足つつみ行 芭蕉
『野ざらし紀行』の旅で、十二月に熱田で桐葉からの送別句に答える。
発句は、檜笠(ひのきがさ)に雪の積もるのを見て、この笠が命を守ってくれると詠む。芭蕉が延宝四年に詠んだ、
命なりわづかの笠の下涼み 桃青
の句を髣髴させる。
これに対し芭蕉は、藁一束(わらひとつかね)で足を包みながら行きますと返す。命を守るものは笠だけではない。
2019年10月26日土曜日
芭蕉の発句集は多いけど、脇を集めた脇集というのは聞いたことがない。ならば作ってみようか。
句は『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)よる。
芭蕉脇集
延宝四年
梅の風俳諧国にさかむなり 信章
こちとうづれも此時の春 桃青
『桃青三百韻附両吟二百韻』の二百韻の二番目の巻の脇。信章は後の素堂。「こちとうづれも」は「こちとの連れも」の音便化したもの。
「梅の花」に「春」という単純な付け合いに、俳諧が国に盛んだからこち(芭蕉)と連れ(素堂)もと付ける。談林流の速吟に向いた付け方だ。
時節嘸伊賀の山ごえ華の雪 杉風
身は爰元に霞武蔵野 桃青
杉浦正一郎氏蔵の芭蕉俳諧真蹟懐紙による。『花供養』(天命七年・蘭更編)にもあるという。
芭蕉が伊賀に旅立つ際の送別の興行であろう。伊賀の山を越える頃には雪でしょうな、という送別の発句に対し、我が身はいつまでもこの霞む武蔵野にあります、と答える。
延宝六年
物の名も蛸や故郷のいかのぼり 信徳
あふのく空は百余里の春 桃青
『桃青三百韻附両吟二百韻』の三百韻のほうにある。信徳の発句は、
草の名も所によりてかはるなり
難波の葦は伊勢の浜荻 救済
の句を本歌とし、難波の「いかのぼり」は江戸の「たこ」だとする。信徳は京の人。
「あふのく」は仰向けになるという意味だが、ここでは仰向けになって見る空は、ということ。江戸から京までは四百キロ以上あるので、京の空は百余里の彼方になる。
発句の「いかのぼり」に放り込みのように「春」を付けている。
寶いくつあつらへの夢あけの春
蓑笠小槌あら玉の空 桃青
歳旦吟で、発句の作者はわからない。
正月の宝船には七福神とともにいくつもの宝が乗せられている。脇ではその宝の内容として、打出の小槌や玉とともに、昔は晴れ着の意味もあった蓑笠を加える。後の、
降らずとも竹植うる日や蓑と笠 芭蕉
は蓑笠が晴れ着であることを示している。
延宝九年
余興
附贅一ツ爰に置けり曰ク露 揚水
無-用の枝を立し犬蘭 桃青
『俳諧次韻』の巻末の余興の四句の脇。
発句は『荘子』外編の駢拇篇の、
「駢拇枝指、出乎性哉、而侈於德。附贅縣疣、出乎形哉、而侈於性。多方乎仁義而用之者、列於五藏哉、而非道德之正也。」
儒家の言う仁義などは指が生まれつきくっついていたり、生まれながらにイボがあったりするようなもので、余計なものだというわけだ。
まあ、仁義礼智は本来誰しも生まれ以て身についている孟子の言葉でいえば「四端の心」から生じたものだが、それを概念にして論じようとすると、人それぞれの経験の差異から微妙に意味内容がずれて、結局は議論がかみ合わずに争いになったりする。
俳諧の句というのもその意味では本来の情を正確に伝えるわけではなく、余計なものといえば余計なものだ。その余計なものを「露」という、と卑下してるのか美化しているのか微妙な言い回しをする。
芭蕉の脇はそれを受けて、本来枝のない蘭に枝をつけて、これは「犬蘭」とでもいうべきか、と応じる。
連歌の『菟玖波集』『新撰菟玖波集』に対して、俳諧の祖宗鑑が『新撰犬筑波集』を編纂したところから、「犬」は俳諧のシンボルでもある。卑下しているようでも俳諧への誇りを表わしている。
