昨日の四句目。
町の門追はるる鹿のとび越えて
きてはゆかたの裾を引ずる 雪芝
「夏に転じてサウナの後の夕涼みの情景とした。」と書いてしまったが、次の句が「二十日とも覚へずに行うつかりと」でその次にホトトギスが出てくる。ひょっとしてこの頃はまだ「浴衣」は夏の季語ではなかったか。
江戸後期の曲亭馬琴の『俳諧歳時記栞草』の夏のところには確かに「内衣(ゆかたびら)」とあるが、貞徳の『俳諧御傘』や立圃の『増補はなひ草』には出てこない。「かたびら」は夏だが。
となるとこの句は秋の温泉街を思い浮かべたほうがいいのかもしれない。
五句目。
きてはゆかたの裾を引ずる
二十日とも覚へずに行うつかりと 惟然
二十日は特に何月と指定はないが湯屋の紋日か。
「紋日(もんび)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「〘名〙 (「ものび(物日)」の変化した語。「もんぴ」とも) 江戸時代、主として官許の遊里で五節供やその他特別の日と定められた日。この日遊女は必ず客をとらねばならず、揚代もこの日は特に高く、その他、祝儀など客も特別の出費を要した。一月は松の内、一一日、一五日、一六日、二〇日、続いて二月一〇日、三月三日、五月五日、七月七日、九月九日。吉原では三月一八日三社祭、六月朔日富士詣、七月一〇日四万六千日、八朔白無垢、八月一五日名月、九月一三日後の月、一二月一七・一八日浅草歳の市、など多かった。〔評判記・色道大鏡(1678)〕」
とある。
湯女のいる湯屋はもとより、普通の銭湯でもこれに準じた行事があった。健全な湯屋では客に茶をふるまい、返礼におひねりを置いていったという。
六句目。
二十日とも覚へずに行うつかりと
此山かりて時鳥まつ 卓袋
卓袋(たくたい)はコトバンクの「デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説」に、
「1659-1706 江戸時代前期-中期の俳人。
万治(まんじ)2年生まれ。伊賀(いが)(三重県)上野の富商。松尾芭蕉にまなび,その作品は「猿蓑」などにおさめられている。宝永3年8月14日死去。48歳。通称は市兵衛。屋号は絈屋(かせや)。別号に如是庵。」
とある。
ほととぎすといえば、
卯の花の咲ける垣根の月清み
寝ねず聞けとや鳴くほととぎす
よみ人知らず(後撰集)
夕月夜入るさの山の木隠れに
ほのかに名のるほととぎすかな
藤原宗家(千載集)
五月雨の雲まの月の晴れゆくを
しばしまちける郭公かな
二条院讃岐(新古今集)
など月の時鳥を詠むことも多い。ただ、二十日ともなると月の出も遅く真っ暗な中で時鳥を待つことになる。
七句目。
此山かりて時鳥まつ
麁相なる草履の尻はきれかかり 望翠
望翠も伊賀上野の門人。これより少し前の八月二十四日の興行では、
つぶつぶと掃木をもるる榎実哉 望翠
の発句を詠んでいる。
「麁相(そそう)」はここでは粗末なこと。軽率の意味だと打越の「うつかりと」とかぶってしまう。
時鳥を待つ人を粗末な草履の侘び人とした。
八句目。
麁相なる草履の尻はきれかかり
床であたまをごそごそとそる 支考
粗末な草履の男は剃髪して僧形になる。
ここまでの八句、上句と下句を合わせると、
松風に新酒をすます夜寒哉月もかたぶく石垣の上
町の門追はるる鹿のとび越えて月もかたぶく石垣の上
町の門追はるる鹿のとび越えてきてはゆかたの裾を引ずる
二十日とも覚へずに行うつかりときてはゆかたの裾を引ずる
二十日とも覚へずに行うつかりと此山かりて時鳥まつ
麁相なる草履の尻はきれかかり此山かりて時鳥まつ
麁相なる草履の尻はきれかかり床であたまをごそごそとそる
ときれいに付いていることが分かる。これが俳諧だ。現代連句とは違う。
2019年9月30日月曜日
2019年9月29日日曜日
さて、今日は旧暦の九月一日。あまり実感はないけどもう晩秋なのか。今日も時折日が射す三十度近い暑さだ。
さて、九月の俳諧ということで、元禄七年の、
戌九月四日會猿雖亭
松風に新酒をすます夜寒哉 支考
を発句とする五十韻を読んでいこうかと思う。
元禄七年(一六九四)の干支は甲戌。猿雖は伊賀の門人で、芭蕉の最後の旅での伊賀滞在中の興行になる。
新酒は前に「一泊り」の巻の三十一句目、
そろそろ寒き秋の炭焼
谷越しに新酒のめと呼る也 蘭夕
の時にも触れたが、江戸初期の四季醸造の頃の古米で秋に仕込む新酒ではなく、延宝元年に寒造り以外の醸造が禁止されたあとなので、早稲で仕込んで晩秋に発酵を終える「あらばしり」だったと思われる。
その一方で安価な酒としてどぶろくも飲まれていたし、自家醸造することも多かった。「名月や」の巻の四句目、
秋をへて庭に定る石の色
未生なれの酒のこころみ 涼葉
はどぶろくだったと思われる。
酒を木炭で濾過する方法は既に室町時代に確立されていたが、この場合の新酒があらばしりのことだとしたら、「新酒をすます」というのは醪(もろみ)の入った袋を吊り下げて、搾り出す過程ではないかと思われる。
こうして出来たあらしぼりは若干白濁しているが、どぶろくに較べれば雲泥の差の澄んだ酒になる。
寒い夜に澄んだ新酒はありがたい。ただ、飲むのは興行が終わってからで、それまで新酒を澄ませておきましょう、ということか。
いずれにせよ猿雖への感謝の意が込められた発句になっている。その亭主の猿雖が脇を付ける。
松風に新酒をすます夜寒哉
月もかたぶく石垣の上 猿雖
興行開始が夕暮れだったのだろう。四日の月が西の空に、今にも沈みそうになっている。石垣は伊賀上野のお城の石垣だろうか。かつて芭蕉はそこで藤堂家に仕えていた。
そして、芭蕉が第三を付ける。
月もかたぶく石垣の上
町の門追はるる鹿のとび越えて 芭蕉
町中に鹿が出てくるあたりはさすが伊賀上野。田舎ですと自分の故郷をやや自嘲気味に詠んでいる。門を飛び越えて出て行った鹿には若い頃の芭蕉自身を重ねているのかもしれない。
四句目。
町の門追はるる鹿のとび越えて
きてはゆかたの裾を引ずる 雪芝
雪芝(せっし)はコトバンクの「デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説」に、
「1670-1711 江戸時代前期-中期の俳人。
寛文10年生まれ。松尾芭蕉(ばしょう)門人。伊賀(いが)(三重県)上野で酒造業をいとなむ。屋号は山田屋。服部土芳(どほう),窪田猿雖(えんすい)らの縁者。句は「続猿蓑(さるみの)」などにのこる。正徳(しょうとく)元年9月28日死去。42歳。名は保俊。通称は七郎右衛門。別号に野松亭。」
とある。発句の「新酒」は雪芝さんの差し入れだったか。
鹿がいきなり出てきたので、あわてたのか浴衣の裾を引きずる。
前句の「とびこえて」に続けることで、「きて」が来てと着ての両方に掛かる。夏に転じてサウナの後の夕涼みの情景とした。
さて、九月の俳諧ということで、元禄七年の、
戌九月四日會猿雖亭
松風に新酒をすます夜寒哉 支考
を発句とする五十韻を読んでいこうかと思う。
元禄七年(一六九四)の干支は甲戌。猿雖は伊賀の門人で、芭蕉の最後の旅での伊賀滞在中の興行になる。
新酒は前に「一泊り」の巻の三十一句目、
そろそろ寒き秋の炭焼
谷越しに新酒のめと呼る也 蘭夕
の時にも触れたが、江戸初期の四季醸造の頃の古米で秋に仕込む新酒ではなく、延宝元年に寒造り以外の醸造が禁止されたあとなので、早稲で仕込んで晩秋に発酵を終える「あらばしり」だったと思われる。
その一方で安価な酒としてどぶろくも飲まれていたし、自家醸造することも多かった。「名月や」の巻の四句目、
秋をへて庭に定る石の色
未生なれの酒のこころみ 涼葉
はどぶろくだったと思われる。
酒を木炭で濾過する方法は既に室町時代に確立されていたが、この場合の新酒があらばしりのことだとしたら、「新酒をすます」というのは醪(もろみ)の入った袋を吊り下げて、搾り出す過程ではないかと思われる。
こうして出来たあらしぼりは若干白濁しているが、どぶろくに較べれば雲泥の差の澄んだ酒になる。
寒い夜に澄んだ新酒はありがたい。ただ、飲むのは興行が終わってからで、それまで新酒を澄ませておきましょう、ということか。
いずれにせよ猿雖への感謝の意が込められた発句になっている。その亭主の猿雖が脇を付ける。
松風に新酒をすます夜寒哉
月もかたぶく石垣の上 猿雖
興行開始が夕暮れだったのだろう。四日の月が西の空に、今にも沈みそうになっている。石垣は伊賀上野のお城の石垣だろうか。かつて芭蕉はそこで藤堂家に仕えていた。
そして、芭蕉が第三を付ける。
月もかたぶく石垣の上
町の門追はるる鹿のとび越えて 芭蕉
町中に鹿が出てくるあたりはさすが伊賀上野。田舎ですと自分の故郷をやや自嘲気味に詠んでいる。門を飛び越えて出て行った鹿には若い頃の芭蕉自身を重ねているのかもしれない。
四句目。
町の門追はるる鹿のとび越えて
きてはゆかたの裾を引ずる 雪芝
雪芝(せっし)はコトバンクの「デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説」に、
「1670-1711 江戸時代前期-中期の俳人。
寛文10年生まれ。松尾芭蕉(ばしょう)門人。伊賀(いが)(三重県)上野で酒造業をいとなむ。屋号は山田屋。服部土芳(どほう),窪田猿雖(えんすい)らの縁者。句は「続猿蓑(さるみの)」などにのこる。正徳(しょうとく)元年9月28日死去。42歳。名は保俊。通称は七郎右衛門。別号に野松亭。」
とある。発句の「新酒」は雪芝さんの差し入れだったか。
鹿がいきなり出てきたので、あわてたのか浴衣の裾を引きずる。
前句の「とびこえて」に続けることで、「きて」が来てと着ての両方に掛かる。夏に転じてサウナの後の夕涼みの情景とした。
2019年9月28日土曜日
ラグビーで日本がアイルランドに勝ったというが、いまいちラグビーはよくわからない。
以前ネット上の連句に参加したとき感じたのは、サッカーをやってると思ってきてみたらラグビーだったということだった。伝統の連歌や俳諧とは似て非なるもので、あるとき誰かが「句が付かなくて何が悪い」とばかりにボールを手で持って走り出してしまったか、という感じだった。
まあそれはそれで楽しんでいる人たちを批判するつもりはない。ただゲームが違うだけだ。
現代連句は基本的に句を付ける、つまり上句と下句を合わせて五七五七七の形で意味が通るように作るというのを放棄している。
たとえば、高橋順子の『連句のたのしみ』(1997、新潮選書)には、こんなことが書いてある。
「子規はこのとき連句を、隣り合った二句の上の句や下の句を共有して読むものだと思っていたようだ。これには驚かされた。こういう解釈では連句は知的ゲーム以外のなにものでもないだろう。『文学に非ず』と打ち棄てたとき、子規は連句を読んでみようともしなかったのではないか。」(p.60)
まず何で「知的ゲーム」であってはいけないのか、その説明がない。それは連句をやる人の間での暗黙のルールなのだろう。
もちろん、正岡子規の認識は間違ったものではない。だからこそ近代俳句から言葉遊びを排除した際、同時に連句も排除したのではなかったか。