市中より東叡山の麓に家を写せし比
鮭の時宿は豆腐の雨夜哉 信章
茶にたばこにも蘭のうつり香 桃青
『下郷家遺片』に記された付け合い。
東叡山は上野の寛永寺のこと。weblio辞書の「美術人名辞典」に、「北村季吟・松尾芭蕉と親交を深め、のちに上野不忍池畔で隠棲生活に入る。」とある。
鮭の時分だが豆腐しかないというのは、仏道に精進しているということか。それに対し芭蕉は「茶や煙草にも高貴な蘭の香りがします、豆腐でもかまいませんよ」と返す。
天和二年
酒債尋常住処有
人生七十古来稀
詩あきんど年を貪ル酒債哉 其角
冬-湖日暮て駕馬鯉 芭蕉
これは『虚栗』(天和三年、其角編)の其角・芭蕉の両吟歌仙。
前書きと発句は杜甫の「曲江詩」
曲江 杜甫
朝囘日日典春衣 毎日江頭盡醉歸
酒債尋常行處有 人生七十古來稀
穿花蛺蝶深深見 點水蜻蜓款款飛
傳語風光共流轉 暫時相賞莫相違
朝廷を追われ春の着物を質屋に入れて送る日々
毎日曲江の畔で酔っぱらって帰るだけだ
行くところはどこも酒の付けがあって当たり前
どうせ人生七十過ぎてまで生きることは稀だ
花の間を舞うアゲハはこそこそしてるし
水を求めるトンボはわが道を行くかのようだ
伝えて言う、この眺望よ共に流れてゆく定めなら
しばらくは違いに目をつぶりお互いを認め合えや
による。
どうせいつかは死ぬんだから借金など気にせずに酒でも飲んで仲良くやろうじゃないか、とばかり「詩あきんど」つまり詩で生計を立てる者はうだうだ酒飲んでは時間を浪費し、付けが溜まってゆく。
これに対し芭蕉は、発句の詩あきんども曲江の湖の畔で釣りをしてすごせば、やがて鯉を馬に乗せて帰ると和す。
鯉は龍になるとも言われる目出度い魚で、これを売って一年の酒債を返しなさいということか。
まあ其角さんのことだから、結局最後は鯉屋の旦那(杉風)が何とかしてくれるという楽屋落ちの意味があったのだろう。
句は『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)よる。
芭蕉脇集
延宝四年
梅の風俳諧国にさかむなり 信章
こちとうづれも此時の春 桃青
『桃青三百韻附両吟二百韻』の二百韻の二番目の巻の脇。信章は後の素堂。「こちとうづれも」は「こちとの連れも」の音便化したもの。
「梅の花」に「春」という単純な付け合いに、俳諧が国に盛んだからこち(芭蕉)と連れ(素堂)もと付ける。談林流の速吟に向いた付け方だ。
時節嘸伊賀の山ごえ華の雪 杉風
身は爰元に霞武蔵野 桃青
杉浦正一郎氏蔵の芭蕉俳諧真蹟懐紙による。『花供養』(天命七年・蘭更編)にもあるという。
芭蕉が伊賀に旅立つ際の送別の興行であろう。伊賀の山を越える頃には雪でしょうな、という送別の発句に対し、我が身はいつまでもこの霞む武蔵野にあります、と答える。
延宝六年
物の名も蛸や故郷のいかのぼり 信徳
あふのく空は百余里の春 桃青
『桃青三百韻附両吟二百韻』の三百韻のほうにある。信徳の発句は、
草の名も所によりてかはるなり
難波の葦は伊勢の浜荻 救済
の句を本歌とし、難波の「いかのぼり」は江戸の「たこ」だとする。信徳は京の人。
「あふのく」は仰向けになるという意味だが、ここでは仰向けになって見る空は、ということ。江戸から京までは四百キロ以上あるので、京の空は百余里の彼方になる。
発句の「いかのぼり」に放り込みのように「春」を付けている。
寶いくつあつらへの夢あけの春
蓑笠小槌あら玉の空 桃青
歳旦吟で、発句の作者はわからない。
正月の宝船には七福神とともにいくつもの宝が乗せられている。脇ではその宝の内容として、打出の小槌や玉とともに、昔は晴れ着の意味もあった蓑笠を加える。後の、
降らずとも竹植うる日や蓑と笠 芭蕉
は蓑笠が晴れ着であることを示している。
延宝九年
余興
附贅一ツ爰に置けり曰ク露 揚水
無-用の枝を立し犬蘭 桃青
『俳諧次韻』の巻末の余興の四句の脇。
発句は『荘子』外編の駢拇篇の、
「駢拇枝指、出乎性哉、而侈於德。附贅縣疣、出乎形哉、而侈於性。多方乎仁義而用之者、列於五藏哉、而非道德之正也。」
儒家の言う仁義などは指が生まれつきくっついていたり、生まれながらにイボがあったりするようなもので、余計なものだというわけだ。
まあ、仁義礼智は本来誰しも生まれ以て身についている孟子の言葉でいえば「四端の心」から生じたものだが、それを概念にして論じようとすると、人それぞれの経験の差異から微妙に意味内容がずれて、結局は議論がかみ合わずに争いになったりする。
俳諧の句というのもその意味では本来の情を正確に伝えるわけではなく、余計なものといえば余計なものだ。その余計なものを「露」という、と卑下してるのか美化しているのか微妙な言い回しをする。
芭蕉の脇はそれを受けて、本来枝のない蘭に枝をつけて、これは「犬蘭」とでもいうべきか、と応じる。
連歌の『菟玖波集』『新撰菟玖波集』に対して、俳諧の祖宗鑑が『新撰犬筑波集』を編纂したところから、「犬」は俳諧のシンボルでもある。卑下しているようでも俳諧への誇りを表わしている。
市中より東叡山の麓に家を写せし比
鮭の時宿は豆腐の雨夜哉 信章
茶にたばこにも蘭のうつり香 桃青
『下郷家遺片』に記された付け合い。
東叡山は上野の寛永寺のこと。weblio辞書の「美術人名辞典」に、「北村季吟・松尾芭蕉と親交を深め、のちに上野不忍池畔で隠棲生活に入る。」とある。
鮭の時分だが豆腐しかないというのは、仏道に精進しているということか。それに対し芭蕉は「茶や煙草にも高貴な蘭の香りがします、豆腐でもかまいませんよ」と返す。
天和二年
酒債尋常住処有
人生七十古来稀
詩あきんど年を貪ル酒債哉 其角
冬-湖日暮て駕馬鯉 芭蕉
これは『虚栗』(天和三年、其角編)の其角・芭蕉の両吟歌仙。
前書きと発句は杜甫の「曲江詩」
曲江 杜甫
朝囘日日典春衣 毎日江頭盡醉歸
酒債尋常行處有 人生七十古來稀
穿花蛺蝶深深見 點水蜻蜓款款飛
傳語風光共流轉 暫時相賞莫相違
朝廷を追われ春の着物を質屋に入れて送る日々
毎日曲江の畔で酔っぱらって帰るだけだ
行くところはどこも酒の付けがあって当たり前
どうせ人生七十過ぎてまで生きることは稀だ
花の間を舞うアゲハはこそこそしてるし
水を求めるトンボはわが道を行くかのようだ
伝えて言う、この眺望よ共に流れてゆく定めなら
しばらくは違いに目をつぶりお互いを認め合えや
による。
どうせいつかは死ぬんだから借金など気にせずに酒でも飲んで仲良くやろうじゃないか、とばかり「詩あきんど」つまり詩で生計を立てる者はうだうだ酒飲んでは時間を浪費し、付けが溜まってゆく。
これに対し芭蕉は、発句の詩あきんども曲江の湖の畔で釣りをしてすごせば、やがて鯉を馬に乗せて帰ると和す。
鯉は龍になるとも言われる目出度い魚で、これを売って一年の酒債を返しなさいということか。
まあ其角さんのことだから、結局最後は鯉屋の旦那(杉風)が何とかしてくれるという楽屋落ちの意味があったのだろう。
2019年10月25日金曜日
今日も『三冊子』の続き。芭蕉の脇について。
「市中は物の匂ひや夏の月
あつしあつしと門々の聲
此脇、匂ひや夏の月、と有を見込て、極暑を顕して見込の心を照す。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』p.125)