そして後になってから近代俳句の中で連句を取り込もうとしたとき、連歌・俳諧は最初から上句と下句をつける知的ゲームではなかったというふうに、歴史を改竄する必要があっただけのことだ。
実際に子規と虚子の両吟(これは『連句のたのしみ』の中で引用されている)を見ても、
萩咲くや崩れ初めたる雲の峯 子規
かげたる月の出づる川上 虚子
うそ寒み里は鎖さぬ家もなし 子規
駕舁二人銭かりに来る 虚子
洗足の湯を流したる夜の雪 子規
残りすくなに風呂吹の味噌 虚子
これを五七五七七の形に直すと、
萩咲くや崩れ初めたる雲の峯かげたる月の出づる川上
うそ寒み里は鎖さぬ家もなしかげたる月の出づる川上
うそ寒み里は鎖さぬ家もなし駕舁二人銭かりに来る
洗足の湯を流したる夜の雪駕舁二人銭かりに来る
洗足の湯を流したる夜の雪残りすくなに風呂吹の味噌
となる。五七五七七の形に直してもそれほど違和感はなく、句がしっかりと付いているのがわかるだろう。
なお、このことに関して、高橋順子はこうも書いている。
「付き過ぎが多いのが目立つが、それはあえて言えば、この時点での子規の連句解釈の誤りから来ていると思われる。歌仙は前句を上半句として、下半句を付けるように詠むと思い込んでいたようだ。三十六首の俳諧歌を並べたようなものだと言っているのだから(つまり、第一句目と第二句目とで一首、第二句目と第三句目とで一首の俳諧歌と考えていったようだ。挙句は発句と並べて一首とするのだろう)。」(p.73)
しかし、間違っているのはどっちだろうか。ためしに中世連歌の代表作である『水無瀬三吟』と、蕉門俳諧の代表作である『灰汁桶の巻』の最初の六句を五七五七七の形にして並べてみよう。
雪ながら山もと霞む夕べかな行く水遠く梅匂う里
川風にひとむら柳春見えて行く水遠く梅匂う里
川風にひとむら柳春見えて船さす音もしるき明け方
月やなほ霧渡る夜に残るらん船さす音もしるき明け方
月やなほ霧渡る夜に残るらん霜置く野原秋は暮れけり
灰汁桶の雫やみけりきりぎりすあぶらかすりて宵寝する秋
新畳敷しきならしたる月かげにあぶらかすりて宵寝する秋
新畳敷しきならしたる月かげにならべて嬉し十のさかづき
千代経べき物を様々子日してならべて嬉し十のさかづき
千代経べき物を様々子日して鶯の音にたびら雪降る
ここでも句がきっちり付いているのは明白だ。
また、「挙句は発句と並べて一首とする」との説は全く意味がない。そのようなルールはかつて存在したことはない。まあ、新たに作って永劫回帰とでも呼ぶのは勝手だが。
少なくとも私が見る限り、正岡子規の連句に対する認識に大きな間違いはなかったと思う。近代連句の推進者たちが勝手にルールを変えてしまっただけのことだ。そしてあとから作ったルールをもとに文学史の改竄に着手する。恐るべき歴史的修正主義だが、子規が芭蕉に写生説を仮託した時点で当然予想できることだった。
ただ、実際のところ、現代連句もちょっと手直しすればちゃんと句が付くようになる。
高橋順子の『連句のたのしみ』に掲載されている連句にしても、
蟲しぐれ坂を上れば宴かな 牙青
忘れたきこと捨てる百舌鳴き 長吉
月笑う子供二人が影踏みて 螢明
狸いできて肩を組みたり 仁衛
遠来の友は名刺をたづさへし 光鬼
半島にあり歌の碑 富士男
という表六句は、
蟲しぐれ坂を上れば宴かな 牙青
忘れたきこと捨てる百舌鳴き 長吉
月笑う子供二人の影ありて 螢明
出でくる狸肩を組みたり 仁衛
遠来の名刺たづさふ友ならん 光鬼
その半島に歌碑建立し 富士男
とでもすれば、ちゃんと付くのだが、それをわざわざ付けないようにして、いかにも言葉遊びなんかないよ、立派な文学だよ、と言っているだけのことだ。
忘れたきこと捨てる百舌鳴き
月笑う子供二人が影踏みて 螢明
この句が付かない原因は、前句の「忘れたきこと捨てる」が子供の考えにしては重過ぎるせいで、もちろん、子供の世界にもいじめはあるし、塾や宿題など、忘れたいことは山ほどある。ただ、影ふみをして遊んでるさなかの子供には、やはりつりあわない。「影ありて」と一歩引いた視点に切り替えれば、この問題は解消される。「忘れたきこと」は子供の遊ぶのを見ている大人の情になる。
月笑う子供二人が影踏みて
狸いできて肩を組みたり 仁衛
この句の付きがまずいのは、「影踏みて」と「狸いできて」と「て」が重複することで、上句と下句をつなげた場合、この二つの「て」が並列されるにもかかわらず、主語が異なることだ。これは「て」重なりを解消すれば、それですむ。
狸いできて肩を組みたり
遠来の友は名刺をたづさへし 光鬼
この句が付かないのは、前句が「狸」という主語に「肩を組みたり」という述語があり、付け句のほうにも「遠来の友」という主語に「たづさへし」という述語があるため、この二つが全く独立してしまい、せっかくの狸=友のあだ名という取り成しが生かされてないためだ。付け句のほうを推量にすれば、友だろうか→狸だと無理なくつながる。
遠来の名刺たづさふ友ならん
半島にあり歌の碑 富士男
遠来の友ならば、半島の歌碑はこの友のものと思われるから、単に「ある」のではなく「作った」ものになる。よって「その半島に歌碑建立し」の方がいい、これで次の、
鳥曇る魔手のかたちの定置網 泣魚
にもすんなりと繋がる。
「鳥曇る」は「鳥曇り」の動詞化した言葉で、鳥曇はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、
「春、渡り鳥が北へ帰る頃の曇り空。《季 春》「ゆく春に佐渡や越後の―/許六」
とある。魔手はそのまんま魔の手のこと。
日本海の定置網の上に魔手のような雲が垂れ込めている。あの海の向こうの半島に歌碑を建立したが、雲行きは良くない。「定置網魔手のかたちに鳥曇る」の方がいいか。
まあ、別に近代俳句や現代連句が悪いということではない。ただ連歌・俳諧とは別のゲームなので特に関心もない。
蟲しぐれ坂を上れば宴かな忘れたきこと捨てる百舌鳴き
月笑う子供二人の影ありて忘れたきこと捨てる百舌鳴き
月笑う子供二人の影ありて出でくる狸肩を組みたり
遠来の名刺たづさふ友ならん出でくる狸肩を組みたり
遠来の名刺たづさふ友ならんその半島に歌碑建立し
これなら同じゲームとして認めるが。
以前ネット上の連句に参加したとき感じたのは、サッカーをやってると思ってきてみたらラグビーだったということだった。伝統の連歌や俳諧とは似て非なるもので、あるとき誰かが「句が付かなくて何が悪い」とばかりにボールを手で持って走り出してしまったか、という感じだった。
まあそれはそれで楽しんでいる人たちを批判するつもりはない。ただゲームが違うだけだ。
現代連句は基本的に句を付ける、つまり上句と下句を合わせて五七五七七の形で意味が通るように作るというのを放棄している。
たとえば、高橋順子の『連句のたのしみ』(1997、新潮選書)には、こんなことが書いてある。
「子規はこのとき連句を、隣り合った二句の上の句や下の句を共有して読むものだと思っていたようだ。これには驚かされた。こういう解釈では連句は知的ゲーム以外のなにものでもないだろう。『文学に非ず』と打ち棄てたとき、子規は連句を読んでみようともしなかったのではないか。」(p.60)
まず何で「知的ゲーム」であってはいけないのか、その説明がない。それは連句をやる人の間での暗黙のルールなのだろう。
もちろん、正岡子規の認識は間違ったものではない。だからこそ近代俳句から言葉遊びを排除した際、同時に連句も排除したのではなかったか。
そして後になってから近代俳句の中で連句を取り込もうとしたとき、連歌・俳諧は最初から上句と下句をつける知的ゲームではなかったというふうに、歴史を改竄する必要があっただけのことだ。
実際に子規と虚子の両吟(これは『連句のたのしみ』の中で引用されている)を見ても、
萩咲くや崩れ初めたる雲の峯 子規
かげたる月の出づる川上 虚子
うそ寒み里は鎖さぬ家もなし 子規
駕舁二人銭かりに来る 虚子
洗足の湯を流したる夜の雪 子規
残りすくなに風呂吹の味噌 虚子
これを五七五七七の形に直すと、
萩咲くや崩れ初めたる雲の峯かげたる月の出づる川上
うそ寒み里は鎖さぬ家もなしかげたる月の出づる川上
うそ寒み里は鎖さぬ家もなし駕舁二人銭かりに来る
洗足の湯を流したる夜の雪駕舁二人銭かりに来る
洗足の湯を流したる夜の雪残りすくなに風呂吹の味噌
となる。五七五七七の形に直してもそれほど違和感はなく、句がしっかりと付いているのがわかるだろう。
なお、このことに関して、高橋順子はこうも書いている。
「付き過ぎが多いのが目立つが、それはあえて言えば、この時点での子規の連句解釈の誤りから来ていると思われる。歌仙は前句を上半句として、下半句を付けるように詠むと思い込んでいたようだ。三十六首の俳諧歌を並べたようなものだと言っているのだから(つまり、第一句目と第二句目とで一首、第二句目と第三句目とで一首の俳諧歌と考えていったようだ。挙句は発句と並べて一首とするのだろう)。」(p.73)
しかし、間違っているのはどっちだろうか。ためしに中世連歌の代表作である『水無瀬三吟』と、蕉門俳諧の代表作である『灰汁桶の巻』の最初の六句を五七五七七の形にして並べてみよう。
雪ながら山もと霞む夕べかな行く水遠く梅匂う里
川風にひとむら柳春見えて行く水遠く梅匂う里
川風にひとむら柳春見えて船さす音もしるき明け方
月やなほ霧渡る夜に残るらん船さす音もしるき明け方
月やなほ霧渡る夜に残るらん霜置く野原秋は暮れけり
灰汁桶の雫やみけりきりぎりすあぶらかすりて宵寝する秋
新畳敷しきならしたる月かげにあぶらかすりて宵寝する秋
新畳敷しきならしたる月かげにならべて嬉し十のさかづき
千代経べき物を様々子日してならべて嬉し十のさかづき
千代経べき物を様々子日して鶯の音にたびら雪降る
ここでも句がきっちり付いているのは明白だ。
また、「挙句は発句と並べて一首とする」との説は全く意味がない。そのようなルールはかつて存在したことはない。まあ、新たに作って永劫回帰とでも呼ぶのは勝手だが。
少なくとも私が見る限り、正岡子規の連句に対する認識に大きな間違いはなかったと思う。近代連句の推進者たちが勝手にルールを変えてしまっただけのことだ。そしてあとから作ったルールをもとに文学史の改竄に着手する。恐るべき歴史的修正主義だが、子規が芭蕉に写生説を仮託した時点で当然予想できることだった。
ただ、実際のところ、現代連句もちょっと手直しすればちゃんと句が付くようになる。
高橋順子の『連句のたのしみ』に掲載されている連句にしても、
蟲しぐれ坂を上れば宴かな 牙青
忘れたきこと捨てる百舌鳴き 長吉
月笑う子供二人が影踏みて 螢明
狸いできて肩を組みたり 仁衛
遠来の友は名刺をたづさへし 光鬼
半島にあり歌の碑 富士男
という表六句は、
蟲しぐれ坂を上れば宴かな 牙青
忘れたきこと捨てる百舌鳴き 長吉
月笑う子供二人の影ありて 螢明
出でくる狸肩を組みたり 仁衛
遠来の名刺たづさふ友ならん 光鬼
その半島に歌碑建立し 富士男
とでもすれば、ちゃんと付くのだが、それをわざわざ付けないようにして、いかにも言葉遊びなんかないよ、立派な文学だよ、と言っているだけのことだ。