これは『猿蓑』の歌仙の脇だ。元禄三年六月、凡兆宅での興行になる。発句は凡兆で、それに芭蕉が脇を付ける。
市中の物の匂いも暑さもあまり有難いものではない。市場の匂いにも夏の月があればと見込む発句に対し、芭蕉も極暑のなかで夏の月があればと見込む、というのが土芳の解釈だ。
ただ、芭蕉はこの頃から脇を形式ばった挨拶にする事に疑問を感じていたのだろう。それは後の「蛍迯行」と同じで、それまでの脇句の常識だと、夏の月が出たのだから、それに対し「涼しい」と付けて主人を持ち上げるものだったところを、あえて「いやー、それにしても暑い」と本音で返す所に新味があったのではないかと思う。
ただ、この「あつしあつし」も発句の「物の匂いや」に同意しているわけだから、失礼にはならない。同意しながらともに「夏の月」の有難さがあればと見込む意味では、土芳の解釈も当を得ている。
「いろいろの名もまぎらはし春の草
うたれて蝶の目をさましぬる
此脇は、まぎらはしといふ心の匂に、しきりに蝶のちり乱るる様思ひ入て、けしきを付たる句也。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』p.125)
これは『ひさご』の歌仙で、芭蕉は脇のみの参加。前半は珍碩(後の洒堂)と路通の両吟、後半は荷兮と越人の両吟になる。元禄三年の興行で「市中は」の巻の三ヶ月前になる。発句は珍碩。
元禄三年刊の『ひさご』では、
いろいろの名もむつかしや春の草 珍碩
うたれて蝶の夢はさめぬる 芭蕉
になっているが、享保二十年刊の別版『ひさご』には、土芳が引用した形で収められている。土芳の言う方が初案と言われている。
発句の名前のよくわからない春の草(今なら名もなき雑草というところだろう)に対し、まず「うたれて」と来るわけだが、これは「畑打つ」のことだろうか。
「うたれて蝶の目をさましぬる」だと、雑草が掘り起こされて、底に止まって休んでいた蝶は夢から醒めて飛び立つわけで、土芳が言うように「しきりに蝶のちり乱るる様思ひ入て、けしきを付たる句」になる。
ただ、蝶の目を覚ますという所に『荘子』の胡蝶の夢の連想が働くと、これは蝶が飛び立つと同時に、自分自身もはっと打たれたように夢から醒めて元の自分に戻ることになる。「うたれて蝶の夢はさめぬる」の形だと、よりその寓意がはっきりする。
寓意を表に出すのか裏に隠すのか、これは『去来抄』の「大切の柳」にも通じることなのかもしれない。裏に隠すのが正解なら、元禄版の『ひさご』の方が初案で、享保版『ひさご』や『三冊子』の方が改案だったのかもしれない。
なお、この歌仙の十八句目が、
しほのさす縁の下迄和日なり
生鯛あがる浦の春哉 珍碩
の句が挙句っぽいので、最初半歌仙を巻いて、荷兮と越人が後から付け足したか。
「折々や雨戸にさはる萩の聲
はなす所におらぬ松むし
この脇、発句の位を思ひしめて、匂よろしく事もなく付たる句也。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』p.125)
この句は『校本芭蕉全集 第五巻』(小宮豐隆監修、中村俊定注、一九六八、角川書店)では元禄七年の夏で、
折々や雨戸にさはる萩の聲
放す所におらぬ松蟲
とある。元禄七年八月九日附の去来宛書簡に記されている。「あれあれて」の巻の時に引用した「しぶしぶの俳諧」の書簡だ。発句は雪芝だという。
発句の雨戸に萩の枝が触れるような田舎の小さな家から、そこに住む人の位で付けたということか。松虫を捕まえたものの、可哀相になって放してあげる、そういう心やさしい住人ということなのだろう。