忘れたきこと捨てる百舌鳴き
月笑う子供二人が影踏みて 螢明
この句が付かない原因は、前句の「忘れたきこと捨てる」が子供の考えにしては重過ぎるせいで、もちろん、子供の世界にもいじめはあるし、塾や宿題など、忘れたいことは山ほどある。ただ、影ふみをして遊んでるさなかの子供には、やはりつりあわない。「影ありて」と一歩引いた視点に切り替えれば、この問題は解消される。「忘れたきこと」は子供の遊ぶのを見ている大人の情になる。
月笑う子供二人が影踏みて
狸いできて肩を組みたり 仁衛
この句の付きがまずいのは、「影踏みて」と「狸いできて」と「て」が重複することで、上句と下句をつなげた場合、この二つの「て」が並列されるにもかかわらず、主語が異なることだ。これは「て」重なりを解消すれば、それですむ。
狸いできて肩を組みたり
遠来の友は名刺をたづさへし 光鬼
この句が付かないのは、前句が「狸」という主語に「肩を組みたり」という述語があり、付け句のほうにも「遠来の友」という主語に「たづさへし」という述語があるため、この二つが全く独立してしまい、せっかくの狸=友のあだ名という取り成しが生かされてないためだ。付け句のほうを推量にすれば、友だろうか→狸だと無理なくつながる。
遠来の名刺たづさふ友ならん
半島にあり歌の碑 富士男
遠来の友ならば、半島の歌碑はこの友のものと思われるから、単に「ある」のではなく「作った」ものになる。よって「その半島に歌碑建立し」の方がいい、これで次の、
鳥曇る魔手のかたちの定置網 泣魚
にもすんなりと繋がる。
「鳥曇る」は「鳥曇り」の動詞化した言葉で、鳥曇はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、
「春、渡り鳥が北へ帰る頃の曇り空。《季 春》「ゆく春に佐渡や越後の―/許六」
とある。魔手はそのまんま魔の手のこと。
日本海の定置網の上に魔手のような雲が垂れ込めている。あの海の向こうの半島に歌碑を建立したが、雲行きは良くない。「定置網魔手のかたちに鳥曇る」の方がいいか。
まあ、別に近代俳句や現代連句が悪いということではない。ただ連歌・俳諧とは別のゲームなので特に関心もない。
蟲しぐれ坂を上れば宴かな忘れたきこと捨てる百舌鳴き
月笑う子供二人の影ありて忘れたきこと捨てる百舌鳴き
月笑う子供二人の影ありて出でくる狸肩を組みたり
遠来の名刺たづさふ友ならん出でくる狸肩を組みたり
遠来の名刺たづさふ友ならんその半島に歌碑建立し
これなら同じゲームとして認めるが。
2019年9月26日木曜日
きょうは旧暦八月二十八日。もうすぐ九月。ただ、今年は秋の花が遅いように思える。彼岸花がようやく咲き出した。このあたりも温暖化の影響があるのかもしれない。
地球の温暖化は大きな問題だが、原発はひとたび事故を起こしたときの損失が大きすぎるのでお勧めはできない。福島を抱える国民としてそれは断言したい。基本的には再生可能エネルギーを最大限に活用するべきであろう。
また、文明を否定して極度に生産性を下げてしまうと、人は飢餓の恐怖に直面することになる。そうなると地球の養える人口が減り、生活を守るために過酷な生存競争が生じることになる。かつての共産圏では生存競争が密告や讒言によって仲間を蹴落とす戦いとなり、飢餓と粛清の嵐が吹き荒れた。
地球の養える定員が減れば、それだけ口減らしが必要になる。最悪の場合はかつてオウム真理教の説いたハルマゲドンということになる。
再生可能エネルギーの最大限の活用の下に、極力生産性を落とさないようにして、今の豊かさを維持しながら炭酸ガスの排出を抑制しなくてはならない。温暖化対策は苦労や貧困を強いるものではあってはならない。それがセクシーということだ。セクシーは古語で言えば「ゆかし」ということか。
持続的成長は御伽噺ではない。生産性が落ちてもみんなで貧しさを分かち合えるという発想のほうが御伽噺だ。生産性が落ちれば必ず過酷な生存競争になり、飢餓と粛清と戦争で多くの命が失われる。
理性は非情を命じるかもしれないが、惻隠の情はそれを回避する事を求める。
さて、昨日は惻隠の情と羞悪の情の話をしたので、今日はその続きで辞譲と是非について考えてみよう。
「辞譲」の心については、実際にはかなり打算が働いているように思える。つまり、譲ることで譲ってもらえることを期待する、いわゆる恩を着せるということに、どうしても係わってきてしまう。
順位制社会で「譲る」ということは単純に放棄することを意味する。
美味しそうな食べ物を見つけた。だけど強そうなやつがこちらを見ている。ここで食べようとすると襲われそうな気がする。すばやく口の中に入れてしまっても、口の中に手を突っ込まれて奪われるかもしれない。怪我するのはいやだ。ならせっかく見つけた食べ物だけど、ここに置いて逃げることにしよう。これが順位制社会の辞譲だ。
チンパンジーくらいだともう少し頭が良くて、半分千切って投げ捨てていき、安全なところまで逃げて残りの半分を食う。これはお人好しの研究者の目には、仲良く半分こして何ともほほえましい、というように映るようだ。
さて、人間の社会となると、原始的な社会であればあるほど、生活のほとんどの者を譲り合う。狩猟民族は他人が作ってくれた弓矢を用い、捕らえた獲物はどんな小さくてもみんなに分配する。こうしてお互い依存しあうことで仲間の絆を深めるといえば聞こえがいいが、これをしないと排除されるという不安からくるものだ。
有限な大地に無限の恵みはない。しかし人口は常に増えようとする。有限な大地で無限の人口を養うことはできないから、何らかの形で誰かを排除しなくてはならない。これが生存競争の厳しい掟だ。
順位制社会では弱いものから脱落してゆくが、出る杭は打たれる状態に陥った人類は横暴なもの、ケチなものから排除されてゆく。あるいは排除される前に、恥ずかしさから自ら命を絶つ。
それでも人口が増え続ければ、結局隣の村に戦争を仕掛け、一人殺して一人前の大人とみなす。ただ、一方で隣の村も同じことをするからバランスが取れる。
原始的な社会のみならず、多くの社会の下層部では、ギブアンドテイクなんてものはない。ギブは貸しを作ることで、テイクは借りを作ることだ。貸しを作ったままの状態、借りを作ったままの状態でいることで、人間関係というのはいやおうなしに継続させなくてはならなくなる。
それをギブアンドテイクのようにその場で返済が済んでしまえば、人間関係はそれきりになる。現代のように毎日夥しい数の人に接しなければならない社会では、すべての人と永続的関係を維持することは難しい。それどころか名前すら覚えられないだろう。ギブアンドテイクは関係をその場限りで終えたい近代社会で発達した考え方だった。
永六輔作詞の「いきてゆくことは」の歌詞には、
生きているということは誰かに借りをつくること
生きているということはその借りを返していくこと
とあるが、人類は原始からそうして生きてきた。
人類学では「互酬性(ごしゅうせい)」という言葉が使われる、コトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」には、
「互恵性ともいう。人類学において,贈答・交換が成立する原則の一つとみなされる概念。有形無形にかかわらず,それが受取られたならば,その返礼が期待されるというもの。アメリカの人類学者,M.サーリンズは互酬性を3つに分類した。 (1) 一般的互酬性 親族間で食物を分ち合う行為など,すぐにその返礼が実行されなくてもよいもの。 (2) 均衡的互酬性 与えられたものに対して,できるかぎり決った期限内に返済されることが期待されるもの。 (3) 否定的互酬性 みずからは何も与えず相手からは最大限に奪おうとするもの。詐欺,賭け,どろぼうなどを含む敵対関係の行為といえる。そのほか,フランスの人類学者 C.レビ=ストロースは,婚姻を女性の交換ととらえ,そこでも互酬性が適用されると指摘した。これらの互酬性による均衡が破られたとき,当事者間には社会的地位の上下が生じるが,これはときには負い目意識となって,再び均衡がはかられる。このように均衡を求め続けることによって人間関係は継続し,進展しているともいえる。アメリカの R.ベネディクトによれば,日本社会における「恩」は無限の,「義理」は有限の負い目意識としてとらえられる。」
とある。
家庭だけでなく、村社会でも、人間関係の永続性を必要とする時には、できる限り返済を遅らせたほうがいい。不均衡の状態が維持されている限り、人は恩と義理で縛られ、その社会の中に繋ぎとめられる。ひとたび均衡に至ると、貸し借りなしということで、そこで関係が切れてしまうことになる。昔は飲み屋の付けは完済するなと言われていたらしい。完済は「もう来ない」という意味になるからだ。
永続的な関係が求められる時には基本的に「一般的互酬性」になる。「均衡的互酬性」は一時的な関係で済ませたいときに用いられる。たとえばヤクザに何かをもらった時には、そのもらった物の値段の相場を調べ、速やかに返済しなくてはならない。返済が遅れるとずるずると腐れ縁になってしまう。基本的には受け取らないのが一番いいのだけど。
「否定的互酬性」は村同士の戦争のように、その時は一方的に始まるが、やられた方はいつかやり返しても文句はないだろうという所で関係性を維持する事ができる。
今日の考え方だと、やられたら即謝罪と賠償ということになるが、それだと「均衡的互酬性」になり、関係が切れてしまう。
まあ、いくら謝罪と賠償が行われても、なおも請求し続ければ腐れ縁のように関係は維持されるわけだが、請求され続けるほうに不満がたまるのは避けられない。
辞譲は人間が社会的関係を維持するのに欠かせない心情で、基本的には譲るけど返済を求めない気前良さを特徴とする。無理に返済を求め本当に返済されてしまうとそこで関係が切れてしまい、社会から孤立する恐れがあるからだ。太っ腹は慕われ、ケチは孤立する。孤立すれば社会からの排除の対象になりやすくなる。そこから人は気前良さを進化させた。
だからといって与えっぱなしということではない。贈与を恩義と感じ、返済を義務だというのが暗黙の前提にあって、はじめて太っ腹が人間関係の永続に繋がる。相手が恩知らずだったら、ただ損してそれで終わりになる。辞譲は一般的互酬性が前提されて初めて成立する。
礼という意味では、頭を下げるというのは自分を小さく見せることで、順位制社会では降参を意味する。微笑みは勝ち誇った笑いとは異なり、無防備である事をさらけ出す。基本的には相手に勝ちを譲ることを意味し、譲ることで債権者となる。俳諧の笑いも、基本的に挨拶の微笑であり、誰かを笑いものにして勝ち誇ることではない。
「是非」の情は西洋的な実践理性に近いのかもしれない。是非の字を重ねて是々非々と言うこともあるが、ようするに「なるものはなる、ならぬものはならぬ」ということだが、このことは「掟」あるいは「法」に関係する。「けじめ」という日本語もある。
辞譲は行動に関しても、ある程度の迷惑には目をつぶることで恩を着せることができるし、ある程度の不均衡を容認することも、恩を着せることになる。ただそれが有り余る時、「一般的互酬性」の維持が困難になり、「均衡的互酬性」を求めることに繋がる。