あれあれて末は海行野分哉
靍の頭を上る粟の穂 芭蕉
の脇も、鶴をお目出度いものという寓意で用いずに、あえて「常体の気色」で用いるところなど、やはり晩年の脇の体といえよう。
芭蕉の脇に言及した部分はこれで終わりになり、ここから先は普通の付け句になる。
「市中は物の匂ひや夏の月
あつしあつしと門々の聲
此脇、匂ひや夏の月、と有を見込て、極暑を顕して見込の心を照す。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』p.125)
これは『猿蓑』の歌仙の脇だ。元禄三年六月、凡兆宅での興行になる。発句は凡兆で、それに芭蕉が脇を付ける。
市中の物の匂いも暑さもあまり有難いものではない。市場の匂いにも夏の月があればと見込む発句に対し、芭蕉も極暑のなかで夏の月があればと見込む、というのが土芳の解釈だ。
ただ、芭蕉はこの頃から脇を形式ばった挨拶にする事に疑問を感じていたのだろう。それは後の「蛍迯行」と同じで、それまでの脇句の常識だと、夏の月が出たのだから、それに対し「涼しい」と付けて主人を持ち上げるものだったところを、あえて「いやー、それにしても暑い」と本音で返す所に新味があったのではないかと思う。
ただ、この「あつしあつし」も発句の「物の匂いや」に同意しているわけだから、失礼にはならない。同意しながらともに「夏の月」の有難さがあればと見込む意味では、土芳の解釈も当を得ている。
「いろいろの名もまぎらはし春の草
うたれて蝶の目をさましぬる
此脇は、まぎらはしといふ心の匂に、しきりに蝶のちり乱るる様思ひ入て、けしきを付たる句也。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』p.125)
これは『ひさご』の歌仙で、芭蕉は脇のみの参加。前半は珍碩(後の洒堂)と路通の両吟、後半は荷兮と越人の両吟になる。元禄三年の興行で「市中は」の巻の三ヶ月前になる。発句は珍碩。
元禄三年刊の『ひさご』では、
いろいろの名もむつかしや春の草 珍碩
うたれて蝶の夢はさめぬる 芭蕉
になっているが、享保二十年刊の別版『ひさご』には、土芳が引用した形で収められている。土芳の言う方が初案と言われている。
発句の名前のよくわからない春の草(今なら名もなき雑草というところだろう)に対し、まず「うたれて」と来るわけだが、これは「畑打つ」のことだろうか。
「うたれて蝶の目をさましぬる」だと、雑草が掘り起こされて、底に止まって休んでいた蝶は夢から醒めて飛び立つわけで、土芳が言うように「しきりに蝶のちり乱るる様思ひ入て、けしきを付たる句」になる。
ただ、蝶の目を覚ますという所に『荘子』の胡蝶の夢の連想が働くと、これは蝶が飛び立つと同時に、自分自身もはっと打たれたように夢から醒めて元の自分に戻ることになる。「うたれて蝶の夢はさめぬる」の形だと、よりその寓意がはっきりする。
寓意を表に出すのか裏に隠すのか、これは『去来抄』の「大切の柳」にも通じることなのかもしれない。裏に隠すのが正解なら、元禄版の『ひさご』の方が初案で、享保版『ひさご』や『三冊子』の方が改案だったのかもしれない。
なお、この歌仙の十八句目が、
しほのさす縁の下迄和日なり
生鯛あがる浦の春哉 珍碩
の句が挙句っぽいので、最初半歌仙を巻いて、荷兮と越人が後から付け足したか。
「折々や雨戸にさはる萩の聲
はなす所におらぬ松むし
この脇、発句の位を思ひしめて、匂よろしく事もなく付たる句也。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』p.125)