つまり、縁をこれ以上維持しても割が合わないときには、縁を切るという選択肢がある。これは原始的な社会ではそのまま排除ということになり、追放されて野垂れ死にするか、それ以前に恥ずかしさから自殺するか、あるいは突発的に生じる過剰なストレスによってそのまま突然死に至ることすらある。ある程度文明化した社会なら、都市へ行って生きながらえることもできるが。
ただ、その判断は生殺与奪に係わるものなので、怒りに任せてのものであってはいけない。それだと不公平が生じ恨みを残すことになる。
そこから、ここまでは許せるがこれ以上は許せないという線引きが必要になる。これが立法の起源になる。
「均衡的互酬性」はそのまま関係の断絶にするのではなく、一度過去の負債を清算して、そこから新たな関係を始めるということもできる。「罰」というのは責任を有限にすることに意味がある。
法を定め、責任を有限化し、恨みと報復の連鎖で社会が破滅すのを防ぐのは人間の知恵であり、この知恵は「是非」の情から始まる。
「惻隠の情」は人間同士、助けと許しをもたらすことで「仁」のもととなる。
「羞悪の情」は仲間はずれを恐れることで、排除されないためにすべきことという意味での「義」をもたらす。
「辞譲の情」は気前良くふるまうことで永続的な人間関係を築く。ここに「礼」が生じる。
「是非の情」は許せるものと許せないものに一定の基準をもたらすことで責任を有限化し、掟によって律するという「智」をもたらす。
これらは順位制社会の中で進化した他の感情とは異なり、出る杭は打たれる社会で育まれた、新たな感情の層を生み出す。古い感情は「気」に属し、新しい感情は「理」の属する。支考が『俳諧十論』で言ったように、気が先にあって理は後から進化した。
人間が人間になることで生じた「理」は「道」とも「誠」とも呼ばれ、風流の道は基本的にそれを目指すことになる。
地球の温暖化は大きな問題だが、原発はひとたび事故を起こしたときの損失が大きすぎるのでお勧めはできない。福島を抱える国民としてそれは断言したい。基本的には再生可能エネルギーを最大限に活用するべきであろう。
また、文明を否定して極度に生産性を下げてしまうと、人は飢餓の恐怖に直面することになる。そうなると地球の養える人口が減り、生活を守るために過酷な生存競争が生じることになる。かつての共産圏では生存競争が密告や讒言によって仲間を蹴落とす戦いとなり、飢餓と粛清の嵐が吹き荒れた。
地球の養える定員が減れば、それだけ口減らしが必要になる。最悪の場合はかつてオウム真理教の説いたハルマゲドンということになる。
再生可能エネルギーの最大限の活用の下に、極力生産性を落とさないようにして、今の豊かさを維持しながら炭酸ガスの排出を抑制しなくてはならない。温暖化対策は苦労や貧困を強いるものではあってはならない。それがセクシーということだ。セクシーは古語で言えば「ゆかし」ということか。
持続的成長は御伽噺ではない。生産性が落ちてもみんなで貧しさを分かち合えるという発想のほうが御伽噺だ。生産性が落ちれば必ず過酷な生存競争になり、飢餓と粛清と戦争で多くの命が失われる。
理性は非情を命じるかもしれないが、惻隠の情はそれを回避する事を求める。
さて、昨日は惻隠の情と羞悪の情の話をしたので、今日はその続きで辞譲と是非について考えてみよう。
「辞譲」の心については、実際にはかなり打算が働いているように思える。つまり、譲ることで譲ってもらえることを期待する、いわゆる恩を着せるということに、どうしても係わってきてしまう。
順位制社会で「譲る」ということは単純に放棄することを意味する。
美味しそうな食べ物を見つけた。だけど強そうなやつがこちらを見ている。ここで食べようとすると襲われそうな気がする。すばやく口の中に入れてしまっても、口の中に手を突っ込まれて奪われるかもしれない。怪我するのはいやだ。ならせっかく見つけた食べ物だけど、ここに置いて逃げることにしよう。これが順位制社会の辞譲だ。
チンパンジーくらいだともう少し頭が良くて、半分千切って投げ捨てていき、安全なところまで逃げて残りの半分を食う。これはお人好しの研究者の目には、仲良く半分こして何ともほほえましい、というように映るようだ。
さて、人間の社会となると、原始的な社会であればあるほど、生活のほとんどの者を譲り合う。狩猟民族は他人が作ってくれた弓矢を用い、捕らえた獲物はどんな小さくてもみんなに分配する。こうしてお互い依存しあうことで仲間の絆を深めるといえば聞こえがいいが、これをしないと排除されるという不安からくるものだ。
有限な大地に無限の恵みはない。しかし人口は常に増えようとする。有限な大地で無限の人口を養うことはできないから、何らかの形で誰かを排除しなくてはならない。これが生存競争の厳しい掟だ。
順位制社会では弱いものから脱落してゆくが、出る杭は打たれる状態に陥った人類は横暴なもの、ケチなものから排除されてゆく。あるいは排除される前に、恥ずかしさから自ら命を絶つ。
それでも人口が増え続ければ、結局隣の村に戦争を仕掛け、一人殺して一人前の大人とみなす。ただ、一方で隣の村も同じことをするからバランスが取れる。
原始的な社会のみならず、多くの社会の下層部では、ギブアンドテイクなんてものはない。ギブは貸しを作ることで、テイクは借りを作ることだ。貸しを作ったままの状態、借りを作ったままの状態でいることで、人間関係というのはいやおうなしに継続させなくてはならなくなる。
それをギブアンドテイクのようにその場で返済が済んでしまえば、人間関係はそれきりになる。現代のように毎日夥しい数の人に接しなければならない社会では、すべての人と永続的関係を維持することは難しい。それどころか名前すら覚えられないだろう。ギブアンドテイクは関係をその場限りで終えたい近代社会で発達した考え方だった。
永六輔作詞の「いきてゆくことは」の歌詞には、
生きているということは誰かに借りをつくること
生きているということはその借りを返していくこと
とあるが、人類は原始からそうして生きてきた。
人類学では「互酬性(ごしゅうせい)」という言葉が使われる、コトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」には、
「互恵性ともいう。人類学において,贈答・交換が成立する原則の一つとみなされる概念。有形無形にかかわらず,それが受取られたならば,その返礼が期待されるというもの。アメリカの人類学者,M.サーリンズは互酬性を3つに分類した。 (1) 一般的互酬性 親族間で食物を分ち合う行為など,すぐにその返礼が実行されなくてもよいもの。 (2) 均衡的互酬性 与えられたものに対して,できるかぎり決った期限内に返済されることが期待されるもの。 (3) 否定的互酬性 みずからは何も与えず相手からは最大限に奪おうとするもの。詐欺,賭け,どろぼうなどを含む敵対関係の行為といえる。そのほか,フランスの人類学者 C.レビ=ストロースは,婚姻を女性の交換ととらえ,そこでも互酬性が適用されると指摘した。これらの互酬性による均衡が破られたとき,当事者間には社会的地位の上下が生じるが,これはときには負い目意識となって,再び均衡がはかられる。このように均衡を求め続けることによって人間関係は継続し,進展しているともいえる。アメリカの R.ベネディクトによれば,日本社会における「恩」は無限の,「義理」は有限の負い目意識としてとらえられる。」
とある。
家庭だけでなく、村社会でも、人間関係の永続性を必要とする時には、できる限り返済を遅らせたほうがいい。不均衡の状態が維持されている限り、人は恩と義理で縛られ、その社会の中に繋ぎとめられる。ひとたび均衡に至ると、貸し借りなしということで、そこで関係が切れてしまうことになる。昔は飲み屋の付けは完済するなと言われていたらしい。完済は「もう来ない」という意味になるからだ。
永続的な関係が求められる時には基本的に「一般的互酬性」になる。「均衡的互酬性」は一時的な関係で済ませたいときに用いられる。たとえばヤクザに何かをもらった時には、そのもらった物の値段の相場を調べ、速やかに返済しなくてはならない。返済が遅れるとずるずると腐れ縁になってしまう。基本的には受け取らないのが一番いいのだけど。
「否定的互酬性」は村同士の戦争のように、その時は一方的に始まるが、やられた方はいつかやり返しても文句はないだろうという所で関係性を維持する事ができる。
今日の考え方だと、やられたら即謝罪と賠償ということになるが、それだと「均衡的互酬性」になり、関係が切れてしまう。
まあ、いくら謝罪と賠償が行われても、なおも請求し続ければ腐れ縁のように関係は維持されるわけだが、請求され続けるほうに不満がたまるのは避けられない。
辞譲は人間が社会的関係を維持するのに欠かせない心情で、基本的には譲るけど返済を求めない気前良さを特徴とする。無理に返済を求め本当に返済されてしまうとそこで関係が切れてしまい、社会から孤立する恐れがあるからだ。太っ腹は慕われ、ケチは孤立する。孤立すれば社会からの排除の対象になりやすくなる。そこから人は気前良さを進化させた。
だからといって与えっぱなしということではない。贈与を恩義と感じ、返済を義務だというのが暗黙の前提にあって、はじめて太っ腹が人間関係の永続に繋がる。相手が恩知らずだったら、ただ損してそれで終わりになる。辞譲は一般的互酬性が前提されて初めて成立する。
礼という意味では、頭を下げるというのは自分を小さく見せることで、順位制社会では降参を意味する。微笑みは勝ち誇った笑いとは異なり、無防備である事をさらけ出す。基本的には相手に勝ちを譲ることを意味し、譲ることで債権者となる。俳諧の笑いも、基本的に挨拶の微笑であり、誰かを笑いものにして勝ち誇ることではない。
「是非」の情は西洋的な実践理性に近いのかもしれない。是非の字を重ねて是々非々と言うこともあるが、ようするに「なるものはなる、ならぬものはならぬ」ということだが、このことは「掟」あるいは「法」に関係する。「けじめ」という日本語もある。
辞譲は行動に関しても、ある程度の迷惑には目をつぶることで恩を着せることができるし、ある程度の不均衡を容認することも、恩を着せることになる。ただそれが有り余る時、「一般的互酬性」の維持が困難になり、「均衡的互酬性」を求めることに繋がる。
つまり、縁をこれ以上維持しても割が合わないときには、縁を切るという選択肢がある。これは原始的な社会ではそのまま排除ということになり、追放されて野垂れ死にするか、それ以前に恥ずかしさから自殺するか、あるいは突発的に生じる過剰なストレスによってそのまま突然死に至ることすらある。ある程度文明化した社会なら、都市へ行って生きながらえることもできるが。
ただ、その判断は生殺与奪に係わるものなので、怒りに任せてのものであってはいけない。それだと不公平が生じ恨みを残すことになる。
そこから、ここまでは許せるがこれ以上は許せないという線引きが必要になる。これが立法の起源になる。