この句は『校本芭蕉全集 第五巻』(小宮豐隆監修、中村俊定注、一九六八、角川書店)では元禄七年の夏で、
折々や雨戸にさはる萩の聲
放す所におらぬ松蟲
とある。元禄七年八月九日附の去来宛書簡に記されている。「あれあれて」の巻の時に引用した「しぶしぶの俳諧」の書簡だ。発句は雪芝だという。
発句の雨戸に萩の枝が触れるような田舎の小さな家から、そこに住む人の位で付けたということか。松虫を捕まえたものの、可哀相になって放してあげる、そういう心やさしい住人ということなのだろう。
あれあれて末は海行野分哉
靍の頭を上る粟の穂 芭蕉
の脇も、鶴をお目出度いものという寓意で用いずに、あえて「常体の気色」で用いるところなど、やはり晩年の脇の体といえよう。
芭蕉の脇に言及した部分はこれで終わりになり、ここから先は普通の付け句になる。
2019年10月24日木曜日
今年は台風の当たり年で、また台風が近づいている。直撃はなさそうだが、今夜も雨が降っている。
さて、先日の『三冊子』の続きで、芭蕉の脇の付け方を土芳を通して見てみよう。
「菜種干ス莚の端や夕涼み
蛍迯行あぢさいのはな
此脇、発句の位を見しめて事もなく付る句也。同前栽其あたりの似合敷物を寄。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』p.124)
この句は『校本芭蕉全集 第五巻』(小宮豐隆監修、中村俊定注、一九六八、角川書店)では元禄七年の夏の所にある。
菜種ほすむしろの端や夕涼み 曲翠
蛍迯行あぢさゐの花 翁
とある。
「迯」は「逃」と同じ。
菜種は菜の花が咲いたあと二ヶ月から三ヶ月で種になり収穫し、乾燥させる。その頃には暑くなり、菜種を乾燥させている筵の隅っこに座って夕涼みすることはよくあったのだろう。
発句の寓意を受けずにさらっと流すのは、芭蕉の晩年の脇の付け方だったのだろう。蕉風確立期なら「蛍の止まる」とでもしそうだ。意図的にその古いパターンをはずした風にも見える。
「霜寒き旅寝に蚊帳を着せ申
古人かやうの夜の木がらし
此脇、凩のさびしき夜、古へかやうの夜あるべしといふ句也。付心はその旅寝心高く見て、心を以て付たる句也。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』p.124)
この句は『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)では、『稿本野晒紀行』の、
霜の宿の旅寝に蚊帳をきせ申 如行
古人かやうの夜のこがらし 蕉
の形で収められている。貞享元年の『野ざらし紀行』の旅の途中での吟だったが、二年後の貞享三年に刊行された『春の日』では発句のみ、
霜寒き旅寝に蚊屋を着せ申 如行
と上五を直した形で掲載されている。
「蚊帳 暖かい」で検索してみたが、案外蚊帳は暖かいという。確かに蚊が通れないような細かい網だから、風も通さないのだろう。
如行の句は昔の人の知恵だったのだろう。今は新聞紙を防寒着に使うというのがよく言われているが、それに近いものか。
これに対し芭蕉は古人に思いを馳せて感慨を表わす。この古人を引き合いに出すあたりに蕉風確立期の古典回帰があらわれている。
「おくそこもなくて冬木の梢哉
小春に首の動くみのむし
この脇、あたたかなる日のみの虫なり。あるじの貌に客悦のいろを見せたるはたらきを付たる句也。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』p.124~125)