「均衡的互酬性」はそのまま関係の断絶にするのではなく、一度過去の負債を清算して、そこから新たな関係を始めるということもできる。「罰」というのは責任を有限にすることに意味がある。
法を定め、責任を有限化し、恨みと報復の連鎖で社会が破滅すのを防ぐのは人間の知恵であり、この知恵は「是非」の情から始まる。
「惻隠の情」は人間同士、助けと許しをもたらすことで「仁」のもととなる。
「羞悪の情」は仲間はずれを恐れることで、排除されないためにすべきことという意味での「義」をもたらす。
「辞譲の情」は気前良くふるまうことで永続的な人間関係を築く。ここに「礼」が生じる。
「是非の情」は許せるものと許せないものに一定の基準をもたらすことで責任を有限化し、掟によって律するという「智」をもたらす。
これらは順位制社会の中で進化した他の感情とは異なり、出る杭は打たれる社会で育まれた、新たな感情の層を生み出す。古い感情は「気」に属し、新しい感情は「理」の属する。支考が『俳諧十論』で言ったように、気が先にあって理は後から進化した。
人間が人間になることで生じた「理」は「道」とも「誠」とも呼ばれ、風流の道は基本的にそれを目指すことになる。
2019年9月25日水曜日
トゥンベリさんはリアル・ナウシカだね。「天気の子」は見たのかな。
日本で温暖化対策が盛り上がらないのは、これを声高に言うといわゆる原発村(原発推進派の政府、官僚、電力会社、重電メーカーなどの癒着構造)の人たちが調子づいてしまうからだ。
二〇〇九年に民主党の鳩山首相がニューヨークの国連気候変動サミットで温室効果ガスの二十五%削減を公約し、そのために翌年原発十四基の大増設を承認したことは今でもトラウマとなっている。福島第一原発の事故はその翌年の二〇一一年だった。
そういうわけでトゥンベリさんにお願いしたいのは、温暖化だけでなく脱原発についても同じくらい重点をおいて活動してほしいなということで、そこんとこよろしく。
さて昨日の続きで、今日は四端の惻隠と羞悪について考えてみようと思う。
「惻隠」は単なる共感能力ではない。共感能力はただ他人の状態を推し量るだけのもので、この能力があるが故にむしろ人間は「意地悪」が可能になる。
つまり相手が何をされると一番困るかを知っているから、その一番困ることをして攻撃することもできる。相手の悲しみがわかるから、その悲しみに鞭打つようなこともできてしまう。
惻隠の情は単なる共感能力ではなく、むしろ相手の気持ちがわかるかどうか以前に「助けたい」と思う気持ちだと考えたほうがいい。
親が我子を守るのは本能だが、人間はそれを他人に対してのみならず、動物や植物や自然そのものへとほとんど際限なく拡大することができる。
ただ、そこには当然優先順位はある。人類を滅ぼしてまで自然を守るというのは理性では可能かもしれないが、自然の情には反する。
同様、他人のこと自分の子が溺れていた時どちらを先に助けるかといえば、自分の子供に決まっている。自分の子も他人の子も平等に生きる権利を有すると言うのは理性としては可能だが、自然の情に反する。
誰にだって特別な人はいるし、誰よりも優先的に守りたい人はいる。それは自然の情だが、理性は時として非情で、生理的に嫌悪をもよおすようなことでも平気で命じることができる。思想の恐さというのはそこにある。
順位制社会では常に相手より優位に立つことが大事だから、共感能力も意地悪にしか利用しない。ただ、そうして弱いものを痛めつけていると、被害者同士が共感しあって、みんなで一緒にあいつをやっつけよう、ということになる。そうなってくると一対一での強さは無意味になる。人間は共感能力が発達しすぎたため、結局誰もが集団で袋叩き似合うことを恐れるようになり、それを防ぐには相手を痛めつけたりして恨みを買わないようにする事が重要になる。
生きるためには相手が嫌がるようなことを極力しないようにする。それをやれば袋叩きにあう。それが惻隠の情の起源と言えよう。
こうして人は進んで利他行動を行うようになった。こうした中で、生まれながらに利他的にふるまう遺伝子が生まれれば、打算で利他的にふるまうものよりも多くの人に信用され、生存率や子孫を残す率を高めてゆく。
孟子も言っているように、井戸に落ちかけた子供を助けるのは、その父母に恩を売るためでもなければ、子供の命を救った英雄になるためでもないし、これをしなくては非難されるかれでもない。
ただし、こうした行動が進化できたのは、実際にはそのことによって自分もまた危険な目にあったときに助けてもらえたし、集団の中での信頼を得る事ができたし、それをやらなかったものが集団から排除されることもあったからだ。似せものでも利他行動によって成り立つ社会は、天然の利他主義者を産む土壌になる。
現代の社会でも実際の所孟子の考えるような善人ばかりではない。ただ、たとえ建前でも利他行動によって成り立つ社会では、お人よしも生きられる。そのために仁義礼知の徳を説かなくてはならないのであって、本当に善人ばかりだったら、老子の言うようなそれを仁と呼ぶこともない無為自然の社会になっていたはずだ。
惻隠の情(心)というと、芭蕉の『野ざらし紀行』の富士川での、
猿を聞く人捨子に秋の風いかに 芭蕉
の句に対し、素堂が波静本への序で、
「富士川の捨子ハ惻隠(そくいん)の心を見えける。かかるはやき瀬を枕としてすて置けん、さすがに流よとハ思ハざらまし。身にかふる物ぞなかりき。みどり子はやらむかたなくかなしけれどもと、むかしの人のすて心までおもひよせてあはれならずや。」
と言い、濁子本の後書きで、
「富士の捨子ハ其(その)親にあらずして天をなくや。なく子ハ独りなる往来いくばく人の仁の端をかみる。猿を聞人に一等の悲しミをくはへて今猶三声のなみだたりぬ。」
とあるのを思い起こさせる。
これは『野ざらし紀行』の句の後の地の文、
「いかにぞや、汝ちちに悪(にく)まれたるか、母にうとまれたるか。ちちは汝を悪むにあらじ、母は汝をうとむにあらじ。唯これ天にして、汝の性(さが)のつたなきをなけ。」
に応じたもので、突き放した非情とも取れる文章の中に、捨て子の命だけでなく、父や母のやむを得ぬ事情にまで想像をめぐらし、今の自分に最善の回答がないことを悲しむことを惻隠の心としている。もちろん当時は孤児院なんてものはなかったし、行政が捨て子を保護することもなかった。
ただ、こういう心の叫びが多くの人の心を動かせば、いつか誰かが孤児院を思いつき、行政に捨て子の保護を義務付けるという発想も生まれてくることになる。そのための風流だといってもいい。風流は回答は出せなくても心を動かすことならできる。
惻隠の情は人間だけでなく、広く自然全体にも拡張できる。花の咲くのを喜び散るのを惜しむのも、春の万物を生じるのを喜び秋に止むのを悲しむのも、基本的には同じ情ではないかと思う。
羞惡の情については繰返しになるが、2018年11月28日の俳話で、
「恥というのは本来は危険に対して回避を促す反応である。動悸や赤面や体の震えなどの身体的な変化も、本来は危機を回避するためのものだった。
ただ、順位制社会においては、危険は毒蛇や猛獣などの外敵であったり、内部的には自分より強い個体であったり、対象がはっきり特定しやすい。これに対し、出る杭は打たれる状態に陥った人類の祖先にとって、人間関係の中で、不特定多数の他者が結束して襲ってくるかもしれないというものが重要となる。しかし、これは具体的に誰と誰がというふうに特定しにくく、あくまで想像上の漠然とした危険となる。人間関係の中で、想像上の形のない、それでいて現実に起りうる危険に対し、その危険の回避を促す生理的な反応として、人間独自の恥の意識が生じる。」
と書いている。
恥は単に人と違うということが不安をもたらすだけで、必ずしも善悪には関係しない。以前にも、
「恥というのは基本的には所属する人間関係からの排除の恐怖であり、必ずしも倫理的に善であるとは限らない。たとえば、電車でお年寄りに席を譲ったり、奉仕活動で道端のゴミを拾うような、明らかな善行であっても、実際にはそこに気恥ずかしさをともなう場合が多い。これに対し、実際には悪いことであっても、みんながやっていることについては、それほど恥の意識はない。
恥ずかしさは、善か悪かにかかわらず、みんなとちがうことをやっているのではないかという不安から生じる。」
と書いた。
ただ、人間関係が基本的に善だとするなら、そこから排除されるものは悪だということにもなる。社会が複雑で重層的になれば、ある社会で善なものがある社会で悪になったりもするが、単純な田舎の村落ではそれほど問題にはならないのだろう。
羞恥心に関して最も重要なのは性的羞恥心かもしれない。
恋は集団の中での人間関係を大きく変える可能性を含んでいる。婚姻によって両家のみならず他家との勢力関係も変わるかもしれないし、婚姻に至らなければまた恨みが残り、それがまた人間関係に微妙に影響する。それに加えて恋は恋敵を生じ、激しい嫉妬からしばしば刃傷沙汰にも発展するし、過度な執着はストーカー行為に至る。
こうした人間関係の劇的な変化を予感させる恋の情に、不安がないはずがない。人間関係の中で、想像上の形のない、それでいて現実に起りうる危険に対し、その危険の回避を促す生理的な反応が「恥」ならば、恋はまさに「嬉し恥ずかし」だ。
恋が風流の最大のテーマとなるのは、単なる犯罪以上に恋は人間関係を大きく動かすからだ。しかもそこに何が善なのか悪なのか、簡単に答えの出ないことばかりだから、恋は人間にとっての永遠の謎だ。
性交を隠すこと自体は順位制社会の頃から行われている。ただ、この場合は強いものによる妨害を恐れるためで、恥ずかしさからではない。恐怖はあくまで直接的で具体的なもので、潜在的なものではない。
羞悪は「廉恥」ともいう。この廉恥も死語だが、破廉恥という言葉も最近はあまり聞かなくなっている。筆者の子供の頃には永井豪の『ハレンチ学園』という漫画が一世を風靡したが、ハレンチももはや死語か。なんか世の中が赤城大空の小説のタイトルではないが「下ネタという概念が存在しない退屈な世界」になりつつあるように思えてくる。
赤城大空といえば『出会ってひと突きで絶頂除霊!』は世代的に筒井康隆の再来ではないかと思わせてくれる。
「廉恥」は一応コトバンクの「デジタル大辞泉の解説」には、
「心が清らかで、恥を知る心が強いこと。「破廉恥」
「一身の―既に地を払て尽きたり」〈福沢・学問のすゝめ〉
とある。
日本で温暖化対策が盛り上がらないのは、これを声高に言うといわゆる原発村(原発推進派の政府、官僚、電力会社、重電メーカーなどの癒着構造)の人たちが調子づいてしまうからだ。
二〇〇九年に民主党の鳩山首相がニューヨークの国連気候変動サミットで温室効果ガスの二十五%削減を公約し、そのために翌年原発十四基の大増設を承認したことは今でもトラウマとなっている。福島第一原発の事故はその翌年の二〇一一年だった。
そういうわけでトゥンベリさんにお願いしたいのは、温暖化だけでなく脱原発についても同じくらい重点をおいて活動してほしいなということで、そこんとこよろしく。
さて昨日の続きで、今日は四端の惻隠と羞悪について考えてみようと思う。
「惻隠」は単なる共感能力ではない。共感能力はただ他人の状態を推し量るだけのもので、この能力があるが故にむしろ人間は「意地悪」が可能になる。
つまり相手が何をされると一番困るかを知っているから、その一番困ることをして攻撃することもできる。相手の悲しみがわかるから、その悲しみに鞭打つようなこともできてしまう。
惻隠の情は単なる共感能力ではなく、むしろ相手の気持ちがわかるかどうか以前に「助けたい」と思う気持ちだと考えたほうがいい。
親が我子を守るのは本能だが、人間はそれを他人に対してのみならず、動物や植物や自然そのものへとほとんど際限なく拡大することができる。
ただ、そこには当然優先順位はある。人類を滅ぼしてまで自然を守るというのは理性では可能かもしれないが、自然の情には反する。
同様、他人のこと自分の子が溺れていた時どちらを先に助けるかといえば、自分の子供に決まっている。自分の子も他人の子も平等に生きる権利を有すると言うのは理性としては可能だが、自然の情に反する。
誰にだって特別な人はいるし、誰よりも優先的に守りたい人はいる。それは自然の情だが、理性は時として非情で、生理的に嫌悪をもよおすようなことでも平気で命じることができる。思想の恐さというのはそこにある。
順位制社会では常に相手より優位に立つことが大事だから、共感能力も意地悪にしか利用しない。ただ、そうして弱いものを痛めつけていると、被害者同士が共感しあって、みんなで一緒にあいつをやっつけよう、ということになる。そうなってくると一対一での強さは無意味になる。人間は共感能力が発達しすぎたため、結局誰もが集団で袋叩き似合うことを恐れるようになり、それを防ぐには相手を痛めつけたりして恨みを買わないようにする事が重要になる。
生きるためには相手が嫌がるようなことを極力しないようにする。それをやれば袋叩きにあう。それが惻隠の情の起源と言えよう。
こうして人は進んで利他行動を行うようになった。こうした中で、生まれながらに利他的にふるまう遺伝子が生まれれば、打算で利他的にふるまうものよりも多くの人に信用され、生存率や子孫を残す率を高めてゆく。
孟子も言っているように、井戸に落ちかけた子供を助けるのは、その父母に恩を売るためでもなければ、子供の命を救った英雄になるためでもないし、これをしなくては非難されるかれでもない。
ただし、こうした行動が進化できたのは、実際にはそのことによって自分もまた危険な目にあったときに助けてもらえたし、集団の中での信頼を得る事ができたし、それをやらなかったものが集団から排除されることもあったからだ。似せものでも利他行動によって成り立つ社会は、天然の利他主義者を産む土壌になる。
現代の社会でも実際の所孟子の考えるような善人ばかりではない。ただ、たとえ建前でも利他行動によって成り立つ社会では、お人よしも生きられる。そのために仁義礼知の徳を説かなくてはならないのであって、本当に善人ばかりだったら、老子の言うようなそれを仁と呼ぶこともない無為自然の社会になっていたはずだ。
惻隠の情(心)というと、芭蕉の『野ざらし紀行』の富士川での、
猿を聞く人捨子に秋の風いかに 芭蕉
の句に対し、素堂が波静本への序で、
「富士川の捨子ハ惻隠(そくいん)の心を見えける。かかるはやき瀬を枕としてすて置けん、さすがに流よとハ思ハざらまし。身にかふる物ぞなかりき。みどり子はやらむかたなくかなしけれどもと、むかしの人のすて心までおもひよせてあはれならずや。」
と言い、濁子本の後書きで、
「富士の捨子ハ其(その)親にあらずして天をなくや。なく子ハ独りなる往来いくばく人の仁の端をかみる。猿を聞人に一等の悲しミをくはへて今猶三声のなみだたりぬ。」
とあるのを思い起こさせる。
これは『野ざらし紀行』の句の後の地の文、
「いかにぞや、汝ちちに悪(にく)まれたるか、母にうとまれたるか。ちちは汝を悪むにあらじ、母は汝をうとむにあらじ。唯これ天にして、汝の性(さが)のつたなきをなけ。」
に応じたもので、突き放した非情とも取れる文章の中に、捨て子の命だけでなく、父や母のやむを得ぬ事情にまで想像をめぐらし、今の自分に最善の回答がないことを悲しむことを惻隠の心としている。もちろん当時は孤児院なんてものはなかったし、行政が捨て子を保護することもなかった。
ただ、こういう心の叫びが多くの人の心を動かせば、いつか誰かが孤児院を思いつき、行政に捨て子の保護を義務付けるという発想も生まれてくることになる。そのための風流だといってもいい。風流は回答は出せなくても心を動かすことならできる。
惻隠の情は人間だけでなく、広く自然全体にも拡張できる。花の咲くのを喜び散るのを惜しむのも、春の万物を生じるのを喜び秋に止むのを悲しむのも、基本的には同じ情ではないかと思う。
羞惡の情については繰返しになるが、2018年11月28日の俳話で、
「恥というのは本来は危険に対して回避を促す反応である。動悸や赤面や体の震えなどの身体的な変化も、本来は危機を回避するためのものだった。
ただ、順位制社会においては、危険は毒蛇や猛獣などの外敵であったり、内部的には自分より強い個体であったり、対象がはっきり特定しやすい。これに対し、出る杭は打たれる状態に陥った人類の祖先にとって、人間関係の中で、不特定多数の他者が結束して襲ってくるかもしれないというものが重要となる。しかし、これは具体的に誰と誰がというふうに特定しにくく、あくまで想像上の漠然とした危険となる。人間関係の中で、想像上の形のない、それでいて現実に起りうる危険に対し、その危険の回避を促す生理的な反応として、人間独自の恥の意識が生じる。」
と書いている。
恥は単に人と違うということが不安をもたらすだけで、必ずしも善悪には関係しない。以前にも、
「恥というのは基本的には所属する人間関係からの排除の恐怖であり、必ずしも倫理的に善であるとは限らない。たとえば、電車でお年寄りに席を譲ったり、奉仕活動で道端のゴミを拾うような、明らかな善行であっても、実際にはそこに気恥ずかしさをともなう場合が多い。これに対し、実際には悪いことであっても、みんながやっていることについては、それほど恥の意識はない。
恥ずかしさは、善か悪かにかかわらず、みんなとちがうことをやっているのではないかという不安から生じる。」
と書いた。
ただ、人間関係が基本的に善だとするなら、そこから排除されるものは悪だということにもなる。社会が複雑で重層的になれば、ある社会で善なものがある社会で悪になったりもするが、単純な田舎の村落ではそれほど問題にはならないのだろう。
羞恥心に関して最も重要なのは性的羞恥心かもしれない。
恋は集団の中での人間関係を大きく変える可能性を含んでいる。婚姻によって両家のみならず他家との勢力関係も変わるかもしれないし、婚姻に至らなければまた恨みが残り、それがまた人間関係に微妙に影響する。それに加えて恋は恋敵を生じ、激しい嫉妬からしばしば刃傷沙汰にも発展するし、過度な執着はストーカー行為に至る。
こうした人間関係の劇的な変化を予感させる恋の情に、不安がないはずがない。人間関係の中で、想像上の形のない、それでいて現実に起りうる危険に対し、その危険の回避を促す生理的な反応が「恥」ならば、恋はまさに「嬉し恥ずかし」だ。
恋が風流の最大のテーマとなるのは、単なる犯罪以上に恋は人間関係を大きく動かすからだ。しかもそこに何が善なのか悪なのか、簡単に答えの出ないことばかりだから、恋は人間にとっての永遠の謎だ。
性交を隠すこと自体は順位制社会の頃から行われている。ただ、この場合は強いものによる妨害を恐れるためで、恥ずかしさからではない。恐怖はあくまで直接的で具体的なもので、潜在的なものではない。
羞悪は「廉恥」ともいう。この廉恥も死語だが、破廉恥という言葉も最近はあまり聞かなくなっている。筆者の子供の頃には永井豪の『ハレンチ学園』という漫画が一世を風靡したが、ハレンチももはや死語か。なんか世の中が赤城大空の小説のタイトルではないが「下ネタという概念が存在しない退屈な世界」になりつつあるように思えてくる。
赤城大空といえば『出会ってひと突きで絶頂除霊!』は世代的に筒井康隆の再来ではないかと思わせてくれる。
「廉恥」は一応コトバンクの「デジタル大辞泉の解説」には、
「心が清らかで、恥を知る心が強いこと。「破廉恥」
「一身の―既に地を払て尽きたり」〈福沢・学問のすゝめ〉
とある。
2019年9月24日火曜日
やれ反日だ嫌韓だのネットやマスコミはやたら騒がしいし、国論が二分されているかのような印象操作がなされているが、実際の所ほとんどの日本人からすればどうでもいいことだ。
反日もごく一部の人たち、多分反安倍と一緒で十五パーセントもいればいい。嫌韓に至ってはおそらく一パーセントにも満たないと思う。
ネットやマスコミはやれ差別だのヘイトだの言っているけど、今の日韓の対立はもっと単純なもので、米中第二の冷戦といわれる中でどっちに付くかという地政学的問題だと思う。沖縄の基地問題も基本的に同じだと思う。むしろその辺のイデオロギーの問題をごまかすために、左翼やマスコミは人道の問題にすり替えようとしている。
まあ、そういうなかで、あまり感情的に声を荒げる連中とは係わりたくないし、だからといって日韓の問題を無視するつもりもない。風流の道と関係する所は一応押えておこうかと思う。
おそらく日本の俳諧に最も大きな影響を与えた韓国人といえば、李退渓(イ・テゲ)をおいて他にないだろう。
なぜ俳諧にかというと、李退渓は藤原惺窩・林羅山・山崎闇斎といった江戸時代の朱子学を確立した人たちに大きな影響を与えたし、その藤原惺窩・林羅山と親交のあった松永貞徳によって貞門俳諧が確立され、江戸の俳諧ブームの端緒になった。
そして、こうした朱子学の神道への応用が盛んに試みられる中、吉川惟足の神道が曾良を通じて芭蕉に伝わり、不易流行説のもととなっている。不易流行説が弟子たちに受け入れられた背景にも、朱子学が広く当時の教養として周知されていたということがあった。
李退渓の最大の業績というか、少なくとも日本の朱子学に与えた影響という点で一番大きいのは、四端七情の理気を分かつという説で、四端、つまり惻隠、羞悪、辞譲、是非は情とは言うものの生まれながら具わっている理に発し、七情、つまり喜・怒・哀・懼・愛・悪・欲は気に発するという説だ。
この区別によって、理と気、未発と已発、性と情、体と用の区別が確定し、体系化できるようになった。
今日で言えば四端も七情もいわゆる西洋的な「精神」と「肉体」ではなく、どちらも進化の過程で獲得した遺伝的資質によるものと見なされよう。理は西洋的な理性のことではなく、あくまで人間の自然の情の発露であり、それは今日の科学からすれば、やはりダーウィン的な自然選択によって進化したと考えるべきであろう。
違うとすれば、その獲得された年代による古い層と新しい層との違いで、七情は多くの順位制社会の中で培われた古い層に属しているのに対し、四端は人間へと向う進化の中で新たに獲得された層だといえよう。