この句は『校本芭蕉全集 第四巻』(小宮豐隆監修、宮本三郎校注、一九六四、角川書店)では、
奥庭もなくて冬木の梢かな 露川
小春に首の動くみのむし 翁
となっている。元禄四年の句。
葉が落ちた木の向こうには透けて見える結構な庭があるわけでもない、と小さな庭を謙遜して詠んだ発句に対し、蓑虫も喜んで首を出しているよと答える。芭蕉が自分自身を蓑虫に喩え、「客」である芭蕉が「悦のいろを見せ」ている。
さて、先日の『三冊子』の続きで、芭蕉の脇の付け方を土芳を通して見てみよう。
「菜種干ス莚の端や夕涼み
蛍迯行あぢさいのはな
此脇、発句の位を見しめて事もなく付る句也。同前栽其あたりの似合敷物を寄。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』p.124)
この句は『校本芭蕉全集 第五巻』(小宮豐隆監修、中村俊定注、一九六八、角川書店)では元禄七年の夏の所にある。
菜種ほすむしろの端や夕涼み 曲翠
蛍迯行あぢさゐの花 翁
とある。
「迯」は「逃」と同じ。
菜種は菜の花が咲いたあと二ヶ月から三ヶ月で種になり収穫し、乾燥させる。その頃には暑くなり、菜種を乾燥させている筵の隅っこに座って夕涼みすることはよくあったのだろう。
発句の寓意を受けずにさらっと流すのは、芭蕉の晩年の脇の付け方だったのだろう。蕉風確立期なら「蛍の止まる」とでもしそうだ。意図的にその古いパターンをはずした風にも見える。
「霜寒き旅寝に蚊帳を着せ申
古人かやうの夜の木がらし
此脇、凩のさびしき夜、古へかやうの夜あるべしといふ句也。付心はその旅寝心高く見て、心を以て付たる句也。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』p.124)
この句は『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)では、『稿本野晒紀行』の、
霜の宿の旅寝に蚊帳をきせ申 如行
古人かやうの夜のこがらし 蕉
の形で収められている。貞享元年の『野ざらし紀行』の旅の途中での吟だったが、二年後の貞享三年に刊行された『春の日』では発句のみ、
霜寒き旅寝に蚊屋を着せ申 如行
と上五を直した形で掲載されている。
「蚊帳 暖かい」で検索してみたが、案外蚊帳は暖かいという。確かに蚊が通れないような細かい網だから、風も通さないのだろう。
如行の句は昔の人の知恵だったのだろう。今は新聞紙を防寒着に使うというのがよく言われているが、それに近いものか。
これに対し芭蕉は古人に思いを馳せて感慨を表わす。この古人を引き合いに出すあたりに蕉風確立期の古典回帰があらわれている。
「おくそこもなくて冬木の梢哉
小春に首の動くみのむし
この脇、あたたかなる日のみの虫なり。あるじの貌に客悦のいろを見せたるはたらきを付たる句也。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』p.124~125)
この句は『校本芭蕉全集 第四巻』(小宮豐隆監修、宮本三郎校注、一九六四、角川書店)では、
奥庭もなくて冬木の梢かな 露川
小春に首の動くみのむし 翁
となっている。元禄四年の句。
葉が落ちた木の向こうには透けて見える結構な庭があるわけでもない、と小さな庭を謙遜して詠んだ発句に対し、蓑虫も喜んで首を出しているよと答える。芭蕉が自分自身を蓑虫に喩え、「客」である芭蕉が「悦のいろを見せ」ている。
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