それは人間の生存競争が一対一での強さの争いではなく、共感能力を発達させたことで多数派工作の争いに変わってしまい、どんなに屈強なものでも集団には勝てないばかりか、むしろ出る杭は打たれる状態に陥り、強さは却って生存に不利に働くようになってしまったことにより、我々の生存戦略を大きく変更せざるを得なくなったことによる。
その中で四端は一見利他的なようでも、結果的に多数派工作に有利に働くということで、人間らしい新たな性質として進化することになった。
たとえば幼児が井戸に落ちそうなのをみれば誰でも助けようと思うといういわゆる惻隠の情は、時として溺れそうになった子供を助けようとして自分も溺れてしまうというリスクをもともなう。
それでも周りの人はこういう人と一緒にいれば自分もいつか助けてもらえると思うし、他人を犠牲にしてでも生き残ろうとする人よりは、こういう人を自分のそばにおいておきたいと願うはずだ。
惻隠の情を突然変異的に獲得した個体は、群の中の他の者たちから優先的に仲間に引き入れられ、結果的にはそれが多くの子孫を残すことに繋がる。こうした変異は意図して起こるものではない。意図するというのはラマルキズムであってダーウィニズムではない。
羞悪の情は基本的には利己的にふるまうことで仲間はずれにされることへの漠然とした不安によるもので、具体的にどうこうというものではない。たとえば性的羞恥心というのは、衆人環視の中で性的行動をすることで多くの者の嫉妬心を買い、妨害されるのみならず、嬲り殺される危険すらあるから適者生存できるもので、それを計算ではなく、突然変異的に獲得した場合には一つの本能となる。
順位制社会では、嫉妬するものがあっても一対一の戦いであれば力でねじ伏せることが出来る。これに対して弱い個体は強い個体の目の届かないところでこっそりと性交をする。子孫を残せるかどうかはこの駆け引きの中にあり、そこでは人間のような恋愛感情は生まれない。
人間はむしろ生まれながらに性的行動に関して羞恥心をもち、自らの羞恥心と戦いながら愛を告白し、その羞恥を社会で共有する所に性の秩序が保たれる。コイサン人(俗に言うブッシュマン)の社会では、レイプが発覚すると被害者の女性ではなく、加害者の男性のほうが自殺する事が多いという。
辞譲の情も、出る杭は打たれる社会の中では自己中は嫌われ、仲間はずれにされる危険が大きいところから進化した情といえよう。
是非の情もまた同様に危険察知の能力といえる。
順位制社会では一対一での強さをアピールすることが生存を有利にし、子孫を残すことに繋がるが、出る杭は打たれる社会ではむしろ利他的にふるまうことが結果的に生存を有利にし、子孫を残すことに繋がる。それゆえ人間は利他行動を進化させることになった。
ときとしてそれが裏目に出て、正直者は馬鹿を見るということもあるが、確率的には利己的にふるまうより利他的にふるまうほうがより多くの子孫を残すことに成功してきた。
こういう人間らしさというのは、実際には四つだけに分類できるものではない。もっと人間の行動は多様で、それらをひっくるめて言うなら「誠」と言ったほうがいい。それは朱子学だけでなく俳諧も究極的に目指すところのものだ。
喜・怒・哀・懼・愛・悪・欲も人間として不可欠な情ではあるし、これらは常に俳諧の種(俗語ではこれをひっくり返してネタともいう)ではあるが、それだけでは風流とは言えない。それが風雅の誠に結びついた時に風流と呼ぶことが出来る。
たとえば「いい女だからやりたい」というのは風流ではない。いい女と思いつつも、羞恥の情と戦いながらかすかに思いを伝えた時に風流となる。
精進あげの三位入道
かかと寝て花さく事もなかりしに 卜尺
のような句は風流とは言い難い。かかのことを気遣い、嫉妬を恐れながらも、それでも他の女に目移りすることは止められない、というならまだ風流がある。
花の時千方といつし若衆の
恋のくせもの王代の春 卜尺
の句にしても若衆の情への思いやりを欠いたまま、一方的に「くせもの」だなどと言うのは風流が足りない。
恨みの情に関しても、憎悪をあからさまに言い立て罵るのは風流ではない。お互いの立場を理解し合い、自らの情を抑えながらも、それでも二度とこうした恨みつらみごとの起きないような最終的な解決を願うなら、そこに風流が生まれる。
四端と七情は区別されねばならず、七情を述べる時にも心の中に四端を忘れないなら、それは風雅の誠となる。我々の風流の道は李退渓の教えにより開かれた。
韓国の恨(ハン)は、思うに四端に発する恨みであり、七情の恨みとは区別されてたのではないかと思う。七情の恨みであってもその背後に四端が働いているなら、四端に発する恨みと言ってもいいだろう。
この区別は、古来「本意」と呼ばれていたものを俗情、あるいは私情と区別する際に、合理性をもたらすことができる。
まあ、そういうわけで今、日韓が険悪な状態になる中、私に出来るのは李退渓から引き継がれた風流の道を学び、守るだけのことで、反日も嫌韓も関係ない。
反日もごく一部の人たち、多分反安倍と一緒で十五パーセントもいればいい。嫌韓に至ってはおそらく一パーセントにも満たないと思う。
ネットやマスコミはやれ差別だのヘイトだの言っているけど、今の日韓の対立はもっと単純なもので、米中第二の冷戦といわれる中でどっちに付くかという地政学的問題だと思う。沖縄の基地問題も基本的に同じだと思う。むしろその辺のイデオロギーの問題をごまかすために、左翼やマスコミは人道の問題にすり替えようとしている。
まあ、そういうなかで、あまり感情的に声を荒げる連中とは係わりたくないし、だからといって日韓の問題を無視するつもりもない。風流の道と関係する所は一応押えておこうかと思う。
おそらく日本の俳諧に最も大きな影響を与えた韓国人といえば、李退渓(イ・テゲ)をおいて他にないだろう。
なぜ俳諧にかというと、李退渓は藤原惺窩・林羅山・山崎闇斎といった江戸時代の朱子学を確立した人たちに大きな影響を与えたし、その藤原惺窩・林羅山と親交のあった松永貞徳によって貞門俳諧が確立され、江戸の俳諧ブームの端緒になった。
そして、こうした朱子学の神道への応用が盛んに試みられる中、吉川惟足の神道が曾良を通じて芭蕉に伝わり、不易流行説のもととなっている。不易流行説が弟子たちに受け入れられた背景にも、朱子学が広く当時の教養として周知されていたということがあった。
李退渓の最大の業績というか、少なくとも日本の朱子学に与えた影響という点で一番大きいのは、四端七情の理気を分かつという説で、四端、つまり惻隠、羞悪、辞譲、是非は情とは言うものの生まれながら具わっている理に発し、七情、つまり喜・怒・哀・懼・愛・悪・欲は気に発するという説だ。
この区別によって、理と気、未発と已発、性と情、体と用の区別が確定し、体系化できるようになった。
今日で言えば四端も七情もいわゆる西洋的な「精神」と「肉体」ではなく、どちらも進化の過程で獲得した遺伝的資質によるものと見なされよう。理は西洋的な理性のことではなく、あくまで人間の自然の情の発露であり、それは今日の科学からすれば、やはりダーウィン的な自然選択によって進化したと考えるべきであろう。
違うとすれば、その獲得された年代による古い層と新しい層との違いで、七情は多くの順位制社会の中で培われた古い層に属しているのに対し、四端は人間へと向う進化の中で新たに獲得された層だといえよう。
それは人間の生存競争が一対一での強さの争いではなく、共感能力を発達させたことで多数派工作の争いに変わってしまい、どんなに屈強なものでも集団には勝てないばかりか、むしろ出る杭は打たれる状態に陥り、強さは却って生存に不利に働くようになってしまったことにより、我々の生存戦略を大きく変更せざるを得なくなったことによる。
その中で四端は一見利他的なようでも、結果的に多数派工作に有利に働くということで、人間らしい新たな性質として進化することになった。
たとえば幼児が井戸に落ちそうなのをみれば誰でも助けようと思うといういわゆる惻隠の情は、時として溺れそうになった子供を助けようとして自分も溺れてしまうというリスクをもともなう。
それでも周りの人はこういう人と一緒にいれば自分もいつか助けてもらえると思うし、他人を犠牲にしてでも生き残ろうとする人よりは、こういう人を自分のそばにおいておきたいと願うはずだ。
惻隠の情を突然変異的に獲得した個体は、群の中の他の者たちから優先的に仲間に引き入れられ、結果的にはそれが多くの子孫を残すことに繋がる。こうした変異は意図して起こるものではない。意図するというのはラマルキズムであってダーウィニズムではない。
羞悪の情は基本的には利己的にふるまうことで仲間はずれにされることへの漠然とした不安によるもので、具体的にどうこうというものではない。たとえば性的羞恥心というのは、衆人環視の中で性的行動をすることで多くの者の嫉妬心を買い、妨害されるのみならず、嬲り殺される危険すらあるから適者生存できるもので、それを計算ではなく、突然変異的に獲得した場合には一つの本能となる。
順位制社会では、嫉妬するものがあっても一対一の戦いであれば力でねじ伏せることが出来る。これに対して弱い個体は強い個体の目の届かないところでこっそりと性交をする。子孫を残せるかどうかはこの駆け引きの中にあり、そこでは人間のような恋愛感情は生まれない。
人間はむしろ生まれながらに性的行動に関して羞恥心をもち、自らの羞恥心と戦いながら愛を告白し、その羞恥を社会で共有する所に性の秩序が保たれる。コイサン人(俗に言うブッシュマン)の社会では、レイプが発覚すると被害者の女性ではなく、加害者の男性のほうが自殺する事が多いという。
辞譲の情も、出る杭は打たれる社会の中では自己中は嫌われ、仲間はずれにされる危険が大きいところから進化した情といえよう。
是非の情もまた同様に危険察知の能力といえる。
順位制社会では一対一での強さをアピールすることが生存を有利にし、子孫を残すことに繋がるが、出る杭は打たれる社会ではむしろ利他的にふるまうことが結果的に生存を有利にし、子孫を残すことに繋がる。それゆえ人間は利他行動を進化させることになった。
ときとしてそれが裏目に出て、正直者は馬鹿を見るということもあるが、確率的には利己的にふるまうより利他的にふるまうほうがより多くの子孫を残すことに成功してきた。
こういう人間らしさというのは、実際には四つだけに分類できるものではない。もっと人間の行動は多様で、それらをひっくるめて言うなら「誠」と言ったほうがいい。それは朱子学だけでなく俳諧も究極的に目指すところのものだ。
喜・怒・哀・懼・愛・悪・欲も人間として不可欠な情ではあるし、これらは常に俳諧の種(俗語ではこれをひっくり返してネタともいう)ではあるが、それだけでは風流とは言えない。それが風雅の誠に結びついた時に風流と呼ぶことが出来る。
たとえば「いい女だからやりたい」というのは風流ではない。いい女と思いつつも、羞恥の情と戦いながらかすかに思いを伝えた時に風流となる。
精進あげの三位入道
かかと寝て花さく事もなかりしに 卜尺
のような句は風流とは言い難い。かかのことを気遣い、嫉妬を恐れながらも、それでも他の女に目移りすることは止められない、というならまだ風流がある。
花の時千方といつし若衆の
恋のくせもの王代の春 卜尺
の句にしても若衆の情への思いやりを欠いたまま、一方的に「くせもの」だなどと言うのは風流が足りない。
恨みの情に関しても、憎悪をあからさまに言い立て罵るのは風流ではない。お互いの立場を理解し合い、自らの情を抑えながらも、それでも二度とこうした恨みつらみごとの起きないような最終的な解決を願うなら、そこに風流が生まれる。
四端と七情は区別されねばならず、七情を述べる時にも心の中に四端を忘れないなら、それは風雅の誠となる。我々の風流の道は李退渓の教えにより開かれた。
韓国の恨(ハン)は、思うに四端に発する恨みであり、七情の恨みとは区別されてたのではないかと思う。七情の恨みであってもその背後に四端が働いているなら、四端に発する恨みと言ってもいいだろう。
この区別は、古来「本意」と呼ばれていたものを俗情、あるいは私情と区別する際に、合理性をもたらすことができる。
まあ、そういうわけで今、日韓が険悪な状態になる中、私に出来るのは李退渓から引き継がれた風流の道を学び、守るだけのことで、反日も嫌韓も関係ない。
2019年9月23日月曜日
台風が日本海を通過していったせいか、暑くて風が強かった。
そういえば、日本海って韓国だと東海(トンへ)というんだっけ。まあ、難波の芦は伊勢の浜荻ってところか。
呼び名なんてのは人間が便宜的につけたものだからいくつあってもいい。猫の名前と一緒だ。それを一つにしようとすれば争いが起こったりする。
それでは「名月や」の巻の続き。
十五句目。
食のこわきも喰なるる秋
月影は夢かとおもふ烏帽子髪 濁子
「烏帽子髪」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「 烏帽子をかぶる時の髪の結い方。髪を後部で束ねて、そのまままっすぐに上へ立てた型。烏帽子下(えぼしした)。」
とあり、烏帽子下のところには、
「俳諧・桜川(1674)春一「大ふくの茶筅髪かや烏帽子下」
の句が引用されている。烏帽子下を茶筅にに喩えることにこの頃新味があったとするなら、茶筅髷という言葉はこの頃生まれた言葉か。織田信長が有名だが。本来はこの髷で烏帽子が落ちないように固定した。
強飯は『源氏物語』末摘花巻にも出てきて、二条院に戻って寝込んいた源氏の所に頭中将がやってきて、
「朝寝とは随分いい身分じゃないか。さては何かあると見たな。」
と言うのでむくっと起き上がり、
「独り気楽に寝床でくつろいでいるところに何だ?内裏からか?」
と答えると、
「そうだ。ちょっとした用事のついでだ。
朱雀院の紅葉狩りの件で、参加する演奏者や舞い手が今日発表されるので、この俺が内定したことを左大臣にも伝えようと思って来たんだ。
すぐに帰らなくてはならないんだ。」
と急がしそうなので、
「だったら一緒に。」
ということで、お粥やおこわを食べて、二人一緒に内裏へと向い、二台の車を連ねたけど一緒の車に乗って、頭の中将は、
「にしても、眠そうだな。」
と何か言わせようとするものの、
「隠し事が多すぎるぞ。」
とぼやくのでした。
(二条院におはして、うちふし給ひても、なほ思ふにかなひがたき世にこそと、おぼしつづけて、かるらかならぬ人の御ほどを、心ぐるしとぞおぼしける。思ひみだれておはするに、頭中将おはして、こよなき御あさいかな。ゆゑあらむかしとこそ、思ひ給へらるれといへば、おきあがり給ひて、こころやすきひとりねの床にて、ゆるびにけり、うちよりかとのたまへば、しか、まかではべるままなり。朱雀院の行幸、けふなん、がく人、まひ人さだめらるべきよし、うけたまはりしを、おとどにもつたへ申さんとてなむ、まかで侍る。やがてかへり参りぬべう侍りと、いそがしげなれば、さらば、もろともにとて、御かゆ、こはいひめして、まらうどにもまゐり給ひて、引きつづけたれど、ひとつに奉りて、猶いとねぶたげなりと、とがめ出でつつ、かくい給ふことおほかりとぞ、うらみ聞え給ふ。)
という場面がある。王朝時代では遅れた朝食をとるときにお粥と強飯を食べることはよくあったことなのか。それにしても炭水化物に炭水化物だ。
古代では強飯のほうが普通で、むしろ水で炊いたご飯をお粥と呼んでいたという。
ただ、この場合普段食べないものを食べなれてということだから、舞台は古代ではなく、既に烏帽子をかぶる習慣のなくなって烏帽子髪(茶筅髪)だけが残った戦国時代、落武者の風情と見た方がいいのだろう。
「人間五十年
下天の内をくらぶれば
夢幻のごとくなり」
なんて敦盛を歌いだしそうだ。
十六句目。
月影は夢かとおもふ烏帽子髪
殿の畳のふるびたる露 千川
畳の上に寝ているのなら落武者ではない。江戸時代の改易や減封によって没落したお殿様のことだろう。
十七句目。
殿の畳のふるびたる露
花咲ば木馬の車引出して 芭蕉
当時の木馬は子供の遊び道具ではなく、乗馬の練習に使うものだった。コトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」に、
「日本では江戸時代に、武士の子弟の馬術の練習用としての木馬があった。木馬に、手綱(たづな)、障泥(あおり)などをつけ、鐙(あぶみ)の乗り降り、鞭(むち)の当て方を練習した。馬術を習うのに木馬を用いることは中国でもあったといわれている。また木馬は、乗馬に使用する鞍(くら)を掛けておく道具として用いられ、鞍掛とよばれた。」
とある。ある程度の重さがあるので、大八車に乗せて運んだか。
老いて隠居した殿様は庭に桜の花が咲く頃には昔のことを思い出して木馬を庭に引っ張り出してみるが、木馬が去ったあとの部屋の畳もいつしか古びてしまった。これぞ「さび」といったところか。
挙句。
花咲ば木馬の車引出して
ほこりもたたぬ春の南風 此筋
強い春風は土ぼこりを巻き上げるが、ほこりも立たぬ程度のかすかな温かい風で、どうやらまだ花も散ることはないと、この巻は目出度く終わる。
半歌仙ということでやや物足りないが、芭蕉さんの体調もそれほど良くなかったのだろう。冬になれば許六・洒堂を加えて、不易と流行のバランスを取った猿蓑調から、より初期衝動を重視する炭俵調の完成へ向かって加速してゆくことになる。
そういえば、日本海って韓国だと東海(トンへ)というんだっけ。まあ、難波の芦は伊勢の浜荻ってところか。
呼び名なんてのは人間が便宜的につけたものだからいくつあってもいい。猫の名前と一緒だ。それを一つにしようとすれば争いが起こったりする。
それでは「名月や」の巻の続き。
十五句目。
食のこわきも喰なるる秋
月影は夢かとおもふ烏帽子髪 濁子
「烏帽子髪」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「 烏帽子をかぶる時の髪の結い方。髪を後部で束ねて、そのまままっすぐに上へ立てた型。烏帽子下(えぼしした)。」
とあり、烏帽子下のところには、
「俳諧・桜川(1674)春一「大ふくの茶筅髪かや烏帽子下」
の句が引用されている。烏帽子下を茶筅にに喩えることにこの頃新味があったとするなら、茶筅髷という言葉はこの頃生まれた言葉か。織田信長が有名だが。本来はこの髷で烏帽子が落ちないように固定した。
強飯は『源氏物語』末摘花巻にも出てきて、二条院に戻って寝込んいた源氏の所に頭中将がやってきて、
「朝寝とは随分いい身分じゃないか。さては何かあると見たな。」
と言うのでむくっと起き上がり、
「独り気楽に寝床でくつろいでいるところに何だ?内裏からか?」
と答えると、
「そうだ。ちょっとした用事のついでだ。
朱雀院の紅葉狩りの件で、参加する演奏者や舞い手が今日発表されるので、この俺が内定したことを左大臣にも伝えようと思って来たんだ。
すぐに帰らなくてはならないんだ。」
と急がしそうなので、
「だったら一緒に。」
ということで、お粥やおこわを食べて、二人一緒に内裏へと向い、二台の車を連ねたけど一緒の車に乗って、頭の中将は、
「にしても、眠そうだな。」
と何か言わせようとするものの、
「隠し事が多すぎるぞ。」
とぼやくのでした。
(二条院におはして、うちふし給ひても、なほ思ふにかなひがたき世にこそと、おぼしつづけて、かるらかならぬ人の御ほどを、心ぐるしとぞおぼしける。思ひみだれておはするに、頭中将おはして、こよなき御あさいかな。ゆゑあらむかしとこそ、思ひ給へらるれといへば、おきあがり給ひて、こころやすきひとりねの床にて、ゆるびにけり、うちよりかとのたまへば、しか、まかではべるままなり。朱雀院の行幸、けふなん、がく人、まひ人さだめらるべきよし、うけたまはりしを、おとどにもつたへ申さんとてなむ、まかで侍る。やがてかへり参りぬべう侍りと、いそがしげなれば、さらば、もろともにとて、御かゆ、こはいひめして、まらうどにもまゐり給ひて、引きつづけたれど、ひとつに奉りて、猶いとねぶたげなりと、とがめ出でつつ、かくい給ふことおほかりとぞ、うらみ聞え給ふ。)
という場面がある。王朝時代では遅れた朝食をとるときにお粥と強飯を食べることはよくあったことなのか。それにしても炭水化物に炭水化物だ。
古代では強飯のほうが普通で、むしろ水で炊いたご飯をお粥と呼んでいたという。
ただ、この場合普段食べないものを食べなれてということだから、舞台は古代ではなく、既に烏帽子をかぶる習慣のなくなって烏帽子髪(茶筅髪)だけが残った戦国時代、落武者の風情と見た方がいいのだろう。
「人間五十年
下天の内をくらぶれば
夢幻のごとくなり」
なんて敦盛を歌いだしそうだ。
十六句目。
月影は夢かとおもふ烏帽子髪
殿の畳のふるびたる露 千川
畳の上に寝ているのなら落武者ではない。江戸時代の改易や減封によって没落したお殿様のことだろう。
十七句目。
殿の畳のふるびたる露
花咲ば木馬の車引出して 芭蕉
当時の木馬は子供の遊び道具ではなく、乗馬の練習に使うものだった。コトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」に、
「日本では江戸時代に、武士の子弟の馬術の練習用としての木馬があった。木馬に、手綱(たづな)、障泥(あおり)などをつけ、鐙(あぶみ)の乗り降り、鞭(むち)の当て方を練習した。馬術を習うのに木馬を用いることは中国でもあったといわれている。また木馬は、乗馬に使用する鞍(くら)を掛けておく道具として用いられ、鞍掛とよばれた。」
とある。ある程度の重さがあるので、大八車に乗せて運んだか。
老いて隠居した殿様は庭に桜の花が咲く頃には昔のことを思い出して木馬を庭に引っ張り出してみるが、木馬が去ったあとの部屋の畳もいつしか古びてしまった。これぞ「さび」といったところか。
挙句。
花咲ば木馬の車引出して
ほこりもたたぬ春の南風 此筋
強い春風は土ぼこりを巻き上げるが、ほこりも立たぬ程度のかすかな温かい風で、どうやらまだ花も散ることはないと、この巻は目出度く終わる。
半歌仙ということでやや物足りないが、芭蕉さんの体調もそれほど良くなかったのだろう。冬になれば許六・洒堂を加えて、不易と流行のバランスを取った猿蓑調から、より初期衝動を重視する炭俵調の完成へ向かって加速してゆくことになる。
登録:
投稿 (Atom)